明治四十一年七月十四日第一次西園寺内閣は総辞職し、第二次桂太郎内閣が成立した。桂太郎首相は大蔵大臣も兼務した。
桂首相が大蔵大臣を兼務したのは、桂首相が自ら戦後経営、特に財政管理には責任があると信じ、その責任を一身に負う覚悟からだった。
桂首相が当時、緊急と考えたことは、財政の緊縮だった。九月一日、勅令をもって大博覧会を延期した。また、十月七日、馬券発売を禁止した。
明治四十一年十二月二十二日、第二十五議会が開会された。桂首相は当時、純政党内閣主義には反対だった。不偏不党主義を掲げていたのだ。
だが、現実には、それを貫くには困難な情勢だった。政友会は衆議院の過半数を占めており、その後も入党者が増して、一大政党となっていた。政友会を無視しては、政策は一つも実現できないことは桂首相も分っていた。
一方、政友会は、桂内閣には批判的だった。桂首相の財政整理の方針については、政友会の幹部は大体認めてはいたが、党内の強硬反対論者の意見は抑え難かった。
この情勢を分析した桂首相は、その政友会の勢力を利用して、政局を有利に展開する方法しかなかった。そこで、対政友会工作に取り掛かった。
明治四十二年一月二十九日、桂首相は、政友会総裁・西園寺公望と会見した。この会見で、両者の意思はかなり疎通したと言われている。
以後政友会の態度も軟化し、衆議院で予算案は通過し、貴族院でも衆議院の議決をそのまま可決した。第二十五議会は大きな波乱もなく済んだ。
明治四十二年四月、朝鮮内で独立運動が活発になって来たのを憂慮した、桂太郎首相と小村壽太郎外相は、初代韓国統監・伊藤博文に「韓国併合以外に策はない」と相談した。伊藤博文は、これを了承した。
桂首相は七月の内閣会議で韓国併合の基本方針を決定、大綱を発表した。
その後枢密院議長に就任した伊藤博文は、十月二十六日、満州に行く途中、ハルピン駅で、安重根に狙撃され暗殺された。享年六十八歳だった。
明治四十三年八月二十九日、「韓国併合二関スル条約」に基づいて大日本帝国は大韓帝国を併合した。
明治四十四年一月十八日、大審院は、大逆事件の幸徳秋水ら二十四人が死刑判決(翌日十二人は無期懲役に減刑)を下した。
この日、事件発生の責任を負って、桂太郎首相は、平田東助内相、大浦兼武農相と共に、待罪書(処分を待つ辞表)を拝呈した。だが、明治天皇の慰留を受けて、職に留まった。
四月二十一日、桂太郎首相は、公爵を授けられた。
当時の桂園時代と呼ばれた政権の流れを見てみると、明治三十四年六月第一次桂内閣、明治三十九年一月、第一次西園寺内閣、明治四十一年七月第二次桂内閣、明治四十四年八月第二次西園寺内閣、大正二年二月第三次桂内閣。
桂園時代とは、官僚派と政友会の裏取引で政権交代がたらい回しに行われてきたことを、皮肉って名付けられた。
第三次桂内閣は、政友会の尾崎行雄により、内閣弾劾の決議案が提出され、賛成多数により内閣不信任案が可決された。大正二年二月二十日、山本権兵衛内閣に引き継ぎ、六十二日の短命内閣を終えた。当時桂太郎は山縣有朋とも疎遠になっており、その協力も得られなかったのだ。
退陣後、桂太郎は、病状が悪化したので、九月十二日三田の本邸に帰った。その後、病状はさらに悪化し、脳血栓も起こし、言葉が出なくなり、右半身はマヒしてしまった。
十月七日には大正天皇侍医頭・西郷吉義が往診に来て、桂太郎は感激した。十月八日、山縣有朋が見舞いに来たが、握手をしただけで、言葉も出なかった。
その翌日、大正二年十月十日、桂太郎は危篤状態に陥った。大正天皇は侍従・大炊御門家政(おおいのみかどけ・いえまさ)を訪問させ、桂に従一位を陞叙(しょうじょ=位階を授けること)し、菊花頸飾章を授与した。
その日の午後十一時三十三分、桂太郎は息を引き取った。享年六十七歳だった。桂太郎は相次いだ難しい政局に立ち向かい、その過労で心身ともに衰弱に至った。
だが、桂太郎は、その頭脳の明晰さと、幅広い人脈により、多大な政治的成果を上げてきた。内閣総理大臣の在職日数は二八八六日で、歴代一位である。
(今回で「桂太郎陸軍大将」は終わりです。次回からは「山本権兵衛海軍大将」が始まります)
桂首相が大蔵大臣を兼務したのは、桂首相が自ら戦後経営、特に財政管理には責任があると信じ、その責任を一身に負う覚悟からだった。
桂首相が当時、緊急と考えたことは、財政の緊縮だった。九月一日、勅令をもって大博覧会を延期した。また、十月七日、馬券発売を禁止した。
明治四十一年十二月二十二日、第二十五議会が開会された。桂首相は当時、純政党内閣主義には反対だった。不偏不党主義を掲げていたのだ。
だが、現実には、それを貫くには困難な情勢だった。政友会は衆議院の過半数を占めており、その後も入党者が増して、一大政党となっていた。政友会を無視しては、政策は一つも実現できないことは桂首相も分っていた。
一方、政友会は、桂内閣には批判的だった。桂首相の財政整理の方針については、政友会の幹部は大体認めてはいたが、党内の強硬反対論者の意見は抑え難かった。
この情勢を分析した桂首相は、その政友会の勢力を利用して、政局を有利に展開する方法しかなかった。そこで、対政友会工作に取り掛かった。
明治四十二年一月二十九日、桂首相は、政友会総裁・西園寺公望と会見した。この会見で、両者の意思はかなり疎通したと言われている。
以後政友会の態度も軟化し、衆議院で予算案は通過し、貴族院でも衆議院の議決をそのまま可決した。第二十五議会は大きな波乱もなく済んだ。
明治四十二年四月、朝鮮内で独立運動が活発になって来たのを憂慮した、桂太郎首相と小村壽太郎外相は、初代韓国統監・伊藤博文に「韓国併合以外に策はない」と相談した。伊藤博文は、これを了承した。
桂首相は七月の内閣会議で韓国併合の基本方針を決定、大綱を発表した。
その後枢密院議長に就任した伊藤博文は、十月二十六日、満州に行く途中、ハルピン駅で、安重根に狙撃され暗殺された。享年六十八歳だった。
明治四十三年八月二十九日、「韓国併合二関スル条約」に基づいて大日本帝国は大韓帝国を併合した。
明治四十四年一月十八日、大審院は、大逆事件の幸徳秋水ら二十四人が死刑判決(翌日十二人は無期懲役に減刑)を下した。
この日、事件発生の責任を負って、桂太郎首相は、平田東助内相、大浦兼武農相と共に、待罪書(処分を待つ辞表)を拝呈した。だが、明治天皇の慰留を受けて、職に留まった。
四月二十一日、桂太郎首相は、公爵を授けられた。
当時の桂園時代と呼ばれた政権の流れを見てみると、明治三十四年六月第一次桂内閣、明治三十九年一月、第一次西園寺内閣、明治四十一年七月第二次桂内閣、明治四十四年八月第二次西園寺内閣、大正二年二月第三次桂内閣。
桂園時代とは、官僚派と政友会の裏取引で政権交代がたらい回しに行われてきたことを、皮肉って名付けられた。
第三次桂内閣は、政友会の尾崎行雄により、内閣弾劾の決議案が提出され、賛成多数により内閣不信任案が可決された。大正二年二月二十日、山本権兵衛内閣に引き継ぎ、六十二日の短命内閣を終えた。当時桂太郎は山縣有朋とも疎遠になっており、その協力も得られなかったのだ。
退陣後、桂太郎は、病状が悪化したので、九月十二日三田の本邸に帰った。その後、病状はさらに悪化し、脳血栓も起こし、言葉が出なくなり、右半身はマヒしてしまった。
十月七日には大正天皇侍医頭・西郷吉義が往診に来て、桂太郎は感激した。十月八日、山縣有朋が見舞いに来たが、握手をしただけで、言葉も出なかった。
その翌日、大正二年十月十日、桂太郎は危篤状態に陥った。大正天皇は侍従・大炊御門家政(おおいのみかどけ・いえまさ)を訪問させ、桂に従一位を陞叙(しょうじょ=位階を授けること)し、菊花頸飾章を授与した。
その日の午後十一時三十三分、桂太郎は息を引き取った。享年六十七歳だった。桂太郎は相次いだ難しい政局に立ち向かい、その過労で心身ともに衰弱に至った。
だが、桂太郎は、その頭脳の明晰さと、幅広い人脈により、多大な政治的成果を上げてきた。内閣総理大臣の在職日数は二八八六日で、歴代一位である。
(今回で「桂太郎陸軍大将」は終わりです。次回からは「山本権兵衛海軍大将」が始まります)