陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

379.黒島亀人海軍少将(19)彼は日露戦争に於ける秋山真之に匹敵する海軍の至宝である

2013年06月27日 | 黒島亀人海軍少将
 連合艦隊は事態が容易ならざることをさとり、第二艦隊、第三艦隊のラバウル進出を命じるとともに、八月十七日、旗艦「大和」は瀬戸内海の柱島を出港し、トラック島に本拠を移した。

 ガダルカナル島をめぐる争奪戦は、凄惨なものになってきた。陸軍は八月十八日に一木支隊を、九月七日に川口支隊をガダルカナル島に投入したが、ともに攻撃は失敗し部隊は壊滅した。

 大本営はついに、第二師団をガダルカナル島に上陸させることに決した。制空権、制海権ともアメリカ軍の優勢の中、第二師団を輸送するには海軍の協力が必要だった。だが、海軍側の協力は、駆逐艦で夜中に輸送する「鼠輸送」位だった。ぜひとも船団輸送が必要だった。

 参謀本部作戦班長・辻政信中佐は、この状況では、第二師団輸送は失敗すると判断した。そこで、連合艦隊司令長官・山本五十六大将に海軍の協力を直訴するため、辻中佐は、林参謀を伴い、昭和十七年九月二十四日、トラック島の、戦艦「大和」を訪ねた。

 その時のことが、「ガダルカナル」(辻政信・養徳社・昭和二十五年九月初版)に次のように記されており(要旨)、黒島大佐についても述べられている。

 「海軍機に便乗してトラックに向かった。大和が、化物のような巨体を浮かべ、それを取り囲むかのように数十隻の大小艦艇がならんでいる。恐ろしい数だ。だが、空母らしいものが僅かに二隻、これが帝国海軍の偉容であった」

 「ボートに乗って大和を訪れた。よくも人力でこのような軍艦が造れたものだ。これが航空母艦であったならと、ふと思った」

 「艦内に入ると、大ホテルに入ったようである。人呼んで大和ホテルというのも宜(うべ)なるかな。迷子になったら容易に出られそうもない。今更のようにその設備の尨大(ぼうだい)に驚いた」

 「早速、作戦室に通された。黒島高級参謀がその長身を机に凭(もた)せて、一心に作戦を練っている。彼は日露戦争に於ける秋山真之に匹敵する海軍の至宝であるとの噂だった」

 「戦前数年間、連合艦隊の作戦主任として、薄暗い一室に籠り、禅坊主のように、寝食も忘れ、家庭も忘れて、神謀を練り、奇策を編み出す眞個の幕僚であった。その下におる参謀も粒選りだ。どうやら軍令本部よりも一枚上手らしい」

 「ガ島奪回作戦失敗の眞因を説明した。第二師団を投入する作戦は、前轍を踏んではならぬ。万難を排して、船団輸送により、必要にして十分な糧食と弾薬とを揚陸しない限り、見込みはないことを強調した」

 「併しながら海軍にもまた、言い分がある。ミッドウェーの大敗で空母の主力をやられ、艦上機の多数を、練達の将校を共に失い、而も不利な条件で、ガ島での消耗をこれ以上繰り返すことは容易に忍び難いところであろう」

 「黒島参謀は、議論はしなかった。十分知り抜いているからである。併し、断は下し得ない。宇垣参謀長が入って来た。何処かしら、陸軍の宇垣さんに似た風采がある。親戚ではなかろうか。とすれば、よくもこのような偉材を同一家系から排出したものだ。一見しただけで貫禄と識見とが判るようである。山本長官を助けるにふさわしい幕僚陣容だ」。

 辻中佐は、そのあと、山本長官に会い、「よろしい、山本が引き受けました。必要とあらば、この大和をガ島に横づけにしても必ず船団輸送を、陸軍の希望通り援護しましょう」との長官の言葉をもらった。

 言い終わった時、山本長官は、両眼からハラハラと涙をこぼしたという。辻中佐も、思わず貰い泣きをした。「海軍参謀になって、この元帥の下で死にたいとさえ考えた」と辻は記している。

 だが、その後のガダルカナル島への兵力投入にもかかわらず、攻撃は失敗に終わり、昭和十八年二月一日~七日、ガダルカナル島の日本軍は駆逐艦により撤退した。

 昭和十八年四月三日、山本長官以下連合艦隊司令部は、旗艦、戦艦「武蔵」(二月十一日より旗艦)を出て、ラバウルへ進出することになった。

 山本長官が発案し、黒島大佐らが立案した大規模な「い」号作戦(ガダルカナル島と周辺敵艦船への大規模爆撃)を、第一線基地に進出して、指導、激励するためだった。

 ラバウル到着後、晩餐会が開かれ、連合艦隊参謀、隷下艦隊の各長官、参謀、陸軍の第八方面軍司令官・今村均中将らが出席した。

 その席で、宇垣参謀長が「ソロモン、ニューギニア方面の第一線部隊の志気を大いに鼓舞するため、同方面の最前線基地を巡回したい」と言い出した。

 山本長官も「私も行く。確かに我々は陣頭指揮の気概に欠けるところがあった……」と言い出した。

378.黒島亀人海軍少将(18)黒島大佐は山本長官に喰ってかかりながら、泣いていた

2013年06月20日 | 黒島亀人海軍少将
 山本長官は黒島大佐や参謀に尋ねた。「どうだ、南雲司令長官にすぐ攻撃せよと命令せんでよいか」。

 黒島大佐は「大丈夫でしょう」と答えた。「こちらから命令しなくても、南雲司令部としても、ただちに攻撃するでしょう」とも。航空参謀・佐々木中佐も「同感であります。ご心配は無用かと思います」と言った。

 山本長官は、「そうか、わざわざ命令せんでよいか」と言った。山本長官は、最終的に黒島大佐らの意見に同意して、「空母発見」の情報は機動部隊に伝達されなかった。

 昭和十七年六月五日から七日にかけて行われたミッドウェー海戦は、惨敗だった。機動部隊の大型航空母艦、「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の四隻とその艦載機、熟練したパイロットを一挙に失った。

 山本長官は、決断を下した。四隻の空母が全滅した以上、ミッドウェー作戦は中止せざるを得ない。残った南雲機動部隊に退却命令を出さねばならぬ。

 山本長官のこの意向を聞いて、黒島大佐など参謀たちは一種のパニック現象に陥ったといわれる。連合艦隊にとって、このような壊滅的な敗北は初めてだった。しかも参謀の誰もが負けるはずはないと思っていたのだ。

 黒島大佐は泣きながら、山本長官の決断に反対した。「長官、『赤城』はまだ浮いています。『赤城』をこのまま見殺しにするのですか」。

 もし、空母『赤城』がアメリカに捕獲されて見世物になったらどうするか。かといって、こちらが魚雷で『赤城』を沈めるわけにはいかない。したがって、第二主力部隊が現場に急行するしかないと、黒島大佐は山本長官に喰ってかかりながら、泣いていた。

 黒島大佐とともに作戦立案にかかわった戦務参謀・渡辺中佐も強硬に山本長官の決断に反対し、作戦の続行を主張した。

 二人は色をなして山本長官に喰ってかかったと言われている。だが、山本長官は、二人の意見を退けた。

 山本長官は、いまだに沈まずに炎上し続けている『赤城』と『飛龍』を、駆逐艦「野分」に魚雷を発射させて沈めた。そして「ミッドウェー攻略ヲ中止ス」の退却命令を出した。

 山本長官は参謀たちに、「今度の失敗はすべて僕の責任だ。南雲部隊を責めてはいかん」と言い残して、長官私室に引きこもり、数日間、姿を見せなかった。

 アメリカの太平洋艦隊に対し、圧倒的に優勢だった連合艦隊が、一瞬のうちに壊滅してしまった。それは、黒島大佐が真珠湾奇襲作戦以来、築きあげてきた自信と誇りの崩壊を意味した。

 黒島大佐をはじめ参謀たちは茫然自失していた。そういった姿を尻目に、宇垣参謀長は、水際立った指揮をし、全軍総退却の指導を行った。

 以来、宇垣参謀長は、黒島大佐に遠慮せずに、ほかの参謀たちにも命令するようになった。今まで、山本長官と黒島大佐のラインに棚上げされていた宇垣参謀長は息を吹き返したようだったという。

 ミッドウェー作戦は日本海軍、連合艦隊の大敗に終わった。南雲機動部隊の草鹿参謀長たちは乗り移っていた軽巡「長良」から、旗艦の戦艦「大和」に帰ってきた。

 「大和」の艦上で、黒島大佐は、南雲機動部隊の首脳を血走った目で迎えた。怒気をはらんだその目は吊り上って、三人をにらみつけたという。

 黒島大佐は、草鹿参謀長に「しかし、なぜ、敵発見から二時間近くも攻撃隊は発進しなかったのですか」と迫った。

 すると、草鹿参謀長は「私は、連合艦隊にあれほど念を押していったはずです。『赤城』はじめ空母の通信施設は不十分だ。貧弱です。だから、重要情報は連合艦隊から転電してくれと念を押していったではないか」と、逆襲した。

 黒島大佐は、言い逃れだ、苦し紛れの弁解だ、論理のすり替えだと思い、憤然としたが、沈黙を守った。山本長官の前で、これ以上判断ミスを責めるわけにはいかなかった。

 肝心の山本長官は、もっぱら草鹿参謀長たちのなぐさめ役にまわっていた。だが、黒島大佐は南雲司令部の作戦指導に対する疑問が底深くわだかまっていた。

 昭和十七年八月七日、機動部隊の援護を受けた、アメリカの海兵師団が突如、ツラギ島とガダルカナル島に上陸してきた。アメリカ軍の本格的な巻き返しの第一歩だった。

377.黒島亀人海軍少将(17)連合艦隊の幕僚たちは一種の神がかり的な状態になっていた

2013年06月14日 | 黒島亀人海軍少将
 その結果、福留少将は「せっかくの連合艦隊の作戦案だから、なるべく検討してみようではないか」と言ったのである。福留少将は山本長官のもとで「長門」艦長や参謀長として使えたことがあり、厳しい態度がとれなかった。

 結論は、三日後の四月五日に持ち込まれることになった。この経過は、真珠湾奇襲攻撃作戦をめぐる、軍令部と黒島大佐の対立と同様なものになった。

 四月五日、軍令部作戦室で会議は行われた。渡辺安次中佐の前には、軍令部次長・伊藤整一中将、第一部長・福留繁少将、第一課長・富岡定俊大佐、航空主務部員・三代辰吉中佐が席を占めていた。

 ミッドウェー、アリューシャン両作戦案が再度検討されたが、富岡大佐と三代中佐は、一貫して反対の態度を変えなかった。特に三代中佐は航空作戦、航空軍備の面から強硬に反対の論陣を張った。

 渡辺中佐は、中座した。呉経由で、戦艦「大和」に電話連絡して、山本長官に海軍中央部の主張を伝え、山本長官の意志を確認した。「連合艦隊の案がいれられなければ、司令長官の職を投げ出す」。

 席に戻った渡辺中佐は、山本長官の意志が変わらないことを伝えた。とうとう福留少将は「山本長官が、それほどまでに仰有るのなら……」と伊藤中将に言った。伊藤中将は黙ってうなずいた。

 なお、山本長官の、「司令長官の職を投げ出す」の言葉について、千早正隆(台湾・海兵五八・海大三九・第四南遣艦隊参謀・連合艦隊作戦乙参謀・海軍総隊参謀・海軍中佐・戦後東京ニュース通信社常務取締役・戦史作家)は、「別冊歴史読本」八六夏季特別号で、次のように述べている(要旨)。

 「諸般の事情から見て、それは山本長官自身の言葉ではなく、軍令部に対する最後の切り札として、黒島大佐が独断でデッチ上げた可能性がある」。

 山本長官の真意か、黒島大佐のデッチ上げかは、ともかく、このような心情的なやりとりが主流となった経過をたどり、山本長官の主張した、ミッドウェー、アリューシャン両作戦案は、軍令部を通ったのである。その瞬間、三代中佐は涙を流し、顔を伏せた。痛恨の涙だった。

 山本長官は、アメリカの空母群を壊滅させねば日本の勝利はないと考えていた。真珠湾を奇襲したのも、本来はその目的であり、ミッドウェー島を占領し、アメリカ機動部隊を誘い出す作戦も、その考えに基づいたものだった。

 連合艦隊はミッドウェー作戦に向かって動き出した。だが、真珠湾奇襲作戦の成功によって、連合艦隊の幕僚たちは一種の神がかり的な状態になっていた。驕慢と自惚れが連合艦隊の参謀たちを支配していた。

 さらに、参謀たちには奇妙な亀裂があった。宇垣参謀長は、山本長官を補佐すると同時に、黒島先任参謀以下、作戦、政務、航空、通信、航海、戦務、水雷、機関担当参謀を監督、統括する責任があった。

 だが、山本長官は黒島先任参謀を偏愛し、山本長官と黒島先任参謀のパイプは直結していた。宇垣参謀長は、山本=黒島のパイプラインから除外されていた。

 山本長官は勝負事には事実本当に強く、よく、将棋やカードをしていた。それだけに並みの相手では勝負にならなかった。

 その点、渡辺中佐と作戦参謀・三和義勇大佐(海兵四八・海大三一次席・空母「赤城」飛行隊長・軍令部第一部部員・連合艦隊参謀・空母「加賀」飛行長・霞ヶ浦空副長・大佐・連合艦隊参謀・第一一航空艦隊参謀・第一航空艦隊参謀長・戦死・少将)は将棋の腕は確かだった。

 この将棋を通じて、この二人は山本長官の信頼を得て、黒島大佐に次ぐ側近になったのである。

 三和大佐は、黒島大佐より兵学校四期後輩であったが、航空作戦の専門家だった。それにもかかわらず、黒島大佐と意見の食い違いが多く、三和大佐の構想はあまり反映されなかったと言われている。

 渡辺中佐は特に作戦の構想力があり、黒島大佐は真珠湾奇襲作戦を立てるとき、ほかの参謀とは別に渡辺中佐に独自の研究を命じていた。その意味では、山本長官、黒島大佐、渡辺中佐の三人は一枚岩の結びつきの固さをもっていた。

 黒島大佐は、山本長官の陰にあって、自己過信の悪循環に陥っていった。過信はやがて慎重さを欠き、相手に対する過小評価につながっていった。

 ミッドウェー海戦までの時期は、黒島大佐だけでなく、参謀たちも、絶頂期であると同時に、そういう危うい状況だったといえる。

 遂に、ミッドウェー作戦は開始された。南雲機動部隊は、当初、敵空母はいないと判断していた。だが、索敵の結果、「敵空母発見」の電報が、戦艦「大和」の司令部にも入った。

376.黒島亀人海軍少将(16)作戦課が反対したからといって、おめおめと引き下がれない

2013年06月07日 | 黒島亀人海軍少将
 だが、この交代案は、山本五十六長官により一蹴された。その理由は、黒島大佐の作戦頭脳は一種独特なもので、余人をもって替え難いというものだった。

 確かに黒島大佐よりはるかに優秀な参謀は多数いるが、優秀な正統派は、すべて型にはまった発想しかできない。

 山本長官は、海軍中央の正統的な戦略理念では、豊かな資源とエネルギーに恵まれたアメリカには勝てない。奇策を生み出す必要があった。黒島大佐によってのみ、その奇策が生み出し得ると確信していた。

 黒島大佐の交代劇の経緯は、その三ヶ月前にさかのぼる。昭和十七年一月中旬、真珠湾奇襲攻撃が一段落し、山本五十六長官は、宇垣参謀長と黒島主任参謀に新たな作戦の策定を命じた。

 黒島大佐は一室に四日間閉じこもり、作戦構想を練った。黒島大佐が部屋を出てきたときに手にしていたのは、米空母を潰滅へと誘い込むことを企図して、ミッドウェーかハワイに一大襲撃を喰わす計画だったのだ。

 それは、ミッドウェーとアリューシャン列島に攻撃を仕掛けるために十六個機動部隊を使用するという大攻撃作戦案だった。

 この作戦案は、山本長官も出席した連合艦隊の参謀会議にかけられ、実行可能な作戦案に修正されていったが、基本プランは黒島大佐の頭から捻出されたものだった。

 そのプランは、精緻極まりないものであった。列車のダイヤグラムのように精密に計算され、徹底的に練り上げられた作戦計画で、一種の芸術作品のシナリオともいうべきものだった。

 参加兵力は戦艦十一、空母八、巡洋艦二十一など、大小艦艇が二百隻を越えるもので、それらが、十~十二のグループに分かれ、ミッドウェーとアリューシャン列島に向かって、異なる時と場所から整然と出撃し、目的地に収れんしていくように工夫されていた。

 だが、それは、世界戦史上空前ともいえる戦域拡大を余儀なくするものだった。

 それにもかかわらず、山本長官は、この作戦計画をよしとした。こうして、MI(ミッドウェー)、AL(アリューシャン)両作戦構想はできあがっていった。

 昭和十七年四月二日、連合艦隊戦務参謀・渡辺安次中佐は、この作戦構想を携えて、連合艦隊司令部である、戦艦「大和」を離れて上京し、海軍軍令部を訪れた。連合艦隊の旗艦が、戦艦「長門」から「大和」に移ったのは、二月十二日だった。

 渡辺中佐が携えてきたこの作戦案に、軍令部は真っ向から反対した。反対の中心になったのは、軍令部第一部第一課長(作戦課長)・富岡定俊大佐と、航空主務部員・三代辰吉中佐だった。

 ちなみに、三代中佐と渡辺中佐は海軍兵学校(五一期)、海軍大学校(三三期)ともに同期だった。

 連合艦隊の作戦概略は、ミッドウェー占領後、できればハワイ攻撃を視野に、アリューシャン列島の要地を占領し、日本の空と海を、東に二〇〇〇カイリ拡大する。同時にアメリカ太平洋艦隊を誘い出し撃滅するというものだった。

 一方、軍令部は、アメリカは、オーストラリアを拠点にして反攻に出てくると想定していた。日本としてはアメリカが反攻してくる前に、ソロモン群島からニューカレドニア、サモア島などを攻略して、オーストラリア孤立させる。

 これは、いわゆる米豪遮断作戦だが、第二段作戦として、この作戦を軍令部作戦課は、もっとも熱心に研究、推進していた。富岡大佐や三代中佐もこの立場であり、ミッドウェー、アリューシャン両作戦構想に反対した。

 富岡大佐と三代中佐は、たとえ、ミッドウェー島を攻略占領しても、補給難の問題がある。補給を続けるために、護衛の航空兵力を得るために広大な制空権を維持しなければならないことを勘案すれば、この孤島の占領価値は少ないと主張した。占領継続のための艦隊行動にも難があると。

 この問題に対して、渡辺中佐の反論はタジタジとなった。最後に渡辺中佐は次のように主張した。

 「作戦案は、いやしくも山本長官が決裁したものである。作戦課が反対したからといって、おめおめと引き下がれない。軍令部上層部の意見を聞きたい」。

 渡辺中佐の主張を受けて、富岡大佐と三代中佐は、第一部長・福留繁少将のところに同案を持ち込んで、議論を続けた。