陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

575.源田実海軍大佐(35)、乾坤一擲をねらった「あ」号作戦も、惨澹(さんたん)たる敗北に終わった

2017年03月31日 | 源田実海軍大佐
 源田中佐が研究していたのは、約一年がかりで、一六〇〇機を擁する強い基地航空部隊(第一航空艦隊)を作り上げ、これによって戦局を一気にひっくり返そうというものだった。だが、敵の方がそれまで待ってくれなかった。

 しかもマリアナ進攻に先立つ、敵のビアク島攻略作戦にかきまわされて、基地航空部隊は兵力の消耗を余儀なくされ、肝心の敵がマリアナにやって来た時には満足な活動ができず、第一機動艦隊を孤立無援の形で優勢な敵機動部隊の攻撃にさらさせる結果となり、乾坤一擲をねらった「あ」号作戦も、惨澹(さんたん)たる敗北に終わった。

 源田中佐が計画立案した大作戦としては、失敗した「あ」号作戦の前に、「雄」作戦というのがあった。これは機動部隊および約一〇〇〇機の基地航空部隊を動員して、敵艦隊の補給や休養の基地となっていたメジュロ泊地に先制攻撃をかけ、敵機動部隊が出撃する前に撃滅しようという作戦だった。

 これも周到な作戦計画が立案され、昭和十九年三月初めに、源田中佐は作戦課長と共に飛行機でパラオに飛び、連合艦隊司令部と打ち合わせを行ったが、同司令部の同意が得られず、結論が出ないまま帰った。

 それから間もなく、昭和十九年三月三十一日、連合艦隊司令長官・古賀峯一大将以下多数の幕僚がパラオからミンダナオ島のダバオへ飛行艇(二式大艇)二機で移動中、低気圧に遭遇し墜落、古賀大将が殉職した大惨事(海軍乙事件)があり、「雄」作戦は立ち消えになってしまった。

 作戦を立案してその指導はするが、部隊を自ら指揮することのできない幕僚のもどかしさとむなしさを、こうした体験を通じて、源田中佐は、いやというほど味わった。それで後に、源田中佐は実戦部隊である三四三空司令に自ら希望して着任した。

 昭和十九年七月源田実中佐は陸海軍航空技術委員会委員に就任し、八月陸軍参謀本部部員、大本営陸軍参謀も兼務した。十月、源田中佐は大佐に進級した。

 昭和二十年一月十五日、源田実大佐は四国の松山を基地とした第三四三海軍航空隊(紫電改戦闘機隊)の司令兼副長に就任した。

 「海軍航空隊始末記」(源田実・文春文庫)の中で、著者の源田実は第三四三海軍航空隊について、次のように述べている。

 「十九年の末期、私は帷幕(大本営や軍令部)の重責と、もう一つは戦闘機搭乗員出身の参謀という二重の責任の上から、精強な戦闘機隊をつくりあげ、その戦闘を突破口として敵の侵攻を阻止することを考えた。それが三四三空だ」。

 第三四三海軍航空隊の飛行長は、志賀淑雄(しが・よしお)少佐(東京・海兵六二・空母「赤城」分隊長・真珠湾攻撃に空母「赤城」第二制空隊長・空母「隼鷹」飛行隊長・空母「飛鷹」飛行隊長・海軍航空技術廠テストパイロット・少佐・第三四三海軍航空隊飛行長・戦後ノーベル工業入社・同社社長・同社会長・ゼロ戦搭乗員会代表)だった。

 戦後発行された「三四三空隊誌」の中で、当時の第三四三海軍航空隊飛行長だった志賀淑雄氏は、源田実大佐が三四三空司令として着任した様子を、次の様に記している。

 「源田司令は准士官以上の出迎えを受けて着任された。黙々と報告を受け、言葉少なく語られて余談なし。要の固い扇のごとく空気にわかに引き締まる。夕食後の一刻、士官室で隊長たちと語られる笑顔は慈父のようであった」。

 源田大佐は三四三空を「剣部隊」と命名した。剣部隊の初陣は昭和二十年三月十九日の松山上空の邀撃戦だった。

 この日、満を持した源田大佐の水際立った作戦指揮により、剣部隊は目覚ましい戦果を上げ、後に連合艦隊司令長官から次のような感状が授与された。

 「昭和二十年三月十九日、敵機動部隊艦上機の主力をもって(瀬戸)内海西部方面に来襲するや松山基地に邀撃、機略に富む戦闘指導と尖鋭果敢なる戦闘実施とにより忽ちにして敵機六十余機を撃墜し、全軍の士気を昂揚せるはその功績顕著なり。よってここに感状を授与す。 昭和二十年三月二十四日  連合艦隊司令長官 豊田副武」。

 この感状中で「機略に富む戦闘指導」とあるのは、明らかに源田大佐自身に与えられた賛辞である。

 三月十九日に大きな戦果が上がったのは、源田大佐が部隊の本拠である四国の松山基地を中心に作り上げた警戒情報網と、すぐれた地上指揮機構が大きな要因だった。

 これは有能な通信要員のほか、通信機材が揃っていたせいで、大本営参謀時代の人脈をフルに活かして航空隊レベルを超えた機材調達がものをいった。





574.源田実海軍大佐(34)たとえ正しくとも俺の気にくわねえ奴の言うことなど、絶対にきくもんか

2017年03月24日 | 源田実海軍大佐
 大井篤大佐は、軍令部次長・伊藤整一(いとう・せいいち)中将(福岡・海兵三九・十五番・海大二一・次席・巡洋戦艦「榛名」艦長・第二艦隊参謀長・少将・海軍省人事局長・第八戦隊司令官・連合艦隊参謀長・軍令部次長・中将・兼海軍大学校校長・兼軍令部第一部長・兼大本営海軍通信部部長・第二艦隊司令長官・戦艦「大和」で戦死・大将・功一級)からこの会議に出席するように言われた。

 当時、軍令部第一部第一課部員(航空作戦主務)だった源田実中佐も出席していた。ある幹部が源田中佐に問いかけた。「マリアナに来やせんかね」。

 すると、源田中佐は極めて強い口調で、「いや、絶対にカロリンです」と断定した。嶋田軍令部総長以下、誰もが黙った。

 「マリアナに来たら、どうなるんだ」と、作戦関係の部員が、質した。「いや、そんなことは航空の分らん人が言うことです」と源田中佐は決めつけるように言った。

 こうして、軍令部の予想は、西カロリン諸島付近となった。大井篤大佐は、源田中佐の自信の強さに驚いた。

 昭和十九年一月、柴田武雄中佐は、ラバウルの第二〇四航空隊司令として、ソロモン航空戦を戦い、毎日のように来襲する敵の戦爆連合の大編隊に対し、攻撃を行っていた。

 「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)によると、当時、連合艦隊航空参謀・内藤雄(ないとう・たけし)中佐(山形・海兵五二・六番・海大三六・海軍爆撃術の権威・ドイツ出張・中佐・南遣艦隊参謀・南西方面艦隊参謀・第三艦隊航空甲参謀・連合艦隊航空甲参謀・海軍乙事件で殉職・大佐)がラバウルにやって来た。

 内藤中佐は、南東方面艦隊司令部(司令長官・草鹿任一中将)に打ち合わせに来たのだが、その時、官邸山の上にあった、柴田中佐の宿舎を訪れた。内藤中佐は、柴田中佐と海軍兵学校の同期生だった。

 内藤中佐は、開口一番、「源田が、柴田の言うことは全部間違っている。たとえ正しくとも俺の気にくわねえ奴の言うことなど、絶対にきくもんか、と言っていたよ」と柴田中佐に知らせてくれた。

 それを聞いて、「源田はそんな気持ちで重大な航空作戦を指導しているのか」と、柴田中佐の公憤は、その極に達した感があった。

 昭和十九年、六月半ばの「あ」号作戦は、軍令部第一部第一課航空作戦主務・源田実中佐が関わった最大の作戦だった。

 「鷹が征く」(碇義朗・光人社)によると、この作戦は、中部太平洋方面と予想される敵の攻勢に対し、空母を中心とした新編の第一機動艦隊と、陸上基地航空隊群で編成された第一航空艦隊の両方で応戦し、一気に勝敗を決しようというもので、詳細な作戦計画が練りあげられていた。

 昭和十九年五月三日には「大海指第三七三号」として発令された。作戦の詳細について、作戦参加部隊に対する説明および研究会が開催された。

 トラック基地にいた二五一空にも呼び出しがかかって、司令・柴田武雄中佐も出席することになったが、当初、柴田中佐は「そんな会議なんか出る必要はない」と言って出席を渋った。

 軍令部からは、源田中佐のほか、ハワイ真珠湾攻撃の際の空中攻撃隊総指揮官だった淵田美津雄中佐も参謀として来ていた。

 源田中佐、淵田中佐、柴田中佐は海軍兵学校五二期の同期生だったが、柴田中佐は、同期ではあるが、源田中佐と淵田中佐のこれまでのやり方を信頼していなかったのだ。

 柴田中佐は、しぶしぶ出席したが、厚さ三センチにも及ぶガリ版刷りの作戦計画書を見てうんざりした。

 これを読むだけでも大変だが、その精緻な内容は作文としては立派であっても、今の海軍航空隊の実力からしてその筋書き通りに進まないことは、去る二月のトラック大空襲の際のみじめな現実が何よりそれを証明していた。

 <あんな机上の空論を、得々と並べ立ててなんになる>。作戦計画について熱弁を振う淵田中佐や源田中佐に対して、柴田中佐は腹立たしさを通り越して、空しさすら覚えていた。

 確かにこの作戦計画そのものは立派だった。「我が決戦兵力の大部を結集して敵の主反攻正面に備え、一挙に敵艦隊を覆滅(ふくめつ)して敵の反攻企図を挫折せしむ……」に始まる詳細な内容は、もしこちらの思惑通りにことが運べば、大勝利間違いなしと思わせるものがあったし、そのために源田中佐としても精一杯の手は打っていた。

573.源田実海軍大佐(33)源田一人の考えを定説のごとく断定して教えるのはよくない。取り消せ

2017年03月17日 | 源田実海軍大佐
 これに対し、アメリカ軍の戦闘参加者(陸軍・海兵隊)約六〇〇〇〇人のうち、戦死者は約一六〇〇人、戦傷者は約四二〇〇人だった。

 昭和十七年八月から昭和十八年一月までのガダルカナル島争奪戦における日本海軍航空部隊の損害は、飛行機喪失八九三機、搭乗員戦死二三六二人。

 ソロモン方面航空戦、南太平洋海戦などで失われた多数の航空機搭乗員について、源田実は後に、次の様に述べている。

 「三原元一、檜貝襄二、村田重治などの英傑が、南太平洋の航空消耗戦において、相次いで世を去った。海軍がこれらの人々を失ったことは、その人たちの大きな力を後の戦闘に振るわせることができなかっただけでなく、優秀な後進指導力をも失ったのであって、その損失は測り知れなかった」。

 しかし、なぜこのようになったかについては、源田実は、何も語ってはいない。

 昭和十八年二月十一日、連合艦隊司令部は、トラック島の泊地で、戦艦「大和」から、戦艦「武蔵」に移った。通信装置も一段と充実して、儀装成った新しい、戦艦「武蔵」が連合艦隊の旗艦になり、豪華なオフィス兼ホテルとしての役目を果たすことになった。

 この頃、大鑑巨砲の殿堂、横須賀海軍砲術学校において、大尉級の高等学生たちに対して、軍令部第一課部員・源田実中佐は次のように言った。

 「かの万里の長城、ピラミッド、『大和』、『武蔵』、こんなデカいものをつくり、世界中の物笑いになった。あんなものは、一日も早くスクラップにして、航空母艦にしたほうがよい」。

 あまりなことに、横須賀砲術学校教頭・黛治夫(まゆずみ・はるお)大佐(群馬・海兵四七・海軍砲術学校高等科・海大二八・海軍砲術学校教官・戦艦「大和」副長・第三遣支艦隊参謀・大佐・水上機母艦「秋津洲」艦長・第一一航空艦隊兼第八艦隊参謀・横須賀砲術学校教頭・重巡洋艦「利根」艦長・横須賀鎮守府参謀副長・化学戦部長・終戦・ビハール号事件で戦犯・拘留・戦後極洋捕鯨入社)は源田中佐に次のように言った。

 「君が今話していたことは、日本海軍の定説ではない。源田一人の考えを定説のごとく断定して教えるのはよくない。取り消せ」。

 だが、源田中佐は「取り消しません」と言って、応じなかった。

 昭和十八年四月十八日、前線基地刺殺のため、一式陸攻二機に分乗して飛び立った、連合艦隊司令長官・山本五十六大将と、幕僚は、ブーゲンビル島上空で、アメリカ陸軍航空隊P-38ライトニング戦闘機十六機に襲撃された。

 一式陸攻は二機とも撃墜され、山本五十六大将は戦死した。海軍甲事件である。戦死後、山本五十六大将は、ナチスドイツから剣付柏葉騎士鉄十字章を授与された。この勲章は、外国人では山本大将だけだった。騎士鉄十字章の外国人受章者の中では山本大将が最高位だった。

 四月二十一日、連合艦隊司令長官に古賀峯一(こが・みねいち)大将(佐賀・海兵三四・十四番・海大一五・四番・在フランス駐在武官・ジュネーヴ海軍軍縮会議全権随員・海軍省先任副官・戦艦「伊勢」艦長・少将・軍令部第二班長・第七戦隊司令官・中将・練習艦隊司令官・軍令部次長・第二艦隊司令長官・支那方面艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・飛行機事故で殉職<海軍乙事件>)が親補された。

 昭和十八年七月一日発足した、第一航空艦隊は、昭和十九年二月十五日、連合艦隊に編入された。

 この第一航空艦隊は、開戦時の第一航空艦隊ではなく、基地を移動しながら作戦を行う、予定総機数一〇〇〇機以上という基地航空部隊だった。サイパン、テニアン、グアム、トラック、パラオ、ヤップ、ダバオ、オーストラリア北方、セレベスの各方面に配備される予定だった。

 この時点で、軍令部が予想する決戦海面は西カロリン諸島南方、一方、連合艦隊が予想する決戦海面の第一が、パラオ島付近、第二が西カロリン諸島付近だった。

 昭和十九年五月、海軍省赤煉瓦ビル三階の軍令部作戦室で、参謀肩章を吊った軍令部総長・嶋田繁太郎(しまだ・しげたろう)大将(東京・海兵三二・二十七番・海大一三・巡洋戦艦「比叡」艦長・少将・第二艦隊参謀長・連合艦隊参謀長・海軍潜水学校長・第三艦隊参謀長・軍令部第三班長・軍令部第一班長・軍令部第一部長・中将・軍令部次長・第二艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・支那方面艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・海軍大臣・兼軍令部総長・軍令部総長・終戦・A級戦犯)を前にして部員たちが集まっていた。

 敵がマリアナに来るか、カロリンに来るか、討論する会議のためだった。大井篤(おおい・あつし)大佐(山形・海兵五一・九番・海大三四・三番・第二遣支艦隊作戦参謀・海軍省軍務局調査課・海軍省人事局第一課先任局員・第二一特別根拠地隊参謀・軍令部第一部戦争指導班長・海上護衛隊司令部作戦参謀・大佐・兼連合艦隊参謀・戦後GHQ歴史課嘱託)は当時海上護衛隊司令部参謀だった。


572.源田実海軍大佐(32)人間源田の敗北であり、当然、その実質的第一責任者は源田である

2017年03月10日 | 源田実海軍大佐
 引き続き、山口多聞少将は次のように話している。

 「また、南雲長官に、南雲部隊司令部は誰が握っているのかと質問したところ、長官(南雲)は一言もいいませんね。……南雲部隊司令部はいずれも卑怯者ぞろいだ…」。

 南雲部隊の司令長官たるものが山口司令官の質問に対し、『それはもちろん僕である』とハッキリ答えられないということは、南雲部隊を握っていた者は、少なくとも南雲長官でないということを、無言のうちに立証しているようなものである。

 南雲は源田の言い成りになっていた、という事実は、衆目の一致するところである。南雲は、源田の考えを、南雲長官の意見または命令として発表・発信する、ロボットの如き存在に過ぎなかった、と言うこともできる。

 南雲部隊司令部を実際に握っていたのは源田であり、そして、ミッドウェー海航空戦は、諸資料、諸研究によって裏付けられるとおり、人間源田の敗北であり、当然、その実質的第一責任者は源田である。

 以上が、柴田武雄の「源田実論」よりの要旨抜粋である。

 一方、月刊誌「丸」(昭和三十三年・新春二月特大号)所収「源田空将縦横談」の中の「ミッドウェーの二つの敗因」で、源田実は次のように述べている。

 「僕が二つの失敗をやった。一つは、あのとき四隻しか母艦がいないでしょう。真珠湾は六隻でやったが、第五航空戦隊というのが、珊瑚海の戦で一隻傷ついて、間に合わなかった」

 「しかも、どうしてもあの時期にミッドウェーをやるというので、第五航空戦隊は残して行った。これが、もともと時期的に無理であって、こちらが十分整えたところで行くべきなんで、急ぐべきもんではなかった」。

 これに対して、柴田武雄は次のように反論している。

 「源田が言っていることを結論すれば、『時期的に無理であり、十分整えてから行くべきであった』ということになるが、こちらは正式空母四隻でも敵空母三隻よりは優勢であり、ミッドウェーの敵陸上機を加味して考えても、こちらにはなお空母鵬翔ほか北方部隊の空母二隻がおり、更に零戦および搭乗員の優秀性を考慮するときは、実質的総合的にはこちらが優勢であるので、航空戦の計画指導実施に誤りさえなかったならば、勝っていたはずである」。

 ミッドウェー海戦後の、六月二十七日、瀬戸内の岩国沖の柱島泊地に碇泊中の戦艦大和に嶋田繁太郎海軍大臣がやって来た。

 連合艦隊の宇垣纒参謀長は嶋田海相に挨拶を行い、ミッドウェー海戦について、「この前は、いろいろまずいことをやりまして、申し訳ありません。ご心配をおかけして申し訳ないと思っています」と神妙なおももちで、嶋田海相に頭を下げた。

 すると、嶋田海相は、「いやいや、なんでもない」と、愛想よく答えたと言われている。「ミッドウェー海戦で空母四隻を失った帝国海軍の海軍大臣はなんと楽観的であることか」と感じた軍人も多数いたそうである。

 ミッドウェー海戦後、山本五十六大将の連合艦隊司令部も異動はなく、そのままの陣容だった。南雲忠一司令長官、草鹿龍之介参謀長、源田実甲航空参謀ら機動部隊首脳も、敗戦の責任は問われなかった。

 南雲中将は第三艦隊司令長官、草鹿少将は参謀長に就任した。さすがに、参謀らは異動になり、源田中佐も、参謀をはずされ、第三艦隊の第一航空戦隊旗艦、空母「翔鶴」の飛行長に任命された。

 昭和十七年十月八日、山本五十六司令長官の意向で、源田実中佐は、臨時第一一航空艦隊参謀として、ラバウルに赴任した。ガダルカナル島攻防戦の作戦指導を行ったが、マラリヤになり、入院した。

 十一月中旬、源田中佐は、中央の航空作戦主務になるために、ラバウルから内地に帰された。軍令部第一課長・富岡定俊大佐から静養を勧められ、源田中佐は九州の別府温泉で十日間、身体の回復を図った。

 その後、十二月十日、中央に呼び帰され、軍令部第一部作戦課航空部員(大本営海軍航空主務参謀)に就任、陸軍と共にガダルカナル島撤退作戦の研究を行った。

 昭和十八年二月上旬、ガダルカナル奪還の成算を失った日本陸軍は、ガダルカナル島から撤退した。ガダルカナル島での戦没者は、陸軍が約二八〇〇〇人、海軍が約三八〇〇人である。そのうち約一五〇〇〇人が病死だが、飢餓からの病死がほとんどだった。





571.源田実海軍大佐(31)士官室のあちこちから「ザマー・ミヤガレ」という罵声が起こった

2017年03月03日 | 源田実海軍大佐
 「しかし真珠湾からラバウル、インド洋に至る一連の成功から、『今度も成功するだろう。真珠湾やセイロン攻撃だって不安はあったのだ』という自己満足的なものがあって、不安に対して徹底的な『メス』を入れなかった。『臆病者』と罵られても、さらに深い検討を加え、必要な意見具申もすべきであった」。

 戦後に記された源田のこの説明は、詭弁と言えるかもしれない。なぜなら、それほど東正面が不安だったら、実際の場面で索敵機数を増やし、厳重な索敵を実施したはずである。だが、実際には、機数も増やさず、気休め程度の索敵をやらせていた。

 昭和十七年六月五日から七日まで、ミッドウェー島を巡る日本とアメリカ、両海軍の海戦、ミッドウェー海戦は日本海軍の惨敗に終わった。

 「決定版・太平洋戦争『第二段作戦』連合艦隊の錯誤と驕り」(学習研究社)によると、日本海軍は、海戦前に保有していた六隻の正規空母のうちの四隻(「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」)と多数の飛行機及び熟練の搭乗員を、ミッドウェー海戦で失った。

 だが、六月十日午後三時三十分、大本営海軍報道部がミッドウェー海戦の戦果を次のように発表した。

 「米航空母艦エンタープライズ型一隻およびホーネット型一隻撃沈。彼我上空において撃墜せる飛行機約一二〇機。重要軍事施設爆破」

 「わが方の損害。航空母艦一隻喪失、同一隻大破、巡洋艦一隻大破。未帰還飛行機三十五機」。

 以上が大本営発表の数字だが、実際のアメリカ海軍の損害は、航空母艦「ヨークタウン」大破(後に、伊号「六十八潜」が撃沈)。駆逐艦「ハンマン」沈没。航空機喪失一〇〇機未満。戦死者は、航空機搭乗員二〇八人を含む三六二人。

 また、日本海軍の実際の損害は、航空母艦「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の四隻沈没。重巡洋艦「三隈」沈没。駆逐艦「荒潮」大破。重巡洋艦「最上」中破。航空機喪失二八九機。戦死者は、航空機搭乗員一一〇人を含む三〇五七人。

 ミッドウェー海戦における日本海軍の敗因には、様々な複合要因がある。戦術的には、各空母のミッドウェー基地攻撃隊の収容、二度の兵装転換などによる攻撃隊発進の遅れなどがある。

 だが、それら戦術的要因以前の問題として、日本海軍の慢心から来るアメリカ軍への過小評価があった。真珠湾攻撃をはじめとする緒戦時における連合艦隊の大勝利で、連合艦隊は敵の戦力を過小評価していた。

 連合艦隊司令長官・山本五十六大将自身が、ミッドウェーに向けての出撃では、大名行列のごときお祭り気分で、「戦艦の行列を揃えて、示威運動を行い、敵出てきたらば軽く捻る考えにて」出撃したという。

 「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)によると、ミッドウェー海戦当時、柴田武雄中佐は、第三航空隊副長兼飛行長として、セレベス島のケンダリー基地にいた。

 ミッドウェー海戦で、空母「赤城」「加賀」「蒼龍」が次々にやられていくことが、第三航空隊士官室にいた柴田中佐らに、電信室で傍受した電報によって、知らされていた。

 士官室のあちこちから「ザマー・ミヤガレ」という罵声が起こった。だが、この罵声は、決して、苦境に陥っている南雲艦隊全員に対するものではなく、南雲艦隊の航空甲参謀・源田実中佐ひとりだけに対するものであることは、お互い以心伝心的にわかっていた。

 なぜなら、源田中佐が真珠湾から帰ってから、あちこちで、「真珠湾はオレがやったんだ。お前らぐずぐずしていると、オレがみんなやってしまうぞ」と公言しまわっていた。

 その、人を馬鹿にした驕慢不遜な態度・暴言に、南方作戦において連戦連勝の大戦果を上げていた、柴田中佐たちは、はらわたが煮えかえるほど憤慨していたからだ。

 しかし、やがて、時間の経過とともに、大乗的なわれに帰り、「これは大変なことになった。せめて飛龍だけでも助かってくれ」と、みな、心の中で祈っていた。

 以上が、柴田の回想だが、真珠湾攻撃およびそれ以後について、第二航空戦隊司令官・山口多聞少将(海兵四〇・次席・海大二四・次席)が、連合艦隊参謀長・宇垣纒少将(海兵四〇・九番・海大二二)に答えた話として次のようなものがある。

 「好機を捉えて戦果の拡大を計り、あるいは状況の変化に即応して臨機適切な処置をするなどは、南雲部隊では一回もやっていない」