陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

214.山本五十六海軍大将(14) 米国を馬鹿にして戦争をするなどというのは、大間違いの話だ

2010年04月30日 | 山本五十六海軍大将
 昭和十六年九月十八日、長岡中学校同窓会が東京学士会館で開かれ、山本五十六連合艦隊司令長官を囲んで話を聞く会が開かれた。

 会員から山本司令長官に色々質問が出た。その一人が「米国などあんな贅沢などして文明病に取り付かれた国民など、我が大和魂に遭っては一たまりもありますまい。あまりに生意気いうたら大に打ちこらしてやる可きでありますまいか」と述べた。

 すると、山本司令長官は、それに対して、容を改めて次の様に答えた。

 「米国人が贅沢だとか弱いとか思うている人が、沢山日本にあるようだが、これは大間違いだ。米国人は正義感が強く偉大なる闘争心と冒険心が旺盛である。特に科学を基礎に置いて学問の上から割り出しての実行力は恐るべきものである。然も世界無比の裏付けある資源と工業力とがあるに於いてをやである」

 「米国の真相をもっとよく見直さなければいけない。米国を馬鹿にして戦争をするなどというのは、大間違いの話だ。例えば有名なるリンドバーグ氏が飛行機で太平洋を横断したのは世界的大冒険でその勇敢さは実に賞賛に値するものがある。しかも我々日本人が最も留意せねばならないことは、リンドバーグ氏のこの大事業は、いわゆる暴虎愚河の勇から出たのではない。すべては学問と科学とにその基礎を置き、学理上から見て必ず成功する目途が付いて敢行した大冒険である」

 「日本人はこの点を大いに学ばねばならぬ。また世界一のナイヤガラの瀑布を樽に入って下りる大冒険を米国人はやっておるが、非常に大なる勇気のいる行動である。然しこの樽に入る大冒険も精密なる論理と周到なる用意を以って実行に取り掛かれば、成功する公算が学理的に証明されているのであって、決して万一の僥倖を当てにして野猪的に突進するものではない」

 「殊に米国の軍隊にはアメリカ魂が充実しておる。更にアメリカ海軍には勇敢なる将兵が多い。南北戦争にはファラガットという勇将があり、その偉功は世界を驚かせている。また米西戦争では商船でサンチャゴ港口を閉鎖したり或はアドミラル・ドュウエーが敷設水雷の敷き詰めてあるマニラ湾口を掃海もせずに乗り切り、敵艦隊に大損害を与えた有名なる史実がある。この人は我が広瀬中佐にも劣らぬ勇敢な働きをした。我々は只日本魂ありといって、無暗に米国人をあなどってはならぬ」

 「現在世界を見渡して飛行機と軍艦では日米が先頭に立っていると思うが、しかし工業力の点では全く比較にならぬ。米国の科学水準と工業力を併せ考え、またかの石油のことだけを採って見ても、日本は絶対に米国と闘うべきではない。なお、一言付け加えれば、米国の光学および電波研究は驚くべき進歩を遂げていることも知らねばならぬ」

 以上のように山本司令長官が話した後、最後に他の一人が「日米戦があるでしょうか」と尋ねたら、山本司令長官は「仇浪のしづまりはてゝ四方の海 のどかにならむ世をいのるかな」と明治天皇御製の歌を詠み上げた。

 そして、「この明治天皇の御製の精神が実現するように、我々はあらゆる手段を尽くし、絶対に戦争の不幸を避けねばならぬ」と断言した。

 昭和十六年一月、第十一航空艦隊参謀長・大西瀧次郎少将(海兵四〇)に山本五十六連合艦隊司令長官から手紙が届いた。別冊歴史読本「山本五十六と8人の幕僚」(新人物往来社)によると、その手紙の内容は、「ハワイ空襲をいかなる方法で実行すればよいか検討してほしい」というものだった。

 その手紙には大西が「海軍大学校を出ていないから自由に発想できる貴官に期待する」という趣旨の一文が記されていた。山本司令長官が、大西に真珠湾攻撃の検討を依頼したのは、大西が前例にとらわれない発想の持ち主であったからであり、そしてなによりも大西に全幅の信頼を置いていたからだった。

 大西は、計画の詳細を、やはり海軍航空生え抜きで、腹心的な存在である源田実中佐(海兵五二・海大三五恩賜)に検討させた。そして二月、源田中佐の真珠湾攻撃原案に修正を加えて山本司令長官に提出した。

 だが、大西少将は後で真珠湾攻撃に反対するようになる。昭和十六年十月に、第一航空艦隊参謀長・草鹿龍之介少将(海兵四一・海大二四)とともに大西少将は連合艦隊旗艦・戦艦陸奥を訪れ、山本司令長官に真珠湾攻撃を中止するように進言した。

 大西少将の真珠湾攻撃反対論の趣旨は次の様なものだった。

 「今度の戦争で日本は米州ハドソン川で観艦式をやることはできない。したがって、どこかで米国と和を結ばねばならない。それには米本土に等しいハワイに対し奇襲攻撃を加え、米国民を怒らせてはいけない。もしこれを敢行すれば米国民は最後まで戦う決意をするであろう」

 「蛇足を加えるならば、日本は絶対に米国に勝つことはできない。米国民はこれまた絶対に戦争をやめない。だからハワイを奇襲攻撃すれば妥協の余地は全く失われる。最後のとことんまで戦争をすれば日本は無条件降伏することになる。だからハワイ奇襲は絶対にしてはいけない」

 だが昭和十六年十二月八日、日本は真珠湾攻撃を行い、予想以上の戦果を収めた。しかし、大西は「真珠湾攻撃は失敗である」という自分の考えを変えることはなかったと言われている。

213.山本五十六海軍大将(13) 山本大将はプンプン怒って「永野さん、駄目だ」と言った

2010年04月23日 | 山本五十六海軍大将
 山本五十六連合艦隊司令長官は、三国同盟については、荻窪荻外荘の近衛邸で、近衛文麿首相から次の様な話を受けた。

 「海軍があまりあっさり賛成したので、不思議に思っていたが、あとで次官に話を聞くと、『物動方面なかなか容易ならず、海軍戦備にも幾多欠陥あり、同盟には政治的に賛成したものの、国防的には憂慮すべき状態』ということで、実は少なからず失望した次第である」

 「海軍は海軍の立場を良く考えて意見を立ててもらわねば困る、国内政治問題の如きは、首相の自分が、別に考慮して如何様にも善処すべき次第であった」

 この近衛首相の発言について、山本司令長官は嶋田繁太郎大将(海兵三二・海大一三)に次の様な手紙を出した。

 「随分人を馬鹿にしたる如き口吻にて不平を言はれたり、是等の言分は近衛公の常習にて驚くに足らず、要するに近衛公や松岡外相等に信頼して海軍が足を土からはなす事は危険千万にて、真に陛下に対し奉り申訳なき事なりとの感を深く致侯、御参考迄」

 だが、山本五十六は近衛も嫌いだったが、実は嶋田繁太郎も嫌いだった。「あんな奴を、巧言令色と言うんだ」と言って、信用していなかった。

 嶋田が後に、東條首相の内閣に入閣し、東條の副官といわれるような海軍大臣になることを見通していたような、山本五十六だった。

 昭和和十六年七月、日本軍の南部仏印進駐が決定し、海軍大臣・及川古志郎大将(海兵三一・海大一三)が、連合艦隊司令長官・山本五十六大将(海兵三二・海大一四)と第二艦隊長官・古賀峯一中将(海兵三四・海大一五)を東京の海軍大臣官邸に呼んで、事情の説明披露が行われた。

 「山本五十六」(阿川弘之・新潮文庫)によると、当日は、軍令部総長・永野修身大将(海兵二八恩賜・海大八)、航空本部長・井上成美中将(海兵三七恩賜・海大二二)らも出席した。

 二・二六事件以後、日本が戦争に向って歩みを進めた過程の中で、戦争への傾斜が急に深まった場面がいくつかあるが、南部仏印進駐はその大きなステップの一つだった。

 事情説明披露の席で、山本大将は最初に、井上中将に向って「井上君、航空軍備はどうなんだ?」と聞いた。

 すると井上中将は「あなたが次官の時から、一つも進んでおりません。そこへこの度の進駐で、大量の熟練工が召集され、お話にならない状態です」と答えた。

 井上中将は日米不戦論者としては山本大将以上に強硬だった。

 井上中将の発言の後、古賀中将が「大体こんな重大なことを、艦隊長官に相談もせずに勝手に決めて、戦争になったからさあやれと言われても、やれるものではありませんよ」と及川大臣に食ってかかった。

 古賀中将はまた、永野軍令部総長に向って、「政府のこの取り決めに対し、軍令部当局はどう考えておられますか?」と質問した。

 永野総長は「まあ、政府がそう決めたんだから、それでいいじゃないか」と曖昧な返事しかしなかった。

 大臣官邸での食事も済んで解散になったあと、航空本部長の部屋に来た山本大将はプンプン怒って「永野さん、駄目だ」と言った。

 さらに、「もう、しょうない。何か、オイ、甘いものないか」と、井上中将にチョコレートを出させ、一口かじって、「何だ。これ、あんまり上等じゃないな」と、おそろしく機嫌が悪かった。

 昭和十六年八月十日、山本五十六大将と海兵同期で前海軍大臣の吉田善吾大将(海兵三二・海大一三)が佐伯湾在泊中の戦艦長門(連合艦隊旗艦)に、主力艦の艦砲射撃を見学するということで連合艦隊司令長官・山本五十六大将を訪ねてきた。

 吉田大将の手記によると、このとき、山本大将は「どうしても戦わなければならぬ場合、真珠湾奇襲攻撃を語りたり」となっている。

 吉田大将は帰京して、当時の海軍大臣・及川古志郎大将(海兵三一・海大一三)に会ったとき、山本大将の連合艦隊司令長官の交替について熱心に話し合っている。

 そのとき、吉田大将は「山本はGF(連合艦隊)長官を辞め、横鎮(横須賀鎮守府)にでもいく(司令長官として)ような口ぶりだった。自分が『それでは、だれが後任になるのだ』とただしたら、山本は『嶋田(繁太郎)であり、すでに本人も承知しているはずだ』と言った」と及川大臣に話した。

 すると及川大臣は「そんなことはない。いま山本に辞められては困る」と答えた。そのことを、吉田大将が山本大将に伝えると、山本大将は、やや捨て鉢に気味になったと言われている。

 そのころ、井上成美中将(海兵三七恩賜・海大二二)は、八月十一日付けで第四艦隊司令長官に親補され、南洋のトラック島に赴任することになった。

 及川海軍大臣、永野修身軍令部総長(海兵二八恩賜・海大八)のコンビは、陸軍に妥協しつつ対米戦に踏み込んでいっていた。その状況では山本大将や井上中将は、目の上のたんこぶであり、中央から遠ざけたのである。

 もともと連合艦隊司令長官としては、山本大将よりも嶋田繁太郎大将(海兵三二・海大一三)の方が適任だった。嶋田大将は作戦畑出身で、山本大将が軍政にかけての第一級のプロなら、嶋田大将は作戦にかけての第一級のプロだった。

 及川海軍大臣がこの時点で、山本大将を中央に戻し、嶋田大将を連合艦隊司令長官にしていたら、対米戦争の様相は変わっていただろう。

 しかも開戦時の連合艦隊参謀長・宇垣纏海軍少将(海兵四〇・海大二二)も作戦のプロではなかった。一説には、当時連合艦隊司令部には山本大将を含め、プロの作戦家は一人もいなかったと言われている。

212.山本五十六海軍大将(12) 豊田貞次郎という男はこういう男だ。覚えとけ

2010年04月16日 | 山本五十六海軍大将
 昭和十五年一月十六日、米内光政内閣が成立した。二六新報社長・松本賛吉は、米内首相が大いに奮闘しているが内閣の前途は多難らしいという報告と共に、山本五十六の政界出馬を期待するような手紙を軍艦長門の山本五十六連合艦隊司令長官に書き送った。

 当時実際に、政界の一部には「山本五十六内閣待望論」があったと言われている。山本五十六は松本の手紙に対して、二月十八日付で次の様な返事をしたためた。

 「貴翰難有拝見仕侯 海上勤務半歳 海軍は矢張り海上第一まだまだやるべき仕事海上に山の如し、所詮海軍軍人などは海上の技術者たるべく柄になき政事などは真平と存じ居り候」

 だが、米内内閣は成立後半年の、昭和十五年七月二十二日、総辞職し、第二次近衛内閣ができると、待っていたかのように、再び、日独伊三国同盟問題が表面にでてきて、二ヵ月後の九月二十日、この三国軍事同盟はあっさりと成立してしまった。

 当時、海軍大臣は吉田善吾中将(海兵三二・海大一三)で、第二次近衛内閣にも留任したが、陸軍および部内外の革新派からの突き上げと、海兵同期の山本五十六あたりからの厳しい註文との板ばさみになって、ノイローゼになり、入院し、三国同盟締結の三週間前に海軍大臣を辞職していた。 

 「太平洋海戦記」(杉山績・図書出版社)によると、著者の杉山績氏は海軍経理学校出身の元主計大尉だが、戦後昭和二十一年二月十一日、杉山氏の義父、横尾石夫元主計中将が普段から懇意にしていた米内光政を千葉県の元木更津海軍工廠の廠長官の官舎に招待した。

 そのとき、杉山元主計大尉も出席しており、横尾元主計中将とともに、米内光政を待っていた。やがて、夕刻、米内光政は玄関に入ってきた。

 そのとき、挨拶する横尾元主計中将に向って、「いや、横尾君、とうとう陸軍が国をほろぼしてしまったな」という言葉が米内光政の口から飛び出した。杉山元主計大尉は驚いた。

 現役時代、批判や苦情を絶対に口にしなかったと言われていた米内光政にしては、全く意外な挨拶代わりの言葉だった。その夜、米内光政は米内内閣を崩壊に導いた陸軍の策謀の経緯を淡々と語ったという。

 吉田善吾のあと九月五日に及川古志郎大将(海兵三一・海大一三)が海軍大臣に就任した。次官は豊田貞次郎中将(海兵三三首席・海大一七首席)がなった。

 就任直後、及川海軍大臣は海軍首脳会議を招集した。海軍として三国同盟に対する最終的態度を決定するものだった。会議には山本五十六連合艦隊司令長官も出席した。

 会議の席上、及川海軍大臣は、ここでもし海軍が反対すれば、第二次近衛内閣は総辞職のほかなく、海軍として内閣崩壊の責任を取ることは到底できないから、同盟条約締結に賛成願いたいということを述べた。

 列席の伏見宮軍令部総長以下、軍事参議官、艦隊長官、鎮守府長官らの中から、一人も発言する者がなかった。すると、山本五十六連合艦隊司令長官が立ち上がって次の様に発言した。

 「私は大臣に対しては、絶対に服従するものであります。大臣の処置に対して異論をはさむ考えは毛頭ありません。ただし、ただ一点、心配に堪えぬところがありますので、それをお訊ねしたい」

 「私が次官を勤めて追った当時の企画院の物動計画によれば、その八割は、英米勢力の圏内の資材でまかなわれることになっておりました」

 「今回三国同盟を結ぶとすれば、必然的にこれを失う筈であるが、その不足を補うために、どういう物動計画の切り替えをやられたか、この点を明確に聞かせて頂き、連合艦隊の長官として安心して任務の遂行を致したいと存ずる次第であります」

 及川大臣は、山本司令長官のこの問題には一言も答えず「いろいろ御意見もありましょうが、先に申し上げた通りの次第ですから、この際は三国同盟に御賛成願いたい」と同じことを繰り返した。

 すると、先任の軍事参議官である大角岑生大将(海兵二四恩賜・海大五)が、まず「私は賛成します」と口火を切り、それで、ばたばたと、一同賛成ということになってしまった。

 会議の後、及川大臣は山本司令長官からとっちめられ、「事情止むを得ないものがあるので勘弁してくれ」とあやまったが、山本司令長官が「勘弁ですむか」と言い、かなり緊張した場面になった。だが、こうして三国同盟は締結された。

 山本司令長官は次官の豊田貞次郎中将にも失望していた。昭和十三年、山本が海軍次官当時、豊田中将は佐世保鎮守府長官だった。

 ある日、山本次官は「オイ、こういう手紙が来ているから、参考のために見とけよ」と、豊田中将からの手紙を、井上成美軍務局長(海兵三七恩賜・海大二二)に見せた。

 その手紙には「私が親補職の地位にあるために次官になることをいやがるなどとは、どうかお思いにならないでいただきたい」という意味のことが書いてあった。鎮守府長官は親補職であるが、次官は親補職ではない。

 井上軍務局長が読み終わると、山本次官は「豊田貞次郎という男はこういう男だ。覚えとけ」と言った。だが、その豊田は及川大臣の下で次官になり、第三次近衛内閣の時には外務大臣に就任した。

211.山本五十六海軍大将(11) 海軍の弱虫。貴様達の日本精神は、何処にあるか

2010年04月09日 | 山本五十六海軍大将
 かつてのロンドン軍縮予備交渉で、山本の人物を見込んだクレーギーが大使として来日すると真っ先に山本次官を訪問した。

 これを右翼に言わせると「山本が不逞の親英派である確かな証拠」ということになった。山本次官の郷里の長岡にまで不穏文書がばらまかれた。

 その文書は「山本五十六。米英と親交を結び或いは会食に或いは映画見物に米英大使館に出入りして歓を尽くす」というものだった。このようなことから、「山本五十六は米英派なり」という話が一層広がっていった。

 映画見物については、五月十七日、英国大使館の晩餐会でのことで、山本次官はクレーギー英国大使と旧知の間柄なので、そういう会にはよく出席した。映画の会には高松宮も出席していた。

 右翼がこの映画の会に山本が出席したのが怪しからんと次官室でねばった時、秘書官の実松譲(海兵五一・海大三四)が、映画の会には高松宮も出席しておられたことを、匂わした。

 すると「畏れ多くも、金枝玉葉の御身のことまで持ち出して、自らの非を覆い隠す気か」と、怒鳴りつけられたという。

 彼らはやって来ては、秘書官を起立させ、奉書の紙を拡げて、「ヨッテ天ニ代ワリテ山本五十六ヲ誅スルモノナリ」というような弾劾状とか脅迫状とかを読み上げ、一言言い返せば、千言万語浴びせかけられるから、秘書官たちは何と言われようと一切暖簾に腕押し「承っておきます」と玄関番に徹したという。

 それでも「弱虫。海軍の弱虫。貴様達の日本精神は、何処にあるか」などと、口汚く罵られ、容易なことでは引き上げてもらえなかった。やっと追い返して、自分の机に戻って見ると、処置に困るほど、書類の山ができていた。

 ところが、ヒトラーは日本の優柔不断な態度を見て、日本をあきらめてイタリアとだけ同盟条約を結び、昭和十四年八月二十三日、ソ連とも不可侵条約を結んで、九月一日、ポーランドに攻め込んだ。

 ヒトラーの野望に反して、イギリスとフランスは、ポーランドを保障した信義を重んじて、九月三日対独宣戦した。こうして第二次世界大戦が始まった。

 これにより、平沼内閣は八月三十日、総辞職に追い込まれ、米内大臣は軍事参議官に、山本次官は連合艦隊司令長官に転出した。

 昭和十四年八月三十日の朝、反町栄一が、所用があって羽越本線新発田駅から上りの急行に乗った。この日は山本五十六中将が海軍次官から連合艦隊司令長官に発令された日だった。

 反町栄一は、山本五十六と同じ長岡中学の後輩で、山本より五つ年下だが、郷里長岡での山本の古い友人である。

 反町栄一が急行に乗り込むと、二等車に陸軍中将の軍服を着た石原莞爾(陸士二一・陸大三〇恩賜)が座っていた。

 反町が「やあ、これは石原閣下、どちらへ?」と聞くと、石原中将は「十六師団長に補せられ、東京に行くが、陛下に拝謁したら、この戦争(日華事変)をこれ以上続けてはならない意見を申し上げるつもりだ。秩父宮殿下や高松宮殿下にも申し上げる」と答えた。

 また、石原中将は「自分のまわりに乗っているのは、みんな私服の憲兵と特高だがね、このまま日支事変を続けていたら日本は亡んでしまうよ」と言った。

 石原中将は、それから「実は山本次官にも会いたいと思っている。海軍で戦争をやめさせることの出来る人は、山本さんしかいない。九月三日に訪ねて行きたいが、あなたから連絡をとっておいてくれないか」と反町に頼んだ。

 石原中将と山本中将は面識があった。以前陸海軍首脳の懇親会で、二人はたまたま隣の席に座った。そのとき、石原中将が並みいる陸軍のお偉方の方をあごでしゃくって、「陸軍もああいう連中がやっているんじゃ駄目なんだ」と山本中将に言った。

 すると、山本中将は「そういう事を言う奴がいるから、陸軍は駄目なんだ」と言い返した。さすがの石原中将も閉口して黙り込んでしまった。

 だが、日華事変は早く解決して米英との早急な対決は避けるべきだという認識は山本中将と石原中将は共鳴していた。

 反町は、山本中将に連絡をとることを約束して石原中将と別れた。そのあと、山本中将が連合艦隊司令長官に親補されたというニュースがラジオで流れた。

 反町は山本中将に会って、お祝いを言った後、石原中将の依頼を話した。すると山本中将は「そりゃ残念だな。僕は明日発って艦隊に行かねばならないので、お会いできんがなあ。君から今度、石原さんによろしく言ってくれよ」と言った。

 山本中将はそのまま海に出て、その後死ぬまで石原中将と会うことはなかった。もし二人の会談が実現していたら、日華事変の前途と日本の将来が変わっていたかもしれない、と言われている。

210.山本五十六海軍大将(10)緒方竹虎は「毛ほども芝居気もない山本」と言っていた

2010年04月02日 | 山本五十六海軍大将
 山本五十六は、公的には常にポーカーフェイスで、日常感情を余り顔に出さない軍人だったが、実は感情の非常に激しい面を持ち合わせていた。

 その例は、南郷茂章大尉(海兵五五)が戦死し、その弔問に彼の実家を訪れた時、山本中将が号泣したと言われている。

 南郷茂章大尉はパイロットで、駐英武官も勤めた優秀な人材で、かつて山本五十六の部下でもあった。「海鷲三羽烏」と言われた名パイロットで、名指揮官でもあった。

 その南郷大尉は、昭和十三年七月十八日、中華民国江西省南昌上空で戦死した。そのとき、東京の玉川上野毛の自宅で、山本五十六中将の弔問を受けた父親の南郷次郎海軍少将(海兵二六・海大八)、が後に、そのことを書いた文章がある。

 南郷次郎少将は、当時予備役の海軍少将で、山本五十六中将とはあまり肌の合わない艦隊派だった。だが、息子の南郷茂章大尉は山本中将が大変可愛がった部下だった。南郷次郎少将の文章は次の通り。

 「折にふれ時につれてしみじみ思い起こす、それは今から一年前の夏の事、自分の長男茂章が南昌で戦死した時のことである」

 「長男は嘗て山本五十六中将に率いられた航空戦隊に勤務し、日夜山本中将の偉容に接して中将に私淑し、上官として真に心から敬服して居った(中略)」

 「間もなく長男は戦死した。山本次官は早速弔問された。自分は山本中将に対し、長男生前の懇切なる指導の恩を謝し、軍人としてその職責を完遂せるを心より満足する旨を述べた。これは、自分の衷心より出たる言葉であった」

 「ジッと伏目勝ちに聞いて居られた山本次官は、只一語も発せず、化石したかの如く微動もされなかったが、忽然体を崩し小児そのままの姿勢で弔問の群衆のさ中であるに拘らず、大声で慟哭し、遂に床上に倒れられた」

 「自分は呆然ナス術を知らず、驚き怪しみ深く心打たれつつ見守って居た。やや暫くして山本中将は起き上がられたが、再び激しく慟哭して倒れられた。傍に在る人々に助け起こされ、ようやく神気鎮まるを待って辞去されたのであった。(攻略)」

 五十も半ばの、地位も高い軍人が、戦死した部下の悔みに行って、二度もひっくり返って子供のように泣きじゃくるとは、よほど山本は情に激する人間だった。緒方竹虎は「毛ほども芝居気もない山本」と言っていた。

 昭和十四年頃、中野正剛がドイツ、イタリアに行くと山本次官のところに挨拶に来た。すると山本次官は「今ごろドイツ、イタリアなどに行く必要はすこしもない。行くならば英米に出かけて、ルーズベルト、チャーチルの両者と懇談することがよっぽど肝要だ。是非決行したまえ」と直言したという。

 また、松岡洋右が外務大臣のとき、有終会(海軍予備軍人の会)に来て、さんざん陸軍の悪口を言った。すると山本次官は「松岡君は駄目だ。その調子では陸軍の前では海軍の悪口を言うだろう。海軍の前で海軍の悪口が言えるようでなければ本物ではないぞ」というような辛らつなことを真っ向から浴びせかけた。

 この米内、山本、井上時代の最も大きい歴史的特徴は、日独伊三国同盟交渉を流産させたことだ。ヒトラーの野望は、日独防共協定により、ソ連抑止のため日本陸軍を利用することだった。また日独伊三国同盟では、ポーランド侵略に際して、第一にイギリスを、第二にアメリカを、日本の海軍力により抑止することであった。

 このことから、山本五十六はドイツとの結合は日米関係を悪化させるとして、鋭く反対した。海軍のトリオは結束して日独伊三国同盟に猛反対し、最後までその態度を崩すことは無かった。

 それ以後も平沼首相や板垣征四郎陸相(陸士一六・陸大二八)が交渉進展に進むのを見ると、山本次官は昭和十四年五月九日、新聞記者に次の様に談話を発表した。

 「海軍は一歩も譲歩できず、いずれ政変は免れぬ故、天幕を張って待っておるがよろしからん。総理と陸相はけしからぬ。前に決定した方針を勝手に変えるとは何事か」

 これにより、陸軍や右翼方面の非難が山本次官に集中した。山本は五月三十一日、次官官舎で、「勇戦奮闘戦場の華と散らむは易し。誰か至誠一貫、俗論を排し斃れて已むの難きを知らむや。~此の身滅す可し、此志奪う可からず~」という「述志」(遺書)を書いた。

 米内大臣、山本次官、井上軍務局長のトリオは結束を崩さず、日独伊三国同盟締結に反対した。これに苛立った右翼がさらに山本次官に攻撃をしかけてきた。

 壮士風の男たちが連日次官室に押しかけてきては、「天に代わりて山本五十六を誅するものなり」などと斬奸状を読み上げる。

 陸軍の中堅将校もたびたび面会を強要してきた。「三国同盟に反対し続けると、第二、第三の二・二六事件が起きる」と脅し、「革命が起きてもいいのか」と迫った。

 そのとき山本次官は「革命が起きても国は滅びやせん、しかし戦争になるとそうはいかん」と答えたという。