陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

90.宇垣纏海軍中将(10) 好漢、纏も、多数部下の死跡を追うていさぎよく戦死をとげたり

2007年12月14日 | 宇垣纏海軍中将
 特に、「米海軍日誌」は戦争中に沈没したり損傷した米軍艦は細大漏らさず収録した米海軍の公式文献である。

 「八月十五日の空」(文春文庫)の著者秦郁彦氏が米海軍戦史部に問い合わせてみたところ、八月十五日、沖縄周辺で攻撃または被害を受けた米艦はいなかった。

 そうだとすると、宇垣特攻隊の八機はどこに消えてしまったのか。

 だが、アメリカの有名な年鑑であるワールド・アルマナック(World Almanac)の一九四六年版に1945年八月十五日の戦争日誌の項に

 「終戦の通報十二時間後に二機の特攻機が沖縄本島北方三〇マイルの伊平屋島に突入した」と書かれていた。

 一方、当時伊平屋島を占領していた米第二海兵師団第八戦闘団の記録には

 「日本機一機が伊平屋島に突入し爆発した。そして二機の日本特攻機が伊江島に突入した。施設に被害はなく二名が負傷した」とあった。

 昭和20年8月15日、伊平屋島には予備学生13期の飯井敏雄海軍少尉と学徒出身の特攻隊員篠崎孝則陸軍少尉がいた。

 飯井海軍少尉は撃墜され、篠崎陸軍少尉はエンジン不調で海上に不時着し、伊平屋島に泳ぎ着いていた。二人は名前を変えて島民に匿われていた。

 その篠崎氏の証言は次の通り。

 「八月十五日、わたしは野良仕事を終えて止宿先の井戸で水を浴びていた。薄暗くなった空を聞きなれぬ飛行機の爆音が聞こえたと思うと前泊の米軍キャンプの方向に爆発音が聞こえ火柱が立った。つづいてもう一本、すぐに特攻機の突入と直感した。港には数隻の輸送船がいたし、キャンプでは灯をつけて米兵たちが終戦を祝って西部劇さながらの大騒ぎをしていた。その騒ぎも突入と同時にぴたりと静まった。翌日前泊キャンプに労役に出た人が何人かやってきて状況を伝えた。遺体が二つあり、一人は飛行帽に飛行服だったが、もう一人は予科練の七つボタンのような服を着てパイロットには見えなかったと聞いた」

 飯井氏の証言は次の通り。

 「その日は爆発の轟音を聞いただけだったが、翌日潮の引いたサンゴ礁にぶつかってバラバラになった特攻機の尾翼を見た。わたしは元来は彗星のパイロットです。だから機体が彗星だということはすぐ分かった。尾翼に七〇一の数字も見えた。ああ鹿屋の部隊だなと思った。二、三人の米兵が飛行服も着て靴も着けたパイロットを引きずっていたが、どうして遺体が原形を保っているのか不思議に思った」

 この二機に宇垣中将自身が含まれていたことを立証するには、三人乗りで、一人だけ飛行服でなく、第三種軍装を着用していたことが決め手になる。今のところ、この二条件を確認した目撃者がいないので、これ以上は憶測に任せるほかはない。

 「最後の特攻機」(中公文庫)によると、意外に冷静に敗戦の日を迎えた宇垣一成大将は、8月19日の日記の中で、同族の一員として、宇垣纏の戦死を言葉少なに悼んでいる。

 「国民の大多数は意気消沈、一部には興奮の人もあり、いずれともに平静を欠きあるが現状なり。自刃、焼き討ち、殺傷、籠山、猪突等を各所に見る。好漢、纏も、多数部下の死跡を追うていさぎよく戦死をとげたり。壮なりというべきや」

 纏の兄ともいうべき宇垣莞爾海軍中将は、纏戦死の最後をしのび、海軍軍人としてよき死に場所を得たものと思うと語るのみで、あとは沈黙を守っていたという。

(今回で宇垣纏海軍中将は終わりです。次回からは「片倉衷陸軍少将」が始まります)

89.宇垣纏海軍中将(9) 右手に山本元帥から贈られた短剣を握っていた

2007年12月07日 | 宇垣纏海軍中将
 宇垣隊戦死者の処遇の差はなぜ生じたのか。8月15日の正午に天皇の終戦の玉音放送があった。

  しかし法的には軍の行動を律するのは大本営命令、停戦を命じる大海令四八号が示達されたのは16日午後4時だった。それまでは日米両軍は戦闘状態にあったわけで大命違反、抗命行為とは談じられない。

 だが、14日の夕方、大本営海軍部は小沢海軍総隊兼連合艦隊司令長官に「何分の令あるまで対米英蘇支積極作戦は之を見合はすべし」(大海令四七号)という命令を発している。

 総隊はこれを受けて、夜半に宇垣第五航空艦隊長官に「対ソ、対沖縄積極攻撃を中止セヨ」と命じているから、沖縄突入は宇垣長官の抗命的行動と解釈できる。

 では宇垣長官の沖縄特攻の経過はどのようなものであったのか。「八月十五日の空」(文春文庫)によると、昭和20年8月15日正午、終戦の玉音放送が行われた。

 第五航空艦隊司令部は鹿屋から大分に後退していた。先任参謀、宮崎隆大佐が幕僚室に入っていくと当直の田中武克参謀が当惑しきっていた。

 さきほど宇垣長官に呼ばれ艦爆隊を直率して沖縄へ出撃するから彗星五機を用意するように言われたというのであった。

中央部の方針は正午の玉音放送で終戦が確定する形勢と思われた。なんとしても思いとどまっていただくなくてはならぬ。宮崎大佐は長官室に入っていった。

 宮崎大佐が長官室に入ると宇垣長官は端然と椅子に腰を下ろしていた。前夜から一睡もせず、その姿勢でいたと思われた。

 「長官、当直参謀に命じられたのはどういう意味ですか」と聞くと

 「それは君わかっているじゃないか」

 「はあ」

 「長官が乗って攻撃に行くから、それを命じたまえ」

 「ご決心は良く分かりますが、御再考ねがえないでしょうか」

 「ともかく命令を起案したまえ」

 柔和だがテコでも動かない長官のシンにふれた気がした。こうして宇垣長官の沖縄特攻の正式命令が起案され、発せられた。

 午後四時半、宇垣長官は三台の車をつらねて大分基地の飛行場へ向かった。宇垣長官は双眼鏡を首にかけ、薄緑色の第三種軍装と戦闘帽を着用し、右手に山本元帥から贈られた短剣を握っていた。

 すでに海軍中将の階級章は、副官の川原利寿参謀の手で切り取られていた。

 飛行場には十一機の彗星四三型が並び、飛行帽のうえに日の丸の鉢巻をきりりと締めた二十二名の搭乗員が整列していた。

 宇垣長官が「命令では五機のはずだが」と言いかけると、先頭の分隊長、中津留達雄大尉が

 「長官が特攻をかけられるというのに、たった五機とは何事でありますか。私の隊は全機でお伴します」ときっぱりと言った。

 「そうかみんな俺と一緒に行ってくれるか」「は~い」二十二人の隊員の右手がいっせいに上がった。

 こうして十一機の彗星は午後五時から五時半にかけて、800キロ爆弾を抱いて一機づつ次々に飛び上がっていった。  

 宇垣長官が乗り込んだ中津留大尉機には、偵察員の遠藤秋章飛曹長もどうしても行くと頑張り、結局三人が乗り込んでいた。

 午後八時二十五分、指揮官機の宇垣長官機から「我奇襲に成功せり」続いて突入電入電、次々に突入電が第五航空艦隊司令部に入ってきた。

  「我奇襲に成功せり」は「トラトラトラ」で、宇垣長官は真珠湾攻撃と同じ暗号電報を発した。突入電というのは偵察員は敵艦船に突入するため急降下に入った時点から無線機のキーを押しっぱなしにする。激突した時点で発信音は途切れる。

 結局十一機のうち、八機が突入し、三機が引き返して不時着した。

 ところが、「米海軍日誌」「S・E・モリソンの「第二次大戦米海軍作戦史」のいずれにも、宇垣特攻隊の戦果は記されていない。

88.宇垣纏海軍中将(8) 宇垣中将はすえ置きで大将にはならなかった

2007年11月30日 | 宇垣纏海軍中将
宇垣参謀長は昭和17年12月31日の「戦藻録」に、次のように昭和17年4月までの第一段作戦のはなばなしさと同時に、6月、ミッドウェー海戦以来の不首尾を感じている。

 「十二月三十一日・木曜日・曇 昭和十七年も今宵をもって行く。四月までの第一段作戦の花々しさよ。しかして六月ミッドウェー作戦以来の不首尾さよ。」

 「ハワイ、フィジー、サモア、ニューカレドニアの攻略もインドの制圧、英東洋艦隊の撃滅も本年の夢と化し、あまつさえポートモレスビーはおろか、ガダルカナル島の奪回も不能に陥れり。」

 「顧みて万感胸をおおう。敵ある戦のならいとはいえ、誠に遺憾の次第なり。この間将士の奮闘苦戦あげて数うるを得ず。深く感謝の誠を致すとともに、多数散華の殉国の士に衷心敬用の意を表する次第なり」
 
 昭和18年4月3日、山本長官以下連合艦隊司令部の大部分はラバウルに進出した。

 そして宇垣参謀長は自分だけでソロモンの第一線基地を回り、叱咤激励してくるつもりでいた。ショートランド視察飛行である。

 だが、山本長官は「僕もショートランドへは行きたいからね」と宇垣参謀長に意思表示してきた。

 小沢機動部隊司令長官や周囲の人の反対を押し切り、4月18日、一式陸攻二機に分乗した山本長官一行は六機のゼロ戦に守られて、出発。

 だがブーゲンビル上空で長官機は全員戦死、参謀長機は、宇垣参謀長とあと二名のほかは全員戦死した。

 宇垣は「山本長官は私が殺したも同然だ。私がショートランドに行くなどと言い出さなければ、何事も起こらなかったんだ」と自責の念にかられた。

 丸別冊「回想の将軍・提督」(潮書房)の中で、元海軍中佐、田中正臣氏は第五航空艦隊司令長官の宇垣中将について寄稿している。

 昭和20年4月上旬、宇垣長官は九州鹿屋基地で沖縄航空決戦の指揮をとっていた。航空参謀であった田中中佐は長官公室で、宇垣長官が揮毫した書を、長官自らもらった。

 それは、田中参謀が立案計画した、陸海軍特攻機をもってする第一回菊水作戦が、意のごとく成果をあげたので、ご満悦の長官が「このようなときで、何の御礼もできないが」と田中氏に与えたものであった。

 やがて終戦。だが宇垣長官は彗星十一機を率いて沖縄に特攻をかけ戦死した。九月上旬田中氏は鹿屋基地に進駐する米陸軍部隊の接収委員を命じられた。

 参謀だったということで、田中氏は、多数の進駐米陸軍に拳銃等で拘束され、神風特攻のゆくえ、8月15日の宇垣特攻についてきびしく尋問、追及を受けた。

 田中氏は知らぬ存ぜぬの一点張りで辛うじて追求を逃れた。万一を考えてもらった宇垣長官の揮毫の書を焼却処分した。

 田中中佐は昭和20年2月20日第五航空艦隊参謀に補せられた。それまで田中中佐が抱いていた宇垣中将の印象は、あまり良いものではなかった。それは、連合艦隊参謀長時代の評判であった。

 黄金仮面といわれた無表情さ、傲慢無礼はつとに知られていた。二等兵のような若年兵が艦上で敬礼をしても、山本五十六長官ならいちいちきちんと答礼をされるが、宇垣参謀長の場合はそうはされなかった、

 「八月十五日の空」(文春文庫)によると、昭和20年10月1日付けで連合艦隊副官の起案した「GF終第四二号」という文章が残っている。

 「特攻隊員として詮議せられざりし者の件通知」と題して粗末なザラ紙にタイプで打たれたものであるが次の様なものである。

「昭和二十年八月十五日夜間沖縄方面に出撃せる左記の者は特攻隊員として布告せられざるに付、一般戦死者として可然御処理相成度。海軍大尉中津留達雄、海軍飛行兵曹長遠藤秋章、」など十六名の搭乗員の氏名が並んでいる。

 いわゆる「宇垣特攻」の戦死者たちである。これに指揮官宇垣纏中将を加えると十七名になる。

 通常特攻戦死者として連合艦隊司令長官から布告された者は二階級特進するのが通例だ。若い下士官などは少尉にまで三~四階級飛んで進級した。

 ところが宇垣特攻の十七名は、通常の戦死者と同じ一階級だけの進級になっている。宇垣中将はすえ置きで大将にはならなかった。

87.宇垣纏海軍中将(7) 宇垣参謀長はこういう議論の立て方が虫唾が走るほど嫌いだった

2007年11月23日 | 宇垣纏海軍中将
 比叡の処分について、「海軍参謀」(文藝春秋)では次のように詳しく述べている。

 夜半から行われた戦闘で、敵の米巡洋艦や駆逐艦はほぼ全滅に近い大損害を受けた。日本側は戦艦比叡が敵重巡の二十センチ砲のツルベ射ちを食って、上甲板以上は蜂の巣のようになり、後部の舵機室がやられた。

 全速三十ノットで走れるが舵が利かない。艦はグルグル回りをするだけで、前に進まない。ガダルカナルから敵機が襲ってきて被害が大きくなってきた。

 高速戦艦戦隊司令官、阿部中将から、連合艦隊司令部に事態打開がたたないから比叡を処分(味方の手で自沈させる)したいと言ってきた。

 上甲板以上がメチャクチャになった比叡の写真を撮られ、ブロードウェーあたりで宣伝に使われたら困る。夜が明けぬうちに、安部司令官の言うように処分してしまったほうがいいのではないか。

 山本長官が、参謀長室に入ってきて、宇垣参謀長に言った。「実は今、処分するなの電報にサインしたのだが、参謀長はどう思うか」と。宇垣は山本長官が処分する考えがあるのを知って、なるほどと思った。

 安部中将は、戦艦、とくに高速戦艦を自分の手で沈めるなど、申し開きのしようもない大責任をかぶらねばならぬ。

 この際、連合艦隊司令長官から「処分せよ」の命令を下し、大責任を肩代わりしてやるとすれば、これは大慈悲だ。さすがは「人情」長官だ。

 すっかり感激して宇垣参謀長はすぐに「処分せよ」の電報を書き、発信を命じた。

 すると間もなく黒島先任参謀が気色ばんでとびこんできた。

 「処分するなのままでお願いします。比叡が浮いていれば、輸送船団を攻撃してくる敵機が比叡に吸い寄せられます。浮いている以上、比叡が全然動けぬはずはない。アメリカのことです。宣伝用の写真はもう抜け目なく撮っていますよ。いずれにしても戦艦一隻を失ったことは事実なんですから」

 宇垣参謀長はこういう議論の立て方が虫唾が走るほど嫌いだった。先の見えない人間のやることだ。しかも理屈ばかりで、人情の機敏がまるでわかっておらん奴だ。

 黄金仮面といわれた無表情さが、たちまち夜叉のような凄まじいものに一転、罵声が口をついて出ようとしたが、山本長官の前だから呑み込んだ。

 宇垣参謀長が煮え返るハラを押さえて三人で話し合っているうちに、あろうことか、山本長官が意見を翻し、黒島先任参謀の意見を採った。

 結局「処分するな」のままとすることに決裁した。

 宇垣参謀長は憤激した。大艦巨砲の権化であった宇垣参謀長としては、黒島先任参謀が深く考えずに、理屈だけで作戦指導を重ねようとすることに、我慢がならなかったように見える。

 結局比叡は行動の自由を失ったままサボ島沖に漂流し、アメリカ機の執拗な攻撃を受けて自沈した。

 この出来事で宇垣参謀長は黒島先任参謀に対する不信感を強めた。宇垣の「戦藻録」には次のように書かれている。

 「山本長官の再三の決定変更は、おかしな雲行きだが、どちらにしても大事ではない。大局は同じだ。ただ、そこに気分の問題がある。恥の上塗りにならないようにする心掛けが必要だ」

 続けて、「中将である阿部司令官の意中を汲んで、その(比叡処分)責任を、連合艦隊長官の立場から引き受けてやる情を見せてやりたい。比叡を敵手に渡し、機密を暴露させることへの配慮も必要だ」

 さらに、「(黒島の主張は)先の見えない主張で、理屈にかたより、こういう機微の点を解し得ていない。なんとかして助けようという一念は、誰も同じでなければならない」と黒島先任参謀を批判している。

 宇垣は、鼻っ柱が強く、近寄り難い作戦家といわれ「黄金仮面」とあだ名された人だが、根底には一種の精神主義ともいえる人情家の一面があったのである。

86.宇垣纏海軍中将(6) ここでただぼんやりしているだけだ。戦は山本さんと黒島でやっているんだよ

2007年11月16日 | 宇垣纏海軍中将
 見たところ、山本長官はじめ誰にもミッドウェー海戦のショックなどはないようで、土肥少佐は不思議に思えるほどであった。

 8月7日、米軍が突然ガダルカナル島に上陸を開始したという緊急電報が大和の連合艦隊司令部にとびこんできた。ところがほとんどの参謀が、ひろげた海図を前にして、「ガダルカナルってどこだ?」と言っている。

 土肥少佐が「ここですよ」と指差した。それにしても土肥少佐は驚いた。連合艦隊参謀といえば、誰でもよく勉強していて、たいていのことはよく知っているだろうと思っていた。

 ところが、米豪遮断作戦の要地で、海軍航空基地もまさに完成しようとしているガダルカナル島を知らないとは、これはなんにも勉強していないのだと分かった。連合艦隊参謀陣とはこんな程度だったのか、と土肥少佐は思った。

 参謀たちは、ミッドウェー海戦での大敗についても、とくに反省している様子はなかった。どの参謀に聴いても、「あ~、あれは運が悪かったんだ」と、たいしたことでもないように言うだけだった。

 これでは、大事な仕事はできないと土肥少佐は思った。ところがその大事な仕事は、どうやら、山本長官と黒島亀人先任参謀の二人だけでやっているようであった。あとの参謀は大事ではないことしかさせられていないようであった。

 戦艦日向の艦長・松田千秋大佐は昭和17年12月に戦艦大和艦長として着任した。宇垣参謀長はこの松田夫妻の仲人であった。

 着任後、松田艦長は宇垣参謀長に仕事について聴いてみた。すると宇垣参謀長は「おれは参謀長だけれどね、ここでただぼんやりしているだけだ。戦は山本さんと黒島でやっているんだよ」と、わびしげに言ったという。

 山本長官は、ハワイ作戦以来、宇垣参謀長と黒島先任参謀の意見が対立したとき、ほとんど黒島先任参謀の意見をとり、宇垣参謀長の意見をしりぞけている。

 「連合艦隊作戦参謀・黒島亀人」(光人社NF文庫)によると、昭和17年11月12日から13日にかけての第三次ソロモン海戦が行われた。

 前日の11月11日、アメリカの巡洋艦五隻、駆逐艦十一隻、輸送船六隻がガダルカナル島の泊地に入ってきた。

 報告を受けた宇垣参謀長は、この敵集団は粘ると判断して、とっさに計画の変更を思い立った。高速戦艦比叡や霧島は、飛行場砲撃に向かうため砲撃用の焼夷弾と近距離の陸上射撃に使う特別の火薬を用意しているため、艦船攻撃には無力に近い。

 比叡、霧島を中心にした十一戦隊を下げ、重巡戦隊をまず突入させ、敵集団に当たらせ、状況を見て比叡、霧島に飛行場攻撃をやらせようとしたのだ。宇垣参謀長はこの計画変更案を作戦参謀たちに検討させた。

 ところが黒島先任参謀は宇垣参謀長の案を一蹴した。「なあに、夜になったら敵は逃げますよ。いつもの通りです。水雷戦隊(駆逐艦部隊)を前衛に出しておけば十分です。原案通りにお願いします」

 この黒島先任参謀の判断に対して、上司である宇垣参謀長はそれ以上自分の案に固執しなかった。

 その結果はどうなったか。十一戦隊は不意を打たれた。深夜東京湾の広さで、日米両艦隊は大乱戦となったのである。

 海戦はわずか三十五分間で終わり、アメリカは巡洋艦二隻、駆逐艦四隻が沈没し、無傷なのは駆逐艦一隻だけという壊滅的な打撃を受けた。

 一方日本側は駆逐艦二隻が沈没しただけで夜戦に強いことを証明した。ところが、高速戦艦比叡が舵機室をやられ、同じところをグルグル回るという最悪の事態になった。

 主機械やボイラーは無傷で、三十ノットという高速が出せるにもかかわらず、舵がとれずに同一円周上を回るだけという惨状を呈したのである。

 阿部十一戦隊司令官はとうてい持ちこたえられないと判断して、比叡の処分の了解を連合艦隊司令部に求めてきた。

85.宇垣纏海軍中将(5) 嶋田海相は愛想良くこう答えた。「いやいや、なんでもない」

2007年11月09日 | 宇垣纏海軍中将
 この村から、あまたの著名な陸海軍の将官級の人材の輩出を見ている。宇垣纏の生家の隣家が陸軍大臣を歴任した宇垣一成陸軍大将の生家である。隣家ではあるが纏と一成は直接血のつながりはない。だが、宇垣纏は宇垣一成陸軍大将を終生尊敬していたという。

 この小村からは宇垣一成の甥に当たる海軍中将宇垣莞爾がいる。海軍少将宇垣環、海軍少将宇垣松四郎も、一族である。

 宇垣莞爾と宇垣纏との関係は、莞爾が一歳年上で、中学校も兵学校も一級上級生であった関係上、兄弟のように親密な間柄で結ばれていた。

 宇垣家には、纏自身の綴った海軍兵学校時代の日記など相当未整理のまま残されているものが少なくないが、莞爾とのこまやかな交友関係がにじみ出ている箇所をかなり多くのところで見出すことが出来る。

 「最後の特攻機」(中公文庫)によると、野軍令部総長が真珠湾奇襲計画を受け入れたことによって、昭和16年11月3日、ようやく山本長官の原案が認められることになった。

 宇垣参謀長は旗艦長門の艦上で、11月3日、次のように「戦藻録」に記している。

 「夜八時、上京中の長官、明日午後呉着の電あり。本日午後、大臣官邸の会談を了え、予定よりも一日早く帰艦のこととなれる次第、いよいよ決定なれる証左と見るべく、続いて一部長(福留中将)より、陸軍との協定日取りも八乃至十日と決定の通知に接す。万事オーケー、皆死ね、みな死ね、国のため俺も死ぬ」

 「連合艦隊作戦参謀・黒島亀人」(光人社NF文庫)によると、昭和17年6月5~7日のミッドウェー海戦後、戦艦大和以下連合艦隊の戦艦群は瀬戸内海の柱島泊地に戻った。結果はすべて裏目に出て、惨敗に終わった。海軍中央は惨敗隠しに必死になった。

 ミッドウェー海戦から約三週間後、6月27日、柱島泊地にいる戦艦大和を嶋田繁太郎海軍大臣が訪ねた。宇垣参謀長が嶋田海相に挨拶に来た。

 宇垣は、ミッドウェー海戦以後、頭を丸めていた。「この前は、いろいろまずいことをやりまして、申し訳ありません。ご心配をおかけして申し訳ないとおもっています」神妙なおももちで、宇垣参謀長は頭を下げた。

 それに対して、嶋田海相は愛想良くこう答えた。「いやいや、なんでもない」。ミッドウェー海戦で空母四隻を失った帝国海軍の海軍大臣はなんと楽観的であることか。

 「凡将・山本五十六」(徳間書店)によると、第四艦隊航海参謀の土肥一夫少佐はミッドウェー海戦直後、連合艦隊航海参謀への転勤辞令を受けた。

 土肥少佐はトラック島から内地に帰り、7月4日の日曜日に呉在泊中の大和に着任した。この日は日曜日なので、山本長官以下の幕僚は、当直参謀一人を残して、みな上陸していた。

 当直参謀にその行き先を聞いて、土肥少佐もすぐに上陸した。最初に、宇垣参謀長がいるという割烹旅館吉川に行った。宇垣参謀長はたった一人で、大筆で揮毫中であった。

 土肥少佐が着任挨拶をすると、揮毫の手を休めて、「まあ、まず一杯」と杯をだした。ここで土肥少佐は、宇垣参謀長から連合艦隊参謀の心得といったものを聴いた。

 土肥少佐は、宇垣参謀長がなぜ一人でいるのか、その時は気に留めなかったが、差しで飲んでいるうちに、宇垣参謀長に親しみを覚えた.

 一時間ほどのちに、土肥少佐は山本長官や幕僚たちのいる割烹旅館華山に行った。部屋に入ると山本長官を囲んで幕僚たちが一杯やっていた。山本長官はいい機嫌になっている参謀たちの騒ぎにまじって楽しそうであった。

84.宇垣纏海軍中将(4) 戦前から戦中にかけて、この小村は県下でも、軍人王国としてもてはやされた

2007年11月02日 | 宇垣纏海軍中将
 もっとも草鹿中将は、宇垣中将の最期の状況を詳しく聞いて、自分がいままで抱いていた憎悪の念もたちまち消えうせて、彼もまた偉い武人であったと感じ入ったと記している。

 だが宇垣と草鹿は性格的に合わないところがあったといわれている。

 伊藤整一少将の後に第八戦隊司令官に就任した宇垣纏少将について、丸別冊「回想の将軍・提督」(潮書房)の中で、「印象に残る海軍の諸先輩」と題して元海軍中佐・久住忠男氏が寄稿している。

 久住氏は当時第八戦隊参謀であった。

 当時軍令部作戦部長から第八戦隊司令官に転任してきた宇垣少将は、海軍大学校の教官などが多く、海軍戦術の大家として高名であった。

 宇垣司令官の艦橋での指揮ぶりはものすごかった。自分に自信があるので、人のやることを黙って見ておれない。

 第八戦隊旗艦・利根の艦長は、兵学校トップ卒業の秀才であった。だが赤煉瓦勤務が多かったので、艦隊勤務には不慣れであった。

 艦の出入港時の操艦にまで宇垣司令官が口を出す始末で、艦長の影は薄かった。

 主席参謀は砲術関係出身者であったが、陸上勤務が多かった人で、これもほとんど無視されたという。

 筆者の久住参謀は、無線電話による戦隊内通話を隠語で行うという訓練を重視して、それに没頭、徹底的に行ったという。それが宇垣司令官に認められ、可愛がられた。

 艦隊訓練が終わり、三河湾に入泊して、蒲郡で半舷上陸が行われたとき、久住参謀は宇垣司令官のお供をして鴨猟に行ったこともあったという。

 宇垣司令官から「正奇制敵」と書かれた立派な揮毫ももらった。この揮毫はは額に表装されて久住氏の家の客間を飾っている。

 「実録・参謀たちの戦争学」(立風書房)の中の「戦いの枢機に参じた五人の艦隊参謀」によると、宇垣纏少将が巡洋艦の第八戦隊司令官から連合艦隊参謀長に転補されたのは昭和16年8月1日だった。

 9月24日軍令部において、軍令部からは第一部長・福留繁第一部長以下作戦課全員と連合艦隊から宇垣参謀長以下幕僚が出席して、ハワイ奇襲作戦を実施すべきか否か真剣な討議が行われた。

 「宇垣参謀長は開戦日を一ヶ月遅らせるようなことがあっても、ハワイ作戦はやったほうが全般作戦を進捗させて有利」と発言した。

 だが、会議終了後、福留第一部長に「自分は着任後日が浅く、確たる自信はないのだが」と漏らしている。

 福留と宇垣は海軍兵学校四〇期の同期。福留は卒業成績が8番、宇垣は9番で恩賜組ではなかったが、席次が隣り合う良きライバルだった。

 どういう理由か不明だが、青年士官時代に福留はハンモックナンバー(席次)がずるずる下がり大尉の中頃には17番まで落ち込んでしまった。

 だが、大正15年12月、海軍大学校甲種学生を恩賜の長剣・2番で卒業すると、順位を回復し、昭和2年には10番、6年には6番に上がり、宇垣の次位を占めるようになった。

 海軍大学校入学は宇垣のほうが2年早い。甲種学生卒業と同時に少佐に進級している。

 その後宇垣は軽巡大井砲術長、軍令部参謀、ドイツ駐在、第五戦隊参謀、第二艦隊参謀、海軍大学校戦術教官を経て、昭和10年10月、連合艦隊先任参謀のエリート街道をまっしぐらに歩んでいる。

 「最後の特攻機」(中公文庫)によると、宇垣纏は明治23年2月、岡山県赤磐郡潟瀬村の正木に生まれた。正木は吉井川と裏山に取り囲まれている小村である。現在の地名は瀬戸町大内である。

 この小村の農家のほとんどは驚くべきことに宇垣の姓である。戦前から戦中にかけて、この小村は県下でも、軍人王国としてもてはやされた。そして多くの人々の注目を引いてきた。

83.宇垣纏海軍中将(3) 別にけんかをするわけではなかったが、どうも私には虫が好かなかった

2007年10月26日 | 宇垣纏海軍中将
 太平洋戦争中の連合艦隊司令長官は四人いるが、この四人とも人に対する好き嫌いが強かった。

 山本長官が福留繁参謀長転出にともない、その後釜に第一部長の宇垣少将をあてようとする人事局に、宇垣が艦隊勤務をしていないのを口実として忌避した。

 このため、宇垣少将は第八戦隊司令官として海上勤務に出ることになり、連合艦隊参謀長には第八戦隊司令官の伊藤整一少将が着任した。

 だが四ヵ月後、伏見軍令部総長が発病、永野修身大将が急遽その後釜に就任し、軍令部次長に伊藤参謀長が引っ張られたので、伊藤の後に、宇垣少将が連合艦隊参謀長に就任した。

 だが、一方、この宇垣参謀長就任の経過については「最後の特攻機」(中公文庫)によると、次のようにも記されている。

 まず、宇垣少将が昭和16年4月、日本の空気がいよいよ険悪な時期に、軍令部第一部長から唐突に第八戦隊司令官に転出させられたことについて、宇垣の盟友、福留繁中将の「海軍生活四十年」に次のように述べられている。

 当時、山本五十六連合艦隊司令長官が福留繁連合艦隊参謀長に「及川小古志郎海軍大臣が、どうしても君を軍令部第一部長にくれという。時局も切迫してきたので、航空兵力を急造する必要がある」と言ったのだ。

 続けて山本五十六長官は福留繁連合艦隊参謀長に「ところが財源の関係で、四年も五年も建造にかかるような武蔵、大和級の第三号艦(信濃)、第四号艦(紀伊)の計画を中止しなければ、飛行機増産の方に力が回らない」

 さらに「ところが、今の軍令部一部長の宇垣少将がどうしても承知しない。艦船兵器を要求する一番元の注文は第一部が出すのであるから、一部長が反対していては飛行機の増産ができない」

 最後に「そこで、宇垣の代わりに、君が一部長になって、わが方の要求実現に努力してくれまいか」と山本長官が福留参謀長に言ったのが宇垣転出の原因であったという。

 宇垣第一部長は大艦巨砲主義であり、及川海相、山本長官の航空機増産を阻止しているように見える。

 最後に山本は福留に「もう一つ、対米関係が悪化しているが、軍令部に行ったら、戦争にだけはならぬよう尽力してもらいたい」と注文をつけた。

 三国軍事同盟の締結以前よりかたくなまでの態度をとりつづけ悩まされ続けてきた宇垣少将に対して、折を見て更迭させたい気持ちがあった。それに代わるべき人材として協調的な福留少将を選んだともいえる。

 当時、軍令部第一部長か連合艦隊参謀長かの要職につけうる人材としては、宇垣纏か福留繁か、二人以外には見当たらず、それは衆目の見るところであったと言われている。

 「山本五十六」(新潮文庫)によると、昭和16年2月6日附けの堀悌吉あての書簡の中には、山本長官が宇垣少将の連合艦隊参謀長に不賛成を唱えている箇所がある。

 「一月中旬頃の話、四月横須賀入港後古賀と近藤、福留と宇垣(福留一部長、アト伊藤整一アト宇垣)嶋田と豊田(嶋田横須賀アト豊田貞アト清水)交代の内相談及川よりあり」と、例の人事異動の問題をしるした欄外に「宇垣参謀長は当方同意せず」という一行が見える。この手紙は「五峯録」の中におさめられている。

 山本長官が人事に関するこういう構想をあちこちに訴えたのは、中央を強化して何とか戦争突入を避けたいと考えたからである。

 宇垣が第一部長時代、作戦課長が一期後輩の草鹿龍之介大佐だった。

 草鹿龍之介氏(元海軍中将)が戦後著した「連合艦隊ー草鹿元参謀長の回想」によると、彼もまた、当時宇垣に悪感情を抱いていた。彼は次のように述べている。

 「宇垣中将は私より一つ上の級で秀才だった。私は軍令部の作戦課長を二年やったが、そのあとの一年は宇垣少将が上役の一部長になってきたので一緒にいた」と述べており、そのあと

「故人の悪口を言うのは済まないようだが、率直に言うと私は彼が大嫌いだった。何かものをいっても木で鼻をくくったような冷淡さがあった。別にけんかをするわけではなかったが、どうも私には虫が好かなかった」と露骨に記している。

82.宇垣纏海軍中将(2) そこには帝国陸海軍のエリートたちの紳士道も武士道も全く見られなかった

2007年10月19日 | 宇垣纏海軍中将
 丸別冊「回想の将軍・提督」(潮書房)によると、「特攻艦隊二長官、宇垣纏と醍醐忠重」と題して元海軍中佐・鳥巣建之助氏が寄稿している。

 それによると、宇垣が少将で軍令部第一部長の時に発生した仏印進駐のあと、昭和15年10月8日、芝水交会で開催された陸海軍中央合同研究会の一断面を「統帥乱れて」(大井篤著)からの引用で述べている。

 左隣の佐藤(南支那方面参謀副長・佐藤賢了大佐)がもぞもぞし始めた。ちらりと目をやると、まず詰襟のホックを、次いで五つもあるボタンを全部外し、肌着襦袢の上部をあらわにした。

 わたしの説明が終わったわけでもないのに、佐藤は両手でカーキ色の軍衣を左右に開きつつ、一メートル半ばかり目前の席で会議を司会している軍令部第一部長・宇垣少将に向かい、こう言った。  
 
 「一介の属吏にすぎない軍令部第一部長が大命を勝手に解釈して作戦部隊の行動を指示したりするから、いま二遣支参謀が述べたようなことになる。統帥の尊厳を損なうものだ」

 宇垣は私の海軍大学校当時の教官だった。気性が激しく、兵棋演習のさい、学生が丁寧に並べた兵棋のコマを「この並べようはなんじゃ」とスリッパで蹴飛ばしたことさえあった。

 あの荒武者の宇垣が右の佐藤の不遜な発言に一言も答えず、安楽椅子に腰を埋めてじっとしている。宇垣の隣席の近藤(軍令部次長・近藤信竹中将)を含め、誰もが黙ったまま。私には不可解な情景だった。

 ヤクザまがいの佐藤のしぐさ、海軍統帥部に対する理不尽かつ無礼極まる発言、そして海軍側の卑屈そのものの対応、そこには帝国陸海軍のエリートたちの紳士道も武士道も全く見られなかった。

 「海軍参謀」(文藝春秋)によると、山本五十六連合艦隊司令長官率いる連合艦隊は、真珠湾攻撃、マレー沖、南方作戦、ミッドウェー、珊瑚海、ガダルカナル、ソロモンと問題の多い作戦の計画と指導を続けた。

 その連合艦隊司令部で作戦を主導的に進めていったのが黒島亀人先任参謀であった。黒島参謀のすぐれた点は独創力と構成力にあり、山本長官から厚い信頼を受けていた。

 だが結果的にこれらの作戦は、黒島参謀の主観的、思い込み的、自己過信、敵過小評価的指導による大失敗に脅かされた。

 黒島の独走を抑える役目は本来は参謀長の宇垣少将であった。だが連合艦隊司令部では宇垣参謀長は浮いた存在であった。だからその機能を果たしていなかった。

 悪いことに、黒島参謀は山本長官が着任した昭和14年9月1日から二ヶ月たたない10月20日に発令されている。

 渡辺戦務参謀も、黒島参謀に十日遅れただけの11月1日発令で着任している。なのに、宇垣参謀長の着任は16年8月。二年も遅かった。

 山本長官が、日米開戦の場合、どんな作戦をとるべきか、長い間悩みぬいて、最後に真珠湾攻撃を決心したのは15年11月末だったろうと考えられている。
 
 黒島、渡辺参謀はその苦悩と決断を陰に陽に補佐してきたし、山本長官が決心した前後に着任した佐々木航空参謀、有馬水雷参謀、和田通信参謀たちも、黒島、渡辺参謀と一緒に開戦当初の真珠湾攻撃や南方作戦の計画と準備に知恵を絞り、力を尽くした。

 宇垣参謀長が着任した16年8月には、開戦から南方作戦が終わるまでの第一段作戦は、ほとんどの作戦研究と計画立案が終わっていた。

 しかも宇垣参謀長の着任の遅れは、山本長官が忌避したからだった。本当なら、宇垣少将は軍令部作戦部長からまっすぐ連合艦隊参謀長に着任するはずだった。

 だが、第八戦隊(重巡戦隊)の司令官を四ヶ月やらされ道草を食ったのだった。

81.宇垣纏海軍中将(1) 連合艦隊司令長官山本五十六大将は宇垣纏参謀長が嫌いである

2007年10月12日 | 宇垣纏海軍中将
 「海軍参謀」(文藝春秋)によると、連合艦隊司令長官山本五十六大将は宇垣纏参謀長が嫌いである。

 山本長官は嫌いな人間には口を利かない。利いても無愛想な切り口上になる。普通のしゃべり方になるには、相手にいくらかでも心を許さないといけない。感情の非常にきつい人の特徴である。

 宇垣参謀長が山本長官に嫌われている理由は、山本長官が次官時代に命がけで反対し続けた日独伊三国同盟に、宇垣が軍令部作戦部長時代に最終的に結局賛成したことだった。

 宇垣少将は積極的に賛成したわけではなく、やむをえず「よかろう」と言ったのだから山本長官に申し開きはできると考えていた。

 だが、申し開きをしても、それを聞いて、心を開いてくれる人ではない、と宇垣参謀長は見ていた。時間をかけて氷が解けるのを待つしかないと。

 ミッドウェー作戦を担当したのは、黒島亀人大佐・先任参謀と渡辺安治中佐・参謀であった。

 宇垣参謀長は山本長官が嫌いだからと、カヤの外に置かれていた。そうすると、参謀長の役目は誰がするのか。
 
 黒島先任参謀は「変人参謀」であり「仙人参謀」であって、ものを考え始めると私室に篭って出てこない。極端に自分中心で動いているから艦隊令に定められたような参謀長の職務は代行できない。

 渡辺戦務参謀は黒島先任参謀の仕事の一部を代行して幕僚陣を束ねてはいるが、参謀長の代行はキャリア不足でとても無理だった。

 とすれば、種を播いた山本長官が刈り取らなければならなくなるが、彼は日ごろは無口で容易に自分の腹を明かさない。

 これでは連合艦隊司令部のシステムが円滑に動くわけがない。ミッドウェー作戦はこんな空気の中から忽然と浮上した。

 黒島と渡辺参謀は猛然と走り出し、後から考えると正気の沙汰とも思えないラフな作戦準備が、強引に急がれていった。

 「ひどいもので、箸にも棒にもかからぬ。連合艦隊司令部はもう神がかりだ」と「強引に急がされた」人たちは憤慨した。

 結局、ミッドウェー海戦は、惨敗した。司令部の参謀たちは動揺し、黒島先任参謀も涙を流した。作戦は中止され、総引き揚げに転じた。

 このときの宇垣参謀長の直接指揮振りは、さすがに水際立っていた。指揮下の部隊に発光信号を打たせたその信文までも、宇垣が口述した。

 そばで見ていた司令部付の大佐が、こう言った。「いや、快刀乱麻とはこのことだろう。いつも、山本長官の威光をカサに威張っていた参謀連中が、まるで小間使いのようだった」

 この後から宇垣の陣中日誌「戦藻録(せんそうろく)」の記事が、活き活きしてきた。借りてきた猫のようだった宇垣参謀長が、ミッドウェーの大敗を機に、司令部の中でそれなりに重量を持つようになった。

 宇垣はもともと「人を人とも思わぬ増長慢で、近寄り難いサムライだ。独善的で激しい。こんな下手くそやって、何だッ、とワケなく怒鳴る男だ」といわれ評判はひどく悪い。

 「山本長官の敬礼は、実に端正だ。二等兵が相手でもゆるがせにしない。ちゃんと挙手注目される。しかるに宇垣参謀長は、頭をチョッと後ろに反らすだけだ。それが答礼だ。しかも相手の敬礼の仕方が気に食わないと、黄金仮面とあだ名された顔を向けて、睨みつけるから恐れ入る」と某大佐は首を振り、とてもいけません、というジェスチャーをした。



<宇垣纏海軍中将プロフィル>

 明治23年2月岡山県赤磐郡潟瀬村に宇垣善蔵の次男として生まれる。

 明治42年2月岡山県立第一中学校卒業。9月海軍兵学校生徒(四十期)。同期生に山口多門、福留繁、大西瀧治郎、寺岡謹平など。

 明治45年7月海軍兵学校卒業。144人中9番で卒業。

 大正2年12月海軍少尉。大正4年12月海軍中尉。大正7年12月海軍大尉。大正8年12月砲術学校高等科学生修了。

 大正11年6月海軍大学校甲種学生(海軍大尉)。大正13年11月海軍大学校卒業(22期)。12月海軍少佐。

 大正14年12月海軍軍令部参謀。昭和3年11月ドイツ駐在海軍武官。12月海軍中佐。

 昭和5年12月第五戦隊参謀。昭和6年12月第二艦隊参謀。昭和7年11月海軍大学校教官兼陸軍大学校教官。12月1日海軍大佐。

 昭和10年10月連合艦隊参謀兼第一艦隊参謀。昭和11年12月海防艦八雲艦長。昭和12年12月戦艦日向艦長。

 昭和13年11月海軍少将。12月海軍軍令部第一部長。昭和16年4月第八戦隊司令官。8月連合艦隊参謀長。12月ハワイ真珠湾攻撃。

 昭和17年11月海軍中将。

 昭和18年4月連合艦隊司令長官山本五十六大将ブイン上空で戦死(海軍甲事件)。二番機搭乗の宇垣参謀長、海中に沈没するも奇跡的に救出される。戦傷のまま旗艦武蔵に運ばれる。軍令部出仕、戦傷。

 昭和19年2月第一戦隊司令官。7月16日宇垣司令官、戦艦大和、武蔵、駆逐艦三隻を率いてリンガ泊地に到着。10月レイテ海戦。11月24日軍令部出仕。

 昭和20年2月10日第五航空艦隊司令長官。14日鹿屋基地に将旗を掲揚。3月11日梓特攻作戦(ウルシー基地特攻)。4月6日菊水一号作戦。7日大和特攻。12日菊水二号作戦、15日菊水三号作戦、28日菊水四号作戦、5月24日菊水7号作戦、27日菊水八号作戦、6月22日菊水10号作戦で菊水作戦打ち切り。

 昭和20年8月10日第三航空艦隊司令官に親補(後任は草鹿龍之介中将)。14日草鹿長官大分に到着せず。15日正午玉音放送、終戦。午後七時二十四分、宇垣長官、彗星で沖縄特攻、散華(56歳)。共にしたもの艦爆機彗星十一機、十六名。