陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

320.本間雅晴陸軍中将(20)この代償をマッカーサーは、本間雅晴中将に払わせることにした

2012年05月11日 | 本間雅晴陸軍中将
 昭和十九年十二月下旬、日本の大本営はレイテの放棄を決定した。太平洋戦争の「天王山」と位置づけられたレイテ決戦は失敗に終わった。第一四方面軍司令官・山下奉文大将は持久戦に入った。

 昭和二十年二月末、マッカーサー元帥(昭和十九年十二月元帥に昇進)は、コレヒドール要塞奪回作戦を行った。陸海両面作戦で、パラシュート部隊を降下させ猛烈な攻撃を加えた。日本兵六〇〇〇人は、ほとんど捕虜も出さず、全滅した。

 三月二日、マッカーサー元帥は脱出した時と同じく四隻の魚雷艇に幕僚たちを乗せ、脱出時と同じルートを逆行し、コレヒドール島に向かった。

 マッカーサー元帥は始終上機嫌だった。要塞を奪回した部隊の指揮官が「将軍、コレヒドールを献上いたします」と言った。

 マッカーサー元帥は彼に殊勲十字章を授け、国旗掲揚台が残されているのを見ると、星条旗を掲げるよう命じた。

 日本の国策映画「東洋の凱歌」には、コレヒドール陥落直後、掲揚台から星条旗がひきずり降ろされ、日本兵がその旗を足であしらっているシーンがあったが、マッカーサー元帥はその雪辱を果たした。

 昭和二十年八月十五日、終戦。その日、マッカーサー元帥は日本政府に対して、軍師をフィリピンのマニラに派遣し、降伏調印の手続きについて指示を受けるよう伝えた。

 その際、マッカーサー元帥は「バターン」という合言葉を使えと命じた。日本政府側は「JPN」という文字を使いたいといったが、彼は絶対に「バターン」でなければならないと繰り返した。

 マッカーサー元帥にとって「バターン」は唯一の負け戦の名であった。同時に雪辱を果たした栄誉の名でもあった。

 マッカーサー元帥はマニラにやってきた日本の使節団に会わず、対応をサザランド参謀長に一任した。これ以降、彼は日本人の前に軽々しく姿を見せぬことで、威厳を保とうとした。

 昭和二十年八月三十日、マッカーサー元帥は愛機「バターン」号で日本に飛び、厚木基地に降り立った。日本の記者団への第一声は「メルボルンから東京まで思えば長かった」だった。

 九月二日、戦艦ミズーリー号で降伏調印式が行われた。マッカーサー元帥は、この場に、シンガポールで山下奉文中将に降伏したイギリスのパーシバル将軍と、コレヒドール脱出の際、後事を託したウェインライト将軍を連れてきた。

 マッカーサー元帥は調印に当たって、四本の万年筆を使った。一本をトルーマン大統領に、一本はパーシバル将軍に、一本はウェインライト将軍に与えるため、そして一本は自身の記念のためだった。

 「我々は不信と悪意、憎悪の精神をもって集まったのではない」という降伏調印式での演説とは裏腹に、マッカーサー元帥の執拗な復讐は実行されようとしていた。それはフィリピン決戦での、本間雅晴中将と、山下奉文大将に向けられた。

 山下大将は九月三日、ルソン島北部のバギオで降伏調印式に臨んだ。フィリピンの戦いはマッカーサー元帥の勝利に終わった。

 別冊歴史読本「秘史・太平洋戦争の指揮官たち」(新人物王来社)所収「悲劇の文人将軍・陸軍中将・本間雅晴」(村尾国士)によると、「バターン・デス・マーチ(死の行進)」は、「リメンバー・パールハーバー」と並んで、兵士の士気を鼓舞するためのアメリカ軍の二大キャッチフレーズだった。

 世界に宣伝された「死の行進」は、勝者マッカーサーにとって、ぜひとも自分と戦った敵将の血で償わせる必要があった。それが山下奉文であり、本間雅晴であった。

 さらに、マッカーサーにとっては、本間雅晴中将の指揮する第一四軍に追い上げられたフィリピン戦、バターン半島での敗戦とオーストラリアへの逃亡劇は、若かりし頃からの輝かしい軍歴の中で、最大の忌まわしい汚点だった。それが、マッカーサーの胸の中にわだかまりの影を落としていた。

 この代償をマッカーサーは、本間雅晴中将に払わせることにした。マニラでの軍事裁判で、いかに本間中将の弁護が正当なものであっても、本間中将の妻、富士子夫人が裁判で「娘も夫のような人に嫁がせたいと思っています」と陳述しても、すべて無視された。

 後日、三月十一日、富士子夫人はマッカーサー元帥に面会し「あなたが最後の判決をされるそうですが、裁判記録をよく読んで慎重にしていただきたい」と言った。

 すると、マッカーサー元帥は「私の任務について、あなたがご心配される必要はありません」と返答している。マッカーサー元帥の裁判に対する決意は揺るがなかった。

 昭和二十一年四月三日、山下奉文が絞首刑により処刑された同じ場所、フィリピン島ロスバニヨスで本間雅晴中将の銃殺刑が執行された。

 マッカーサーは、その回想記に「これほど公正に行われた裁判はなく、これほど被告に完全な弁護の機会が与えられた例はこれまでになく、またこれほど偏見をともなわない審議が行われた例もない」と記している。

 これは実際の裁判の進行状況から表面的には真実と言える。だが、現地から遠く離れたマッカーサーの心の奥底にある復讐心、それが消えることはなかった。これも真実である。

(「本間雅晴陸軍中将」は今回で終わりです。次回からは「岡田啓介海軍大将」が始まります)

319.本間雅晴陸軍中将(19)本間中将は終戦まで第一線に復帰することはなかった

2012年05月04日 | 本間雅晴陸軍中将
 さらに、藤田相吉大尉は次の様に述べている。

 「しかしそれは裁判の誤りである。米比軍がこの捕虜の移動を“死の行軍”というならば、戦勝国たる日本軍の移動は“超死の行軍”だ」

 「いったい米比軍は持てる弾を撃ちつくし、持てる食糧を食い尽くすまでは頑強に抵抗し、これが尽きれば平然として手を上げる。降伏すれば、その時から日本軍はわれわれを給養する義務があるとうそぶく」

 「虫のよい考えである。国際条約があったにしても、日本軍はかくも多数の捕虜がジャングルの中から出るとは予想もしていない。したがって、糧食や医療の材料も輸送の機関も収容所の準備もない。なぜ糧食の余裕のあるうちに降伏しないのか、と言いたい」

 「コレヒドールの敵はまだ降伏していないではないか。しかも現に捕虜と並列して進む日本軍の姿を見よ。重い装具をつけて、あえぎながら進んでいるではないか。貴様らにさんざん撃たれ、肉体的にも精神的にも言語に絶する苦難に耐えた日本軍だ。できれば背負える背嚢も貴様らに負わせてやりたいぐらいだ」

 「貴様らを軽装で行軍させるのが、むしろ慈悲だと思え、と言いたい。勝った軍が、負けた軍以上の苦しみを味わねばならん理由はないのだ」。

 昭和十七年五月六日、コレヒドールがついに陥落した。「ふみにじられた南の島」(NHK取材班・角川書店)によると、その翌日、ウェインライト中将は、極東アメリカ陸軍全軍に対し、降伏するようラジオで放送した。

 この放送を聴いた、ビザヤ地区とミンダナオ地区の司令官だったシャープ少将は、マッカーサー大将の指示を仰いだ。

 オーストラリアのメルボルンにいたマッカーサー大将は次のように返電した。

 「ウェインライトの命令は無効である。可能ならば、貴官の兵力を小兵力に分割して、ゲリラ作戦を展開せよ。……貴官は緊急事態に際して自己裁量権を有する」。

 シャープ少将はマッカーサー大将の指示に基づき、武器を持って故郷に帰り、抵抗を続けるように部下に命令した。

 アメリカ政府が、マッカーサー大将の極東アメリカ陸軍に対する指揮権を停止した後、ようやくウェインライト中将の降伏命令を伝えたが、すでに解散した軍隊には行き渡らなかった。

 日本軍はバターン攻略にかかりっきりで、ビザヤ・ミンダナオ地区はほとんど手付かずの状態だった。指揮の混乱の中、帰郷した武装将兵たちは、同地区における抗日ゲリラ勢力の核となり、やがて日本軍を苦しめることになる。

 昭和十七年八月三十一日、本間雅晴中将は、バターン攻撃の際、その指揮が消極的で、大本営や南方軍の意図に添わなかったとしてとがめられ、第一四軍司令官を解任され、予備役編入となった。

 その後本間中将は終戦まで第一線に復帰することはなかった。

 本間中将の後の第一四軍司令官は、昭和十七年八月一日から田中静壱中将(陸士一九・陸大二八恩賜・大将・第一二方面軍司令官兼東部軍管区司令官)、昭和十八年五月十九日から黒田重徳中将(陸士二一・陸大二八・第一四方面軍司令官)が就任した。

 第一四方面軍司令官としては、昭和十九年九月二十六日に、山下奉文大将(陸士一八・陸大二八恩賜)が就任し、終戦まで指揮官だった。

 昭和十九年十月二十日、レイテ島にアメリカ軍は上陸した。マッカーサー大将はアメリカ軍の第一陣が上陸した四時間後に上陸した。

 上陸した最初の日、マッカーサー大将は上機嫌で、砲手たちに「日本軍の具合はどうだ」と聞き、殺されたばかりの日本兵の死体を見かけると、濡れた足先でひっくり返して記章を調べた。そして満足気に「第一六師団だ。バターンでひどいことをやったのはこいつらだ」と言った。

 それから移動放送局のマイクに向かってラジオ用に演説した。その肉声のテープが、マッカーサー記念館に残されていた。それは、本間中将の第一四軍により、敗退させられたマッカーサーの報復の絶叫で、次の様のものだった。

 「フィリピンの皆さん。私は帰ってきた。全能の神の恵みにより、我らの部隊はフィリピンの国土に立っている。米比両国民の血によって贖われた国土である」

 「私のもとに結集せよ。バターンとコレヒドールの不屈の精神で進もうではないか。戦闘地域に入ったら立ち上がって撃て! 機会を逃さず、立ち上がって撃て! 皆の家族のために撃て! 息子や娘のために撃て! 戦死者のために撃て!」

 「アイ・ハブ・リターンド」(私は帰ってきた)。あの「アイ・シャール・リターン」の約束から、二年七ヶ月ぶりのフィリピンだった。

318.本間雅晴陸軍中将(18)日本の軍人の信条にぬぐうべからざる汚点を残すものである

2012年04月27日 | 本間雅晴陸軍中将
 捕虜はサンフェルナンドまでの六十キロを四、五日がかりで歩いた。一日十五キロ以内の、のろのろ行軍であったが、ジャングルにこもり、マラリアにかかっている捕虜には相当にきつい行軍となり、倒れる捕虜が続出した。

 これがマッカーサーの耳に入り、“バターン死の行進”として内外に宣伝された。知らなかったのは日本軍だけで、戦後戦犯として裁かれた本間雅晴中将は、起訴状を読んでも何のことか分からなかったといわれている。

 「マッカーサー回想記・上」(ダグラス・マッカーサー・朝日新聞社)によると、日本軍から脱出した三人の米兵が、ゲリラ隊に救出されて、潜水艦でオーストラリアのブリスベーンに輸送された。この三人がマッカーサー大将に捕虜のむごたらしい状況を報告した。この報告に対して、マッカーサー大将は次の様に記している。

 「この兵士たちの報告はショッキングなもので、私はその内容を次の様な声明といっしょに発表することを命じた」。

 マッカーサー大将が出した声明は次の様なものであった。

 「戦争捕虜に野蛮で残酷な暴虐行為が加えられたことを示す、この疑いの余地のない記録に接して、私は全身にいいようのない嫌悪の念を感じる。これは軍人の名誉をささえる最も神聖なオキテを犯す行為であり、日本の軍人の信条にぬぐうべからざる汚点を残すものである」

 「近代の戦争で、名誉ある軍職をこれほど汚した国はかってない。正義というものをこれほど野蛮にふみにじった者たちに対して、適当な機会に裁きを求めることは、今後の私の聖なる義務だと私は心得ている」

 「全能の正義に満ちた神は、かならずや無力な将兵に対するこのおそるべき犯罪行為を罰し給うに違いない。抗すべからざる不利な状況の中で、気高く、勇敢な戦いをいどんだこの将兵たちを指揮したということは、私にとっては得がたい栄誉である」。

 マッカーサー大将は口を極めて日本軍の蛮行をなじっているが、マッカーサー大将の演出とも言われている。バターン半島から部下を捨てて逃げ出した自分の屈辱的な行為をカムフラージュするために、ことさらに暴き立てたという。

 だが、その日のうちに、ワシントンは、捕虜に対する暴虐行為の詳細を発表することを一切禁止した。従って、マッカーサー大将のこの声明は、発表されなかった。

 戦後、「バターン死の行進」の詳細が明るみに出て、本間雅晴中将は戦後戦犯に問われ、有罪になり銃殺刑になった。マッカーサーの報復であることは、この声明からも明らかである。

 この「バターン死の行進」について、第一四一連隊長・今井武夫大佐は次の様に回想している。

 「私たちは米比軍捕虜約六万人と前後しながら、同じ道を北方に進んだのです。捕虜は日本軍兵士に引率され、飯盒と炊事用具だけをぶら下げた軽装で、えんえんと続いていました。疲れれば道端に横たわり、争って木陰と水を求め、勝手に炊事を始めるなど、規律もなかったのです。のんきといえばのんきでした」

 「それを横目で見ながら進んできるわれわれ日本軍は、背嚢を背に、小銃を肩にした二十キロの完全装備で、隊伍を整えての行軍でした。正直いって捕虜の自由な行動がうらやましかった位です」

 「戦後、米軍から、これが“バターン死の行進”と聞かされ、初めは、米軍は他方面の行軍と間違えているのではないかと考えたほどで、この時の行軍を指したものだとは、思ってもみなかったのです」。

 第一四二連隊副官・藤田相吉大尉は次の様に述べている。

 「国道一五号線は南サンフェルナンドからバターン半島の東岸を、マニラ湾を包むように走る。舗装していないが、幅三十メートルの道は、半島突端マリベレスまで延びている。この本道に出て、米比軍捕虜が黙々と北上する姿を見た」

 「先頭も後尾もかすんで見えないほどおびただしい数だ。彼らは腰に水筒を一つぶらさげているだけだが、いかにも憔悴している。道路上に大柄な米兵がうつ伏して倒れているのもある。どの顔も不遜なやけっぱちな面構えだ」

 「彼らの護衛に任じる部隊は、わが吉沢支隊の第一大隊だ。護衛兵は、およそ、二十メートルの距離で、兵二人を彼らの右側に配置している。護衛兵の先頭は第一中隊の斉藤一少尉だ。日、米の兵は話ができないから、ただ黙々と進んでいく」

 「後日、“バターン半島死の行軍”として悪名高く、本間軍司令官が銃殺刑に処せられた“罪科”の一つにあげられたそれがこの米比軍捕虜の大移動だった」。

317.本間雅晴陸軍中将(17)藤田大尉は「私を軍法会議にかけてください」と言い返した

2012年04月20日 | 本間雅晴陸軍中将
 今井大佐は、通常は戦闘間の命令は絶対服従だが、この命令は人間として「はいそうですか」というわけにはいかなかった。今井大佐は次の様に返答した。

 「本命令はこと重大で、普通では考えられない問題だ。したがって口頭命令では実行しかねるから、正規の筆記命令で伝達せられたい」。

 そして今井大佐は直ちに命令して、部隊が連れていた捕虜全員の武装を解除し、マニラ街道を北進するよう指示し、一斉に釈放した。

 今井大佐のそばにいた、渡辺中尉や杉田主計中尉、その他の若い将校は、意外な指示に驚き、その時新しい捕虜数百人を連行していた兵隊たちは極めて不満気で、あっけにとられていた。

 今井大佐は、兵団はたぶんこの非常識な筆記命令を交付することはないだろう。万一命令が交付されても手元に一人の捕虜もいなければ問題はないと判断していた。案の定筆記命令は来なかった。

 戦後明らかになったが、このような不合理で残酷な命令が大本営から下されるわけはなかったし、本間中将もまったく関知していなかった。

 松永参謀の話によると、たまたま、大本営から戦闘指導に派遣されていた参謀本部作戦課作戦班長・辻政信中佐(陸士三六首席・陸大四三恩賜・大佐・第一八方面軍作戦課長・戦後衆議院議員・参議院議員)が、口頭で伝達して歩いたとのことだった。

 辻政信中佐は参謀総長・杉山元大将によりバターン攻撃の戦闘指導に派遣されて来た。杉山大将は本間中将の作戦指導に不満を持っていたからだ。

 第一四二連隊の副官・藤田相吉大尉は真夜中に突然通信兵に揺り起こされた。「兵団の都渡参謀からの電話であります」。第六五旅団参謀・都渡正義(とわたり・まさよし)少佐(陸士三七)からの電話だった。

 「都渡参謀ですがね、吉沢支隊の明日の行動について申しておきます。筆記しないでください」。何かはばかるものがあるような口ぶりだった。

 「兵団命令の要旨を伝えます。吉沢支隊は明早朝、露営地を出発しレチナン河右岸に適宜陣地を占領し、後退し来る敵捕虜を捕捉殲滅すべし。細部は出発の時申します。以上です」。

 藤田大尉は一瞬耳を疑った。奇怪な命令だった。驚くべき命令。藤田大尉はしばらく考えて「それはできません」とはっきり言い切った。

 都渡少佐は、驚いた様子で「何ですか、その言葉は。貴官は支隊長に要旨命令を伝えればよいのだ」と言った。

 藤田大尉は「それができないのであります」と答えると、「なぜできないのか。命令に反抗する気か」と都渡少佐は言った。そこで藤田大尉は次の様に述べた。

 「都渡参謀殿、私は今日何千という捕虜を見ております。武器を捨ててわが軍の命令どおりに後退した捕虜をだまし討ちにすることは皇軍の道ではないと思います。だいいち、あの多数の捕虜を皆殺しにすることは、技術的には不可能です。後日必ず問題になります」。

 「軍の命令だ。捕虜は認めない」と都渡少佐が言ったので、藤田大尉は「私を軍法会議にかけてください」と言い返した。このときのことを藤田大尉は次の様に述べている。

 「そのとき、私はふと、T参謀を思い浮かべた。T参謀はマレー作戦の参謀だった。いま大本営から派遣参謀として本作戦に加わり、盛んに軍の参謀部をかき回していると聞いた。とかく問題の多い軍人で、この無謀な命令はT参謀の私物命令ではあるまいか」。

 T参謀とは辻政信中佐のことだった。辻参謀のことは全軍に知れ渡っていた。この電話の一時間後に「さきほどの電話命令は取り消し」と訂正の電話が入った。辻参謀の私物命令は事実だった。

 バターン半島での米比軍捕虜は約六万人。それに一般市民で米比軍と一緒に山に逃げ込んだのが約三万人いたから総計九万人。日本軍の想像をはるかに超えた数だった。

 しかも、日本軍は、これら捕虜に与える食糧、収容施設をバターン半島に用意する暇も余力もなく、当然のこととして、食糧などの補給しやすい地域に移動させる必要に迫られた。

 日本軍の移動でさえ、徒歩が普通であったので、九万人の捕虜にトラックを用意する余力はなかった。

316.本間雅晴陸軍中将(16)各部隊は手元にいる米比軍投降者を一律に射殺すべし

2012年04月13日 | 本間雅晴陸軍中将
 本間中将は、大いに抗弁したいところだったが、過去の経緯もあって、その場は沈黙を守って、表面は無事に袂を分かった。

 だが、その後に発生したバターン捕虜の取り扱いに当たり、本間中将は杉山大将の批判を想起し、寛大に失して再び中央の非難を浴びることを用心して、参謀が立案した後送方式を、少々酷いとは思いながら、黙許したと推察される。

 第二次のバターン攻撃は四月三日に始まった。日本軍はすさまじい大砲撃を行った後、第六五旅団と第四師団が突進した。

 「ふみにじられた南の島」(NHK取材班・角川書店)によると、昭和十七年四月上旬、フィリピンでは、極東アメリカ陸軍が、日本の本間雅晴中将の指揮する第十四軍に追い詰められて降伏しそうだ、という情報に接したマッカーサー大将は、マーシャル参謀総長宛に次のように打電した。

 「バターン作戦軍の降伏には、どんな状況のもとであろうと反対だ。もし、作戦軍が滅びるというのであれば、それは敵にあらゆる打撃を与えんがための戦闘においてであらねばならない。このために、私はとっくの昔、ひとつのまとまった計画を立てておいた」

 「それは、弾尽き、食尽きた場合に血路を開いてやろうというものであった。日本軍に奇襲攻撃を仕掛け、敵陣地を奪取し、軍需物資を奪う。……もし、失敗しても、ルソン島の北方において現に活動中の諸部隊と呼応し、ゲリラ戦を継続できるであろう。……もし、貴官が望むなら、私は喜んで一時的にバターン作戦軍のもとに帰り、上記戦闘行動を指揮する」(アメリカ国立公文書館所蔵電文より)。

 このマッカーサー大将が提案したゲリラ戦の構想は、実行されなかった。マッカーサーは回想記の中で、この提言をもしワシントンが承認していたら、あの恐るべき「死の行進」は絶対に起こらなかったに違いない、と記している。

 四月九日には、ルソン軍司令官・キング少将が白旗を掲げて現れた。キング少将はあくまでバターンにあるルソン軍だけの降伏を主張し、バターン以外の地域に関しては権限のないことを述べた。フィリピン軍の最高指揮官はウェインライト中将だった。

 これ以後バターン半島の米比軍は指揮中枢を失い、無秩序と混乱の中で、個々の部隊または個人として投降が行われた。

 「ルソンの苦闘―秘録比島作戦従軍一将校の手記」(藤田相吉・歩一四二刊行会)によると、当時、第六五旅団(旅団長・奈良晃中将)・第一四二連隊(連隊長・吉沢正太郎大佐)の副官であった著者の藤田相吉大尉(東京帝国大学卒)は、この投降の様子を次の様に述べている・

 「…『ハロー……』と、先方から先に言葉をかけてくる。見れば米軍の中尉だ。中尉はクリーニング店から出してきたばかりのような、ノリのよく効いた軍服を着ている」

 「ヒゲはそりたて、パリッとした格好、どう見ても負け戦をした側の将校とは思えない。それに引きかえ、こっちは何日もヒゲそりもしない、目ばかり異様にひからせている」

 「むらむらと敵愾心が起きるのをどうすることもできない。『何がハローだ』、まず一喝して、ブロークンな英語で、『君の部隊はどこにいるか。人員は何名か。君の名は』と矢継ぎ早の尋問をした」。

 米比軍の投降者は続出した。当時の第六五旅団・第一四一連隊連隊長は今井武夫大佐(陸士三〇・陸大四〇恩賜・少将・支那派遣軍総参謀副長)だった。

 今井武夫氏は戦後多数の戦時資料を保存しており、著書もある。「支那事変の回想」(みすず書房・昭和39年・55年)、「昭和の謀略」(原書房・昭和42年)。

 今井武夫氏の回想によると、昭和十七年四月九日、バターン半島の第一四一連隊は第二線部隊となっていた。

 そのとき既に米比人百五十人の捕虜がおり、米人軍医、トーマス・バレンチ大尉と日本軍医が協力して日米両軍の傷病兵の治療を行っていた。

 集団的に捕虜が日本軍の前に姿を現すようになったのは四月十日朝からであった。第一四一連隊正面だけでもたちまち千人を超えた。

 四月十日午前十時頃、今井武夫連隊長は、第六五旅団司令部から直通電話で、突然呼び出された。電話の相手は兵団の高級参謀・松永梅一中佐だった。松永中佐は次の様に命令を伝達した。

 「バターン半島の米比軍高級指揮官(ルソン軍司令官)キング少将は昨九日正午部隊をあげて降伏を申し出たが、日本軍はまだこれに全面的に承諾を与えていない。その結果、米比軍の投降者はまだ正式に捕虜として容認されていないから、各部隊は手元にいる米比軍投降者を一律に射殺すべしという大本営命令を伝達する。貴部隊もこれを実行せよ」。

315.本間雅晴陸軍中将(15)本間雅晴軍司令官が敗北の恥辱に耐えかねて切腹したらしい

2012年04月06日 | 本間雅晴陸軍中将
 ダグラス・マッカーサーは一八八〇年一月二十六日生まれ。一九〇三年(二十三歳)ウェストポイント陸軍士官学校を首席で卒業、陸軍工兵少尉に任官した。一九〇四年(二十四歳)中尉。一九〇六年(二十六歳)ワシントン・バラックス応用工学技術学校学生、セオドア・ルーズベルト大統領副官。軍務学校・騎兵学校教官。

 一九一一年(三十一歳)大尉。一九一三年(三十三歳)参謀本部部員。一九一六年(三十六歳)少佐、陸軍長官付軍事補佐官・陸軍省広報課長。一九一七年(三十七歳)第一次世界大戦参戦、大佐に昇進、第四二師団参謀長。

 一九一八年(三十九歳)准将、旅団長旅団長第八四歩兵旅団長。一九一九年(四十歳)ウェスト・ポイント陸軍士官学校校長。一九二〇年(四十一歳)一月正規の陸軍准将に任官。一九二二年(四十二歳)二月結婚(八年後離婚)、春、陸軍士官学校校長辞任、フィリピンに派遣。

 一九二五年(四十五歳)一月陸軍少将、フィリピン師団長。米本国アトランタの第四軍団地区司令官。一九三〇年(五十歳)陸軍参謀総長(史上最年少)、陸軍大将。

 一九三五年(五十五歳)少将に戻り、フィリピン軍顧問。一九四一年(六十一歳)七月陸軍中将、アメリカ極東軍司令官。一九四二年(六十二歳)連合国軍南西太陽方面総司令官一九四四年(六十四歳)十二月元帥に昇進。

 一九四五年(六十五歳)連合国軍総司令官。一九五〇年(七十歳)朝鮮戦争勃発により国連軍最高司令官。一九五一年(七十一歳)トルーマン大統領と対立、解任される。一九五二年(七十二歳)大統領予備選で敗北。一九六四年四月五日死去。享年八十四歳。

 ちなみにダグラス・マッカーサーの父、アーサー・マッカーサー・ジュニアは、一八四五年生まれ。十六歳で南北戦争に従軍し、驚異的な戦功により、十九歳で北軍の大佐に昇進、連隊長として、戦った。

 南北戦争終結後、再び少尉として陸軍に入隊、中尉、大尉となった。その後昇進が遅く、大尉を二十三年間務めた後、少佐、中佐、大佐になった。一八九八年米西戦争のとき、准将に昇進、旅団長として、フィリピン・マニラを攻略、その後軍事総督となった。一九〇九退官、中将に昇進している。

 昭和十七年三月八日頃、バターン半島のアメリカ軍の間に、日本軍の本間雅晴軍司令官が敗北の恥辱に耐えかねて切腹したらしいという噂が広がった。

 本間軍司令官は、敵に対する不可思議な賞賛を表し、マニラホテル内の、以前マッカーサー大将が借りていた部屋で自決したというのである。

 だが、この噂はまったくのデマであり、出所不明のいかがわしい作り話だった。

 日本軍の第二次攻撃の準備が進んでいるとき、マッカーサー大将は、三月十二日、夜暗にまぎれて、夫人と子供、中国人の乳母、それに十七人の幕僚を連れ、四隻の水雷艇でコレヒドール島を脱出した。ルーズベルト大統領の命令とはいえ、屈辱の撤退だった。

 脱出の一行は夜間だけ航行し、三月十四日未明、ミンダナオ島中央北部のカガヤンに着き、十六日夜、デルモンテ飛行場から、B-17三機に分乗し飛び立ち、翌三月十七日朝、オーストラリアのパチュラーフィールドに到着した。

 マッカーサー司令官がコレヒドール島を去った後、ウェインライト中将(三月十九日中将昇進)がフィリピン最高指揮官に任命され、ルソン島最高指揮官にはキング少将が任命された。

 パチュラーフィールドに着いたとき、マッカーサーは記者団からインタビューを受けた。「マッカーサー回想記」によると、そのときマッカーサーは次のように述べた。

 「私は米大統領から、日本の戦線を突破してコレヒドールからオーストラリアへ行けと命令された。その目的は私の了解するところでは、日本に対する米国の攻撃を準備することで、その最大の目標はフィリピンの救援にある。私はやって来たが、また帰る」。

 このときの「私は帰る」は、マッカーサーは「I shall return(アイ・シャール・リターン)」と言い、「I will return(アイ・ウイル・リターン)」とは言わなかった。「will」は単純未来や意思で(でしょう・つもり)を表すが、一人称の主語に使用された「shall」は義務や強い決意で(間違いなく帰ってくる)という意味で、マッカーサーの悔しさが裏返った強い表現になった。

 だが、マッカーサーがフィリピンに「帰ってきた」のは、それから二年七ヶ月も後のことだった。

 「帝国陸軍の最後1進攻・決戦篇」(伊藤正徳・光人社)によると、参謀総長・杉山元大将はシンガポールや蘭印を視察した足で、本間雅晴中将の司令部、マニラに立ち寄った。

 杉山大将の眼には、シンガポールの様相が軍政の下に粛然としているのに対し、マニラのそれが冗漫に映じ、大戦時下において、いささか緊張を欠いている印象を受けた。

 そこで杉山参謀総長は、シンガポールの厳粛なる空気と、山下奉文中将の政策態度とを口をきわめて激賞し、大東亜共栄圏内の各首都の行政はかくありたい旨を述べて、暗に、本間中将のマニラでの放漫政策を警告した。

 だが、本間中将は、フィリピン作戦に関する参謀本部の指導に心中憤りを秘めていた。苦戦百日、大いに感謝されてしかるべきところを、逆に遠まわしの非難を聞いては、腹の虫が収まらなかった。

314.本間雅晴陸軍中将(14)前田参謀長は消極論の急先鋒であったため首を切られた

2012年03月30日 | 本間雅晴陸軍中将
 二月十一日から、南方軍の参謀・荒尾興功(あらお・おきかつ)中佐(陸士三五恩賜・陸大四二恩賜・大佐・軍務局軍事課長・戦後、連絡部長)がフィリピンを視察した。

 二月十五日、荒尾参謀は、バターン封鎖論を再考するよう、第一四軍に伝えた。荒尾参謀の意向を聞いた本間軍司令官は、再び悩んだ。

 さらに、二月十七日、南方軍の高級参謀・石井秋穂大佐(陸士三四恩賜・陸大四四・陸大教官)から、第一四軍の高級参謀・中山大佐あてに、「甲案の採用を希望せらる」と入電した。「バターンを攻撃せよ」という意味だった。本間軍司令官の決心はいよいよ乱れた。

 二月二十日、第一四軍は、再度作戦会議を開いたが、バターン攻撃案を強く主張したのは、中山高級参謀一人で、多数はバターン封鎖またはビサヤ(中部フィリピン諸島)先攻を唱えた。本間軍司令官は幕僚の多数の意見に従わざるを得なかった。

 南方軍は「バターン半島を攻略せよ」というのに、現地の第一四軍は、二月二十日の作戦会議で「バターン封鎖、ビサヤ先攻」を決定したのだった。

 「バターン封鎖、ビサヤ先攻」とは、バターン以外を攻略し、バターン半島に立てこもっている、米比軍の自滅を待つという、いわば消極論だった。

 これは明らかに南方軍、ひいては大本営の意向に反する決定だった。南方軍はすぐに、反動的処置を取った。

 二月二十一日、第一四軍参謀長・前田正実中将は、南方軍司令部に赴き、ビサヤ先攻案を説明するため準備していたが、突然「二十日付で参謀長を罷免する」という電報を受け取った。前田参謀長は消極論の急先鋒であったため首を切られた。

 同じく消極論者の作戦主任参謀・牧達夫中佐は第一四軍付に、後方主任参謀・稲垣正次少佐(陸士四四・陸大五一・中佐)は、二月二十三日付で陸軍輜重兵学校教官に転出になった。

 前田参謀長の後任は、和知鷹二少将(陸士二六・陸大三四・中将・中国憲兵隊司令官)が補任された。和知少将は本間中将が台湾軍司令官当時の軍参謀長だった。

 消極論一掃のために、南方軍は第一四軍に対して人事で応酬した。愕然とした本間軍司令官は、二月二十五日、再びバターン攻略の決意に変わった。

 「日本軍マニラ占領」(ワード・ラザフォード/本郷健訳・サンケイ新聞出版局)によると、バターン半島第二次総攻撃をめぐって、日本軍の混乱が起きている二月二十一日、フィリピンの米極東軍司令官・ダグラス・マッカーサー大将に対して、ワシントンの陸軍参謀総長・ジョージ・マーシャル大将から通達が入ってきた。

 それは、「マッカーサーの将来に関しては、ワシントンにはワシントンなりの見解がある。司令部をフィリピンの南端ミンダナオ島に移し、その後、南西太平洋の連合軍を指揮するため、オーストラリアに向かえ」というものだった。

 マッカーサーは、この命令を無視した。また、「現職を辞任して、一志願兵として、バターン防御軍に加わるつもりだ」と、ワシントンを驚かせた。

 だが、周囲の人々は、このようなマッカーサーのゼスチャアは、形だけのものだということをよく知っていた。

 マッカーサーがフィリピンを離れるのを躊躇したのは、彼自身敗北を認めたくなかったことと、日本軍がバターン攻撃を中止した現時点で、バターン防御軍は勝利を得たとも思われた。

 今こそ、バターン半島を出て、攻勢に転じるべきだという意見も出た。

 日本軍の第一四軍司令官・本間雅晴中将は、後に、「もし、このような反攻が行われたとしたら、日本軍は、これに対応できる状態になかった」と語っている。

 だが、最終的にマッカーサー大将は二月十五日、ワシントンのマーシャル大将に対して、「三月十五日頃、ミンダナオ島に向かうつもりである」と報告した。

 陸軍参謀総長・マーシャル大将と極東軍司令官・マッカーサー大将はともに一八八〇年生まれだった。

 ジョージ・キャトレット・マーシャルは一八八〇年十二月三十一日生まれ。一九〇一年(二十一歳)バージニア軍事大学卒、陸軍入隊。一九一七年(三十七歳)少佐。第一次大戦、ヨーロッパ派遣軍作戦参謀として活躍、一九一九年(三十九歳)大佐。

 第一次大戦終結にともない、一九二〇年(四十歳)少佐に戻る。その後一九二三年(四十三歳)中佐、一九三三年(五十三歳)大佐、一九三六年(五十六歳)准将に昇進した。

 第二次大戦勃発により一九三九年(五十九歳)少将。フランクリン・ルーズベルト大統領により第十五代陸軍参謀総長に任命された。同時に陸軍大将に昇進した。第二次大戦を陸軍参謀総長として米国を勝利に導き、一九四四年(六十四歳)十二月元帥になった。

 戦後、国務長官、アメリカ赤十字社総裁、国防長官を歴任。一九五三年(七十三歳)ノーベル平和賞受賞。一九五九年死去。享年七十八歳。

313.本間雅晴陸軍中将(13) 本間のバカが、こんな戦争をやらせやがる

2012年03月23日 | 本間雅晴陸軍中将
 「戦争と人間の記録バターン戦」(御田重宝・徳間書店)によると、バターン戦の初期作戦について、厳しい批判をしたのは第一四軍司令官・本間雅晴中将だった。

 米国流の温厚な将軍と見られていた風評とは違い、非難に満ちた日記を書き残している。本間中将の一月十一日の日記には次の様な記述がある。

 「夕刻帰ってきた佐藤参謀の報告によると、奈良兵団第一線は一つ手前の敵陣地に終日引っかかっていて、敵の十五センチカノン(砲)に痛めつけられているよし。がっかりした。武智大佐、初陣に道を誤り。松原大隊を除き、わが第二線の位置に舞い戻って好機を逸し、受功のいい機会を失った。ダメなヤツだ」。

 日記中の奈良兵団は、奈良晃中将(陸士二三・陸大三二・第一六方面軍兵務部長)の率いる第六五旅団(福山)で、第一四軍の指揮下、バターン攻撃に参加した。

 事実はカノン砲に痛めつけられて進めなかったのではなく、バターン半島の米比軍の陣地が本格的なものであったので前進できなかった。

 日記の中の佐藤参謀は、第一四軍作戦参謀・佐藤徳太郎少佐のことで、陸士四十一期、陸大四十九期卒。フィリピン作戦後は陸軍大学校教官、第一一方面軍参謀を勤め陸軍中佐で終戦。戦後陸上自衛隊に入隊し、幹部学校副校長、第六管区副総監を経て陸将補で退官後、防衛大教授等を歴任している。著書に、「戦争概論」(アントワーヌ・アンリジョミニ・佐藤徳太郎訳・中公文庫)、「近代西欧先史」(原書房)等がある。

 武智大佐は、武智漸大佐で、陸士二十三期。当時、第一四軍隷下の第十六師団所属の歩兵第九連隊長は、上島良雄大佐(陸士二六)だったが、昭和十六年十二月三十日戦死したので、その後任として武智大佐が第九連隊長に補任された。昭和十七年十一月八日フィリピンで戦死。

 武智大佐が連隊長になった初陣がバターン攻撃だった。本間中将が、せっかく手柄を立てさせてやろうと思って行かせたのに、道に迷って、だめなヤツだということなのだ。

 この第九連隊はこの後も、大切な時にジャングルの中に消えてしまい、何日間も連絡のなかったことがあり、バターン半島の初期作戦ではミスが多かった。「敵のいない所ばかり進んでいた連隊だ」と風評が立った。

 さらに、本間中将の一月十二日の日記には次の様な記述がある。

 「奈良兵団、進捗せず。膠着せるがごとく憤激の到りだ。優勢な兵力を持っていて何をしているか」

 膠着(こうちゃく)の意味は「粘りつくこと」。第一線の実情を知らない本間軍司令官は、はるか後方のサンフェルナンドの軍司令部で、憤まんをぶちまけていた。さらに次のようにも記している。

 「私はこの二十日の誕生日までに、この敵を壊滅し、第四八師団の転進(ジャワへの転進)に先立ち、入城式(本間軍司令官はまだマニラ市に入っていなかった)、同日慰霊祭をやろうとしているのだ」。

 本間軍司令官の日記には、第六五旅団に対して厳しい批判をしている。一方、第六十五旅団の兵士も本間軍司令官に対し批判的だった。

 第六五旅団野戦病院にいた多田兵長は「本間のバカが、こんな戦争をやらせやがる、と兵隊はみんな言っていた」と述べている。ひどい戦闘を強いられた腹いせだった。

 バターン半島の戦闘はこちらが小銃一発撃つと十発もお返しが来た。夜行軍をやれば曳光弾が飛んでくるし、ヤシの木の上にはマイクが付けてあり、日本軍の行動は筒抜けだった。

 敵の重砲は、コレヒドール島要塞から飛んできた。とにかく大きな弾で、弾が落ちるとそこに水溜りができて、水牛が泳いでいたほどだった。戦死者が多数出て初期のバターン戦は、日本軍は苦戦した。

 第一四軍は膠着状態のバターン半島攻撃の打開策を練るため、本間軍司令官の発案で、昭和十七年二月八日、サンフェルナンドの戦闘指令所で作戦会議を開いた。

 この席上で次の二案が論議された。(甲案)いぜん攻撃を続行する。(乙案)一時態勢を整理して増援兵力の到着を待ち、攻撃を再興する。

 甲案の主張者は、第一課高級参謀・中山源夫大佐(陸士三二・陸大四一・少将・第一二軍参謀長)で、作戦参謀・佐藤徳太郎少佐が支持した。乙案の主張者は軍参謀長・前田正実中将と作戦主任参謀・牧達夫中佐だった。

 論議の結果、最終的に乙案に決まったが、本間軍司令官は、攻撃続行の思いであったが、論議の結果を尊重し、しぶしぶ了承、第一線部隊に態勢の整理を発令した。

 第一線部隊は攻撃を中止した。だが、第一四軍は、その後も、バターン攻撃か、封鎖かで動揺し、思い切りの悪い統帥となった。

312.本間雅晴陸軍中将(12)君は陸大の優等生でありながら、妙なことを言うね

2012年03月16日 | 本間雅晴陸軍中将
 第四八師団長・土橋勇逸中将の昭和十七年一月一日の「土橋日記」に、マニラ市への一番乗りなどよりも、バターン半島へ米比軍を逃した第一四軍の処置を不満とした内容の記述が見られる。

 一月一日の「土橋日記」には第一四軍から派遣されて来た軍の作戦主任参謀・牧達夫中佐(陸士三六・陸大四五首席・大佐・第四軍高級参謀)とのやり取りが次の様に克明に描かれている。

 「十七時ごろ、牧軍参謀来たり、一六師団と同時入城せしめたいから、師団のマニラ入城を待つようにという軍司令官(本間雅晴中将)の意図を伝えた。一番乗りなど別に眼中にないから快諾した。が自由に前進を許していたら、師団はこの正月にマニラに入城できたのであった」

 「私は牧参謀に対し、あれほど度々意見を具申したのに、軍が一顧も与えなかったため、遂に敵をバターンに逃がしたではないか、となじったところ、牧君は『いや閣下、ご心配は無用です。バターンに逃げ込んでも永く抵抗などできません。全く袋のねずみ同様に、わけなく潰せます』と答えた」

 「私は『君は陸大の優等生でありながら、妙なことを言うね。あるいは袋のねずみでわけなくたたけるかもしれぬが、戦術というものは機会を求めて殲滅を図るべきではないか。パンパンガ河の東でたたき得る絶好の機会があるのを、何の処置もせず、みすみす逃しておいて、いや、バターンでやりますからとは何事だ』と大渇した。隣室に集まっていた新聞記者連中が驚いたそうである」。

 土橋中将は翌一月二日にも、第十四軍参謀長・前田正実中将(陸士二五・陸大三四)に対しても同じような苦言を呈している。一月二日の「土橋日記」は次の通り。

 「早朝、前田軍参謀長が新年のちいさなモチを持って来てくれた。私は前田君にも、軍が敵をバターンに逃がしたことを非難し、『軍はなぜ私をバターンへ行けと命令しないのか』と問うた」

 「前田君いわく、『いや軍司令官はそのことを望んでいるのですが、師団の任務はマニラ占領であり、またジャワ作戦の準備(四八師団はマニラ占領後、ジャワに転進することに決定していた)をせねばならぬから、土橋に要求しても承知せんだろう、と言っている』と」

 「私は驚いた。いやしくも戦場である。必要ならば、そんな下らぬことを言っている場合ではなかろう。『よろしい、私は直ぐ命令を下してバターンへ行く。が次の作戦準備もあるから永くは無理だ。一週間という約束で押せるところまで押してあげよう』と答えた。そして即座にバターンへの転進を命じた」。

 だが、第四八師団のバターン総攻撃は成功しなかった。マニラを占領したことで士気が十分ではなかったとも言われている。

 この状況は、「指揮官」(児島襄・文藝春秋)・「本間雅晴」の章に詳細が述べられている。それによると、昭和十七年一月二日、マニラ市は陥落した。

 すでにオープン・シティ(無防備都市)が宣言され、陥落というよりも、明け渡された感じだった。市内は無秩序状態で、無頼の徒が横行し、キャバレーは騒々しく営業を続けていた。

 第十四軍司令官・本間雅晴中将(陸士一九次席・陸大二七恩賜)は、参謀長・前田正実中将(陸士二五・陸大三四)の献言に従い、参謀副長・林義秀少将(陸士二六・陸大三五・第五三師団長・中将)、高級参謀(情報)・高津利光大佐(陸士三二・陸大四〇・第二三師団参謀長・少将)、参謀(作戦)・牧達夫中佐(陸士三六・陸大四五首席・大佐・第四軍高級参謀)、参謀(情報主任)・中島義雄中佐(陸士三六・陸大四四恩賜・大佐・参謀本部教育課長)らに、軍政担当を命じた。

 マニラ占領で一応の作戦は終わり、あとは占領行政でフィリピン市民の対日協力を確保すべきだ、という前田参謀長の意見は、広い視野を持つ本間中将の意にかなった。

 また、前田参謀長は、「バターンの敵は封鎖により自滅させるべきだ」と述べたが、近く第四八師団を転用され、兵力が不足する第十四軍にとっては、適切であると本間中将は最終的に判断した。

 第四八師団長・土橋中将からは、しきりに「戦いの目的は敵軍の撃滅にある、不動産(土地)の確保ではない」といった進言がよせられるが、本間中将は、前田参謀長に次のように言ったという。

 「『海』(第四八師団の暗号名)はジャワ行きの準備もある。追撃は必要だが、実際に命令しては『海』も良い気持ちはしないのでは、ないかな」。

 この意向が伝えられると、土橋師団長は、心外の思いにかられ、次の様に述べた。

 「何という遠慮だ。いやしくも戦場ではないか。必要とあれば、どんな命令でも出すべきであろう。よろしい、私はすぐバターンに行く」。

 だが、第四八師団は、確かにジャワ行きの準備があり、バターン半島入り口付近で数日間の戦闘をしたにとどまり、本格的なバターン攻撃は、第六十五旅団に命ぜられた。

311.本間雅晴陸軍中将(11)戦闘機を操縦しているのは、日本人ではなくドイツ兵だ

2012年03月09日 | 本間雅晴陸軍中将
 マッカーサー大将は、人種差別的発想から、日本軍を見下した。そしてルソン島に上陸した日本軍を過小評価していた。

 日本陸軍の戦闘機により、味方の戦闘機が撃墜されると、マッカーサー大将は「戦闘機を操縦しているのは、日本人ではなくドイツ兵だ」と言ったという。

 だが、その後、各地の防衛線を突破し、米軍を蹴散らし、電撃的に侵攻してくる日本軍に驚いたマッカーサー大将は、日本軍上陸の翌日には、マニラを放棄せざるを得なくなり、バターン半島へ敗退した。

 一方、「1億人の昭和史・日本の戦史8・太平洋戦争2」(毎日新聞社)に「マッカーサー回想記・上」から抜粋したダグラス・マッカーサー(当時・アメリカ極東陸軍司令官)の本間雅晴中将の指揮する日本軍に対する作戦の証言、「知り尽くしていたバターン」では次の様に述べている。

 「この一連の上陸で、本間将軍の戦略はたちどころにはっきりした。本間将軍がリンガエンに上陸した主力とアチモナン(ラモン湾)に上陸した別働隊で、われわれをはさみ打ちにするつもりであることは明白だった」

 「この両部隊が急速に接近すると、私の主力部隊は、中部ルソンのしゃへい物の少ない平野で、敵に前後をはさまれて戦わなければならなくなる。日本軍の戦略はルソンの防衛を短期に完全に粉砕することを想定したものだった」

 「……それはまことに非の打ちどころのない戦略構想だった。私の兵力はジョーンズ将軍指揮下の第二軍団と、ウェーンライト将軍指揮下の第一軍団とが二つに断ち切られ、両軍団が別々につぶされそうな情勢となってきたのである」

 「私は即座に防衛計画を立てた。第一軍団は、北はリンガエン湾から南はバターン半島の付け根まで広い中部平野で、次々に新しい防衛線へ後退する持久戦術をとらせる」

 「この持久行動の援護の下に、第二軍団は、マニラ部隊も全部バターン半島に撤退させる。バターンでは私が地形を知り尽くしているので、ここで日本軍の優勢な空軍力、戦車、大砲、兵力に対抗するという計画だった」。

 「戦争と人間の記録バターン戦」(御田重宝・徳間書店)によると、第四十八師団長・土橋勇逸(どばし・ゆういつ)中将(陸士二四・陸大三二・東京外語学校・中将・第三八軍司令官)の「土橋日記」の昭和十六年十二月二十七日の内容に、「敵は最後の抵抗をバターン半島に試みるであろう」と記されている。

 マニラ市にあったアメリカ極東軍司令部は、十二月二十四日には、すでにコレヒドール島に移動していた。日本軍に押されてマッカーサー司令官以下、セーヤー高等弁務官、ケソン大統領とその家族、高級官吏等が、船でマニラ湾を横切ってコレヒドール島に立てこもった。

 本間中将以下の第一四軍司令部がこの事実を知ったのは、十二月二十七日だったが、この時点で、第一四軍司令部は、マッカーサー大将がバターン半島で持久戦に持ち込む計画であることを見抜くべきであった。

 現に土橋師団長は、その可能性を再三に渡って申し立てている。第一四軍は依然としてマニラ市周辺で、一大会戦が行われるものと信じ込み、バターン半島に重点を置かなかった。

 その結果、バターン半島に米比軍の大半を逃がし、そのために後のバターン攻撃が一時頓挫し、犠牲者を多く出し、作戦上の不手際を重ねることになった。

 マッカーサー大将が出した「マニラ非武装都市宣言」を、第一四軍は十二月二十七日夕、サンフランシスコ放送で聞いた。大本営もそれを聞き「注意せよ」と第一四軍に通報した。

 この時点で本間中将の第一四軍はマニラからバターン半島に作戦の方向を転換すべきだったと言われているが、そう簡単に「非武装都市宣言」が信じられるはずもなかった。

 第一四軍はフィリピン作戦については、慎重で、第四八師団の前進については、上陸直後からブレーキをかける役に回っている。

 第一回は、リンガエン湾に上陸直後、アグノ河の線に一気に出るという第四八師団に対して、重火器の揚陸が終わるまで待て、と止めた。

 これは戦術的には当然の処置で、重火器も持たない歩兵部隊が、米比軍の待ち受けている正面にぶつかるのは危険だとの判断に立っている。

 しかし、マニラ市を目前にしてのブレーキは、ルソン島南部のラモン湾に上陸した第一六師団と同時にマニラ占領をさせようという、第一四軍の政治的配慮だった。