陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

418.板倉光馬海軍少佐(18)こんな厚かましい、心臓の強い娘は、真っ平ごめん

2014年03月27日 | 板倉光馬海軍少佐
 「伝説の潜水艦長」(板倉恭子・片岡紀明・光人社)によると、板倉光馬の夫人、恭子は大正六年生まれで、大連で育った。

 父の池田勲旭は、陸軍士官学校を病気で中退、アメリカに渡り、ペンシルヴァニア大学を卒業した。アメリカに二十年いた後、奉天で物産会社を立ち上げ、経営者となった。

 池田恭子が女学校三年のとき、恭子の従兄、鹿島正徳少尉(福岡・海兵五八・駆逐艦「呉竹」艦長・駆逐艦「羽風」艦長・駆逐艦「夕凪」艦長・中佐)が巡洋艦「那智」に乗組み、大連に来た。

 その縁で、恭子は女学校の友人とともに、「那智」のガンルームの若い士官たちと友達になった。恭子は海軍士官が好きになった。

 昭和十二年に父の池田勲旭が病死した。それで伯父が心配して、一人娘の恭子に養子を迎えようとした。だが、恭子は「海軍士官でなきゃイヤだ」と言った。

 そこで福岡の従兄、鹿島正徳大尉を婿養子に迎えたらどうかということになり、伯父が手紙を出した。

 だが、恭子は正徳のことはよく知っており、「自分とは合わないからダメ」と言ったにもかかわらず、伯父が手紙を出したのだ。

 ところが、正徳からは返事が来なかった。それで、恭子は「わたしは、お兄さんのこと、なんとも思っていないから、心配しなくていい」という内容の手紙を出した。

 恭子は、そのころ、海軍士官の進級とか転勤とか、いろんな動静が分かる官報をよく見ていて、正徳と同じ、伊号第六八潜水艦に、海兵六一期の板倉光馬中尉というのが乗っていた。恭子は正徳より、この方が良さそうだ、と思った。

 そこで、恭子は、板倉中尉に対する十か条の質問書を書いて、「これにふさわしかったら、お世話して下さい」と正徳に手紙を出した。

 恭子はまさかその手紙を板倉中尉に見せはしないだろうと思っていたが、正徳は板倉中尉に見せていた。

 その十か条は、礼儀正しく、正直で、思いやりがあって、などなど、一人娘の恭子が思う存分に書いたものだった。

 それを見た板倉中尉は、「こんな厚かましい、心臓の強い娘は、真っ平ごめん」と正徳に言った。一方、恭子も、正徳から「板倉は酒乱だ」というのを聞いて、真っ平ごめん、と思った。

 その後も、恭子が「海軍士官と出なければ結婚しない。そうでなければ一生独身で通す」などと、言っていたので、周囲はホトホト手を焼いていた。

 当時、練習艦隊の「八雲」に指導官として、井浦祥二郎(いうら・しょうじろう)少佐(福岡・海兵五一・海大三三・伊号六九潜水艦長・伊号第三潜水艦長・伊号七四潜水艦長・伊号第一二二潜水艦長・第三潜水隊先任参謀・軍令部第一部・第二部・第六艦隊第八潜水戦隊先任参謀・大佐・第六艦隊先任参謀・終戦・特別輸送艦「鹿島」艦長・B級戦犯指定収監・釈放・著書「潜水艦隊」)が乗組んでいた。

 恭子の従姉の夫は、入江達(いりえ・たつ)少佐(海兵五一・中佐・伊号第二一潜水艦長・第三次遣独艦伊号第三四潜水艦長・戦死・大佐)だった。

 入江少佐と井浦少佐は兵学校同期なので、入江少佐から井浦少佐に頼んで、恭子に海軍士官を紹介してもらうようにしたのだった。

 井浦少佐は「練習艦隊に乗っているものなら誰でもよいか」と言ったので、入江少佐は「良すぎる」と返事したという。

 練習艦隊の主任指導官付というのは、候補生の実地教育を行う士官で、一期から二人しか出ない優秀とされている配置だった。

 そこで紹介されたのが、主任指導官付だった板倉光馬中尉だった。井浦少佐は「板倉中尉は海軍切っての逸材です」と言ってきたのだ。

417.板倉光馬海軍少佐(17)それでも砲艦はサイドパイプを吹き、艦長は挙手の礼をしていた

2014年03月20日 | 板倉光馬海軍少佐
 十三センチ砲四門を装備する駆逐艦「如月」は、海洋でこそ“トンボ釣り”であったが、揚子江では戦艦級であった。これ以後、堀江部隊が襲われることは一度もなかった。

 上海に入港して、板倉中尉が第三艦隊の旗艦「出雲」を訪れたとき、戦務参謀から、「揚子江で座礁すると、増水期まで離礁できないから、くれぐれも注意されたい」とおどかされた。

 港務室に行くと、「揚子江の水路は時々刻々変化するので、海図は役に立ちませんよ。肝心なことは座礁したときの準備をしておくことです。それと、パイロットを雇うことです」と言われた。

 早速、板倉中尉はパイロット協会に出向いたところ、運良く、一人だけ残っていた。ブルー・ファンネル社の船長をしていたという五十年輩で赤ら顔の男が、パイプをくゆらせながら英字新聞を見ていた。

 キザなやつ……一見してピーンときた。案の定、鼻持ちならぬほど横柄で気取っていた。やれ個室が要るとか、ブリッジに肘掛け椅子を用意せよ、食事は三度とも洋食、というありさまで、出来ない相談ばかり持ちかけられ、とうとう喧嘩別れになってしまった。

 艦の保安を思うと、短慮がくやまれたが、いまさらどうしようもなかった。板倉中尉は艦に帰って、ありのままを小倉艦長に報告した。「艦橋で喧嘩ばかりされてはかなわん。気をつけてゆけば、そのうち慣れるだろう」と、小倉艦長からは、小言も言われず、むしろなぐさめられた。

 小倉少佐の父は、浄土真宗の住職ということであるが、駆逐艦長にしては珍しくおっとりした人柄で、さすがの板倉中尉も、在職中、小倉艦長に叱られたことは、一度もなかった。その翌日、南京に急行することになり、出港した。二戦速に増速してから、板倉中尉は操艦をまかされた。

 揚子江の河口は大海原と変わりない。無限に広がる黄褐色の流れに、しばし、気をとられていたとき、急に艦首波が消えた。ハッとして後方を見ると、艦尾波が小山のように盛り上がっていた。座礁したのだ。「両舷停止、両舷後舵一杯!」。板倉中尉は指示を出したが、びくともしなかった。

 「右停止、右前進強速、取り舵一杯!」。だが、依然として艦は動かなかった。なにしろ二十四ノットで突っ込んだのだ。相当深く食い込んだにちがいなかった。

 このままでは濁流に押し倒される恐れがあった。だが、しばらくすると、ジワリ、ジワリと艦首を左に振り始めた。板倉中尉はほっと胸をなぜおろした。船体には異状がなかった。

 先ほどから、艦橋でこの状況を見ていた先任将校が、自慢の髯をなでながら、「これで、艦底のカキが落ちたでしょうなあ……。当分、入渠せんでもよかですたい」と言った。

 小倉艦長も相槌をうつかのように、「うむ、速力も出るだろう。航海長、一戦速に落とせ。そう急ぐこともあるまい」と言った。

 板倉中尉は思わず目頭が熱くなった。なにげないやりとりではあるが、新前の航海長をいたわる温かい心くばりが、痛いほど感じられた。揚子江は長江の名にふさわしく、中国随一の大動脈だ。通州を過ぎたころから、河幅がいくぶん狭くなり、水路がゆるやかなカーブを画くようになった。

 そのとき、上流から真っ白に塗装した砲艦が近づいてきた。ユニオンジャックの艦旗をひるがえしていた。イギリス海軍だった。マストに「速力を微速にされたい」という国際信号旗を掲げていた。途端に、板倉中尉はムラムラと闘志がわいてきた。

 満州事変以来、居留民保護と既得権益の擁護を口実にして、ことごとにわが軍の作戦を妨害する実情は目に余るものがあった。

 いずれ日本と戦火を交える時が来るであろうことは想像に難くない。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。速力標を微速にしたまま、一戦速、二十ノットで接近した。

 艦尾波が小山のようなウネリとなって砲艦を襲った。河川の砲艦は乾舷が低く、吃水が浅いため横波に弱い。河幅は広いが水路は狭い。まして出会いがしらである。

 避けるいとまもなく、右舷に打ち寄せた濁流が、甲板を洗って反対舷に越え、その一部が艦橋を襲って、砲艦は危うく転覆しそうになった。

 それでも砲艦はサイドパイプを吹き、艦長は挙手の礼をしていた。さすがはイギリス海軍である。いかなる場合でも、国際儀礼に忠実で折り目正しい。板倉中尉は、いささか、大人気ない振る舞いが恥ずかしかった。

416.板倉光馬海軍少佐(16)空母「加賀」で、大がかりな“銀蝿”が、しかも公然と行われた

2014年03月13日 | 板倉光馬海軍少佐
 甲板士官を悩ましたものに“銀蝿”(ぎんばえ)があった。海軍独特なものであるが、とりわけ「加賀」ではひどかった。

 “銀蝿”とは、人目をかすめて、缶詰や砂糖をはじめ、貴重な食料品を失敬する、スリルをサスペンスに満ちた犯罪行為である。見つかれば善行章剥奪、軽くて上陸止めであるが、読んで字のごとく、追えど払えどあとをたたなかった。

 それなのに犯人はあがらず、おおむね迷宮入りに終わっている。というのは、必ずと言ってよいほど共謀者がいたということと、口が固かったからである。

 ところが、空母「加賀」で、大がかりな“銀蝿”が、しかも公然と行われたことがあった。板倉中尉の部下で、池田勇、東日出男という二人の候補生が、それぞれ、下甲板士官、上甲板士官として補佐していた。

 ある日のこと、池田候補生が、首をかしげながらやってきて、「錠がかかている倉庫の中から、かすかに人声がしますが、ほかに出入り口がありません。どうしたものでしょうか……」と、注進におよんできた。

 板倉中尉は現場に出かけた。「加賀」には無数といってよいほど、大小の倉庫や格納庫がある。中には就役以来一度も使用したことがないものがいくつかあった。

 人声はするが、鍵のかかったままの倉庫がそれだった。錠は錆びついて、使用された形跡がなかった。板倉中尉はおかしいなと思い、隣接の格納庫を見ると、扉の錠はなく、中には索具類が乱雑に積まれていた。

 よく調べると、奥にある隔壁のマンホールの締め付けボルトは全部はずされていた。しかもマンホールは閉まったままだった。

 これで読めた。おそらく、内側から細工をしているに違いないと板倉中尉は思った。おまけに、ボルトナットの孔までふさがれていた。

 倉庫の上は酒保物品の格納庫だった。かたすみにマンホールがあったが、これまた、上からは開かないようになっていた。

 板倉中尉がボルトナットの孔から覗いてみると、ボートクリューがローソクの灯で、車座になって酒盛りをしていた。

 眼にものを見せてくれんとばかり、板倉中尉は泡沫消火器の筒先をボルト孔につっこんで噴射したところ、蟹のように泡を吹きながら、這い上がってきた。

 ボートクリューは艦隊競技の花形であるが、普段は出入港時の舫いとり作業、戦闘配置は爆弾員や応急作業員になる。通常航海では、溺者でもない限り暇だった。

 集団“銀蝿”、それも手の込んだ知能犯だった。善行章を剥奪したくらいでは済まされそうもなかった。しかし平素の行状は悪くなかったし、若くもあり、改悛の情が顕著だった。

 そこで、板倉中尉は分隊長と相談し、表向きにすることは見合わせて、被害額を全額弁償させたうえ、日課手入れのときは、索具庫の整理整頓と、未使用の倉庫や格納庫の清掃を命じた。

 だが、“銀蝿”は依然としてあとを絶たず、ますます巧妙となり、手がかりすら残さなくなった。まさしく、“銀蝿”は浜の真砂だった。

 その後、板倉中尉は空母「加賀」と別れを告げることになった。昭和十三年三月十五日、板倉中尉は、駆逐艦「如月」(一四四五トン・乗員一五四名)の航海長兼分隊長に補された。

 「如月」艦長は小倉正身(おぐら・まさみ)少佐(岐阜・海兵五一・駆逐艦「如月」艦長・駆逐艦「満潮」艦長・中佐・駆逐艦「高波」艦長・戦死・大佐)だった。

 「如月」は古いタイプの一等駆逐艦で、馬公(台湾)を基地として中支方面の作戦を支援していた空母「龍驤」(一二七三二トン・乗員九二四名)のトンボ釣りをしていた。

 “トンボ釣り”とは、空母への着艦に失敗して不時着水した艦上機のパイロットを救出する救難任務のことで、空母に随伴する駆逐艦がこの任務を行った。

 その後、駆逐艦「如月」は第三艦隊に編入され、揚子江で作戦している堀江部隊の支援艦として従事することになった。

 堀江部隊とは、河川機雷を処分し、輸送船の水路を啓開する掃海部隊だった。そのほとんどが、トラック島を基地として鰹を捕る遠洋漁船に掃海具を装備したもので、兵装は七・七ミリ機銃一挺にすぎなかった。

 したがって、堀江部隊は、任務そのものが危険であるばかりでなく、しばしば沿岸のゲリラに襲撃され、上流に進むにつれて被害が続出し始めた。このため駆逐艦「如月」が支援艦として急派されることになった。

415.板倉光馬海軍少佐(15)黙れッ!軍艦日課を変更できるのは、艦長だけだッ!

2014年03月06日 | 板倉光馬海軍少佐
 ある日の早朝、グラマン三機に奇襲されたことがあった。仏印(ベトナム)方面から飛来したものと思われた。小型爆弾を海中に投棄して、西方に飛び立った。

 総員起床の前であったので、不意を突かれて対空砲火が間に合わなかったが、飛行甲板に待機していた零戦五機が飛び立って、二機撃墜の報がもたらされた。

 その夜のことだった。副長は、ぐでんぐでんに酔っ払って正気でないため、次席の砲術長に巡検を代行してもらった。

 ところが、下士官搭乗員室では、飲めや歌えの、ドンチャン騒ぎをやっていた。静粛であるべき巡検だろいうのに。

 あまつさえ、素っ裸の下士官搭乗員が、空のビール瓶を股間にぶらさげて、腰をくねらせながら、「弾の出ない鉄砲、ふぬけの○○○○と変わりない、そんな親父の顔見たい……アーコリャコリャ……」と歌いながら踊ると、まわりから、どっと哄笑が巻き起こった。

 普段は温厚な砲術長も、このときばかりは、顔色を変えた。板倉中尉は思わずカッとなって、駆け寄り、裸踊りの横面を思いっきりひっぱたいた。

 これを見るなり飛行科の先任下士官が飛んでくるなり、血相を変えて、「私たちは飛行長の許可を得ています。それなのに殴りつけるとは……」と言った。

 板倉中尉が「黙れッ!軍艦日課を変更できるのは、艦長だけだッ!飛行長に権限はない―。それとも、貴様たちは艦長の許可を得たとでもいうのかッ!」と一喝すると、みんなしゅんとなってしまった。

 敵機を撃墜したことで、羽目をはずす気持ちは分からないでもなかったが、砲術長に当てつけた、これ見よがしの侮辱だけは、板倉中尉は断じて許せなかった。

 余憤さめやらずして板倉中尉がガンルームに帰ったところ、早くも注進におよんでいたものとみえて、クラスメートの飛行士たちが、「戦果をあげて飲むのは、これまでのしきたりだ。貴様の立場は分からんでもないが、それにしても、少しやり過ぎではないか」と言いに来た。

 板倉中尉は着任以来のウップンがどっと噴出して「いままでがどうであろうと、俺は俺の流儀でやる。これからもビシビシやるから、分隊員によく伝えておけ。だいたい、貴様たちが甘やかし過ぎるから図に乗るのだ。少しは反省しろ」と、クラスメートにまで当たり散らした。

 その翌日、日課手入れの時間に艦内を回ってみると、搭乗員室だけが、杯盤狼籍!昨夜のままであった。板倉中尉はまたもや頭にきた。

 ただちに非番の者全部を集めて清掃を厳命した。「俺が、よろしい、と言うまでやれ。いうまでもないが、終了するまで昼食抜きだ」。

 さらに、十名あまりの見苦しい長髪族に、「丸坊主になれ」と厳達した。海軍には、髪をのばしてはいけないという規則はない。

 強いて言えば、艦船職員服務規程に、「質実剛健ニシテ、容姿端正旨トスベシ」という一項がある。髪を切らせる理由はこれしかなかった。

 ところが、二日たち三日過ぎても、一向に断髪令が実行されなかった。板倉中尉は遂に堪忍袋の緒が切れて、鋏で一握りずつ前髪を切り取った。一度命じたことは必ず実行させる。これが板倉中尉の主義だった。

 翌日の昼食後、丸坊主の十数名がガンルームに現れて、それぞれの分隊士に、櫛とポマードの瓶を差し出して、「不要になりましたので、ご使用ください」と言った。

 これを見た板倉中尉は、怒髪天を突き、「待てッ!」と、大喝した。そして、各自が持っている櫛とポマードを改めると、新品は一つもなかった。

 「貴様たちは、どこまで思い上がっているのだッ!自分の使い古しを分隊士に使わせるつもりか。それとも、俺に対する面当てかッ。どちらだッ!」。

 板倉中尉の激しい見幕に、みんな急に表情が変わった。中には、小刻みに震えだすのもいた。

 「そのままとっくり考えろ。そして……、自分がやったことが正しいと信ずる者は帰ってもよい。悪かったと思う者は、そのまま立っていろ」と、板倉中尉。

 帰った者は一人もいなかった。そのうちに、耐え切れなくなったのか、言い合わせたように、床にへばりこみ、「私たちが間違っていました。二度とこんなことはいたしません」と言って平身低頭して謝った。

 分隊士らのとりなしもあって、放免したが、板倉中尉は、心中、釈然としないものがあった。

 そのころ、渡洋爆撃の戦果がはなばなしく報道されて、搭乗員にあらずんば人にあらず、という風潮が瀰漫(びまん)していて、傍若無人の振る舞いが多く、板倉中尉はにがにがしく思っていた。