陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

397.真崎甚三郎陸軍大将(17)何しろ俺の周囲にはロシヤのスパイがついている

2013年10月31日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 山岡「真崎閣下の将来については、渡辺総監とよく協議して遺憾なきを期せられたい」。

 大臣「渡辺は反対の立場にて困る」。

 以上が、山岡重厚中将と林陸相との会談の全貌であり、林陸相の当時の心情が吐露されている。

 この会談の十一日後、昭和十年八月十二日、相沢中佐事件が起きた。皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が、陸軍省において軍務局長・永田鉄山少将を斬殺した事件である。

 「二・二六事件・第一巻」(松本清張・文藝春秋)によると、相沢中佐は、永田鉄山が軍務局長になってから十一月事件が起こり、村中、磯部らが停職処分を受け、ついで免官になったのを永田軍務局長の策謀だと信じ、永田軍務局長に対して怒りを持っていた。

 七月十六日の真崎教育総監の罷免を新聞で知り、特に「教育総監更迭事情要点」などの怪文書を読んで、永田軍務局長のこのような不義不逞の策動は絶対に許せないとし、まず彼を辞めさせなければならないと決心したといわれている。

 この相沢中佐事件の半年後、昭和十一年二月二十六日、二・二六事件が起きた。当日早朝、決起した皇道派の青年将校らは千数百名の兵を動かし、重臣を襲撃、殺害し、陸軍省、参謀本部という軍中枢機構を完全に包囲制圧し、陸相官邸を維新革命司令部とすることに成功した。

 二・二六事件の首謀者の一人、磯部浅一元主計大尉は事件後、獄中で「行動記」を書き残している。

 「行動記」によると、磯部は事件前の昭和十年十二月中旬に古荘幹郎中将、真崎甚三郎大将、山下奉文少将に会っている。

 その時、真崎大将は「このままでおいたら血を見る、俺がそれを云うと真崎が扇動していると云う。何しろ俺の周囲にはロシヤのスパイがついている」と時局いよいよ重大機に入らんとするを予期せる如く語った、と記している。

 さらに一月二十八日に、磯部は再び真崎大将を訪ねている。真崎は「何事か起こるなら、何も云って呉れるな」と言い、磯辺の要求に応え、物でも売って五百円を都合することを約束した。

 このようなことから、磯部は「余は、これなら必ず真崎大将はやって呉れる、余とは生まれて二度目の面会であるだけなのに、これだけの好意と援助をして呉れると云う事は、青年将校の思想信念、行動に理解を有している動かぬ証拠だと信じた」と断定している。

 「二・二六事件の謎」(大谷敬二郎・光人社)によると、著者の大谷敬二郎(おおたに・けいじろう・滋賀・陸士三一・東京帝国大学法学部・東京憲兵隊特高課長・大佐・東京憲兵隊長・東部憲兵隊司令官・戦犯重労働十年・戦後作家)は当時憲兵大尉で、事件後真崎大将の取調官の一人だった。

 軍事参議官・真崎甚三郎大将が二・二六事件決起を知ったのは、二月二十六日午前四時半頃、亀川哲也(沖縄・早稲田大学卒・会計検査院・森格の施設経済顧問・大日本農道会・二二六事件謀議で無期禁錮・戦後釈放)が世田谷の真崎邸の扉を叩いたことから始まる。

 「二・二六事件への挽歌」(大蔵栄一・読売新聞社)によると、著者の大蔵栄一氏は、熊本幼年学校(二二期)、陸軍士官学校(三七期)卒の元陸軍大尉。青年将校として二・二六事件に連座して免官、禁錮四年の刑に処せられた。昭和五十四年死去。享年七十五歳。

 大蔵氏は戦後、昭和三十年頃、真崎甚三郎元大将を世田谷の邸宅に訪ねた。そのとき、大蔵氏は二・二六事件について、「閣下はあの事件を事前にご承知だったのでしょうか」と、知るはずはないと思ったが一応確かめてみた。

 真崎元大将「オレが知るはずがないではないか」。

 大蔵氏「そうだと思います。じゃ、いつ知ったのでしょうか」。

 真崎元大将「二十六日の朝四時半か五時ごろ、亀川(哲也)がきて知らせてくれて初めて知ったんだがね……」。

 そのあと、真崎元大将は二・二六事件の朝のその後の行動を次のように大蔵氏に語った。

 「八時半ごろ、陸軍大臣官邸に出かけた。行ってみると川島義之陸相の顔は土色で、生ける屍のようであった」

 「それほど大臣はあわてて自己喪失に陥っていたらしい。その川島大臣を鞭撻して青年将校とも会い、事件処理に心を砕いた」

396.真崎甚三郎陸軍大将(16)真崎に万一之に類することありては迷惑なりと仰せらる

2013年10月24日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 また、「本庄日記」七月二十日の日記に、天皇に対して新旧教育総監の参内拝謁の様子が次のように記してある。

 「午後一時三十分、新任教育総監渡辺大将、前任教育総監真崎大将葉山御用邸に参内拝謁す」

 「繁は拝謁に先だち、新任者には『ご苦労である』、前任者には『ご苦労であった』との意味の御言葉を賜らば難有存ずる旨内奏す」

 「陛下は之に対し真崎は加藤の如き性格にあらざるや、前に加藤が、軍令部長より軍事参議官に移るとき、自分は其在職間の勤労を思い、御苦労でありし旨を述べし処、彼は、陛下より如此御言葉を賜りし以上、御親任あるものと見るべく、従て敢て自己に欠点ある次第にあらずと他へ漏らしありとのことを耳にせしが、真崎に万一之に類することありては迷惑なりと仰せらる」

 「繁は之に対し、真崎としては自己の主義主張を曲ぐることは出来ざるべきも、かりそめにも御言葉を自己の為に悪用するが如き不忠の言動を為すものには断じてあらざる旨を奉答せし処、陛下は、夫れならば結構なりと仰せられ、拝謁に際し、渡辺大将には御苦労であると仰せられ、真崎大将には在職中御苦労であったとの御言葉を給わりたり」

 「尚は、此日真崎大将は出来れば、御言葉を賜りし際、一言自己の立場を奉答したき旨武官長に漏らすところありしも、夫れは当の主任者なる大臣の奏上に対立することとなり、恐懼の次第なること又事件に引続き何事か奏上することは、其結果の如何なるものをもたらすかをも余程考慮すべきことなりと、真崎大将も能く諒解し右思ひ止まりたり」。

 以上が、天皇に対して新旧教育総監の参内拝謁の様子を記した「本庄日記」の内容である。

 「相沢中佐事件の真相」(菅原裕・経済往来社)によると、当時陸軍省整備局長であった皇道派の重鎮、山岡重厚中将の手記が残っており、「昭和十年八月一日夜林陸相との会談メモ」では、次のように記されている。

 山岡「真崎大将は何故に免ぜられたるや?」

 大臣「南、永田の工作にしてその他稲垣次郎中将(閑院宮別当)、鈴木荘六大将(前参謀総長)、植田謙吉、林弥乃吉中将等より総長宮に申し上げ、殿下は真崎の現役を免ぜよとの御意なりしも、総監を免ずるだけとせり」

 山岡「総長宮に対し、しからば私も大臣をやめましょうとて、大臣と真崎閣下と二人して後任大臣と総監を決定して申し上ぐること不可能なりしや?」

 大臣「(しばらく答うる能わず)……閣僚という地位もありて、そう簡単にはいかぬ」

 山岡「永田は如何?」

 大臣「即刻転職を必要とす。次官も永田をかえることを申し出たり。官僚と手を握るなどはなはだ不可なり。パンフレットは工藤の馬鹿が……」

 山岡「後任に今井は如何?」

 大臣「不可……今井が軍務で、橋本が次官は不可、今井と橋本は引き離すべく考えあり……。若山中将を新たに師団長たらしむべく両名に申し出たるも、予は前に真崎と相談し足ることもあり、断乎としてこれを排せり。元来今回の画策は、南と永田にて、南もっとも悪し。打ち切るを可とするも今は如何ともしがたし」

 山岡「今井が軍務として不可なれば山下(奉文)を可とせん。彼は土佐なれども元来東京なり。その妻君は永山氏の女なり。世上荒木系、真崎閥云々というもいずこに閥ありや?」

 大臣「しかり閥云々という者あるも、予もそうでもないと思う。予は林弥乃吉らの言は決して信ぜず、彼は不可なり。真崎は武藤元帥の児分にして、予もまたしかり。故に元来真崎と善し、いまさら宇垣、南に降参するをえず」

 山岡「大臣が将来更迭せらるる場合は、誰を押さるるや?安部大将なりや?」

 大臣「阿部なんか不可なり。寺内、川島らならん。荒木には困難なる事情あるべし」

395.真崎甚三郎陸軍大将(15)永田を陥れんがためひそかにそれを所持していた

2013年10月17日 | 真崎甚三郎陸軍大将
機密文書と断定してしまった以上、その出所を追及され、下手な答弁をすれば、軍法会議ものであった。真崎大将ほどの狡智にたけた男も、すっかり渡辺教育総監の智謀に引っかかってしまった。

 一座はシーンとして一言も発する者がいなかった。たまりかねて、荒木大将が次のように発言した。

 荒木大将「その書類は軍事課長室の機密文書を収蔵している金庫の中にあったものである。不穏なる文書なるが故に、陸軍大臣たる自分の許に届けられ、当時参謀次長たる真崎参議官に回付したもので、機密漏洩などもっての外のことだ」。

 渡辺教育総監「書類が真崎次長の許に回付された経路はそれで判ったが、その書類が教育総監が所持せねばならぬ書類であるか、さらに教育総監を辞めて参議官となった真崎大将が所持せねばならぬ書類かどうか、憶測をたくましゅうすれば、永田を陥れんがためひそかにそれを所持していたとも解せられぬことはない。この点について弁明があれば承ろう」。

 これで、真崎大将も荒木大将もグーの音も出なかった。鬼の首ならぬ永田軍務局長の首を取るつもりで出した書類が、どうやら両刃の刀で自らの首を斬りそうになってきた。

 阿部大将「渡辺総監の言われるところはもっともである。真崎参議官が今日までそういう書類を所持されていたことは、永田軍事課長が執筆した書類の処置を失念していたと同じ過誤であったと思われる。この書類に関する限り、この辺で打ち切り、同時に陸軍の手許に返還されては如何なものか」。

 この助け舟で真崎大将も荒木大将も生色を取り戻した。この論戦で肝を冷やされた皇道派の両勇士は、なおいろいろと林人事について、非難したが、もう勝負はついた。四時間の論戦は終わった。

 「本庄日記」(本庄繁・原書房)によると、当時侍従武官長・本庄繁大将の昭和十年七月十六日の日記に、真崎教育総監の強制的更迭に関して、天皇の思惑が次のように記してある。

 「十六日早朝、長距離電話にて菱刈、奈良大将等経験者の意見を聴き、又参考として侍従長の意見も伺いたる上、午前九時半頃拝謁を願い、教育総監の強制的更迭は事重大にして、三長官協議権の取極(大正二年七月勅裁を経)の価値を軽減するものなりとの懸念を抱かしむるものにして、軍の統帥みの関係するものなるが故に、閑院宮、梨本両元帥を御召し遊ばれ、右の御憂慮を尠名からしむよう善後策処置に務むべく御沙汰あらせらるるを宜しかるべく存ずる旨内奏す」

 「陛下は、之に対し事前ならばともかく、事後に於いて効果なかるべしと仰せられしも、陸相に於いて元帥の同意を経来れりとして内奏せる以上、事前の御下問は如何かと存ず又効果たとえ少しとするも、事の重大性を認められ充分其の善後の事にまで慎重に御処置遊ばされたりとせば、其一般に与える効果は相当之あるべく、不満のものも之を納得せしむるに便なるべしと申上げし処、夫れも、然らん。然らば可成早き方宜しと思はるるが故に速やかに参内する様取計へと御聞けらる」

 「尚は、此時、陛下は、林陸相は真崎大将が総監の位置に在りては統制が困難なること、昨年十月士官学校事件も真崎一派の策謀(恐らく事件軍法会議処理難を申せしならん乎、まさか士官学校候補生事件を指せしものにあらざるべし)なり」

 「尚は又三官衙の人事の衝に当たる課長は、悉く佐賀と土佐のもののみにて一般より此難多く、要するに真崎一派は少なく反対派は非常に多き実情に在りと話せり。其他、自分としても、真崎が参謀次長時代、熱河作戦、熱河より北支へ進出等、自分の意図に反して行動せしめたる場合、一旦責任上辞意を奉呈するならば、気持ちよろしきも其儘にては如何なるものかと思へり」

 「又内大臣に国防自主権に関する意見を認めて送りしが如き、甚だ非常識に想はる。武官長は左様に思はぬか」

 「自分の聞く多くの者は、皆真崎、荒木等を非難す。過般来対立意見の強固なりしことも、真崎、荒木等の意見に林陸相らが押されある結果とも想像せらる。旁々今回の総監更迭に関する陸相の人事奏上の如きも、余儀なき結果かと認めたり、と仰せられたり」

 「之に対し繁は大臣の言及風聞は必ずしも当たれりとは存じ兼ねるも、とにかく大臣の今回人事に対して採りし処置は、法理上は否定し難く、軍事参議官に諮詢さるることも将来に悪例を遺すべく、従て、元帥に於て御同意なりし以上、御裁可は当然と拝す」

 「只人事の協議に当り、大臣として三長官の一人が反対するからとて直ちに、之を除きて自己の同意のものを挙げて意の儘人事を運行し得るとせば、御勅裁を得たる三長官の協議権なるものは甚だしく価値を減ずることとなり、統帥部の長官に対しても同様なりとせば、軍部の或方面には之を大に遺憾とし、不満とするものを生ずるを恐るるが故に、両元帥を召され善後処置に尽くすべく御沙汰あらせられ、陛下の、御慎重なる態度に感激せしめらるることの必要なる旨を重ねて奉答せり」。

394.真崎甚三郎陸軍大将(14)それだけ悪いことをしているなら、何故君が陸相のとき罷免しなかったか

2013年10月10日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 渡辺教育総監「只今は永田軍務局長の行動を議題としているのではない。問題を紛糾させるためなら別だが、永田君のことはまた別に論議する機会があるだろう」。

 菱刈大将「そうかも知れぬが、その三月事件とやらいうのは、従来小耳にはさんだことはあるが、こういう席ではまだ聞いたことがない、ついでに事情を聞いてみてはどうか」。

 阿部大将「それは別の機会がよかろう」。

 真崎大将「陸相は永田と三月事件の関係は御承知のことと思うがどうか」。

 林陸相「荒木前陸相から何らの引継ぎも受けていないから知らぬ」。

 荒木大将「それでは申し上げる」。

 ここで荒木大将は、三月事件の性格から、宇垣、建川、二宮、小磯、大川周明のことなどを挙げて、永田もまたその一味として動いていることを、冗漫な口調で述べた。

 林陸相「只今のお話だけでは永田を罷めさせねばならぬほどの事実がよく諒解できない。殊にそれだけ悪いことをしているなら、何故君が陸相のとき罷免しなかったか、今頃になって持ち出されることはすこぶる迷惑だ」。

 これには荒木大将も一本参った。沈黙せざるを得なかった。

 林陸相「永田に非違があれば無論これを糺明するのは自分の責任であり、あるいは永田の責任といえども自分もまたこれを負わねばならぬこともある。抽象的な攻撃より具体的な事実を示されたい」。

 荒木大将「具体的に言えば永田は一日も現役に留まっておれないと思えばこそ抽象的に言ったのだが、御希望とあらば申し上げよう」。

 それを引き取って真崎大将が三月事件について、永田が起案したクーデターの原案を提出して、各参議官に回付した。右下がりの永田特有の文字、誰が見ても疑う余地がなかった。

 真崎大将は末席に控えている永田軍務局長を特に呼び寄せて、「これは貴官の執筆と思うが間違いはないか」と念を押した。一見した永田軍務局長が「その通りである」と答えた。

 真崎大将「これほど歴然たる証拠がある。三月事件は闇から闇に葬られているが、かような大それた計画を軍事課長(当時)自ら執筆起案しながら、時の当局者はこれを不問に付している。軍規の頽廃これよりもはなはだしいものがあろうか。その者をこともあろうに陸軍軍政の中枢部たる、軍務局長の席につかせているとは何事であるか」。

 それまで三月事件の真相については、林陸相をはじめ列席の参議官は、知らない者が多かった。わずかに杉山参謀次長が、陸軍次官として知っているだけだった。

 いわんや永田の起案になる計画書の本物は杉山次長すらも見ていなかった。これは、小磯軍務局長が一見した上、宇垣にも見せないですぐ永田に返し、永田軍治課長は金庫に収蔵したまま、山下に事務引継ぎのときにはすっかり失念していたものだった。

 林陸相はさすがに驚いた。永田軍務局長は釈明を求められれば、何時でも応答する気構えでいささかも困惑の色を見せていなかった。

 このとき、林陸相が何か言おうとするのを押さえて、渡辺教育総監が立ち上がって、次のように言った。

 渡辺教育総監「只今の書類は、確かに穏やかならざることが書いてある。しかも書いた者は永田であることも間違いはない。けれどもこれは永田個人の策案で、陸軍として責任を負うべき書類ではないように思うがその点は如何なものか」。

 真崎大将「なるほど正式の書類ならば、局長、次官、大臣の決裁がなければならぬという渡辺総監の意図のようであるが、普通の書類とは違う非合法なるクーデター計画ですぞ、大臣、次官の決裁印がなくても、実質はりっぱな公文書である」。

 渡辺教育総監「自分は単なる私文書と思ったが、真崎参議官の見解では公文書、軍の機密文書だとの御意見、列席の諸官は果たして同認められるか」。

 渡辺教育総監は巧みに各参議官の見解を知ろうとした。だが誰も発言するものはいなかった。そこで、荒木大将が次のように発言した。

 荒木大将「念を押すまでもなくこれは立派な軍の機密書類である」。

 渡辺教育総監「宜しい。一歩を譲って機密公文書と認めよう。それならばお尋ねするが、軍の機密文書を一参議官が持っていられるのはどういう次第であるか。機密書類の保存はきわめて大切なことである。これが一部でも外部に洩れたとすれば、軍機漏洩になる。真崎参議官はどうして持参せられたか、御返答によっては所要の手続きをとらねばならぬ」。

393.真崎甚三郎陸軍大将(13)陸相が独断で罷免したことは統帥権の干犯ではないか

2013年10月03日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 陸相官邸で開かれた、この軍事参議官会同に参集した参議官は、荒木貞夫大将、阿部信行大将、川島義之大将、菱刈隆大将だった。

 それに、松井石根(まつい・いわね)大将(愛知・陸士九次席・陸大一八首席・歩兵第三九連隊長・少将・歩兵第35旅団長・参謀本部第二部長・中将・第一一師団長・ジュネーブ軍縮会議全権委員・台湾軍司令官・大将・上海派遣軍司令官・中支那方面軍司令官・死刑)と、新参議官の真崎甚三郎大将も出席した。

 省部から出席したのは、陸軍大臣・林銑十郎大将、新教育総監・渡辺錠太郎大将、参謀総長代理として参謀次長・杉山元中将、軍務局長・永田鉄山少将らだった。

 だが、この会議では、期せずして、さきの三長官会同の延長戦が行われたのである。この会議の模様は、「順逆の昭和史」(高宮太平・原書房)によると、次の通り。

 最初、林陸相が普通の挨拶をし、渡辺大将から教育総監就任の言葉が述べられた。次に真崎大将が教育総監更迭の経緯を真崎流に解釈して、林陸相の措置を非難した。

 林陸相は蒼白な顔をして聞いていたが、別にこれを反駁しようとしなかった。そうすると、荒木大将が立ち上がって、次のように述べ正面きって挑戦してきた。

 「只今、真崎大将の話を聞くと陸相の措置ははなはだ失当で、統帥権干犯のおそれもあるように思われる。この点、陸相の明快なる答弁を願いたい」。

 そう言われると、林陸相も黙っているわけにゆかぬから、経緯報告をして、真崎大将の陳述が事実と相違せることを詳細に述べた。

 すると荒木大将は再び立ち上がり、林陸相に対して再反論した。以後、軍事参議官会同では、次のような、熾烈な議論が展開した。

 荒木大将「陸相は真崎大将の陳述は事実と違うとのことであるが、将官の人事については三長官協議の上決定することに陸軍省と参謀本部の間に協定があり、その協定は上奏御裁可を得ているものである。それを無視して真崎大将の承諾しないものを、陸相が独断で罷免したことは統帥権の干犯ではないか」。

 林陸相「独断ではない、参謀総長宮殿下の御同意を得ている」。

 阿部大将「その協定は御裁可を仰いだものではないと聞いている。いわゆる上げ置き上奏で、陛下に奏上しただけのものではないか」。

 渡辺教育総監「その問題は山縣公が非常に心配されて、そういう協定をして将来過ちないようにしたもので、只今阿部大将の言われる通り、上げ置き上奏となっている」。

 林陸相「これについては陸軍省でも参謀本部でも研究した結果、教育総監が辞任を肯じないときは、陸相、参謀総長合議の上辞任させて差し支えないという結論を得ている」。

 荒木大将「杉山次長、果たしてその通りであるか」。

 杉山次長「左様であります」。

 菱刈大将「理屈はそうでもあろうが、ただ何となく陸相の執られた措置は穏当を欠いたように思われる」。

 林陸相「こういうことになったのは私の不徳の致すところである。しかしこれ以外に執るべき手段がなかったから、その点は御了承を願いたい」。

 荒木大将「陸相は軍の統制云々と言われ、真崎大将がその統制をみだしたようなお話しであるが、それはそもそもどういうことであるか」。

 林陸相「真崎大将は派閥的行動があり、それが軍の統制上すこぶる面白くない影響を与えている」。

 松井大将「派閥は確かにある。それはかねて自分も面白くないと思っていた」。

 川島大将「自分もその点は松井大将と同感である」。

 真崎大将「派閥とか何とか言われるが、それなら、永田軍務局長はどうであるか、永田は宇垣陸相のとき三月事件に関与し、陸軍の統制を乱したのみならず、その後の行動は永田こそ派閥的行動をしている張本人ではないか、こういう者を側近に置いて、自分らを責めるのは順逆を誤ってはいないか」。