陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

627.山本権兵衛海軍大将(7)上村にしても、山本にしても、多くの生徒らが、よく殴り合いのけんかをしていた

2018年03月30日 | 山本権兵衛海軍大将
 権兵衛は、上村を圧倒する態度で、次のように熱烈に反論し、説得した。

 「おいは西郷さあから、『将来、最も大切な任務は海軍じゃ。その道を修め、国家に奉公せよ』といわれもした。そいで勝先生の援助を得て、兵学寮に入寮したが、おいは将来海軍に尽くす決心じゃ。おはんも目的を変ずべからずじゃ。おはんはのちに、海軍に対して十分ご奉公ができもそ」。

 この権兵衛の熱い説得の言葉を聞いて、上村は退寮を思いとどまった。

 だが、権兵衛と、上村の海軍兵学寮生活には、いろいろあった。学術と腕力では権兵衛が上で、頭の上がらない上村が、ある時、「権兵衛、おはんがいくら威張っても、ただ一つ、おいにかなわんものがあっど」と言った。

 権兵衛が「なんど」と聞くと、上村は「酒じゃ、酒ならおいの小指にも及ばんじゃろ」と答えた。「バカ言うな」と権兵衛はケンカを買った。

 二人は新橋の江木写真館近くの居酒屋に行き、それぞれ自分の前に酒が一合入ったグラスを十個並べた。ガブガブ勢いよく飲んだ権兵衛は、いち早く十個のグラスを空にした。ところが、たちまちバッタリ倒れてしまった。

 上村は、ゆっくり飲み、十個のグラスを明け、さらに五杯飲んだ。しかし、そのあと苦しみ出し、吐いてしまった。

 それまで、権兵衛はよく酒を飲んでいたが、以後、深酒はぷっつりやめたという。

 とにかく、当時は、上村にしても、山本にしても、多くの生徒らが、よく殴り合いのけんかをしていたのは事実らしい。また、そういう生徒たちに対して、鉄拳制裁が加えられていた。

 ちなみに、この頃、明治五年十一月九日(陰暦)、「十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト為ス」という改暦の詔書が発布され、明治五年十二月二日で陰暦が終わり、翌日から太陽暦となった。

 明治六年十一月十九日、次の二名が海軍兵学寮を卒業した。

 平山藤次郎(ひらやま・とうじろう・徳島・徳島藩士・海兵一期・少尉・コルベット「筑波」乗組・西南戦争で功績・オーストラリア・中尉・大尉・少佐・大佐・「摂津艦」艦長・コルベット「筑波」艦長・スループ「天城」艦長・スループ「葛城」艦長・日清戦争・通報艦「八重山」艦長・「テールス号」事件で予備役・商船学校長・勲二等瑞宝章・功四級・オーストリア=ハンガリー帝国星章飾付フランソワジョゼフ第二等勲章)。

 森又七郎(もり・またしちろう・東京・海兵一期・少尉・コルベット「龍驤」乗組・西南戦争・少佐・海軍兵学校編修長・海軍兵学校水雷術教授・軍艦「春日丸」艦長・大佐・コルベット「筑波」艦長・水雷練習艦「迅鯨」艦長・コルベット「比叡」艦長・横須賀鎮守府海兵団長・水雷練習艦「迅鯨」艦長・水雷術練習所長・水雷母艦「山城丸」艦長・日清戦争・輸送船「近江丸」艦長・呉知港事・呉鎮守府予備艦部長兼呉知港事・呉水雷団長・呉鎮守府軍港部長・少将・予備役・港務局長兼横浜港務局長・神奈川県港務長・従五位)。

 二人は試験の成績が優秀のため卒業を認められ、少尉補(後の少尉候補生)となった。この二人が、海軍兵学校の第一期生である。平山が二十三歳、森が二十六歳だった。

 明治七年一月、海軍兵学寮生徒らは、適性や本人の希望により、測量(後の航海)科二十三名、砲術運用科七十七名、蒸気科二十六名、造船科三名に区分された。

 山本権兵衛、日高壮之丞、上村彦之丞らは砲術運用科に入った。ただ、同じ砲術運用科でも、山本権兵衛と、日高壮之丞は一号生徒、上村彦之丞は五号生徒だった。

 七十七名は、学業成績によって、一号十四名、二号十六名、三号十五名、四号十五名、五号十七名に分けられたのだが、上村彦之丞は学業成績が劣っていたので、五号生徒にされた。しかも、五号生徒の中でも末席だった。

 明治六年十月末、征韓論に敗れた西郷隆盛は、桐野利明陸軍少将以下の部下を連れて、東京を去り、鹿児島に帰った。

 明治七年二月下旬、山本権兵衛は、西郷隆盛の真意を確かめなければ気が済まなくなり、兵学寮に休暇願を出して、同僚の左近充隼太とともに鹿児島に向かって旅に出た。

 旅の途中、二人は議論を続け、お互い、どんなことがあっても、生死を共にすることを誓い合った。京都に着いたときは、丁度佐賀の乱が勃発していたため、交通が妨げられ、その鎮静の後、鹿児島に向かった。

626.山本権兵衛海軍大将(6)海軍のことは技術的なことが多くて難しいから、止めた方がいい

2018年03月23日 | 山本権兵衛海軍大将
 だが権兵衛が実際に面会してみると、勝海舟は、黄八丈の着流しで、タバコ盆を下げて出てきた。勝は実にやさしい人で、十八歳の権兵衛を、子供の面倒を見るように親切に取り扱ってくれた。

 ところが、権兵衛が、勝海舟に自分の志を告げ、「是非、ご指導願いたい」と申し出ると、勝は首を縦に振らなかった。権兵衛は朝九時頃から午後四時ころまでいて、ねばった。

 勝は「海軍のことは技術的なことが多くて難しいから、止めた方がいい」と言って、どうしても許してくれなかった。権兵衛はその日は退去した。

 翌日、権兵衛は改めて出直し、勝に嘆願を重ねた。また、一日中ねばったが、やはり、「よろしい」と勝は言わなかった。

 権兵衛は、三日目も勝邸を訪れ、前回と同じことを繰り返して嘆願した。その根気に、さすがの勝も兜を脱いだ。「そう熱心にやる考えなら、やれ」と、初めて許された。

 権兵衛は、その日から、勝海舟邸の食客になった。翌日から、権兵衛は勝に色々質問をしたりして海軍知識を教授してもらった。

 勝は権兵衛に次のように教え諭した。

 「皇漢学も大切だが、これからは洋学の知識がなければ、本当の海軍学術を身に着けることはできない。その為には、まず、高等普通学、数学等を修めて素養を作らなければならない。そうしてから、海軍に入り勉強すれば、きっと海軍に通暁することができよう」。

 この教えに従って、権兵衛は昌平黌や開成所に入って勉強した。その後海軍に入った。海軍操練所に入ってからも、権兵衛は、毎週一回は勝海舟のもとを訪れて、教えを受けていた。

 明治三十二年一月十九日勝海舟が死去した時、海軍大臣・山本権兵衛中将は、特に勅裁を仰いで現職の海軍大臣と同一の儀仗兵を出した。

 それから山本海軍大臣は勝海舟の銅像を海軍省の正面に建設する計画を立て、勝海舟の女婿・目賀田勇男爵に相談した。

 すると、目賀田勇男爵は、「海舟は銅像が嫌いだったようだから、辞退した」と言ったので、山本海軍大臣は、仕方なく取りやめた。

 明治二年九月十八日、東京築地安芸橋内に海軍操練所が開設された。政府は各藩から海軍修業生を推薦させた。推薦された貢進生は寮生活だった。また、一般志願者からも通学生として採用した。

 山本権兵衛も日高壮之丞(ひだか・そうのじょう・一八四八年生・鹿児島・海兵二期・防護巡洋艦「松島」艦長・海軍兵学校校長・少将・常備艦隊司令官・中将・竹敷要港部司令官・常備艦隊司令官・舞鶴鎮守府司令長官・男爵・大将・従三位・勲一等旭日桐花大綬章・功二級)とともに薩摩藩からの貢進生五人の中に入っていた。

 明治三年十一月四日、海軍操練所は海軍兵学寮と改められ、旧海軍操練所の生徒はそのまま兵学療に引き継がれた。

 十一月八日、通学生と百余名が廃せられ、在寮生も七十余名中から、わずかに、幼年生徒十五名、壮年生徒二十九名だけを選抜ということになった。山本権兵衛は幼年生徒として採用された。

 その後、幼年生徒は予科生徒と、壮年生徒は本科生徒と改編され、山本権兵衛は明治五年八月二十日本科生徒(二期)に進んだ。

 「海軍の父 山本権兵衛」(生出寿・光人社・1989年)によると、海軍兵学寮四期生に上村彦之丞(かみむら・ひこのじょう・一八四九年生・鹿児島・海兵四期・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・大佐・常備艦隊参謀長・大臣官房人事課長・少将・海軍省軍務局長・兼軍令部次長・常備艦隊司令官・中将・海軍教育本部長・第二艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・大将・軍事参議官・男爵・従二位・勲一等旭日桐花大綬章・功一級・シャム王国王冠第一等勲章)がいた。

 薩摩藩士の家に生まれた上村彦之丞は、戊辰戦争に従軍し、山本権兵衛より三歳年長だが、遅れて明治四年八月に海軍兵学寮に入った。海軍兵学寮での成績は悪く常に最下位で、卒業席次も最下位だった。

 明治五年九月、四期生の上村彦之丞(一八四九年生・二十三歳)が、二期生の山本権兵衛(一八五二年生・二十歳)と日高壮之丞(一八四八年生・二十四歳)に次のように不満をぶちまけた。

 「こげな窮屈なところにいて、たかが船頭になるちゅうよか、広い世間に出て、大きく国家のために働きか」。




625.山本権兵衛海軍大将(5)あんたは頭が働きすぎる。いい力士にはなれない。おやめなさい

2018年03月16日 | 山本権兵衛海軍大将
 当時、島津久光公の御殿に奉公していた姉・栄子が作ってくれた出陣の服装を着て、次兄・吉蔵とともに元気よく出陣した。

 薩摩藩兵小銃第八番小隊に編入された権兵衛は、慶應三年十一月十三日、島津忠義(しまづ・ただよし・島津久光の長男・薩摩藩第十二代・最後の藩主・維新後薩摩藩知事・公爵・貴族院公爵議員・従一位・勲一等旭日桐花大綬章・国葬)に随従して鹿児島を出発、二十三日に京都に到着した。

 十二月九日には朝廷から王政復古の大号令が発せられた。十二月二十八日、兄・吉蔵が一斗樽をさげて相国寺別院に駐屯している権兵衛を訪ねてきた。

 二人は大いに飲み、大いに語った。吉蔵が「互いに命を的にするとはいいながら、弾丸傷ではなく、刀傷にしようじゃないか」と言うと、弟・権兵衛も「その通り」と大きくうなずいた。

 慶応四年正月、いよいよ戊辰戦争が勃発、権兵衛は薩摩藩兵として官軍に従い、鳥羽伏見の戦いには八幡の戦線に参加した。

 勇ましい川村純義(かわむら・すみよし)隊長(鹿児島・長崎海軍伝習所・戊辰戦争・薩摩藩四番隊長・維新後海軍大輔・海軍中将・西南戦争で参軍・参議・海軍卿・枢密顧問官・死後海軍大将・伯爵・従一位・勲一等旭日桐花大綬章)は剣を抜き、「進め、進め!」と、よく号令したが、さすがに十五歳の権兵衛は突撃がつらかったという。

 この戦いでは、兄弟はついに会う機会がなかった。吉蔵は白河口へ、権兵衛は越後口へ向かったが、権兵衛は、兄・吉蔵から次のような書簡を受け取った。

 「兄弟戦に死せざるは賀すべきなり。然れども一の傷をも受けざるは、人皆吾等が勇戦せざりしと思ふならん。依て今後大に進撃して兄弟互に大功を立てたと言はれんことを希望す」。

 権兵衛の隊は慶応四年五月十日京都を発し、越後口に進軍、転戦後、奥羽に進んだ。

 慶應四年九月八日、「慶応」の元号が「明治」と改められた。九月二十六日、庄内藩が帰順したので、権兵衛の隊は凱旋の途につき、江戸を経て、十一月十四日京都に到着、その後鹿児島に帰った。

 権兵衛の隊が、奥羽から凱旋の途につき江戸へ戻った頃のことである。当時、江戸に、相撲取りで、陣幕久五郎(じんまく・きゅうごろう・島根・江戸相撲・秀ノ山部屋・松江藩抱え力士・薩摩藩抱え力士・大関・慶応三年第十二代横綱・戊辰戦争・薩摩藩志士・維新後大阪相撲頭取総長・実業家に転進)という横綱がいた。

 陣幕久五郎は、維新動乱になり、相撲を止め、戊辰戦争では官軍として働いた後は、薩摩藩主・島津忠義の護衛をしていた。

 山本権兵衛は、郷里薩摩の甲突川の中州で行われる宮相撲で、「花車」という醜名(しこな=四股名)の大関になっていた。

 権兵衛は本物の力士になろうと思い、横綱の陣幕久五郎に相談した。ところが、「あんたは頭が働きすぎる。いい力士にはなれない。おやめなさい」と言われ、力士志願を断念した。

 慶應四年五月一日、兄・吉蔵の隊は、会津戦で白河口に攻め入った。この時、吉蔵は、敵の隊長と渡り合い、ついにこれを倒したが、自分も頸と頭に負傷し、後送された。横浜の病院で治療し、八月十九日、まだ全快はしていなかったが、退院してまた会津に向かった。

 戊辰戦争は奥羽平定で幕を閉じた。薩摩藩は藩兵の中から五〇名を選んで遊学生とし、東京、京都、その他の要地に分遣させた。山本権兵衛もこの中に入り、東京に遊学することになった。明治二年三月、十八歳だった。

 東京に出た権兵衛は、西郷隆盛が薩摩藩兵を率いて函館戦争に赴くのを見て、志願、従軍した。西郷隊が函館に到着した前日、五月十八日にすでに函館は鎮定されていたので、権兵衛は帰京、まもなく開成所に転学した。

 権兵衛の東京遊学に当たり、西郷隆盛は、特に勝海舟(かつ・かいしゅう・東京・江戸幕府異国応接掛附蘭書翻訳御用・長崎海軍伝習所・軍艦操練所教授方頭取・咸臨丸乗組教授方頭取として渡米・帰国後護武所砲術師範・軍艦操練所頭取・軍艦奉行並・陸軍総裁・西郷隆盛と会談・江戸城無血開城・維新後・明治政府外務大丞・兵部大丞・海軍卿・元老院議官・枢密顧問官・伯爵・『海軍歴史』『陸軍歴史』等の執筆・伯爵・従三位)に紹介状を書いてくれた。

 西郷隆盛は、山本権兵衛に将来は海軍に入って、国家に尽くすことをすすめ、権兵衛もその志を持っていた。だから西郷は勝海舟に紹介し師事する事をすすめたのだ。
それで権兵衛は上京するとすぐ、勝海舟邸を訪れた。勝海舟と言えば、西郷隆盛と江戸開城の大談判をやった大人物である。見るからに大英雄・大豪傑の人だろうと思っていた。















624.山本権兵衛海軍大将(4)権兵衛さんの手の早さには、兄弟誰もかなわんかった

2018年03月09日 | 山本権兵衛海軍大将
 その二歳頭とは、黒田仲太郎了介、後の黒田清隆(鹿児島・薩英戦争・鳥羽伏見の戦い・薩摩藩小銃第一隊長・参謀・北越戦争・函館戦争指揮官・維新後明治政府の開拓次官・開拓使長官・陸軍中将・参議兼開拓長官・西南戦争征討参軍・内閣顧問・農商務大臣・第二代内閣総理大臣・枢密顧問官・逓信大臣・枢密院議長・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・ロシア帝国白鷲勲章等)だった。

 文久三年七月二日~四日(一八六三年八月十五日~十七日)英国と薩摩藩の間で戦われた薩英戦争が行われた。

 この薩英戦争の発端は、文久二年八月二十一日に起きた生麦事件である。横浜港付近の武蔵国橘樹郡生麦村で、薩摩藩主・島津光久の行列を横切ったイギリス人四名を島津家家来が殺傷した事件だ。イギリス人は死者一名、負傷者二名だった。

 文久三年五月九日、イギリス公使代理・ジョン・ニールは幕府から生麦事件の賠償金一〇万ポンドを受け取った。

 六月二十二日、ジョン・ニールは、次に、薩摩国との交渉のため、七隻の艦隊を従えて横浜港を出港。六月二十七日イギリス艦隊は鹿児島湾に到着した。

 六月二十八日、英国艦隊を訪れた薩摩藩の使者とイギリス側は交渉が決裂し、薩摩藩の砲台と英国艦隊との間で砲撃戦が開始され、薩英戦争となった。

 戦闘の結果、薩摩藩は多数の民家を焼失し、藩の汽船等を失ったが、人的損害は少なかった。だが、英国艦隊は戦死者二〇名、負傷者四三名を出し、上陸戦を諦めて、撤退、七月十一日横浜港に入港した。沈没艦はなかった。

 山本権兵衛が最初に実戦を経験したのが、この薩英戦争である。まだ十一歳だった。従軍は許されなかったが、砲弾運搬などの雑役を行った。権兵衛は初めて外国の軍艦を見た。

 慶應元年(一八六五年)父、山本五百助盛眠が死去した。権兵衛が十三歳の時である。

 「帝国陸海軍の総帥・日本のリーダー3」(ティビーエス・ブリタニカ・1983年)所収<山本権兵衛―日本海軍建設の父>(一色次郎)によると、父五百助盛眠が死去した時の山本家の家計はかなり窮迫していた・

 山本権兵衛の母・常子は、子供たちを集めて、「お父様が亡くなられても、おまえたちは決して余計な心配をしてはならぬ。家のことはみな私が始末をつけていくから、お前たちは心静かに、めいめいがお国の役に立つ立派な人物になるよう、わき目も振らずに励みなさい」と言い聞かせた。

 常子は女丈夫で、権兵衛の負けず嫌いはこの母の血を伝えており、一生を貫く忠誠愛国の念は、両親の庭訓に負うところが多かった。

 だが、薩摩の貧乏士族である。夫亡き後、残された大勢の子供たちを養育する常子の苦労は並大抵では無かった。文字通り三度の飯も満足に食べられなかった。ほとんどは粥鍋、ふかした薩摩芋が主食だった。

 薩摩は長幼の序が極めて厳格だった。年長の者が箸をとらない間は、年少者はどんなにひもじくても、空腹をこらえて我慢しなければならなかった。

 ところが、腕白盛りの権兵衛少年は我慢出来ずに、サッと玉杓子に手をのばして、いち早く粥鍋を占領、一番コクのある鍋の底をすくって、平らげていた。

 兄や姉はあっけにとられて、見ているだけだったという。母・常子も権兵衛を叱らなかった。権兵衛をどこか見どころがあると見抜いていた常子は、いつも心を配っていた。

 権兵衛より四歳年上の姉・栄子は、よくこの粥鍋の話をして、「権兵衛さんの手の早さには、兄弟誰もかなわんかった」と述懐していた。

 「山本権兵衛」(山本英輔・時事通信社・昭和六十年・四刷)によると、慶應三年(一八六七年)王政復古のため、薩摩藩は藩兵を募集した。

 当時権兵衛はまだ十五歳だった。長兄は御小姓を勤めていたので国許に残ることになったが、二十二歳の次兄・吉蔵は入隊して従軍するというので、権兵衛も戦争に行きたくて仕方がなかった。

 薩英戦争の時雑役に加わったこともある権兵衛は、早速役所に行き、「従軍したい」と志望を述べた。上役の人から、「おまえ、何歳か?」と尋ねられた権兵衛は、十八歳以上でないと従軍させられないと知っていたので、「十八です」と答えた。

 当時は、戸籍を調べるということもなく、体が大きかったので疑われなかったのか、すぐ採用と決まった。権兵衛は飛び上がって、喜んだ。








623.山本権兵衛海軍大将(3)権兵衛が姿を現すと、「あっ、権兵衛がきた」と、子供たちは皆逃げてしまった

2018年03月01日 | 山本権兵衛海軍大将
 加治屋町の下級藩士の中から輩出した人材の続きは、次の通り。

 大山巌(おおやま・いわお・一八四二年生・鹿児島・薩英戦争で砲台配属・戊辰戦争で新式銃隊隊長・会津戦争で薩摩藩二番砲兵隊長・維新後ジュネーヴ留学・西南戦争で攻城砲隊司令官・陸軍大将・日清戦争で第二軍司令官・元帥・日露戦争で満州軍総司令官・内大臣・公爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・功一級・英国メリット勲章・仏国レジオンドヌール勲章等)。

 東郷平八郎(とうごう・へいはちろう・一八四八年生・鹿児島・薩英戦争・薩摩藩海軍・戊辰戦争・軍艦「春日」乗組・函館戦争・維新後コルベット「龍驤」見習士官・英国商船学校・海軍中尉・大尉・少佐・砲艦「第二丁卯」艦長・中佐・コルベット「大和」艦長・大佐・装甲艦「比叡」艦長・日清戦争・少将・常備艦隊司令官・海軍大学校校長・中将・佐世保鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・日露戦争・大将・日本海海戦で大勝利・軍令部長・伯爵・元帥・東宮御学問所総裁・侯爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・功一級)。

 ところで、「山本権兵衛」(山本英輔・時事通信社・昭和六十年・四刷)の著者、山本英輔(やまもと・えいすけ)海軍大将(鹿児島・海兵二四次席・海大五・ドイツ駐在武官・大佐・戦艦「三笠」艦長・少将・海軍大学校校長・中将・第五戦隊司令官・練習艦隊司令官・航空本部長・横須賀鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・正三位・勲一等瑞宝章)は、山本権兵衛海軍大将のすぐ上の兄、山本吉蔵(陸軍大尉・西南戦争で戦死)の長男である。

 「山本権兵衛」(山本英輔・時事通信社・昭和六十年・四刷)によると、山本権兵衛の父、山本五百助盛珉(やまもと・いおすけもりたか)は書画を能くして歌道に通じ、武芸でも槍術などは薩摩藩の中で指折りの達人だった。そして、藩の右筆(書記)となって出仕、長い間、藩主の書道指南を兼ね勤めた。

 母は、旧姓池田、名を常子といい、温厚で貞淑な半面、忍耐強く義にあつかった。権兵衛は幼児から家庭で読書習字、武術の稽古をし、藩の造士館や演武館にも出入りして文武の道に励んだ。

 父母の躾は厳しかった。権兵衛の異母姉・平田ゆき子の話によると、南国には珍しく、雪の降った朝のことだった。庭で槍術を稽古していた権兵衛は、まだ子供でもあり、寒さのあまり、かじかんだ手にホウホウと息をかけていた。

 それを見た父、五百助が大いに怒り、裸足で庭に飛び下りるなり、「武士がそんなことで役に立つか」と、権兵衛を雪中にねじ伏せた。

 ゆき子など女の子達も、寒中毎晩、井戸水を石鉢に汲み入れ、翌朝朝、この氷のような水で縁や棚をふかされた。

 その半面、負けず嫌いで口が達者な権兵衛が、友達と喧嘩したりすると、五百助は習字本を書いてその友達に与え、仲直りをさせるというような、細かい所に気を配るところもあった。

 五百助は、権兵衛の幼時、その前途に非常な関心を寄せ、「権兵衛はよく行けば、立派な人物になるが、一歩誤れば、どんな人間になるかわからん」とよく家人に言っていた。

 「海軍の父 山本権兵衛」(生出寿・光人社・1989年)によると、薩摩藩士族の青少年は、その住居周辺の一定地域にある自治組織に入り、互いに助け合い、鍛え合い、学問・武道に励むことになっていた。

 その自治組織の集団を郷中(ごうじゅう)というが、権兵衛は数え五、六歳の頃、脇差一本を腰に差して樋之口(てのくち)方眼の郷中に入った。

 郷中は年齢によって、二ないし三組に分けられる。数え六、七歳から九歳が小稚児組(こちごぐみ)、十歳から十三、四歳が長稚児組(おさちごぐみ)、それ以上二十三歳までが二歳組(にせぐみ)となる。

 彼らの教育、訓練を指導するのが、二歳組頭(郷中頭)と稚児頭である。

 ちなみに、大山巌や西郷従道は権兵衛より十年早く、六、七歳で下加治屋町方眼の郷中稚児組に入った。

 当時の加治屋町郷中の二歳頭は「敬天愛人」を信条とする二十二、三歳の巨漢、西郷隆盛だった。隆盛は、中国古典の「大学」「中庸」「論語」「孟子」や、書道、珠算などを、懇切丁寧に教えていたという。

 稚児組の権兵衛は数え八、九歳の頃から、早くも大小両刀を差すようになった。権兵衛は幼いころから気性が激しく、力も強く、喧嘩が早かった。

 喧嘩している子供らのところへ権兵衛が姿を現すと、「あっ、権兵衛がきた」と、子供たちは皆逃げてしまったという。

 だが、権兵衛は喧嘩で刀を抜くことは絶えてなかった。権兵衛の知性は激情より強く、抑えることができる性格だった。権兵衛は浅慮蛮行ではなく、熟慮断行の男子だった。

 文久二年、権兵衛が満十歳になった頃の樋之口方眼の二歳頭は、頭が切れ、人の面倒もよく見るが、時に凶暴性を発揮するので、さすがの権兵衛も彼を敬遠していた。

 その二歳頭の実家の床柱は、時々二歳頭が抜刀して切りつけたため、無残に傷だらけだった。また、酒に酔うと始末が悪く、興奮して刀を振り回し、手当たり次第に斬りつける癖もあった。