「抗命」(文春文庫)によると、第十五軍司令部の部付将校、中井悟四郎中尉が司令部で仕事をしていると、牟田口軍司令官が、参謀の藤原少佐の机の所にやってきて、中井中尉ら部付将校のいる前で、いとも弱々しげな口調で次のように言った。
「藤原、これだけ多くの部下を殺し、多くの兵器を失ったことは、司令官としての責任上、私は腹を切ってお詫びしなければ、上御一人や、将兵の霊に相済まんと思っとるが、貴官の腹蔵ない意見を聞きたい」
中井中尉らは仕事の手を休め、この興味深い話に耳を傾けた。軍司令官は本当に責任を感じ、心底からこんなことを言い出したものだろうか。自分の自害を人に相談するものがあるだろうか。言葉の裏に隠された生への執着が、言外にあふれているような疑いが、だれしもの脳裏にピンときた。
藤原参謀はと見ると、仕事の手を一瞬もとめようとはせず、作戦命令の起案の鉛筆を走らせていた。軍司令官には一瞥もくれようとはせず、表情すら動かさず、つぎのようなことを激しい口調で言った。
「昔から死ぬ、死ぬと言った人に死んだためしがありません。司令官から私は切腹するからと相談を持ち掛けられたら、幕僚としての責任上、一応形式的にも止めない訳には参りません」
続けて「司令官としての責任を真実感じておられるなら黙って腹を切って下さい。だれも邪魔したり止めたりは致しません。心置きなく腹を切って下さい。今度の作戦の失敗は、それ以上の価値があります」
取りつくしまもなくなった軍司令官は「そうか、良くわかった」と消え入りそうな、ファッ、ファッ、ファッと、どこか気の抜けた笑い声とも自嘲ともつかない声を残して、藤原参謀の机の前から去って行った。
牟田口軍司令官はインパール作戦失敗の責任を取らされ、昭和19年8月、第十五軍司令官を解任され、参謀本部附のあと12月予備役になった。だが、昭和20年1月召集され、予科士官学校長に就任した。
終戦後、昭和20年12月戦犯容疑で逮捕され昭和21年9月シンガポールに移送された。昭和23年3月釈放され帰国、東京都調布市に住んだ。
昭和36年2月26日、佐藤元中将は東京都世田谷区の病院で、肝硬変で亡くなった。告別式の日、牟田口元中将が姿を見せた。戦争が終わっても二人の気持ちは和解しなかった。しかし、牟田口元中将は、佐藤家の遺族の前に頭を下げ、「自分の至らないため、すまないことをした」と詫びた。
その後英国からアーサー・パーカー中佐の、インパール作戦での牟田口軍司令官を称える手紙が来た。牟田口元中将は、パーカー中佐の手紙を持って新聞社や雑誌社をまわり、自分の作戦が正しかったことを、当時の敵軍将校によって認められたと主張した。
牟田口元中将は、昭和38年4月23日と昭和40年2月18日の二回、国会図書館で政治史資料の録音を行った。
最初の録音は、盧溝橋事件についてであり、二回目は、インパール作戦についてであった。インパール作戦については、牟田口元中将は、パーカー中佐の手紙にふれて、話をした。
昭和40年7月12日、北九州市で北九州ビルマ方面戦没者合同慰霊祭が催された。招かれて出席した牟田口元中将は、意気盛んな様子で、挨拶に立つと、英軍のパーカー書簡について語った。
続けて、河辺ビルマ方面軍司令官がディマプール進撃を制止したから負けたこと、弓、烈、祭の三師団長がつまらない人物だったので、早く更迭しておけば勝っていたことなどを語った。
牟田口元中将は、最後に印刷された「牟田口文書」をふりかざして、「くわしくは、これを読んでください」と叫んだ。参列の遺族は意外な話に驚き、あきれた。せめて、一言申し訳なかったと言って欲しかったという。
昭和41年8月2日、牟田口元中将は、亡くなった。喘息、胆嚢症、心筋梗塞で加療中に脳溢血を併発した。七十七歳だった。
告別式は8月4日、東京都調布市の自宅で行われた。会葬者は長い列をつくった。その中に、荒木貞夫元大将ら旧将軍の顔も見えた。
受付の係りの前にはパンフレットが高く積まれ、会葬者に渡された。それが牟田口元中将の、あの「国会図書館における説明資料」だった。
(「牟田口廉也陸軍中将」は今回で終わりです。次回からは「米内光政海軍大将」が始まります)
「藤原、これだけ多くの部下を殺し、多くの兵器を失ったことは、司令官としての責任上、私は腹を切ってお詫びしなければ、上御一人や、将兵の霊に相済まんと思っとるが、貴官の腹蔵ない意見を聞きたい」
中井中尉らは仕事の手を休め、この興味深い話に耳を傾けた。軍司令官は本当に責任を感じ、心底からこんなことを言い出したものだろうか。自分の自害を人に相談するものがあるだろうか。言葉の裏に隠された生への執着が、言外にあふれているような疑いが、だれしもの脳裏にピンときた。
藤原参謀はと見ると、仕事の手を一瞬もとめようとはせず、作戦命令の起案の鉛筆を走らせていた。軍司令官には一瞥もくれようとはせず、表情すら動かさず、つぎのようなことを激しい口調で言った。
「昔から死ぬ、死ぬと言った人に死んだためしがありません。司令官から私は切腹するからと相談を持ち掛けられたら、幕僚としての責任上、一応形式的にも止めない訳には参りません」
続けて「司令官としての責任を真実感じておられるなら黙って腹を切って下さい。だれも邪魔したり止めたりは致しません。心置きなく腹を切って下さい。今度の作戦の失敗は、それ以上の価値があります」
取りつくしまもなくなった軍司令官は「そうか、良くわかった」と消え入りそうな、ファッ、ファッ、ファッと、どこか気の抜けた笑い声とも自嘲ともつかない声を残して、藤原参謀の机の前から去って行った。
牟田口軍司令官はインパール作戦失敗の責任を取らされ、昭和19年8月、第十五軍司令官を解任され、参謀本部附のあと12月予備役になった。だが、昭和20年1月召集され、予科士官学校長に就任した。
終戦後、昭和20年12月戦犯容疑で逮捕され昭和21年9月シンガポールに移送された。昭和23年3月釈放され帰国、東京都調布市に住んだ。
昭和36年2月26日、佐藤元中将は東京都世田谷区の病院で、肝硬変で亡くなった。告別式の日、牟田口元中将が姿を見せた。戦争が終わっても二人の気持ちは和解しなかった。しかし、牟田口元中将は、佐藤家の遺族の前に頭を下げ、「自分の至らないため、すまないことをした」と詫びた。
その後英国からアーサー・パーカー中佐の、インパール作戦での牟田口軍司令官を称える手紙が来た。牟田口元中将は、パーカー中佐の手紙を持って新聞社や雑誌社をまわり、自分の作戦が正しかったことを、当時の敵軍将校によって認められたと主張した。
牟田口元中将は、昭和38年4月23日と昭和40年2月18日の二回、国会図書館で政治史資料の録音を行った。
最初の録音は、盧溝橋事件についてであり、二回目は、インパール作戦についてであった。インパール作戦については、牟田口元中将は、パーカー中佐の手紙にふれて、話をした。
昭和40年7月12日、北九州市で北九州ビルマ方面戦没者合同慰霊祭が催された。招かれて出席した牟田口元中将は、意気盛んな様子で、挨拶に立つと、英軍のパーカー書簡について語った。
続けて、河辺ビルマ方面軍司令官がディマプール進撃を制止したから負けたこと、弓、烈、祭の三師団長がつまらない人物だったので、早く更迭しておけば勝っていたことなどを語った。
牟田口元中将は、最後に印刷された「牟田口文書」をふりかざして、「くわしくは、これを読んでください」と叫んだ。参列の遺族は意外な話に驚き、あきれた。せめて、一言申し訳なかったと言って欲しかったという。
昭和41年8月2日、牟田口元中将は、亡くなった。喘息、胆嚢症、心筋梗塞で加療中に脳溢血を併発した。七十七歳だった。
告別式は8月4日、東京都調布市の自宅で行われた。会葬者は長い列をつくった。その中に、荒木貞夫元大将ら旧将軍の顔も見えた。
受付の係りの前にはパンフレットが高く積まれ、会葬者に渡された。それが牟田口元中将の、あの「国会図書館における説明資料」だった。
(「牟田口廉也陸軍中将」は今回で終わりです。次回からは「米内光政海軍大将」が始まります)
牟田口一族は当時犠牲になった兵士のために未来永劫、子々孫々、謝罪の精神を背負い、ひっそり小さく生きていきなさい
これからの情報社会、われわれ日本人は牟田口の犯した小ざかしさと愚行を忘れないで引き継いでいきますから
牟田口連也氏に関する事績については、個別に扱われる事柄であり、それ以上の意味はありません。どのような愚行であれ失敗であれ、それは軍とは直接関わっていないであろう彼の親類縁者を罰する理由にはならないのです。
牟田口中将の失敗は当時の陸軍の、ひいては現在の日本人にも繋がる問題として研究するべきテーマではありますが、それと親類縁者の方々を結びつけるのは意味が無い。そこは切り分けるべきでしょう。
縁者の方に礫をぶつけるのではなく、牟田口中将を育てた組織(ひいては国家)の内実を知り、日本人にとっての反省課題とするのが筋と思います。
こんなバカ殿にうちのじい様がもてあそばれていたと思うとじい様がかわいそう。
これが近代日本の模範的上司像
当時26歳だったそうです。
巨大な墓碑にそう刻まれているだけで、遺骨も遺髪も
何一つ遺品が戻ってくることは無かったようです。
もし、記録にあるように自身の功績のみを焦って
この様な戦死者の山を築いたのであれば、この名前に
明るい未来などあってはならないと感じます。
せめて、責任を感じて司令官として自決なさる程の人物であれば・・・と思いますが
その様な人物は、自らの功績など微塵も考えるはずがありませんね。
食料も弾薬も無く、十分に戦うことも出来ずに遠い南方の地で散っていった若い命に、慰霊の行為は無いのでしょうか。
私の叔父は、当時二等兵であったようですが、遠い故郷を思いながら無念の想いであったろうと思います。
今も故郷には、空っぽの巨大な墓標が建っています。