陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

501.永田鉄山陸軍中将(1)当時の永田少将と小畑少将は、まさに犬猿の仲だった

2015年10月30日 | 永田鉄山陸軍中将
 昭和四十七年二月に刊行された「秘録・永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)の永田鉄山刊行会のメンバーは、綾部橘樹元陸軍中将、有末清三元陸軍中将、片倉衷元陸軍少将、重安穐之助元陸軍少将、景山誠一元陸軍主計大佐らが名を連ねている。

 彼らは、まえがきに、「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」というタイトルをつけて、生前の永田鉄山陸軍少将という人物を讃えている。その人物像を賞賛する象徴的記述は次のようなものである。

 「このような歴史の転換期に国民が求めるのは何か、それはいつの世にも強力なる指導者でなければならぬ。国民をグイグイ引っ張って明確にその進路を指し示す荒海の中の灯台のような存在、正にこうした存在こそは国民と軍との連帯のキーポイントを握る軍務局長永田鉄山その人であった」。

 さらに、「もし永田ありせば、大東亜戦争は起こらなかったであろう」とまで、述べている。だが、人物評というものは、実像と虚像が表裏一体となって伝わっているのが大勢である。ここでは、できるだけその真の人物像を掘り起こしながら実像に迫ってみる。

 「秘録・永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)所収、第三部「人間永田鉄山」・第七章「永田鉄山小伝」の中に、元陸軍少将・高嶋辰彦氏が「日本を動かした永田事件」と題して寄稿している。

 高嶋辰彦氏は、陸軍幼年学校(首席)、陸士三〇期首席、陸大三七期首席で、将来の陸軍大臣、参謀総長と期待された人物だった。

 昭和四年後半から昭和七年後半まで、高嶋大尉は、ドイツ駐在し、ベルリン大学やキール大学で修学・研究を行った。

 昭和七年末にドイツから帰国した高嶋大尉は、中央各部に帰朝挨拶を行なった。その時のことを「日本を動かした永田事件」で、次のように述べている。

 「中央で帰朝挨拶の際、参謀本部第三部長の小畑敏四郎少将に『ヨーロッパから観た日本の満州政策についての所見』を求められた」

 「そこで私は『ソ満国境付近の軍備充実第一主義よりも、満州国の中央政治の充実確立、民生の安定第一主義の方が、よいように感ずる』旨を答えたところ、それまでの対談姿勢から突然回転椅子を机の方に回して聴取を打ち切られた」

 「何故か判らなかったが強縮して退室した後に、永田第二部長に挨拶に行って、拙見が偶然にも第二部長の主張に近く、しかもこの問題が小畑、永田両部長の主張対立の中心点であったことを知った」。

 以上のような高嶋氏の記述にあるように、当時の永田少将と小畑少将は、いわば犬猿の仲だった。

 大正十年十月二十七日、ヨーロッパ出張中の岡村寧次少佐、スイス公使館附武官・永田鉄山少佐、ロシア大使館附武官・小畑敏四郎少佐の陸軍士官学校一六期の同期生三人が、南ドイツの温泉保養地バーデン・バーデンで軍の近代化など陸軍改革を誓い合った。

 これが「バーデン・バーデンの密約」で、以後、永田鉄山と小畑敏四郎は帰国後も会合を行い、同志的結束で心情的にも固く強い絆で結ばれていた。

 だが、この固く強い絆は二人が大佐に進級した頃から、次第に途切れていき、最後には思想的相違から、ついに妥協を許さないほどに対立したのである。

 <永田鉄山(ながた・てつざん)陸軍中将プロフィル>

 明治十七年一月十四日生まれ。長野県諏訪市出身。父・永田志解理(郡立高島病院院長)、母・順子の四男。永田家は代々医を業とした由緒ある家柄だった。
 明治二十三年(六歳)四月高島高等小学校(上諏訪町)入校。
 明治二十八年(十一歳)十月東京市牛込区の愛日高等小学校へ転校。
 明治三十一年(十四歳)九月東京地方幼年学校入校。
 明治三十四年(十七歳)七月東京地方幼年学校(恩賜)卒業、九月陸軍中央幼年学校入校。
 明治三十六年(十九歳)五月陸軍中央幼年学校(次席)卒業、士官候補生として歩兵第三連隊に入隊、十二月陸軍士官学校入校。
 明治三十七年(二十歳)十月二十四日陸軍士官学校(一六・首席)卒業、見習士官、歩兵第三連隊附、十一月一日歩兵少尉、歩兵第三連隊補充大隊附、十二月正八位。
 明治三十九年(二十二歳)一月十八日歩兵第五八連隊附(朝鮮守備として平壌駐屯)、四月日露戦役の功により勲六等瑞宝章及び金二百円を下賜、戦役従軍記章授与)。
 明治四十年(二十三歳)三月内地帰還(越後高田)、十二月二十一日歩兵中尉。
 明治四十一年(二十四歳)三月従七位、十二月陸軍大学校入校。
 明治四十二年(二十五歳)鉄山の母・順子(旧姓は轟)の弟、轟亨の娘、轟文子(二十歳)と結婚。従兄妹同士の結婚だった。媒酌人は、真崎甚三郎少佐(軍務局軍事課)。
 明治四十四年(二十七歳)十一月二十九日陸軍大学校(二三期)卒業、卒業成績は次席(首席は梅津美治郎)、歩兵第五八連隊附。
 明治四十五年(二十八歳)五月二十九日教育総監部第一課勤務。
 大正二年(二十九歳)五月正七位、八月歩兵大尉、歩兵第五八連隊中隊長、十月十九日軍事研究のためドイツ駐在、十一月勲五等瑞宝章。
 大正三年(三十歳)八月二十三日教育総監部附(日独国交断絶のため帰国)、九月二十四日母・順子死去、十一月九日東京着。
 大正四年(三十一歳)三月俘虜情報局御用掛、六月二十四日軍事研究のためデンマーク駐在、十一月スェーデン駐在、大正三年・四年の戦役(第一次世界大戦)の功により勲四等旭日小綬章及び金四百円下賜、従軍記章、大礼記念章授与。
 大正六年(三十三歳)九月十三日帰国、教育総監部附、十一月三日臨時軍事調査委員。
 大正七年(三十四歳)七月従六位、十月特別大演習東軍参謀。
 大正八年(三十五歳)四月十五日歩兵少佐。
 大正九年(三十六歳)六月十八日欧州出張、十一月大正四年・九年の戦役(第一次世界大戦)の功により金千四百五十円下賜、従軍記章、戦捷紀章授与。
 大正十年(三十七歳)六月十三日スイス在勤帝国公使館附武官、十月バーデン・バーデンの密約。
 大正十二年(三十九歳)二月五日参謀本部附、三月十七日補教育総監部課員、四月スイスより帰国、八月六日歩兵中佐、正六位、作戦資材整備会議幹事、九月八日関東戒厳司令部附、陸軍震災救護委員(横浜配給所)、勲三等瑞宝章、十月兼陸軍大学校兵学教官(参謀要務教育担当)。
 大正十三年(四十歳)八月歩兵第五八連隊附(松本)、十二月陸軍技術本部附兼陸軍省軍務局軍事課高級課員兼陸軍大学校兵学教官。
 大正十四年(四十一歳)二月陸軍省軍事課課員、五月徴兵令改正審議委員幹事、六月国本社評議員嘱託。
 大正十五年(四十二歳)三月二日陸軍兵器本廠附(作戦資材整備会議専務)、十月一日陸軍省整備局動員課長。
 昭和二年(四十三歳)三月五日歩兵大佐、四月従五位。
 昭和三年(四十四歳)三月八日歩兵第三連隊長。
 昭和五年(四十六歳)四月二十五日妻・文子死去、八月一日陸軍省軍務局軍事課長兼陸軍通信学校研究部員、九月長野県人中央会名誉会員、十月支那へ出張。
 昭和六年(四十七歳)三月三月事件、四月兼陸軍自動車学校研究部員、国際連盟軍縮会議準備委員会幹事。六月十二日第一師団長・真崎甚三郎中将の仲人で宮内省大膳職・有川作次郎の娘、有川重(二十九歳)と再婚。十月「十月事件」起こる。
 昭和七年(四十八歳)四月十一日少将、参謀本部第二部長、五月上海へ出張、正五位、十月満州山海関、天津、済南、青島へ出張。
 昭和八年(四十九歳)六月「対支一撃論」の永田鉄山第二部長と「対ソ戦準備論」の小畑敏四郎第三部長が対立、八月一日歩兵第一旅団長。
 昭和九年(五十歳)二月勲二等瑞宝章、三月陸軍省軍務局長兼軍事参議院幹事長、陸軍高等軍法会議判士、四月二十九日昭和六年・九年事変の功により勲二等旭日重光章及び金二千五百円を下賜・従軍記章授与、十月陸軍パンフレット事件、十一月士官学校事件。
 昭和十年(五十一歳)五月関東州及び満州国へ出張、七月十五日真崎甚三郎教育総監更迭、七月十九日相沢三郎中佐と面会、八月十二日相沢三郎中佐に斬殺される(相沢事件)、中将進級、従四位、正四位、勲一等瑞宝章、享年五十一歳、墓所は東京都港区青山霊園附属立山墓地。

500.東郷平八郎元帥海軍大将(40)世間は閣下のことを昭和の由井正雪だと言っています

2015年10月23日 | 東郷平八郎元帥
 東郷元帥と西園寺公との会談は、小笠原日記によると、東郷元帥は、枢密院副議長・平沼麒一郎(ひらぬま・きいちろう)男爵(岡山・東京帝国大学法科卒・東京地方裁判所判事・横浜地裁部長・東京控訴院部長・東京控訴院検事・大審院検事・法学博士・司法次官・検事総長・大審院長・司法大臣・貴族院議員・枢密顧問官・男爵・枢密院議長・首相・A級戦犯・終身禁錮・勲一等旭日桐花大綬章)を首班として強く推薦したとある。

 また、それに対して、西園寺公は同意をしなかった。それで斎藤実子爵を推したとの内容も、小笠原日記に記してある。

 ところが、「西園寺公と政局」(原田熊雄・岩波書店)では、「東郷元帥は、平沼麒一郎が一番適当だと思うが、強いて彼でなくても、斎藤実でもいい」と記してある。

 また、「東郷元帥は、ただ山本権兵衛(やまもと・ごんのひょうえ・鹿児島・海兵二期・大佐・巡洋艦「高雄」艦長・日清戦争・海軍大臣副官・軍務局長・海軍大臣・男爵・日露戦争・大将・伯爵・首相・従一位・大勲位菊花章頸飾)だけは困る、と言った」とも記してある。

 昭和七年五月二十六日、斎藤実内閣が成立した。陸相・荒木貞夫(あらき・さだお)中将(東京・陸士九・陸大一九首席・大佐・歩兵第二三連隊長・参謀本部欧米課長・少将・歩兵第八旅団長・憲兵司令官・参謀本部第一部長・中将・陸軍大学校校長・第六師団長・教育総監部本部長・陸軍大臣・大将・男爵・予備役・文部大臣・A級戦犯・終身刑・釈放)は留任した。

 だが、海相には岡田啓介が就任した。斎藤実も岡田啓介も、ロンドン海軍軍縮会議では条約をまとめたメンバーだ。東郷元帥、小笠原長生の思惑は、はずれた。

 小笠原は艦隊派の危機とみて、軍令部長・伏見宮に「岡田は来年一月に満期となるを以って大角を大臣とせらるること然るべきこと。加藤大将、末次中将の身上に付き御保護願いたき」と頼んだ。

 岡田海相が満六十五歳で定年になるのを機に、大角峯生(おおすみ・みねお)前海相(愛知・海兵二四期三席・海大五・海大教官・ドイツ駐在・大佐・戦艦「朝日」艦長・フランス大使館附武官・少将・軍務局長・第三戦隊司令官・中将・海軍次官・第二艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・海軍大臣・男爵・高等技術会議議長・航空機事故で死亡)を再起用するという工作だった。

 昭和七年暮れに、斎藤首相が東郷元帥を訪ねた。満州事変の重大時期であり、岡田海相の留任を求めたが、東郷元帥は応じなかった。

 岡田海相は結局、辞職せざるを得なくなったが、その理由に困った。「定年」では時期的に説得力に欠け、「東郷元帥」を理由にするわけにもいかず、「病気」にした。

 そして大角大将が海相に返り咲いた。昭和八年一月二十五日、警視庁高等掛二人が小笠原長生を訪ね、海相交代劇の真相を聞き出そうとした。

 「世間は閣下のことを昭和の由井正雪だと言っています」と言うと、小笠原は笑いながら「いや、正雪はひどい。私はそんな謀反気はないよ」と言ったという。

 その後、人事権を握った大角海相によって、条約派の穏健な提督たちが次々に現役から追われた。昭和八年から翌年にかけて艦隊派主導によって行われた、条約派追放人事で、世にいう「大角人事」である。

 東郷元帥の晩年は質素な生活だった。「足るを知る」が信条で、それを貫いた。「フランスの老農夫のようだった」との評もある。碁を囲み、庭木いじりのハサミを手にするほか、趣味は無かった。

 昭和九年五月三十日午前七時、膀胱がんのため、元帥海軍大将正二位大勲位功一級侯爵・東郷平八郎は永遠の眠りについた。享年八十六歳だった。

 死後従一位に昇格。六月五日国葬(葬儀委員長・有馬良橘海軍大将)が営まれ、多磨墓地に葬られた。

 東郷元帥の遺髪は、英国海軍のネルソン提督の遺髪とともに、広島県江田島の海上自衛隊幹部候補生学校に厳重に保管されている。

 (「東郷平八郎元帥海軍大将」は今回で終わりです。次回からは「永田鉄山陸軍中将」が始まります)

499.東郷平八郎元帥海軍大将(39)西園寺公と東郷元帥が手を握られることは必要ではないか

2015年10月16日 | 東郷平八郎元帥
 昭和七年五月十五日、海軍の現役中・少尉五名、予備少尉一名、陸軍の士官候補生十一名、合計十七名の青年将校が蹶起し、犬養毅首相を射殺、牧野伸顕内大臣邸襲撃、立憲政友会本部に手榴弾、三菱銀行に手榴弾、西田税襲撃などの事件を起こした。五・一五事件である。

 この事件により内閣は総辞職したので、昭和天皇から、後継内閣の組閣に関し、元老の西園寺公望(さいおんじ・きんもち)公爵(京都・徳大寺家当主徳大寺公純の次男・学習院・岩倉具視の推挙により参与に就任・戊辰戦争は総督や大参謀として参戦・明治維新後新潟府知事・軍人を希望し大村益次郎の推挙でソルボンヌ大学留学・帰国後東洋自由新聞社長・参事院議官・駐ウィーン・オーストリア=ハンガリー帝国公使・駐ベルリン・ドイツ帝国兼ベルギー公使・賞勲局総裁・貴族院副議長・文部大臣・外務大臣・文部大臣・内閣総理大臣代理・枢密院議長・政友会総裁・第一次西園寺内閣・第二次西園寺内閣・第一次世界大戦講和会議首席全権・公爵・元老として政界を牛耳る・従一位・大勲位)に御下問があった。

 五・一五事件直後、宮中顧問官・小笠原長生中将は、東郷元帥を訪ね、事件の報告をした。

 その日の夕方、小笠原長幹(おがさわら・ながよし・小倉藩主小笠原忠忱の長男・伯爵・学習院大学・ケンブリッジ大学・式武官・貴族院議員・陸軍省参事官・国勢院総裁)が小笠原長生を訪ねて来た。

 長幹「まさかこんな大事が突発しようとは思わなかった。事が陸海軍人に関しているので、貴方から種々新しい材料がもらえるだろうと思って」。

 長生「いや、速耳の貴方の所へこそ、諸方から報告が集まっているでしょう」。

 長幹「集まってはいるが、どうも怪しいのが多くて。ところで、後継内閣組閣について御下問を被られたであろう西園寺公は、出京されるようだが、この際、西園寺公と東郷元帥が手を握られることは必要ではないか。それには東郷元帥の方から働きかけていただくと、話が早くつくだろうと思うのですが」。

 長生「それは駄目です。ご承知の通り元帥は、政治のことなどには、決して容喙(ようかい=口出しをすること)しないという主義なのですから、先方より話があったとしても恐らく避けられるでしょう。取り次いでも無益ですから、ここで断然お断りする」。

 長幹「なるほど。それもそうかも知れませんな。然しどうも西園寺公は、元帥の御意見を訊かれはしないかと思うような気がします。そうお心得になっていたほうが宜しいでしょう」。

 長生「有難う。お言葉に従って、元帥には注意しておきましょう」。

 こんな問答をした後、小笠原長幹は小笠原長生邸を辞去した。

 小笠原長生は、このような内容は一刻も早く元帥の耳に入れた方がよいと思い、即夜東郷元帥を訪ねて、全てを話し熟慮を促した。

 東郷元帥「それぁ困る。内閣組閣のことなど……」。

 長生「いくらお困りになっても、先方から相談しかけられては、まさか黙っておいでになるわけにもまいりますまい。ですから、それに対し、予めご考慮になっておくことが必要でしょう」。

 東郷元帥「……」。

 長生「そこで甚だ差し出がましゅうございますが、もし西園寺公より面会を申し込んでまいりましても、ここからはお出にならず、先方のまいるのをお待ちになった方が宜しかろうと存じます」。

 東郷元帥「いや色々有難う。なお能く考えてみよう」。

 それから幾日か後、西園寺公は御下問に奉答するため、駿州興津から上京した。そして、果たして東郷元帥に面会を申し込んで来た。

 西園寺公の使者は、西園寺公の言葉として「此の方より参上する筈であるが、何分にも多忙を極めていてその暇がない。さればとて、陛下に於かせられては、後継内閣の組閣に関し日夜聖慮を悩ませ賜うておられる。まことに恐れ多い事である。まことに相済まぬ次第ですが、出向いて来ては呉れまいか」と、東郷元帥に伝えた。

 そこで、東郷元帥は、西園寺公に面会するために、出向いて行く事に決めた。もはや見識がどうのこうと、自分のことを云々すべきではないと考えたのだ。

 その翌々日の新聞には、東郷元帥が西園寺公を訪ねて会見したことが、大活字の見出しで報ぜられた。しかしその内容は何も掲げられていなかった。

 それから程なくして斎藤実(さいとう・まこと)子爵(岩手・海兵六期・大佐・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・海軍次官・少将・海軍軍令部長代理・海軍省所管事務政府委員・中将・艦政本部長・海軍大臣・男爵・大将・予備役・朝鮮総督・子爵・ジュネーヴ海軍軍縮会議全権・枢密院顧問・退役・首相兼外務大臣・文部大臣・ボーイスカウト連盟総長・内大臣・二二六事件で暗殺される・正二位・大勲位菊花大綬章)に内閣組閣の待命が下った。

498.東郷平八郎元帥海軍大将(38)辞職を決心したのなら、なぜ今すぐに辞めないのか

2015年10月09日 | 東郷平八郎元帥
 海相の辞職を条件に東郷元帥を説得することになった。岡田大将はすぐに海相官邸にかけつけ、財部海相に「こんなことを言うのは心苦しいが……」と切り出した。

 財部海相は「覚悟はできている。が、腹を切るのに何月何日にやると予告するのはどうかね。辞職した後で必ず条約を承諾するという保証はない。批准と同時に辞めると元帥に伝えてほしい」と答えた。

 翌七月五日午前八時半、岡田大将と谷口軍令部長は、最後の望みをかけて、麹町の東郷元帥邸を訪れた。

 岡田大将と谷口軍令部長は、財部海相がロンドン条約批准と同時に辞職する決意だと東郷元帥に伝えた。だが東郷元帥は次のように言った。

 「それはいいことじゃ。だが、辞職を決心したのなら、なぜ今すぐに辞めないのか。大臣が一日その職にあれば、それだけ海軍の損失である」。

 「でも、批准前の財部の辞職は難しい」と岡田大将は説明した。谷口軍令部長も「承認いただけないと、私も軍令部長をやめるしかありません」と繰り返して、引き揚げた。

 翌六日、財部海相が東郷元帥を訪れ、「なんとか条約が批准できるようお願いします。そうすれば私は辞めます。私一身のことは問題ではありません。ただ海軍に累を残したくないと考えるだけです」と切々と訴えた。

 東郷元帥は財部海相の言葉をじっと聞いていたが、財部海相が「陛下も批准をお望みになっている」というようなことを口にしたのにひっかかった。東郷元帥は次のように言った。

 「たとえ、お上の言葉であっても、それが正しくないと考えたら、おいさめ申し上げねばならぬ。軍事のことは軍事参議官会議がある。岡田は、大臣が辞めると政治上の影響が大きいと言うが、片々たる政府が倒れようと倒れまいと、海軍の崩壊には代えられない」

 「政府は自分の都合で海軍を引きずっているのだ。こんな政府は早く代わって明るい政府にした方が、どんなに海軍のためになるかしれない」。

 八日朝、青森・大湊軍港へ特命検閲に出張する岡田大将が、挨拶を兼ねてもう一度東郷元帥を訪ねて、次のように率直に言った。

 岡田大将「先日、海相に今すぐ辞めろとのことでしたが、それは無理です。海軍が政治の渦中に陥ることになり、世間では海軍が大臣に詰め腹を切らせたとしか見ません」。

 東郷元帥「わしは腹の中で(財部に)早く辞めてほしいと思っているが、口には何も言わん。わしは辞職せよと言えば、これは政治に関係したことになるが、大臣が自発的に辞めるのになんで政治上の問題になりますか。このごろ、わしの所へいろんなことを言ってくる人がいるが、わしはただ黙って聞いているだけじゃ。その点、わしも注意している」。

 岡田大将は、重ねて自重してほしいと頼んで大湊へ向かった(「岡田日記」より)。

 七月十四日、帰京した岡田大将と財部海相、谷口軍令部長、加藤大将の四者会談が開かれた。天皇に対する条約の奉答文と軍事参議官会議で表決権などについて話し合った。

 加藤大将は東郷元帥を訪ねて「ここまできたら止むを得ないので、奉答文の冒頭に『国防上欠陥あり』と一句入れることで海相と軍令部長に同意させました」と言った。

 すると東郷元帥は「それでいい。条約の協定のままだと、国防上欠陥がある、といっておけば、あとは何とかなる。大臣と軍令部長が責任をもって兵力の補充をすればよいのじゃ」と言った。

 昭和五年七月二十三日午前、宮中東二の間で、東郷元帥を議長に、海軍の軍事参議官会議が開かれ、ロンドン条約に関する奉答文をまとめた。要点は「条約の協定だと兵力の欠陥を生ず」と冒頭で強硬派をなだめ、後段では「国防用兵上ほぼ支障なし」という苦心の文面だった。

 東郷元帥と谷口軍令部長は、その日の午後二時二十二分の列車で葉山に向かい、御用邸で昭和天皇に奉答文を上奏した。これで、ロンドン条約問題は、海軍部内ではひとまずおさまった形になった。

 だが、以後、財部海相ら軍政畑を中心とする対米英協調派(条約派)と、東郷元帥、加藤大将らの強硬派(艦隊派)の主導権争いは政界ともからんで、激化していった。

 ロンドン海軍軍縮会議で、英米両国の補助艦五に対し、日本は三という不公平な決議に対する不満が元となり、それに統帥権干犯などという重大事件が起きた。

 昭和五年十一月十四日、浜口首相は東京駅ホームで、羽織・はかまの男にピストルで狙撃され重傷を負った。犯人は「屈辱・ロンドン軍縮」「統帥権干犯」を唱える愛国社員・佐藤屋留雄、二十三歳だった。

497.東郷平八郎元帥海軍大将(37)元帥は政府を信用せず、とくに財部海相をきらっている

2015年10月02日 | 東郷平八郎元帥
 海軍省を訪ねた原田熊雄に財部海相は「海軍はこれで一段落。西園寺公にご安心をと伝えて下さい」と言った・その観測は甘かった。

 昭和五年六月中旬から、東郷元帥とその私設副官・小笠原長生中将の動きが活発になったのである。すでに東郷元帥八十二歳、小笠原中将六十三歳だった。

 この交代劇の直後、六月十三日、呼び出された小笠原中将が東郷元帥邸に行くと、東郷元帥は「どうも腑に落ちんのでなあ」と言った。

 前日に統帥権問題についての覚書を持って報告に来た財部海相のことだった。ロンドン会議の報告に参内した財部海相が、「今後、条約が批准できるよう努力せよ」と天皇に言われた、と東郷元帥に伝えたのだ。

 東郷元帥は批准に反対だったから、自分の立場が天皇に背くことになる。天皇がそう考えるのは、側近が悪いのだと勘ぐるようになったのだ。

 加藤寛治遺稿「倫敦海軍条約秘録」に、小笠原中将から聞いた話として掲載されているところによると、東郷元帥は財部海相に次のように言って怒ったという。

 「批准は海軍大臣が行うものではない。職責なきものに(陛下が)そんなことを仰せられるはずがない。もしそれが真実なら、死をもってお諫め申し上げるべき問題だ。わしは、場合によっては直奏する」。

 小笠原中将は「その話をして元帥はついに涙さえ落とされた」とも書いている。東郷元帥は自分の考えが天皇と違ったことが、よほど悔しかったのだろう。

 新軍令部長・谷口尚真大将の最初の難問は軍事参議官会議で条約批准の承認を得ることだった。成否は東郷元帥の説得にかかっていた。谷口大将は東郷元帥が英国王戴冠式に渡英した時に、東郷元帥の副官(中佐)で一緒に英国、米国を旅行していた。

 谷口大将は東郷元帥に「批准をお願いします。反対されると、私は軍令部長を辞職しなければなりません。私の辞職は、どうでもいいが、海軍に大動揺をきたします」と頼んだ。

 だが、東郷元帥は「一時はそうなろう。が、いま姑息なことをして将来取り返しのつかぬことをするのは大不忠だ。今、一歩退くことは退却することで、これは危険極まりない」と答えた。

 谷口軍令部長は仲介役の岡田啓介大将に、「もはや施しようがない」と伝え、七月二日、再び東郷元帥邸を訪ねた。そこには小笠原中将も同席していた。

 谷口軍令部長が条約批准を重ねてお願いすると、東郷元帥は頭ごなしに拒否して次のように言った。

 「わしの実戦経験からしても、今回の条約の兵力では不足で、国防上の欠陥は確かだ。駆逐艦や潜水艦のような奇襲部隊は別として、巡洋艦は主力艦対米比率六割の今日、八割を要すると思うが、それが七割にもならんのでは話にならん」

 「飛行機など協定外の兵力でこれを補うというが、それが政府の断固とした保証がなければ、条約といっても一片の紙切れと同じじゃ」。

 谷口軍令部長が「そんなに言われるのなら、自分も辞職するしかありません」と言うと、東郷元帥は「人間は自分の所信をもって進むべきだ。自分の考え通りにしたらいいじゃないか」と突き放した。

 もはや策なしと嘆いていた谷口軍令部長は「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」の気持ちになり、自分の前任者で、東郷元帥を最も頼りにしている軍事参議官・加藤寛治大将から説得してもらおうと思った。
 
 昭和五年七月三日、谷口軍令部長は、加藤大将を訪ねた。加藤大将は東郷元帥を説得する条件として、次のように言った。

 「なんといっても、元帥は政府を信用せず、とくに財部海相をきらっている。だから、まず、財部が海相を辞職することだ。部内の信用も無いのだから一日留まるは一日の損だ」。

 だが、その加藤大将にも苦しい立場があった。東郷元帥と共に条約に反対していた軍事参議官・伏見宮博恭王・元帥が昭和天皇の意向を察知して「条約の批准はしなくてはならぬ」と言い出したからだ。軍事参議官会議で、東郷元帥と伏見宮元帥が対立しては困るのだった。

 七月四日午後、東京・芝の水交社(海軍士官集会所)で、まとめ役の軍事参議官・岡田啓介大将と谷口軍令部長、軍事参議官・加藤寛治大将の三者会談が開かれた。それは、東郷元帥対策で、次の様なやり取りがなされた。

 加藤大将「政府が誠意をもって兵力を補充すれば国防は保てぬことはない」。

 岡田大将「それなら自分も同じ意見だ。これで元帥の承諾は得られるのか?」

 加藤大将「財部が海相を辞職すれば望みなきにあらずだろう」。

 岡田大将「批准後に辞職させるということであれば、自分が勧告してもいい」。