陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

620.桂太郎陸軍大将(40)桂首相は当時、純政党内閣主義には反対だった

2018年02月09日 | 桂太郎陸軍大将
 明治四十一年七月十四日第一次西園寺内閣は総辞職し、第二次桂太郎内閣が成立した。桂太郎首相は大蔵大臣も兼務した。

 桂首相が大蔵大臣を兼務したのは、桂首相が自ら戦後経営、特に財政管理には責任があると信じ、その責任を一身に負う覚悟からだった。

 桂首相が当時、緊急と考えたことは、財政の緊縮だった。九月一日、勅令をもって大博覧会を延期した。また、十月七日、馬券発売を禁止した。

 明治四十一年十二月二十二日、第二十五議会が開会された。桂首相は当時、純政党内閣主義には反対だった。不偏不党主義を掲げていたのだ。

 だが、現実には、それを貫くには困難な情勢だった。政友会は衆議院の過半数を占めており、その後も入党者が増して、一大政党となっていた。政友会を無視しては、政策は一つも実現できないことは桂首相も分っていた。

 一方、政友会は、桂内閣には批判的だった。桂首相の財政整理の方針については、政友会の幹部は大体認めてはいたが、党内の強硬反対論者の意見は抑え難かった。

 この情勢を分析した桂首相は、その政友会の勢力を利用して、政局を有利に展開する方法しかなかった。そこで、対政友会工作に取り掛かった。

 明治四十二年一月二十九日、桂首相は、政友会総裁・西園寺公望と会見した。この会見で、両者の意思はかなり疎通したと言われている。

 以後政友会の態度も軟化し、衆議院で予算案は通過し、貴族院でも衆議院の議決をそのまま可決した。第二十五議会は大きな波乱もなく済んだ。

 明治四十二年四月、朝鮮内で独立運動が活発になって来たのを憂慮した、桂太郎首相と小村壽太郎外相は、初代韓国統監・伊藤博文に「韓国併合以外に策はない」と相談した。伊藤博文は、これを了承した。

 桂首相は七月の内閣会議で韓国併合の基本方針を決定、大綱を発表した。

 その後枢密院議長に就任した伊藤博文は、十月二十六日、満州に行く途中、ハルピン駅で、安重根に狙撃され暗殺された。享年六十八歳だった。

 明治四十三年八月二十九日、「韓国併合二関スル条約」に基づいて大日本帝国は大韓帝国を併合した。

 明治四十四年一月十八日、大審院は、大逆事件の幸徳秋水ら二十四人が死刑判決(翌日十二人は無期懲役に減刑)を下した。

 この日、事件発生の責任を負って、桂太郎首相は、平田東助内相、大浦兼武農相と共に、待罪書(処分を待つ辞表)を拝呈した。だが、明治天皇の慰留を受けて、職に留まった。

 四月二十一日、桂太郎首相は、公爵を授けられた。
 
 当時の桂園時代と呼ばれた政権の流れを見てみると、明治三十四年六月第一次桂内閣、明治三十九年一月、第一次西園寺内閣、明治四十一年七月第二次桂内閣、明治四十四年八月第二次西園寺内閣、大正二年二月第三次桂内閣。

 桂園時代とは、官僚派と政友会の裏取引で政権交代がたらい回しに行われてきたことを、皮肉って名付けられた。

 第三次桂内閣は、政友会の尾崎行雄により、内閣弾劾の決議案が提出され、賛成多数により内閣不信任案が可決された。大正二年二月二十日、山本権兵衛内閣に引き継ぎ、六十二日の短命内閣を終えた。当時桂太郎は山縣有朋とも疎遠になっており、その協力も得られなかったのだ。

 退陣後、桂太郎は、病状が悪化したので、九月十二日三田の本邸に帰った。その後、病状はさらに悪化し、脳血栓も起こし、言葉が出なくなり、右半身はマヒしてしまった。

 十月七日には大正天皇侍医頭・西郷吉義が往診に来て、桂太郎は感激した。十月八日、山縣有朋が見舞いに来たが、握手をしただけで、言葉も出なかった。

 その翌日、大正二年十月十日、桂太郎は危篤状態に陥った。大正天皇は侍従・大炊御門家政(おおいのみかどけ・いえまさ)を訪問させ、桂に従一位を陞叙(しょうじょ=位階を授けること)し、菊花頸飾章を授与した。

 その日の午後十一時三十三分、桂太郎は息を引き取った。享年六十七歳だった。桂太郎は相次いだ難しい政局に立ち向かい、その過労で心身ともに衰弱に至った。

 だが、桂太郎は、その頭脳の明晰さと、幅広い人脈により、多大な政治的成果を上げてきた。内閣総理大臣の在職日数は二八八六日で、歴代一位である。

(今回で「桂太郎陸軍大将」は終わりです。次回からは「山本権兵衛海軍大将」が始まります)






619.桂太郎陸軍大将(39)(西園寺首相は)仏(桂太郎大将)を頼んで地獄(総辞職)に落ちた

2018年02月02日 | 桂太郎陸軍大将
 明治三十七年六月、参謀総長・大山巌大将は、満州軍総司令官に、参謀本部次長・児玉源太郎大将は満州軍総参謀長に就任した。

 後任には、枢密顧問官・山縣有朋元帥が参謀総長、大本営附・長岡外史(ながおか・がいし)少将(山口・陸士旧二期・陸大一期・海軍大学校教官・軍務局第二軍事課長・歩兵大佐・軍務局軍事課長・欧州出張・少将・歩兵第九旅団長・参謀本部次長・歩兵第二旅団長・軍務局長・中将・第一三師団長・第一六師団長・予備役・帝国飛行協会副会長・衆議院議員・飛行館長・国民飛行会会長・正三位・勲一等瑞宝章・功二級・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィッシェ等)が参謀次長に就任した。

 対ロシア戦が順調に進んでくると、満州軍総司令官・大山大将と満州軍総参謀長・児玉大将は、皇太子(後の大正天皇)を出征、大総督として担ぎ出すことにした。

 その上で、満州軍総司令部ではなく、陸軍大総督府を満州に置き、対ロシア戦の作戦立案・指揮、軍の統括を全て陸軍大総督府で行うというのだ。

 これには、参謀総長・山縣元帥と陸軍大臣・寺内正毅(てらうち・まさたけ)中将(山口・長州藩士・戊辰戦争・五稜郭の戦い・維新後陸軍少尉・大尉・陸軍士官学校生徒指令副官・西南戦争出征・閑院宮載仁親王の随員としてフランス留学・公使館附武官・陸軍大臣官房副長・陸軍大臣秘書官・歩兵大佐・陸軍士官学校長・第一師団参謀長・参謀本部第一局長・大本営運輸通信部長官・少将・参謀本部第一局長事務取扱・男爵・功三級・欧州出張・歩兵第三旅団長・教育総監・中将・参謀本部次長・兼陸軍大学校校長事務取扱・陸軍大臣・大将・子爵・功一級・陸軍大臣兼韓国統監・伯爵・兼朝鮮総督・元帥・内閣総理大臣・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功一級・ロシア帝国聖アレクサンドル・ネフスキー勲章等)が反対した。

 満州軍総司令部と、陸軍省・参謀本部の対立は、対ロシア戦の主導権争いに発展し、大問題となった。山縣元帥も、児玉大将の企てを非難するようになった。児玉大将は将官以下の人事権の掌握まで主張したのだ。

 思い余った山縣元帥は、とうとう桂太郎首相に、児玉大将を説得するように言った。桂首相自身も、山縣元帥や寺内中将の中央主導に同調していた。

 桂首相は児玉大将と会見し、「満州軍総司令官は天皇に直隷し特に指定せられたる数軍を統括し作戦の指揮に任ず」という満州軍総司令部勤務令第一項を示した。また、指揮下には、第一軍、第二軍、第三軍、独立第一〇師団が入ることを明示した。

 第三軍が行う最重要作戦である旅順攻撃も、満州軍総司令部にその作戦・指揮を満州軍総司令部に任すというのである。

 以上が、桂首相が出した妥協案だった。さすがに頑固な児玉大将も、陸軍大総督府構想を引き下げた。

 日露戦争は、旅順要塞攻撃、黄海海戦、遼陽会戦、奉天会戦など、日本軍は連戦連勝であった。さらに明治三十八年五月二十七日の日本海海戦では日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を全滅させた。

 これにより、さすがにロシア国内では国民に動揺が見られ、ヨーロッパ諸国でもロシアは講和すべきだという論調が見られ始めた。日本の桂首相も、適当な時期が来れば、講和に応じても良いと考えていた。

 明治三十八年八月十日、日露両国は、アメリカ大統領ルーズベルトの斡旋によって、アメリカのポーツマスで講和会議を開始した。

 講和会議は、八月二十六日妥結し、九月四日、日本全権・小村壽太郎とロシア全権・セルゲイ・Y・ウィッテの間で調印された。ポーツマス条約である。

 だが、この条約で、日本が賠償金を放棄したことから、日本国内では不満の国民が多く、特に、九月五日には、東京で小村外交を弾劾する国民集会が開かれ、警官と衝突、数万の群衆が首相官邸や政府高官の邸宅、国民新聞社などに押しかけ、交番や電車を焼き討ちする暴動が起きた。

 桂首相は、戒厳令をしき軍隊を出動させた。だが、その後も国民の不満は治まることなく、桂首相は、今後の政権運営は困難と見て、勇退を決意した。

 明治三十九年一月七日、第一次桂内閣は退陣し、第一次西園寺公望内閣が発足した。西園寺首相は、前内閣の方針を受け継いで、特に桂太郎前首相の意見をよく参考にして諸政策を行なった。

 だが、西園寺内閣は、閣僚の辞任が続くなど閣内の不統一、諸問題の不解決、山縣有朋元帥の不支持、桂太郎大将の内閣への不信などにより、困難を極めた。やがて波乱の内閣は幕を閉じることになる。

 明治四十一年一月十五日に桂太郎大将が山縣有朋元帥に宛てて出した書簡には、西園寺内閣について次のように記している。

 「財政ト云ヒ、外交ト内務ト云ヒ、一ツトシテ内閣全体ノ統一トテハ見ルモノ之ナク、此儘押シ移リ候トキハ、国家丸ハ何レ港ニ到着仕ルベキカ、其以テ掛念ノ至ニ御座候、……」。

 この文言は、桂大将の西園寺内閣に対する評価を端的に表現しており、西園寺内閣成立時の親近感は失せて、不信の念を表白させている。

 当時の思想・歴史・評論家である徳富蘇峰は、「(西園寺首相は)仏(桂太郎大将)を頼んで地獄(総辞職)に落ちた」と皮肉っており、「西園寺首相の、桂大将への大きな依存が、かえって政権を崩壊させたのである」と評している。







618.桂太郎陸軍大将(38)晴れの施政方針演説も、桂首相は上出来とは言えなかった

2018年01月26日 | 桂太郎陸軍大将
 当時政友会に次ぐ大政党は、憲政本党だった。だが、この党は、党首・大隈重信の蹉跌(さてつ=つまずく、挫折)以来、不振の状態だった。方針の一貫性もなく、政府に対する態度も曖昧で、中には政府に近づいて党勢挽回を図る者もいた。

 その他の政党では、三四倶楽部は、増税案など財政問題以外では、憲政本党と歩調を合わせていた。帝国党は純然たる政府与党だったが、少数だった。

 当時衆議院の勢力分布は、政友会一五八、憲政本党七二、三四倶楽部三〇、帝国党一三、無所属二七だった。

 貴族院は依然として、院内六派連合の形が続いており、外見上は政府に対して独立の立場を貫いていたが、その議員の多数は桂太郎首相と親交があり、その主義においても、政党内閣や政党主義には反対だった。

 だから、桂首相としては、貴族院に頼る傾向が多かった。桂首相はできるだけ貴族院に接近して、その協力を求める態度を努めてとっていた。

 明治三十四年十二月十日、第十六議会の開院式が挙行され、十二日には三十五年度予算案が衆議院に提出された。

 この日、桂太郎首相は、施政方針演説を行ったが、これは桂が内閣総理大臣として議政壇上に立った最初だった。

 桂首相は元々軍人である。演説はあまり上手ではなかった。壇上に立ったのは、初めてではなく、陸軍次官として、あるいは陸軍大臣として法律案の弁明のため度々登壇しているが、演説は得意ではなかった。

 十二月十二日の、首相としての晴れの施政方針演説も、桂首相は上出来とは言えなかった。傍聴人などにとっても、期待に反したものだった。

 だが、桂内閣の第一歩の大仕事であった、明治三十五年度予算も、大体において政府の希望通り、通過した。

 これは、政友会内部に硬軟二つの派閥の対立があったことと、井上馨などの斡旋があったんこと、また、衆議院では憲政本党、貴族院では大多数が政府案に賛成したこともあり、結局政友会と妥協が成立したのだ。

 当時桂内閣として、当面した内外の政治問題としては、予算案通過の時、政友会との妥協の条件である行政財政の整理の問題があった。

 また、極東の形勢は日に日に重大となり、日英同盟の結果、日本海軍を拡張せざるを得ない事情があった。ロシアも満州経営の野望と、さらには、韓国の北方を占拠する情勢もうかがえた。

 明治三十六年五月の第十八議会で、政府は海軍拡張案と地租継続案その他を提出した。だが委員会はこれを否決した。

 桂首相は、妥協案を出した。地租案は撤回し、別に行政整理、事業繰延、公債募集によって財源を求め、海軍拡張を行うというものだった。

 政友会は一部反対もあったが、結局この妥協案を認めたので、議会で決定された。憲政本党は、政府と政友会の妥協を知って、憤慨し、政府弾劾の上奏案を提出したが否決された。

 桂内閣は、国内問題はかろうじて乗り切ったが、外交問題は安心できる情勢ではなかった。満州問題である。

 日英同盟のおかげで、ロシアは満州還付条約に調印し、決着した観があったが、それは表面上のことだった。ロシアは遼東撤兵を約束して、その準備に取り掛かっていたのだが、それを中止していた。

 それどころか、北韓への野心が増々露骨になり、当時満期失効となっていた森林伐採契約を提出して、明治三十六年四月、鴨緑江の下流である龍巖浦(りゅうがんぽ)を占領、軍事施設を建設し、旅順の総督府と連絡を取り、極東進出の様相を見せた。

 桂首相は、小村壽太郎外相と相談し、「日本はロシアの満州における条約上の権利を認める代わりに、ロシアは韓国における日本の権利を認める」という根本方針で対露交渉に当たることに決した。

 四月二十一日、桂首相と小村外相は、伊藤博文、山縣有朋の両元老と会合し、強力な内閣をつくり、挙国体制をもって当たらなければ、対露交渉は容易ではないことを訴えた。

 その結果、伊藤博文が枢密院議長、山縣有朋と松方正義は枢密顧問官になることによって、さらに台湾総督・児玉源太郎中将に内相を兼務させる等の内閣改造で、体制は強化された。

 だが、明治三十七年二月六日、対露交渉は決裂して、国交が断絶、日露戦争となった。国民の注意は一斉に戦争に向けられることになった。議会でも各党、各派はいずれも挙国一致を叫び始めた。

 明治三十七年二月八日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対して、日本海軍は駆逐艦の奇襲攻撃を行なった。日露戦争の始まりである。








617.桂太郎陸軍大将(37)政友会としては、感情的にも桂内閣に反感を持っていた

2018年01月19日 | 桂太郎陸軍大将
 五月二十八日、桂大将は参内して、伊藤博文に留任の大命を下されるよう請うた。

 五月二十九日、伊藤博文と桂大将は、ともに明治天皇に拝謁して、伊藤自身から留任の意思のないことが上奏された。桂大将は、もう辞退することはできなかった。伊藤が辞表を提出してから二十七日目であった。桂大将は五十五歳だった。

 五月三十日、桂大将は組閣に着手した。組閣は、諸元老から側面の援助があり、三日間で選考が終わった。

 明治三十四年六月二日親任式が挙行せられた。実現した内閣の顔ぶれは、山縣有朋元帥系の官僚かそれに近いものが多かった。留任は、海軍大臣・山本権兵衛海軍中将、陸軍大臣・児玉源太郎陸軍中将だった。

 だが、外務大臣には、陸奥宗光亡き後の、外務省のエース、駐清公使・小村壽太郎(こむら・じゅたろう・宮崎・大学南校<東京大学の前身>・第一回文部省海外留学生・ハーバード大学・司法省・大審院判事・外務省・清国代理公使・駐韓弁理公使・外務次官・駐米公使・駐露公使・外務大臣・男爵・ポーツマス条約調印・伯爵・外務大臣・日米通商航海条約調印・韓国併合・侯爵・従二位・勲一等旭日桐花大綬章・英国ロイヤル・ヴィクトリア勲章ナイト・グランド・クロス等)が任命されたことは、桂内閣に安定感を与えた。

 明治以来の各内閣を見れば、元老とか老政治家の入閣が多かったが、桂内閣では、それらは一切除かれていた。

 それで、世間では、どことなく軽量の内閣という印象を与えた。ひどいのになると、「第二流内閣」、「三日天下」、「緞帳内閣」、「小山縣内閣」などと呼んで、冷評する評論家もいた。

 政党側の反応としては、政友会以外は、桂内閣に対して特に甚だしい反感を持つ者はいなかった。お手並み拝見という態度だった。

 非政党派の中には、桂首相がいちはやく、「立憲君主主義でいく」と声明したことに、好感と同情を以て迎えた者もあった。

 桂内閣の大きな政治問題は二つあった。一つは、前内閣が崩壊の原因であった財政問題である。もう一つは、北清事変にともなって起こっていた支那問題であった。

 ともに重大で困難な問題だった。これらの解決の重責を担っていたのが、桂内閣だった。桂太郎首相としては生涯を通じて、最も大きな第一試練に立った。

 明治三十四年十二月、第十六帝国議会が開会されることになっていた。桂内閣としては、まず、政友会対策に頭を悩ました。

 伊藤内閣は快く退陣したのではなかった。財政問題の行き詰まりで、進退きわまって、心ならずも辞したのだ。そのあとを継いだのが、桂内閣である。政友会としては、感情的にも桂内閣に反感を持っていた。

 当時、伊藤博文は外遊中だった。伊藤は、桂内閣が成立した時、また、今回外遊に出る時も、政友会の党員に「決して派閥や感情をもって政府に反対するようなことがあってはならぬ」と言っている。

 だが、政友会は、主義の上から、桂内閣とは相容れないものがあった。政友会は政党主義をとっているから、当然の理論から政党内閣を要求する。

 ところが、桂内閣は超然主義の内閣である。超然内閣は、議会の支持なしに組閣される内閣で、政府が政党の意向にとらわれずに、”超然“として公正な政治を行うべきであるという主義の内閣。

 大日本帝国憲法は、一八八九年二月十一日、明治天皇により公布され、一八九〇年十一月二十九日に施行された欽定憲法だ。

 超然内閣は、この大日本帝国憲法公布の翌日、鹿鳴館で、当時の黒田清隆(くろだ・きよたか)首相(鹿児島・薩摩藩士・薩英戦争・戊辰戦争・五稜郭の戦い・維新後開拓次官・欧米旅行・開拓使長官・陸軍中将・参議兼開拓長官・全権弁理大使・日朝修好条規締結・西南戦争・征討参軍・開拓長官・農商務大臣・内閣総理大臣・枢密顧問官・逓信大臣・枢密院議長・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・オスマン帝国美治慈恵第一等勲章等)が、前述の超然主義としての内閣を演説したことから、こう呼ぶようになった。

 この超然主義である桂内閣は、政党内閣を受け容れることはできなかったし、桂内閣の閣員の中には、前内閣の時、貴族院にいて財政問題等で散々伊藤内閣をいじめつけた者が多かった。

 だから政友会としては、面白くなかった。政友会の内部は、統一されたものではなかった。伊藤博文は模範的政党ということを説いていたが、実際はそうはいかなかった。

 伊東の片腕となってその政治的才腕を発揮していた星亨が暗殺された後、政友会内部では、派閥の争いが顕著になってきたのだ。

 星亨は、とかく批判の多かった政治家だったが、その政治力は抜群で、政友党党内の各派をよく統一して、兎に角一大政党としての態を保たしめていた。また、山縣内閣の時も星は政府と政党の間に立ち、提携させていた。

 桂太郎内閣では、その星亨は、もういなかったし、伊藤博文も外遊中であり、政府と政友会が、議会で激突することは事前から想像に難くなかった。






616.桂太郎陸軍大将(36)この困難な政局に井上が首相になっても成功はおぼつかない

2018年01月12日 | 桂太郎陸軍大将
 さらに、伊藤博文首相は、政友会を背景に国政を行なってきたが、渡辺蔵相事件や星事件で、社会の批判が厳しく、政友会と貴族院の反目も強まって来ていた。

 そのような政局で、桂大将に期待するところがあった伊藤首相は、その日、自分の苦しい立場を語った。だが、その政局を以前から予測していた桂大将は、深く立ち入らず、葉山に帰って来た。

 明治三十四年五月二日、第四次伊藤内閣は、崩壊した。財政方針をめぐる内閣府統一の理由で、伊藤首相が辞表を提出、他の閣僚もこれにならったのだ。

 伊藤首相が辞職した日に、枢密院議長・西園寺公望が総理大臣代理を命じられ、五月十日、臨時総理大臣に任命せられた。

 西園寺公望(さいおんじ・きんもち)は、京都出身。学習院で学び、祐宮(後の明治天皇)の近習になる。慶応三年<十九歳>岩倉具視の推挙で参与に就任。戊辰戦争では山陰道鎮撫総督、会津征討越後口大参謀として各地を転戦。

 明治元年<二十歳>維新後新潟府知事。開成学校でフランス語を勉強。明治三年<二十二歳>官費でフランス留学、ソルボンヌ大学で学ぶ。明治十三年<三十二歳>帰国後、東洋自由新聞社長。明治十四年<三十三歳>参事院議官補。伊藤博文憲法調査欧州歴訪随員。

 明治十八年<三十七歳>駐ウィーン・オーストリア=ハンガリー帝国公使。明治二十一年<四十歳>駐ベルリン・ドイツ帝国公使兼ベルギー公使。明治二十四年<四十三歳>賞勲局総裁。貴族院副議長、法典調査会副総裁。

 明治二十七年<四十六歳>文部大臣。明治二十九年<四十八歳>外務大臣。フランス留学。明治三十一年<五十歳>文部大臣。明治三十三年<五十二歳>臨時総理大臣、枢密院議長、政友会総裁。

 明治三十九年<五十八歳>第一次西園寺内閣。明治四十三年<六十二歳>第二次西園寺内閣。大正五年<六十七歳>元老。大正七年<六十九歳>第一次世界大戦講和会議首席全権。大正九年<七十一歳>公爵。大正十三年<七十五歳>から最後の元老として首相選定等政界に大きな影響を与え続けた。昭和十五年死去<九十歳>、国葬。従一位、公爵、大勲位菊花章頸飾。フランスレジオンドヌール勲章グランクロワ、ロシア聖アレクサンドル・ネフスキー勲章大綬章等。

 後継内閣について、山縣有朋元帥と西園寺公望臨時総理は召されて善後策を命ぜられた。元老会議は、井上馨を後任に押すことになった。

 井上馨から会見の申し込みがあり、桂太郎大将は、鳥居坂の井上邸を訪問した。すると井上は「自分は総理の器ではないから、君に後を引き受けてもらいたい」と言った。

 桂大将は「そのようなことは断じてできない。今自分は首相になるつもりはないが、井上さんも、この際、断った方がよいでしょう」と答えた。

 長州の先輩である井上のことをよく承知していた、桂大将は、この困難な政局に井上が首相になっても成功はおぼつかないと思っていた。

 五月十五日、井上馨に大命が降下した。井上は組閣に取り掛かり、数日間奔走したが、失敗した。元老も誰一人井上の組閣を助けてくれなかった。

 五月二十二日、遂に井上は組閣を断念し、元老会議に報告し、大命を拝辞した。

 これを聞いた元老・山縣有朋元帥は、臨時首相・西園寺公望を訪れ、次の様に言った。

 「井上これを辞したる以上は、已むを得ず、然らば先ず松方(正義)に諮り桂にも内談して其任に当たらしむることを勧誘すべし、閣下は病気ゆえ如何ともすること能わず」。

 山縣元帥は、ここでいち早く桂太郎大将の名を挙げ、伊藤系官僚として有力候補になり得る西園寺公望に対して、病身を理由に引導を渡したのだ。

 五月二十三日、山縣元帥は、元老・伊藤博文に手紙を送って、桂太郎大将推薦のための布告を着々と打った。伊藤からの返書は、首相候補の選任は山縣元帥に任せるとの趣旨だった。

 元老会議は、桂太郎陸軍大将を後継首相に推薦することに決定した。

 五月二十三日夜、松方正義が桂大将を訪れ、元老会議の結果を語り、桂大将の奮起を説いた。ところが、桂大将は、「その器ではない。病気も回復していないので、近く外遊して、他日、国家の為に大いに奉公したい」と推薦を断念せられるよう答えた。

 翌日、今度は井上馨が桂大将を訪ねて、説得を行った。「国家の急を思えば一個の対面など考えてはおられず、重ねて相談に来た。まげて首相の大任に就いてもらいたい」と談じ込んだ。さすがに桂大将も井上の心情に同情した。

 五月二十六日、明治天皇から、桂太郎大将に内閣組閣の大命が下った。桂大将はしばらくの猶予を請うて、大磯の伊藤博文を訪ねた。

 桂大将としては、伊藤の進退如何が、総理大臣として任務を行う上に重大な影響があることを看取していた。伊藤は政友会の総裁である。政友会の去就は政局を左右する力を持っている。

 桂大将は、伊藤に総理留任をすすめた。だが、伊藤はその意思のないことを告げ、桂大将こそ、総理を引き受けるべきであると言った。






615.桂太郎陸軍大将(35)そのサーベルさえなければ、立派な政治家だが…

2018年01月05日 | 桂太郎陸軍大将
 だが、その後、政府に対する憲政党の官吏登用の要求問題が顕著になり、政府部内の憲政党を快く思わない連中が、旧官僚や実業家を集め、国民協会を解体して、新たに帝国党という新党を結成して、憲政党に対抗しようとする動きが出てきた。

 このことが、政府と憲政党の間の感情を損ない、両者の提携も、断絶するに至った。だが、この断絶は、政府よりも憲政党に打撃を与えた。

 というのは、政府はこれまで、すでに、憲政党を十分利用するだけ利用して、なすべき事業を成し遂げていた。これに対し、憲政党は政府に致命的な打撃を与える問題は持ち合わせていなかったのである。

 明治三十三年五月、山縣有朋首相は、勇退の決心をしていた。憲政党と山縣内閣の提携が破れてから、その意を強くしていた。そして、密かに後任首相に桂太郎陸相を考えていた。

 山縣首相は、諸元老に勇退の意を伝えたが、どの元老も後継首相になる者はいなかった。そこで、桂太郎陸相を推したら、諸元老も承諾した。

 六月初旬、山縣首相は、桂陸相を官邸に招いて、内閣を引き受けるようにと、その意向を質した。諸元老の承諾も伝えたが、桂陸相は固辞した。山縣首相の留任を希望したのだ。

 この様な成り行きから、山縣首相の辞職も決せず、後任首相も確定していないところへ、一大事が発生した。

 北清事変である。内閣更迭問題は吹っ飛んでしまった。北進事変は「義和団の乱」とも呼ばれる。中国の清王朝で、義和団(秘密結社)が排外運動をおこし、西太后がこれを支持した。

 明治三十三年六月二十一日、清国は欧米列国に宣戦布告したので、国家間の戦争に拡大してしまった。日本を含む欧米八か国は、八か国同盟を結成し、義和団に対抗した。

 八か国同盟軍は、二ケ月もたたないうちに、首都北京及び紫禁城を制圧した。清王朝は莫大な賠償金の支払いを余儀なくされた。

 北進事変後、桂陸相は病気になり、九月十五日から葉山で静養することになったが、九月二十一日、遂に辞表を提出した。だが、辞表は受理されなかった。

 明治三十三年九月二十六日、山縣首相は辞表を提出した。ついで大命は政友会党首の伊藤博文に降った。

 十月十九日、政友会を主力とする新内閣が発足した。第四次伊藤内閣である。桂陸相は留任であった。

 だが、葉山から帰京したものの、桂陸相は十二月十四日、再び辞表を提出した。自ら参内して、内大臣・徳大寺実則に会い、辞表の執奏方を請うなど、真剣だった。徳大寺も了解し、奏聞し、ただちに聴許された。

 伊藤博文首相も今度は、桂陸相の辞職を了承した。伊藤首相が後任問題を相談してきたので、桂陸相は、台湾総督・児玉源太郎中将を推薦した。

 十二月二十三日、桂陸相は辞任し、児玉源太郎大将が陸軍大臣兼台湾総督に就任した。

 伊藤首相が、桂太郎大将に向かって、「そのサーベルさえなければ、立派な政治家だが……」と言ったと、後々まで語り伝えられている。

 桂太郎大将が、これほど陸軍大臣の辞職を望んだのは、病気のせいもあったが、それ以外に次の三つの理由が考えられる。

 一、 伊藤首相の下で陸軍大臣になれば、伊藤首相の後継者となることになり、それを嫌った。二、伊藤内閣の前途に不安を感じていた。三、山縣有朋元帥に対する義理立て。

 桂太郎大将は、辞職が実現したので、再び葉山で静養することになった。以後七か月間、ほとんど、世事から離れて、静養につとめた。この頃、桂大将は次のような歌を詠んでいる。

 「伊豆の山相模の海を我家のにはの景色と見るぞ楽しき」。

 明治三十四年四月一日、桂大将は七カ月ぶりに東京へ行って、伊藤博文首相に面会した。以前伊藤に相談していた欧州への外遊の助力を請うためだった。

 だが、当時、政局は紛糾、伊藤首相は一大難関に直面していた。第十五議会で、北清事変に関わる軍事費補填のための増税案が、貴族院の反対で苦闘していた。






614.桂太郎陸軍大将(34)桂陸相を甘く見ている者や「軍人に過ぎない桂如きが」という考えの者もいた

2017年12月29日 | 桂太郎陸軍大将
 桂太郎陸相の議会対策、特に憲政党対策は、機会をよくつかんで、着々と進められた。十一月中旬の陸軍特別大演習にも、憲政党党首・板垣退助や領袖たち、貴族院、衆議院の多数の議員が大演習の拝観が許され、大阪に向かい見学した。

 十一月十六日、政府側から山縣首相、西郷海相、桂陸相、憲政党側から、板垣退助、星亨、片岡健吉が参加して会談を行った。世にいう大阪会議である。

 十一月二十九日、憲政党は、「現内閣と志を同じくする」と宣言し、三十日には、山縣首相が「県政党とその所見を同うするを知り、相助けて進む」と話し、政府と憲政党の提携が公然となった。

 山縣内閣の政策問題で、最大使命と考えられていたのは、軍備の拡充と財政整備だった。この両者の前提となるものは、懸案の地租増徴案だった。

 憲政本党は、政府反対の急先鋒だった。さらに農民党や地方の射諸団体もこれに加わって、反政府の気勢をあげていた。

 明治三十一年十二月十五日、両院議員の一部や院外者などで結成された地租増徴反対同盟会の大懇親会が開催された。

 憲政本党党首・大隈重信、貴族院議員・谷干城中将(予備役)、三浦梧楼中将(予備役)なども参列して、盛会だったのだが、乱酔のあまり暴行者なども現れて、遂に解散を命ぜられるような始末に終わった。

 ところが、憲政党内にも地租増徴案反対の声が起こって来た。彼らは、「政府と提携というが、地租増徴案はその妥協問題の範囲外である」と主張し、同案の提出に反対した。

 これに対し、政府は「地租増徴案も妥協の範囲内である」として断固として応じなかった。結局、税率引下げ、増租年限を付する等の妥協案で治まった。

 このようにして、明治三十二年度予算案もかろうじて通過、不十分だったが増租の目的も達して、軍備拡張費も三十二年度からは経常歳入によることができた。

 だが、憲政党の態度はいつも政府に協調的でのみあったわけではなかったのである。

 明治三十三年度の予算審議では、憲政党議員が多数を占めている予算員会において、陸軍費の糧食費から三十万円を削減するという事態になった。

 これは、これまで、憲政党が二度の議会審議において、政府に協力して重要法案のほとんどを成立させたにもかかわらず、山縣内閣の姿勢は、憲政党の期待を裏切ることが多く、しかも提携を疎んじる態度が見えてきた。

 具体的には、協力の見返りとして報酬も充分でなく、憲政党員幹部の入閣交渉も退けられ、一般党員の官吏登用も不十分で不満が蓄積していたのだ。

 このことから、憲政党は、山縣政府との仲介役であった桂陸相の所管である、陸軍予算案削減という嫌がらせを行なったのだ。

 桂太郎陸相にとっては、直接の所轄事項なので、削減は深刻であり、頭を悩ました。憲政党の中には、桂陸相を甘く見ている者や「軍人に過ぎない桂如きが」という考えの者もいた。

 それを感じ取っていた桂陸相は、策を練り、憲政党本部を訪ねた。桂陸相は、憲政党に、いつもの穏やかな手法で、了解を願ったり、詳しい説明をしたりして、削減の撤回・原案の復活を求めた。だが、憲政党は、動きを見せなかった。

 すると、遂に、桂陸相は、態度を一変させ、巌とした強い口調で次のように言って、憲政党本部を立ち去った。

 「諸君が自分の提出した予算を削除するなら、削除せよ。三七〇〇万円の予算の中のわずか三〇万円を削除するというには、何か他に理由があろう」

 「自分は十分説明をしたのに、それでも頑として聞き入れないというのは、自分に対する不信任の決議も同様である。もしそうなら、自分は、以後憲政党との関係は断絶したと宣言するほかはない」。

 この桂陸相の強い態度に、憲政党もいささかたじろいだ。最終的に衆議院予算委員会は原案を復活した。続いて本会議でも、同じく決定された。


613.桂太郎陸軍大将(33)憲政党は、星は勿論、そのほかに四人の入閣を要求してきた

2017年12月22日 | 桂太郎陸軍大将
 大隈重信首相は、旧自由党派と手を切って、旧進歩党派だけで内閣を作ろうと考えていた。

 だが、桂太郎陸相は旧進歩党派だけで、勢力を拡大したら、時局は益々紛糾するであろうと考え、板垣退助内相の辞表は思い止まらせなければならぬと思った。

 それで、桂陸相は十月二十九日、参内して、板垣内相の辞表を聴許せられないように奏上したのだ。この奏上は聞こし召された。

 旧自由党派も黙っていなかった。旧進歩党派と別れて、内閣を倒す方針に移り、憲政党解党を提案した。十月二十九日臨時大会で、憲政党は解散された。その後、旧自由党派のみによる新しい憲政党が発足した。

 これを知った大隈首相率いる進歩派は、憲政党の名称が使用できなくなったので、十一月三日、憲政本党を発足させた。

 明治三十一年十一月八日、局面は行き詰まり、両党派は内部分裂したので、明治天皇の信任を得られず、大隈首相も遂に辞表を捧呈し、憲政党の隈板内閣は総辞職した。

 だが、桂太郎陸相と西郷従道海相は、勅命によって入閣したという経緯から、辞任する必要はないとの下命があった。

 崩壊した隈板内閣の後、山縣系官僚や関係者は、山縣有朋元帥の出馬を要請し、桂太郎大将も、第二次山縣内閣成立に向けて、力を尽くした。

 最初に、元老・井上馨を訪ねた、桂大将は、京都滞在中の山縣元帥の帰京の同意を得て、明治天皇に山縣元帥の召命を上奏した。

 十一月一日、山縣元帥が帰京すると、桂大将は、新橋駅に出迎えて、山縣元帥と共に官邸に入り、山縣元帥に桂大将が考えている政党対策を説いた。

 それは、対立する二政党の中央突貫策をとり、具体的には「自由派の憲政党を引きつけ、地租増徴を含む戦後経営政策の実現を果たす」というものだった。

 十一月二日、元老会議が開かれ、桂大将もこの席に同席した。十一月五日、山縣有朋元帥に組閣の大命が下った。第二次山縣内閣である。

 山縣内閣の苦心した問題は、衆議院対策だった。国民協会以外に与党を持っていない。最善を尽くして政党と温和を図ろうとした。

 内閣の成立の前日、桂太郎陸相は、山縣有朋首相に相談して、憲政党の星亨(ほし・とおる・東京・ヘボン塾(現明治学院大学)・維新後二等訳官・大蔵省租税権助・横浜税関長<二十四歳>・「女王事件」で辞任・英国留学・日本人初の法廷弁護士資格を取得・帰国後司法省付属代言人=弁護士<二十八歳>・自由党入党<三十二歳>・投獄<三十四歳>・米国、カナダ、英国、ドイツに滞在・衆議院議員<四十二歳>・衆議院議長・逓信大臣<五十歳>・東京市会議長・刺殺<五十一歳>)を入閣させようとした。

 桂陸相は、憲政党党首・板垣退助を訪問して意向を聞いた。だが、憲政党は、星は勿論、そのほかに四人の入閣を要求してきた。

 桂陸相は、断然拒絶したが、憲政党と提携したいという意向を示すだけでも、将来、何かの役に立つと考えていたのだ。

 明治三十一年十一月八日、衆議院で議長選挙が行われた。桂陸相は、憲政党利用の着手として、議長を憲政党から出させるよう画策した。

 その結果、この議長選挙では、与党の国民協会は憲政党と協力し、進歩党から構成されていた憲政本党に対立する構図となった。

 議長選挙の結果、議長と副議長が次のように当選した。

 議長は、憲政党・片岡健吉(かたおか・けんきち・高知・京都奉行<二十三歳>・戊辰戦争・陸軍参謀中老職<二十四歳>・維新後ロンドン留学・海軍中佐<二十九歳>・立志社初代社長・入獄・高知県会初代議長<三十五歳>・国会期成同盟代表・入獄・衆議院議員<四十六歳>・衆議院議長<五十四歳>・日本基督教団高知教会長老・東京YMCA第四代理事長・同志社第五代社長・死去<五十九歳>・正四位・勲三等旭日中綬章)。

 副議長は、国民協会・元田肇(もとだ・はじめ・大分・東京帝国大学法科卒・弁護士・衆議院議員<三十二歳>・衆議院副議長<四十歳>・逓信大臣<五十五歳>・鉄道大臣・衆議院議長<七十歳>・枢密院顧問官・死去<八十歳>・正三位・勲一等旭日大綬章)。







612.桂太郎陸軍大将(32)桂陸相は、大隈首相の袖をつかんで、参内を制止した

2017年12月15日 | 桂太郎陸軍大将
 明治三十一年十月二十五日の閣議で、文部大臣の後任問題が論議された。旧進歩党派は、「自派の尾崎が辞めたのだから、後任は自派から出す」と主張した。

 これに対して、旧自由党派は、均勢論の立場から、自派より出したいと強調した。だが、板垣退助内相は、「自派には文部大臣の適任者がいないので、政党以外のから物色した方がよい」と主張した。

 そのあと続いて、板垣退助内相は、青木周蔵青木周蔵(あおき・しゅうぞう・山口・維新後長州藩留学生としてドイツ留学<二十四歳>・外務省入省・駐独公使<三十歳>・兼オランダ公使・条約改正取調御用係・駐独公使・兼駐オランダ公使・兼駐ノルウェー公使・外務大輔<四十二歳>・条約改正議会副委員長・外務次官・外務大臣<四十五歳>・駐独公使・兼駐英公使・外務大臣・枢密顧問官・子爵・駐米大使<六十一歳>・子爵・正二位・勲一等旭日大綬章・デンマーク王国デュダブネログ勲章グランクロワー・オスマン帝国美治慈恵第一等勲章等)を推薦した。

 すると大隈重信首相は、「青木は自由派の臭味がある。これはいけない」と言って青木周蔵の文部大臣就任に反対した。

 そのあと直ぐに、大隈重信首相は近衛篤麿(このえ・あつまろ・京都・公卿・<近衛文麿の父>大学予備門中退・公爵<二十一歳>・ドイツ留学・ボン大学・ライプツィヒ大学・貴族院議員<二十七歳>・貴族院議長<二十九歳~四十歳>・学習院院長<三十二歳>・枢密顧問官<四十歳>・死去<四十歳>・公爵・従一位・勲二等)が良いと言って推薦した。

 これに対して、板垣退助内相は、「近衛は進歩派に近い人物だから不可」と言って反対した。議論は正面衝突となった。

 この閣議は、激論の末、まとまらぬまま、翌日を期して散会となった。桂太郎陸相と西郷従道海相は、この閣議は、この閣議に遅れてきたので、この議論に参加しなかった。

 翌日の閣議が開催される前に、大隈首相は桂陸相を訪ねて、「文部大臣の後任については心配はいらぬ。すでに党派以外の者からとることに決心している」と語った。

 十月二十六日、閣議が再開された。今回は桂陸相も西郷海相も最初から列席した。だが、この会議では、大隈首相は、桂陸相に言った事を翻したので、両派の議論は沸騰した。

 桂陸相は、大隈首相は進歩党派の党首の立場から、党派内の要求を無視するわけにはいかないだろうと、大隈首相の立場を理解していた。

 しかし、遂に桂陸相は「いやしくも国務を双肩に担っている人物として、優柔不断は禁物である」と大隈首相に忠告した。大隈首相は、沈黙した。

 すると、板垣内相が、口を開いて「西郷海相の兼任にしたらどうか。それがいけなければ、桂陸相の兼任にしたらよかろう」と言った。だが、それは難しい事案だった。閣議は進まなかった。

 この時、大隈首相が、「それでは、自分は犬養毅(いぬかい・つよし・岡山・慶應義塾・郵便報知新聞社記者<二十五歳>・東海経済新報設立・統計院権少書記官・立憲改進党入党<二十七歳>・衆議院議員<三十五歳>・進歩党・憲政本党結成に参加・文部大臣<四十三歳>・孫文の辛亥革命援助・文部大臣兼逓信大臣・立憲政友会総裁・首相<七十七歳>・5.15事件で暗殺・正二位・勲一等旭日桐花大綬章)を推薦する」と言った。

 大隈首相は立ち上がって、参内しようとした。桂陸相は、大隈首相の袖をつかんで、参内を制止した。そして、次の様に言った。

 「文部大臣の後任として犬養毅を奉薦せられるというが、閣議にかけてからすべきではないか」。

 ところが、大隈首相は、桂陸相を振り切って、直ちに参内した。だが、大隈首相は、桂陸相の言があったからか、参内はしたが、犬養毅の奉薦はせず、内閣不一致の責任を述べ、進退についての指図を請うた。

 今は首相の進退を決すべき時期ではないので、お許しは出なかった。そこで、大隈首相は、犬養毅を文部大臣の後任に奉薦した。

 即日裁可があり、翌十月二十七日、犬養毅文部大臣の親任式が挙行された。

 大隈首相のとった行動に納得できなかった板垣退助内務大臣は、十月二十九日、参内して辞表を捧呈した。旧自由党派の次の二人の大臣も辞表を提出した。

 松田正久(まつだ・まさひさ)大蔵大臣(佐賀・陸軍省入省・フランス留学<二十七歳>・自由民権運動参加・長崎県会議員<三十四歳>・同議長・自由党・九州改進党入党・東洋自由新聞創刊・司法省検事<四十二歳>・鹿児島高等中学造士館教頭・衆議院議員<四十五歳>・立憲自由党・衆議院予算委員長・大蔵大臣<五十三歳>・文部大臣・衆議院議長<五十九歳>・法務大臣・大蔵大臣・法務大臣・男爵・死去<六十九歳>・勲一等旭日桐花大綬章)。

 林有造(はやし・ゆうぞう)逓信大臣(高知・戊辰戦争・維新後初代高知県令<二十九歳>・政府転覆を企て逮捕<三十五歳>・入獄・自由党土佐派の領袖・衆議院議員<四十八歳>・逓信大臣<五十六歳>・農商務大臣・予土水産(株)設立<七十二歳>・真珠養殖・死去<八十歳>・従二位・勲四等)。












611.桂太郎陸軍大将(31)このような大臣には信任がない。速やかに辞表を呈出させよ!

2017年12月08日 | 桂太郎陸軍大将
 十月には、陸軍二〇〇万円、海軍一五〇万円の減額案が示された。桂陸相と西郷海相は、これに猛然と反対し、結局、陸海両省の減額を一〇〇万円にとどめた。

 憲政党の隈板内閣は、旧進歩党派、旧自由党派の間で、閣僚数の不均衡や、各党員らの突き上げで、不協和音が高くなってきた。

 そんな時、文部大臣・尾崎行雄(おざき・ゆきお・神奈川・慶應義塾・工学寮・新潟新聞・報知新聞論説委員<二十四歳>・東京府会議員・衆議院議員<三十二歳・以後連続当選二十五回当選の世界記録>・進歩党・憲政党・文部大臣<四十歳>・東京市長・政友会・中正会・司法大臣・憲政会・無所属・太平洋戦争終戦後衆議院議員<八十八歳~九十四歳>・勲一等旭日大綬章)が、共和演説事件を起こし、十月二十四日、辞任した。

 尾崎文相は、帝国教育界で演説した時、その中で、帝国を共和国と仮定して、論を進めたが、論中に不謹慎な言葉があった。

 それが新聞に掲載されて問題になったのだが、尾崎文相のこの演説を躍起となって攻撃したのは、旧自由党派の新聞だった。旧進歩党派の新聞は批判を避けていた。

 「桂太郎(日本宰相列伝4)」(川原次吉郎・時事通信社・昭和34年)によると、桂太郎陸軍大臣は、この問題は、旧自由党派の旧進歩党派に対する復讐的攻撃であると見ていた。板垣退助内務大臣も、これを閣議に持ち込み、大いに論難したのだ。

 世論も大きくなり、内閣もどうなるかわからない形勢になって来たので、陸軍大臣・桂太郎大将は、このまま放置できないと考えて、大隈重信首相を訪ねて、次の様に忠告した。

 「尾崎文相の演説問題は、いまや宮中府中の間にも取り上げられている。わけても貴族院の如きは、これを政治問題にしようとしている情勢すらうかがわれる。尾崎の真意はよくわからないが、政治問題となり、やがて宮中にも累を及ぼすようなことになっては、弁解の余地もない」

 「首相から尾崎によく忠告し、すみやかに参内して謝罪させたほうがよい。事が長引いては、首相の責任に及ぶことにもなりかねない。一時逃れをしていても、やがて貴族院が、責任を問うことは明白であるから、それを未然に防ぐことが主唱としてこの際必要である」

 「尾崎が参内して謝罪すれば、この上とも追及されることもあるまい。そこまでいけば、世論が如何にやかましくなっても、また貴族院が如何に問責の論を強くしようとも、もう事はすでに終わったことになるから、心配はない」。

 大隈首相もこの桂陸相の意見をもっともと考え、尾崎文相にその旨を伝えた。九月六日、尾崎文相は参内して明治天皇に罪を謝した。

 その宮中からの帰途、尾崎文相は桂陸相をその官邸に訪ねた。そして、桂陸相が大隈首相を通して忠告してくれたことを謝し、あわせて宮中での明治天皇に対する陳述の模様を桂陸相に語った。

 それを聞き終えた桂陸相は、尾崎文相に向かって、次の様に答えた。

 「自分の忠告を聞き入れてくれたことは満足だが、今聞くところによれば、貴下の言は弁解に過ぎないような気がする。それはかえって無用のことではないか。しかし、もう過ぎたことなのでどうにもならない」。

 はたして、尾崎文相の参内、明治天皇への謝罪は効果がなく、共和演説問題は、世間の大問題となっていった。遂に宮中でもこれを不問に付すことが出来なくなり、十月二十日、大徳寺実則侍従長が板垣内相を訪問した。

 また、十月二十二日、岩倉具定(いわくら・ともさだ)侍従職幹事(京都・岩倉具視の次男・戊辰戦争・維新後米国留学・政府出仕・伊藤博文の憲法調査に随行して渡欧・公爵・貴族院議員・学習院院長・枢密顧問官・宮内大臣・公爵・従一位・旭日桐花大綬章・大勲位瑞星大綬章等)が大隈首相を訪問した。

 さらに十月二十三日には、明治天皇から大隈首相に対し、「このような大臣には信任がない。速やかに辞表を呈出させよ!」との沙汰があった。

 これにより、同日、尾崎文相は大隈首相に辞表を呈出、翌二十四日、大隈首相が参内、尾崎文相の辞表を執奏した。

 尾崎文相は、宮中での明治天皇へ謝罪の陳述を奏上したことについて、「桂陸軍大臣に、してやられてしまった」と、桂陸相に対して、恨みの感情を持った。

 謝罪の陳述に対して、明治天皇が不快感を抱いたので、尾崎内相は、むしろ、参内しなかった方がよかったと思った。以後、尾崎は桂に嫌悪の念を持ち、ことごとく対立の姿勢をとることになる。