陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

31.遠藤三郎陸軍中将(1) 国賊・赤の将軍と人はいう

2006年10月20日 | 遠藤三郎陸軍中将
遠藤将軍の著書「日中十五年戦争と私」(日中書林)の序文で片山哲元総理は次のように述べている。

 「私は君が戦後俄に発心して平和主義者になったのかと疑った。ところが、後に憲法擁護運動の会として、中国への友好親善の訪問を供にした時、旅中の話し合いや、毛沢東首席、周恩来首相、その他要人との会見に当たっての発言を聞くにおよび、君がなかなかの平和主義者であると判明した。さらに雑誌「日中」連載の記述を読むに到って、君は軍人時代からの本式の平和主義者であったとわかった。あれでよく軍人が勤まったと思ったくらいである」と。

 遠藤将軍は頭脳明晰、幼年学校、士官学校、砲工学校、陸軍大学校を全て恩賜賞で卒業、さらにフランスのメッツ防空学校、フランス陸軍大学校も卒業している作戦のエキスパートだった。

 そのエキスパートを途中から軍上層部は作戦畑からはずした。昭和12年10月29日、野戦重砲兵第五連隊長の遠藤大佐は、参謀本部課長に転任の内報を受けた。

 11月13日には前田治旅団長から、そのポストは作戦課長であることが伝えられた。

 11月28日参謀本部に出向いた遠藤大佐を待っていたポストは第二課(作戦)ではなく第一課(教育)の課長だった。

 遠藤大佐は参謀本部作戦課に長く勤務し、作戦以外の勤務はなく、遠藤大佐自身作戦課長としての勤務を決して疑わなかった。

 だが「それはとんでもない自惚れであり誤算でありました」と遠藤は後に記している。

 遠藤将軍は明治37年8月1日、11歳の時から、昭和59年9月9日、91歳の時まで、厖大な量の「遠藤三郎日記」を書き残している。

 それは書庫一杯になるほどの量であった。最後の日記から約一ヵ月後の昭和59年10月11日、心不全で遠藤将軍は波乱の生涯を閉じた。

 遠藤将軍の著書「日中十五年戦争と私」(日中書林)は厖大な日記の中の遠藤将軍が大正12年、参謀本部作戦課勤務から航空兵器総局長官までの終戦、及び戦後の活動に到るまでを書き上げたもの。

 「日中十五年戦争と私」は日記そのものではなく、遠藤将軍の回想録であり、そのサブタイトルは「国賊・赤の将軍と人はいう」となっている。それは戦後言われたものではなく、戦時中に遠藤中将投げかけられた言葉である。

 軍人として第二次世界大戦を戦った遠藤将軍は、戦後、埼玉県入間川町に入植した。

 農業に従事しながら片山哲元総理らと平和憲法擁護研究会を組織。旧軍人団を組織して中国を訪問、毛沢東首席らと会見した。

 遠藤将軍は五回に渡る訪中を繰り返し、日中の架け橋となり、昭和59年死去するまで戦争放棄、平和憲法を訴え続けた。

<遠藤三郎陸軍中将プロフィル>

 明治26年1月2日遠藤金吾、みのの三男として山形県置賜郡に生まれる。

 大正元年陸軍幼年学校卒(恩賜賞受領)。3年陸軍士官学校(26期)卒(恩賜賞受領)。任砲兵少尉。

 大正6年陸軍砲工学校高等科卒(恩賜賞受領)。7年陸軍中尉。重砲兵射撃学校教官。

 大正11年11月陸軍大学校(34期)卒(恩賜賞受領)。12年砲兵大尉。参謀本部。

 大正15年フランス駐在。昭和2年メッツ防空学校。3年砲兵少佐。4年フランス国陸軍大学校卒、参謀本部部員(作戦課)。

 昭和7年関東軍参謀(作戦)。8年砲兵中佐。9年陸軍大学校兵学教官。11年野戦重砲兵第五連隊長。

 昭和12年8月砲兵大佐。12月参謀本部第一課長。

 昭和14年関東軍参謀副長。14年陸軍少将。15年第三飛行団長。

 昭和17年陸軍航空士官学校幹事、陸軍中将、陸軍航空士官学校校長。

 昭和18年陸軍航空本部総務部長、航空兵器総局長官。20年12月予備役。

 昭和22年2月巣鴨入所、23年1月出所、埼玉県入間川町に入植、農業に従事。

 昭和28年片山哲元総理らと平和憲法擁護研究会を組織。30年訪中。31年元軍人団を組織して訪中、毛沢東主席と会見。

 昭和34年参議院議員選挙出馬、落選。35年四度目の訪中。36年日中友好元軍人の会結成。47年五度目の訪中。59年10月11日死去。