陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

410.板倉光馬海軍少佐(10)おい幹事、ババアエスでもいいから探して来い。なにをボヤボヤしとるか

2014年01月31日 | 板倉光馬海軍少佐
 昭和十九年一月三十一日、板倉光馬少佐の指揮するイ四一潜はブーゲンビル島ブインに向けてラバウルを出港した。

 敵のレーダー、大型哨戒機、機雷原、魚雷艇の攻撃などを、かわして、まさに紙一重、決死的ともいえる突撃で、イ四一潜はブインに着き、輸送品を降ろした。

 すると、「艦長、艦長はおられませんか」と連絡参謀の岡本中佐が艦橋に駆け上がってきた。岡本中佐は板倉少佐の手を握り締めるなり、涙をボロボロ流し口もきけなかった。

 板倉少佐は「輸送が成功して、よかった」と心から思った。そして、用意していたウイスキーと煙草の小包と一通の封書を岡本中佐に渡し、「鮫島長官にお渡しください」と言った。

 封書には「八年前、長官を殴った一少尉が、潜水艦長としてブイン輸送の命を受けて参りました。往時を回想し感慨無量であります。小包の品は、私の寸志であります……」などと書かれていた。

 イ四一潜は二回目の輸送も成功し、ブインに着いた。そのとき、板倉少佐は岡本参謀から鮫島長官からの封書と七本のパイプを受け取った。

 封書には「決死の大任まことに御苦労……」と鮫島長官から感謝の文がかかれており、板倉少佐は読み進むうちに、涙を流した。

 七本のパイプは、鮫島長官が、椰子の実で作ったものだった。このパイプには鮫島長官の万斛の思いが込められているように思われた。板倉少佐への深い愛情と、玉砕を期する最高指揮官としてのひそかな覚悟が、このパイプに託されたのだ。

 そう思った板倉少佐は、このパイプを一本だけ自分のためにしまって、残りを艦の幹部に分けてやった。もし万一の場合、その中の一人でも内地に帰れたら、鮫島長官の形見としてご家族に渡せる。

 時は流れ、戦後の昭和三十二年、板倉光馬氏は、海上幕僚監部に非常勤嘱託として勤務していた。そのとき、人づてに、鮫島具重中将が病床に伏していることを聞き、目黒の自宅に見舞った。

 かつては華族に列し、顕職を極めながら、いまや脳溢血におかされ、手足の不自由はもとより、言語障害の体を、鮫島中将は、ひっそりと手狭な一間に横たえていた。

 板倉氏は、横浜の軍事法廷で鮫島中将と再会して以来の対面だった。往年の面影は見る影もなかったが、懐旧の情はひとしおだった。

 病床の鮫島中将は、不自由な体をよじるようにして、茶箪笥の上を指差した。そこには、サントリーの角瓶に白い山茶花が一輪活けられていた。付き添っていた夫人が次のように言った(要旨)。

 「主人がブーゲンビル島から着の身着のままで帰りましたとき、サントリーの空き瓶を後生大事に抱え持っていましたので、その訳を尋ねましたら、『これは板倉艦長が命がけでブインに持って来てくれたものだ。これだけは手離せなかった』と申しました」。

 その瞬間、鮫島中将の顔が微笑むのを見て、板倉氏はその場で、ワットばかり泣き伏した。自分を殴った一少尉の命乞いをしたばかりでなく、ささやかな贈り物を形見のように大事にする、その広大無辺な温情に、板倉氏は疼くように感激したのだ。

 時は戻り、昭和十年十月、板倉少尉は、鮫島艦長の温情と計らいで、重巡洋艦「最上」から、重巡洋艦「青葉」に着任した。

 重巡洋艦「青葉」の艦長、平岡粂一大佐は「わしの顔がわからなくなるほど、酒を飲むのではないぞ」と板倉少尉に釘をさした。

 昭和十一年七月、後期の訓練が始まる直前に、連合艦隊が佐世保に集結した。板倉少尉が上陸して水交社に行くと、七、八名の級友がとぐろを巻いていた。

 彼らは板倉少尉の顔を見ると、「いま、クラス会の相談をしていたところだ。貴様は遅れてきたから、幹事をやれ」と、否応なしに幹事を押し付け、“山”(万松楼)に繰り込むことになった。

 予約なしに飛び込んだため、エスはおろか部屋もなかった。ようやく仲居を拝み倒して、行燈部屋のような薄暗い六畳に通された。

 マグサとスルメで飲んでいるうちに、味気なくなったとみえて、「おい幹事、ババアエスでもいいから探して来い。なにをボヤボヤしとるか……」と級友たちが御託を並べ始めた。

 仕方がないので、板倉少尉は廊下トンビのエスを口説いたり、大部屋をのぞいたが、ケンもホロロ、猫の仔一匹ありつけなかった。

409.板倉光馬海軍少佐(9)板倉艦長。ブインでは鮫島中将がお待ちかねだよ

2014年01月24日 | 板倉光馬海軍少佐
 それに、軍籍を去る身ではあるが、板倉少尉は、栄えある海軍のために、帰着時刻を厳守してもらいたかった。それで、つい、かねがね抱いていた憤懣を鮫島艦長に打ち明けてしまった。

 「そうか! そうだったのか……」。それで納得がいったといわんばかりに、鮫島艦長は心なしか明るい表情で、やおら身を起すと、「なにぶんの指示があるまで、今まで通り艦務に服したまえ」と板倉少尉に告げた。

 三日後に艦隊は解散され、喜びをホームスピードに乗せて母港に急ぐ航海も、板倉少尉には針の蓆に座らされているようで、居たたまれなかった。

 だが、母港で板倉少尉を待っていたものは、重巡洋艦「青葉」(九〇〇〇トン)への転勤命令だった。夢ではないか、思わず熱い涙が板倉少尉の頬を伝わった。

 重巡洋艦「青葉」の艦長は、平岡粂一(ひらおか・くめいち)大佐(広島・海兵三九・重巡洋艦「青葉」艦長・戦艦「比叡」艦長・少将・横須賀防戦司令官・上海方面根拠地司令官・第九根拠地司令官・中将・予備役)だった。

 板倉少尉は艦長室に駆け込んだ。鮫島艦長は、相変わらず無表情のままで、一言、「青葉に着任したら、平岡粂一艦長によく指導してもらい給え」と言っただけだった。

 ただそれだけだったが、板倉少尉には、鮫島艦長の顔が、観世音菩薩のように仰がれ、嬉し涙がとどめもなくこみ上げて、お礼はおろか、口もきけなかった。

 それから数日後、「高級将校といえども帰艦時刻を厳守すべし」という意味の次官通達が全軍に布告された。

 当時の海軍次官は、カミソリ次官といわれた長谷川清(はせがわ・きよし)中将(福井・海兵三一・海大一二・人事局第一課長・在米大使館附武官・戦艦「長門」艦長・少将・参謀本部第五部長・呉工廠長・中将・ジュネーヴ会議全権・海軍次官・第三艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・台湾総督・正三位・勲一等・功一級)だった。

 鮫島大佐は、長谷川次官を訪ねて、自分を殴った一少尉のために、あえて助命を嘆願したのであろう。板倉少尉には、そうとしか思えなかった。

 時は流れ、太平洋戦争末期の昭和十九年、ガダルカナル島を奪取した連合軍は、その余勢をかって、怒涛のごとくソロモン群島に殺到し、日本軍のラバウルの前衛線であるブーゲンビル島に向かった。

 ブーゲンビル島は、北のブカと南のブインに分断されて、日本軍は完全に孤立無援に陥り、ガダルカナル島さながらの命運が刻一刻と迫りつつあった。

 ブイン島には海軍の第八艦隊司令部があり、海軍部隊を統率していた。ブーゲンビル島守備隊の命運は、潜水艦輸送の成否にあるといってもよい状況だった。

 だが、ブーゲンビル島は連合軍が包囲しており、潜水艦輸送は至難の技で、まさに決死的な作戦だった。

 当時、板倉光馬は海軍少佐になっており、イ四一潜水艦の艦長だった。いろいろないきさつがあり、イ四一潜水艦はブインヘ輸送に行くことになった。

 ブインヘ出発する前、板倉艦長は南東方面艦隊司令部を訪れた。
 
 司令長官は草鹿任一(くさか・じんいち)中将(石川・海兵三七・海大一九・教育局第二課長・戦艦「扶桑」艦長・少将・砲術学校長・第一航空戦隊司令官・教育局長・中将・海軍兵学校長・第十一航空艦隊司令長官・勲一等)だった。

 司令部で、草鹿任一中将は、板倉少佐に、「板倉艦長。ブインでは鮫島中将がお待ちかねだよ。しっかり頼むぞ」と言った。

 板倉艦少佐は、ハッとして「鮫島中将と言われましたが……。あの鮫島具重閣下のことですか?」と聞き返した。

 すると、草鹿中将は「そうだよ。君が少尉のときに殴った、『最上』の艦長」だよ」と言った。板倉少佐は急に、万感が胸にせまって、目頭が熱くなった。

 板倉少佐は、うかつにも、今の今まで、ブーゲンビル島の海軍最高指揮官が、鮫島具重中将とは知らなかったのだ。

 己を殴った一少尉のために、わざわざ長谷川次官を訪ねて、助命の労をとってくれた、恩人が、敵に囲まれた離島で、糧食も尽きながら、日夜、死闘を続けていたのだ。

 公私を超えて、人間としての感動が、電流のように板倉少佐の身体を走った。目に見えない一本の糸が、運命の絆としてつながっていた。

 ブイン輸送はどんなことがあっても、成功させなければならないと板倉少佐は思った。

408.板倉光馬海軍少佐(8)どう考えても腑に落ちない。何か訳があってのことではないか……

2014年01月17日 | 板倉光馬海軍少佐
 艦長を殴ったとは……。事実ならば、理由の如何を問わず、由々しき問題だった。しかも令夫人や衆人環視の中で―。

 酔いも冷め果てて、板倉少尉は蒼くなった。弁明の余地は全くなかった。板倉少尉は心中ひそかに覚悟を決めた。

 帰艦するなり、私室で着替えをしていたとき、士官たちの従兵がドアをノックした。「航海士……副長がお呼びです」。すでに腹は決まっていた。

 服装を改めて出向くと、上海事変の功績で金鵄勲章功三級の武勲に輝く近藤憲一中佐が、待っていた。

 近 藤中佐は、険しい顔で睨みつけながら、右足でドスンと床を叩き、「艦長を殴るとはなにごとだッ!帝国海軍始まって以来の不祥事である。なにぶんの指示があるまで私室で謹慎していろ」と言った。

 返す言葉もなかった。たとえあったとしても、口にすべきではないと板倉少尉は思った。今までにずい分失敗をしたが、このときほど、自分に愛想が尽きたことはなかった。

 「私物と官給品を種分けしておけ」と、付け加えられ、板倉少尉は悄然として引き下がった。私室で書類や官品を整理して、夜更けの冷たいベッドに横たわったとき、ひとりでに涙が溢れてきた。

 まだ見たことのない軍法会議の法廷に立たされる自分。悄然として郷里の土を踏む惨めな姿。落胆する両親や兄弟の顔が瞼に浮かんだ。

 係りの従兵が、朝食の用意ができたことを知らせに来たが、板倉少尉はガンルームに顔を出す気になれず、私室にこもったまま、艦長あての詫び状に筆をとった。そして心底から詫びる一文をしたためた。

 その時、「板倉少尉、艦長がお呼びです」と知らせてきた。いずれ早晩脱ぐべき軍服だ。板倉少尉は背広に着替えてゆくことにしたが、さすがに足は重かった。

 ドアをノックして艦長室に入り、板倉少尉が一礼して顔をあげたところ、鮫島艦長の左頬が赤くはれ上がっていた。思わず目を伏せて、黙って詫び状を差し出した。

 鮫島艦長は無表情のまま、読み終わると、しばしの間、板倉少尉を見つめていたが、「板倉少尉は、酒をやめられないか……」と、思いがけない質問を、言葉優しくかけられた。

 板倉少尉は面食らって、ためらいもあったが、「はッ……昨夜来、禁酒を決意しましたが、恐らく、続かないと思います」と答えた。

 すると鮫島艦長は「そうか……では、酒の量を減らすことはできないか?」と重ねて質問した。

 板倉少尉はしばらく考えたが、すっかり観念していたので、あえて自分を偽ることはできなかった。今まで、禁酒や節酒を誓ったことは、二回や三回ではなかった。それが、ものの三日と続いたためしがなかった。

 「はッ……そのつもりでいますが、恐らく酒をやめるより難しいと思います」と、板倉少尉はつい本音で答えてしまった。

 鮫島艦長は、表情を変えずにしばらく考えていたが、「そうか……もうよろしい」と、ポツンと一言言った。

 取り返しのつかない悔いと、運命の定めを覚えながら、板倉少尉は艦長室のドアを後ろに閉めた。厳しい叱責を覚悟していただけに、いつもと変らぬ鮫島艦長の温容に接し、新たな感動を覚えた。

 あとは処断を待つだけだった。板倉少尉はせめて、最後は潔くしたいと思い、無精ひげを剃り、クラス会に脱退届けを書いていたとき、再度、鮫島艦長から呼ばれた。

 板倉少尉が覚悟を新たにして出向くと、鮫島艦長は相変わらず穏やかな口調で、「どう考えても腑に落ちない。何か訳があってのことではないか……」と尋ねた。

 「別にありません。ただただ、申し訳がないと思っております」と板倉少尉は答えた。いまさら言い訳がましいことは、口が裂けても言えるものではない、これ以上恥の上塗りはしたくなかったのだ。

 だが、鮫島艦長は両眼を閉じたまま、苦悩の色さえ浮かべていた。一少尉を処断するのに、しかも自分を殴った若輩なのに、鮫島艦長には、憎しみの情は片鱗もうかがえなかった。

 あまつさえ、「酒の上とは思えない」とつぶやいた、鮫島艦長の口調にはしみじみとした温かみすら感じられた。いつしか、板倉少尉のかたくなな気持ちがほぐれ始めた。

407.板倉光馬海軍少佐(7)正気に返った時、艦長を殴ったことを知らされて、愕然とした

2014年01月10日 | 板倉光馬海軍少佐
 格納庫がグルグル回りながら矢のように後ろに流れていった。板倉候補生は生きた心地もなかった。二、三回ジャンプして草むらに不時着した。

 全身の力が抜け、練習機から降りるなり、板倉候補生は教官からどやしつけられ、目から火が出るほど殴られた。飛行学生への夢は、これで、はかなくも吹っ飛んでしまった。
 
 昭和十年四月一日、板倉光馬候補生は海軍少尉に任官した。そして同日付けで戦艦「扶桑」(三〇六五〇トン)乗組を命じられた。

 板倉少尉はどうも戦艦勤務になじめなかった。飛行気乗りになれなかったこともあるが、多分に天の邪気的な発想によるものと思われる。

 戦艦「扶桑」勤務三ヶ月で、重巡洋艦「最上」(一二二〇〇トン)に転勤した。この重巡洋艦「最上」は、当時の最新鋭艦であり、士官は一流の人物が配員されていた。

 艦長は男爵・鮫島具重(さめじま・ともしげ)大佐(東京・祖父は岩倉具視・海兵三七・海大二一・男爵・皇族附武官・重巡洋艦「最上」艦長・戦艦「長門」艦長・少将・第十三戦隊司令官・第二航空戦隊司令官・中将・第四艦隊司令長官・第八艦隊司令長官)だった。

 板倉少尉はこれまで、ずいぶんアウトロー的な失敗を繰り返してきたが、海軍の制度や慣習に不満があったわけではなかった。

 むしろ、卓越した気風と、長年培われてきた伝統に、限りない愛着と誇りを抱いてきたのだが、ただ一つだけ、気に食わないことがあった。

 それは、士官に限り、帰艦時刻が守られないことだった。由来、海軍では五分前の精神が強調され、全ての作業や隊務が律せられてきた。

 ところが、こと帰艦時刻に限り、この特筆すべき美風が平然と無視され、無造作に破られながら、恬としてかえりみられなかった。

 しかも、この傾向は上級士官になるほどひどく、艦長迎えにいたっては、ときに朝まで待たされることがあった。当直将校から、「艦長迎え」の声がかかると、大急ぎで応急糧食を用意したものである。

 板倉少尉は海軍兵学校生徒のとき、「英国海軍」という本を読んだことがあった。そのなかに、強調すべき徳目として、「人は船を待つが、船は人を待たない」とあった。恐らく、英国の士官も帰艦にルーズだったのだろう。

 なお、艦長以上の高級士官が艦を出入りするとき、舷門の衛兵が、ピーヒョーと笛を吹く儀礼がある。これは、帆船時代に、艦長が泥酔して舷梯を登れないとき、モッコに入れて吊り上げたのだが、その際、作業員の合図に笛を吹いた名残だった。

 日本帝国海軍の諸令則には、帰艦時刻に遅れた場合の罰則が明記されており、戦時には逃亡罪が適用されるが、遺憾ながら、この罰則を適用されるのは下士官兵に限られていた。

 それだけに、帰艦時刻を守らない海軍士官の態度が苦々しく、絶えず、心のしこりとなって、板倉少尉の胸中深くくすぶり続けていた。

 未曾有ともいえる自然の猛威に叩きのめされて、東京湾に入港したときは蘇生の思いだった。その翌日、朝から上陸が許されたので、酒に目のない板倉少尉は、懐中無一文になるまで飲みまわった。

 それでも、一七三〇陸発の定期便を気にしながら芝浦の桟橋に急いだ。暮れやすい秋の日は釣瓶落としに日がかげり、ごったがえしている埠頭には、早くも夕闇がただよっていた。その中にケップガン山本中尉の顔も見られた。

 桟橋は各艦の舟艇が織るように着いては離れ、そのあとに上陸員や見学者を満載したランチがすべりこんでくる。

 だが、「最上」の定期便は待てど暮らせどいっこうに姿を見せなかった。予定の時刻はとっくに過ぎていた。首を長くして、腕時計をのぞきこんでいるのは、「最上」の乗組員だけだった。

 板倉少尉の胸中には、だいぶ前から、黒い憤怒がむらむらと鎌首を持ち上げていた。その矢先に、ケップガンが、「今日は艦長のお客さんが多いので、定期便が遅れたのであろう」と、こともなげに、つぶやいた。

 男爵である艦長が、大勢の華族を招待したのであろうことはうなずける。それならば、乗艇の時間を早めるとか、別便を仕立てるとか、手段はいくらでもあると板倉少尉は思った。

 定期便は公便である。とすれば、公私の別は、時と場所を選ぶべきものではない。一艦の士気と軍紀は、ガンルーム士官の双肩にあるといわれている。

 公便が三十分以上も遅れているのに、平然と容認するケップガンの態度が憤怒に油を注いだ。酒の勢いも手伝って、板倉少尉は怒りにブルブルふるえた。

 ちょうどその時、「最上」のランチが着いた。その途端に、何かわめきながら突進したことは、板倉少尉は覚えていた。

 板倉少尉が気が付いたとき、二、三人の士官に両腕を取られたまま、ランチに連れ込まれていた。しばらくは、何がなにやらさっぱり分からなかったが、正気に返った時、艦長を殴ったことを知らされて、愕然とした。





















406.板倉光馬海軍少佐(6)後ろを振り向いた教官の顔は物凄い形相だった

2014年01月03日 | 板倉光馬海軍少佐
 遠洋航海を終わって、板倉候補生が重巡洋艦「足柄」(一四〇〇〇トン)の乗組みを命じられたのは昭和九年七月三十日だった。配置は砲術士だった。

 「伊号潜水艦」(板倉光馬・光人社名作戦記)によると、重巡洋艦「足柄」を退艦後、候補生最後の仕上げとして、術科学校を駆け足で回った。最後の霞ヶ浦航空隊でも約一ヶ月の実習が行われた。

 この間に素質や適性がテストされる。当時は同期生の半数以上がパイロットを熱望していた。板倉光馬候補生は、躍動する黒鉄の美しさに魅せられて、海軍兵学校に入ったのだが、いつしか、飛行機乗りに憧れて、戦闘機パイロットを夢見ていた。

 当時、パイロットになるには、厳重な身体検査、緻密な心理適性検査のあと、学課と実習の総合成績で合否が決まった。競争率も激しかった。

 板倉候補生は座学もまずまずの成績をおさめ、あらゆるテストに好成績をおさめた。やがて、自分でスティックを握る日がやってきた。

 飛行服を着、飛行帽をかぶり、飛行靴をはき、革手袋を手にして鏡に向かうと、格好だけはあっぱれな一人前の飛行将校が微笑みかけた。

 飛行実習のわずか七回か八回目には、はやくもスロットルバルブの操作を許され、板倉候補生は得意の絶頂にあった。

 航空隊では、隊内食が支給されるので食費がいらない。しかも、たっぷりあってうまい。おまけに搭乗手当てがつくので、横須賀や田浦のときのように、みみっちい気持ちはない。衣食たって礼節を知ったわけだ。

 板倉候補生は、ときには、気の合った連中と土浦に出かけて飲んだ。有り金をはたき、夜道を軍歌を歌いながら帰ると、酔いが回って、学生舎に着くなり、二段ベッドを片っ端から揺り動かし、寝ているものを叩き起こした。これは昔からのしきたりで、時たまではあるが、教官に襲われることもあった。

 飛行適性の最終試験の日がやってきた。板倉候補生は自信満々で臨んだ。筑波山と富士山を結ぶ線上で、直線飛行と宙返りを見事にやってのけた。教官が振り向いて大きくうなずいた。

 あとはバーチカルターン(垂直旋回・バンク角45度以上)が上手く行けば合格間違いなしだったので、板倉候補生は胸がときめき、心が爽やかにおどった。

 天気は上々で、眼下には大利根の流れがゆうゆうとして銀色に光っていた。練習機の高度は三〇〇〇メートルだった。あれほど広い飛行場が猫の額のように小さく見えた。

 教官の命令で板倉候補生はスロットルバルブを全開して、増速しながらスティックを左に倒すとともに。左足を思いっきり踏み出した。

 機体はグーと傾きながら左に急旋回をはじめた。遠心力で体は操縦席に押し付けられ、つぶれそうだった。関東平野がグルリと回って水平方向に見え、鮮やかにバーチカルターンに入った。

 その瞬間、機体はグラリと機首を落とした。見る間にゆっくりと木の葉が舞うように緩転錐揉みに入ってしまった。

 「しまった!」。板倉候補生はあわてて、スティックを一杯に引いて機首を起そうとしたが、手ごたえがなかった。水平線がグルグルと回って目が回りそうになった。

 そのうち、前席の教官が「スティック放せ、放せ!」と伝声管で、怒鳴っているのにやっと気が付いた。だが、板倉候補生は「ここで放したら百年目だ! いままでの夢が水の泡になる」とばかり、必死になってスティックを握り締めたまま胸元に引き付けて放さなかった。

 高度計の針がグングン下がっていった。前席から伝わる教官の声も必死だった。後ろを振り向いた教官の顔は物凄い形相だった。それで、板倉候補生はついに断念してスティックを放した。高度は六〇〇メートルだった。

 教官は背を丸めるようにして、スティックを前に倒し、いったん急降下の姿勢に入った。練習機の赤トンボは、ようやく錐揉みから抜け出して機首を地上に向けたが、そのまま大地に突き刺さるように突っ込んでいった。

 地表が吸い上げられるようにぐんぐん迫ってきて、「もう駄目だ」と思った瞬間、教官はグーと腹をよじるようにしてスティックを引いた。

 練習機はパラパラと松の木の枝を払いながら、地上すれすれで、かろうじて水平飛行に戻った。真っ赤に塗った救急車がサイレンを鳴らしながら走ってきた。