陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

709.野村吉三郎海軍大将(9)艦長・但馬維孝中佐を救助できなかった、という悔いは、終生、野村吉三郎の脳裏に残っていた

2019年10月25日 | 野村吉三郎海軍大将
 温度は、氷点下摂氏九度位だった。この寒冷が艦長・但馬維孝中佐には、よほどこたえたものとみえた。

 それに対して、野村吉三郎大尉は、幼少の頃から、紀の川の水場で鍛え、江田島でさらに仕上げをした水練が大いに役立ったのである。

 野村吉三郎大尉は、「艦長!」と叫び、また、「艦長はどこですか?」と、艦長・但馬維孝中佐を探し続けた。

 しかし、野村吉三郎大尉は、巧みに海上に浮いていながらも、遂に、艦長・但馬維孝中佐を諦めざるを得なかった。

 そのうち、救助した水兵をこぼれ落ちそうにまで乗せて、漕ぎ去ろうとした数隻の海軍のボートから、「あそこに航海長が浮かんでいる」という声がした。

 その後、一隻のボートが漕ぎ寄せてきて、満員の中に、大きな野村吉三郎大尉の巨体を無理に抱き上げて、ボートの中に救い上げてくれた。

 こうして、野村吉三郎大尉は、その命を助けられた。野村吉三郎は後に、この時のことを回想して、ことあるごとに次の様に述べている。

 「兵隊というものは可愛いものだ。あの混乱の中に私を発見すると、誰しも人情として一刻でも早く安全地帯に移りたいにもかかわらず、航海長だ!と一斉に連呼してボートを戻し、超満員の危険も顧みず救い上げてくれた。私は死すべき命をこのとき兵隊に助けられたのである」。

 だが、この時、艦長・但馬維孝中佐を救助できなかった、という悔いは、終生、野村吉三郎の脳裏に残っていたと言われている。

 防護巡洋艦「済遠」(二四四〇トン・乗員二〇〇名)の副艦長は、奥田貞吉(おくだ・ていきち)少佐(山口・海兵一五期・防護巡洋艦「済遠」副長・第一特務艦隊参謀・中佐・通報艦「淀」艦長・輸送艦「高崎丸」艦長・大佐・通報艦「満州」艦長・防護巡洋艦「須磨」艦長・装甲巡洋艦「春日」艦長・装甲巡洋艦「伊吹」艦長・予備役・大正六年三月死去・享年五十一歳・正五位・勲三等・功四級)だった。

 奥田貞吉少佐は、明治三十五年、「帝國國旗及軍艦旗」(春陽堂)を出版している。

 救助された水兵たちの話を総合しても、艦長・但馬維孝中佐は艦と運命を共にしたことが確認された。

 野村吉三郎大尉は、副艦長・奥田貞吉少佐から、直ちに状況を連合艦隊司令長官・東郷平八郎大将(明治三十七年六月進級)に報告するように命ぜられた。

 野村吉三郎大尉は、濡れた軍服を乾かす暇もなく、二〇三高地の下にある陸軍騎兵第一連隊本部に行った。

 陸軍騎兵第一連隊の当時の連隊長代理は、南次郎(みなみ・じろう)大尉(大分・陸士六期・陸大一七・日露戦争出征・大本営参謀・少佐・陸軍大学校教官・関東都督府陸軍参謀・中佐・欧州出張・騎兵第一三連隊長・大佐・陸軍省軍務局騎兵課長・少将・支那駐屯軍司令官・騎兵第三旅団長・陸軍士官学校校長・中将・騎兵艦・第一六師団長・参謀次長・朝鮮軍司令官・大将・代二十二代陸軍大臣・関東軍司令官兼南洲国大使・予備役・第八代朝鮮総督・枢密顧問官・貴族院議員・終戦・A級戦犯・昭和三十年十二月死去・享年八十一歳・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・功四級)だった。

 野村吉三郎大尉は、連隊長代理・南次郎大尉に対して、報告の為、出発したいからと、馬一頭の借用と道案内をお願いした。

 連隊長代理・南次郎大尉は、直ちに乗馬を貸してくれ、護衛一騎を付けて陸戦隊本部の黒井悌次郎中佐の許に送り届けてくれた。

 この時のことが、機縁となって、野村吉三郎海軍大尉と南次郎陸軍大尉は、その後親交を結んだ。

 ちなみに、南次郎陸軍大尉と野村吉三郎海軍大尉の、軍人人生を比較してみる。野村吉三郎大尉が三歳年下である。

 当時、南次郎陸軍大尉は、明治七年八月生まれ・陸士六期で三十歳。

 野村吉三郎海軍大尉は、明治十年十二月生まれ・海兵二六期で二十七歳。

708.野村吉三郎海軍大将(8)艦長・但馬維孝中佐とともに艦橋にいた野村吉三郎大尉は、瞬く間に海中に叩き込まれた

2019年10月17日 | 野村吉三郎海軍大将
 また、第一艦隊と第二艦隊をもって連合艦隊を編成し、その連合艦隊司令長官に、東郷平八郎中将が任命された。

 さらに、臨戦各艦隊の陣容も整った。連合艦隊に属する艦艇の排水量の合計は、二十六万トンで、日清戦争当時の四倍であるが、戦闘力は数十倍であった。

 これに対決するロシア海軍は、太平洋、バルチック、黒海に分かれている艦艇を統合した場合、排水量合計は、五十一万トンの圧倒的勢力だった。

 明治三十七年二月十日、日本帝国はロシアに対して宣戦布告をし、日本国有史以来未曽有の対外戦争が、極東の陸と海で火を噴いた。

 野村吉三郎大尉は、連合艦隊第二戦隊に所属する、一等巡洋艦「常磐」(九七〇〇トン・乗員七二六名)の分隊長として、第一線の戦列に参加した。

 旅順港閉塞作戦後、四月十一日から、連合艦隊は旅順港口攻撃に出動した。十二日には旅順港口に機雷を施設、第三戦隊が敵艦隊を港外に誘致する作戦を行った。

 四月十三日、ロシア海軍切っての勇将、ステパン・マカロフ提督は艦隊を率いて旅順港外に出てきて、攻撃してきた。

 だが、日本海軍が施設した機雷に触れ、ステパン・マカロフ提督の乗船する旗艦「ペトロパウロウスク」(一〇九六〇トン・乗員六六二名)は爆沈し、ステパン・マカロフ提督も戦死した。

 野村吉三郎大尉は、この日の海戦に、第二艦隊の第二戦隊旗艦、一等巡洋艦「常磐」(九七〇〇トン・乗員七二六名)の分隊長として、ロシア海軍と戦った。

 その後も、野村吉三郎大尉乗組の一等巡洋艦「常磐」(九七〇〇トン・乗員七二六名)は、蔚山(ウルサン)沖海戦などに参加した。

 バルチック艦隊三十数隻が極東へ向かったという第一報が入った十月十五日から四日後の十月十九日、野村吉三郎大尉は、一等巡洋艦「常磐」(九七〇〇トン・乗員七二六名)の分隊長から、防護巡洋艦「済遠」(二四四〇トン・乗員二〇〇名)の航海長に転補された。

 明治三十七年八月十九日、陸軍第三軍(司令官・乃木希典大将)による旅順要塞への第一回総攻撃が行われた。以後、第二回攻撃、第三回攻撃でも旅順要塞は陥落しなかった。

 十一月二十六日、陸軍第三軍は、第四回総攻撃を開始した。主目標は二〇三高地の占領である。

 十二月五日、第三軍はついに二〇三高地の頂上を占領した。日本軍はこの旅順攻撃で、六五〇〇〇名の兵士を投入したが、そのうち、一七〇〇〇名の死傷者を出した。

 明治三十八年一月一日午後三時三十分、ロシアの旅順要塞司令官・ステッセル将軍の軍使が白旗を掲げて降伏文書を届けて来た。一五五日にわたる旅順要塞攻防戦は終幕を告げた。

 陸軍第三軍の第四回総攻撃が開始された時、陸軍に協力する日本帝国海軍は、野村吉三郎大尉が航海長として乗組んでいる防護巡洋艦「済遠」(二四四〇トン・乗員二〇〇名)以下の砲艦隊をもって、海上から二〇三高地方面に威圧をかけた。

 当時の防護巡洋艦「済遠」(二四四〇トン・乗員二〇〇名)の艦長は、但馬維孝(たじま・これたか)中佐(鹿児島・海兵九期・六番・海大四期・中佐・防護巡洋艦「済遠」艦長・明治三十七年十一月三十日戦死・大佐に特別進級・享年四十六歳)だった。

 明治三十七年十一月三十日、鳩湾(半島の東側の旅順口に対して、半島の西側の新港の湾)方面において、第三軍の二〇三高地攻撃を支援中、午後二時二十四分、防護巡洋艦「済遠」(二四四〇トン・乗員二〇〇名)は、暗礁に乗り上げた。

 防護巡洋艦「済遠」(二四四〇トン・乗員二〇〇名)は、艦底に激しい衝撃を受けたと思う間もなく、急激に浸水して、艦体はたちまち左舷へ傾いて轟沈した。

 この間、わずか数分間だった。当時、艦長・但馬維孝中佐とともに艦橋にいた野村吉三郎大尉は、瞬く間に海中に叩き込まれた。

 野村吉三郎大尉はいったん水中に巻き込まれたが、やがて、自然に浮き上がってきた。だが、一緒に沈んだ艦長・但馬維孝中佐の姿は、水中に沈んだまま、遂に再び見ることは出来なかった。

707.野村吉三郎海軍大将(7)野村吉三郎は、軍政、軍令派に属し、陸上勤務でより重要なポストに就いている

2019年10月11日 | 野村吉三郎海軍大将
 野村吉三郎少尉ら回航委員の一行は、一等戦艦「三笠」(一五一四〇トン・乗員八六〇名)副長・西山実親中佐に指揮され、日本郵船の「信濃丸」に乗船して、ロンドンを経由バローに向かった。

 艦長・早崎源吾大佐と、野村吉三郎少尉と同郷の先輩である航海長・有馬良橘中佐等は先発していた。

 野村吉三郎は後に、当時を回想して、同郷の先輩、航海長・有馬良橘中佐について、「有馬さんは、なかなか厳格な人で、喧しかったから、『三笠』回航中は、大いに油を絞られたものだ」と、語っている。

 明治三十四年十月、野村吉三郎少尉は中尉に進級した。明治三十五年二月十一日、日英同盟が発表され、野村吉三郎中尉は感激した。

 明治三十五年三月一日、一等戦艦「三笠」(一五一四〇トン・乗員八六〇名)は正式に受領され、三月十五日、故国へ向かって、プリマス軍港を出港した。

 五月十八日、野村吉三郎中尉を乗せた一等戦艦「三笠」(一五一四〇トン・乗員八六〇名)は、国民の歓呼の声に迎えられ、横須賀軍港に無事入港した。

 明治三十五年九月十日、野村吉三郎中尉は一等戦艦「三笠」(一五一四〇トン・乗員八六〇名)乗組みを免ぜられ、防護巡洋艦「須磨」(二六五七トン・乗員三一〇名)の分隊長心得に転補された。

 明治三十六年一月二十三日、コルベット「金剛」(二二五〇トン・乗員三〇八名)の航海長心得兼分隊長心得を命ぜられた。

 最新鋭艦の一等戦艦「三笠」(一五一四〇トン・乗員八六〇名)から降りた、野村吉三郎中尉が次に乗組みとなったのは、防護巡洋艦「須磨」(二六五七トン・乗員三一〇名)、次いでコルベット「金剛」(二二五〇トン・乗員三〇八名)だったが、両艦とも老朽の小艦だった。

 野村吉三郎の海軍軍人としての生涯の海上勤務は、あまり一流の新鋭艦に乗組みということがなかった。

 海軍には、艦隊派、軍政派、軍令派という系統があるとすれば、野村吉三郎は、軍政、軍令派に属し、陸上勤務でより重要なポストに就いている。

 明治三十六年九月二十六日、野村吉三郎中尉は大尉に進級した。二十五歳だった。
 
 日本とロシアの風雲いよいよ急を告げる明治三十六年十二月二十八日、日本帝国海軍では、艦隊の編成替えが行われ、次の三人の司令長官が任命された。

 第一艦隊司令長官・東郷平八郎(とうごう・へいはちろう)中将(鹿児島・薩英戦争・戊辰戦争で「春日丸」乗組・維新後海軍士官として英国の商船学校留学・コルベット「大和」艦長・大佐・コルベット「浅間」艦長・装甲艦「比叡」艦長・呉鎮守府参謀長・防護巡洋艦「浪速」艦長・呉鎮守府海兵団長・少将・常備艦隊司令官・海軍大学校校長・中将・佐世保鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・第一艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官・大将・軍令部長・伯爵・元帥・東宮御学問所総裁・昭和九年五月死去・享年八十八歳・侯爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・功一級・ロシア帝国神聖アンナ第一等勲章・フランス共和国レジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)。

 第二艦隊司令長官・上村彦之丞(かみむら・ひこのじょう)中将(鹿児島・戊辰戦争・維新後海軍兵学寮・海兵四期・砲艦「豊島」艦長・大佐・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・常備艦隊参謀長・大臣官房人事課長・英国出張・一等戦艦「朝日」回航委員長・少将・造船造兵監督官・海軍省軍務局長・兼軍令部次長・常備艦隊司令官・中将・常備艦隊司令官・第二艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・男爵・第一艦隊司令長官・大将・軍事参議官・後備役・大正五年八月死去・享年六十七歳・男爵・従二位・旭日桐花大綬章・功一級・シャム王国王冠第一等勲章)。

 第三艦隊司令長官・片岡七郎(かたおか・しちろう)中将(鹿児島・海兵三期・ドイツ出張<伏見宮博恭王・山階宮菊麿王随従>・ドイツ国公使館附武官・大佐・ドイツ国公使館附武官<東伏見宮依仁親王御用掛>・装甲艦「金剛」艦長・防護巡洋艦「浪速」艦長・防護巡洋艦「橋立」艦長・海軍砲術練習所所長・一等戦艦「八島」艦長・常備艦隊参謀長・大臣官房人事課長・少将・呉鎮守府艦隊司令官兼呉鎮守府司令官・呉鎮守府艦政部長・竹敷要港部司令官・中将・第三艦隊司令長官・第一艦隊司令長官・海軍艦政本部長・男爵・舞鶴鎮守府司令長官・大将・軍事参議官・後備役・大正九年一月死去・享年六十六歳・男爵・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・功一級・イギリス帝国ロイヤルビクトリア勲章ナイトコマンダー等)。


706.野村吉三郎海軍大将(6)日高校長の訓辞は、私の意志を鉄のように固く、火のように熱くした

2019年10月04日 | 野村吉三郎海軍大将
 江田島生活は、入校式から始まる。入校式では、校長・日高壮之丞少将の訓示があった。

 校長・日高壮之丞少将の訓示は、ありきたりのものではなく、熱血ほとばしり、明日を期する日本海軍の烈々たる意志そのもので、若い新入生徒の肺腑を鋭く刺すものがあった。

 「野村吉三郎」(木場浩介編・野村吉三郎伝記刊行会・897頁・1961年)には、江田島の海軍兵学校入校式当日の、野村吉三郎生徒の心境を、野村吉三郎が六十年後に追憶した文章が次のように記されている。

 「私は前にも述べたように当初、兵学校を志願したのは決して年少海軍に志を立てるというようなものではなく、家計の都合上、何となく官費の学校として兵学校を選んだのであったが、上京して伏虎会の給費を受け、予備校に入って受験準備に大童であった二十七年、八年の頃は恰も日清の役が戦われ、国民の士気は怫然として騰(あが)っていたから、感じ易い少年の常として次第に海軍に身を投じることは、私の与えられた天命と思うようになって来た」

 「而も、その後には三国干渉のことなどがあって臥薪嘗胆の合言葉とともに国を挙げて海軍至上主義に奔(はし)っていたので、漸(ようや)く若い血汐が湧き立ち”我れ、海軍の道を往かん”という気概に燃えて来た」

 「そうして首尾よく一番でパスして、憧れの江田島生活に入った第一日に聞かされた日高校長の訓辞は、私の意志を鉄のように固く、火のように熱くした。終生を海軍軍人として御国に献げる欣びと誇りを確然として自覚したのである」

 「ただ付言しておきたいことは、この時の日高校長の訓辞は、その頃の時局を反映して壮烈をきわめた、といっても必ずしも後年の軍人、政治を論ずるというようなものではなく、飽く迄も海軍軍人の立場においての憂国の信念に溢れた発言であったということだ」。

 野村吉三郎は、海軍兵学校の厳しい生活の中で、自分を失わず、海軍軍人として国に奉仕するため、術科重視の教育に取り組み、腰を据えて勉学に励んだ。

 明治三十一年十二月、野村吉三郎は、座右の銘である「天は自ら助くる者を助ける」という頑張りの甲斐あって、学術優等(五九名中次席)の成績で海軍兵学校(二六期)を卒業し、御物(双眼鏡)を下賜された。

 卒業と同時に少尉候補生として練習艦「比叡」(二二五〇トン・乗員三〇〇名)に乗組んだ野村吉三郎候補生は、横須賀を出港して、遠洋航海の途についた。巡航先は北アメリカ太平洋沿岸とハワイだった。

 明治三十四年五月一日、野村吉三郎少尉は、一等戦艦「八島」(一二五一七トン・乗員七四一名)乗組みを免ぜられ、一等戦艦「三笠」(一五一四〇トン・乗員八六〇名)乗組みを命ぜられた。

 一等戦艦「三笠」(一五一四〇トン・乗員八六〇名)は、当時、イギリスのバロー・イン・ファーネスのビッカース社で建造中だった。

 野村吉三郎少尉は、この一等戦艦「三笠」(一五一四〇トン・乗員八六〇名)受領の為の回航委員を命ぜられたのである。

 当時の一等戦艦「三笠」(一五一四〇トン・乗員八六〇名)の回航委員長・艦長は、早崎源吾(はやさき・げんご)大佐(鹿児島・海兵三・砲艦「鳳翔」艦長・砲艦「天城」艦長・砲艦「赤城」艦長・コルベット「海門」艦長・大佐・コルベット「大和」艦長・防護巡洋艦「和泉」艦長・防護巡洋艦「高千穂」艦長・防護巡洋艦「高砂」艦長・装甲艦「鎮遠」艦長・装甲艦「比叡」艦長・装甲艦「鎮遠」艦長・戦艦「三笠」回航委員長・戦艦「三笠」艦長・少将・予備役・浦賀船渠社長・大正七年九月死去・享年六十四歳・功四級)。

 副長は、西山実親(にしやま・さねちか)中佐(高知・海兵八・一六番・防護巡洋艦「高砂」副長・一等戦艦「三笠」副長・回航委員・横須賀鎮守府兵事官・巡洋艦「八重山」艦長・大佐・防護巡洋艦「津島」艦長・防護巡洋艦「橋立」艦長・装甲巡洋艦「八雲」艦長・一等戦艦「富士」艦長・戦艦「石見」艦長・台湾総督府海軍参謀長・少将・予備役・大正四年三月死去・享年五十四歳・功四級)。

 航海長は、有馬良橘(ありま・りょうきつ)中佐(和歌山・海兵一二・一六番・第一艦隊参謀・防護巡洋艦「音羽」艦長・大佐・防護巡洋艦「笠置」艦長・竹敷要港部参謀長・装甲巡洋艦「磐手」艦長・第二艦隊参謀長・海軍砲術学校校長・少将・軍令部第一班長・第一艦隊司令官・中将・海軍兵学校校長・海軍教育本部長・第三艦隊司令長官・大将・海軍教育本部長・予備役・明治神宮宮司・退役・議定官・明治神宮宮司・昭和十九年五月死去・享年八十四歳・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・功三級・満州帝国勲一位景雲章等)。