陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

201.山本五十六海軍大将(1) 山本さんには信仰が無く、そのために戦運も無かった

2010年01月29日 | 山本五十六海軍大将
 山本五十六は、大変負けず嫌いの性格で、また、恐怖心を押さえる強い心を持っていた。一方、常に合理性を追求する現実主義者で無神論者でもあった。

 この二つの人格的要素が山本五十六という軍人の戦歴、ひいては日本の第二次世界大戦史に多大な影響を与えた。

 山本五十六の負けず嫌いや恐怖心を押さえる強い心については、具体的ないくつかの話が残っている。

 「山本五十六」(阿川弘之・新潮文庫)によると、山本五十六が子供の頃、学校友達の母親が「五十六さん、おみしゃんは何でもようお上がりだが、この鉛筆は、いくら五十さんでも食べられまいがのう」と言った。

 すると、山本はその場で、いきなり鉛筆を取って、黙ってがりがり食べ出したという。

 山本五十六が大尉時代、海軍兵学校同期で親友の堀悌吉(海兵三二首席・海大一六首席)と一緒に湯河原に遊びにいき、ミカンを一度に四十七個食べて、とうとう盲腸炎になった。

 その時、手術を受けるのに、山本大尉は医者に、麻酔をかけないでやってほしいと主張した。あとで、何故そんなことをしたのかと尋ねられて山本大尉は、「切腹する時、どのくらい痛いか、試してみたんだ」と言った。

 また、米国駐在を命じられ、アメリカに向う客船の中で、山本少佐が余興で外国人たちの前で、ホールの危ない手すりの上で逆立ちをやって見せたという話もある。

 米内光政大将(海兵二九・海大一二)の談話によれば、普通の人は自動車に乗って七十キロから八十キロまでのスピードでは、平気な顔をしているが、時速百キロを越すと恐怖心を起こす。

 また、船では二十四ノット以上は気味が悪い。火山の噴火口では絶壁のふち一メートル以内に近づけば手足が固くなり恐怖心が起こる。軍艦のマスト登りでも同様である。

 ところが山本五十六は、それらのことが一向に平気であったと米内は話している。軍艦のマスト登りも、山本は熟練した水兵と少しも変わりなく、平気でスルスルと登っていったという。

 だが、山本五十六の負けず嫌いの性格や、恐怖心を押さえる強い心が最後に災いをもたらした。昭和十八年四月十八日、周囲の忠告を跳ね除け、前線視察に飛び立ち、ブーゲンビル島上空でアメリカ陸軍戦闘機P-38に待ち伏せされ、山本五十六連合艦隊司令長官は戦死を遂げた。

 終戦時、米国戦艦ミズーリー号艦上で日本の降伏文書調印使節の一員として参加した横山一郎海軍少将(海兵四七・海大二八首席)は戦後、昭和三十年に「宇宙の広大さからすると、人間などは虫けらかゴミみたいなものだ」と悟ってクリスチャンになった人だ。

 その横山氏が山本五十六大将を次の様に語っている。

 「山本さんは神を信仰する人ではなかった。だから、自分にできないことが可能になるような祈りを持っていなかった。自分に出来る範囲で一生懸命やったが、やはり力がおよばなかった」

 「東郷さんは神への信仰が篤かった。たとえば、日露戦争のとき、出征後最初に『天佑を確信して連合艦隊の大成功を遂げ』という命令を出している」

 「また、日本海海戦の詳報でも、冒頭に『天佑と神助により』と書き、末尾に『御稜威の致す所して固より人為の能くすべきにあらず。特に我が軍の損失致傷の僅少なりしは歴代神霊の加護に由る』と記している」

 「僕はそこが大事なところだと思う。天命を信じ、天命を行えるようなことをやらなければ、ものごとは成就しない。それが戦争の場合には戦運というものになるのだが、東郷さんにはそれがあった。バルチック艦隊が対馬海峡に来たのは、東郷さんに戦運があったからだ」

 「秋山(真之)さん(参謀)は合理主義のかたまりみたいにいわれているが、その上に信仰があった。だから、やはり秋山さんにも戦運があったと思う。日露戦争が終わり、最後には神がかりになってしまったほどの人だった」

 「山本さんは、最初はうまくいったが、あとは天命がマイナスに働くようになり、うまくいかなかった。山本さんには信仰が無く、そのために戦運も無かったのだと思う」

<山本五十六海軍大将プロフィル>

明治十七年四月四日新潟県長岡市生まれ。旧姓は高野。旧長岡藩士・高野貞吉の六男。生まれたときの父の年齢が五十六歳だったので五十六と名前がつけられた。長岡町立阪之上尋常小学校卒。新潟県立長岡中学校卒。
明治三十四年十二月(十七歳)海軍兵学校入学(入学成績二番)。
明治三十七年十一月(二十歳)海軍兵学校(三二期)卒。卒業成績百九十二人中十三番。
明治三十八年一月三日「日進」乗組。五月二十七日、第一戦隊旗艦「日進」で、日本海海戦に少尉候補生、艦長付として参加。砲の早発事故で左手の人差し指と中指を失う。八月三十一日海軍少尉、横須賀鎮守府付。
明治三十九年「須磨」「鹿島」「見島」乗組。
明治四十年八月五日(二十三歳)砲術学校普通科学生。九月二十八日海軍中尉。十二月十六日水雷学校普通科学生。
明治四十二年十月十一日(二十五歳)海軍大尉、「宗谷」分隊長。
明治四十三年十二月一日海軍大学校乙種学生。
明治四十四年五月二十二日砲術学校高等科学生、同校首席卒業。十二月一日砲術学校教官兼分隊長。海軍経理学校教官。
大正元年十二月一日佐世保予備艦隊参謀。
大正二年十二月一日「新高」砲術長。
大正三年十二月一日(三十歳)海軍大学校甲種学生。
大正四年旧長岡藩家老の山本家を相続、以後高野から山本姓になり、山本五十六と名乗る。十二月海軍大学校甲種学生卒(一四期)。十二月十三日海軍少佐。
大正五年十二月一日第二艦隊参謀。十二月二十五日待命。
大正六年六月九日(三十三歳)休職。七月二十一日軍務局員。七月二十七日兼教育本部長。
大正七年八月三十一日(三十四歳)旧会津藩士の娘である三橋礼子と結婚。媒酌人は侍従武官の四竃孝輔海軍大佐。
大正八年四月五日(三十五歳)米国駐在。ハーバード大学留学。十二月一日海軍中佐。
大正十年八月十日「北上」副長。十二月一日海軍大学校教官。
大正十二年六月(三十九歳)に十日欧米各国出張命令。十二月一日海軍大佐。
大正十三年十二月一日霞ヶ浦航空隊副長兼教頭。
大正十四年十二月一日在米駐在武官。
昭和三年八月二十日巡洋艦「五十鈴」艦長。十二月十日空母「赤城」艦長。
昭和四年十一月十二日(四十五歳)第一次ロンドン軍縮会議全権委員次席随員。十一月三十日海軍少将。
昭和五年十二月一日航空本部技術部長。
昭和八年十月三日第一航空戦隊司令官。
昭和九年九月七日(五十歳)第二次ロンドン軍縮会議予備交渉海軍首席代表。十一月十五日海軍中将。
昭和十年十二月二日航空本部長。
昭和十一年十二月一日(五十二歳)広田弘毅内閣のとき、永野修身海軍大臣の海軍次官に就任。
昭和十三年四月二十五日米内光政海軍大臣の海軍次官兼航空本部長。
昭和十四年八月三十日第一艦隊司令官兼連合艦隊司令長官。
昭和十五年十一月十五日(五十六歳)海軍大将。
昭和十六年一月一日大西瀧治郎少将に真珠湾攻撃の立案を指示。十二月八日真珠湾攻撃、太平洋戦争開戦。
昭和十八年四月十八日一式陸攻で前線視察に向う途中、ブーゲンビル島上空でアメリカ陸軍航空隊P-38戦闘機の攻撃を受け、戦死(海軍甲事件)。享年五十九歳。元帥、正三位、功一級金鵄勲章、大勲位菊花大綬章。ドイツから剣付柏葉騎士鉄十字章授与(この勲章は百五十九名しか授与されていない。山本五十六はただ一人の外国人受章者)。六月五日日比谷公園で国葬。葬儀委員長は米内光政。多摩墓地に埋葬。遺骨は長岡市の長興寺の山本家累代の墓に分骨。

200.東條英機陸軍大将(20) 天皇は「そうか」と言った。その一言だけだった

2010年01月22日 | 東條英機陸軍大将
 さらに、木戸自身もすでに重臣見解支持の態度を打ち出している以上、内大臣は辞任しなければならないということだった。

 木戸内大臣の忠告に天皇は「よくわかった」とうなずいた。

 オープンカーで宮城入りした東條首相が、宮殿に入り、拝謁室に向うと、取次ぎの侍従が少し待ってくれと止めた。今、内大臣が拝謁中だというのである。

 東條首相は「こっちは約束の時間通りに来たのに、どういうことか。また木戸が~」と思った。休所でひとり、案内を待っていると、政務室から退出してきた木戸内大臣が前を通りかかった。

 木戸内大臣は、挨拶すると東條に、これから上奏する内容を聞いた。東條はぶっきらぼうに言った。「内閣総辞職を決意し、内奏に参ったのです」。

 木戸は大変喜ばしかったが、そんな様子はおくびにも出さなかった。木戸はつとめて事務的にきいた。

 「円満に政変を収拾するため、私のふくみとしてお尋ねしておきますが、後継首相についてお考えがありましょうか?」

 東條は、自分の暗躍をとぼけている木戸に、皮肉をぶつけた。

 「今回の政変には重臣の責任が重いと考えます。従って、重臣に既に腹案がおありのことと思うので、あえて自分の意見は述べません。ただ、皇族内閣などを考えられる場合には、陸軍の皇族をお考えなきよう願います」

 これは、陸軍としては含むところがあるぞ、という凄みをきかせた、捨てぜりふであった。陸軍の皇族と東條が言ったのは、東久邇宮のことである。重臣たちが東久邇宮を首相に奏請して陸軍を押さえ、親しい近衛と組ませて和平にもっていく危険を東條は感じていた。

 木戸に釘をさすと東條首相は拝謁室に向った。天皇のご意見次第で、まだわからんぞ。東條首相は自分に言い聞かせた。天皇は東條に首相を続行させるかもしれない。

 いつものように、天皇は無表情で現れた。

 「諸般の実情にかんがみ、総理大臣の辞職をお許し願いたいと考えて参りました」

 東條首相が言うと、天皇はちょっと思案する様子だったが、すぐに天皇は「そうか」と言った。その一言だけだった。東條首相は、しばらく次の言葉を待ったが、天皇はなにも言わなかった。

 東條には訴えたいことが沢山あったが、この日は「椅子」の声もかからなかった。東條首相はじっと立っている天皇を見ていた。そこからはなんの感情も読み取れなかった。

 やがて、東條首相はうやうやしく最敬礼をし、天皇は、静かに退室して行った。東條の思惑は実現しなかった。東條首相は総辞職するもやむなしと決心した。東條内閣は昭和十九年七月十八日に総辞職した。

 この日七月十八日午後五時、サイパンの日本軍玉砕が、大本営から発表された。東條内閣総辞職が国民に発表されたのは七月二十日であった。

 一切の地位から退いた東條英機は、以来、終戦の昭和二十年八月十五日まで、東京世田谷区用賀の自宅に引きこもっていた。

 昭和二十年九月初めから、連合国軍最高司令官、ダグラス・マッカーサーは、日本人戦争犯罪人の呼び出しを始めた。大日本帝国最後の陸軍大臣・下村定大将(陸士二〇・陸大二八首席)は、東條英機が自決を決意していると耳に挟んだ。

 九月十日、下村大臣は東條に陸軍省へ来るように要請した。東條はやって来た。下村大臣が「閣下は自決を決意されていると聞きましたが」と言うと、東條は「自分は国民と皇室に重大な責任がある。死をもってお詫びする以外ない」と答えた。

 下村大臣が「いや、閣下にはぜひ東京裁判に出てもらわなければなりません」と言うと、

 東條は「自分には自決しなければならないもう一つの理由がある。それは戦争中に公布した戦陣訓の中に「生きて虜囚の辱めを受けず」という言葉がある。これを守って多くの将兵が死んだ。これを自ら破ることはできぬ」と答えた。

 だが、下村大臣は一時間以上に渡って東條を説得した。東條は「一応考え直してみる」と言って帰っていった。

 翌九月十一日午後四時、米軍の憲兵が東條の自宅にやって来た。東條はピストルで胸を打って自決を図るが失敗した。

 回復した東條は東京裁判では、開戦の責任が天皇にないことを主張した。昭和二十三年十一月に東條英機は絞首刑の判決を受け、その年の十二月二十三日未明、巣鴨刑務所で処刑された。六十四歳だった。

(「東條英機陸軍大将」は今回で終わりです。次回からは「山本五十六海軍大将」が始まります)

199.東條英機陸軍大将(19)この国内での戦いに勝てなくて、どうして敵との戦争に勝てましょうか

2010年01月15日 | 東條英機陸軍大将
 昭和十九年六月三十日、高木惣吉海軍少将(海兵四三・海大二五首席)は、海軍の現役・予備役大将招待会の前に、米内光政海軍大将(海兵二九・海大一二)と自宅で面会した。そのとき、米内大将は次の様に言った。

 「細かなことは知らぬが、戦争は敗けだ。確実に敗けだ。だれが出てもどうにもならぬ。老人は昼寝でもするほかはあるまい」

 大将会では末次信正大将(海兵二七・海大七恩賜)からサイパン奪回に関し鋭い質問が出された。このため、海相兼総長・嶋田繁太郎大将(海兵三二・海大一三)と作戦部長・中沢佑少将(海兵四三・海大二六)は、答弁に大いに苦慮した。

 そこで形勢不利と見た軍務局長・岡敬純中将(海兵三九・海大二一首席)は、食事の準備ができたことを口実に、助け舟を出した。

 この様子を見ていた米内大将は、食事後、「あれ(嶋田)ではだめだな」ともらした。

 それから海相更迭工作は表面では内閣強化のための改造工作と称しながら、裏面では内閣更迭の工作に変わっていた。そして海相の更迭、重臣の入閣が決定された。

 海相としては野村直邦海軍大将(海兵三五・海大一八恩賜)がまず親任された。入閣する重臣には陸軍側は安部信行大将(陸士九・陸大一九恩賜)、海軍側は米内大将がほぼ決まり、安部大将は承諾したが、米内大将は就任を保留した。

 こうなるとどうしても閣僚のポストが一つ不足してしまう。誰か閣僚を辞めてもらわなければならなくなった。そこで東條首相は国務大臣の岸信介に辞めてもらうことにした。

 星野直樹官房長官が首相の命により使いに立ち、岸に「内閣を強化するため退いてくれ」と言った。岸は「返事は直接総理にする」と星野を返した。

 岸は首相官邸に行くと、東條首相に対してキッパリと辞職勧告を断った。東京憲兵隊長・四方諒二大佐(陸士二九・東京帝国大学法学部)がやってきて、岸をおどしたが、岸は辞任を承諾せず、辞表を出すことを拒否した。

 岸は木戸幸一内務大臣と同郷の長州出身者であり、相協力して、内々に東条内閣打倒を打ち合わせていた。当時は閣僚の中で一人でも辞表を出さぬ場合は首相が命ずることができず、内閣は総辞職することになっていた。

 東京に事情に疎い呉鎮守府司令長官・野村直邦大将は、後任海軍大臣の交渉を受け、東條にだまされたような形で、七月十七日親任式に臨んだ。

 だが、その日、平沼邸では重臣が集まり、重臣はひとりも入閣しないことを決め、東條内閣不信任の態度をはっきり表明した。

 赤松秘書官は東條首相に「閣下! 強い手段をとって、国を救ってください。こんなことでは日本はだめになります。この国内での戦いに勝てなくて、どうして敵との戦争に勝てましょうか」と叫んだ。

 さらに「決戦体制をつくることに邪魔する者は、断固厳しい処分で除いてゆかなければなりません」と、暗にクーデターをほのめかす発言をした。

 涙を流して訴える赤松秘書官に、東條首相は優しく言葉をかけた。

 「馬鹿、お前の考えは甘い。日本は天子様の国だ。すべて天子様のお考え通りにするのが、日本人の長所であり、本分ではないか」

 木戸内大臣は、当初は東條英機を首相に推薦し、東條内閣に協力していたが、末期になると、木戸内大臣と重臣の間で早期和平を実現させようと、東條内閣の倒閣を画策していた。

 東條は自分の意見が通らない時は、木戸内大臣に対しても脅迫的な言動をとった。さすがに、木戸は東條を快く思わなくなっていた。天皇に対しても、東條の批判を告げた。もう東條は辞めさせるべきだと思っていた。

 昭和十九年七月十八日、木戸幸一内務大臣は、東條首相が天皇に拝謁を申し込んでおり、それが午前九時半の第一番に設定されていると聞いて、あわててその前に拝謁する手配をした。重臣会議の上奏を、東條より前に天皇に伝えておかなければならなかった。

 「東條英機暗殺の夏」(吉松安弘・新潮社)によると、九時十五分に拝謁した木戸内大臣は天皇に平沼邸での重臣会議の結果を話し、次の様に述べた。

 「首相がこれから上奏される内容は存じませんが、いま言上致しました重臣の動向によく御配慮の上、輿論のおもむく所と背反しないよう、お話されますように、特に御注意お願い申します」

 木戸内大臣が天皇に述べた、この意味は、重臣たちが、あからさまな東條不信任の上奏を出した以上、天皇が東條支持の態度を明らかにした場合は、国家の重臣が上意と逆の見解を具申したとして、その地位や位階勲等などを拝辞するといった騒ぎにもなりかねないということだった。

198.東條英機陸軍大将(18)嶋田は替えたほうが良いと思う。このままでは海軍は収まらぬ

2010年01月08日 | 東條英機陸軍大将
 赤松大佐の申し出に、岡田大将はあわてて、大いに恐縮したような素振を見せ、「ああそうか、そりゃ悪かったなあ。大変申し訳ないことをした、もうしないよ」と言った。

 赤松大佐が「そうですか? それじゃ、総理のところへ行って、ちょっと謝ってください」と言うと、岡田大将は「わかった、そう取り計らってもらえれば、会いにいこう」と答えた。

 さらに赤松大佐が「今後自重して策動のような行動はしないと、はっきり総理に申し述べていただけますね?」と念を押すと、「よしよし、承知したよ」と岡田大将は、その場を取り繕うような感じで答えた。

 東條首相との会見時間はその日の午後二時に決まった。この朝、東條首相は宮中の定例閣議に出席し、「最近、日本にもパドリオが横行し始めたようだから、諸君も充分ご注意願いたい」と発言し、閣僚達をにらんだ。

 東条英機暗殺計画(工藤美知尋・PHP研究所)によると、昭和十九年六月二十八日、高木惣吉海軍少将(海兵四三・海大二五首席)が、重臣の岡田啓介海軍大将を訪問した。

 そのとき、岡田大将は前日の二十七日に、首相秘書官の赤松大佐が、首相官邸へ来訪の要請があり、首相官邸で東條首相と岡田大将の対決になったことを高木少将に話した。

 その模様が「高木資料~岡田大将との会見秘録」に次の様に記されている。

 六月二十七日午後一時過ぎ、首相官邸二階の応接室で、岡田と東條は会見した。両者は、一応会釈はしたものの、すぐ沈黙してしまった。しばらくして東條から口火を切った。

 東條「あなたが色々動いておらるると聞いているが、私はそれを、はなはだ遺憾に思っています」

 岡田「総理から私の行動について遺憾に思うとの言葉を聞いて、私はむしろ意外である。私は海軍の現状を見聞して、嶋田では収まらぬ。いくさもうまくできぬ。総理の常に言われる陸海の真の提携もできなくなると考えるからこそ心配しているのであって、総理のためとこそ考えている」

 東條「もしあなたが言葉どおりでおるのならば、何ゆえ陛下や宮殿下までをも煩わせるか。さようなことはまことに不穏当ではないか」(いらだちながら、言葉荒く言った)

 岡田「お上や宮殿下がいかようのことを遊ばれたかは、私は全然関知せぬところで、私を引き合いに出されるのは当たっておらぬ」

 東條「海軍の若い者どもが、嶋田のことでかれこれ言うのは、けしからぬことではありませぬか。あなたはそれらの若い者を抑えて下さることこそ至当ではないか」

 岡田「海軍の若い者が、上司のことをかれこれ言ったならば、それはけしからぬことで、あなたの言われるとおりだ。しかし嶋田ではいかぬと考えたのは私である。今の海軍の状況を見たり聞いたりしてこれではいかぬ、これは嶋田では収まらぬと考えたので、若い者には罪は無い」

 東條「嶋田海軍大臣を替えることは、内閣が更迭となるから、私は海軍大臣を替えることはできません」(岡田がなかなかしぶとく、東條はますます激昂した)

 岡田「私は、嶋田は替えたほうが良いと思う。このままでは海軍は収まらぬ。戦もうまくいかぬ。また世間も収まらぬ。結局東條内閣のためにならぬから、ぜひ考慮されたがよろしい」

 東條「それは意見の相違で、私はできぬ。戦争のことを言われるが、サイパンの戦いは五分五分と見ている」

 岡田「これ以上はただ繰り返すことになるが、重ねて私は、嶋田は替えたほうが良いと思っている。ぜひ考慮されたがよろしい」

 こう言い切ると、岡田は席を立った。東條は岡田を玄関まで送りながら、怒るようにして言った。「考慮の余地はありません」。会見は三十分で終わった。

 「東條英機」(上法快男編・芙蓉書房)に東條首相の秘書官・赤松貞雄大佐(陸士三四・陸大四六恩賜)の手記が掲載されている。岡田と東條首相の対決会見後の様相を記している。

 それによると、岡田が首相官邸を辞した後、赤松秘書官は東條首相に重臣の岡田海軍大将との会見結果を尋ねたら、東條首相は不機嫌だった。

 東條首相は「赤松は確実に当日の会見趣旨を岡田氏に伝達したのか」と詰問された。岡田氏は嶋田海相排斥等の策動については、一応は簡単に陳謝したが、それだけに止まり、後の会見時間の大部分は海相に対する海軍部内の不評を縷々首相に陳述したに過ぎなかったとの事だった。

 赤松秘書官は岡田氏に対し事前に、首相に会ったらよく陳謝した上、今後自重して策動と疑われる行動はしない旨をはっきり申し述べる様にとお願いしたのに拘らず、そして岡田氏も「よしよし承知したよ」といわれながら事実はこれと反対に会見の機会を逆用したことを知った。

 赤松秘書官はやはり岡田氏は狸爺だなと思わざるを得なかった。赤松秘書官としても使者の任務を全うしえぬ結果になり、誠に遺憾と感じた。

197.東條英機陸軍大将(17)「大臣をやっつければよいだろう」と放言してはばからなかった

2010年01月01日 | 東條英機陸軍大将
 三笠宮は陸軍士官学校四十八期、津野田元少佐は五十期で先輩・後輩の間柄でもあった。当時津野田元少佐は電源開発株式会社秘書役で民間人だった。

 その民間人が天皇の弟宮である三笠宮と一対一で会うことは、常識からいって考えられなかった。別邸の応接間で津野田元少佐は三笠宮と会った。

 しばらく二人は、世間話をした。そのあと、三笠宮は「私も君には迷惑をかけた。済まなく思っている」と言って低頭された。

 津野田元少佐は「殿下、そのことは、一切、水にながしましょう。世間にも、発表はしません」と答えた。だが、津野田元少佐が昭和六十二年に死去した後、「秘録東條英機暗殺計画」(津野田忠重・河出文庫)が出版され、全て明らかにされた。

 「東条英機暗殺計画」(工藤美知尋・PHP研究所)によるとサイパン戦前後から、政府統帥部の戦争指導に不満を持つ海軍中堅層の間に、東條政権を倒すためには合法的手段をあきらめ、テロによって倒すしかないという、せっぱ詰まった空気が出てきた。

 「細川日記」(近衛文麿の秘書官、細川護貞の日記)によると、昭和十九年五月一日、海軍懇談会が開かれ、席上、テロによる東條政権倒壊工作に話が集中した。

 中山貞義海軍中佐(海兵五四恩賜・海大三六、戦後海上幕僚長)の回想によれば、海軍省内においても、大臣室の前に番兵が立つようになった。

 中山の部下の橋本睦男主計大尉などは、嶋田繁太郎海軍大臣(海兵三二・海大一三)に対するテロを半公然と口にしており、翻意させるのを非常に苦労したと中山は述べている。

 神重徳大佐(海兵四八・海大三一首席)などは、「大臣をやっつければよいだろう」と放言してはばからなかった。海軍部内の空気は一触即発の状況だった。

 事ここに至って、それまで神大佐らの計画に再三ブレーキをかけてきた教育局長の高木惣吉少将(海兵四三・海大二五首席)も「私の納得できる確実な具体的方法を研究してみせろ」と、全責任を背負う覚悟で命じた。

 高木少将と神大佐らが中心となって東條首相暗殺の具体的方法を検討した結果、数台の自動車を使って作為的に交通事故を起こし、併せて拳銃でとどめをさすという方法が、最も確実性があるということになった。

 決行日は七月二十日(木)と決まった。東條が宮中での閣議から官邸に帰る途中を狙うことにした。決行場所は海軍省の手前の四つ角ということにした。

 ここだと海軍省内や大審院、内務省側に車を待機させておき、はさみうちにできる。東條首相のオープンカーが四つ角にさしかかるところで、前と両側から進路を押さえて襲撃できる。

 実行後、現場から脱出できた者は、連合艦隊司令部の作戦参謀・神大佐により、厚木航空隊から台湾かフィリピンに高飛びさせることも計画していた。

 だが、六月十九日、マリアナ沖海戦に伴い、部内の人事異動があり、同志が転任したため、テロ計画は縮小せざるを得なかった。

 さらに、この東條暗殺計画は決行予定日の前日、昭和十九年七月十九日に、東條内閣が総辞職したため、未遂に終わった。

 戦後、この計画に関して、半藤一利(文藝春秋編集委員長)から質問を受けた時、高木元少将は次の様に述懐した。

 「後で知って、驚きましたね。われわれが決めた七月二十日には、ドイツではヒットラー暗殺未遂事件(ワルキューレ作戦)が起こっているんですね。かりに決行して、殺さないまでも、怪我でもさせていたら、いくら陸軍部内に反東條派が多くいるといっても、そこはそれ、海軍が手を出したとなると、その後の終戦工作にもヒビが入って、日本は果たしてどうなっていたかと、それを思うと、やはり若気の至りというほかはないですね」

 「東条英機 暗殺の夏」(吉松安弘・新潮社)によると、昭和十九年六月二十七日午前、東條首相の秘書官、赤松貞雄陸軍大佐(陸士三四・陸大四六恩賜)が重臣の岡田啓介海軍大将の自宅に国民服姿でやってきた。

 挨拶をすますと、赤松大佐は用件を切り出し、「大将が嶋田さんのことなどを工作されるので、総理は怒っておられます。海軍の長老として、海軍大臣を補佐すべき地位にあるにもかかわらず、伏見宮殿下や高松宮殿かを煩わし、また宸襟を悩まし奉るが如きは、甚だ不都合ではありませんか。そのような陰険な謀略はやめていただきたい」と言った。