陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

662.梅津美治郎陸軍大将(2)梅津は陸軍大学校(二三期)を首席で卒業、中尉で二十九歳だった

2018年11月30日 | 梅津美治郎陸軍大将
 「最後の参謀総長・梅津美治郎(梅津美治郎刊行会・上方快男編・芙蓉書房・681頁・昭和51年)によると、梅津美治郎(うめづ・よしじろう)は、北九州大分県中津の旧家・梅津家に生まれた。

 父・梅津芳米、母・ツネの次男として、明治十五年以月四日に生まれた。兄は米蔵。父・芳米は美治郎が七歳の時、死去した。

 母・ツネは、二人の男子を連れて、大分県豊後高田町の是永家に再婚し、この家で数人の子を儲けた。

 美治郎は、この是永家で成長し、明治三十年九月に熊本幼年学校に入校、明治三十五年五月中央幼年学校を卒業した。明治三十六年十一月陸軍士官学校(一五期)を卒業。

 その後、兄・米蔵が成人して、梅津家の後を継いだ。また、是永家は次弟・桃吉が継ぐことになり、明治四十四年、美治郎は、梅津家に復籍した。

 梅津美治郎は、明治三十六年十一月陸軍士官学校(一五期・七番)を卒業した。明治四十四年十一月、梅津は陸軍大学校(二三期)を首席で卒業、中尉で二十九歳だった。

 陸軍士官学校一五期の同期生には次の様な人々がいる。

 竹田宮恒久王(たけだのみや・つねひさおう)少将(皇族・北白川宮能久親王の第一王子・貴族院議員・陸士一五・陸大二二・騎兵第一九連隊長・第一師団司令部附・奇兵大佐・少将・大正八年薨去・享年三十六歳・大勲位菊花大綬章・功五級)。

 多田駿(ただ・はやお)大将(宮城・陸士一五・三五番・陸大二五・一二番・北京陸大教官・砲兵大佐・陸軍大学校教官・野砲第四連隊長・第一六師団参謀長・少将・野重砲第四旅団長・支那駐屯軍司令官・中将・第一一師団長・参謀次長兼陸軍大学校長・第三軍司令官・北支那方面軍司令官・大将・予備役・A級戦犯容疑で逮捕・昭和二十三年胃がんで死去・享年六十六歳・功二級・ドイツ鷲勲章大十字章)。

 蓮沼蕃(はすぬま・しげる)大将石川・陸士一五・陸大二三・第九連隊長・騎兵大佐・侍従武官・少将・騎兵学校教育部長・第二旅団長・騎兵集団長・中将・騎兵監・第九師団長・中部防衛司令官・駐蒙軍司令官・侍従武官長・大将・終戦・昭和二十九年死去・享年七十歳・勲一等・功二級)。

 今井清(いまい・きよし)中将(愛知・陸士一五・陸大二三恩賜・スェーデン駐在・デンマーク駐在・陸軍大学校教官・歩兵大佐・歩兵第八〇連隊長・参謀本部演習課長・参謀本部作戦課長・少将・歩兵第三〇旅団長・陸軍大学校教官・陸軍大学校幹事・中将・参謀本部第一部長・陸軍省人事局長・陸軍省軍務局長・第四師団長・参謀次長・兼陸軍大学校長・昭和十三年病死・享年五七歳)。

 陸軍大学校二三期の同期生には、次の様な人々がいる。

 蓮沼蕃(はすぬま・しげる)大将(石川・陸士一五・陸大二三・第九連隊長・騎兵大佐・侍従武官・少将・騎兵学校教育部長・第二旅団長・騎兵集団長・中将・騎兵監・第九師団長・中部防衛司令官・駐蒙軍司令官・侍従武官長・大将・終戦・昭和二十九年死去・享年七十歳・勲一等・功二級)。

 前田利為(まえだ・としなり)大将(東京・陸士一七・陸大二三恩賜・侯爵・仏独英駐在・陸軍大学校教官・歩兵大佐・近衛歩兵第二連隊長・参謀本部戦史課長・少将・陸軍大学校教官・歩兵第二旅団長・参謀本部第四部長・陸軍大学校長・中将・第八師団長・予備役・ボルネオ守備軍司令官・昭和十七年搭乗機が墜落殉死・享年五七歳・大将・正二位・勲三等・フランスレジオンドヌール勲章オフィシェ等)。

永田鉄山(ながた・てつざん)中将(長野・陸士一六首席・陸大二三次席・ドイツ駐在・陸軍省整備局動員課長・歩兵大佐・歩兵第三連隊長・陸軍省軍務局軍事課長・少将・参謀本部第二部長・歩兵第一旅団長・陸軍省軍務局長・昭和十年相沢三郎中佐に斬殺・享年五一歳・中将)。

 小畑敏四郎(おばた・とししろう)中将(高知・陸士一六恩賜・陸大二三恩賜・陸軍大学校教官・参謀本部作戦課長・歩兵大佐・歩兵第一〇連隊長・陸軍大学校教官・参謀本部作戦課長・少将・参謀本部第三部長・近衛歩兵第一旅団長・陸軍大学校幹事・陸軍大学校長・中将・予備役・留守第一四師団長・国務大臣・終戦・昭和二十二年死去・享年六十一歳・正四位・勲一等)。

 明治四十四年十一月陸軍大学校を首席で卒業した梅津美治郎大尉は、大正二年四月、軍事研究のためドイツ駐在。約二年後の大正四年三月デンマーク駐在。大正五年第一次世界大戦観戦。






661.梅津美治郎陸軍大将(1)敵国の検事団と火花を散らして大論戦をしただろうか

2018年11月23日 | 梅津美治郎陸軍大将
 「最後の参謀総長・梅津美治郎(梅津美治郎刊行会・上方快男編・芙蓉書房・681頁・昭和51年)には、梅津美治郎について、編者の上方快男氏が、次の様に述べている(要旨抜粋)。

 梅津美治郎は、あの昭和軍閥が「コワモテ」で国民に号令した時に、怒り肩で参謀飾緒を光らせながら、演説をぶったことがあったろうか。

 陸軍次官として新聞記者連をうならせるような記者会見を行っただろうか。彼は軍司令官として歴史に残る勝利の大声明を発表しただろうか。

 彼は戦後東京裁判には列したが、敵国の検事団と火花を散らして大論戦をしただろうか。彼は戦後、敗戦が日本として已むを得なかったという大手記を発表しただろうか。

 彼はかつて日記すらつけていなかった。手記も記録も一切なかった。彼は自分の住む家すらかつて建てたことはなかった。大将になるまでいつでも借家ですませた。

 昭和二十四年一月八日江東の一病院で横死したが、彼の遺骸はかつての参謀総長官舎の爆撃で焼失した焼け残りの土蔵の一室に帰ったのであった。彼が官舎以外の私宅をもっていなかったからである。

<梅津美治郎(うめづ・よしじろう)陸軍大将プロフィル>

明治十五年一月四日生まれ。大分県中津市出身。父・梅津芳米、母・ツネの次男。
明治二十二年(七歳)父・芳米が死去。後に母・ツネは、長男・芳蔵と美治郎を連れて、大分県豊後高田町の是永家に再婚。ここで数人の子を儲けている。美治郎はこの是永家で成長した。
明治三十年(十五歳)九月中学濟々黌(熊本県熊本市)から、熊本陸軍地方幼年学校入校。
明治三十五年(二十歳)五月陸軍中央幼年学校卒業。
明治三十六年(二十一歳)十一月陸軍士官学校(一五期・七番)卒業。
明治三十七年(二十二歳)三月十八日歩兵少尉、歩兵第一連隊附。
明治三十八年(二十三歳)六月三十日歩兵中尉(是永美治郎名義)。
明治三十九年(二十四歳)二月十三日歩兵第一旅団副官。四月一日功五級金鵄勲章、勲六等単光旭日章。
明治四十一年(二十六歳)十二月十一日陸軍大学校入校。
明治四十四年(二十九歳)十一月陸軍大学校(二三期・首席)卒業(梅津美治郎名義・是永美治郎は梅津家に復籍)。
明治四十五年(三十歳)三月二十五日歩兵大尉、歩兵第一連隊中隊長。六月一日参謀本部部員。
大正二年(三十一歳)四月二十二日ドイツ駐在(軍事研究)。
大正三年(三十二歳)八月二十三日参謀本部附。十一月二十八日俘虜情報局御用掛。
大正四年(三十三歳)三月一日丁抹国(デンマーク)駐在(軍事研究)。
大正六年(三十五歳)五月八日帰国を命ぜらる。参謀本部部員。
大正七年(三十六歳)六月一日歩兵少佐。七月二十四日奥安鞏(おく・やすかた)元帥副官。
大正八年(三十七歳)二月五日ヨーロッパ出張。四月帰国。四月二十二日木場清子と結婚。九月二日参謀本部附。十一月一日瑞西国(スイス)公使館附武官。十二月長女・美代子出生。
大正十年(三十九歳)六月十三日参謀本部部員。
大正十一年(四十歳)二月八日歩兵中佐。
大正十二年(四十一歳)三月七日陸軍省兵器局課員兼軍務局課員兼陸軍大学校兵学教官。七月長男・美一出生。
大正十三年(四十二歳)十二月十五日歩兵大佐、歩兵第三連隊長。
大正十四年(四十三歳)十二月十七日妻・清子が結核で病死。以後梅津は一生独身。
大正十五年(四十四歳)十二月一日参謀本部課長兼陸軍大学校兵学教官。
昭和三年(四十六歳)八月十日陸軍省軍務局軍事課長兼陸軍大学校兵学教官。八月十四日大礼使事務官。
昭和五年(四十八歳)八月一日少将、歩兵第一旅団長。
昭和六年(四十九歳)八月一日参謀本部総務部長。
昭和八年(五十一歳)八月一日参謀本部附。十一月一日駐スイス公使館附武官。
昭和九年(五十二歳)三月五日志支那駐屯軍司令官。八月一日中将。
昭和十年(五十三歳)八月一日第二師団長(仙台)。
昭和十一年(五十四歳)三月二十三日陸軍次官。
昭和十三年(五十六歳)五月三十日第一軍司令官。
昭和十四年(五十七歳)九月七日関東軍司令官兼特命全権大使満州国駐箚。
昭和十五年(五十八歳)八月一日大将。
昭和十七年(六十歳)十月一日関東軍総司令官。
昭和十九年(六十二歳)七月十八日参謀総長。
昭和二十年(六十三歳)八月十五日終戦。九月二日大本営全権として、アメリカ太平洋艦隊旗艦「ミズーリ―号」上で降伏文書調印。十月十五日参謀本部解消、軍事参議官。十一月三十日予備役。
昭和二十一年(六十四歳)四月二十九日A級戦犯指定。巣鴨刑務所収監。
昭和二十三年(六十六歳)二月直腸癌が発見され三一六病院に入院・手術。十一月十二日終身禁固。
昭和二十四年一月八日入院中に直腸癌により病死。享年六十七歳。生涯日記も手記も残さなかった。煙草好きで特に葉巻を愛用した。









660.山本権兵衛海軍大将(40)元老・井上馨は、山本海軍大臣の行動を違勅であるとして騒ぎ出した

2018年11月16日 | 山本権兵衛海軍大将
 台湾総督・児玉源太郎陸軍中将は、辞職を思いとどまった三か月後の明治三十三年十二月二十三日、第四次伊藤博文内閣の陸軍大臣兼台湾総督となった。

 陸軍大臣・桂太郎大将は、領袖の首相・山縣有朋元帥、伊藤博文と政治上で対立していたため、第四次伊藤内閣への協力を拒んだのである。このため、伊藤首相は、山本権兵衛の海軍寄りになっていったと言われている。

 明治三十四年六月、桂太郎内閣(第一次)が発足した。山本権兵衛海軍大臣と児玉源太郎陸軍大臣(明治三十五年三月辞任)は留任した。

 明治三十七年一月十二日午後一時から、御前会議が宮中で開かれた。緊迫する日露関係の中、ロシアと交渉を断絶し、自衛のため開戦に至る、聖断を仰ぐものだった。

 桂太郎内閣総理大臣は、腹痛で病床についたため、山本権兵衛海軍大臣が桂内閣総理大臣に代わって、内閣を代表することになった。御前会議の列席者は、次の通り。

 内閣側から、山本権兵衛海軍大臣、小村寿太郎外務大臣、寺内正毅陸軍大臣、曾禰荒助大蔵大臣。

 元老側から、山縣有朋、松方正義、井上馨。

 軍事参画当局として、大山巌陸軍参謀総長、児玉源太郎陸軍参謀次長、伊東祐亨海軍軍令部長、伊集院五郎海軍軍令部次長。

 会議の劈頭、山本権兵衛海軍大臣は内閣を代表して一時間以上にわたる陳述を行った。日露協商談判開始以来の経過、ロシアと日本の提案内容の比較と、その間における折衝状況を詳述した。そして最後に次の様に述べた。

 「以上申し述べた次第につき、ここに日露交渉を断絶し、あわせてその外交関係を絶ち、同時に帝国の侵迫された地位を鞏固にし、これを防衛するため、ならびに帝国の既得権および正当利益を擁護するため最良と思惟する独立の行動を取ることをロシアに対して通告する件、およびこれに関連して要すべき件などについて、謹んで聖断を仰ぎ奉る」。

 次に、伊藤博文、山縣有朋、松方正義が発言、山本権兵衛海軍大臣の意見に賛同し、それぞれの立場から意見を述べた。

 以上のほかに発言する者はなく、明治天皇からいろいろ御下問があり、山本海軍大臣がそれぞれについてご説明申し上げた。

 最後に明治天皇から、「なお一度催促して見よ」との御言葉があり、山本海軍大臣が「このほどの交渉事項について、なお一度ロシアに対して回答を催促せよ」との聖旨であるかと、お聞きしたところ、御首肯になったので、山本海軍大臣は謹んで聖旨を奉ずるむねをお答え申し上げた。

 その後、今日の会議は、これで閉会してよいかどうか言上、「よろしい」との御言葉を得た山本海軍大臣は、起立して閉会を宣言した。

 ところが、明治天皇が御立ちになり、各員も、退下しようとした時、元老・井上馨が突如、明治天皇に近づき、「陛下、開戦……」と発言、なお、語を継いで、何事が奏上しようとした。

 山本海軍大臣が、井上に「会議はすでに閉会を告げたのである。本日は、これで退下されたい」と言ったので、井上も止むを得ず、一同と共に、そのまま退下した。

 控室に帰ってから、紛議があった。山本海軍大臣が勝手に閉会を宣したものと誤解した元老・井上馨は、山本海軍大臣の行動を違勅であるとして騒ぎ出した。

 後から控室に来た、山本海軍大臣が、陛下の御承諾をえて閉会を宣したことを説明すると、やがて、井上はおさまり、山本海軍大臣に陳謝した。

 その後、一月十三日、日本政府はロシア政府に向かって再考を求める申し入れを行ったが、一月三十一日になっても何の応答もなく、ロシアの軍事活動は活発になってきた。

 そこで、二月四日、再び御前会議が開かれ、ロシアとの交渉を打ち切り、自衛のため必要な措置を執ること、並びに外交関係を断絶することを決定した。

 宣戦の詔勅が二月十日に発せられ、日露戦争に突入した。激戦の末、日本はロシアを破り、大勝利した。

 日露戦争後の、明治三十九年一月、山本権兵衛大将(日露戦争中の明治三十七年六月に進級)は、信頼する海軍次官・斎藤実中将に譲る形で海軍大臣を辞任した。

 その後、山本権兵衛大将は軍事参議官、伯爵となり、海軍の重鎮として存在感を強めていった。同時に、伊藤博文の立憲政友会に好意的な立場を取り、護憲運動にも理解を示したことにより、総理大臣候補にも名が挙がるようになった。

 大正二年、元老・大山巌の支持で、二月二十日、山本権兵衛は内閣総理大臣に就任した(第一次山本内閣)。

 その十年後、加藤友三郎首相の急死に伴い、大正十二年九月二日、再び、山本権兵衛に組閣が命じられ、内閣総理大臣に就任した(第二次山本内閣)。

 総理大臣を辞してから、山本権兵衛は政界から離れ、静かに余生を送った。

 昭和八年三月三十日、登喜子夫人が七十四歳で死去したが、これは山本権兵衛にとっては大きな悲しみであり、心の支えを失った。

 この頃、山本権兵衛は前立腺肥大症を起こして発熱し、臥するに至った。その後、治療により回復したこともあったが、十二月八日午後十時五十二分、山本権兵衛は東京、高輪台の自宅で亡くなった。享年八十一歳だった。

 (今回で「山本権兵衛海軍大将」は終わりです。次回からは「梅津美治郎陸軍大将」が始まります)








659.山本権兵衛海軍大将(39)児玉中将は、「万事休す」とつぶやくと、腕を組み瞑目し、涙を落した

2018年11月09日 | 山本権兵衛海軍大将
 だが、山本海相は「允裁」と言われても屈せず、鷲のような眼で一同を睨み、憤然として、次の様に言った。

 「台湾からの出兵をそのままにしておけば、必ず国際問題を引き起こし、容易ならぬことになる。かかる命令はすみやかに取り消さねばなりません」

 「もし、我が軍艦が、厦門方面の海上で、武装兵を乗せた怪しい船に出会った場合、これを海賊船と見なして、撃沈するかもしれない。国際法では、海軍が海賊船を処分することを正当としておりますぞ」。

 山縣首相、桂陸相、大山参謀総長らは、山本海相の主張は間違いではないし、味方の船を沈める訳はないが、海軍が陸軍に非協力となる恐れが多分にあると見て、とりなしにかかった。

 それにもかかわらず、山本海相は承服せず、陸軍側は、遂に、ひとまず出兵を見合わせることに方針を変更した。

 桂陸相から出兵中止の電命を受けた台湾総督・児玉源太郎中将は、しばらく電文を凝視していた。その後、児玉中将は、「万事休す」とつぶやくと、腕を組み瞑目し、涙を落した。

 八月三十日、台湾総督・児玉中将は、土壇場で自分を裏切った山縣有朋首相あてに「病気重シ、本官ヲ免ゼラレタシ」と電報を打った。

 さすがに老獪な山縣首相も慌てた。黙していれば、台湾総督・児玉中将は辞めるに違いなく、辞めれば台湾経営は瓦壊する。

 山縣首相は、とりあえず遺留の返電を打ち、内務大臣・西郷従道元帥に頼み、台湾へ行って直接慰留してもらうことにした。

 だが、大貧乏徳利の内務大臣・西郷元帥をもってしても、台湾総督・児玉中将の意思をひるがえすことはできなかった。

 台湾総督・児玉中将は、孫文(辛亥革命・中国の政治家・革命家・初代中華民国臨時大統領・中国国民党総理・中国革命の父)らの革命運動を援助し、成功させ、日中両国の独立と生存を確保することに、一身を賭していたのである。

 日頃、台湾総督・児玉中将は、秘書官に「わしの親父は座敷牢で憤死したんじゃが、そういう場合がわしに無いとも限らぬ。注意していてくれ」と言っていたが、今がその状態に近かった。

 遂に、勅使・米田虎男(こめだ・とらお)男爵(熊本・熊本藩家老長岡是容の次男・戊辰戦争・熊本藩大参事・維新後宮内省侍従番長・陸軍中佐・主猟官・侍従長・男爵・宮中顧問官・主猟頭・明治天皇の側近・子爵・従二位・勲一等旭日大綬章・大清帝国勲二等第一双竜宝星等)が派遣された。

 明治三十三年九月二十日、台北の総督官舎で、台湾総督・児玉源太郎中将は、米田男爵から次の勅語を伝えられた。

 「惟フニ台湾ノ事業多々卿ノ経営ニ頼リ、漸次ソノ緒ニ就カントス 朕ハ卿ガ任地ニオイテ病ヲ勉メテ事ヲ見ンコトヲ望ム」。

 重病人のような台湾総督・児玉中将も、さすがに辞職を思いとどまらざるを得なかった。

 台湾総督・児玉中将の挫折に続き、山縣有朋内閣が九月二十六日に総辞職し、第四次伊藤博文内閣が十月十九日に発足すると、伊藤首相は、台湾総督・児玉中将に、孫文に対する支援と武器輸出を厳禁した。

 孫文らは天を仰ぎ、不運を嘆いたが、革命も挫折するほかはなかった。厦門出兵、孫文支援は、海軍大臣・山本権兵衛中将と伊藤博文首相の反対で、無に帰した。

 山本権兵衛中将と児玉源太郎中将は、ともに一八五二年生まれで、同い年である。誕生日は、山本権兵衛が十一月二十六日、児玉源太郎が四月十四日。

 第二次山縣有朋内閣の司法大臣だった清浦奎吾(きようら・けいご・熊本・埼玉県十四等出仕・司法省・検事・内務省小書記官・内務省警保局長・司法次官・司法大臣・貴族院勅選議員・枢密顧問官・枢密院副議長・内閣総理大臣・新聞協会会長・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・フランス共和国レジオンドヌール勲章グランクロア等)は、昭和九年六月、次のような逸話を語った。

 ある時、台湾総督・児玉源太郎陸軍中将が、樟脳の結晶をガラス箱に入れ、閣僚たちに分配した。

 数日後、清浦司法大臣が、内閣控室で、台湾総督・児玉源太郎陸軍中将と雑談をしていると、海軍大臣・山本権兵衛中将が現れて次の様に言った。

 「お~児玉、この間、台湾からのみやげ有難う。あれは匂いが大変いいが、雪隠にでも置くのかなあ」。

 無遠慮で、放っておけば喧嘩になりかねないと感じた、清浦司法大臣は、海軍大臣・山本権兵衛中将に次の様に言ってやった。

 「ああ、山本、君の家はよほど贅沢と見えるな。俺の家では座敷の床の間の飾りにしようと思っているよ」。

 当時(明治三十三年第二次山縣内閣時代)、海軍大臣・山本権兵衛中将は四十七歳、台湾総督・児玉源太郎陸軍中将は四十八歳、清浦奎吾司法大臣は五十歳だった。




658.山本権兵衛海軍大将(38)山本海相に「そう簡単にはいかない。これは允裁によるものですぞ」と反論した

2018年11月02日 | 山本権兵衛海軍大将
 広瀬勝比古(ひろせ・かつひこ)中佐(大分・広瀬武夫中佐の兄・海兵一〇期・十一番・防護巡洋艦「高砂」砲術長・呉鎮守府参謀・中佐・軍令部第一局局員兼西郷従道元帥副官・装甲巡洋艦「磐手」副長・一等戦艦「三笠」副長・海軍大学校教官・砲艦「大島」艦長・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・大佐・防護巡洋艦「浪速」艦長・海軍大学校選科学生・一等戦艦「富士」艦長・巡洋戦艦「筑波」艦長・少将)が、厦門に出張した。

 広瀬中佐は、山本海軍大臣の命を受けており、防護巡洋艦「和泉」、「高千穂」の艦長と打ち合わせを行うためだった。

 途中、広瀬中佐は台北の台湾総督府に寄り、台湾総督・児玉源太郎陸軍中将に、山本海軍大臣の内訓の内容を伝えた。

 これにより、陸軍大臣・桂太郎陸軍大将、陸軍参謀総長・大山巌元帥、台湾総督・児玉源太郎陸軍中将は、いずれも「海軍は厦門(アモイ)を占領する肝だ」と、この内訓を解釈した。

 台湾総督・児玉中将は、参謀次長・寺内正毅(てらうち・まさたけ)中将(山口・戊辰戦争・維新後陸軍少尉・フランス留学・大臣官房副長・大臣秘書官・歩兵大佐・陸軍士官学校長・第一師団参謀長・参謀本部第一局長・少将・男爵・功三級・欧州出張・第三旅団長・教育総監・中将・参謀本部次長・陸軍大臣・大将・子爵・功一級・兼朝鮮総督・伯爵・軍事参事官・元帥・内閣総理大臣・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功一級・イギリスバス勲章ナイト・グランド・クロス等)と電報のやり取りをして台湾軍の厦門出兵準備を進めた。

 台湾から厦門への出兵について、明治天皇の允裁(いんさい=許可)が八月二十二日に下り、陸軍大臣・桂大将は、翌二十三日、それを台湾総督・児玉陸軍中将に通報した。

 明治三十三年八月二十四日午前零時三十分ころ、厦門の東本願寺布教所が何者かに焼打ちされた。厦門港内の防護巡洋艦「和泉」、「高千穂」は、直ちに陸戦隊を上陸させた。

 同日、陸軍大臣・桂大将は、台湾総督・児玉中将に「巡洋艦『和泉』艦長ヨリ出兵ノ要求アリ次第、台湾軍ヨリ出兵スベシ」と電命を発した。

 翌二十五日、上野専一厦門領事から、台湾総督・児玉中将の許に、「当地本願寺ノ布教所、暴徒ノタメ放火セラレテ焼失、形勢不穏、ヨッテ『和泉』ノ陸戦隊上陸ス」という電文が届いた。

 台湾総督・児玉中将は、第一旅団の二個大隊を先陣として、厦門に派遣することを決定した。

 第一旅団長は、土屋光春(つちや・みつはる)少将(愛知・大阪陸軍兵学校・軍務局第一軍事課長・歩兵大佐・参謀本部第二局長・少将・歩兵第一七旅団長・台湾守備隊混成第一旅団長・近衛歩兵第一旅団長・中将・第一一師団長・第一四師団長・男爵・第四師団長・大将・男爵・従二位・勲一等旭日大綬章・功二級・ロシア帝国神聖スタニスラス星章第二等勲章)だった。

 八月二十七日、防護巡洋艦「高千穂」艦長から、台湾総督・児玉中将あてに「『和泉』『高千穂』の陸戦隊が上陸したが、在留邦人保護のために出兵を請う」という電報が届いた。

 翌八月二十八日、土屋少将を指揮官とする歩兵二個大隊が、輸送船二隻に分乗して、基隆(キールン)から厦門に向かった。

 台湾総監・児玉中将は、さらに翌日、増兵する予定にして、それを陸軍大臣・桂大将に電報した。

 厦門には、台湾総督府の後藤新平(ごとう・しんぺい)民生長官(岩手・福島洋学校・須賀川医学校・愛知県医学校長兼病院長・内務省衛生局・ドイツ留学・医学博士・内務省衛生局長・臨時陸軍検疫部事務官長・台湾総督府民生長官・南満州鉄道初代総裁・拓殖大学学長・逓信大臣・初代内閣鉄道院総裁・内務大臣・外務大臣・東京市長・内務大臣・東京放送局初代総裁・少年団日本連盟会長・貴族院勅選議員・伯爵・正二位・旭日桐花大綬章・大英帝国勲章一等)が先行していた。

 明治三十三年三月二十八日正午頃、後藤民生長官は、厦門の領事館で上野専一・厦門領事、豊島捨松・福州領事、防護巡洋艦「高千穂」艦長らと協議し、厦門占領の方針を申し合わせた。

 この日、東京では、山縣有朋首相、桂太郎陸相、山本権兵衛海相、青木周蔵外相、大山巌参謀総長が、外相官邸で会議を開いた。

 桂陸相が、厦門出兵までの経過を説明した。ところが、山本権兵衛海相が、強硬に反対し、その理由を次の様に主張した。

 「『和泉』『高千穂』への内訓は、砲台占領を必要とする場合を仮想して、その方法手段を調査研究させたまでのことで、砲台占領を実行しようとするものではない。陸軍の厦門出兵は取り消していただきたい」。

 桂陸相と大山参謀総長は、思いもよらない山本海相の発言に、驚いた。そこで、山本海相に「そう簡単にはいかない。これは允裁によるものですぞ」と反論した。