陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

157.牟田口廉也陸軍中将(7) 久野村軍参謀長以下幕僚の能力は、正に士官候補生以下なり

2009年03月27日 | 牟田口廉也陸軍中将
 昭和十九年三月、インパール作戦は開始された。第十五軍隷下の三個師団は、ビルマからインドへ国境山脈を越えて急進した。だが、四月下旬までに、各師団は損害を多く出し、攻撃は挫折した。食糧も武器・弾薬も足りなくなくなった。

 作戦の成否は各方面から重大な関心が寄せられていた。昭和天皇も大いに気にされていた。

 侍従武官・尾形健一大佐の日誌によると、四月十四日、天皇は「報告ナキハウマク行カヌノデハナイカ。攻撃失敗セリト云フガ壊滅的打撃ヲ受ケタノデハナイカ」とつぶやかれたという。

 インパール作戦はその後も続行され、損害はさらに拡大した。第十五軍隷下の三師団長は、無謀な攻撃を押し付けておきながら、食糧も弾薬も補給しない牟田口軍司令官に対して、怒り心頭に達していた。

 祭・第十五師団長・山内正文中将は、第五飛行師団あての電文に「第一線部隊をして此れに立ち至らしめたものは実に軍と牟田口の無能のためなり」と記している。

 弓・第三十三師団長・柳田元三中将も再三、第十五軍に対して「作戦中止」を具申している。

 牟田口軍司令官は、まず柳田師団長を、五月九日、「戦意不足」として更迭した。続いて、六月十日、病弱な山内師団長を解任した。

 さらに、烈・第三十一師団長・佐藤幸徳中将を七月九日、「抗命」のかどで、罷免した。「抗命」は命令に逆らうことで、軍法会議に処せられる重大なものであった。

 「全滅」(文春文庫)によると、コヒマを攻撃していた烈・第三十一師団(佐藤幸徳師団長)では、英軍の反撃がすさまじく、逆に日本軍陣地が突破され始めた。攻撃部隊の消耗も激しく、中隊の生存者は七名というところもあった。弾薬や食糧の補給がないため、戦力の差が歴然であった。

 第三十一師団司令部では第十五軍司令部に、再三にわたり食糧と弾薬を要請したが、約束は守られず、補給はなかった。もはや英軍を阻止することは不可能に近かった。

 第三十一師団司令部の周辺にも英軍が出没する事態までになった。佐藤師団長は、第十五軍司令部に、何度も撤退の要請電報を打ったが、牟田口軍司令官は、これを許さなかった。

 六月二日、ついに佐藤師団長は独断でコヒマ攻撃中止命令を出した。第三十一師団はチュデマまで撤退を始めた。これは第十五軍の命令に背くものであった。後に佐藤中将は、抗命罪に問われる。だが佐藤師団長はこれを独断専行と主張した。

 撤退する途中で、師団兵器部長の河原少佐はつぶやいた。「なんといっても、これは牟田口中将の責任だ。こんな無茶な、無計画な、一体、なんのための作戦だったのか。こんな作戦に喜んで死ねるものか。死んだ者がかわいそうだ」

 師団はウクルルまで下がることにした。攻撃の後方主要陣地で、そこには第十五軍との約束で補給された食糧が大量に積まれているはずだった。だが、驚くべきことに、そこにはなにもなかった。

 佐藤師団長は、怒りと同時に、全身に寒気に似たものが走った。師団の重要拠点に食糧も一発の弾薬も補給されていなかったのだ。佐藤師団長はさらに、フミネまで下がることを決意した。フミネには食糧が集積してあるはずだ。

 六月二十一日、佐藤師団長は第十五軍司令部とビルマ方面軍司令部に次の電報を発信した。

 「師団はウクルルで何らの補給をも受くることを得ず。久野村軍参謀長以下幕僚の能力は、正に士官候補生以下なり。しかも第一線の状況に無知なり。従って軍の作戦指導は支離滅裂、食うに糧なく、撃つに弾なく、戦力尽き果てた師団を、再び駆ってインパール攻略に向かわしめんとする軍命令なるや、全く驚くほかなし。師団は戦力を回復するため確実に補給を受け得る地点に移動するに決す」

156.牟田口廉也陸軍中将(6) うまく行きゃ、デリーの赤い城壁まで兵を進めるさ

2009年03月20日 | 牟田口廉也陸軍中将
 弓・第三十三師団長・柳田元三中将(陸士二六・陸大三四恩賜)は初めからインパール作戦は不可能だとして反対していた。柳田中将は学識豊かな教育者といった感じで、実行型の牟田口中将とは合わなかった。

 柳田中将は「あんな、訳の分からん軍司令官はどうもならんな」と稲田副長に言った。牟田口軍司令官は「あんな弱虫はどうにもならん」とののしった。

 また、祭・第十五師団長・山内正文中将(陸士二五・陸大三六)も、線の細い知識人の型で、激戦の指揮官には向かないと思われていた。

 烈・第三十一師団長・佐藤幸徳中将(陸士二五・陸大三三)は猛将として知られていたが、気性が激しいので牟田口軍司令官と合わなかった。

 中参謀長らの苦肉の策も、結局稲田副長に阻止されてしまった。牟田口軍司令官もインパール作戦の計画を撤回するか、時期を待たなければならなくなった。

 ところが昭和十八年十月一日、稲田副長は第十九軍司令部付に転出した。東條首相は、全般的な敗勢の中、牟田口軍司令官の主張するインパール作戦に望みを託すようになっていた。

 この作戦に反対する稲田副長を南方軍から追い出す工作を進言したのは、富永恭次陸軍次官(陸士二五・陸大三五)であった。南方軍の稲田副長は中央の言うことをきかないで、勝手なことをするというのであった。

 南方軍の新副長に就任したのは、大本営第一部長(作戦)の綾部橘樹(あやべ・きつじゅ)少将(陸士二七・陸大三六首席)であった。

 稲田副長が転出すると、南方総軍にはインパール作戦を抑制する者がいなくなった。寺内総軍司令官も「はやくやれ」と言うようになった。

 昭和十八年十二月二十三日から、ビルマのメイミョウの第十五運司令部で参謀長会同が開かれ、そのあと、インパール作戦の総仕上げの兵棋演習が行われた。

 牟田口軍司令官は、わが事なれり、といった自信満々の態度で主宰者の席にいた。演習の結果、綾部副長も中参謀長も反論もしないで承認してしまった。

 南方軍はインパール作戦の実施を決意し、大本営に正式の意見具申書を提出した。昭和十九年一月七日、大本営は「ウ号作戦」(インパール作戦)を認可した。

 「昭和戦争文学全集6・南海の死闘」(集英社)の中の「インパール」によると、当時、東條内閣は敗戦を重ね、なんとか難局を乗り切ろうとしていた。

 さすがに国民の常識は、戦局に不安を感じ、同時に東條の独裁に不信を抱き始めていた。いまや東條首相は、国民の戦意をあおり、頽勢を挽回しなければならなかった。

 このとき、東條首相の眼に感じられたのは、満々たる自信を持つ、牟田口中将の存在だった。インドを背景にして、踊らせる役者としては申し分がない。

 牟田口の無鉄砲作戦なら、インドにとびこめるかもしれない。牟田口が成功すれば、東條内閣の人気と頽勢を一挙にたてなおすことができる。

 東條はこのような政治的必要にかられて、インパール作戦の断行を命じた。

 「太平洋戦争の指揮官たち」(新人物王来社)によると、日本陸軍は開戦直後のマレー上陸作戦以来、「イギリス軍は弱い」と見くびっていた。

 牟田口軍司令官は、作戦開始を前に、読売新聞の記者に次のように豪語した。

 「インパールはわけはない。ビルマから目と鼻の先じゃ。三週間もあれば結構。取ってみせる。君らも入城記でも準備しておいたほうがいい。うまく行きゃ、デリーの赤い城壁まで兵を進めるさ」

 この牟田口軍司令官の野心に呼応するかのように、前年の昭和十八年十一月、東京で開催された「大東亜会議」の席上、東條英機首相は、自由インド仮政府のチャンドラ・ボース首班から「インドにわれわれの拠点をつくってほしい」と要請されていた。

155.牟田口廉也陸軍中将(5)銃口を空に向けて三発撃て。そうすれば敵はすぐ退却する約束ができている

2009年03月13日 | 牟田口廉也陸軍中将
 この後、片倉高級参謀は牟田口軍司令官がインド進攻の実施を要求してくると、「牟田口の馬鹿野郎が」とののしって、反対意見を参謀に伝えさせた。参謀が牟田口軍司令官のところへ行くと、叱り飛ばされた。そして帰ってくると、今度片倉高級参謀から怒鳴りつけられた。

 「回想ビルマ作戦」(光人社)によると、ビルマ方面軍参謀長・中永太郎中将がビルマ方面軍司令官・河辺正三中将(陸士19・陸大27)に牟田口第十五軍司令官の作戦構想について、不満を述べた。

 すると河辺中将は「私は牟田口をよく知っている。牟田口の積極的な意見を充分尊重してやれ」と、中永太郎中将の意見をおさえて、牟田口軍司令官をかばった。

 河辺中将は盧溝橋事件のとき、牟田口連隊長の上司の旅団長だった。当時から気心は通じるものがあった。

 昭和18年4月には、山本五十六連合艦隊司令長官が戦死し、5月にはアッツ島守備隊が玉砕していた。この二つは国民の士気を阻喪し、戦争の前途を悲観視する予兆が流れていた。

 そこで、この際、ビルマ方面で、勝利を博し、インドの一角に楔(くさび)を打ち込んで、国民の士気をふるいたたせようとの魂胆が、大本営や軍上層部にあった。

 南方軍の稲田副長は7月12日から一週間東京にいた。インパール作戦についての打ち合わせだった。この頃には、大本営はインパール作戦に期待をかけるようになっていた。

 稲田副長は東條首相に会見した。東條首相はしきりに「インドに行くのは大丈夫か」と心配した。稲田副長は「チャンドラ・ボースをインドにいれてやれば、いいのですよ。それには、できるだけ、損害を少なくする方法でなければいけません。無茶はさせません」と答えたが、稲田副長は内心ではインパール作戦に反対していた。

 「丸・エキストラ先史と旅・将軍と提督」(潮書房)によると、8月25日、第十五軍はメイミョウの軍司令部で、作戦構想の統一をはかるインパール作戦の兵棋演習を行った。

 このとき、第十八師団長・田中新一中将は第十五軍後方主任参謀・薄井少佐に「君は後方主任参謀として、本作戦間、後方補給に責任がもてるのか」と詰問した。

 すると、薄井参謀は素直に「責任は持てません」と答えた。

 田中師団長は憤然として「この困難な作戦で、補給に責任が持てんでは戦はできぬ」と強く詰め寄ったので、薄井参謀は言葉に窮した。

 そのとき、牟田口軍司令官が立ち上がり「もともと、本作戦は、普通一般の考え方でははじめから成立しない。糧は敵にとるのだ。その覚悟で戦闘せよ」と強い口調でいましめた。

 さらに「敵と遭遇すれば、銃口を空に向けて三発撃て。そうすれば、敵はすぐ退却する約束ができている」と言ったので、列席者は唖然とした。

 「抗命」(文春文庫)によると、9月12日、シンガポールで南方軍参謀長会同が行われた。会同は寺内総司令官の官邸で開かれた。ビルマ方面軍の中参謀長は、第十五軍の久野村参謀長と情報主任・藤原岩市少佐(陸士43・陸大50)を連れてきた。

 会議の合間に中参謀長は稲田副長と懇談し、インパール作戦を早く実施してくれと言い、「やかましいことを言わんで、二人の話をよく聞いてやってくれんか」と訴えた。

 久野村参謀長は、稲田副長より広島幼年学校の二年先輩で、陸軍大学校では37期の同期だった。だから久野村参謀長を連れてきた。

 久野村参謀長はインパール作戦の計画書を出して「稲田、たのむよ。認めてくれんか」と親しい口調で言った。俺とお前の仲じゃないか、といった響きがあった。

 稲田副長は、いつ中参謀長が、牟田口計画に賛同するようになったのか、牟田口の激しい意欲に迎合したに違いないと思った。藤原参謀もしきりに迫った。

 稲田副長は「今インドをつついて、逆にインドから押されたら、下がる道がない。今は持久戦だ」と反対理由を述べ「牟田口軍司令官は、やるやると、目の色を変えているが、三師団長はやる気がない。その上三人とも軍司令官とは性格が合わない。うまくいかんよ」と言った。

154.牟田口廉也陸軍中将(4) どうしても誰か殺さねばならない作戦があれば、俺を使ってくれ

2009年03月06日 | 牟田口廉也陸軍中将
 「抗命」(文春文庫)によると、インド進攻作戦に反対するのは幕僚や隷下師団長だけではなかった。ビルマ方面軍や南方軍も、牟田口中将の独走計画として黙殺し、支持しなかった。だが牟田口中将はひるまなかった。

 昭和18年5月、新任の南方軍総参謀副長・稲田正純少将(陸士29・陸大37恩賜)が戦線視察のためビルマに来て、ビルマ方面軍司令官・河辺中将と会談した。

 河辺軍司令官は、牟田口軍司令官が強引な一本調子でインド進攻作戦の実現を要求しているので手を焼いているという印象だった。

 稲田副長はメイミョウの第十五軍司令部を訪ねて、牟田口中将に面会した。牟田口中将は待ち受けたように、インド進攻計画を訴えた。しかも雨季明けの9月に実施するというものだった。

 稲田副長は、牟田口中将は、気がはやり、あせっていると感じた。「次の機会までによく研究して欲しい」と再考を求めた。

 すると牟田口軍司令官は、満州にいた当時の話を持ち出した。「あのとき、お前に頼んだことがある」。それは盧溝橋事件の二年後のことで、関東軍の第四軍参謀長だった牟田口少将は、大本営から視察に来た稲田作戦課長にたのんだ。

 「俺は盧溝橋で第一発を撃った時の連隊長として責任を感じている。どうしても誰か殺さねばならない作戦があれば、俺を使ってくれ」と頼んだ、そのことを言っているのだ。

 「俺の気持ちはあの時と同じだ。ベンガル州にやって死なせてくれんか」。8期も後輩の稲田副長に、これほど頼むとは、本心に違いないと思われた。

 だが、稲田副長は「インドに行って死ねば、牟田口閣下はお気がすむかも知れませんが、日本がひっくりかえってはなんにもなりませんよ」と遠慮のない答えをした。

 それでも牟田口中将は、決意を変えようとはしなかった。ついに東條首相に直接手紙を送って、計画の承認を求めた。

 解任された小畑軍参謀長の後任の軍参謀長には久野村桃代(くのむら・とうだい)少将(陸士27・陸大37)が補任された。久野村少将は八方美人で、上官に苦言をあえて言う人ではなかった。

 昭和18年6月24日から四日間、ラングーンのビルマ方面軍司令部で兵棋演習が行われた。南方軍がビルマ防衛線の推進に関心を持ち、研究を要望したためだった。

 これを視察するため、大本営から第二課(作戦)の竹田宮恒徳王(たけだのみや・つねよしおう)少佐(陸士42・陸大50)と南方主任参謀・近藤進少佐(陸士46・陸大53恩賜)が派遣されてきた。

 南方軍からは稲田総参謀副長以下、各主任参謀、シンガポールの第三航空軍からは高級参謀・佐藤直大佐(陸士35・陸大47)が出席した。

 牟田口軍司令官は、この兵棋演習を絶好の機会ととらえた。ついに第十五軍のインド進攻、インパール占領作戦の兵棋演習が行われた。

 6月26日の夜、牟田口軍司令官は竹田宮に拝謁して、インパール作戦の必要性を説明して、大本営の認可を願った。その態度、語調には強烈な信念があふれていた。

 竹田宮は、はっきりと、「現在の十五軍の案ではインパール作戦は不可能だ」と答えた。「不完全な後方補給では大規模な進攻は困難である」と。牟田口軍司令官はそれでも、しつこく認可を願ってやまなかった。

 演習終了後、ビルマ方面軍参謀長・中永太郎中将(陸士26・陸大36)も南方軍・稲田副長も反対した。牟田口軍司令官が期待していた機会はむなしく消えてしまった。

 「丸・エキストラ先史と旅・将軍と提督」(潮書房)によると、ビルマ方面軍では高級参謀・片倉衷大佐(陸士31・陸大40)が牟田口計画に真っ向から反対していた。片倉大佐は相手かまわず大声でしかりつけた。口をきわめてののしるので有名だった。ラングーンの軍司令部では、独特の大きなののしり声が聞こえない日はなかった。

 6月24日からラングーンのビルマ方面軍司令部で行われた兵棋演習で、牟田口軍司令官は、第十五軍が策定した独自のインド進攻作戦計画を、方面軍司令官に直接提出しようとした。

 しかし、方面軍の片倉高級参謀はこれの受理を拒否するとともに、第十五軍が方面軍の了解もなくその独自案を大本営(竹田宮を通じて)にまで提出しようとするのは軍秩序上許されぬと面罵した。

 この件で、片倉高級参謀と第十五軍・久野村軍参謀長とのあいだで、激論が闘わされた。