陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

727.野村吉三郎海軍大将(27)政治家に信念を持つ傑物が居たら軍部に引きずり廻されることなどあろうはずがない

2020年02月28日 | 野村吉三郎海軍大将
 次に、野村吉三郎は、パリ講和会議の光景と、三大国巨頭について、自身が見聞した興味ある回想を次のように語っている。

 私が今日でも忘れることの出来ないのはヴェルサイユ宮殿“鏡の間”における平和条約調印式の光景である。

 式場に憤然として現れたドイツ全権の姿は恰も屠所の羊の如く、一語も発せず黙々として調印する様子は、まことに敗者の悲哀をそぞろに催わせるものがあった。

 それにつけても当時のドイツに鉄血宰相ビスマークのような傑れた人物の居なかったことが悲劇を更に大きくしたものと思う。

 それから私の最も興味を惹いたのは三巨頭(Big three)である。そのうちのウィルソンは在米中も時々演説を開いて居た。

 態度は荘重であったが所謂雄弁家という方ではなかった。その政治思想はリンカーンの“人民に依る人民の為の政治”(Government of the People by the people for the people)の信奉者であることは勿論だが、殊にリーダーシップ、即ち水先案内として国民の納得を得ること(With consent of the governed)に努力を傾けていた。

 大戦に際してはよくリーダーシップをとり、アメリカの参戦後は徴兵制を布き二百万の大兵を欧州に送り、軍艦、商船、飛行機を驚くべきスピードで而も多量に建造、勿ち産業を戦時体制に動員するとともに、敢然として食糧を統制し、ついには旅行までも規制するなど物心両面に亘り思い切った政策を採ったことは、駐米武官当時の話の中でも既に触れたが、講和会議に臨んでは国際連盟を起案して世界人類の共同繁栄を真剣に考えるなど、理想主義者としての彼らしい在り方であったと思う。

 忙しい委員会の合間を見ては出来る限り三巨頭会談に出て傍聴したが、ウィルソンは其処でもやはりアメリカ大統領の貫禄を充分に発揮していた。

 次にフランスのクレマンソーは議長であったが、国家を代表してこうした重大な場に臨んだ彼の言動は全く“虎”と呼ばれるに相応しい巨人ぶりだった。

 殊に議場の整理、駆け引きに至っては堂に入ったもので古強者の感を深くさせられたのである。あの老齢でありながらエネルギッシュな点では壮者を凌ぎ、会議期間中に拳銃で狙撃されて負傷したが、数日間を休養しただけで全快を待たずに出席するという元気さで一同を驚かせた。

 一国の運命を左右する重大時機であり、首相・全権としては当然といえばそれまでだが、強烈な国家国民への責任感の発露であると私は見たのである。

 軍の意見を代表するフォッシュ元帥などの強硬主張を押さえていたようだった。あれを思い出す時、政治家に信念を持つ傑物が居たら軍部に引きずり廻されることなどあろうはずがないと、今更のように感慨無量である。

 戦勝の偉勲に輝く連合軍総司令官のフォッシュ元帥すら、押さえるべきところは押さえつけるクレマンソーのことだから、ウィルソンに対しても決して屈して居なかった。

 ウィルソンが立って雑談をしていると槌を叩いてたしなめ、静粛を求める場面などもあった。

 それからイギリスのロイド・ジョージは第一番の雄弁家で、その演説は実に堂々たるものだと感心した。

 前首相で外相のバルフォアはそれと対照的に静かに側に居たが、首相不在の時はこの人が充分に代理を勤めていた。

 ロイド・ジョージはフォッシュ元帥の主張に反対する場合など諄々と説得するに当り、驚くばかりの軍事知識を持っていることが窺われた。

 その広い知識の上に立ち高い見地から、問題を飽く迄も政治的に解決するところなど、さすがに大英国首相の大器だと思われた。

 この第宰相がパリの街を腹心のハンケー氏を伴い、鞄を提げて悠然とホテルへ帰って行く姿を見受けたこともある。

 あの頃のビッグ・スリーの政治家としての在り方を見ても、政治家は時流を遙かに達観して一世を指導し、最終的に国民の納得を取り付ける見識が必要であると思う。

 近視眼的に何でも彼でも議論を手探りして処理していては時には方向を誤り、多くの場合は時機を逸して船は方向を失ってしまうのである。







726.野村吉三郎海軍大将(26)若い連中は冗談に「牧野さんはずるいな」とか「流石は慎重だな」と話し合った

2020年02月21日 | 野村吉三郎海軍大将
 次に、各界からの出席者は、次の通り。

 立作太郎(東京・東京帝国大学法科大学政治学科卒・東京帝国大学教授・東京帝国大学名誉教授・昭和十八年五月十三日死去・享年六十九歳)。

 近藤廉平(徳島・慶應義塾・大学南校卒・日本郵船社長・男爵・貴族院議員・大正十年二月九日死去・享年七十三歳)。

 深井英五(群馬・同志社英学校普通科卒・日本銀行理事・日本銀行総裁・貴族院議員・枢密顧問官・昭和二十年十月二十一日死去・享年七十三歳)、

 喜多又蔵(奈良・市立大阪商業学校卒・日本綿花社長・鈴政式織機社長・昭和七年一月三十一日死去・享年五十五歳)。

 その他、福井菊三郎(三井合名会社理事)などが出席している。

 野村吉三郎大佐は、パリ講和会議(ヴェルサイユ宮殿で調印式=ヴェルサイユ条約)では、海軍委員として竹下勇中将を扶け重要な役割を果たすとともに、世界の巨頭を集めた会議全般の模様を、つぶさに見聞して大いに得るところがあった。

 野村吉三郎は、後に当時を回想して、全権や出席者の人物像について次の様に語っている。

 初めて世界的な舞台に端役ながら登場することが出来たので、私としては渾身の力を傾けて働いた心境である。

 毎日が多忙をきわめる仕事の連続であったが、それでも偶々休養の一日を得ると年齢からいっても同輩格の吉田、松岡、有田等の外務省の連中や、陸海軍の同僚委員達が集まって大いに世界政局を論じ、また戦後の日本の国際的地位に就いて談論風発したが、時には花のパリでのお上り気分も大いに味わったものである。

 こういう会議に一国を代表して出張しているとお互いに親近感を増すもので、後年には立場や考え方を異にした者もあるが、いずれもが胸襟を開いて語り合い共鳴するところも多かった。

 吉田君にしろ松岡君にしろ乃至は畑君にしろ誰もが、その頃は躍進日本の将来を背負う者としての誇りを持ち、国家の将来に就いて相通ずる意見を抱いていた。

 ところがその所信も、その後に続く永い時代の浪に揉まれ変化して行ったのも已むを得ないことである。

 今、私の脳裏に蘇るものは首相吉田茂、元帥畑俊六、乃至は外相松岡洋介、重光葵ではなくして、これらの人々の少壮有為の鋭気に溢れた、その頃の面影である。

 全権のうちでは流石に西園寺侯は元老の貫禄充分であった。日本内地でも新聞などが侯の乗船に味噌から醤油まで日本料理の材料を積み込み、料理人として大阪“灘万”の主人公や例のお花さんまで、わざわざ随行させたことを書き立てたので、大名行列と言う評判が高かったようだが、随員のなかにも冗談半分に侯の大名行列の費用を云々した者があった。

 それがまた何時の間にか侯の耳に入っていたと見えて、随員一同と会食した席上で老侯は何気なく、「ワシの出張費用も贅沢に関する部分は自分持ちだ」という意味のことをチクリと言われたので、陰口を利いた男は兜を脱いでしまったものだ。

 何といっても住友が後に控えているのだから、政府の出張旅費で賄うようなケチな真似をせず悠々と振舞って居られたようだ。

 私が直接随行して行った牧野男は講和会議における日本側の事実上の中心人物だった。

 この人は若い連中を集めていろいろと意見を述べさせることの好きな人だったが併し、どの意見にもそれが良いとか悪いとか絶対に言わない主義を堅持していた。

 そうして後になるとチャンと採るべき意見は採り、日本の主張のなかに織り込み、また戦術として用いていた。そこで若い連中は冗談に「牧野さんはずるいな」とか「流石は慎重だな」と話し合ったものである。

 とにかく責任感の強い人で一言一句もおろそかにしないところがあった。従って他の意見に対しても自分一人では可否を直ちに表明されなかったのであろう。

 いずれにしても西園寺、牧野というような元老、大先輩の下で仕事をしたパリ講和会議は私に多くの教訓を与えて呉れ、且つ働き甲斐のある場であった。

 以上が、野村吉三郎大佐が海軍委員として出席したパリ講和会議(ヴェルサイユ宮殿で調印式=ヴェルサイユ条約)の全権や出席者についての回想である。






725.野村吉三郎海軍大将(25)野村吉三郎大佐は、海軍、時には日本の主要舞台で注目を集める存在になっていった

2020年02月14日 | 野村吉三郎海軍大将
 有田八郎(ありた・はちろう)参事官(新潟・東京帝国大学法科大学独法科卒・外務省・パリ講和会議全権委員随員・亜細亜局長・オーストリア公使・外務次官・ベルギー大使・中国大使・外務大臣・終戦・衆議院議員・東京都知事選で落選・昭和四十年三月四日死去・享年六十五歳・正四位・旭日中綬章・ハンガリー王国メリット・オングロアーズ勲章プルミエール)。

 重光葵(しげみつ・まもる)参事官(大分・東京帝国大学法学部卒・外務省・在ドイツ公使館書記官・在英国公使館書記官・在シアトル領事・駐華公使・駐ソ公使・駐英大使・外務大臣・戦艦ミズーリ―甲板上で日本政府全権として降伏文書に署名・終戦・外務大臣・A級戦犯・衆議院議員・改進党総裁・日本民主党副総裁・自由民主党・外務大臣・昭和三十二年一月二十六日狭心症発作で死去・享年六十九歳・正三位・勲一等旭日桐花大綬章)。

 大正八年一月十八日から開催されたパリ講和会議(ヴェルサイユ宮殿で調印式=ヴェルサイユ条約)への、陸軍側の委員は次の通り。

 奈良武次(なら・たけじ)中将(栃木・陸士旧一一期・陸大一三期・ドイツ駐在・砲兵大佐・陸軍省高級副官・陸軍省軍務局砲兵課長・少将・支那駐屯軍司令官・青島守備軍参謀長・陸軍省軍務局長・中将・パリ講和会議委員・東宮武官・侍従武官・東宮武官長・侍従武官長・大将・大日本武徳会会長・枢密院顧問・軍人援護会会長・昭和三十七年十二月二十一日死去・享年九十四歳・男爵・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・英国ヴィクトリア勲章ナイトグランクロス等)。

 二宮治重(にのみや・じゅうじ)中佐(岡山・陸士二三期・陸大二二期・恩賜・パリ講和会議委員・陸軍大学校教官・歩兵大佐・参謀本部総務部第一課長・近衛歩兵第三連隊長・少将・在英国大使館附武官・歩兵第二旅団長・参謀本部第二部長・参謀本部総務部長・中将・参謀次長・第五師団長・予備役・満鉄拓殖会社総裁・文部大臣・昭和二十年二月十七日病死・享年六十六歳・従五位・勲三等旭日中綬章)。

 畑俊六(はた・しゅんろく)中佐(陸士一二期・一一番・陸大二二期・首席・パリ講和会議委員・陸軍大学校教官・砲兵大佐・野砲兵第一六連隊長・陸軍野戦砲兵学校教導連隊長・参謀本部作戦課長・少将・参謀本部第四部長・参謀本部第一部長・中将・砲兵監・第一四師団長・陸軍航空本部長・台湾軍司令官・教育総監・大将・中支那派遣軍司令官・侍従武官長・陸軍大臣・支那派遣軍総司令官・元帥・教育総監・第二総軍司令官・広島で原爆に被曝・終戦・A級戦犯・偕行社会長・昭和三十七年五月十日戦没者慰霊碑除幕式で倒れ死去・享年八十二歳・従二位・元帥・勲一等旭日大綬章・功一級)。

 藤岡萬蔵(ふじおか・まんぞう)少佐(陸士一六期・陸大二三期・四番恩賜・少佐・パリ講和会議委員・中佐・参謀本部・大佐・参謀本部演習課長・昭和四年八月十四日殉職・少将・享年四十四歳)。

 海軍側の委員は、次の通り。

 竹下勇(たけした・いさむ)中将(鹿児島・海兵一五期・三番・海大一期・第二艦隊参謀・大佐・第二艦隊参謀長・防護巡洋艦「須磨」艦長・装甲巡洋艦「春日」艦長・装甲巡洋艦「出雲」艦長・軍令部第四班長・巡洋戦艦「筑波」艦長・一等戦艦「霧島」艦長・第一艦隊参謀長・少将・軍令部第四班長兼海軍大学校教官・軍令部第一班長兼海軍大学校教官・第二戦隊司令官・中将・第一特務艦隊司令官・軍令部次長・パリ講和会議委員・国連海軍代表・第一艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・大将・呉鎮守府司令長官・予備役・有終会理事長・大日本相撲協会会長・皇武会(現・合気会)初代会長・昭和二十四年七月一日死去・享年七十九歳・正三位・勲一等旭日大綬章・イギリスビクトリア勲章ナイトグランドクロスなど)だった。

 野村吉三郎(のむら・きちさぶろう)大佐(和歌山・海兵二六期・次席・在米国大使館附武官・大佐・装甲巡洋艦「八雲」艦長・パリ講和会議委員・海軍省副官・ワシントン会議随員・少将・軍令部第三班長・第一遣外艦隊司令官・海軍省教育局長・軍令部次長・中将・練習艦隊司令官・呉鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・第三艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・軍事参議官・予備役・学習院長・外務大臣・在米国特命全権大使・枢密顧問官・昭和三十九年五月八日死去・享年八十六歳・従二位・勲一等旭日桐花大綬章・功二級)。

 山本信次郎(やまもと・しんじろう)大佐(神奈川・海兵二六期・一七番・海大七期・在イタリア大使館附武官・大佐・パリ講和会議委員・東宮御学問所御用掛・東宮職御用掛・軍令部参謀・皇太子欧州出張随行・宮内省御用掛・少将・予備役・依願免宮内省御用掛・カトリック信者・公教会青年会設立・カトリックタイムズ創刊・昭和十七年二月二十八日死去・享年六十四歳・フランス共和国タカデ三―記章オフィシェ)。

 野村吉三郎大佐は、竹下勇中将に次ぐ委員であった。この頃から次第に野村吉三郎大佐は、海軍、時には日本の主要舞台で注目を集める存在になっていった。






724.野村吉三郎海軍大将(24)艦長勤務は僅かに一ヶ月足らずで、海軍軍令部出仕兼参謀に補された

2020年02月07日 | 野村吉三郎海軍大将
 大正七年九月二十九日、日本国に内閣制度が誕生してから、初めて無爵の政党人を首班とする純政党内閣が誕生した。

 大正七年十月十八日付けで、野村吉三郎大佐は、重巡洋艦「八雲」(九六九五トン・乗員六四八名)の艦長に転補され、久しぶりの海上勤務に出た。また、初めての艦長勤務であった。

 だが、野村吉三郎大佐は、重巡洋艦「八雲」(九六九五トン・乗員六四八名)の艦長勤務は僅かに一ヶ月足らずで、海軍軍令部出仕兼参謀に補された。

 さらに十二月三日には、野村吉三郎大佐は、第一次世界大戦後のパリ講和会議に出席する全権大使に随行する海軍側委員を命ぜられた。

 大正八年一月十八日から開催されたパリ講和会議(ヴェルサイユ宮殿で調印式=ヴェルサイユ条約)への、日本の主要な出席者は、次の通り。

 首席全権大使・西園寺公望(さいおんじ・きんもち)元首相(京都・学習院・官軍参与・戊辰戦争・会津戦争・新潟府知事・開成学校・フランス・ソルボンヌ大学留学・侯爵・駐ウィーン・オーストリア=ハンガリー帝国公使・駐ベルリン・ドイツ帝国公使兼ベルギー公使・賞勲局総裁・貴族院副議長・文部大臣・外務大臣・文部大臣・政友会総裁・内閣総理大臣臨時代理・枢密院議長・内閣総理大臣・パリ講和会議全権・公爵・昭和十五年十一月二十四日死去・享年九十歳・国葬・公爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)。

 次席全権大使・牧野伸顕(まきの・のぶあき)元外相(鹿児島・東京帝国大学中退・外務省・首相秘書官・福井県知事・茨城県知事・文部次官・イタリア公使・オーストリア公使・文部大臣・男爵・外務大臣・貴族院勅選議員・パリ講和会議次席全権・子爵・宮内大臣・内大臣・伯爵・昭和二十四年一月二十五日死去・享年八十七歳・伯爵・従一位・勲一等旭日桐花大綬章・フランスドラゴンドランナン勲章グランクロア)。

 駐英大使・珍田捨巳(ちんだ・すてみ・青森・米国アスベリー大学<現・デボー大学>卒・メソジスト弘前教会副牧師・外務省・イギリス・清国・オランダ書記官・領事・総領事・在サンフランシスコ日本領事・初代外務次官・外務総務長官・外務次官・男爵・子爵・ブラジル公使・オランダ公使・ロシア公使・ドイツ大使・駐米特命全権大使・イギリス大使・パリ講和会議全権委員・伯爵・枢密顧問官・東宮大夫・侍従長・昭和四年一月十六日脳出血で死去・享年七十三歳・伯爵・従一位・勲一等旭日桐花大綬章・フランスレジオンドヌール勲章グランクロア等)。

 駐仏大使・松井慶四郎(まつい・けいしろう・大阪・東京帝国大学法科大学英法科卒・外務省・イギリス公使館一等書記官・フランス参事官・外務次官・フランス大使・パリ講和会議全権委員・男爵・外務大臣・貴族院議員勅選議員・イギリス大使・枢密顧問官・昭和二十一年六月四日死去・享年七十八歳・男爵・正二位・勲一等旭日大綬章・フランスレジオンドヌール勲章グランクロア等)。

 外務省側の委員は次の通り。

 松岡洋介(まつおか・ようすけ)書記官(山口・アメリカ・オレゴン大学法学部卒・外務省・中華民国領事官補・首相秘書官・パリ講和会議随員・中華民国総領事・外務省退官・南満州鉄道理事・衆議院議員・国際連盟日本首席全権・南満州鉄道総裁・外務大臣・終戦・A級戦犯・昭和二十一年六月二十一日結核で病死・享年六十六歳・従三位・勲一等旭日大綬章・ロシア帝国神聖スタニスラス第二等勲章等)。

 佐分利貞男(さぶり・さだお)書記官(福山・東京帝国大学法科大学仏法科卒・外務省・外交官補・清国・ロシア・フランス駐在・外務省参事官・パリ講和会議全権委員随員・大使館参事官・通商局長・条約局長・駐支那公使・昭和四年十一月二十九日自殺<他殺疑惑>・享年五十歳・勲三等旭日中綬章)。

 吉田茂(よしだ・しげる)書記官(東京・東京帝国大学法科大学政治科卒・外務省・領事館補・奉天領事館・在米大使館附二等書記官・文書課長心得・済南領事・パリ講和会議随員・在英大使館附一等書記官・奉天総領事・駐スウェーデン公使・外務次官・駐イタリア大使・外務省退官・終戦・外務大臣・貴族院議員・内閣総理大臣(一次)・日本自由党総裁・衆議院議員・民主自由党総裁・内閣総理大臣(二次~五次)・政界引退・昭和四十二年十月二十日死去・享年九十歳・従一位・大勲位菊花章頸飾)。

 木村鋭市(きむら・えいいち)書記官(島根・東京帝国大学法科大学政治科卒・外務省・外交官補・外務省参事官・ベルギー公使館三等書記官・フランス大使館二等書記官・パリ講和会議全権委員随員・亜細亜局課長・ワシントン会議全権委員随員・アメリカ合衆国大使館一等書記官・同参事官・亜細亜局長・駐チェコスロバキア公使・南満州鉄道株式会社理事・第一次日蘭会商代表・忠清工業株式会社社長・台湾拓殖株式会社顧問・昭和二十二年七月二十一日死去・享年六十八歳)。