陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

362.黒島亀人海軍少将(2)要するに黒島は凝り性なのである。ひとつの物事に徹底的にこだわる

2013年02月28日 | 黒島亀人海軍少将
 海軍兵学校卒業後、黒島亀人は山本五十六と同じ砲術屋としての道を歩む。大正九年中尉時代に砲術学校普通科学生。大正十一年大尉のとき砲術学校高等科学生となっている。

 この砲術コースを歩んだことについて、香川亀人氏は「黒島亀人伝」の中で、次のように語っている。

 「氏(黒島亀人)は少年時代にこの方面(砲術)に興味と才能を示していたのである。例えば、少年時代に空気銃とか、また吹き矢で雀を打つことに妙技をあらわしたり、お祭りの時にコルクを先につめた空気銃で人形や煙草を撃ち落して業者を泣かせていたというのである」。

 次のような黒島の少年時代のエピソードも記している。

 「八幡さんのお祭りの際、業者泣かせのもうひとつの話をしておこう。吉野紙のような薄い幅二センチほどの紙の輪(直径二十センチくらい)を竹の管に掛け、これを剃刀で切る競技があった」

 「たいていは剃刀で切れずに竹の管のところでチリ紙の方が切れるのだが、黒島さんは一日中これの練習をして、二日目にはもうコツを覚えて、剃刀でその薄い紙の輪が切れるようになり、これまた業者に侘びを入れさせたのであった」。

 要するに黒島は凝り性なのである。ひとつの物事に徹底的にこだわる。一度、こだわると、徹頭徹尾、研究し抜き、それに熟達してしまう。

 研究し、熟達するのに多少時間はかかるけれど、かならず目標を到達せずにはおかない。この性向は、あきらかに学者や研究者のものである。

 昭和三年十二月、三十五歳で海軍大学校を卒業後、黒島亀人は海軍少佐に昇進した。昭和六年十二月、重巡洋艦「羽黒」(一三一二〇トン)の砲術長となった。

 この「羽黒」の砲術長のとき、巨砲をトン数の少ない「羽黒」級に積むと、航海中に発射したとき、艦のひねりや傾きなどが生じて、命中率が低くなる。これを砲術上の問題として解決するよう黒島少佐は命ぜられた。

 黒島少佐は研究し、実験をくり返し、砲術を可能にして解決した。この実験成功後、黒島は重巡洋艦「愛宕」(一三四〇〇トン)の砲術長に任命され、この艦でも巨砲の砲術を可能にした。

 このことが、黒島少佐を日本有数の砲術家に押し上げることになり、昭和八年海軍省軍務局員として、本省勤務になり、海軍技術会議議員も兼ねることになった。翌年の昭和九年には海軍中佐に昇進している。

 三年の本省勤務後、黒島は昭和十一年から再び艦隊勤務になったが、今度は単なる砲術家としてではなく参謀として洋上で指導した。

 そして黒島は、やがて(昭和十四年)、連合艦隊司令長官・山本五十六大将により、連合艦隊先任参謀に抜擢されることとなる。

 そもそも連合艦隊の参謀部は、砲術、水雷、航空(甲・乙)などの参謀を抱え、それを統括する部署である。それ以外にも、戦務、航海、通信、機関の各参謀が配置されている大世帯である。

 統括の頂点に立つのは参謀長であるが、先任参謀が参謀部の筆頭格で、実質的にこの大世帯をまとめていかなければならない。

 そのような状況から先任参謀は識見・衆望のある人材が就任する。任期は約一年で、戦機が迫れば、軍令部作戦課長が年度作戦計画を持って、このポジションにつくのが、慣例になっていた。

 事実、連合艦隊先任参謀は、後に海軍史に残る名将、猛将が多い。歴代の先任参謀は次のような著名な軍人が就任している。

 近藤信竹大将(大阪・海兵三五首席・海大一七・少将・連合艦隊参謀長・軍令部第一部長・中将・第五艦隊司令長官・軍令部次長・第二艦隊司令長官・大将・支那方面艦隊司令長官)。

 山口多聞中将(東京・海兵四〇次席・海大二四首席・海大教官・大佐・米国駐在武官・戦艦「伊勢」艦長・少将・第一連合航空隊司令官・航空第二航空戦隊司令官・中将・戦死・功一級金鵄勲章)。

 福留繁中将(鳥取・海兵四〇・海大二四首席・大佐・軍令部作戦課長・戦艦「長門」艦長・少将・連合艦隊参謀長・軍令部第一部長・中将・連合艦隊参謀長・海軍乙事件・第三航空艦隊司令長官)。

 宇垣纏中将(岡山・海兵四〇・海大二二・独国駐在・海大教官・大佐・戦艦「日向」艦長・少将・軍令部第一部長・連合艦隊参謀長・中将・第五航空艦隊司令長官・戦死)。

 以上のような名将・猛将でもなく、作戦課に勤務したことなく、ましてや軍令部勤務もない黒島亀人は、どのような経過で山本五十六大将から連合艦隊先任参謀に引き上げられたのだろうか。

 昭和十二年、黒島は第四戦隊参謀、第九戦隊参謀を歴任し、その年の十一月に第二艦隊先任参謀となった。この先任参謀のとき、連合艦隊の研究会が行われた。

 この研究会について、黒島と同期の元海軍省少将・野元為輝氏(鹿児島・海兵四四・海大二七・空母「翔鶴」<二九三三〇トン>艦長・霞ヶ浦空司令・少将・九〇三空司令)は戦後、黒島亀人の思い出として次のように述べている。

 「一般的に言って連合艦隊の研究会では、各艦隊や、戦隊の首席参謀の陳述が主体となり、自然にその人物評かもされることになるのだが、その中で黒島参謀の説明はもっとも要を得ているとの評判であり、このことが後日、君が連合艦隊首席参謀拝命の一因をなしたのではないかと私は想像するのである」

 「君は(中略)連合艦隊首席参謀を特命された。そもそもこの配置は、日露戦争当時の有名な秋山参謀の配置であり、その責任たるや極めて重大である(中略)」

 「君の海兵卒業時の成績はもちろん良いのであるが、クラスの一、二番というところではない。しかるに君が、海軍の人事取扱慣例を破って、日本の興亡を決する大東亜戦争を控えて連合艦隊首席参謀を拝命されたのである」

 「その詳細な経歴は、いまなお不明な点もあり、またこのことについて今日なお余波が燻っているようにも思われるが、この件について結論から先に言えば、山本長官が君の特質としての創意工夫能力を買われたものと思われるのである」。

361.黒島亀人海軍少将(1)黒島亀人が資質的に海軍軍人に向いていたかどうか

2013年02月21日 | 黒島亀人海軍少将
 「連合艦隊作戦参謀・黒島亀人」(小林久三・光人社NF文庫)によると、黒島亀人は、広島県安芸郡吉浦町(現・呉市)に生まれたので、子供のときから、海軍兵学校のある江田島を見て育ったようなものだった。

 黒島亀人が三歳のとき、父親が死に、母が離縁されたので、黒島亀人は、叔父夫婦に育てられた。小学校には叔父の家業の鍛冶屋を手伝いながら通った。

 黒島が小学校に通っていた頃、一度、生母の、ミネが黒島に会いに来たが、黒島は懐かしさの感情をあまり示さなかったという。

 養父母に対する遠慮からか、それとも、三歳までの記憶が欠落していたのか、他人の目には、その感情の動きを読み取らせなかったという。

 頭はすこぶる良かった。中学時代の成績が良かった黒島は、家が貧しいこと、両親が養父母であること、それらを考えて、官費で教育が受けられ、しかも一生が保証されている学校を考えるようになった。

 黒島の前には、手を伸ばせば手の届くような距離に海軍兵学校があった。海軍兵学校受験を胸の中で固めるのにそう時間はかからなかった。

 黒島亀人が資質的に海軍軍人に向いていたかどうか。目の前に海軍兵学校がなかったら、養父母が淡い期待を抱いていた医者になっていたといわれている。晩年は哲学・宗教の道を歩んでいる。

 だが、途中まで夜間部でしかも進学校でもなかった地方の中学校から受験して、黒島は難関の試験を突破して海軍兵学校に入学した。二六〇〇人が受験して入学成績は合格者百人中六十番だった。大正二年のことである。

<黒島亀人(くろしま・かめと)海軍少将プロフィル>
明治二十六年十月十日広島県安芸郡吉浦町(現・呉市)生まれ。父・亀太郎(石工)、母・ミネの長男。
明治二十九年(三歳)九月父・亀太郎がロシアのウラジオストックで出稼ぎ中に急死。母のミネは離縁され、実家に帰されたので、亀人は叔父・岩永重郎(鍛冶屋)、ミツ夫婦に引き取られる。ミツは亀人の父・亀太郎の妹。ミツは生涯自分の子供は生んでいない(石女)。亀人は高等小学校卒業後旧制海城中学校夜間部に通学、その後広島市の私立明道中学校四年に編入。
大正二年(二十歳)九月海軍兵学校(四四期)入学。受験生は二六〇〇人、合格者は一〇〇人。黒島亀人の入学時の成績は六〇番。
大正五年(二十三歳)十一月二十二日海軍兵学校(四四期)卒業。卒業成績は九十五人中、三十四番。卒業後少尉候補生として練習艦隊の装甲巡洋艦「常盤」(九七〇〇トン)乗組み。後に戦艦「山城」(三四七〇〇トン)乗組み。ちなみに四四期首席は一宮義之少将(徳島・海大二八・米国駐在武官補佐官・一等巡洋艦「足柄」艦長・少将・第十二航空艦隊参謀長・軍需局総務部長)、次席は黒田麗少将(広島・海大選科・艦本出仕・欧米出張・火薬支廠総務部長・少将・技研化学研究部長)、三番は西田正夫大佐(兵庫・海大二六次席・第一次ロンドン軍縮会議随員・英国駐在武官補佐官・駆逐艦「島風」艦長・海大教官・第二次ロンドン軍縮会議随員・軍令部第三部第八課長・重巡洋艦「利根」艦長・戦艦「比叡」艦長・予備役・第九五一航空隊司令・福岡地方人事部長)。
大正六年(二十四歳)十二月一日海軍少尉。
大正七年(二十五歳)七月二日養母ミツ死去。十一月九日装甲巡洋艦「八雲」(九六四六トン)乗組み。
大正八年(二十六歳)十二月一日海軍中尉。水雷学校普通科学生。
大正九年(二十七歳)五月三十一日砲術学校普通科学生。
大正十年(二十八歳)十二月一日巡洋戦艦「金剛」(二七五〇〇トン)分隊長心得。
大正十一年(二十九歳)十二月一日海軍大尉。砲術学校高等科学生。
大正十二年(三十歳)十二月一日一等駆逐艦「波風」(一三四五トン)砲術長。
大正十四年(三十二歳)七月広島市西条町の旅館「大正館」の長女・森マツノ(二十四歳)と結婚。十二月一日砲術学校教官。
大正十五年(三十三歳)十二月一日海軍大学校(二六期)入学。
昭和三年(三十五歳)十二月海軍大学校卒業。海軍少佐。第二遣外艦隊参謀。
昭和四年(三十六歳)十一月三十日戦艦「陸奥」(三三八〇〇トン)副砲長。
昭和五年(三十七歳)十二月一日佐世保海兵団分隊長。
昭和六年(三十八歳)十一月二日一等巡洋艦「羽黒」(一三一二〇トン)砲術長。
昭和七年(三十九歳)十一月十五日一等巡洋艦「愛宕」(一二七八一トン)砲術長。
昭和八年(四十歳)十一月十五日海軍省軍務局(第一課)。
昭和九年(四十一歳)十一月十五日海軍中佐。五月東郷元帥葬儀委員。
昭和十一年(四十三歳)十二月一日第五戦隊参謀。
昭和十二年(四十四歳)三月十日第四戦隊参謀。七月十五日軍令部出仕。七月二十八日第九戦隊参謀。十一月第二艦隊先任参謀。
昭和十三年(四十五歳)十一月十五日海軍大佐。十二月二十日海軍大学校教官(戦略)。
昭和十四年(四十六歳)十月二十日連合艦隊先任参謀兼第一艦隊参謀。
昭和十六年(四十八歳)十二月八日真珠湾攻撃。
昭和十七年(四十九歳)六月五日・六日ミッドウェー海戦。八月八日・九日第一次ソロモン海戦。八月二十四日第二次ソロモン海戦。十一月十二日~十五日第三次ソロモン海戦。
昭和十八年(五十歳)四月七日~十五日「い号」作戦。四月十八日連合艦隊司令長官・山本五十六大将戦死。七月十九日黒島亀人軍令部第二部長。十一月一日海軍少将。第二部長として特攻兵器の研究・開発。
昭和二十年(五十二歳)八月十五日終戦。九月六日大東亜戦争調査委員会幹事。十一月一日予備役。東京で「白梅商事」(顕微鏡販売)を黒島は設立。社長は木村愛子、副社長は山本礼子(山本五十六の未亡人)、常務に黒島が就任。
昭和二十一年(五十三歳)二月郷里の広島県吉浦町に妻子と共に帰り農業に従事。自決を考えるが、家族と別居し、東京世田谷の木村愛子の邸宅に同居。その後、哲学・宗教の研究に没頭して過ごす。
昭和四十年十月二十日肺ガンで死去。享年七十二歳。

 黒島亀人と同郷の後輩、香川亀人氏が書いた労作「黒島亀人伝」によると、海軍兵学校時代、黒島が帰郷したとき、香川に会ったときのことが次のように記してある。

 「もう一つ忘れてならないのは彼氏(黒島亀人)が兵学校から初めての休暇のあった正月、禅宗の白隠や道元について大いに語ったことである」

 「禅の内容についてはよくわからなかった。(中略)座禅の方法を教えて、『おい、白隠はセイ下丹田が鉄のように堅くなって打てばカンカンと音がするようになっていたのだぞ』(後略)といって座禅の仕方を実施指導してくれた」

 「あまり熱心に禅の話をするので、兵学校では課外に武士の宗教と言われる禅が教えられているものと思っていた」

 「晩年、氏が宗教の研鑽に没頭したのもこの辺に由来すると考えたが(中略)、兵学校では別に宗教は課外でも扱われなかった」。

 十代半ばから後半にかけての精神形成期に、難解な宗教や哲学に関心をもつのは、特に珍しいことではない。

 黒島亀人が禅に興味と関心を持ったからといって、特筆すべきことではないかもしれないが、彼には、どこか宗教的、あるいは哲学的な性向が非常に強い。

 それが海軍軍人としての彼を特異にしているのだが、その性向の発芽が、海軍兵学校入学とともに見られることに注目したい。

360.辻政信陸軍大佐(20)辻政信の参議院選挙の第一声は、岸信介の郷里の山口県田布施町であげた

2013年02月15日 | 辻政信陸軍大佐
 「オレは四十数年の政治生活で君のような奴を見たことがない。よくやったなあ!」

 「ご好意を無にし、無礼な言を吐いて申し訳ありません。あの寒い雪国でご病気にでもしてはと思いまして」

 「言うな、皆判っとる」

 また手を握って、涙をこぼされた。私が爺さんの涙を見たのはこれが初めてであった。人を喰った古狸にどこからこのような涙がでるのだろう。

 若輩の思い上がった無礼な言葉を怒らないで、その腹を見抜いてくれた三木老に私は今でも合唱したい気持ちがする。

 昭和三十三年七月八日の衆議院法務委員会で辻は、岸信介首相と、自民党副総裁・大野伴睦(おおの・ばんぼく・明治二十七年岐阜県出身・明治大学政治経済学部中退・東京市会議員・衆議院議員・自由党幹事長・衆議院議長・北海道開発庁長官・初代自由民主党副総裁)に次の様な嫌がらせの発言を行った。

 「先の選挙における岸首相、大野副総裁の選挙違反は目に余るものがある。彼らの選挙区山口県ならびに、岐阜県の警察本部長は、これを見逃した功績で、いずれは栄転することになるだろう」。

 さらに同年十二月十日の自民党両議院総会で辻は、「昨年の総裁公選において、各派は多額の金で党員を買収しているが、なかんずく岸総裁が最も多くバラまいている」と追い討ちをかけたので、会場は大混乱に陥った。

 この日の議員総会で、自民党常規委員会では、辻を除名処分とすることにしたが、一部反対があり、処分強行はなされなかった。

 だが、辻は、むしろ除名を望んでいた。自民党で己の位置に見切りをつけた彼は、大ボス岸信介に反旗をひるがえして除名になったほうが、何よりの効果がある、とふんだのだ。

 だから、辻はありとあらゆる機会に岸攻撃をやった。そして「もう黙ってはいられない」という文書を配布した。

 その中で辻は岸の罪業を細大洩らさずあばき、個人的中傷―罵詈雑言を浴びせかけた。むざむざ辻の術中にはまることはない――としていた自民党も、遂に昭和三十四年四月三十日辻を正式除名した。

 思い通りの除名処分になると、辻はただちに衆議院議員を辞職して、参議院全国区に立候補した。辻政信の参議院選挙の第一声は、岸信介の郷里の山口県田布施町であげた。

 「私は山口県からは、一票ももらおうとは思いません。ただ思い切り岸首相の悪口を言わせてもらいたい……」。

 辻はまずそう前置きして、岸信介がいかに過去に悪いことをしたか、そして現在も悪を重ねているかを、洗いざらいぶちまけた。

 ある時は、岸の演説の済んだ直後を狙い打ちにして、まだ解散していない聴衆へ向けて岸攻撃をやった。辻はこのために、ビエンチャンで岸信介の指令によって消されたという説もある。

 とにかく辻は徹底的に反岸演説で全国遊説を続け、昭和三十四年六月、全国で第三位(六十万三千票)で当選を果たした。

 昭和三十六年四月、参議院議員・辻政信は、「東南アジア視察」と称して、日本を出発した。

 出発に当たって、辻は、参議院に、ベトナム、カンボジア、タイ、ラオス、ビルマ、香港視察の名目で、四十日間の請暇を届け出ている。以後、辻政信は再び日本に戻ることなく失踪した。

 なぜ、辻政信がわざわざ僧形姿で、危険いっぱいのラオス方面に潜行しなければ、ならなかったか。

 当時の池田勇人首相が、米国大統領・ジョン・F・ケネディとの会談を控えて、なまなましい「東南アジア情報」を持っていくため、その収集を辻政信に非公式に依頼したことは、当時の状況から明らかだった。

 だが、それだけの目的ならば、議員バッジをつけての「国会議員・辻政信」のほうが情報収集をするにしてはやりやすいだろうし、危険度も少ないし、効果も大である。

 辻がわざわざ僧形姿に変身し、隠密行動をとらなければならなかった切実な必然性があった。戦時中日本陸軍が現地徴発し、辻自身がハノイのある場所に埋めた金のノベ棒二十三本を掘り出しに行くことだった。

 さて、ラオス出発を前にして、辻政信は、非常に怯えていたという。その半年ほど前、辻は四人の学生を引率して、世界旅行に出た。

 辻が出発した翌朝、千歳夫人が雨戸を開けると、飼犬のシェパードの二匹が、庭いっぱいに血や汚物をまき散らして悶死していた。

 その死に様からみて毒殺に間違いなく、騒ぎを聞きつけて集まった近所の人々も同様に思った。

 辻家の飼犬が悶死したのは、そのときが最初ではなかった。一年前の四月にも、やはり飼犬のシェパードが、血へどを吐きちらして、虚空をかきむしるようにして無残な死に方をしていた。

 辻政信が戦後、次々に体験的戦記を出版し、人気作家になり、全国に、辻旋風を巻き起こし、元参謀から国会議員に変身していく過程で、脅迫や、脅しが少なくなかった。脅迫電話は日常茶飯事だった。

 学生を引率してのアフリカ旅行から帰って、飼犬二匹の悶死を知った辻は、顔色を失い、以後、一人で考えこむことが多くなり、外出も避けがちだったという。

 このような身に忍び寄る危険から逃れるために、辻はラオスに出発したとも言われている。いずれにしても、辻政信はその後消息不明となり、二度と日本の土を踏むことは無かった。

 (「辻政信陸軍大佐」は今回で終わりです。次回からは「黒島亀人海軍少将」が始まります)

359.辻政信陸軍大佐(19)あなたのように薄汚いジイさんがくると、票が減るからです

2013年02月07日 | 辻政信陸軍大佐
 終戦とともに、辻政信は戦犯の追及を逃れるため、潜伏した。戦後、潜伏から現れた辻政信は、国会議員として、政治家の道を歩んだ。

 だが、その政治の道で、大物の実力者、岸信介(きし・のぶすけ・明治二十九年山口県生まれ・東京帝国大学法学部卒・農商務省・商工省・商工省工務局長・満州国国務院実業部総務司長・総務庁次長・満州国国務院総務長官・商工次官・商工大臣・衆議院議員・戦後公職追放・自由民主党初代幹事長・外務大臣・内閣総理大臣)が、辻の前に立ちはだかった。

 辻政信と岸信介のつながりは古い。「謀略の秘図・辻政信」(牛島秀彦・毎日新聞社)によると、辻が満州で若手参謀として活躍していたころ、岸は商工省工務局長から、満州国産業部長に赴任してきた。

 その当時は二人の仲は良かったが、岸信介がA級戦犯を解かれて政界に返り咲き、瞬く間に政界復帰どころか、民主党幹事長となったころから、辻は次第に反岸になっていった。

 昭和三十年三月、辻政信は衆議院議員選挙で第三回目の当選を果たした。五十三歳だった。このときのいきさつが、「これでよいのか」(辻政信・有紀書房)に次のように記してある。

 私(辻政信)は四回の選挙で、二回は無所属であった。第三回目は民主党結成の直後であり、初めて政党の公認として鳩山総裁の下に選挙戦に臨んだが、当時の公認料は百万円を最高とし、七十万と五十万に格付けされたらしい。

 貧乏代議士は百万円だとウワサが立った。選挙に出発する前の日に、党本部に党の公認証書をもらいにいった。

 二階の室で岸幹事長に挨拶したとき、十数人の候補がつめかけていた。「明日から選挙区に帰ります」と挨拶すると、岸幹事長は証書とともに新聞紙に包まれた四角いものを無造作に渡した。

 「これが君の公認料だ」と。ひねくれ者の私には、その態度が気に入らなかった。女中にチップでも渡すような素振りである。

 持前のカンシャク玉が破裂しかかった。「おことわりします」。岸幹事長は驚いた顔で席を起った。「どうしてか。金がなくて選挙ができるか」。

 「刀を売ったり、友人の援助で六、七十万できました。それだけでやってきます」。

 「そういうなよ君、満州時代からの友人だ。公認料がいやなら、僕のポケットマネーとして受け取ってくれよ」。

 「あなたに、そんなポケットマネーがあるとは思いません。ほかの足りない同志の人にやってください。法定費用でやって来ますから」と、幹事長の好意をことわって帰った。

 議事堂内の食堂で最後の食事をしていたとき、総務会長の三木老(三木武吉)が和服姿でノッソリやってきて私の前に座られた。

 「辻君、君は公認料を辞退したそうだなあ。金がなくては選挙はできん。それをとらないなら、僕の身体をやる。君の応援に一週間行くよ」。

 真剣な表情だ。だが、二月の石川県は吹雪の最中だ。この寒さに、この老人を病気にしてはと考えて、

 「折角ですが、御免こうむります」

 「なぜか」

 「あなたのように薄汚いジイさんがくると、票が減るからです」

 「何! 票が減る!」

 さすがに古狸の眼が異様に光った。大先輩の好意を踏みにじる若輩の無礼な態度にさすがの狸爺さんも激怒したらしい。

 その時の選挙は無我夢中であった。公認料を蹴っ飛ばし、先輩の応援をはねつけて、初めから終わりまで。街頭演説も個人、立会演説もただ一人でやり抜いた。

 捨て身の戦いは予期以上の成果で報いられ、二十四、五万票の中、約八万五千票で空前の得票率を示した。

 終わって上京し、まず本部に挨拶したとき、幹事長の表情には冷たいものがあった。総務会長室で三木老に挨拶したとき、老は何もいわずに手を固く握って涙をこぼされた。

358.辻政信陸軍大佐(18)また電報が届いた。『貴官ヲ以後軍神ト称セシム』

2013年02月01日 | 辻政信陸軍大佐
 丸山氏は当時軍医中尉で、水上少将の側近だった。昆作命甲第○号のあと、戦死近しと見て、南方総軍司令官からか、あるいはもう一段上部から、暗号電報がきた。「貴官ヲ二階級特進セシム」。

 このことについて、「月白の道」(丸山豊・創言社)には次のように記してある。

 「水上大将という栄光のうしろにある、さむざむとしたものを閣下は見抜いておられた。閣下の心の底で、ある決断のオノがふり下ろされた。『妙な香典がとどきましたね』と、にっこりされた」

 「二日後に、また電報が届いた。『貴官ヲ以後軍神ト称セシム』。軍神の成立の手のうちが見えるというものである」

 「閣下はこんども微苦笑された。『へんな弔辞がとどきましたね』。名誉ですとか武人の本懐ですとかいう、しらじらしい言葉はなかった。私たちが信じてきたとおりの閣下であった」。

 以上が、丸山豊氏の回想に出てくる、水上少将の心境の描写である。ところが、「二階級特進」や「軍神ト称セシム」などの電報は、戦後の調査でも、公式記録、発信人とも不明だという。

 だが、電報の発信地がラインデンであることから、作戦参謀・辻政信大佐が勝手に打ったと見られる推論もある。ノモンハン事件で、軍司令官の名をかたり電報を打った前科があるからだ。

 昭和十九年八月四日、水上少将の状況が、「月白の道」に次のように記してある。

 「閣下がまっすぐにのびた一本の樹木を背にして、地面にケイタイ天幕をひろげ、その上にどっかと腰をおろされると、横には当番兵二名がつきそった」

 「突然銃声を聞いた。とっさには『まただれか自決したな』と気にもとめなかったが、つぎの瞬間、いまの銃声が閣下の場所だと気づいて、バネのようにカケだしていった」

 「閣下は東北方を向いてすわったまま虫の息である。起案用紙がぬれていなかったところをみると、そのときはもう雨がやんでいたのかもしれない」

 「用紙には鉛筆がきで命令がしたためられ、書判をおしておられた。『ミートキーナ守備隊ノ残存シアル将兵ハ南方ヘ転進ヲ命ズ』。

 「水上少将ハ」の電報命令を逆手にとった、水上少将の積極的な意思表示だった。日本軍には玉砕があるばかりで、最善を尽くした後、部隊が投降するというモラルは許されていなかった。

 玉砕するばかりが武人の徳ではあるまい、所詮、負けるときまった戦いなら、一死をもって、多数の将兵の生命を救う道があってもよいと考えた。かねて「雲南の乃木さん」と将兵から敬慕されていた水上少将の最後の輝きだった。

 戦後、昭和二十八年八月七日、山梨県の塩山から甲府へ向かう車中に、かつての作戦参謀である辻政信衆議院議員が乗っていた。

 同乗者の有賀茂氏(旧日川中学二十五回卒業生)の回想によると、日川高校前で、辻は「閣下は私が殺したようなものです、実に申し訳ない、私の『十五対一』で私の心を知って下さい」と言った。

 また、水上中将の生まれた塩田のを指すと、「閣下申し訳ない」と深く頭を垂れていつまでも合掌していたという。

 ところで、水上少将の次級副官・堀江屋保中尉も悲惨な運命が待ち構えていた。水上少将の遺骨とともに、軍刀、肩章、ピストルなどを八名の部下が手分けして持ち帰った。

 堀江屋中尉もその一人だった。水上少将の自決後一ヶ月、ジャングルを潜り抜け、やっと第三三軍司令部に堀江屋中尉はたどりついた。

 だが、待ち構えていた辻政信参謀は「貴様は現役将校のくせに、なぜ水上閣下のあとを追って自決しなかったのだ」と叱責され、暴力までふるわれた。

 思い余った堀江屋中尉は、その時、腹を切ろうとしたが、他の将校にさまたげられて、果たせなかった。

 辻参謀は、ミートキーナ、フーコンから脱出した兵隊を集めて、堀江屋中尉をその隊の隊長に任命し、行けば必ず死ぬと分かっている雲南の戦場へ派遣した。堀江屋中尉は昭和十九年十一月七日戦死した。