陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

279.今村均陸軍大将(19)明朝八時に貴官の放送が聞かれなかったら、攻撃をただちに再開します

2011年07月29日 | 今村均陸軍大将
 今村中将はさらに厳しく言葉を次の様に続けた。

 「無条件降伏か、戦争の続行か、いずれか一つです。今から十分間、熟考の時間を与えます。その間に協議の上、決心されることを求めます」。

 日本側全員が退室した。そして十分後に元の席に戻った今村中将に促されて、ボールテン中将は低い声で言った・

 「停戦いたします」。

 そこで今村中将は次のように通告した。

 「では私は、あなたが次の処置を取られるなら、全面的無条件降伏の意思を表明されたものとして、停戦条約を結ぶことにいたします。第一は、明朝八時、バンドン放送からあなた自身が蘭印全諸島にむけ『午前八時以降、日本軍に対する戦闘をすべて停止し、各地ごとに、そこに向かっている日本軍に対し無条件降伏をすべし』と放送すること」

 「第二は、あなた自身が、降伏する将兵、兵器、軍需諸品を明記した表を持って、明日午後一時までに再びここに来ること。以上の二つです」。

 さらにバンドン要塞に帰るボールテン中将に向かって、今村中将は次の様に言った。

 「念のため申しておきますが、明朝八時に貴官の放送が聞かれなかったら、攻撃をただちに再開します」。

 今村中将は、自動車に乗ったオランダ側六人への目隠しをやめさせた。続々と到着してくる第二師団の情況や、爆弾を装備して待機中の多数の飛行機を見せることが、彼らの停戦意思をぐらつかせないことに役立つと考えたからである。

 昭和十七年三月九日午前八時、ボールテン軍司令官の全蘭印軍に対する停戦と無条件降伏との命令が放送された。今村中将ら第十六軍司令部は三月十二日首都バタビアに移った。

 日本軍の占領後間もなく、第十六軍の軍政部はインドネシア民衆の崇拝の的であるスカルノをスマトラの獄から出獄させた。スカルノ支援は軍政上有利と考えたのだ。

 スカルノは、後にインドネシア共和国の初代大統領に就任した人物である。ちなみに現在、テレビタレントのデヴィ夫人はスカルノ大統領の第三夫人だった。

 昭和十七年五月、今村中将は軍政部の中山寧人大佐(陸士三三・陸大四一恩賜・後の少将)と通訳を同席させて、初めてスカルノと会った。

 今村中将はスカルノに次の様に穏やかに言った。

 「スカルノさん、私はあなたの経歴を知っていますから『こうしなさい』などと命令はしません。意に添わないことはやらない人だと、わかっていますから…」

 「また、戦争終結後インドネシアがどのような状態になるか、についても、私は何も言いません。それは日本政府とこの国の指導階級とが協議決定するもので、私の権限外のことですから」

 「私が今、インドネシアの人々に公然の約束できるのは、私の行う軍政により、蘭印政権時代の政治よりも、よりよい政治介入と、福祉の招来だけです。あなたが私の軍に協力するか、中立的立場をとるか、どちらでもあなたの自由です」

 「しかし、もしあなたが日本軍の作戦行動や軍政の妨害をされるなら、戦争終結までは自由行動を許しません。その場合も、オランダ官憲がやったような投獄などはしないつもりです。よく同志の人々と相談して今後の態度を決め、中山大佐を介して私に知らせてください」。

 四、五日後、スカルノから返事が来た。それは、次の様な内容であった。

 「今村将軍のお言葉を信じ、私と同志とは日本軍政に協力します。しかし戦争終結後の私の行動の自由は捨てないことを、言明しておきます」。

 早速、スカルノの軍政協力を具体化するため、スカルノと中山大佐の協議で、一機関を設け、それに必要な費用その他一切を軍が提供することになった。

 その後、スカルノはたびたび今村中将を訪問して誠実に協力を果たし、今村中将もまた、先に約束したインドネシア民衆の福祉増進に努力し、現地人の官吏登用、日本人とインドネシア人との行政諮問院の設置などを実現した。

 ある日、スカルノはインドネシア第一の洋画家を連れて今村中将を訪問し、その日から今村中将の肖像画の制作が始まった。

 その後二人はいつも一緒にやってきて、洋画家が絵筆を走らせる間、今村中将とスカルノは歓談した。この肖像画は現在も今村家の客間に飾ってある。

278.今村均陸軍大将(18)ボールテン将軍!あなたは総督の不同意にもかかわらず降伏しますか

2011年07月22日 | 今村均陸軍大将
 今村中将の頭の回転は早かった。彼は即座に命令を口述させ、東海林大佐宛命令電報を次の様に発信した。

 「貴官は日本軍司令官の回答として次の如く伝えよ。蘭印総督と蘭印軍司令官とは、所要の幕僚を伴い、八日午後二時、カリジャチ飛行場に来り、日本軍司令官と会見の上、直接停戦を申し入れるにおいては、その場に於いて諾否を回答する」。

 今村中将はこのあとに、彼らの安全は保障するという一項を加えた。

 次に今村中将は第二師団長・丸山政男中将(陸士二三・陸大三一)に次の様な命令電報を発信した。

 「敵は戦意を喪失し、停戦を提議せんとしあり。この機に乗じ、特に我が方の戦意を誇示する必要大なり。貴師団は万難を排し、一刻も速やかに、東海林部隊の突破口方面に進出すべし」。

 このとき今村中将は、敵の停戦申し入れに疑いを抱いていた。それは次の様なものであった。

 「バンドン要塞だけでも五万、ジャワ島全体では十万の集結兵力を持っている敵軍司令官が、なぜ約四万の日本軍に対し戦意を喪失したのか。ひょっとすると、敵の軍使は、日本軍の兵力を偵察する目的で来たのかもしれない……」。

 今村中将がとっさに第二師団と軍司令部の急進を決意したのは、「弱勢な東海林支隊の兵力を知られ、敵の戦意を強めてはならない」と考えたためである。

 後に停戦後に分かったことだが、オランダ軍司令官が停戦を申し入れた第一の理由は、日本軍の上陸兵力を約二十万と誤認したことであった。

 さらに、東海林支隊が独力でバンドン要塞の本防衛線まで進撃したとき、日本軍司令官が直接指揮し大軍が攻撃してきたのだろうと観測、統一指揮の困難な、蘭・米・英・豪の連合軍では、とても勝ち目はないと判断したことだ。

 軍司令官・今村中将、参謀長・岡崎清三郎少将(陸士二六・陸大三三・後の中将)、参謀ら第十六軍司令部首脳は三月八日午後二時半、カリジャチ飛行場に到着した。

 すでにチャルダ蘭印総督、ボールテン在ジャワ連合軍司令官らオランダ側六人はすでに待機していて会談は直ちに始められた。

 まず、今村中将がボールテン中将に向かって停戦の意志をただした。

 ボールテン中将は、それを認めて、「これ以上の戦争の惨害を避けたいためです」と答えた。

 次いで今村中将はチャルダ総督へ視線を向け「総督は無条件降伏をしますか」と訊いた。

 すると、チャルダ総督は「私は停戦の意志を持っていません」ときっぱり答えた。

 今村中将「停戦の意志がないなら、なぜあなたはボールテン軍司令官の停戦申し入れを禁じなかったのですか。総督はオランダ憲法により、蘭印における全陸軍を指揮する統帥権を持っているはずですが」。

 チャルダ総督「戦争勃発前は、確かに私が統帥権を持っていました。だが、英軍のウエーベル大将がここの連合軍総司令官となり、統帥権も私から彼に移されてしまいました」。

 ウエーベル大将は日本軍の上陸後間もなく、飛行機でインドへ逃げ、あとに残された英・米・豪軍はボールテン蘭軍司令官の命令に服さず、全般の作戦がやりにくくしていた。これも、ボールテン中将が戦意を喪失した理由の一つだった。

 やがてチャルダ総督は「私は蘭印の民政について協議するために来たのですが、軍事的なことだけの会談なら、退場を望みます」といい、今村中将の同意を得て、庭に出た。今村中将は「敵ながら、あっぱれ」と記している。

 今村中将は再びボールテン中将に向かって「ボールテン将軍! あなたは総督の不同意にもかかわらず、降伏しますか」。

 ボールテン中将「バンドン地区だけの停戦です。もはやすべての通信手段がなくなり、私の命令で停戦できるのはバンドンだけなのです」。

 今村中将「この飛行場にある日本軍の無線通信機は、蘭印軍相互間の通信を傍受しており、バンドン放送局の今朝の放送も聴取しています。全蘭印地域の貴方の部下軍隊に停戦を命ずることは可能のはずです。日本軍はバンドンだけでなく、全蘭印軍の全面的無条件降伏を要求します」。

 オランダ側は無言だった。

277.今村均陸軍大将(17)私はこれを取り押さえ、軍司令部に送り届ける決意をしております

2011年07月15日 | 今村均陸軍大将
 昭和十三年十一月末、今村均中将は第五師団(広島編成・当時南支那駐屯)の師団長に親補された。

 昭和十四年九月初め、「第五師団は関東軍司令官の指揮に入るべし」との命令が発せられた。第五師団の満州派遣は、北満と外蒙古との境界付近に生じた日ソ両軍の衝突(五月四日)によるものであった。ノモンハン事件である。

 関東軍司令部は七万五千の兵力を集めて戦闘体制を整えた。今村中将の師団が満州へ派遣されたのもそのためである。

 大連から新京に飛んだ今村中将は、関東軍司令部の梅津美治郎軍司令官の許へ行った。梅津司令官は二日前に植田謙吉大将の後任として関東軍司令官に着任したばかりだった。

 梅津軍司令官は「第五師団はご苦労です」と今村中将に言った。そして静かな口調で次の様に語った。

 「関東軍参謀たちはまだ満州事変当時の気風を残していたものか、こんな不準備のうちにソ連軍に応じてしまい、関東軍外の君の師団までわずらわす結果となってしまった」

 「今、モスクワで重光中ソ大使が停戦の折衝中で、これが成功すればよいが、万一ソ連がこれに応じない場合は断固応戦の決意を示すことが、ソ連を自重させ、停戦協定を結ぶ結果となろう。第五師団は敵に大打撃を与えるよう、速やかに戦闘体制を整えられたい」。

 今村中将は「私の師団の戦闘加入により、敵に停戦決意を起こさせるよう奮闘いたします」ときっぱり言い切った後、次の様に言葉を続けた。

 「先遣したわが師団参謀の言によりますと、『関東軍参謀が第一線または師団の責任指揮官をさしおき、部隊に直接攻撃を命じたり、叱咤したりして、多くの損害を出している』と、前線の責任者は憤慨しているとのことであります」

 「もし私の師団に対してもそのようなことをやりましたなら、私はこれを取り押さえ、軍司令部に送り届ける決意をしております。この点、あらかじめご了承願います」。

 今村中将のこの申し出を、梅津軍司令官はこころよく受け入れた。この参謀は辻政信少佐(陸士三六首席・陸大四三恩賜・後の大佐・戦後衆議院議員)といわれている。

 今村中将はチチハルに飛んだ。ここで彼は次々に到着する戦闘部隊に指示を出し、戦闘準備を整えた。その後、九月十六日に梅津軍司令官から電報が届いた。「日ソ停戦協定成立」。

 中央に帰り教育総監部本部長を務めた後、昭和十六年六月二十八日、今村中将は第二十三軍司令官に親補された。五十五歳だった。

 昭和十六年十月十六日、第三次近衛内閣が総辞職し、十八日、東條英機内閣が成立し、首相は内相、陸相を兼任した。

 それから三週間後の十一月六日、広東にいた今村中将のもとに「貴官は今般、第十六軍司令官に親補せらる」という陸軍大臣電が届いた。

 昭和十六年十二月八日、日本海軍の真珠湾攻撃が行われ、太平洋戦争が開戦した。今村中将の第十六軍は蘭印(オランダ領インド・現在のインドネシア)のジャワ攻略作戦に当てられた。

 蘭印は十七世紀から約三百年に渡り、オランダが植民地として支配してきた。日本の大本営は、その蘭印の豊富な石油資源の獲得を目的にジャワ攻略戦(蘭印作戦)を起案した。

 昭和十七年二月二十八日、今村中将の指揮する第十六軍の輸送船団はスマトラ島の東に位置するジャワ島に到着した。翌三月一日、ジャワ島西部のバンタン湾から上陸を開始した。

 だが、上陸作戦中、今村中将の乗船していた輸送船「龍城丸」は敵の魚雷艇に攻撃され、撃沈された。今村中将は海に放り出され、泳いでいたが、材木につかまり、やがて発動艇に救助され、無事上陸した。

 今村中将より早く上陸した第二師団の諸部隊は東方十六、七キロのセラン市に向かって進撃を開始した。その後、三月六日にはジャワ島西部の首都バタビア(後のジャカルタ)を占領した。

 三月七日朝、今村中将はバンドン要塞攻撃の指揮をとるためセラン市を出発、午後四時頃、バタビア南部に着き、無人のオランダ軍兵営に入った。

 だが翌八日午前零時半、攻撃中の前線の支隊長・東海林俊成大佐(陸士二四・後の少将)から「敵の軍使が現れ『オランダ軍最高司令官・ボールテン中将は日本軍最高指揮官に対し、停戦申し入れの意志を持っていることを伝達されたい』と申し出があった」と電報が今村中将に届いた。

276.今村均陸軍大将(16)中央の若い参謀たちをけしかけさせるに至っては、言語道断です

2011年07月08日 | 今村均陸軍大将
 やがて、今村少将は梅津次官に対して次の様に言った。

 「お教えはよくわかりました。陸軍の統制を破らないよう、最善の努力をいたします。ただ、現に配置してあります特務機関は、赤化と蒋介石の策謀を探知する任務に限り、また徳王支持も精神的な面は、お認め願いたいと存じます。もちろんこれらについても、ソ連と事を構えることにならぬよう十分注意いたし、中央、特に国家に累を及ぼすことはいたしません」。

 こうして、関東軍の幕僚たちに『梅津次官にかわいがられている今村がいけば』と大いに期待され、押し出されてきた今村少将は、何の収穫もなく帰途に着いた。

 昭和十二年七月七日、北京郊外の盧溝橋付近で夜間演習中の日本軍と中国軍が衝突した。支那事変の勃発である。

 関東軍参謀副長・今村均少将は、関東軍司令官・植田謙吉大将(陸士一〇・陸大二一・戦後日本郷友連盟会長)から、「支那事変に対する関東軍の対策意見書を参謀本部に提出、説明せよ」と命ぜられ、東京へ飛んだ。その意見書の内容は次の様なものであった。

 「天津北京付近に生じた日支両軍の衝突は、速やかに処断しなければ、事変は支那全土に拡がるであろう。なんとしても、中支南支に波及せしめてはならない。ついては、事変を北支五省の範囲内でくいとめるための兵力派遣が準備されなければならない」。

 参謀本部に出頭した今村少将は、予想外の空気に驚いた。石原莞爾作戦部長(陸士二一・陸大三〇恩賜・後の中将)は「日本は満州だけを固めるべきだ」と主張し、戦争拡大の危険を説くが、河辺虎四郎大佐(陸士二四・陸大三三恩賜・後の中将・参謀次長)以下数人がそれを指示するだけだった。

 他の幕僚は、石原作戦部長の主張にそっぽを向いていた。かつての拡大実行者、石原作戦部長の強調する不拡大主義は、宙に浮いていた。

 河辺大佐は満州事変勃発当時、今村少将の下で作戦班長を務め、四面楚歌の今村を強く支持した部下であった。その河辺大佐が今村少将に単独会見を申し入れ、次の様に言った。

 「率直に申します。私は周囲がどれほど不拡大方針に反対しても、驚きません。が、満州事変当時『軍は軍紀によって成る』と説き、出先軍を中央の意思に従わせようと苦心したあなたが、いかに関東軍司令官の意図によるものとはいえ、現在の石原部長の不拡大方針に反する意見書を持参し、部長を苦しめるとは…、大いに遺憾であります」

 「しかも、富永恭次大佐(陸士二五・陸大三五・後の中将)や田中隆吉中佐(陸士二六・陸大三四・後の少将)のような向こう見ずな連中を連れてきて、中央の若い参謀たちをけしかけさせるに至っては、言語道断です」。

 今村少将は素直に、かつての部下の苦言に頭を垂れた。そして次の様に言った。

 「河辺君! 君の言う通りだ。私は軍司令官の命令で新京から来た以上、意見書は提出しなければならない。だが、私の口からは何も言わず、ただ提出だけにする」

 「ただ一言、君にいいたいのは、富永、田中の二人は私が指定して連れてきたのではなく、東條(英機)参謀長(陸士一七・陸大二七・陸軍大臣・首相)の指令で東京に来ているのだ。私はこの二人に、中央の参謀をけしかけろなどと示唆したことはない。……新京に帰ったら、中央の指令に従いその統制に服するように、軍司令官を補佐する」。

 今村少将は、石原作戦部長に会ったが、「関東軍の意見書は、庶務課長に渡しておきました」と述べただけで、一言の説明もせず、「事変の勃発でご苦心のことでしょう。どうか健康に留意してくれ給え」と、いたわりの言葉をかけて別れた。そして、富永、田中の二人を促し、早々に新京に帰った。

 支那事変に対する関東軍の意見書を提出して東京から新京に帰った今村少将は、その数日後に「陸軍歩兵学校幹事に補職」の通知を受けて、帰国した。昭和十二年八月のことである。

 昭和十三年一月、今村少将は阿南惟幾少将(陸士一八・陸大三〇・後の大将・陸軍大臣)の後任として、陸軍省兵務局長に就任し、三月に陸軍中将に昇進した。

 同じ十三年六月には板垣征四郎中将(陸士一六・陸大二八・後の大将)が陸軍大臣になった。だが、今村中将は板垣中将を陸相に推す一派の運動を知ったときから、その不成功を願っていた。

 板垣中将が大度量につけこまれ、晩節を汚すことになりはしないかと怖れたのだ。

 新大臣の板垣中将は少佐時代の一年間を参謀本部に勤務しただけで、中央の勝手がよくわからず、何かにつけて兵務局長の今村中将を呼び、「これはどうすればよいのか」と、昔のままの率直さで訊ねた。

275.今村均陸軍大将(15)遂に君も”満化“し、かつての石原の後を追おうとしている

2011年07月01日 | 今村均陸軍大将
 ところで、当時の満州国を囲む周囲の情勢について、今村少将は次の様に書いている、

 「外蒙を掌中に収めたソ連はここを拠点とし、赤化宣伝謀略の手を、内蒙経由、南方支那本土と東方満州国とに延ばしかけ、それに蒋介石政権までが、この方面から何かと満州国に工作しようと策謀を続ける」。

 内蒙工作のいきさつについて、田中隆吉参謀は着任後まだ日の浅い今村少将に次の様に説明した。

 「関東軍司令部はソ連と蒋介石政権の動きに備えるため、内蒙の徳王に兵器、弾薬、その他の物資を融通して約一万の内蒙人軍隊を建設させ、その協力の下に諜報機関員を配置している」

 「しかし関東軍が熱心に推し進める内蒙工作は、作戦部長・石原莞爾少将(陸士二一・陸大三〇恩賜・後の中将)の反対で中央からの援助が得られず、関東軍は北支那駐屯軍に協力を求め、日本品貿易に課税して政治資金を得ている冀東地区の殷政権を保護して、そこから徳王への財的援助をさせている」。

 だが、その後に殷政権の財政が急速に悪化して、関東軍の内蒙工作は重大な影響を受けることになった。今村少将もその渦中に巻き込まれた。今村少将は次の様に述べている。

 「既に冀東財政が窮乏を来たした以上、内蒙古援助は物心両面とも、いっさい関東軍自身で行うことが必要となった。そのため私は軍参謀長の意図を受け、陸軍省の諒解、とくにこの際、三百万円の内蒙工作費の配当を懇請するため、東上するの已む無きに至った」。

 内蒙工作は参謀本部の石原作戦部長に反対されたため、軍司令部内でも秘密にして板垣参謀長の全責任ですすめてきたものである。

 その危機にあたって、板垣参謀長自身が東京へ行かず、今村少将に代理を努めさせたのか、その理由を今村少将は次の様に述べている。

 「次官は梅津美治郎中将(陸士一五・陸大二三首席・後の大将・参謀総長)。私が中尉時代、陸大入学試験の際、直接指導を受け、また満州事件当時は共に参謀本部にあって心労をわかちあい、私の公的人事はいつもこの中将の配慮を受けており、板垣中将同様、師弟関係に近いことを知っていた周囲の人々は、私に説かせれば、梅津次官は諒解を与えるかも知れないとの思惑から、私の東上を欲したものである」。

 東京に着いた今村少将は、陸軍省の次官室で、梅津次官と人をまじえず会談した。今村少将は関東軍を代表して、内蒙工作の必要とその現状を語り、三百万円の即時入用を説いた。無言でそれを聞き終わった梅津次官は、厳しい表情で反問に移った。

 「既に中央は、大局上の判断から内蒙工作は不可なりと観察して、総長、大臣の意図を石原作戦部長をして伝えしめたにもかかわらず、それを中止せず、今もなお続けている理由は?」

 これに対して今村少将は次の様に答えた。

 「軍司令官は満州国建設上、内蒙方面からするソ連の赤化工作と、蒋介石政権策謀とに対処するため、内蒙工作はどうしてもやめ得ないと判断されております」。

 梅津次官はさらに、中央の代表として新京に派遣された石原作戦部長に対する、関東軍幕僚たちの礼を失した態度をなじった。

 石原作戦部長は中央の内蒙工作反対および戦線拡大反対の意思を伝え、関東軍をそれに従わせるため新京に乗り込んだ。

 だが、現地の参謀たちは「かつて、あなたは中央の意思にそむいて満州事変を拡大し、大成功したではないか。今我々はそれと同じことをやっているのだ」と言い、反発した。

 今村少将は、梅津次官の叱責に対し、関東軍を代表して詫びた。しかし、今村は「私は中央の派遣使節の人選が、当を得ていなかったと思います」と付け加えた。

 梅津次官はなお、二、三の厳しい質問を関東軍参謀副長としての今村少将に向けた後に、最後に語調を変えて、今村少将個人に次の様に語りかけた。

 「今はすべてをぶちまけて、君に言っておかねばならん。関東軍参謀長であった西尾寿造中将が参謀次長に転出、そのあとは板垣と決まったとき、副長は誰がよかろう……と僕は西尾中将と相談した。満州事変当時のような、専断のふるまいをする関東軍の悪傾向はかなり矯正されたものの、まだ根絶には至っていない」

 「結局、満州事変当時、中央の作戦課長として僕らと共に、関東軍の統制無視に苦汁を飲まされた君なら、この悪風根絶に努力するだろう…、ということになり、君を今の地位に据えたのだ。つい先ごろまで、満州から伝わる君の悪評と、その悪評の原因とを知るたびに、僕は君をあの位置に据えてよかった…と喜んでいたのだ」

 「それが、中央は反対だと知りながら、内蒙工作に同意するとは…。僕は、個人としては、君の今日の説明がわからないことはない。赤化工作と蒋介石の策謀に対する心配はもっともであり、ソ連との間に衝突を起こさないようにという特務機関の配置も肯定できる」

 「しかし、何よりも大切なことは、五年前に君が力説した『軍の統制に服する軍紀の刷新』なのだ。遂に君も”満化“し、かつての石原の後を追おうとしている……」。

 今村を見つめる梅津次官の目が、うるんでいた。その言葉に打たれた今村は、うなだれるばかりであった。