陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

714.野村吉三郎海軍大将(14)当時、野村吉三郎大尉は、海軍大学校に行かなくてよかったとは、夢にも考えていなかった

2019年11月29日 | 野村吉三郎海軍大将
 藤井較一少将も、日露戦争では、第二艦隊参謀長(大佐)として、第二艦隊司令長官・上村彦之丞中将の下にいた。

 当時の藤井較一大佐は、明治三十八年五月二十七日~二十八日の日本海海戦の前、バルチック艦隊を迎え撃つため、鎮海湾の連合艦隊旗艦・戦艦「三笠」(一五一四〇トン・乗員八六〇名)艦上で開かれた最後の軍議で、対馬海峡説を最も熱心に主張したことで知られている。

 当時の日本帝国海軍では、藤井較一少将は、日露戦争当時、連合艦隊参謀長(明治三十八年一月から第二艦隊第二戦隊司令官)であり、海軍兵学校同期の島村速雄(しまむら・はやお)少将(高知・海兵七期・首席・軍令部第二局長心得・大佐・軍令部第二局長・防護巡洋艦「須磨」艦長・常備艦隊参謀長・海軍教育本部第一部長・兼海軍大学校教官・一等戦艦「初瀬」艦長・常備艦隊参謀長・連合艦隊参謀長・少将・第二艦隊第二戦隊司令官・第四艦隊司令官・練習艦隊司令官・海軍兵学校校長・中将・海軍大学校校長・第二艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・海軍教育本部長・軍令部長・大将・軍事参議官・元帥・大正十二年一月死去・享年六十六歳・男爵・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・功二級・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)に次ぐ屈指の名参謀と言われた。

 野村吉三郎大尉は、この名参謀長、藤井較一少将の下に新任参謀として僅か四か月在勤しただけで、明治四十年十二月十八日には、第二艦隊所属の防護巡洋艦「千歳」(四七六〇トン)の航海長に転補した。

 この前後に、野村吉三郎大尉は、海軍大学校甲種学生の採用試験に最優秀の成績で合格し、あとは体格検査を待つだけとなっていた。

 ところが、その頃、海軍に海外派遣将校の予算が残っていて、野村吉三郎大尉は、その一人に選出されたのである。

 もしこの時に海外派遣がなく、野村吉三郎大尉が、海軍大学校に甲種学生として入校していたら、野村吉三郎の海軍軍人としての道は、軍政・軍令系統から、艦隊派系統になっていたかもしれない。

 また、軍主流派として徹頭徹尾の海軍屋になりきり、却って、単なる一提督として、海軍軍人の人生を終えた可能性もある。

 海外派遣になったため、野村吉三郎大尉は、オーストラリアやドイツに駐在して、当時複雑を極めたヨーロッパの国際政局をつぶさに見聞し、あるいは海外から日本の国情を眺めて、軍人がともすれば陥り易い偏狭的な世界観、国家観に眼を開いたことは、むしろ彼にとっては、その将来により広い沃野(よくや=肥沃な豊かな大地)を求めたことになった。

 野村吉三郎大尉が、海軍大学校の採用試験に合格していたにもかかわらず、入学せずに、オーストリア駐在の道を選んだことについての、野村吉三郎大尉の発言は、第一話で前述してあるが、次の様な補足を記しておく。

 「僕が大学に学ぶはよし、僕に教導せんとする先生ありや、敢て 衒う(てら‐う=知識・才能を見せびらかし誇らしげに振舞う)と言う勿(な=無)かれ、僕に教うるに足るもの唯、戦術教官秋山中佐あるのみ」。

 この文章は、連合艦隊の作戦参謀(中佐)としてバルチック艦隊の迎撃作戦を立案し、日本海海戦を勝利に導いた秋山真之(あきやま・さねゆき)中将(愛媛・海兵一七首席・常備艦隊参謀兼第一艦隊参謀・一等戦艦「三笠」乗艦・中佐・連合艦隊作戦参謀・日本海海戦で勝利・海軍大学校教官・一等戦艦「三笠」副長・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・大佐・防護巡洋艦「音羽」艦長・防護巡洋艦「橋立」艦長・装甲巡洋艦「出雲」艦長・巡洋戦艦「伊吹」艦長・第一艦隊参謀長・軍令部第一班長兼海軍大学校教官・少将・海軍省軍務局長・欧米各国出張・第二水雷戦隊司令官・中将・待命・以前から患っていた虫垂炎が悪化して死去・享年四十九歳・従四位・勲二等旭日重光章・功三級)の伝記に記されているものだ。

 だが、「野村吉三郎」(木場浩介編・野村吉三郎伝記刊行会・897頁・1961年)によると、次の様に記してある(要旨抜粋)。

 当時、野村吉三郎大尉は、海軍大学校に行かなくてよかったとは、夢にも考えていなかったのである。

 ただ、こうした伝説が生まれたのは、恐らく野村吉三郎大尉の友人あたりが、酒席か何かで、「野村は、“大学に俺を教える者が居るかい?”と、言いおってのう……」と冗談話をしたことが広く伝わったのだろう。


713.野村吉三郎海軍大将(13)自分が手を引いたらどんなことになるか皇帝によく申し上げよ

2019年11月22日 | 野村吉三郎海軍大将
 その日、野村吉三郎大尉は、これらの上官とともに、初代大韓帝国皇帝・高宗に謁見し、その後の、天津楼での宴会(レセプション)では、伊藤博文統監と同席した。これらの出来事について、野村吉三郎は後に次のように回想している。

 当日の午前、伊藤統監に案内され、富岡司令官、三艦長、先任参謀斎藤七五郎、後任参謀田村丕顕と共に私(旗艦航海長)は李国王に謁見した。

 その時の伊藤さんの国王に対する挙措は、恰も我が天皇に対するように鄭重至極であった。富岡司令官は遠洋航海の状況を言上したが李国王は実に巧みに相槌を打った。

 常に諸強国の使臣と応対しつけているので習い性となったのであろうか、人を逸らさぬ外交辞令には舌を捲いたのである。
 
 謁見のこと終り控室に退いた後、伊藤さんは宮中の大官を集め、最近入手した朝鮮の密使がヘーグに現われ平和会議に日本を讒訴し、国際法廷に持ち出す運動を始めたという「ロイター」電を指摘して、「自分は朝鮮を扶殖興隆するためにこれ程日夜努力している。兵力をもって征服するのは易々たるものだが敢てそれをやらない。然るにこんな怪しからん運動をやるからには、自分はこれ以上責任を持つことは出来ぬ。自分が手を引いたらどんなことになるか皇帝によく申し上げよ」と時々英語を交え縷々と説得した。

 統監はゆったりと椅子に腰掛け卓上には三鞭(シャンパン)のコップが置かれている。此れに対して大官連中は起立し、ひたすらに恐縮の媚態を呈しているのを私は見た。

 さてその夜の宴会には京城に在る日本の官・軍の首脳部は殆ど列席していたが、宴まさに酣なわとなった頃、伊藤さんは我々の席へやって来られて、いろいろ歓談され、また時には眉をあげ国事を憂うなど、さながら俊輔の昔に還ったかのように若々しく元気に見受けられた。

 談偶々当時の朝鮮統治問題に及んだ時、向こうの席でひとかたまりになってやっている、軍司令長官長谷川好道大将等の一団を指し「あの連中は朝鮮に来ていると、朝鮮の物差しで尺度した考えしか持たない。あれでは国家百年の大計は建てられない。諸君は常に邦家百年の後に眼を放ち、軍人という立場だけに捉われず、日本人としての大局的な見地に立って考え且つ行動して貰いたいものだね、このワシの身に何か事が起こりでもしたら、日本は大いに儲かるぞハッハ……」と半ば冗談のように、そうして半ば真剣な顔付きをして語って居られた。
 
 正直なところ私にはその意味が半知半解で確実に把握することは出来なかったが、とにかく酒間談笑のうちに受けたインスプレッションは、やはり何といっても艱難幾度か、生死の巷を潜って今日に至った国家の元勲の偉大さが躰全体から電気のように伝わった感じであった。

 それから程なく私が墺・独駐在中に、ハルピン駅頭で朝鮮人安重根のために狙撃暗殺された兇報を聞き、胸を衝いて思い当たるものがあった。

 以上が、李国王に謁見した当時の、野村吉三郎の回想である。

 さて、野村吉三郎大尉が、旗艦である防護巡洋艦「橋立」(四二一七トン・乗員三六〇名)の航海長として参加した練習艦隊は、それから鎮海湾、釜山を廻り七月二十二日、鹿児島に帰投してその任務を終わった。

 明治四十年八月二十日、野村吉三郎大尉は、二十九歳の若さで、横須賀鎮守府参謀に補された。

 当時の横須賀鎮守府司令長官は、上村彦之丞(かみむら・ひこのじょう)大将(鹿児島・海兵四期・砲艦「鳥海」艦長・大佐・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・常備艦隊参謀長・大臣官房人事課長・一等戦艦「朝日」回航委員長・英国出張・少将・造船造兵監督官・海軍省軍務局長・軍令部次長・常備艦隊司令官・中将・海軍教育本部長・常備艦隊司令官・第二艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・大将・軍事参議官・後備役・大正五年八月死去・享年六十七歳・男爵・従二位・旭日桐花大綬章・功一級・シャム王国王冠第一等勲章)だった。

 野村吉三郎の後年の回想によると、横須賀鎮守府司令長官・上村彦之丞大将は、日露戦争では、第二艦隊司令長官としての功績で授与された功一級金鵄勲章を、武将最高の名誉として、事あるごとにそれを持ち出し歓んでいたという。

 また、横須賀鎮守府参謀長は、藤井較一(ふじい・こういち)少将(岡山・海兵七期・七番・砲艦「鳥海」艦長・大佐・防護巡洋艦「須磨」艦長・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・台湾総督府海軍参謀・海軍省軍務局第二課長・軍令部第二局長・第二艦隊参謀長・少将・第一艦隊参謀長・横須賀鎮守府参謀長・第一艦隊司令官・佐世保工廠長・中将・軍令部次長・佐世保鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・軍事参議官・予備役・後備役・大正十五年七月死去・享年六十七歳・正三位・勲一等旭日桐花大綬章・功三級)だった。







712.野村吉三郎海軍大将(12)野村吉三郎大尉もこの一行に加わり、伊藤博文韓国統監に案内され、大韓帝国皇帝に謁見した

2019年11月15日 | 野村吉三郎海軍大将
 当時の朝鮮を取り巻く国際情勢は次のようなものだった。

 ロシアの後ろ盾をなくした高宗は、韓国皇室の利益を保全するため、明治三十八年十一月、第二次日韓協約を締結した。

 明治三十八年十二月二十一日、大日本帝国は、漢城(現・ソウル特別市)に韓国統監府を設置し、韓国統監を任命した。

 初代韓国統監には、伊藤博文(いとう・ひろふみ・山口・松下村塾・兵庫県知事・岩倉使節団の一員として欧米歴訪・初代工部卿・宮内卿・初代内閣総理大臣・初代枢密院議長・第二次~第四次内閣を組閣・初代韓国統監・韓国統監を辞任・明治四十二年十月二十六日ハルピン駅で安重根に暗殺される・享年六十九歳・公爵・従一位・菊花章頸飾・仏国レジオンドヌール勲章勲一等・英国バス勲章勲一等など)が就任した。

 明治四十三年八月二十九日、大日本帝国は、「韓国併合二関スル条約」に基づいて、大韓帝国を併合して、支配下に置いた。

 さて、明治四十年六月八日、朝鮮の仁川に上陸した練習艦隊の乗組員、少尉候補生らは朝鮮の首都京城を訪問した。

 この時、練習艦隊司令官・富岡定恭少将を初め、参謀、練習艦隊の各艦長、士官ら一行は、初代大韓帝国皇帝に謁見した。

 野村吉三郎大尉もこの一行に加わり、伊藤博文韓国統監に案内され、大韓帝国皇帝に謁見した。

 初代大韓帝国皇帝に謁見した練習艦隊の士官は、野村吉三郎大尉の他に、次の様な主要な上級士官がいた。

 先任参謀・斎藤七五郎(さいとう・しちごろう)少佐(宮城・海兵二〇期・三番恩賜・海大四期・首席・米国駐在・英国駐在・一等戦艦「霧島」副長・海軍大学校教官兼陸軍大学校兵学教官・大佐・海軍省人事局第一課兼第二課長・装甲巡洋艦「八雲」艦長・第三艦隊参謀長・少将・呉鎮守府参謀長・軍令部第一班長兼海軍大学校教官・中将・第五戦隊司令官・練習艦隊司令官・軍令部次長・大正十五年七月軍令部次長在職のまま胃がんで死去・享年五十六歳・正四位・勲一等瑞宝章・功四級)。

 後任参謀・田村丕顕(たむら・ひろあき)大尉(東京・子爵・米国アナポリス海軍兵学校卒・海兵二七期として処遇・米国出張・第一艦隊参謀・皇族附武官<高松宮宜仁親王附>・大佐・族附武官<東伏見宮依仁親王附>・一等戦艦「三笠」艦長・巡洋戦艦「春名」艦長・少将・横須賀防備隊司令・予備役・横須賀人事部軍事普及事務嘱託・仙台地方人事部普及事務嘱託・森岡地方人事部軍事普及事務嘱託・岩手県立六原青年道場道場長・大政翼賛会岩手支部常務委員・岩手県翼賛壮年団団長・昭和二十年一月死去・享年六十九歳・子爵・正三位・功五級)。

 練習艦隊旗艦、防護巡洋艦「橋立」(四二一七トン・乗員三六〇名)艦長・山縣文蔵(やまがた・ぶんぞう)大佐(山口・海兵一一期・一三番・戦艦「三笠」副長・台湾総督府海軍参謀長・砲艦「龍田」艦長・大佐・防護巡洋艦「新高」艦長・防護巡洋艦「橋立」艦長・防護巡洋艦「笠置」艦長・装甲巡洋艦「春日」艦長・装甲巡洋艦「常磐」艦長・海軍兵学校教頭兼監事長・少将・朝鮮総督府附武官・佐世保鎮守府艦隊司令官・中将・予備役・昭和五年九月死去・享年六十七歳)。

 防護巡洋艦「松島」(四二一七トン・乗員三六〇名)艦長・野間口兼雄(のまぐち・かねお)大佐(鹿児島・海兵一三期・六番・海大五期・海軍省副官兼大臣秘書官・大佐・防護巡洋艦「高千穂」艦長・防護巡洋艦「松島」艦長・装甲巡洋艦「浅間」艦長・軍務局局員兼海軍省副官・少将・第一艦隊参謀長・佐世保鎮守府参謀長・海軍砲術学校校長・呉鎮守府参謀長・海軍省軍務局長・呉工廠長・中将・第六戦隊司令官・海軍兵学校校長・舞鶴鎮守府司令長官・第三艦隊司令長官・大将・海軍教育本部長・横須賀鎮守府司令長官・予備役・昭和十八年十二月死去・享年七十七歳・従二位・勲二等瑞宝章・功三級)。

 防護巡洋艦「厳島」(四二一七トン・乗員三六〇名)艦長・名和又八郎(なわまた・はちろう)大佐(福井・海兵一〇期・一七番・舞鶴鎮守府参謀・大佐・海軍省人事局第二課長・装甲巡洋艦「出雲」艦長・防護巡洋艦「厳島」艦長・巡洋戦艦「生駒」艦長・軍令部第四班長・少将・呉鎮守府参謀長・第三艦隊司令官・中将・海軍教育本部長・第二艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・軍事参議官・予備役・昭和三年一月死去・享年六十四歳・従二位・勲一等瑞宝章・功四級)。

 初代大韓帝国皇帝は高宗(ゴジョン=こうそう・李氏朝鮮第二十六代国王・大韓帝国初代皇帝・韓国併合後“太王”<王族>の称号を授与され徳壽李太王と称される・大正八年一月死去・享年六十六歳)だった。



711.野村吉三郎海軍大将(11)第三艦隊司令長官を務めた功績により功二級金鵄勲章を授与された

2019年11月08日 | 野村吉三郎海軍大将

 「野村吉三郎」(木場浩介編・野村吉三郎伝記刊行会・897頁・1961年)には、野村吉三郎が、明治三十九年四月一日付けで、日露戦争の功により、功五級金鵄勲章、年金三百円、勲五等旭日章を授与されたとなっている。

 だが、「悲運の大使 野村吉三郎」(豊田穣・講談社・409頁・1992年)によると、「陸海軍将官人事総覧」(外山操・芙蓉書房・385頁・1981年)には、金鵄勲章の記載がないと述べている。

 野村吉三郎大尉と海軍兵学校二六期の同期生に、清河純一(きよかわ・じゅんいち)大尉(鹿児島・海兵二六・一〇番・海大五・首席・海軍大学校甲種学生・伏見宮博恭王(中佐)附武官・少佐・防護巡洋艦「音羽」副長・東伏見宮依仁親王(大佐)附武官・横須賀予備艦隊中佐参謀心得・軍令部参謀兼陸軍大学校兵学教官・中佐・海軍大学校教官・第二艦隊参謀・海軍大学校教官兼陸軍大学校兵学教官・大佐・軍令部第一班第一課長・兼海軍大学校教官・欧米各国出張・国連海軍代表随員・少将・国連海軍代表・軍令部参謀兼海軍大学校教官・中将・第五戦隊司令官・鎮海警備府司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・予備役・昭和十年三月死去・享年五十七歳・正四位・功四級)がいる。

 清河純一大尉は、日本海海戦当時、連合艦隊参謀として、連合艦隊旗艦、戦艦「三笠」(一五一四〇トン・乗員八六〇名)乗組みだったが、功四級金鵄勲章を授与されている。

 ちなみに、野村吉三郎は、後に功二級金鵄勲章を授与されている。これは、第一次上海事変(昭和七年一月二十八日~三月三日)の時、中将として第三艦隊司令長官を務めた功績により功二級金鵄勲章を授与された。

 日露戦争後、明治三十八年十一月、野村吉三郎大尉は、海軍兵学校教官(航海術)兼監事に補された。

 海軍兵学校教官を一年余り在職後、野村吉三郎大尉は、明治三十九年十月、練習艦隊旗艦である防護巡洋艦「橋立」(四二一七トン・乗員三六〇名)の航海長に転補された。

 当時の練習艦隊司令官は富岡定恭(とみおか・さだやす)少将(長野・海兵五期・首席・海軍兵学校教頭心得・大佐・海軍兵学校教頭・装甲巡洋艦「八雲」艦長・一等戦艦「霧島」艦長・軍令部第一局長・少将・海軍兵学校校長・練習艦隊司令官・中将・竹敷要港部司令官・旅順警備府司令長官・予備役・男爵・従三位・勲一等瑞宝章・功四級・大正六年七月死去・享年六十二歳)だった。

 明治四十年一月三十一日、旗艦・防護巡洋艦「橋立」(四二一七トン・乗員三六〇名)以下、防護巡洋艦「松島」(四二一七トン・乗員三六〇名)、防護巡洋艦「厳島」(四二一七トン・乗員三六〇名)の三艦で、練習艦隊(司令官・富岡定恭少将)は、横須賀軍港を抜錨して遠洋航海の途についた。

 この時、乗組んだ少尉候補生は、昨年、野村吉三郎大尉が海軍兵学校教官として指導教育した海軍兵学校三四期生一七五人だった。

 この三四期には、後に連合艦隊司令長官になる、古賀峯一(こが・みねいち)少尉候補生(佐賀・海兵三四・一四番・海大一五期・連合艦隊参謀・大佐・在フランス国大使館附武官・ジュネーヴ会議全権随員・海軍省副官・一等巡洋艦「青葉」艦長・戦艦「伊勢」艦長・少将・軍令部第三班長・軍令部第二班長・軍令部第二部長・第七戦隊司令官・中将・練習艦隊司令官・軍令部次長・第二艦隊司令長官・支那方面艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・昭和十九年三月三十一日殉職・享年五十八歳・元帥・正三位・功一級)がいた。

 ちなみに三四期の首席・佐古良一(さこ・りょういち)少尉候補生(山口・海兵三四期・首席・海大一五期・軍令部参謀・中佐・フランス駐在・海軍大学校教官・大正十三年二月死去・享年三十九歳)は三十九歳で早世している。

 野村吉三郎大尉は、明治三十一年に海軍兵学校卒業後、少尉候補生として装甲艦「比叡」(二二〇〇トン・乗員三〇八名)で遠洋航海、明治三十四年に一等戦艦「三笠」(一五一四〇トン・乗員八三〇名)回航のためのイギリス出張に次いで、今回が三度目の海外渡航だった。

 練習艦隊は、ハワイ、ニュージーランド、シンガポール、香港などに寄港し、六月三日に台湾西方の澎湖諸島に帰着した。その後、清国沿岸、大連、旅順を回り、朝鮮の仁川に投錨した。


710.野村吉三郎海軍大将(10)日本海海戦には、野村吉三郎大尉は哨戒任務で参加、地味な任務だった

2019年11月01日 | 野村吉三郎海軍大将
 少佐進級が、南次郎大尉が明治三十八年三月、野村吉三郎大尉が明治四十一年九月。

 中佐進級は、南次郎少佐が明治四十三年二月、野村吉三郎少佐が大正二年十二月。

 大佐進級は、南次郎中佐が大正四年八月、野村吉三郎中佐が、大正六年四月。

 少将進級は、南次郎大佐が大正八年七月、野村吉三郎大佐が大正十一年六月。

 軍令部次長には、野村吉三郎少将が大正十五年七月、参謀次長には、南次郎陸軍中将が昭和二年三月になっている。

 中将進級は、南次郎少将が大正八年七月、野村吉三郎少将が大正十五年十二月。

 朝鮮軍司令官に、南次郎中将が昭和四年八月、呉鎮守府司令長官に、野村吉三郎中将が昭和五年六月。

 大将進級は、南次郎中将が昭和五年三月、野村吉三郎中将が昭和八年三月。

 陸軍大臣に、南次郎大将が昭和六年四月、第三艦隊司令長官に、野村吉三郎中将が昭和七年二月。

 関東軍司令官に、南次郎大将が昭和九年十二月、軍事参議官に、野村吉三郎大将が昭和八年十一月。

 予備役編入は、南次郎大将が昭和十一年四月、野村吉三郎大将が昭和十二年四月。

 予備役編入後、南次郎大将は、朝鮮総督、枢密顧問官、貴族院議員、大日本政治会総裁を歴任。終戦後A級戦犯で終身禁固刑。昭和二十九年仮出獄後、昭和三十年十二月死去。享年八十一歳。

 予備役編入後、野村吉三郎大将は、学習院長、外務大臣、在米国特命全権大使(太平洋戦争開戦時)、枢密顧問官を歴任。終戦後、公職追放。日本ビクター社長、参議院議員。昭和三十九年五月死去。享年八十六歳。

 「悲運の大使 野村吉三郎」(豊田穣・講談社・409頁・1992年)によると、野村吉三郎大尉は、防護巡洋艦「済遠」(二四四〇トン・乗員二〇〇名)沈没後、しばらくの間、佐世保鎮守府附となり、その間に旅順は陥落してしまった。

 明治三十八年一月、野村吉三郎大尉は、特務艦「京城丸」(一二〇七トン)の航海長に補された。

 特務艦「京城丸」は、大阪商船の貨客船(朝鮮航路)だったが、明治三十七年日本帝国海軍が特務艦として徴用し、連合艦隊に付属した。

 その後、大正五年、特務艦「京城丸」は北日本汽船(小樽)に売却され、樺太航路に就航した。

 明治三十八年五月二十七日から二十八日にかけて、日本帝国海軍の連合艦隊と、ロシア帝国海軍のバルチィック艦隊の間で、日本海海戦が行われた。

 戦力は、日本帝国海軍の連合艦隊が、戦艦四隻、装甲巡洋艦八隻、巡洋艦一五隻、その他艦艇八一隻の合計一〇八隻。

 ロシア帝国海軍のバルチック艦隊が、戦艦八隻、海防戦艦三隻、装甲巡洋艦三隻、巡洋艦六隻、その他艦艇一六隻の合計三八隻。

 損害は、日本帝国海軍の連合艦隊が、水雷艇三隻沈没だけだった。戦死者は一一七名、戦傷者は五八三名だった。

 ロシア帝国海軍のバルチック艦隊は、二一隻が沈没、日本帝国海軍に拿捕されたのが六隻、中立国に抑留されたのが六隻で、ほぼ全滅だった。戦死者四八三〇名、捕虜六一〇六名だった。

 野村吉三郎大尉が乗組みの特務艦「京城丸」(一二〇七トン)は、朝鮮海峡南方の哨戒訓練に従事した。五月二十七日の日本海海戦には、野村吉三郎大尉は哨戒任務で参加、地味な任務だった。