陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

96.片倉衷陸軍少将(6) 片倉、人間は死ぬときは死ぬ。殺されるときはやられる。すべては運命だ

2008年01月25日 | 片倉衷陸軍少将
 「龍虎の争い」(紀尾井書房)の著者、谷口勇元陸軍中将は片倉少佐を武士の風上にも置けぬ恥知らずのものであると記している。

 ところが、「秘録永田鉄山」(芙蓉書房)の中に、片倉衷氏の証言がある。それは要約すると次のようなものである。

 「九年十一月に例の十一月事件が起きた。永田少将が私を使って教育総監の真崎大将をやっつけるために何かやったという論をする人もあるが、これは大きな誤解であり、絶対にそのような事実はなかった」

 「ではどうしてそのような風聞が飛んだかというと、当時私は参謀本部第四班の職柄から要注意人物の動向を注意して見るため、右翼の裁判には特別弁護人として毎回出席していた」

 「また西田税に会ったことがある。西田に言った。『君の考えは良く判る・しかし、青年将校と君が接触するのは一向構わないが、青年将校の行動をして軍人の本分を間違わないようにしてくれ。青年将校の考えは非常に良く判っている。しかし軍律を乱すようなことはしないでもらいたい。もしそうなる時には、君と僕とは敵になると思いたまえ』と」

 「西田は中野の私宅にも二度ばかり来訪したことがあり、手紙ももらった。彼は日仏同盟の構想をもっており、なかなか頭の切れるいい男でした」

 「ところが昭和九年の夏頃、辻政信が士官学校中隊長に転じた。私は任務上辻君に士官候補生をよく見て五・一五みたいにならぬようよく指導してくれと言ったことがある」

 「辻君から、この頃どうも士官候補生が外からの策動を受けているとの報告があった。辻君は自ら士官候補生と接触し、もう少し情勢を見てから報告するとのことでした」

 片倉衷氏の証言はまだ続く。

 「昭和九年の十一月二十日の夜でしたが、辻君が塚本という憲兵を連れて中野の私の宅にやって来た。辻君は『重大事だ。士官候補生から聞くと決起計画があることが判った』と言った」

 「それは放置しておけない、至急当局に知らせねばならない、ということで橋本虎之助次官の所へ夜道を走った」

 「橋本次官はこの件を承知し、翌朝陸軍省で永田軍務局長その他を招致して対策を講じた」

 「私は参謀本部に登庁し飯村課長に報告し、この事件は未遂として未然に防いでくれ。策動している分子は処分しても、若い士官候補生を傷つけないで欲しいと述べた」

 「これ以外十一月事件には私とは関係はないのです。従って永田少将とはもちろん関係もないし関知もしていない。この事件に関しては私は永田少将に報告もしないし何も指令を受けていない。真崎大将をどうのこうのもへちまもない」

 昭和10年8月12日、永田軍務局長は相澤三郎中佐によって斬殺された。相澤中佐事件である。

 「秘録永田鉄山」(芙蓉書房)によると、片倉氏は当時少佐で永田軍務局長の下で軍事課の満州班長だった。

 昭和10年7月末、満州国の干静遠学処長が上京して来て、永田軍務局長が干氏の慰労の宴を上野池の支那料理店で開いた。

 宴が終わり、片倉少佐は永田局長を家まで送った。その途中で、片倉少佐は「局長閣下は今、非常に危険性があるので護衛を常時つけられては如何ですか」といつも思っていたことが真っ先に口からすべりでた。

 ところが永田局長は意外にも断固として片倉少佐の要望をはねつけた。「片倉、人間は死ぬときは死ぬ。殺されるときはやられる。すべては運命だ。私は運命に従う。君の心配する護衛は必要ない」。

 誠にはっきりこう言った。永田局長の口調は片倉少佐が後の句をつげないような断固たる響きを持っていた。その一言は金鉄の如く、片倉少佐は再びこのことで口に出しても駄目だなあという気がしきりにした。

 だがそのすぐ旬日の後の8月12日、永田局長は相澤中佐(二十二期)に斬殺された。片倉少佐は倒れている永田局長に馬乗りになり、約三十分以上も人工呼吸をしたが、既にこと切れていて行きかえさせることはできなかった。

95.片倉衷陸軍少将(5) やった、やった、スパイを使ってやった。村中、磯部をやった

2008年01月18日 | 片倉衷陸軍少将
 長崎の講演の帰り、駅のプラットホームに警察官がいて尾行されているのが分かった。片倉大尉は要注意人物としてマークされたのだ。

 ある日自宅で小倉の護国軍という右翼関係の者と話をしていると、自宅の縁の下に警察官が潜んでいるのが分かった。

 片倉大尉は縁の下に聞こえるように「槍で突くぞ」と怒鳴ったところ、脱兎のごとく逃げ出した。

 この頃の陸軍は混乱していた。荒木貞夫陸相に青年将校たちが引き付けられ、直接出入りし、また荒木陸相も国家革新を様々な場所で公言していた。

 隊付きの青年将校は師団長、連隊長が地域、部隊の情勢を加味して訓示しても、「それは大臣の意図と違う」「そのようなことは大臣の意思ではない」との反論の気風も生じていた。

 片倉大尉の考えは、軍を組織的に動かすことにあり、個人の暴動、叛乱には絶対に反対の立場をとっていたのでこのような動向に、苦々しく思っていた。

 昭和8年8月、片倉大尉は参謀本部第二部第四課第四班へ転補された。石原莞爾大佐らが「片倉を小倉に置いておかず、中央で使ってくれ」と尽力したのだ。

 片倉大尉は登庁後、武藤章班長の所へ着任の挨拶に行くと、彼は人差し指を曲げて拳銃を撃つまねをして、「君、これはやらんだろうな」と言った。

 片倉大尉は「イヤ、私は国家革新の必要は痛感していますが、テロは押さえる方です。ご安心ください」と応酬した。

 「龍虎の争い」(紀尾井書房)によると、2.26事件の前の、昭和9年11月20日、陸軍大学校在学中の皇道派青年将校、村中孝次大尉(三十七期)、磯部浅一一等主計(三十八期)ほか一名および陸軍士官学校在学の士官候補生五名がクーデター計画が有るという理由で逮捕された。

 統制派の陸軍士官学校中隊長・辻政信大尉と参謀本部部員・片倉衷少佐の報告によるものだった。

 逮捕された者は軍法会議で審査されたが、証拠不十分で不起訴となり、村中、磯部は昭和10年3月29日その行動、軍規上適当ならずとの理由を以て行政処分で停職に処せられ、後に免官となった。十一月事件である。

 この事件は当時陸士中隊長であった辻政信大尉が自らの担任する士官候補生をスパイに使って聞知した片言を基礎にして事件を作り上げたと言われている。

 田中清少佐(二十九期)が後年、「昭和の軍閥」の著者、高橋正衛氏に語った内容が残っている。

 「十一月二十日、私は兵要地誌班で池田純久(すみひさ)中佐と雑談していた。そこに片倉が飛び込んできて『やった、やった、スパイを使ってやった。村中、磯部をやった』と叫んで部屋を出て行った。

 池田中佐は『同じ軍人でスパイを使ってやったの、やられたのとは全く不愉快だ』とつぶやいた」と田中少佐は語ったという。同じ統制派幕僚でもこのような感じの人もいた。

94.片倉衷陸軍少将(4) もう帰るのか。もうすこしおると、おもしろいことがあるんだがな

2008年01月11日 | 片倉衷陸軍少将
 向こうも軍刀つったままで、こちらも軍刀つって、武装したまま相対している。まるで軍使にでも言ったような調子だった。

 今井大尉は板垣高級参謀、土肥原大佐、石原参謀、竹下参謀、片倉大尉みんな熟知している間柄だった。それなのに、「こんにちは」とも「やあ」とも言えないような空気だった。

 いちおうお辞儀して両方とも腰掛けたが「ご苦労でした」という言葉もなかった。いきなり「貴官らはいかなる任務できたか」と任務の追求をされた。

 その後二、三のやりとりがあって、五、六分で話が終って、関東軍の幕僚はまたドカドカと出て行った。

 あまりおかしいので、石原中佐参謀は今井大尉の陸軍大学校時代の教官だったので、今井大尉が「石原教官しばらくです」「ご苦労様です」と声をかけた。

 すると石原中佐は「君によく言っとくが、君たちは何をしてもぼくらによくわかるよ。いつも憲兵五、六人尾行しているから、そう思え」と、それを今井大尉に言うのではなく、みんなに聞こえるように大きな声で言った。

 調査を終えた橋本班は10月16日、奉天を出発することになった。今井大尉は陸士三十期で陸士三十一期の片倉大尉より一期先輩だったが、陸軍大学校はともに四十期で机を並べた仲だった。

 今井大尉は帰りがけに、片倉大尉に「帰るよ」と挨拶に行った。すると片倉大尉は「もう帰るのか。もうすこしおると、おもしろいことがあるんだがな」と言った。しかし今井大尉にはなにが面白いのかわからなかった。

 10月19日の夜遅く東京に着いた今井大尉は自宅に帰った。そしたら午前1時頃、どんどんと玄関をたたく音がした。

 出てみると朝日新聞記者の高宮太平がいた。「10月事件」が発生していたのである。

 10月事件は関東軍が出した資金で、桜会の橋本欣五郎中佐、長勇少佐、田中清少佐らが、柳条溝事件に呼応して10がつ21日にクーデターを計画した事件だった。大川周明、北一輝らも加わっていた。

 だが10月17日、憲兵隊はクーデター計画の幹部を検挙した。橋本中佐は重謹慎二十日、長少佐、田中少佐は同十日の処分を受けた。

 昭和7年8月片倉大尉は関東軍参謀から第十二師団(久留米市)参謀に補された。

 師団長は杉山元中将、参謀長は石田保道大佐であった。片倉大尉は教育関係、警備、国防宣伝を主務とした幕僚勤務を命じられた。

 片倉大尉は国防思想の普及、満蒙問題解決に対する世論への訴え等の講演会に数多く出席し講演を行なった。

 この講演会に対する反響は、国防献金を九州各県で競うほどの土地柄か、ものすごく、小倉でも、博多でも人々で講演会場があふれんばかりであった。

93.片倉衷陸軍少将(3) だれが迎えに行くか。片倉、貴様行け

2008年01月04日 | 片倉衷陸軍少将
 「語りつぐ昭和史1」(朝日文庫)によると、昭和6年9月18日の晩、柳条溝事件が起きた。

 本庄繁軍司令官以下、関東軍幕僚は19日午前三時列車で旅順を出発して、奉天に向かった。

 ところがその日の夕方、東京から「今までの行動はいいが、これから先、事態を拡大してはいけない」という参謀総長の電報が来た。

 その電報を受け取った石原莞爾中佐は「もう俺は作戦主任をやめた。片倉、貴様やれ」と言った。

 片倉大尉は当時参謀部付の幕僚で、まだ参謀になっていない。片倉大尉は「あなた、そんなばかなことを言っちゃいかん。今、中央からは幸いに作戦部長の建川美次少将がきているから、これとひとつゆっくり話し合ってみなさい」と進言した。

 建川美次少将は関東軍の行動を抑えるために東京から派遣されていた。ところが板垣高級参謀が建川少将を奉天の菊文という料亭に誘導して、いわば軟禁していた。

 建川少将はドカンドカンと撃っているのを知っていたが、料亭にじっとしていたという。

 結局その建川少将を迎えに行くことになった。板垣大佐と石原中佐が「だれが迎えに行くか。片倉、貴様行け。場所は奉天の特務機関の花谷から聞け」ということになり、片倉大尉は奉天の特務機関に行った。

 片倉大尉は着くなり花谷少佐をどなりつけた。「なんだ!貴様、この間俺に嘘をついたろう。何をごまかしたんだ」と。

 すると花谷少佐は「いや、俺は絶対に嘘はうそはついていない。18日の決行は俺も知らなかったんだ」と言って寝台の上にひっくりかえった。

 だが、片倉大尉は斬りつけるぐらいの勢いで、背信行為をせめたという。

 「昭和陸軍秘史」(番町書房)によると、元陸軍少将の今井武夫氏が「柳条溝事件をめぐって関東軍の内情を探る」と題してインタビューに答えている。

 それによると柳条溝事件が9月18日勃発した。その後、9月28日、中央では参謀本部第二部長・橋本虎之助少将を中心にした、橋本班を編成して関東軍に派遣し調査・連絡に乗り出した。

 当時参謀本部部員だった今井大尉も橋本班に組み入れられ関東軍に派遣された。

 今井大尉らの橋本班が満州、奉天の関東軍につくと、橋本少将、西原一策少佐、遠藤三郎少佐、今井大尉の四人は、旅館の応接間に通された。

 待っていると三宅光治参謀長を先頭に、板垣高級参謀、石原参謀、片倉大尉、土肥原大佐、竹下参謀ら関東軍のお歴々がドカドカとやって来た。花谷正少佐はいなかった。