特に、「米海軍日誌」は戦争中に沈没したり損傷した米軍艦は細大漏らさず収録した米海軍の公式文献である。
「八月十五日の空」(文春文庫)の著者秦郁彦氏が米海軍戦史部に問い合わせてみたところ、八月十五日、沖縄周辺で攻撃または被害を受けた米艦はいなかった。
そうだとすると、宇垣特攻隊の八機はどこに消えてしまったのか。
だが、アメリカの有名な年鑑であるワールド・アルマナック(World Almanac)の一九四六年版に1945年八月十五日の戦争日誌の項に
「終戦の通報十二時間後に二機の特攻機が沖縄本島北方三〇マイルの伊平屋島に突入した」と書かれていた。
一方、当時伊平屋島を占領していた米第二海兵師団第八戦闘団の記録には
「日本機一機が伊平屋島に突入し爆発した。そして二機の日本特攻機が伊江島に突入した。施設に被害はなく二名が負傷した」とあった。
昭和20年8月15日、伊平屋島には予備学生13期の飯井敏雄海軍少尉と学徒出身の特攻隊員篠崎孝則陸軍少尉がいた。
飯井海軍少尉は撃墜され、篠崎陸軍少尉はエンジン不調で海上に不時着し、伊平屋島に泳ぎ着いていた。二人は名前を変えて島民に匿われていた。
その篠崎氏の証言は次の通り。
「八月十五日、わたしは野良仕事を終えて止宿先の井戸で水を浴びていた。薄暗くなった空を聞きなれぬ飛行機の爆音が聞こえたと思うと前泊の米軍キャンプの方向に爆発音が聞こえ火柱が立った。つづいてもう一本、すぐに特攻機の突入と直感した。港には数隻の輸送船がいたし、キャンプでは灯をつけて米兵たちが終戦を祝って西部劇さながらの大騒ぎをしていた。その騒ぎも突入と同時にぴたりと静まった。翌日前泊キャンプに労役に出た人が何人かやってきて状況を伝えた。遺体が二つあり、一人は飛行帽に飛行服だったが、もう一人は予科練の七つボタンのような服を着てパイロットには見えなかったと聞いた」
飯井氏の証言は次の通り。
「その日は爆発の轟音を聞いただけだったが、翌日潮の引いたサンゴ礁にぶつかってバラバラになった特攻機の尾翼を見た。わたしは元来は彗星のパイロットです。だから機体が彗星だということはすぐ分かった。尾翼に七〇一の数字も見えた。ああ鹿屋の部隊だなと思った。二、三人の米兵が飛行服も着て靴も着けたパイロットを引きずっていたが、どうして遺体が原形を保っているのか不思議に思った」
この二機に宇垣中将自身が含まれていたことを立証するには、三人乗りで、一人だけ飛行服でなく、第三種軍装を着用していたことが決め手になる。今のところ、この二条件を確認した目撃者がいないので、これ以上は憶測に任せるほかはない。
「最後の特攻機」(中公文庫)によると、意外に冷静に敗戦の日を迎えた宇垣一成大将は、8月19日の日記の中で、同族の一員として、宇垣纏の戦死を言葉少なに悼んでいる。
「国民の大多数は意気消沈、一部には興奮の人もあり、いずれともに平静を欠きあるが現状なり。自刃、焼き討ち、殺傷、籠山、猪突等を各所に見る。好漢、纏も、多数部下の死跡を追うていさぎよく戦死をとげたり。壮なりというべきや」
纏の兄ともいうべき宇垣莞爾海軍中将は、纏戦死の最後をしのび、海軍軍人としてよき死に場所を得たものと思うと語るのみで、あとは沈黙を守っていたという。
(今回で宇垣纏海軍中将は終わりです。次回からは「片倉衷陸軍少将」が始まります)
「八月十五日の空」(文春文庫)の著者秦郁彦氏が米海軍戦史部に問い合わせてみたところ、八月十五日、沖縄周辺で攻撃または被害を受けた米艦はいなかった。
そうだとすると、宇垣特攻隊の八機はどこに消えてしまったのか。
だが、アメリカの有名な年鑑であるワールド・アルマナック(World Almanac)の一九四六年版に1945年八月十五日の戦争日誌の項に
「終戦の通報十二時間後に二機の特攻機が沖縄本島北方三〇マイルの伊平屋島に突入した」と書かれていた。
一方、当時伊平屋島を占領していた米第二海兵師団第八戦闘団の記録には
「日本機一機が伊平屋島に突入し爆発した。そして二機の日本特攻機が伊江島に突入した。施設に被害はなく二名が負傷した」とあった。
昭和20年8月15日、伊平屋島には予備学生13期の飯井敏雄海軍少尉と学徒出身の特攻隊員篠崎孝則陸軍少尉がいた。
飯井海軍少尉は撃墜され、篠崎陸軍少尉はエンジン不調で海上に不時着し、伊平屋島に泳ぎ着いていた。二人は名前を変えて島民に匿われていた。
その篠崎氏の証言は次の通り。
「八月十五日、わたしは野良仕事を終えて止宿先の井戸で水を浴びていた。薄暗くなった空を聞きなれぬ飛行機の爆音が聞こえたと思うと前泊の米軍キャンプの方向に爆発音が聞こえ火柱が立った。つづいてもう一本、すぐに特攻機の突入と直感した。港には数隻の輸送船がいたし、キャンプでは灯をつけて米兵たちが終戦を祝って西部劇さながらの大騒ぎをしていた。その騒ぎも突入と同時にぴたりと静まった。翌日前泊キャンプに労役に出た人が何人かやってきて状況を伝えた。遺体が二つあり、一人は飛行帽に飛行服だったが、もう一人は予科練の七つボタンのような服を着てパイロットには見えなかったと聞いた」
飯井氏の証言は次の通り。
「その日は爆発の轟音を聞いただけだったが、翌日潮の引いたサンゴ礁にぶつかってバラバラになった特攻機の尾翼を見た。わたしは元来は彗星のパイロットです。だから機体が彗星だということはすぐ分かった。尾翼に七〇一の数字も見えた。ああ鹿屋の部隊だなと思った。二、三人の米兵が飛行服も着て靴も着けたパイロットを引きずっていたが、どうして遺体が原形を保っているのか不思議に思った」
この二機に宇垣中将自身が含まれていたことを立証するには、三人乗りで、一人だけ飛行服でなく、第三種軍装を着用していたことが決め手になる。今のところ、この二条件を確認した目撃者がいないので、これ以上は憶測に任せるほかはない。
「最後の特攻機」(中公文庫)によると、意外に冷静に敗戦の日を迎えた宇垣一成大将は、8月19日の日記の中で、同族の一員として、宇垣纏の戦死を言葉少なに悼んでいる。
「国民の大多数は意気消沈、一部には興奮の人もあり、いずれともに平静を欠きあるが現状なり。自刃、焼き討ち、殺傷、籠山、猪突等を各所に見る。好漢、纏も、多数部下の死跡を追うていさぎよく戦死をとげたり。壮なりというべきや」
纏の兄ともいうべき宇垣莞爾海軍中将は、纏戦死の最後をしのび、海軍軍人としてよき死に場所を得たものと思うと語るのみで、あとは沈黙を守っていたという。
(今回で宇垣纏海軍中将は終わりです。次回からは「片倉衷陸軍少将」が始まります)