陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

674.梅津美治郎陸軍大将(14)梅津次官に歯のたたぬ西尾参謀次長は、梅津にうまくやられてしまった

2019年02月22日 | 梅津美治郎陸軍大将
 前述のように、参謀本部と陸軍省の事務当局間においては緊密な連携をとっていたが、陸軍省としては、大蔵省との予算折衝において、参謀本部の要求の全部を貫徹することが困難になった。

 そこで、梅津次官は軍務局軍事課予算班長・田村義冨(たむら・よしとみ)少佐(山梨・陸士三一・陸大三九恩賜・軍務局軍事課編制班長・北支那方面軍作戦主任参謀・歩兵大佐・北支那方面軍作戦課長・関東軍作戦課長・少将・関東軍補給監部参謀長兼関東軍参謀副長・中部太平洋方面艦隊参謀副長・第三一軍参謀長・昭和十九年グアム島で自決・享年四十七歳・中将・功四級)に意を含めて、予算の削減を決意した。大蔵省と妥協したのだ。

 その結果を参謀本部に連絡をしたところ、当時参謀本部の軍備充実や予算を担当していた、第二課長・富永恭次大佐は烈火の如く憤った。

 当時の参謀本部の参謀総長と参謀次長、第一部長は次の通り。

 参謀総長・閑院宮載仁親王(かんいんのみや・ことひとしんのう)元帥(京都・皇族・陸軍幼年学校・フランスサン・シール陸軍士官学校・ソーミュール騎兵学校・フランス陸軍大学校・騎兵第一連隊長・騎兵大佐・参謀本部部員・欧州出張・少将・騎兵第二旅団長・中将・第一師団長・近衛師団長・大将・ロシア出張・元帥・議定官・参謀総長・議定官・貴族院議員・昭和二十年薨去・国葬・享年七十九歳・大勲位・功一級)。

 参謀次長・西尾寿造(にそ・としぞう)中将(鳥取・陸士一四次席・陸大二二次席・陸軍大学校教官・歩兵大佐・歩兵第四〇連隊長・教育本部総務部第一課長・少将・歩兵第三九旅団長・軍事調査委員長・参謀本部第四部長・中将・関東軍参謀長・参謀次長・第二軍司令官・教育総監・大将・支那派遣軍総司令官・軍事参議官・予備役・東京都長官・終戦・昭和三十五年死去・享年七十九歳・正三位・勲一等旭日大綬章・功一級)。

 参謀本部第一部長・桑木崇明(くわき・たかあきら)少将(石川・陸士一六恩賜・陸大二六恩賜・陸軍大学校教官・砲兵大佐・野重砲第二連隊長・参謀本部演習課長・少将・野重砲第三旅団長・台湾軍参謀長・野砲兵学校幹事・参謀本部第一部長・中将・留守第一師団長・第一一〇師団長・予備役・終戦・昭和二十年死去・享年六十歳・功三級)。

 当時、参謀本部第二課長(作戦)だった富永恭二大佐は、後に次にように回想している。

 「梅津次官に歯のたたぬ西尾参謀次長は、梅津にうまくやられてしまった。予算事項に関係をもった富永に一言の挨拶もなく、要求していた額よりもはるかに少額の予算で妥結してしまった」
 
「あの時、富永は梅津次官と直接に渡り合わなかったが、上司をして梅津次官に対して、『一体、今度の予算問題では省部手続き上の誤りがあるのではないか』と難詰せしめた」。

 富永大佐は、第二課の課員全員を連れて閑院宮親王参謀総長に対して「国防の責任が負えない」との理由で進退伺を提出した。

 十一月二十四日、桑木崇明第一部長及び第二課全員に対し、閑院宮親王参謀総長より異例の訓示があり、軍備充実予算に関する紛糾も一応けりが付いた。

 十二月一日、寺内陸軍大臣、閑院宮親王参謀総長連署で軍備充実に関する件を上奏した。

 次いで十二月三日、軍事参議官会議を開催し、軍備充実に関し、寺内陸軍大臣、閑院宮親王参謀総長より説明があった。

 当時の侍従武官長は、宇佐美興屋(うさみ・おきいえ)中将(東京・陸士一四・陸大二五恩賜・陸軍省軍務局騎兵課長・騎兵大佐・騎兵第一三連隊長・東京警備参謀長・少将・騎兵第三旅団長・騎兵学校長・騎兵集団長・中将・騎兵監・第七師団長・侍従武官長・軍事参議官・予備役・終戦・昭和四十五年死去・享年八十七歳・勲一等旭日大綬章)だった。

 会議終了後、議長たる閑院宮親王参謀総長に対し、参謀本部において、宇佐美侍従武官長より御沙汰を伝達された。

 その要旨は、「軍備充実は、国力とくに国家財政を考慮して実施せよ」との内容のものであった。

 昭和十二年一月七日の人事異動で、参謀本部第一部長・桑木崇明少将と第二課長・富永恭次大佐が他に転出させられた。

673.梅津美治郎陸軍大将(13)梅津次官と渡り合い、中佐が中将を相手に随分不遜な言動をした

2019年02月15日 | 梅津美治郎陸軍大将
 次に、人事の一元化については、二・二六事件による革新思想を有する将校の横断的結束が発生したことにかんがみ、人事を一元化して粛軍の目的を達しようと企図した。

 参謀将校、技術将校、各部将校の人事を挙げて陸軍省(人事局)に移した。従来、参謀将校については、「参謀総長は参謀の職にある陸軍将校を統督し」とあったのを「統括し」と改めている。

 この参謀人事を陸軍省に移したことについて、当時の参謀本部庶務課高級部員・富永恭次(とみなが・きょうじ)中佐(長崎・陸士二五・陸大三五・参謀本部庶務課長代理・歩兵大佐・参謀本部作戦課長・関東軍第二課長・近衛歩兵第二連隊長・少将・参謀本部第四部長・参謀本部第一部長・陸軍省人事局長・中将・陸軍次官・第四航空軍司令官・予備役・第一三九師団長・終戦・シベリア抑留・帰国・昭和三十五年死去・享年六十八歳・功三級)は、後に次の様に述べている。

 「二・二六事件の直後、寺内大臣の次官として梅津中将は寺内に人事一元化の奏請をさせたが、当時参謀本部に相談することなく独断でやった」

 「この時、私は庶務課長代理であったが、梅津次官と渡り合い、中佐が中将を相手に随分不遜な言動をした」。

 梅津中将としては、各方面に相談していては、まとまらないかもしれないと考えて、陸軍省首脳のみで取りまとめて決定したものと思われる。

 富永中佐は、二・二六事件の興奮もあったものか、方々に怒鳴り込んでいたので、補任課長・加藤守雄(かとう・もりお)大佐(東京・陸士二四・陸大三二・ドイツ駐在・陸軍省人事局補任課高級課員・歩兵大佐・人事局補任課長・歩兵第三四連隊長・舞鶴要塞司令官・少将・仙台幼年学校長・昭和十四年死去・享年四十九歳)は、次の様に言って、富永中佐に懇願した。

 「君が今そんなに騒ぎ出しては、経理局や医務局がワンワン騒ぎ出して大変な混乱に陥る。陸軍省が参謀本部に一言の挨拶もなく人事の一元化を断行してしまったことは申し訳ないが、すでに内奏裁可済みのことである。なんとか穏便にすましてくれ」。

 そこで、加藤大佐と富永中佐とで、妥協案を作った。それは、既に内奏済みなので、表面的には陸軍省案に従い、実質的には参謀本部案を生かすため、次の様な意味の協定覚書を作製して署名した。

 一、参謀人事については、従来通り参謀本部で起案する。
 二、陸大新卒者の配当も従来通り参謀本部で起案する。
 三、この協定は秘密にする。

 第二項の陸大卒業者の配属をめぐる問題は、これまで度々陸軍省と参謀本部の間で権限争いがあり、陸軍省の主張は補任課がやるのが適当だというのに対して、参謀本部は、陸大卒業者の考科表は参謀本部が持っており。陸軍省側は持っていないから参謀本部(庶務課)がやるのが当然であるとして、陸軍省の主張に反対していた。

 この秘密協定は、陸軍省の各局にも波紋を起こさずに済んだが、これは各局が秘密協定を知らなかったためであり、この協定は終戦まで続いた。

 梅津次官は参謀本部総務部長として、参謀人事を主管した経験もあり、参謀本部庶務課と陸軍省の補任課で権限争いがしばしば起こっていたことも十分承知していたが、粛軍人事という大局的見地より、このような人事の一元化に踏み切ったと言われている。

 その後、太平洋戦争となり、梅津大将が参謀総長となり、麹町の官邸に省部の首脳を招待した席上で、当時、陸軍次官であった富永恭次中将は、梅津大将に次のようなことを言った。

 「かつて閣下は、陸軍次官として参謀人事を陸軍省に取り上げ、私は庶務課長代理として、これに猛烈に反対したが、今日、閣下は参謀総長として、どんなお考えでしょうか」。

 座談的な雰囲気での言い回しであったが、富永中将は、参謀総長である梅津大将に対して、相当な皮肉の質問をした。

 これに対して、梅津大将は、ぽつりと、「やっぱり立場立場でね」と答えただけだった。

 昭和十一年九月十九日、陸軍省は明年度の陸軍予算概算を大蔵省に送るとともに、軍備充実中陸軍省関係事項について陸軍大臣より上奏した。
 
 ところが、この軍備充実予算をめぐって、また省部間に紛糾が生じた。

672.梅津美治郎陸軍大将(12)梅津次官を失脚させようとする各種の流言蜚語が飛び、その中傷が巷に氾濫した

2019年02月08日 | 梅津美治郎陸軍大将
 だが、梅津中将は省部の幕僚の一致した推薦により次官に浮かび上がった。梅津中将が、こうした若手幕僚の好評を博した最大の理由は次の二つである。

 (一)昭和十年六月の梅津・何応欽(かおうきん)協定を、現地の支那駐屯軍司令官として成功させて北支の治安を回復し、在留日本人の安定を図ることに成功した。

 (二)二・二六事件突発の際、仙台の第二師団長としての決心が極めて明確であり、「反乱軍即時討伐すべし」との強硬意見を直ちに中央に電報要請した水際立った態度に中央部幕僚が感動を覚えた。

 こうした中央部幕僚の中心をなしていたのが、次の四名だった。

 参謀本部作戦部長・石原莞爾(いしわら・かんじ)大佐(山形・陸士二一・六番・陸大三〇次席・関東軍作戦課長・歩兵大佐・歩兵第四連隊長・参謀本部作戦課長・参謀本部戦争指導課長・少将・参謀本部第一部長・関東軍参謀副長・舞鶴要塞司令官・中将・第一六師団長・待命・立命館大学講師・予備役・終戦・山形県に転居・東京裁判酒田出張法廷に証人として出廷・昭和二十四年肺水腫と膀胱がんで病死・享年六十歳・勲一等瑞宝章・功三級)。

 陸軍省軍務局軍事課高級課員・武藤章(むとう・あきら)中佐(熊本・陸士二五・陸大三二恩賜・軍務局軍事課高級課員・関東軍第二課長・歩兵大佐・参謀本部作戦課長・中支那方面軍参謀副長・北支那方面軍参謀副長・少将・陸軍省軍務局長・中将・近衛第二師団長・第一四方面軍参謀長・終戦・東京裁判で死刑判決・昭和二十三年刑死・享年五十六歳・功三級・ドイツ鷲勲章功労十字星章等)。

 陸軍省軍務局兵務課高級課員・田中新一(たなか・しんいち)中佐(新潟・陸士二五・陸大三五・軍務局兵務課高級課員・歩兵大佐・兵務局兵務課長・軍務局軍事課長・駐蒙軍参謀長・少将・参謀本部第一部長・中将・第一八師団長・ビルマ方面軍参謀長・東北軍管区附・終戦・戦後「大戦突入の真相」出版・昭和五十一年死去・享年八十三歳・功三級)。

 陸軍省軍務局軍事課満州班長・片倉衷(かたくら・ただし)少佐(宮城・陸士三一・陸大四〇・軍務局軍事課満州班長・軍務局軍務課員・関東軍参謀・歩兵中佐・関東軍第四課長・歩兵第五三連隊長・歩兵大佐・歩兵学校研究主事・関東防衛軍高級参謀・第一五軍高級参謀・ビルマ方面軍作戦課長・少将・第三三軍参謀長・下志津教導飛行師団長・第二〇二師団長・終戦・大平商事会長・スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー会長・国際親善隣協会理事長・平成三年死去・享年九十三歳・功四級)。

 梅津美治郎中将は、二・二六事件後、内外極めて複雑多端な環境において昭和十一年三月から昭和十三年五月までの二年二か月余の長期に渡り、陸軍次官の要職にあった。

 当時は軍の政治上の発言権が強大であったのにかかわらず、「政治を好まず、派閥に中正である」ことを信条とした梅津中将は、幕僚の政治的策動を極力排撃して軍の中正を堅持するに努めた。

 そしてこの態度に不満な中堅幕僚や政治浪人、右翼たちから忌避されながらも「梅津の陸軍か」「陸軍の梅津か」と評されるほど偉大なる軍の重鎮的存在となっていった。

 梅津次官を失脚させようとする各種の流言蜚語が飛び、その中傷が巷に氾濫したが、真の実力者である梅津中将を失脚せしむることはできなかった。

 梅津中将が陸軍次官として、寺内寿一陸軍大臣を補佐して、波乱万丈の時代に、その真価を発揮した主要なる現象は次の通り。

 (一)粛軍の実現、二・二六事件の事後処理。
 (二)時局による軍内機構の改革、特に陸相現役制の復活。
 (三)宇垣内閣流産、林内閣の成立。
 (四)支那事変の勃発とその処理対策。

 梅津中将が行った最も重要な改革は、陸軍省軍務局を名実ともに陸軍軍政の中枢局としたこと。もう一つは、人事の一元化である。

 軍務局では、軍事課が陸軍軍政、装備、予算等の大綱を掌握する。新設された軍務課は、国防政策、外国軍事、帝国議会、国防思想の普及及び思想対策に関する事項を担任する所謂政策幕僚を一課として独立させた。

 梅津次官は、政策幕僚の一課を新設することにより、各人が勝手に政策に嘴を容れるのを排除しようと企図したのである。

 だが、多年政治支配の座にあり、国会の大多数を制していた政党にとっては、軍部大臣の現役制とともに軍が軍務課の新設により政治面を睥睨(へいげい)するのではないかと、最も警戒の目を注ぐに至った。

 この官制の改革は、要するに、とくに陸軍の政治面への発言を統制強化するとともに、軍備の充実に対応せしめ、かつ警備関係を強化して軍の団結を鞏固(きょうこ)にしようと図ったもので、換言すれば、「国政一新」「軍備充実」「粛軍」の三大使命を達成するのに対応する陸軍省の態勢強化であった。



671.梅津美治郎陸軍大将(11)父は日記も書かない。手帖もつけない。歌や詩も詠まない。遺書もない

2019年02月01日 | 梅津美治郎陸軍大将
 長男・梅津美一氏(東京帝国大学在学中に学徒出陣・海軍予備学生・海軍少尉・戦後東京裁判で父の副弁護人)の回想は次の通り(要旨抜粋)。

 父の性格は、一言でいえばセンチメンタリズムの無い現実主義者、合理主義者といえよう。そして、その性格は、石橋を叩いても渡らないという慎重さで裏打ちされていた。

 例えば、父は四十歳近くになって結婚した。そして数年後に、姉と私を残して母に死別したが、遂に再婚しなかった。

 これは、継母を迎える子供たちの哀れさを考えたのは勿論であろうが、一面、父の慎重さというか、悪く言えば優柔不断のためであったのではなかろうかと思われる。

 父は日記も書かない。手帖もつけない。歌や詩も詠まない。遺書もないということに表現されているように、全く現実主義者であった。

 この父に、センチメンタリズムのかけらが、ほの見えた二つの事実がある。

 一つは、二・二六事件の関係者の処刑に日は、確か日曜日であったが、いつも日曜日には、母のいない私共姉弟をどこかに遊びに連れて行ってくれるのが常の父であったが、朝から、「今日はどこにも連れて行かない。今日は一日外出しない」と、私たちに言った父は、一日ひっそりと黙想していた。

 後で、私は父が二・二六事件関係者の処刑に対し責任者として、密かに弔意を表したのだと分かったのだが、数少ない父の情緒の表現といえよう。

 もう一つは、私が成長してから聞いた話だが、父は歩兵第三連隊長時代に母を亡くした。当時、三連隊では青山墓地でラッパ演習をしていたが、青山の墓地に母を葬ってから、父はこのラッパ演習を禁止したという。

 これも父の数少ないセンチメンタリズムの表現の例といえるのではないだろうか。

 このような現実主義者であった父は、軍人らしい豪放磊落、親分的雰囲気はみじんもなかった。子供の眼から見ても、あらゆる人に自分をさらけ出さない配慮をし、溝を越えない限度ある交際をしていたように思われる。

 従って親分子分の関係になった人もいない。一般世俗受けするような行動もしないので、閉鎖的で冷たいと見られ、スタイリストと感ぜられたことも多かったと思われる。

 こうした性格は、合理主義の外国生活の長かった父に自然に培われ、拡大されて、いわゆるバタくさい、ダンディといわれるスタイリスト、合理的、近代的軍人としての一見冷たい風格を形成したのだと思われる。

 東京裁判での父には、起訴内容が殆どなく、キーナン側の流説によれば、梅津と重光は無罪であり、裁判進行も梅津は簡単にせよと言われていたが、ソ連の主張により無期禁固となったようである。

 こう書いてくると、父の人間像が、いかにも冷徹一途の合理主義者というように見えて来て、いささか気の毒になって来る。

 家庭における父は、温かくユーモラスで、時には茶目っ気さえ見せる良き父であった。特に母を早く失った私共姉弟には、多忙な公務を割いて目をかけてくれた。

 クリスマスの日などは、どこからか沢山のプレゼントを買ってきて、二階の来客用の八畳の間を会場とし、八時に私共を寝かしつけた後、女中に手伝わせて、自らクリスマスツリーの飾りつけをし、それらのプレゼントを雪にみたてた綿の下やツリーの枝の蔭などに隠して準備する。

 そして翌朝、朝食の済むまでは、その部屋は全く立入禁止である。食後、父の「さあ入ってもいいよ」という言葉で二階へ駆け上り、あちこちからプレゼントの包みを見出しては大喜びする私たち姉弟を眺めて、目を細くしていた父の顔が忘れられないのである。

 以上が、梅津美治郎大将の長女、長男の回想である。

 さて、昭和十一年三月二十三日陸軍次官に就任した梅津美治郎中将は、陸軍大臣・寺内寿一大将の下で勤務することになった。
 
 中央部の経験が少ない貴族の御曹司である寺内大将は、元来軍政の衝に就く適任者ではなかったが、多くの先輩の大将連が辞職した余波で大臣に就任したと言われている。