昭和十九年三月、インパール作戦は開始された。第十五軍隷下の三個師団は、ビルマからインドへ国境山脈を越えて急進した。だが、四月下旬までに、各師団は損害を多く出し、攻撃は挫折した。食糧も武器・弾薬も足りなくなくなった。
作戦の成否は各方面から重大な関心が寄せられていた。昭和天皇も大いに気にされていた。
侍従武官・尾形健一大佐の日誌によると、四月十四日、天皇は「報告ナキハウマク行カヌノデハナイカ。攻撃失敗セリト云フガ壊滅的打撃ヲ受ケタノデハナイカ」とつぶやかれたという。
インパール作戦はその後も続行され、損害はさらに拡大した。第十五軍隷下の三師団長は、無謀な攻撃を押し付けておきながら、食糧も弾薬も補給しない牟田口軍司令官に対して、怒り心頭に達していた。
祭・第十五師団長・山内正文中将は、第五飛行師団あての電文に「第一線部隊をして此れに立ち至らしめたものは実に軍と牟田口の無能のためなり」と記している。
弓・第三十三師団長・柳田元三中将も再三、第十五軍に対して「作戦中止」を具申している。
牟田口軍司令官は、まず柳田師団長を、五月九日、「戦意不足」として更迭した。続いて、六月十日、病弱な山内師団長を解任した。
さらに、烈・第三十一師団長・佐藤幸徳中将を七月九日、「抗命」のかどで、罷免した。「抗命」は命令に逆らうことで、軍法会議に処せられる重大なものであった。
「全滅」(文春文庫)によると、コヒマを攻撃していた烈・第三十一師団(佐藤幸徳師団長)では、英軍の反撃がすさまじく、逆に日本軍陣地が突破され始めた。攻撃部隊の消耗も激しく、中隊の生存者は七名というところもあった。弾薬や食糧の補給がないため、戦力の差が歴然であった。
第三十一師団司令部では第十五軍司令部に、再三にわたり食糧と弾薬を要請したが、約束は守られず、補給はなかった。もはや英軍を阻止することは不可能に近かった。
第三十一師団司令部の周辺にも英軍が出没する事態までになった。佐藤師団長は、第十五軍司令部に、何度も撤退の要請電報を打ったが、牟田口軍司令官は、これを許さなかった。
六月二日、ついに佐藤師団長は独断でコヒマ攻撃中止命令を出した。第三十一師団はチュデマまで撤退を始めた。これは第十五軍の命令に背くものであった。後に佐藤中将は、抗命罪に問われる。だが佐藤師団長はこれを独断専行と主張した。
撤退する途中で、師団兵器部長の河原少佐はつぶやいた。「なんといっても、これは牟田口中将の責任だ。こんな無茶な、無計画な、一体、なんのための作戦だったのか。こんな作戦に喜んで死ねるものか。死んだ者がかわいそうだ」
師団はウクルルまで下がることにした。攻撃の後方主要陣地で、そこには第十五軍との約束で補給された食糧が大量に積まれているはずだった。だが、驚くべきことに、そこにはなにもなかった。
佐藤師団長は、怒りと同時に、全身に寒気に似たものが走った。師団の重要拠点に食糧も一発の弾薬も補給されていなかったのだ。佐藤師団長はさらに、フミネまで下がることを決意した。フミネには食糧が集積してあるはずだ。
六月二十一日、佐藤師団長は第十五軍司令部とビルマ方面軍司令部に次の電報を発信した。
「師団はウクルルで何らの補給をも受くることを得ず。久野村軍参謀長以下幕僚の能力は、正に士官候補生以下なり。しかも第一線の状況に無知なり。従って軍の作戦指導は支離滅裂、食うに糧なく、撃つに弾なく、戦力尽き果てた師団を、再び駆ってインパール攻略に向かわしめんとする軍命令なるや、全く驚くほかなし。師団は戦力を回復するため確実に補給を受け得る地点に移動するに決す」
作戦の成否は各方面から重大な関心が寄せられていた。昭和天皇も大いに気にされていた。
侍従武官・尾形健一大佐の日誌によると、四月十四日、天皇は「報告ナキハウマク行カヌノデハナイカ。攻撃失敗セリト云フガ壊滅的打撃ヲ受ケタノデハナイカ」とつぶやかれたという。
インパール作戦はその後も続行され、損害はさらに拡大した。第十五軍隷下の三師団長は、無謀な攻撃を押し付けておきながら、食糧も弾薬も補給しない牟田口軍司令官に対して、怒り心頭に達していた。
祭・第十五師団長・山内正文中将は、第五飛行師団あての電文に「第一線部隊をして此れに立ち至らしめたものは実に軍と牟田口の無能のためなり」と記している。
弓・第三十三師団長・柳田元三中将も再三、第十五軍に対して「作戦中止」を具申している。
牟田口軍司令官は、まず柳田師団長を、五月九日、「戦意不足」として更迭した。続いて、六月十日、病弱な山内師団長を解任した。
さらに、烈・第三十一師団長・佐藤幸徳中将を七月九日、「抗命」のかどで、罷免した。「抗命」は命令に逆らうことで、軍法会議に処せられる重大なものであった。
「全滅」(文春文庫)によると、コヒマを攻撃していた烈・第三十一師団(佐藤幸徳師団長)では、英軍の反撃がすさまじく、逆に日本軍陣地が突破され始めた。攻撃部隊の消耗も激しく、中隊の生存者は七名というところもあった。弾薬や食糧の補給がないため、戦力の差が歴然であった。
第三十一師団司令部では第十五軍司令部に、再三にわたり食糧と弾薬を要請したが、約束は守られず、補給はなかった。もはや英軍を阻止することは不可能に近かった。
第三十一師団司令部の周辺にも英軍が出没する事態までになった。佐藤師団長は、第十五軍司令部に、何度も撤退の要請電報を打ったが、牟田口軍司令官は、これを許さなかった。
六月二日、ついに佐藤師団長は独断でコヒマ攻撃中止命令を出した。第三十一師団はチュデマまで撤退を始めた。これは第十五軍の命令に背くものであった。後に佐藤中将は、抗命罪に問われる。だが佐藤師団長はこれを独断専行と主張した。
撤退する途中で、師団兵器部長の河原少佐はつぶやいた。「なんといっても、これは牟田口中将の責任だ。こんな無茶な、無計画な、一体、なんのための作戦だったのか。こんな作戦に喜んで死ねるものか。死んだ者がかわいそうだ」
師団はウクルルまで下がることにした。攻撃の後方主要陣地で、そこには第十五軍との約束で補給された食糧が大量に積まれているはずだった。だが、驚くべきことに、そこにはなにもなかった。
佐藤師団長は、怒りと同時に、全身に寒気に似たものが走った。師団の重要拠点に食糧も一発の弾薬も補給されていなかったのだ。佐藤師団長はさらに、フミネまで下がることを決意した。フミネには食糧が集積してあるはずだ。
六月二十一日、佐藤師団長は第十五軍司令部とビルマ方面軍司令部に次の電報を発信した。
「師団はウクルルで何らの補給をも受くることを得ず。久野村軍参謀長以下幕僚の能力は、正に士官候補生以下なり。しかも第一線の状況に無知なり。従って軍の作戦指導は支離滅裂、食うに糧なく、撃つに弾なく、戦力尽き果てた師団を、再び駆ってインパール攻略に向かわしめんとする軍命令なるや、全く驚くほかなし。師団は戦力を回復するため確実に補給を受け得る地点に移動するに決す」