陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

666.梅津美治郎陸軍大将(6)梅津少将は「これはおかしい。もっと考えろ」と言って判を押してくれなかった

2018年12月28日 | 梅津美治郎陸軍大将
 その中の一条に、軍司令官の権限があった。松村少佐はシベリア出兵など作った似たものを参考として、「軍司令官は部下を指揮しその経理、衛生等を律す」と書いた。

 これで編制班長も第一課長も黙って判を押してくれたので、これを総務部長・梅津少将に持って行くと、梅津少将は「これはおかしい。もっと考えろ」と言って判を押してくれなかった。

 松村少佐は部屋に戻って戦時高等司令部勤務令、その他新しいものを見ると、「軍司令官は軍を統率す」とだけ書いてあった。

 いろいろ経験の深い先輩に、松村少佐が聞いてみると、両者趣旨に変わりはないが、「統率」の字句ですべてを網羅するから、これに改めたことが分かった。

 松村少佐が修正して、提出すると、梅津少将は黙って判を押した。梅津少将は若い部員が自ら勉強するように指導した。

 昭和七年頃、情勢の変化、ことに無線の発達に伴い、暗号の使用が平戦時とも盛んになり、その構造も複雑となり、下級司令部や舞台で使用するだけでなく、自ら暗号を作ることも必要になった。

 そこで暗号の作成、使用等に関する教育を行う必要ができ、毎年ある数の将校を全軍から集めて参謀本部で教育することになった。

 その主任者がたまたま他の用務で出張することになったので、松村少佐が代わって第一課長・東條英機大佐や総務部長・梅津美治郎少将の判をもらいにいった。

 ところが、総務部長・梅津美治郎少将は「参謀本部にはそんな任務はない。省部協定(参謀本部、陸軍省、教育総監のいわゆる三官衙の業務分担、起案者、連帯者などを決めたもの)にも一言もふれていない」と言って、判をくれなかった。

 それは、これまでその必要がなかったからである。だが、その教育能力をもっているのは参謀本部だけだから、省部の主任者が協議の上この決定となった。

 松村少佐は臨時に代理したものだから、十分に総務部長・梅津美治郎少将を納得させることができず、起案紙を一応持って帰った。松村少佐は、第一課長・東條英機大佐に、いきさつを報告し「研究します」と言った。

 ところが、第一課長・東條英機大佐は、「俺によこせ」と言うとともに、その起案紙を持って、すぐ総務部長・梅津美治郎少将のところへ行った。

 第一課長・東條英機大佐は、間も無く判をもらって戻り、「おい」と言って、起案紙を松村少佐に渡した。

 総務部長・梅津美治郎少将は勿論、この新しい規定は百も承知しているのである。だが、合理主義的な総務部長・梅津美治郎少将は、諸規定を順守し、これを改めるにそれだけ合理的な説明を要求したのだ。松村少佐が、十分に説明ができなかったのだ。

 第一課長・東條英機大佐は、これをもどかしいとして、すぐ自分で説明に行き、総務部長・梅津美治郎少将の判をもらった。ここにも、両者の性格の差異が見られる。

 昭和八年八月の定期異動で、真崎甚三郎(まさき・じんざぶろう)中将(佐賀・陸士九・陸大一九恩賜・教育総監部第二課長・歩兵大佐・陸軍省軍務局軍事課長・近衛歩兵第一連隊長・少将・歩兵第一旅団長・陸軍士官学校本科長・陸軍士官学校教授部長兼幹事・陸軍士官学校長・中将・第八師団長・第一師団長・台湾軍司令官・参謀次長・大将・軍事参議官・教育総監・軍事参議官予備役・佐賀県教育会長・昭和三十一年死去・享年八十歳・正三位・勲一等・功四級・フランスレジオンドヌール勲章コマンドール等)は大将に進級するとともに、参謀次長を辞め、軍事参議官に転じた。

 後任の参謀次長は植田謙吉(うえだ・けんきち)中将(大阪・陸士一〇・陸大二一・浦塩派遣軍参謀・奇兵大佐・浦塩派遣軍作戦課長・騎兵第一連隊長・少将・騎兵第三旅団長・馬政長官・軍馬補充部本部長・中将・支那駐屯軍司令官・第九師団長・負傷・参謀本部附・参謀次長・朝鮮軍司令官・大将・軍事参議官・関東軍司令官・予備役・戦後・日本戦友団体連合会会長・日本郷友連盟会長・昭和三十七年死去・享年八十七歳・正三位・大勲位蘭花大綬章・功三級・フランスレジオンドヌール勲章オフィシェ等)が就任した。





665.梅津美治郎陸軍大将(5)軽度の脳溢血に罹った梅津さんの昨今は大分に鈍ってきて先もみえた

2018年12月21日 | 梅津美治郎陸軍大将
 参謀本部編制動員課長・東條英機(とうじょう・ひでき)大佐(岩手・陸士一七・陸大二七・陸軍省整備局動員課長・歩兵大佐・歩兵第一連隊長・参謀本部編制動員課長・少将・陸軍省軍事調査部長・陸軍士官学校幹事・歩兵第二四旅団長・関東憲兵隊司令官・中将・関東軍参謀長・陸軍次官兼航空本部長・航空総監・陸軍大臣・内閣総理大臣兼陸軍大臣・兼総参謀長・予備役・終戦・昭和二十三年A級戦犯で刑死・享年六十四歳・正三位・旭日大綬章・功二級・ドイツ端鷲勲章大十字章等)。

 陸軍省整備局動員課長・横山勇(よこやま・いさむ)大佐(福島・陸士二一・陸大二七・陸軍省資源局企画部第二課長・関東軍司令部附・歩兵大佐・陸軍省整備局動員課長・歩兵第二連隊長・第六師団参謀長・少将・陸軍省資源局企画部長・企画院総務部長・企画院第一部長・中将・第一師団長・第四軍司令官・第一一軍司令官・西部軍司令官・第一六方面軍司令官兼西部軍管区司令官・昭和二十七年巣鴨プリズンで病死・享年六十三歳)。

 その他、教育総監部第一課長、技術本部第一課長等。

 また、陸軍軍需審議会の参与は次の通り。

 参謀本部総務部長・梅津美治郎(うめづ・よしじろう)少将(大分・陸士一五・陸大二三首席・陸軍省軍務局軍事課高級課員・歩兵大佐・歩兵第三連隊長・参謀本部編制動員課長・少将・歩兵第一旅団長・参謀本部総務部長・支那駐屯軍司令官・中将・第二師団長・陸軍次官・第一軍司令官・関東軍司令官・大将・参謀総長・終戦・A級戦犯・巣鴨刑務所収監・昭和二十四年病死・享年六十七歳)。

 陸軍省整備局長・林桂(はやし・かつら)少将(和歌山・陸士一三・陸大二一恩賜・陸軍大学校教官・歩兵大佐・近衛歩兵第一連隊長・陸軍省軍務局軍事課長・少将・歩兵第一旅団長・参謀本部第四部長・軍事調査委員長・陸軍省整備局長・中将・教育総監部本部長・第五師団長・予備役・昭和三十六年死去・享年八十一歳・勲一等旭日大綬章)。

 その他、教育総監部第一部長、技術本部第一部長等。

 この、陸軍軍需審議会を統括したのは、陸軍次官・柳川平助(やながわ・へいすけ)中将(佐賀・陸士一二・陸大二四恩賜・参謀本部附・国連派遣・騎兵大佐・騎兵第二〇連隊長・参謀本部演習課長・少将・騎兵第一旅団長・騎兵学校長・気閉監・中将・陸軍次官・第一師団長・台湾軍司令官・予備役・第一〇軍司令官・興亜院総務長官・司法大臣・国務大臣・昭和二十年病死・享年六十五歳・従二位・功二級)だった。

 前述の、当時陸軍省整備局統制課勤務の中山貞武少佐の回想は次の通り。

 同審議会は、陸軍諸兵科用兵器・資材等に充足せしむべき要件の査定、制式決定前の厳重な試験研究を実施する関門となっていたのである。

 本会議の席上では、透徹した理論で鋭い論鋒を繰り出す参謀本部作戦課長・鈴木率道中佐に対し、ともすれば受け身に立つ参謀本部編制動員課長・東條英機大佐のいら立ち、時として感情に色をなす対立が、熾烈真剣そのものだった。

 この対立する両者の上司である、参謀本部総務部長・梅津美治郎少将は、かかる際、あの上品な鴈治郎張りの顔に、時々チラッと薄雲のよぎるのを呈するだけで、一度も発言がなかったように記憶する。

 我々陸軍省や総監部、技術本部の連中の中には、「軽度の脳溢血に罹った梅津さんの昨今は大分に鈍ってきて先もみえた」と囁く者もあったが、私はそれ以上の係わりは持たなかったので、真実は分からぬ。(以上、中山貞武少佐の回想)

 松村知勝少将は、当時、昭和六年八月に参謀本部総務部長に就任した梅津美治郎少将の部下として、第一課編制班の若い課員(三十四歳)で、少佐だった。

 間もなく、昭和六年九月十八日、柳条湖事件に端を発して満州事変が勃発した。

 陸軍には各種の戦時勤務令というものがあった。これは戦時の高等司令部、あるいは平時にはない戦時特設の部隊の各級幹部の任務と権限を規定し、その行動の基準を示すものだった。

 関東軍司令部には平時から「関東軍司令部条例」があったが、満州事変が始まると、その任務が拡大され、内容も変わったので、「関東軍司令部勤務令」を作ることになり、松村知勝少佐はその主任者だった。

664.梅津美治郎陸軍大将(4)今の質問は取り消す。私がこんな質問を諸官にしたということも取り消す

2018年12月14日 | 梅津美治郎陸軍大将
 しかも、その重点は、統帥の根本になるべき陸軍軍人人事行政独立についての法令規定の立案であったことを、今もって忘れられぬほど強く印象づけられたのであった。

 また、当時同じく陸軍大学校の学生であった、松村知勝(まつむら・ともかつ)少将(福井・陸士三三・陸大四〇・ソ連駐在・ポーランド兼ルーマニア公使館附武官補佐官・歩兵中佐・陸軍大学校教官・参謀本部戦史課長・大本営研究班長・歩兵大佐・参謀本部ロシア課長・関東軍作戦課長・少将・関東軍総参謀副長・終戦・シベリア抑留・昭和五十四年死去・享年八十歳)は次の様に回想している。

 昭和三年初め頃、梅津大将は参謀本部第一課長(編制・動員)で、陸軍大学校兵学教官を兼ねており、私は三年学生としてその編制制度に関する講義を聞いたことがある。

 梅津大佐は、「軍部大臣文官制をどう思うか」という問題を出し、筆記答解を求められた。当時、この問題は政界にくすぶっており、陸軍の態度はもちろん絶対反対であった。

 だが、学生は問題のいきさつはよく知らないし、こだわりも持たないから、勝手な意見を書いたようだった。

 梅津教官は答解を点検してから、その利害得失を簡単に説明されたが、結論は言わず、「お前たち、自分でよく考えてみろ」といった態度であった。

 これは梅津大将の合理主義的な一面を示すと共に、教育方法に対するその考え方を現しているように思えた。

 同じ頃、東條英機大将は中佐で陸軍省軍事課の高級課員であり、やはり兵学教官を兼ねており、軍政一般に関する講義があった。

 そして同じような問題を出された。だが、東條教官の説明は簡明直接的なものだった。「文官大臣でもいいと考えているものがある。けしからん。もってのほかだ」と叱られた。

 ここに梅津大将と、東條大将の性格の相違があるように、私は若いながらそう考えた。

 最後に、当時同じく陸軍大学校の学生であった、松村秀逸(まつむら・しゅういつ)少将(熊本・陸士三二・陸大四〇・陸軍省情報部長・砲兵大佐・内閣情報局第二部第一課長・内閣情報局第一部長・大本営陸軍部報道部長・中国軍管区参謀長兼第五九軍参謀長・広島で原爆により被曝・戦後参議院議員・昭和三十七年病死・享年六十二歳)も、次の様に回想している。

 昭和三年、梅津が軍事課長として陸大教官を兼任していた時の話である。担当の軍制学の講義のはじめに、「陸軍大臣は文官がよいか、武官がよいか」という質問を発した。

 当時、三年学生の総数四十七名、陸士の二七期から三四期までの卒業生の中から選抜されたもので、前の方から先任順に並んでいた。

 梅津さんは、後ろの若い方から順序に質問していた。丁度十人目で、文官賛成者八名、武官と答えた者二人という比率になった。

 利口な彼は一寸あわてだした。軍の最高学府の陸大の三年学生の理論が、圧倒的に文官陸相論者であったということになると、問題がウルサクなる。

 「今の質問は取り消す。私がこんな質問を諸官にしたということも取り消す」とあっさり取り消し、その後一切、この問題にはふれなかった。

 以上が、梅津大将が中佐で陸大教官であった当時のエピソードだが、梅津大将の軍人としての合理主義の一面がうかがえる。

 昭和五年八月梅津美治郎大佐は少将に進級し、歩兵第一旅団長に補された。一年後の昭和六年八月梅津少将は参謀本部総務部長に任ぜられた。四十九歳だった。

 当時、陸軍省整備局統制課勤務の中山貞武(なかやま・さだたけ)少佐(高知・陸士二九・陸大四一・関東軍参謀・第三軍作戦主任・歩兵学校研究部主事・大佐・第三軍高級参謀・第二五軍参謀長・少将・第一一軍参謀長・第六方面軍参謀長・漢口で終戦)は、陸軍軍需審議会の主任幹事を兼任していた。

 昭和八年当時の陸軍軍需審議会委員は次の通り。

 参謀本部作戦課長・鈴木率道(すずき・よりみち)中佐(広島・陸士二二・陸大三〇首席・陸軍大学校教官・参謀本部作戦課長・砲兵大佐・志支那駐屯砲兵連隊長・少将・第二軍参謀長・陸軍航空本部総務部長・中将・兼陸軍航空総監部航空総監代理・第二航空軍司令官・予備役・昭和十八年病死・死去五十三歳・従三位・勲一等・功三級)。







663.梅津美治郎陸軍大将(3)閣下は他人のことには一切触れず、また自身のことにも触れさせぬ風でした

2018年12月07日 | 梅津美治郎陸軍大将
 大正六年五月帰国。参謀本部部員。大正七年六月歩兵少佐。大正八年二月ヨーロッパ出張。四月帰国、木場清子と結婚。十一月スイス公使館附武官。大正十年六月帰国、参謀本部部員。

 以上のように、梅津美治郎少佐は、八年近くをヨーロッパで駐在員生活を送った。このように長い海外生活が、ヨーロッパ風の合理的精神を身につけさせた。

 つまり、明治の余波の抜けきれない古い陸軍からヨーロッパ風の合理的陸軍、換言すれば精神第一主義より、いわば物質主義、兵器優先主義への波動をひしひしと生来合理的な梅津少佐をして感得させ、さらに彼を合理的主義者とならせた。

 矢野機(やの・はかる)中将(東京・陸士一八・陸大二五・スイス駐在・歩兵中佐・侍従武官・歩兵大佐・教育総監部庶務課長・歩兵第六連隊長・歩兵学校教導隊長・朝鮮軍参謀・少将・歩兵第八旅団長・憲兵司令部総務部長・第三師団司令部附・予備役・歩兵第二五旅団長・中将・歩兵学校長・終戦・平成四年死去・享年百五歳・功三級)は、大正十年十一月から、スイスに駐在した。

 スイス公使館附武官当時の梅津美治郎少佐の思い出を、矢野機元中将(当時大尉)は、戦後、次の様に回想している(要旨抜粋)。

 当時閣下は単身赴任せられあり、公使館から離れた町の独立家屋を住居とし、その一部を武官の公室としておられ、スイス婦人(年齢三十乃至四十歳位)を家政婦兼事務員として使用し、同じ家に暮らしておられた。

 閣下と私とは同郷であり、中央幼年学校ご在学当時から交際を頂いた仲ではありますが、公私の別は極めてはっきりされ、公私共に私からお尋ねしたことは親切にお教え下さったが、閣下の方から進んで私の考えなり行動に意見を述べられたことは殆どなかったと記憶します。

 閣下の服装は常に端正と申すべく、公室内の整頓は簡素な調度ではあったが、見事な状態で共に閣下の風格がよく現れておりました。

 事プライベートに属することは、閣下は他人のことには一切触れず、また自身のことにも触れさせぬ風でした。触れかかると話題を巧みに他に替えられました。

 酒も嗜まれながら、度を失したことは一度もなく、いつも理知的で冷静の態度で人に接せられた。

 しかしその為、人に悪感情を抱かせることはなかったように思った。感情をあらわに出さなかったことにも因ると思うのです。以上思い浮かぶまま認めました。

 以上が矢野機元中将の回想だが、梅津大将の冷静沈着な軍人としての態度は、当時から身につけていた。

 梅津美治郎少佐は、大正十二年二月中佐に進級し、三月陸軍省軍務局軍事課員(高級課員)となり、兼任として陸軍大学校の軍制学の教官として出向している。

 当時、陸軍大学校の学生(三六期)であった有末精三(ありすえ・せいぞう)中将(北海道・陸士二九恩賜・陸大三六恩賜・歩兵中佐・イタリア大使館附武官・航空兵中佐・航空兵大佐・軍務局軍事課長・北支那方面軍参謀副長・少将・参謀本部第二部長・中将・対連合軍連絡委員長・戦後駐留米軍顧問・日本郷友連盟会長・平成四年死去・享年九十七歳・勲二等)は、次の様に回想している(要旨抜粋)。

 私が初めて梅津大将に接したのは、大正十三年、私が陸軍大学校三年生の時で、大将は当時教官で、まだ中佐でした。

 当時の陸大の教官方の双璧は、何といっても陸士第十六期生の永田鉄山氏と第十五期生の梅津美治郎氏の両中佐であった。

 軍隊教育についての永田中佐の精神的、理論的、理想的等、大上段に振りかぶっての指導振りに対し、陸軍軍政についての梅津中佐のそれは実務的、実際的等おちのない指導振りという違いがあった。

 当時、教材になったのは陸軍大臣文官制の問題であった。学生の一部進歩的(?)分子のものは、文官大臣でなければならぬと主張した。

 だが、他の多くのものは、文官大臣は絶対に排除し、武官大臣制を貫くべきだとの所論で、所謂総論的に対立していた。

 この状況に対して、梅津教官は、そんなやかましい議論よりは、文官大臣制になった場合に、その弊害を除くための処理方策を、如何に考えるべきやというのが指導の原案であった。