藤井較一少将も、日露戦争では、第二艦隊参謀長(大佐)として、第二艦隊司令長官・上村彦之丞中将の下にいた。
当時の藤井較一大佐は、明治三十八年五月二十七日~二十八日の日本海海戦の前、バルチック艦隊を迎え撃つため、鎮海湾の連合艦隊旗艦・戦艦「三笠」(一五一四〇トン・乗員八六〇名)艦上で開かれた最後の軍議で、対馬海峡説を最も熱心に主張したことで知られている。
当時の日本帝国海軍では、藤井較一少将は、日露戦争当時、連合艦隊参謀長(明治三十八年一月から第二艦隊第二戦隊司令官)であり、海軍兵学校同期の島村速雄(しまむら・はやお)少将(高知・海兵七期・首席・軍令部第二局長心得・大佐・軍令部第二局長・防護巡洋艦「須磨」艦長・常備艦隊参謀長・海軍教育本部第一部長・兼海軍大学校教官・一等戦艦「初瀬」艦長・常備艦隊参謀長・連合艦隊参謀長・少将・第二艦隊第二戦隊司令官・第四艦隊司令官・練習艦隊司令官・海軍兵学校校長・中将・海軍大学校校長・第二艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・海軍教育本部長・軍令部長・大将・軍事参議官・元帥・大正十二年一月死去・享年六十六歳・男爵・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・功二級・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)に次ぐ屈指の名参謀と言われた。
野村吉三郎大尉は、この名参謀長、藤井較一少将の下に新任参謀として僅か四か月在勤しただけで、明治四十年十二月十八日には、第二艦隊所属の防護巡洋艦「千歳」(四七六〇トン)の航海長に転補した。
この前後に、野村吉三郎大尉は、海軍大学校甲種学生の採用試験に最優秀の成績で合格し、あとは体格検査を待つだけとなっていた。
ところが、その頃、海軍に海外派遣将校の予算が残っていて、野村吉三郎大尉は、その一人に選出されたのである。
もしこの時に海外派遣がなく、野村吉三郎大尉が、海軍大学校に甲種学生として入校していたら、野村吉三郎の海軍軍人としての道は、軍政・軍令系統から、艦隊派系統になっていたかもしれない。
また、軍主流派として徹頭徹尾の海軍屋になりきり、却って、単なる一提督として、海軍軍人の人生を終えた可能性もある。
海外派遣になったため、野村吉三郎大尉は、オーストラリアやドイツに駐在して、当時複雑を極めたヨーロッパの国際政局をつぶさに見聞し、あるいは海外から日本の国情を眺めて、軍人がともすれば陥り易い偏狭的な世界観、国家観に眼を開いたことは、むしろ彼にとっては、その将来により広い沃野(よくや=肥沃な豊かな大地)を求めたことになった。
野村吉三郎大尉が、海軍大学校の採用試験に合格していたにもかかわらず、入学せずに、オーストリア駐在の道を選んだことについての、野村吉三郎大尉の発言は、第一話で前述してあるが、次の様な補足を記しておく。
「僕が大学に学ぶはよし、僕に教導せんとする先生ありや、敢て 衒う(てら‐う=知識・才能を見せびらかし誇らしげに振舞う)と言う勿(な=無)かれ、僕に教うるに足るもの唯、戦術教官秋山中佐あるのみ」。
この文章は、連合艦隊の作戦参謀(中佐)としてバルチック艦隊の迎撃作戦を立案し、日本海海戦を勝利に導いた秋山真之(あきやま・さねゆき)中将(愛媛・海兵一七首席・常備艦隊参謀兼第一艦隊参謀・一等戦艦「三笠」乗艦・中佐・連合艦隊作戦参謀・日本海海戦で勝利・海軍大学校教官・一等戦艦「三笠」副長・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・大佐・防護巡洋艦「音羽」艦長・防護巡洋艦「橋立」艦長・装甲巡洋艦「出雲」艦長・巡洋戦艦「伊吹」艦長・第一艦隊参謀長・軍令部第一班長兼海軍大学校教官・少将・海軍省軍務局長・欧米各国出張・第二水雷戦隊司令官・中将・待命・以前から患っていた虫垂炎が悪化して死去・享年四十九歳・従四位・勲二等旭日重光章・功三級)の伝記に記されているものだ。
だが、「野村吉三郎」(木場浩介編・野村吉三郎伝記刊行会・897頁・1961年)によると、次の様に記してある(要旨抜粋)。
当時、野村吉三郎大尉は、海軍大学校に行かなくてよかったとは、夢にも考えていなかったのである。
ただ、こうした伝説が生まれたのは、恐らく野村吉三郎大尉の友人あたりが、酒席か何かで、「野村は、“大学に俺を教える者が居るかい?”と、言いおってのう……」と冗談話をしたことが広く伝わったのだろう。
当時の藤井較一大佐は、明治三十八年五月二十七日~二十八日の日本海海戦の前、バルチック艦隊を迎え撃つため、鎮海湾の連合艦隊旗艦・戦艦「三笠」(一五一四〇トン・乗員八六〇名)艦上で開かれた最後の軍議で、対馬海峡説を最も熱心に主張したことで知られている。
当時の日本帝国海軍では、藤井較一少将は、日露戦争当時、連合艦隊参謀長(明治三十八年一月から第二艦隊第二戦隊司令官)であり、海軍兵学校同期の島村速雄(しまむら・はやお)少将(高知・海兵七期・首席・軍令部第二局長心得・大佐・軍令部第二局長・防護巡洋艦「須磨」艦長・常備艦隊参謀長・海軍教育本部第一部長・兼海軍大学校教官・一等戦艦「初瀬」艦長・常備艦隊参謀長・連合艦隊参謀長・少将・第二艦隊第二戦隊司令官・第四艦隊司令官・練習艦隊司令官・海軍兵学校校長・中将・海軍大学校校長・第二艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・海軍教育本部長・軍令部長・大将・軍事参議官・元帥・大正十二年一月死去・享年六十六歳・男爵・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・功二級・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)に次ぐ屈指の名参謀と言われた。
野村吉三郎大尉は、この名参謀長、藤井較一少将の下に新任参謀として僅か四か月在勤しただけで、明治四十年十二月十八日には、第二艦隊所属の防護巡洋艦「千歳」(四七六〇トン)の航海長に転補した。
この前後に、野村吉三郎大尉は、海軍大学校甲種学生の採用試験に最優秀の成績で合格し、あとは体格検査を待つだけとなっていた。
ところが、その頃、海軍に海外派遣将校の予算が残っていて、野村吉三郎大尉は、その一人に選出されたのである。
もしこの時に海外派遣がなく、野村吉三郎大尉が、海軍大学校に甲種学生として入校していたら、野村吉三郎の海軍軍人としての道は、軍政・軍令系統から、艦隊派系統になっていたかもしれない。
また、軍主流派として徹頭徹尾の海軍屋になりきり、却って、単なる一提督として、海軍軍人の人生を終えた可能性もある。
海外派遣になったため、野村吉三郎大尉は、オーストラリアやドイツに駐在して、当時複雑を極めたヨーロッパの国際政局をつぶさに見聞し、あるいは海外から日本の国情を眺めて、軍人がともすれば陥り易い偏狭的な世界観、国家観に眼を開いたことは、むしろ彼にとっては、その将来により広い沃野(よくや=肥沃な豊かな大地)を求めたことになった。
野村吉三郎大尉が、海軍大学校の採用試験に合格していたにもかかわらず、入学せずに、オーストリア駐在の道を選んだことについての、野村吉三郎大尉の発言は、第一話で前述してあるが、次の様な補足を記しておく。
「僕が大学に学ぶはよし、僕に教導せんとする先生ありや、敢て 衒う(てら‐う=知識・才能を見せびらかし誇らしげに振舞う)と言う勿(な=無)かれ、僕に教うるに足るもの唯、戦術教官秋山中佐あるのみ」。
この文章は、連合艦隊の作戦参謀(中佐)としてバルチック艦隊の迎撃作戦を立案し、日本海海戦を勝利に導いた秋山真之(あきやま・さねゆき)中将(愛媛・海兵一七首席・常備艦隊参謀兼第一艦隊参謀・一等戦艦「三笠」乗艦・中佐・連合艦隊作戦参謀・日本海海戦で勝利・海軍大学校教官・一等戦艦「三笠」副長・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・大佐・防護巡洋艦「音羽」艦長・防護巡洋艦「橋立」艦長・装甲巡洋艦「出雲」艦長・巡洋戦艦「伊吹」艦長・第一艦隊参謀長・軍令部第一班長兼海軍大学校教官・少将・海軍省軍務局長・欧米各国出張・第二水雷戦隊司令官・中将・待命・以前から患っていた虫垂炎が悪化して死去・享年四十九歳・従四位・勲二等旭日重光章・功三級)の伝記に記されているものだ。
だが、「野村吉三郎」(木場浩介編・野村吉三郎伝記刊行会・897頁・1961年)によると、次の様に記してある(要旨抜粋)。
当時、野村吉三郎大尉は、海軍大学校に行かなくてよかったとは、夢にも考えていなかったのである。
ただ、こうした伝説が生まれたのは、恐らく野村吉三郎大尉の友人あたりが、酒席か何かで、「野村は、“大学に俺を教える者が居るかい?”と、言いおってのう……」と冗談話をしたことが広く伝わったのだろう。