陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

660.山本権兵衛海軍大将(40)元老・井上馨は、山本海軍大臣の行動を違勅であるとして騒ぎ出した

2018年11月16日 | 山本権兵衛海軍大将
 台湾総督・児玉源太郎陸軍中将は、辞職を思いとどまった三か月後の明治三十三年十二月二十三日、第四次伊藤博文内閣の陸軍大臣兼台湾総督となった。

 陸軍大臣・桂太郎大将は、領袖の首相・山縣有朋元帥、伊藤博文と政治上で対立していたため、第四次伊藤内閣への協力を拒んだのである。このため、伊藤首相は、山本権兵衛の海軍寄りになっていったと言われている。

 明治三十四年六月、桂太郎内閣(第一次)が発足した。山本権兵衛海軍大臣と児玉源太郎陸軍大臣(明治三十五年三月辞任)は留任した。

 明治三十七年一月十二日午後一時から、御前会議が宮中で開かれた。緊迫する日露関係の中、ロシアと交渉を断絶し、自衛のため開戦に至る、聖断を仰ぐものだった。

 桂太郎内閣総理大臣は、腹痛で病床についたため、山本権兵衛海軍大臣が桂内閣総理大臣に代わって、内閣を代表することになった。御前会議の列席者は、次の通り。

 内閣側から、山本権兵衛海軍大臣、小村寿太郎外務大臣、寺内正毅陸軍大臣、曾禰荒助大蔵大臣。

 元老側から、山縣有朋、松方正義、井上馨。

 軍事参画当局として、大山巌陸軍参謀総長、児玉源太郎陸軍参謀次長、伊東祐亨海軍軍令部長、伊集院五郎海軍軍令部次長。

 会議の劈頭、山本権兵衛海軍大臣は内閣を代表して一時間以上にわたる陳述を行った。日露協商談判開始以来の経過、ロシアと日本の提案内容の比較と、その間における折衝状況を詳述した。そして最後に次の様に述べた。

 「以上申し述べた次第につき、ここに日露交渉を断絶し、あわせてその外交関係を絶ち、同時に帝国の侵迫された地位を鞏固にし、これを防衛するため、ならびに帝国の既得権および正当利益を擁護するため最良と思惟する独立の行動を取ることをロシアに対して通告する件、およびこれに関連して要すべき件などについて、謹んで聖断を仰ぎ奉る」。

 次に、伊藤博文、山縣有朋、松方正義が発言、山本権兵衛海軍大臣の意見に賛同し、それぞれの立場から意見を述べた。

 以上のほかに発言する者はなく、明治天皇からいろいろ御下問があり、山本海軍大臣がそれぞれについてご説明申し上げた。

 最後に明治天皇から、「なお一度催促して見よ」との御言葉があり、山本海軍大臣が「このほどの交渉事項について、なお一度ロシアに対して回答を催促せよ」との聖旨であるかと、お聞きしたところ、御首肯になったので、山本海軍大臣は謹んで聖旨を奉ずるむねをお答え申し上げた。

 その後、今日の会議は、これで閉会してよいかどうか言上、「よろしい」との御言葉を得た山本海軍大臣は、起立して閉会を宣言した。

 ところが、明治天皇が御立ちになり、各員も、退下しようとした時、元老・井上馨が突如、明治天皇に近づき、「陛下、開戦……」と発言、なお、語を継いで、何事が奏上しようとした。

 山本海軍大臣が、井上に「会議はすでに閉会を告げたのである。本日は、これで退下されたい」と言ったので、井上も止むを得ず、一同と共に、そのまま退下した。

 控室に帰ってから、紛議があった。山本海軍大臣が勝手に閉会を宣したものと誤解した元老・井上馨は、山本海軍大臣の行動を違勅であるとして騒ぎ出した。

 後から控室に来た、山本海軍大臣が、陛下の御承諾をえて閉会を宣したことを説明すると、やがて、井上はおさまり、山本海軍大臣に陳謝した。

 その後、一月十三日、日本政府はロシア政府に向かって再考を求める申し入れを行ったが、一月三十一日になっても何の応答もなく、ロシアの軍事活動は活発になってきた。

 そこで、二月四日、再び御前会議が開かれ、ロシアとの交渉を打ち切り、自衛のため必要な措置を執ること、並びに外交関係を断絶することを決定した。

 宣戦の詔勅が二月十日に発せられ、日露戦争に突入した。激戦の末、日本はロシアを破り、大勝利した。

 日露戦争後の、明治三十九年一月、山本権兵衛大将(日露戦争中の明治三十七年六月に進級)は、信頼する海軍次官・斎藤実中将に譲る形で海軍大臣を辞任した。

 その後、山本権兵衛大将は軍事参議官、伯爵となり、海軍の重鎮として存在感を強めていった。同時に、伊藤博文の立憲政友会に好意的な立場を取り、護憲運動にも理解を示したことにより、総理大臣候補にも名が挙がるようになった。

 大正二年、元老・大山巌の支持で、二月二十日、山本権兵衛は内閣総理大臣に就任した(第一次山本内閣)。

 その十年後、加藤友三郎首相の急死に伴い、大正十二年九月二日、再び、山本権兵衛に組閣が命じられ、内閣総理大臣に就任した(第二次山本内閣)。

 総理大臣を辞してから、山本権兵衛は政界から離れ、静かに余生を送った。

 昭和八年三月三十日、登喜子夫人が七十四歳で死去したが、これは山本権兵衛にとっては大きな悲しみであり、心の支えを失った。

 この頃、山本権兵衛は前立腺肥大症を起こして発熱し、臥するに至った。その後、治療により回復したこともあったが、十二月八日午後十時五十二分、山本権兵衛は東京、高輪台の自宅で亡くなった。享年八十一歳だった。

 (今回で「山本権兵衛海軍大将」は終わりです。次回からは「梅津美治郎陸軍大将」が始まります)








659.山本権兵衛海軍大将(39)児玉中将は、「万事休す」とつぶやくと、腕を組み瞑目し、涙を落した

2018年11月09日 | 山本権兵衛海軍大将
 だが、山本海相は「允裁」と言われても屈せず、鷲のような眼で一同を睨み、憤然として、次の様に言った。

 「台湾からの出兵をそのままにしておけば、必ず国際問題を引き起こし、容易ならぬことになる。かかる命令はすみやかに取り消さねばなりません」

 「もし、我が軍艦が、厦門方面の海上で、武装兵を乗せた怪しい船に出会った場合、これを海賊船と見なして、撃沈するかもしれない。国際法では、海軍が海賊船を処分することを正当としておりますぞ」。

 山縣首相、桂陸相、大山参謀総長らは、山本海相の主張は間違いではないし、味方の船を沈める訳はないが、海軍が陸軍に非協力となる恐れが多分にあると見て、とりなしにかかった。

 それにもかかわらず、山本海相は承服せず、陸軍側は、遂に、ひとまず出兵を見合わせることに方針を変更した。

 桂陸相から出兵中止の電命を受けた台湾総督・児玉源太郎中将は、しばらく電文を凝視していた。その後、児玉中将は、「万事休す」とつぶやくと、腕を組み瞑目し、涙を落した。

 八月三十日、台湾総督・児玉中将は、土壇場で自分を裏切った山縣有朋首相あてに「病気重シ、本官ヲ免ゼラレタシ」と電報を打った。

 さすがに老獪な山縣首相も慌てた。黙していれば、台湾総督・児玉中将は辞めるに違いなく、辞めれば台湾経営は瓦壊する。

 山縣首相は、とりあえず遺留の返電を打ち、内務大臣・西郷従道元帥に頼み、台湾へ行って直接慰留してもらうことにした。

 だが、大貧乏徳利の内務大臣・西郷元帥をもってしても、台湾総督・児玉中将の意思をひるがえすことはできなかった。

 台湾総督・児玉中将は、孫文(辛亥革命・中国の政治家・革命家・初代中華民国臨時大統領・中国国民党総理・中国革命の父)らの革命運動を援助し、成功させ、日中両国の独立と生存を確保することに、一身を賭していたのである。

 日頃、台湾総督・児玉中将は、秘書官に「わしの親父は座敷牢で憤死したんじゃが、そういう場合がわしに無いとも限らぬ。注意していてくれ」と言っていたが、今がその状態に近かった。

 遂に、勅使・米田虎男(こめだ・とらお)男爵(熊本・熊本藩家老長岡是容の次男・戊辰戦争・熊本藩大参事・維新後宮内省侍従番長・陸軍中佐・主猟官・侍従長・男爵・宮中顧問官・主猟頭・明治天皇の側近・子爵・従二位・勲一等旭日大綬章・大清帝国勲二等第一双竜宝星等)が派遣された。

 明治三十三年九月二十日、台北の総督官舎で、台湾総督・児玉源太郎中将は、米田男爵から次の勅語を伝えられた。

 「惟フニ台湾ノ事業多々卿ノ経営ニ頼リ、漸次ソノ緒ニ就カントス 朕ハ卿ガ任地ニオイテ病ヲ勉メテ事ヲ見ンコトヲ望ム」。

 重病人のような台湾総督・児玉中将も、さすがに辞職を思いとどまらざるを得なかった。

 台湾総督・児玉中将の挫折に続き、山縣有朋内閣が九月二十六日に総辞職し、第四次伊藤博文内閣が十月十九日に発足すると、伊藤首相は、台湾総督・児玉中将に、孫文に対する支援と武器輸出を厳禁した。

 孫文らは天を仰ぎ、不運を嘆いたが、革命も挫折するほかはなかった。厦門出兵、孫文支援は、海軍大臣・山本権兵衛中将と伊藤博文首相の反対で、無に帰した。

 山本権兵衛中将と児玉源太郎中将は、ともに一八五二年生まれで、同い年である。誕生日は、山本権兵衛が十一月二十六日、児玉源太郎が四月十四日。

 第二次山縣有朋内閣の司法大臣だった清浦奎吾(きようら・けいご・熊本・埼玉県十四等出仕・司法省・検事・内務省小書記官・内務省警保局長・司法次官・司法大臣・貴族院勅選議員・枢密顧問官・枢密院副議長・内閣総理大臣・新聞協会会長・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・フランス共和国レジオンドヌール勲章グランクロア等)は、昭和九年六月、次のような逸話を語った。

 ある時、台湾総督・児玉源太郎陸軍中将が、樟脳の結晶をガラス箱に入れ、閣僚たちに分配した。

 数日後、清浦司法大臣が、内閣控室で、台湾総督・児玉源太郎陸軍中将と雑談をしていると、海軍大臣・山本権兵衛中将が現れて次の様に言った。

 「お~児玉、この間、台湾からのみやげ有難う。あれは匂いが大変いいが、雪隠にでも置くのかなあ」。

 無遠慮で、放っておけば喧嘩になりかねないと感じた、清浦司法大臣は、海軍大臣・山本権兵衛中将に次の様に言ってやった。

 「ああ、山本、君の家はよほど贅沢と見えるな。俺の家では座敷の床の間の飾りにしようと思っているよ」。

 当時(明治三十三年第二次山縣内閣時代)、海軍大臣・山本権兵衛中将は四十七歳、台湾総督・児玉源太郎陸軍中将は四十八歳、清浦奎吾司法大臣は五十歳だった。




658.山本権兵衛海軍大将(38)山本海相に「そう簡単にはいかない。これは允裁によるものですぞ」と反論した

2018年11月02日 | 山本権兵衛海軍大将
 広瀬勝比古(ひろせ・かつひこ)中佐(大分・広瀬武夫中佐の兄・海兵一〇期・十一番・防護巡洋艦「高砂」砲術長・呉鎮守府参謀・中佐・軍令部第一局局員兼西郷従道元帥副官・装甲巡洋艦「磐手」副長・一等戦艦「三笠」副長・海軍大学校教官・砲艦「大島」艦長・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・大佐・防護巡洋艦「浪速」艦長・海軍大学校選科学生・一等戦艦「富士」艦長・巡洋戦艦「筑波」艦長・少将)が、厦門に出張した。

 広瀬中佐は、山本海軍大臣の命を受けており、防護巡洋艦「和泉」、「高千穂」の艦長と打ち合わせを行うためだった。

 途中、広瀬中佐は台北の台湾総督府に寄り、台湾総督・児玉源太郎陸軍中将に、山本海軍大臣の内訓の内容を伝えた。

 これにより、陸軍大臣・桂太郎陸軍大将、陸軍参謀総長・大山巌元帥、台湾総督・児玉源太郎陸軍中将は、いずれも「海軍は厦門(アモイ)を占領する肝だ」と、この内訓を解釈した。

 台湾総督・児玉中将は、参謀次長・寺内正毅(てらうち・まさたけ)中将(山口・戊辰戦争・維新後陸軍少尉・フランス留学・大臣官房副長・大臣秘書官・歩兵大佐・陸軍士官学校長・第一師団参謀長・参謀本部第一局長・少将・男爵・功三級・欧州出張・第三旅団長・教育総監・中将・参謀本部次長・陸軍大臣・大将・子爵・功一級・兼朝鮮総督・伯爵・軍事参事官・元帥・内閣総理大臣・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功一級・イギリスバス勲章ナイト・グランド・クロス等)と電報のやり取りをして台湾軍の厦門出兵準備を進めた。

 台湾から厦門への出兵について、明治天皇の允裁(いんさい=許可)が八月二十二日に下り、陸軍大臣・桂大将は、翌二十三日、それを台湾総督・児玉陸軍中将に通報した。

 明治三十三年八月二十四日午前零時三十分ころ、厦門の東本願寺布教所が何者かに焼打ちされた。厦門港内の防護巡洋艦「和泉」、「高千穂」は、直ちに陸戦隊を上陸させた。

 同日、陸軍大臣・桂大将は、台湾総督・児玉中将に「巡洋艦『和泉』艦長ヨリ出兵ノ要求アリ次第、台湾軍ヨリ出兵スベシ」と電命を発した。

 翌二十五日、上野専一厦門領事から、台湾総督・児玉中将の許に、「当地本願寺ノ布教所、暴徒ノタメ放火セラレテ焼失、形勢不穏、ヨッテ『和泉』ノ陸戦隊上陸ス」という電文が届いた。

 台湾総督・児玉中将は、第一旅団の二個大隊を先陣として、厦門に派遣することを決定した。

 第一旅団長は、土屋光春(つちや・みつはる)少将(愛知・大阪陸軍兵学校・軍務局第一軍事課長・歩兵大佐・参謀本部第二局長・少将・歩兵第一七旅団長・台湾守備隊混成第一旅団長・近衛歩兵第一旅団長・中将・第一一師団長・第一四師団長・男爵・第四師団長・大将・男爵・従二位・勲一等旭日大綬章・功二級・ロシア帝国神聖スタニスラス星章第二等勲章)だった。

 八月二十七日、防護巡洋艦「高千穂」艦長から、台湾総督・児玉中将あてに「『和泉』『高千穂』の陸戦隊が上陸したが、在留邦人保護のために出兵を請う」という電報が届いた。

 翌八月二十八日、土屋少将を指揮官とする歩兵二個大隊が、輸送船二隻に分乗して、基隆(キールン)から厦門に向かった。

 台湾総監・児玉中将は、さらに翌日、増兵する予定にして、それを陸軍大臣・桂大将に電報した。

 厦門には、台湾総督府の後藤新平(ごとう・しんぺい)民生長官(岩手・福島洋学校・須賀川医学校・愛知県医学校長兼病院長・内務省衛生局・ドイツ留学・医学博士・内務省衛生局長・臨時陸軍検疫部事務官長・台湾総督府民生長官・南満州鉄道初代総裁・拓殖大学学長・逓信大臣・初代内閣鉄道院総裁・内務大臣・外務大臣・東京市長・内務大臣・東京放送局初代総裁・少年団日本連盟会長・貴族院勅選議員・伯爵・正二位・旭日桐花大綬章・大英帝国勲章一等)が先行していた。

 明治三十三年三月二十八日正午頃、後藤民生長官は、厦門の領事館で上野専一・厦門領事、豊島捨松・福州領事、防護巡洋艦「高千穂」艦長らと協議し、厦門占領の方針を申し合わせた。

 この日、東京では、山縣有朋首相、桂太郎陸相、山本権兵衛海相、青木周蔵外相、大山巌参謀総長が、外相官邸で会議を開いた。

 桂陸相が、厦門出兵までの経過を説明した。ところが、山本権兵衛海相が、強硬に反対し、その理由を次の様に主張した。

 「『和泉』『高千穂』への内訓は、砲台占領を必要とする場合を仮想して、その方法手段を調査研究させたまでのことで、砲台占領を実行しようとするものではない。陸軍の厦門出兵は取り消していただきたい」。

 桂陸相と大山参謀総長は、思いもよらない山本海相の発言に、驚いた。そこで、山本海相に「そう簡単にはいかない。これは允裁によるものですぞ」と反論した。







657.山本権兵衛海軍大将(37)山本海軍大臣は副官に命じ、白石大尉の階級章を剥ぎ取らせた

2018年10月26日 | 山本権兵衛海軍大将
 この白石大尉の処遇については、当時の海軍大臣・山本権兵衛中将の計らいがあった。白石大尉事件の報告を受けた山本権兵衛海軍大臣は、次の様に考えた。

 「白石大尉は砲台占領の功名を挙げた勇士だが、部下の兵員を殴打し、死に至らしめた罪で、官位はく奪の刑に処せられることはまぬかれない」

 「しかし、彼は自己の利益や欲望の為でなく、兵が命令の履行を行ったのを見て、任務を全うしようとする責任感から懲らそうと殴打したので、殺す意思があったわけではなく、公憤の極み、過ちに陥ったのだ」

 「国家がかかる人物をそのまま埋没させるのは忍び難いが、法に触れた点は勿論法によって断じなければならない。この上はただ、大権のご発動に待つよりほかに道はない」。

 閣議に出席した山本海軍大臣は、事件の経緯を説明し、陛下にご慈悲をお願いしたいと述べ、山縣有朋首相以下各閣僚の同意を求めた。異議を唱える者はいなかった。

 山本海軍大臣の説明と特赦の請願に対して、明治天皇は白石大尉の官位を旧に復することを許可した。

 白石大尉は海軍省に召還された。「法により、君の官位は、はく奪されなければならない」と宣告し、山本海軍大臣は副官に命じ、白石大尉の階級章を剥ぎ取らせた。

 白石大尉は観念したように瞑目していた。

 次に山本海軍大臣は、厳粛に、「優渥な聖恩により、特赦の上、官位を旧のごとく復する」と、白石大尉に告げた。

 山本海軍大臣を直視していた白石大尉の両眼にみるみる涙が溢れ、流れた。山本海軍大臣は、諭すように、次の様に白石大尉に言った。

 「かかるためしは実に初めてのことで、我ら一同も感激を禁ずることができない。これは君の勲功によるものだが、かようなご沙汰を拝しては、いよいよ忠勤を擢んでなければならないと感ずる次第である」

 「大尉もよくこの意を諒とし、その身は真に君国に捧げ、将来の報効(恩に報いて力を尽くす)を祈念し、自己のものという観念を離れて、職に尽くすよう望みたい」。

 白石葭江大尉は感極まったように泣きながら、傾聴していた。

 明治三十七年二月、日露戦争開戦。旅順港閉塞作戦が行われた。二月十八日から第一次閉塞作戦が開始された。

 三月二十七日には第二次閉塞作戦が決行され、閉塞戦「福井丸」指揮官の広瀬武夫少佐らが戦死した。

 第三次閉塞作戦は、五月二日夜に、閉塞船十二隻を以て開始された。天候不順で作戦は中止されたが、命令が伝達せず、閉塞船八隻が旅順港口に突入した。

 だが、八隻の閉塞船は、ロシア軍の沿岸砲台によって攻撃を受けたので、湾の手前で沈められた。その際に多数の戦死者を出した。

 この八隻の一隻「佐倉丸」の指揮官が白石葭江大尉だった。「佐倉丸」を自沈させた後、白石大尉は、部下とともに、小舟を漕いで上陸、ロシア軍の砲台に切り込みをかけた。

 このロシア軍との交戦で、白石大尉は重傷を負い、捕虜となったが、旅順陥落前に戦病死した。白石大尉は戦死とされ、少佐に特別進級した。

 白石大尉は閉塞作戦に出撃する前に、同僚の士官に次の様に語っていた。

 「俺は船を爆沈したら、一人で端舟に乗ってロシアの砲台に斬り込み、武運があればこれを占領する」。

 後に、旅順の白玉山麓のロシア人墓地で、白石少佐の遺体が発見された。白石少佐の遺体は、七、八発の弾丸に貫かれていたという。

 話は元に戻り、明治三十三年七月十六日、義和団が蜂起して、排外戦争を開始した。西太后がこの反乱を支持したので、六月二十一日、清国は欧米列国に宣戦布告して北清事変が勃発した。

 当時、福建省の玄関都市、厦門(アモイ・台湾に最も近い都市)には、日本の防護巡洋艦「和泉」(二九八七トン)と、「高千穂」(三六五〇トン)の二隻が派遣されていて、領事館と在留邦人の保護に当たっていた。

 日本を含む八か国の連合軍が北京を占領した八月十四日、山本権兵衛海軍大臣は、防護巡洋艦「和泉」、「高千穂」あてに、次のような内容の内訓を電報した。

 「我が領事館及び在留邦人の保護を目的として、機宜事に従うこと。艦は厦門砲台の射線を避けて碇泊すること。厦門砲台を占領する場合を想定し、どのように実行すべきか、適切な手段方法を調査研究しておくこと。成案ができたら、海軍大臣に報告すること」。

 慣例により、山本海軍大臣は、この内訓を桂太郎陸軍大臣に知らせた。









656.山本権兵衛海軍大将(36)白石大尉は「一番乗りはこっちだ!」と叫び、そのイギリス士官を首投げで投げ飛ばした

2018年10月19日 | 山本権兵衛海軍大将
 明治三十三年四月、義和団の乱が起きた。清国を食い荒らす、ドイツ、ロシア、イギリス、フランスなど諸外国の非道と、清国政府の無力に憤激した清国人達が、「興清滅洋」を唱える義和団を先頭に立て、北京南西約一八〇キロの保定で、排外運動を勃発させた。

 彼らは、外国人とキリスト教徒を殺害し、教会、駅舎、商社などを焼き払った。保定以外の各地でも義和団が蜂起し、やがて各集団は北京に進撃を開始した。

 この状況から、六月二十一日、遂に清国政府は、各国に対して宣戦を布告した。

 だが、イギリス、ドイツ、アメリカ、イタリア、ロシア、オーストリア、日本の八か国連合軍が、清国軍と義和団を破り、八月十四日、北京を占領した。

 清国政府は、慶親王と李鴻章を全権大臣として、連合八か国と和議を進めるほかに、とる道はなくなった。これが、北清事変である。

 この北清事変中の六月十七日、衝撃的な事件が起きた。午前四時頃、イギリス、ドイツ、ロシア、日本の四か国連合陸戦隊は、天津東方の清国軍の大沽(ターク)西北砲台の正面に布陣して突入の機会をうかがっていた。

 前方は一面の塩田で、身を隠す場所もなく、進撃できなかったのだ。

 日本海軍陸戦隊二三〇人を指揮するのは、大隊長・服部雄吉(はっとり・ゆうきち)中佐(鹿児島・海兵一一期・防護巡洋艦「秋津洲」砲術長・日清戦争・中佐・義和団の乱で戦死・三十八歳)だった。

 大隊長・服部中佐は、他国の陸戦隊がひるんでいる中、意を決して、突撃ラッパを吹かせ、「突撃せよ」と指揮刀を振りかざして、飛び出した。

 清国軍の銃砲弾が飛来する中を、日本海軍陸戦隊は、服部中佐に続いて大沽西北砲台めざして、突進した。だが、砲台を目前にして、服部中佐は腹部に銃弾を受け、倒れた。周囲の兵士数人も倒れた。

 すかさず、先任の第一中隊長・白石葭江(しらいし・よしえ)大尉(東京・海兵二一・七番・砲術練習所・巡洋艦「高雄」乗組・スループ「天城」乗組・砲艦「鳥海」分隊長・大尉・北清事変で陸戦隊第一中隊長・佐世保海兵分隊長・部下を殴り死亡させる・軍法会議で十禁固二年・特赦・海軍大学校選科学生・装甲巡洋艦「浅間」分隊長として日露戦争出征・旅順港閉塞作戦で閉塞に使用する「佐倉丸」指揮官・旅順に上陸・重傷を負い戦病死)が代わって指揮をとった。

 日本海軍陸戦隊は午前五時頃砲台西門にとりつき、白石大尉は塁上によじ登り、敵数人を倒した。日本海軍陸戦隊が西門を突破した後、イギリス、ドイツ、ロシアの陸戦隊が続いた。

 砲台上に登った白石大尉は、日章旗を掲げようとしたが見当たらず、探していると、イギリスの士官がユニオンジャック(英国国旗)を砲台の旗竿に掲げようとしていた。

 それを見て怒った白石大尉は「一番乗りはこっちだ!」と叫び、そのイギリス士官を首投げで投げ飛ばした。

 その間に、第二中隊長・野崎小十郎(のざき・こじゅうろう)大尉(高知・海兵二一期・九番・海大五期・大尉・防護巡洋艦「笠置」乗組・北清事変で陸戦隊第二中隊長・コルベット「天龍」航海長・コルベット「葛城」航海長・海軍兵学校教官・常備艦隊参謀・日露戦争出征・第一艦隊参謀・第四艦隊参謀・少佐・南清艦隊参謀・横須賀鎮守府参謀・軍務局局員・中佐・戦艦「安芸」砲術長・砲術学校教官・横須賀鎮守府参謀・防護巡洋艦「新高」艦長・大佐・巡洋戦艦「生駒」艦長・巡洋戦艦「金剛」艦長・少将・臨時南洋群島防備艦隊司令官・退役後碑衾町長・玉川計器製作所監査役・従四位・勲二等・功五級)が、別の旗竿に日章旗を掲げた。

 重傷で後送された大隊長・服部雄吉中佐は、間もなく死亡した。西北砲台が落ちると、南北両砲台も間もなく落ち、日の出前に大沽砲台は全て連合軍が占領した。

 各国の指揮官は、日本陸戦隊の勇戦を称賛し、「白石大尉の勇敢な戦いぶりを、我々も模範としなければならない」と激賞する指揮官もいた。

 北清事変後、白石大尉は佐世保海兵分隊長になった。その分隊長時代に、白石大尉は、任務を怠っている部下を殴打し、その部下が死亡した。

 白石大尉は、軍法会議にかけられ、重禁固二年の判決を受けたが、特赦により、入獄することなく、待命となった。その半年後には、海軍大学校選科学生として、海軍に復帰した。







655.山本権兵衛海軍大将(35)すると柴山大将は、山本海軍大臣をボロクソにこきおろした

2018年10月12日 | 山本権兵衛海軍大将
 明治三十一年十一月海軍大臣になった山本権兵衛中将は、福沢諭吉が期待したとおり、薩摩閥を顧みず、適材適所の人事を進めた。

 だが、確かに薩摩閥は減少していったが、代わりに、山本権兵衛閥と言われるような人脈が形成されていき、それに反発、対抗する一派が生じたのである。

 その反山本派の筆頭は、当時の常備艦隊司令長官・柴山矢八(しばやま・やはち)中将(鹿児島・米国留学・海軍中尉任官・武庫司出勤・大尉・砲兵科砲兵大隊副長・コルベット「浅間」乗組・コルベット「筑波」乗組・水雷練習所長・少佐・中佐・水雷局長・大佐・参謀本部海軍部第二局長・欧米各国派遣・艦政局次長・コルベット「筑波」艦長・防護巡洋艦「高千穂」艦長・海軍兵学校長・少将・佐世保鎮守府司令長官・中将・常備艦隊司令長官・海軍大学校長・呉鎮守府司令長官・旅順警備府司令長官・大将・男爵・正二位・旭日大綬章・功二級・フランス共和国レジオンドヌール勲章オフィシェ等)だった。

 柴山矢八中将は、薩摩藩医の家に生まれ、山本権兵衛より二歳上で、海軍兵学寮に入校せず、開拓使派遣として二年間米国に留学して帰国後海軍中尉になった軍人である。

 山本権兵衛中将ら革新派と、柴山矢八中将ら保守派の派閥争いがあったのである。山本中将と柴山中将は昔から何かにつけて対立し、「権兵衛が種まきゃ、矢八がほじくる」と戯れ歌まで生まれた。

 明治三十二年一月、山本権兵衛海軍大臣は、自分に合わない柴山矢八中将を、常備艦隊司令長官からはずして、海軍大学校長にした。柴山中将は四十八歳だった。

 そして横須賀鎮守府司令長官・鮫島員規(さめしま・かずのり)中将(鹿児島・戊辰戦争・維新後海軍少尉補・少尉・中尉・砲艦「鳳翔」乗組・大尉・砲艦「鳳翔」副長・装甲艦「比叡」副長・少佐・軍事部第三課長・参謀本部海軍部第一局第一課長・中佐・参謀本部海軍部次副官・大佐・参謀本部海軍部第二局長・装甲艦「金剛」艦長・防護巡洋艦「松島」艦長・常備艦隊参謀長・連合艦隊参謀長・少将・常備艦隊司令官・西海艦隊司令官・海軍大学校長・中将・横須賀鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・大将・男爵・正二位・勲一等旭日大綬章・功二級・エジプト王国オスマニア第四等勲章)を常備艦隊司令長官に就任させた。

 鮫島員規中将は、やはり薩摩出身だが、五十三歳の温厚な人物で、柴山中将も、この人事に逆らうことはできなかった。だが、柴山中将の山本中将に対する敵愾心はいよいよつのった。

 山本権兵衛海軍大臣時代の海軍内部は、山本権兵衛中将を頂点とする人脈と、柴山矢八中将を頂点とする人脈に分かれ、対立が続いていった。

 明治三十三年当時、呉鎮守府司令長官・柴山矢八中将の人脈には、竹敷要港部司令官・日高壮之丞(ひだか・そうのじょう)中将(鹿児島・慶應義塾・海兵二・参謀本部海軍部第二局第一課長・欧米差遣・大佐・海軍参謀部第二課長・装甲艦「金剛」艦長・コルベット「武蔵」艦長・装甲艦「龍驤」艦長・砲術練習所長・防護巡洋艦「橋立」艦長・海軍兵学校長・少将・常備艦隊司令官・中将・常備艦隊司令長官・男爵・功二級・大将・従三位・勲一等旭日桐花大綬章)がいた。

 世間では、山本権兵衛中将系の人脈を本省派、柴山中将・日高中将系の人脈を艦隊派と称した。だが、終始、本省派が圧倒的に優勢で、その間は、海軍が大局を誤ることはなかった。

 なお、山本中将と日高中将は、海軍兵学校二期の同期生で、個人的には仲が良く、友情は続いていたと、いわれている。だが、山本中将と柴山中将は、最後までうまくいかず、次のような話が残っている。

 明治三十九年一月、山本権兵衛大将が第一次桂太郎内閣に殉じて海軍大臣を退任する時、当初、山本海軍大臣は、後任に柴山矢八大将を推す考えを持っていた。

 元老・伊藤博文は、柴山大将を呼び、海軍大臣の抱負を問うた。すると柴山大将は、山本海軍大臣をボロクソにこきおろした。そして、「権兵衛時代の施政に大鉄槌を加える」と豪語した。

 山本海軍大臣と信頼の情で結ばれていた元老・伊藤博文は、柴山大将の言葉を、そのまま山本海軍大臣に伝えた。

 これを聞いて、烈火の如く怒った山本海軍大臣は、たちまち柴山海軍大臣を押すことを撤回し、斎藤実海軍次官を海軍大臣に昇格させることを決心したという。



654.山本権兵衛海軍大将(34)海軍では鹿児島人でないと出世できないそうではないか。不公平と評判がよくないよ

2018年10月05日 | 山本権兵衛海軍大将
 次に山本海軍大臣は、四十六歳の伊集院五郎(いじゅういん・ごろう)大佐(鹿児島・海兵五期・英国王立海軍大学卒・大本営参謀・大佐・軍令部第二局長・軍令部第一局長・軍令部次長心得・少将・軍令部次長・常備艦隊司令官・中将・艦政本部長・功一級・第二艦隊司令長官・男爵・連合艦隊司令長官・軍令部長・大将・軍事参議官・元帥・正二位・旭日桐花大綬章・イタリア王国王冠第一等勲章等)を海軍軍令部次長心得に登用した。

 当時の軍令部長は、伊東祐亨(いとう・すけゆき)大将(鹿児島・薩摩藩士・開成所・戊辰戦争・維新後海軍大尉・コルベット「日進」艦長・中佐・装甲艦「扶桑」艦長・装甲艦「比叡」艦長・コルベット「筑波」艦長・大佐・装甲艦「龍驤」艦長・装甲艦「比叡」艦長・装甲艦「扶桑」艦長・横須賀造船所長・英国出張・防護巡洋艦「浪速」艦長・少将・常備小艦隊司令官・大域局長兼海軍大学校校長・中将・横須賀鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・軍令部長・子爵・功二級・大将・議定官・軍事参議官・元帥・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功一級・ロシア帝国スタニスラス第一等勲章)だった。

 伊集院五郎大佐は、科学的頭脳を持ち、明治十五年から三年余にわたり英国に留学して、兵器、術科(航海・砲術・水雷術)、戦略・戦術などを研究した有望な軍人だった。

 また、明治十九年二月、英国アームストロング社で竣工した、新鋭の防護巡洋艦「浪速」を日本へ回航する時の艦長は伊東祐亨大佐、副長が山本権兵衛少佐、水雷長が伊集院五郎大尉だった。

 回航の途中、スエズ運河北端のポートサイドで、弾薬の爆発により重傷を負った伊集院大尉を、山本少佐が救助したことがあった。伊東、山本、伊集院の三人は因縁浅からぬ関係だった。

 明治三十二年九月、軍令部次長心得・伊集院五郎大佐は、少将に進級し、名実ともに軍令部次長になった。

 また、翌年の明治三十三年には、伊集院少将は、砲弾爆破力を著しく増大させる「伊集院信管」を発明し、海軍に貢献をした。

 ところで、明治二十八年三月に、山本権兵衛大佐は少将に進級し、海軍省軍務局長に就任したのだが、その翌年の明治二十九年の秋、次のような出来事があった。

 慶應四年に慶応義塾を開校した福沢諭吉(大阪・中津藩士・慶應義塾創設・蘭学者・啓蒙思想家・教育者・著述家)は、明治十五年から「時事新報」を発行していた。

 軍令部諜報課員・木村浩吉(きむら・こうきち)大尉(東京・海兵九期・三番・装甲艦「扶桑」艦長・横須賀水雷団長心得兼水雷術練習所長心得兼砲術練習所長心得・特務艦「日光丸」艦長・大佐・呉水雷団長・水雷術練習所長・海軍水雷学校長・佐世保水雷団長・少将・舞鶴水雷団長・従四位・勲三等・功四級)は、福沢諭吉から次のような質問を受けた。

 「海軍では鹿児島人でないと出世できないそうではないか。不公平と評判がよくないよ。不公平は進歩を妨げる。いつ不公平がなくなるかね」。

 木村大尉は、「五十年もたてばと言われていますが、そんなに長くかからないでしょう」と答えた。すると、福沢諭吉は「なぜ?」とたたみかけた。木村大尉は次の様に答えた。

 「軍務局長ですが、『権兵衛大臣』とあだ名されている山本少将がいます。あの人が大臣になれば不公平はなくなります」。

 すると、福沢諭吉は、「そうかね、一度会ってみたいね」と言ったので、木村大尉は、その旨を山本権兵衛少将に伝えた。

 数日後、福沢諭吉宅に出向いた、山本権兵衛少将は、午前九時ころから、昼食をはさみ、午後四時頃まで、福沢諭吉と語り合った。

 福沢諭吉は六十一歳、山本権兵衛少将は四十四歳だった。会見後、山本少将は木村大尉に次の様に言った。

 「福沢先生はさすがに先が見える。海軍の必要をよく知っている。ただ、予算のために海軍の計画がなかなか思うようにいかないことは、よく判らないらしい」。

 一方、福沢諭吉は、木村大尉に次の様に感想を述べた。

 「山本少将は、一人で海軍を背負っているような男だが、信頼できそうだ。『時事新報』で助力することにしよう」。









653.山本権兵衛海軍大将(33)山本権兵衛中将が「やあ、山縣君、しばらく」と声をかけ、山縣元帥を鼻白ませた

2018年09月28日 | 山本権兵衛海軍大将
 海相・西郷従道元帥が軍務局長・山本権兵衛中将に海軍大臣就任を承諾させた経緯は、次のようなやりとりがあった。

 西郷元帥「おはんを海軍大臣にして、おいは内務と思っちょたが、おはんが引き受けんなら、おいも御免じゃ」。

 山本中将「止むを得もはん、引き受けもそ。じゃどん、外交に関することは、必ずおいに相談してもらいたか思めもすが」。

 西郷元帥「よか。山縣さんと青木(周蔵外務大臣)さんに約束させもそ」。

 最初に山本権兵衛中将が辞退したのは、まだ早いと思ったこともあったが、長州閥の領袖であり、官僚的で権謀性があり、陸主海従の内閣総理大臣・山縣有朋元帥を好きではなかったのだ。

 武田秀雄(たけだ・ひでお)海軍機関中将(高知・海軍機関学校旧二期・フランス留学・防護巡洋艦「厳島」乗組・日清戦争・軍令部第二局・機関少監・フランス駐在・艦政本部・海軍教育本部第二部長・機関大監・海軍火薬廠製造部長・機関少将・海軍教育本部第三部長・機関中将・海軍機関学校長・予備役・三菱造船会長・三菱内縁機製造会長・三菱電機初代会長・勲四等瑞宝章・フランスレジオンドヌール勲章シェヴァリエ)は、予備役編入後、三菱電機初代会長など、実業家として活躍した稀有の軍人である。

 その武田機関中将が、山本権兵衛海軍大将が死去した翌年の昭和九年六月、山本権兵衛大将について、次の様に述べている。

 「かつて、山本大将は、人から『近代の偉人は?』と聞かれ、山本大将は、『往年は大西郷を崇拝した。近年は、西郷従道を補佐して働いたが、従道候は寛仁宏量、大度の人であった。よくあらゆる人を容れられた。学ぶところが大いにある。両西郷のほかは伊藤(博文)公だ。公は海軍をよく理解して、公平無私の偉大な人だった』と、語られた」。

 小栗孝三郎(おぐり・こうざぶろう)海軍大将(石川・海兵一五・五番・海大二・英国駐在・潜水母艦「韓崎」艦長・大佐・巡洋艦「鈴谷」艦長・防護巡洋艦「音羽」艦長・水路部測器科長・海軍省副官・戦艦「香取」艦長・艦政本部第一部長・少将・在英国大使館附武官・軍務局長・第一特務艦隊司令官・中将・呉工廠長・第三艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・大将・正三位・フランス共和国レジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)は、明治三十四年当時、海軍大臣・山本権兵衛中将の秘書官だった。

 昭和九年六月二十五日、小栗大将は、山本権兵衛大将について、次の様に語っている。

 「山本大将は伊藤博文公と西郷従道候を尊敬しておられた。他の人のことを話す時は敬称をつけないことが多かったが、この二人には必ず『さん』をつけていた」。

 山本権兵衛中将が、第二次山縣有朋内閣の海軍大臣に就任する前のある日の話。宮中の廊下で、山縣有朋元帥に出会った山本権兵衛中将が、「やあ、山縣君、しばらく」と声をかけ、山縣元帥を鼻白ませた。山縣元帥六〇歳、山本中将四六歳だった。

 明治三十一年十一月八日、第二次山縣有朋内閣の海軍大臣に就任した山本権兵衛中将は、海軍部内の重要役職者の刷新を決行した。年齢・経歴よりも、実力により、新しく任命した。

 海軍次官は、明治二十三年五月以来、五十八歳の伊藤雋吉(いとう・しゅんきち)中将(京都・維新後海軍兵学寮中教授・海軍少佐・通報艦「春日」艦長・中佐・コルベット「筑波」艦長・海軍兵学校次長・装甲艦「金剛」艦長・大佐・海軍兵学校長・少将・横須賀造船所長・艦政局長・海軍参謀部長・第二局長・海軍次官・中将・海軍次官・軍務局長・海軍次官・男爵・中将・海軍次官・予備役・貴族院議員・勲一等瑞宝章・フランス共和国レジオンドヌール勲章コマンド―ル等)だった。

 山本海軍大臣は、この伊藤次官に勇退してもらい、四十歳の防護巡洋艦「厳島」艦長・斎藤実(さいとう・まこと)大佐(岩手・海兵六・三番・大佐・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・防護巡洋艦「厳島」艦長・海軍次官・少将・海軍総務長官兼軍務局長・海軍次官・中将・海軍次官兼軍務局長兼艦政本部長兼教育本部長・海軍大臣・男爵・大将・予備役・朝鮮総督・子爵・ジュネーヴ会議全権・枢密顧問官・首相・内大臣・議定官・暗殺・従一位・大勲位菊花大綬章・ロシア帝国白鷲勲章等)を、海軍次官に抜擢した。

 また、山本権兵衛中将の後任の軍務局長に任命されたのは、山本権兵衛中将と海軍兵学寮同期の海軍軍令部次長・諸岡頼之(もろおか・よりゆき)少将(東京・海兵二・海軍参謀部第一課員・大佐・コルベット「大和」艦長・コルベット「迅鯨」艦長・造兵廠長・防護巡洋艦「吉野」艦長・水雷術練習所長・少将・軍令部次長・軍務局長・教育本部長・常備艦隊司令官・中将・正四位・勲三等・功四級)だった。

 上位の斎藤実海軍次官(四十歳)が大佐で、下位の諸岡頼之軍務局長(四十七歳)が少将では逆だが、法規上では、海軍省の役職は階級に無関係とされていたので、山本権兵衛海軍大臣はそれを利用したのである。




652.山本権兵衛海軍大将(32)山本軍務局長が西郷従道海相に代わって弁するほうがうまくゆく

2018年09月21日 | 山本権兵衛海軍大将
 官邸で、山本権兵衛軍務局長は、伊藤首相から次の様に問われた。

 「ご承知のように威海衛は、清国政府より日本に払い込むべき償金の担保として、我が国がこれを占領している。しかし、清国政府からの償金払い込みは、間もなく完了する」

 「それに目を付けたものか、英国から『清国が償金払い込みを完了し、日本軍隊が威海衛を引き揚げた後、英国は東洋派遣艦隊の為に、威海衛の租借を清国に求めたいと希望し散るが、日本政府の意向を聞きたい』と、我が政府に問い合わせがあった」

 「このことは日本の東洋政策にも関係があると思うが、貴方の意見を聞かせてもらいたい」。

 この伊藤首相の問いに対して、山本軍務局長は、即座に次の様に答えた。

 「威海衛はわが軍隊の撤退後は、早晩いずれかの強国の狙うところとなろうと考えていました。既に旅順口と大連はロシアにより、膠州湾はドイツにより、それぞれ租借の強要を受けて、清国はこれを許諾しました」

 「これは現下においてはやむを得ない成り行きというべきでしょうか。このように渤海湾の咽喉が、これら二国に占拠されたからには、英国にもその要求を充たさせるべきでしょう。英国はそれら二国とは少し色彩を異にしていますから、英国を威海衛に拠らしめれば、ロシア、ドイツの勢威に対する牽制ともなりましょう」

 「従って、英国政府に対しては、本件については、帝国政府はなんら依存ない旨を答えるのが良いと認めます。ただし、一つ条件があります。我が新領土の台湾、澎湖島の永久の安寧保持を図るには、対岸の清国福建省の保安を維持する必要があります」

 「この好機を利用して、揚子江から、南清にかけて最も勢力を持つ英国に対し、交換的に福建省方面を我が国の勢力圏に入れることを諒解させるべきだと思います。これは将来に対して我が南進政策を樹立する上においても、重要な案件でありましょう」。

 同席していた陸相・桂太郎中将も、この山本軍務局長の主張に同意した。伊藤首相もこの意見を容れ、翌日の閣議で決定し、英国政府への回答手続きをとった。結局、日本は、清国に福建省の不割譲を約束させ、声明させたのである。

 当時、軍務局長・山本権兵衛少将は、海軍省では「権兵衛大臣」の評価が根付いていた。特別の手続きを踏んで、山本軍務局長が西郷従道海相に代わって弁するほうがうまくゆく……みんな、そう思っていた。

 明治三十一年五月十四日、山本権兵衛少将は、従四位、中将に進級した。それから、正四位に昇進して、その年の十一月八日、第二次山縣有朋内閣の海軍大臣になった。「権兵衛大臣」から正式な海軍大臣に就任したのである。四十六歳だった。

 これまで海軍大臣であった西郷従道元帥は、内務大臣に就任した。西郷従道大将は、次の三名の陸軍大将とともに明治三十一年一月二十日、元帥府に列せられていた。

 小松宮彰仁親王(こまつのみや・あきひとしんのう)陸軍大将(京都・皇族・戊辰戦争で奥羽征討総督・維新後兵部卿・英国留学・陸軍少尉・佐賀征討総督・少将・陸軍戸山学校長・東京鎮台司令長官・中将・大勲位菊花大綬章・欧州出張・近衛都督・大将・近衛師団長・参謀総長・征清大総督・大勲位菊花章頸飾・功二級・元帥・英国国王戴冠式差遣・薨去・国葬)。

 山縣有朋(やまがた・ありとも)陸軍大将(山口・奇兵隊総管・戊辰戦争・維新後陸軍大輔・中将・陸軍卿・近衛都督・西南の役・征討参軍・陸軍卿・参謀本部長・伯爵・内務大臣・農商務大臣・内閣総理大臣・大将・司法大臣・枢密院議長・日清戦争・第一軍司令官・監軍・陸軍大臣・侯爵・元帥・内閣総理大臣・参謀総長・枢密院議長・公爵・枢密顧問官・枢密院議長・公爵・従一位・菊花章頸飾・功一級・フランスレジオンドヌール勲章グランクロア等)。

 大山巌(おおやま・いわお)陸軍大将(鹿児島・戊辰戦争・維新後陸軍大佐・少将・ジュネーヴ留学・熊本鎮台司令長官・第一局長・東京鎮台司令長官・西南戦争で別働第一旅団司令長官・攻城砲隊指揮官・中将・参謀本部次長・陸軍士官学校長・陸軍卿・参謀本部長・陸軍大臣・大将・枢密顧問官・陸軍大臣・日清戦争で第二軍司令官・陸軍大臣・侯爵・功二級・元帥・参謀総長・大勲位菊花大綬章・日露戦争で満州軍総司令官・参謀総長・公爵・大勲位菊花章頸飾・功一級・内大臣・従一位・内大臣・死去・国葬・英帝国メリット勲章・フランス共和国レジオンドヌール勲章グランクロア等)。





651.山本権兵衛海軍大将(31)西洋の文明国と言われる、これらの国々だが、本性はこのようなものだった

2018年09月14日 | 山本権兵衛海軍大将
 思うような展開になったので、山本少将は率直に、次の様に打ち明けた。

 「それは、私が反対したのでございます。『吉野』は我が国の最も大切な軍艦で、たとえわずかな期間でも、日本から離す訳にはいかないのでございます」。

 これに対して、有栖川宮少将は、「『吉野』が外国に行っている間、東洋に事が起こりそうだというのかね」と、応じた。

 山本少将は「そのような形勢ではないにしても、最も大切な軍艦を、日本から離すことは、よろしくないと思うのです」と、重ねて主張した。

 それで、有栖川宮少将は、ようやく山本少将の真意を知り、「判った。海軍省が選んだフネでゆくことにしよう」と答えた。これ以後、有栖川宮少将は、誰よりも山本少将を信頼するようになった。

 明治三十年十一月十四日、突如、ドイツ艦隊三隻の海兵隊六百人が、清国山東省の膠州湾に上陸し、青島付近一帯を占領した。

 ドイツ人宣教師二名が何者かに殺害されたというだけの口実によってである。

 十二月十五日、これまた突如、ロシア艦隊六隻が遼東半島の旅順港に侵入し、同港を占領したのである。

 ドイツが膠州湾を占領したから、ロシアはこちらを頂くという、不逞のものだった。

 中国人たちは、味方のはずのロシアが、赤頭巾を脱ぎ、狼に一変したのに仰天した。

 さらに四か月後の、明治三十一年三月六日、ドイツは占領中の膠州湾(青島)を、清国から正式に租借することに成功した。

 清国宰相・李鴻章がロシアから莫大な賄賂を受け取った弱みをつかみ、脅迫した結果だった。

 四月二十六日、それを知ったロシアは、李鴻章に、遼東半島の租借と、ハルピンから大連までの東清鉄道支線の敷設権を、強要してまるまる手に入れた。

 三年前、遼東半島は、「極東永久の平和に障害になる」と、ロシア、ドイツ、フランスが、日本に威しをかけ、清国に返還させたばかりだった。

 それにもかかわらず、武力と、李鴻章への新たな賄賂、五〇万ルーブルで、強奪したのである。

 ドイツとロシアが、このような、強奪、脅迫、賄賂の手段で手に入れると、イギリスも黙っていず、明治三十一年七月、山東半島北岸の軍港、威海衛を清国から租借した。

 イギリス海軍の力を背景にしたもので、イギリスはドイツとロシアの間に、楔(くさび)を打ち込み、両国の、これ以上の中国侵略を牽制しようとした。

 その四か月後の、十一月、フランスも仏印(仏領インドシナ=現ベトナム)に近い南支那(清国)の広州湾を、むしり取るようにして租借した。

 このようにして、ドイツ、ロシア、イギリス、フランスは、地域の租借ばかりではなく、鉄道敷設権、鉱山開発権なども、清国からもぎ取った。西洋の文明国と言われる、これらの国々だが、本性はこのようなものだった。

 だが、日本も英国と利用し合い、それ相応の利益を得ようとした。

 明治三十一年四月のある日、山本権兵衛軍務局長は、伊藤博文首相に招かれて、首相官邸を訪れた。

 相官邸には、陸軍大臣・桂太郎(かつら・たろう)中将(山口・長州藩士・戊辰戦争・維新後ドイツ留学・陸軍大尉・歩兵少佐・在ドイツ公使館附武官・歩兵中佐・参謀本部管西局長心得・歩兵大佐・参謀本部管西局長・少将・陸軍次官・中将・第三師団長・台湾総督・陸軍大臣・大将・内閣総理大臣・軍事参議官・内閣総理大臣・内大臣兼侍従長・公爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・フランス共和国レジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)も同席していた。