陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

20.石原莞爾陸軍中将(10) 石原は死の直前にも冗談を言っていた

2006年08月04日 | 石原莞爾陸軍中将
関東軍に絶望した石原は独断で関東軍参謀副長を辞して帰国する。驚いた石原の兄貴分である板垣征四郎は無理やり石原を入院させて、病気療養としてしまった。

当時東條は陸軍次官になっていた。その後石原は昭和13年12月5日、舞鶴要塞司令官に転補された。

要塞司令官という地位は将官としては閑職で退職を控えた老朽者が据えられるのが例であった。

結局、東條と石原は喧嘩両成敗で、東條は航空総監に、石原は舞鶴要塞司令官に左遷されたのだ。

 石原が中将に昇進して、京都の第十六師団司令部付きに転補されたのは昭和14年8月だった。その後、石原は師団長に任命された。普通は首になるところだったが、板垣が石原を救った。

 師団長在任中、石原は京都大学の公開講演会に招かれた。講演で、石原は「敵は中国人ではない。日本人である。自己の野心と功名心に駆り立てられて、武器を取って立った東條、梅津の輩こそ、日本の敵である。同時に彼らは世界の敵でもある。彼らこそ銃殺されるべき人物である」と言った。

聴衆の中から嵐のような拍手が起こった。たまたま京都府知事が臨席していたが、あわてて壇上に上がると、「ただ今のお話は、この場限りのお話として伺っておきたいと思いますので、諸君も御承知置き下さい」と言った。

しかし石原は「いや遠慮はいりません。私の意見は天下に公表して、批判の対象としてもらいたいと思います」と言った。

 昭和16年2月、陸軍省人事局長野田謙吾は3月発令予定の人事異動案を携えて、南京の支那派遣軍総参謀長板垣征四郎のもとに赴いた。

石原莞爾待命の人事案を見て板垣の顔は青ざめ鎮痛そのものの表情だったたという。板垣は石原を弟のように可愛がっていたからだ。だが石原は板垣の手を離れて独走を続けてきた。

 野田が「閣下、ようやく肩の荷をおろされましたな」というと、野田をにらみ「そういったものでもないよ」とつぶやいたという。こうして石原莞爾の軍人人生は終末を迎えた。

 その後、石原は立命館大学教授に就任した。だが、東條首相らの干渉を受けた石原は昭和16年9月、立命館大学教授を辞して郷里の鶴岡に帰った。

昭和17年12月、戦局について再三の東條首相の要請により甘粕正彦が仲介して、やっと石原は上京して東條と会談した。

そのとき東條が「今後の戦争指導はどうあるべきか」と聞いた。石原は「あなたにできないことは、わかり切っている。結局、あなたが引退する意外ないでしょう」と答えるばかりだったという。

 東條英機との確執について、「夕陽将軍」(河出書房新社)によると、終戦後、石原は、いろんな人から、「あなたは東條さんと対立されたそうですが」と聞かれたという。

そのたびに彼は、「対立なんかしませんでしたよ」と打ち消した。「でも、何かにつけて」「いや対立ではありません。東條には思想がありませんが、僕には思想があります。思想のない者が、どうして思想のある者と対立することができましょう」と答えたとある。石原の東條観が如術に現れている。

石原莞爾は昭和24年8月15日に膀胱癌により死去した。石原は死の直前にも冗談を言っていたと言う。また、臨終が近いのを知って、回りのものが泣くと、「泣かんでもいい」と言った。

しばらくして、容態が、回復すると、「ありがたいが、臨終までの時間が長引くようでは皆さんにかえって迷惑がかかるというものだ」とも言った。

東條英機は石原が死去した、その前年の昭和23年にA級戦犯として処刑されていた。

(「石原莞爾陸軍中将」は今回で終わりです。次回からは「高木惣吉海軍少将」が始まります)

19.石原莞爾陸軍中将(9) あの豪奢な建物は関東軍司令官という泥棒の親分の住宅だ

2006年07月28日 | 石原莞爾陸軍中将
「甦る戦略家の肖像~石原莞爾」(日本文芸社)によると、昭和12年9月27日、石原は関東軍参謀副長を命じられた。

 関東軍に赴任した石原は、「独立国である満州国政治に関東軍が干渉主権侵害であるから、満人の政治的意思を尊重し、関東軍の内面指導を即時撤廃せよ」と植田謙吉関東軍司令官に意見書を提出した。

 だが参謀長の東條英機はこの石原の意見書に反対した。石原に対する内面指導は強まる一方だった。

「夕陽将軍」(河出書房新社)によると、満州国の農業政策大綱が決まり、農事合作社が設立される事になり、政府から実業部総務司長・岸信介、五十子巻三ら三人が関東軍司令部へ説明に出向いた。

 東條参謀長、石原副長、片倉課長が応対した。五十子の説明が終わると、石原副長が「よくわかりました。制度としては結構です。ただし、これを実施するについては、全満一斉にやろうとなどと考えないで、最初はそれぞれ事情のちがうところ五、六ヶ所を選んで、試験的にやってみて、実施中に改善すべき所がでてきたら改善するという風でひろげていったらいかがでしょう」と言った。

 五十子がなるほど大変いい注意だと思って感心していると、今度は東條が「五十子君」と呼んで何か言おうとした。

 すると石原はそれを押さえるように「五十子さん、もうこれでいいです。この人は憲兵ですから、合作社のことなんかわからないのです。これで決定しました」と言って席を立った。

 東條も苦笑しながら席を立った。ここまでくれば公然たる侮辱である。東條が苦笑以上の言動に出なかったのは、紳士としての自制心を持っていた。

 だが、その紳士的な態度の裏で、東條は石原の官舎の周辺に憲兵を張り込ませていた。

 これに良く似た話は数限りなくある。あるとき石原が執務していると、東條から用談があるから自分の部屋まで来てくれと、呼び出しが来た。

 石原は使いの者に「こちらは用がないから、行かないと言ってくれ」と言ったそうである。

 東條が陸軍次官に昇進して満州を去ったのは昭和13年5月で、その後、石原が参謀長になると予想されたが、一ヵ月後の6月に磯谷廉介中将が参謀長に決まり赴任してきた。

 これは東條の決めた人事だったと言われている。東條は陸士1期上の磯谷とは親交があった。 結局、石原は東條と同様に磯谷とも思想が合わなかった。

 石原が「中国人の信頼をを勝ち取れば、日支間の不和は春の日を受けた氷のように、解けさるでしょう」と言うと。

 磯谷は「そんな詩のようなことを言ったってしょうがない。国家間の問題は力だよ」と言った。意見がことごとく食い違っていた。

 石原は絶望し何も仕事をしなかったといわれる。というより仕事をさせられなかった。彼は東條など日中戦争を起こした連中に対する批判を公然と口にするようになった。

 例えば、内地から人が尋ねてきたとき、司令官の官舎を指して、「泥棒の親分の住宅を見ろ。あの豪奢な建物は関東軍司令官という泥棒の親分の住宅だ。満州は独立国のはずだ。それを彼らは泥棒した」などとののしったと横山臣平は伝えている

18.石原莞爾陸軍中将(8) 宇垣と石原の大勝負は、石原に軍配が上がった

2006年07月21日 | 石原莞爾陸軍中将
昭和12年1月24日、宇垣一成陸軍大将は天皇から「内閣の組閣を命ず。組閣の自信ありや」との言葉を賜り、しばらくの猶予を願って退下した。だが陸軍部内では、宇垣の首班に反対が大勢であった。

 「陸軍に裏切られた陸軍大将」(芙蓉書房)によると、石原作戦部長代理は参謀本部の部長・課長を除く中・少佐を部長室に集め、宇垣の三月事件の嫌疑と、軍縮を断行した前歴に国防問題をからめ、宇垣の総理就任に反対する大演説を行った。若手幕僚はほとんどこれに同調した。

 また、陸相官邸では、寺内陸相、梅津次官、阿南兵務局長、磯谷軍務局長、石原作戦部長代理、中島憲兵司令官、佐藤賢了政策班長らが集まって、宇垣首班の是非について大評定が始った。

 この席でも石原は、宇垣排斥論を圧倒的に論じた。寺内も梅津もあまりしゃべらずに、聞いていたという。結局一同これに和して宇垣排斥の方針が決まった。

 こうして、宇垣と石原の大勝負は、石原に軍配が上がった。天皇の裁可を受けながら首相になれなかった宇垣は、公表された「宇垣日記」に次のように記している。

 「石原莞爾あたりが急先鋒になって、二・二六事件があって、その裁判がまだ済まぬ前に、陸軍の長老である宇垣が出るというのはけしからぬ、と云うらしいが、これは一寸ロジックに合わない」

 「天子様が出ろと仰ったのに、あそこらで、出ることはいかぬ、と云うのは、おかしなことだ」

 昭和12年7月7日、盧溝橋事件で、日華事変が勃発した。石原の「世界最終戦争論」に反する現実となった日華事変であった。

 当時参謀本部第1部長(作戦)の石原少将は早期終結を望み、近衛首相に不拡大方針を進言、これに同意させた。

 だが、東條英機ら統制派により、石原の不拡大方針は、失敗した。石原は参謀本部第一部長でありながら、孤立無援に陥ったのである。

 「夕陽将軍」(河出書房新社)によると、戦争に反対する石原は右翼からも狙われ、生命の危険があった。石原は「俺は右翼に金をやらないから、きらわれるよ」とよく言っていた。

 だが、石原は左翼には好意と理解を見せていたと言う。社会主義を嫌う軍人社会で石原が孤立するのは当然の成り行きだったと言える。

 「最後の参謀総長・梅津美治郎」(芙蓉書房)によると、2・26事件後の粛軍時代に参謀本部と陸軍省の実質的協力者として梅津次官と石原作戦課長は協力し合い、宇垣内閣を共同歩調で流産させたところまでは強調的であった。

 やがて林内閣の組閣で対立的立場となり、近衛内閣のとき勃発した日華事変の対処方針で梅津、石原が腹の底から強調できなかったことが、あの事変の悲劇的発展に至った。

 稲田正純氏(後の陸軍中将)によると終戦時の参謀次長で、当時石原の下で戦争指導課長であった河部虎四郎は石原を評して「関東軍あたりをやらせれば立派なものだが、中央で人をまとめて使う事は出来ない人である」と言っていたという。

 ところが梅津は君子で有能な町尻軍務局長と政務に関する権限で論争、対立し、町尻を異動させた。梅津は後任に中村明人を据えたが、これから以後石原の独走態勢になったという。

 梅津次官は石原少将について次のように評価している。

 「満州事変の全責任者は石原である。石原が軍鉄破壊の責任を自覚することなく、却って軍の指導権を掌握しようとの野心があると思われる。満州建国の功罪は別として、それは歴史の審判にまかせるべきであって、現実の問題としては、石原は自発的に軍職を辞すべきではなかろうか」と。

17.石原莞爾陸軍中将(7) あなたのようなバカ大将がおだてるから、部下が勝手な真似を平気でする

2006年07月14日 | 石原莞爾陸軍中将
 「夕陽将軍」(河出書房新社)によると、昭和11年2月26日に起こった2.26事件時、参謀本部作戦課長の石原は反乱軍兵士の制止を振り切って陸軍省を抜け参謀本部に登庁した。

その後を追ってきた2.26事件を引き起こした決起将校の山本又中尉が石原に追いつくと、石原に対して合掌し「石原大佐殿、御縁があります」と拝んで去って行った。

  実は山本中尉は石原を射殺する役目だったのだが、石原と同じ日蓮宗の山本が初めて石原を見てその堂々とした態度に圧倒され、殺意を失った。石原はここで死ぬはずだったのである。
 
 もう一つ死にかかった話。川島陸軍大臣が決起将校に取り囲まれて要求を突きつけられている部屋に石原大佐が入ってきた。

 すると決起将校の栗原中尉が石原に「大佐殿のお考えと、私共の考えは根本的に違うように思うが、維新に対していかなる考えをお持ちですか」と聞いた。

 石原は「僕はよく分からん。僕のは軍備を充実すれば、昭和維新になるというのだ」と言った。

 栗原中尉はピストルに手をかけたが、磯部が黙っているので、そのままにして殺さなかったという。ここでも石原は死ななかった。
 
 石原が上官に面と向かって「バカ大将」と言い放った有名な事件は2.26事件の時である。

 「バカ大将」と言われたのは当時、決起した青年将校の信望を集めていた教育総監真崎甚三郎大将のことである。
 
 「夕陽将軍」(河出書房新社)によると、昭和7年、満州事変に輝く花形的存在の石原が関東軍作戦主任から東京の兵器本廠付きに転任になり当時の真崎甚三郎参謀次長に挨拶に行ったときの話がある。

 真崎が「石原君、貴公はえらいそ。君をどこにもっていくかが決まらなくて軍の定期異動が1週間も遅れた。たかが中佐のひとりの人事でこんなに遅れたのは初めてだ。君は大物になるぞ」と握手しようとした。

 しかし石原は「陸軍長官の人事は三長官が決定されるもので、石原の関知するところではありません」と答えたという。

 当時から青年将校を家に呼びご機嫌をとっていた真崎大将を軍の統制から石原は困った人だと思っていた。
 
 2.26事件で、天皇の言葉により「鎮圧」の方針が決まると、2月27日には戒厳令がしかれ、石原は戒厳司令部の参謀に任命された。

 ところが戒厳司令部に真崎大将が頻繁に出入りして、同じ皇道派の香椎浩平中将に圧力をかけていた。

 「名将・愚将・大逆転の太平洋戦史」(講談社)によると、その圧力をかける真崎大将を見て、たまりかねた石原は、満座の中で真崎をつかまえ、「あなたのようなバカ大将がおだてるから、部下が勝手な真似を平気でするようになる」と直言した。

 真崎大将は激怒し「上官に対しバカ大将とは何ごとか。軍紀をなんと心得るか」と石原を叱りつけた。

 石原は平然として、こう答えた。「あなたが軍紀を問題とするならば、単なる上官に対する無礼な発言よりも、それらの人々を殺害した者達を、真っ先に糾弾すべきではないですか」。

 これには真崎も言葉を返せず、無念そうにその場を去っていったという。

16.石原莞爾陸軍中将(6) その子は現在の世界的な指揮者小沢征爾である

2006年07月07日 | 石原莞爾陸軍中将
「夕陽将軍」(河出書房新社)によると、昭和6年9月18日に柳条溝事件が勃発したが、その一ヵ月後に、満州青年連盟の長春支部長・小沢開作が石原莞爾に質問した。

 勃発時圧倒的な中国軍を目の前に見ながら、長春から兵を引いて、奉天に兵を終結しようとした関東軍のやり方を不審に思ったのだ(実際はそうならなかったのだが)。

 小沢は「長春にいた日本人二万人を見殺しにするつもりだったのですか?」と訊いた。

 「そうです」と石原。

 「軍人はひどい。長春の二万人は死ぬ所だった」

 「小沢さん、あなたは、それでも青年連盟の会員ですか」

 「何ですって?」

 「奉天をやっつければ、奉天の命令で動いている長春の中
国兵は手の出しようがないじゃないですか。首をちょん切られた蛇ですよ」

 「参った。なるほど」

 小沢はかぶとを脱いだと言う。

 満州青年連盟の小沢開作は歯科医だが、石原莞爾を高く認めており関東軍に全面的に協力して多大な功績を残した人物である。

 満州事変から4年後の昭和10年小沢の子供が生まれたが、小沢は子供の名前に、板垣征四郎の「征」と、石原莞爾の「爾」をとって「征爾」と名づけた。その子は現在の世界的な指揮者小沢征爾である。

  「夕陽将軍」(河出書房新社)によると、昭和10年4月23日、満州事変の武勲に輝き、今を時めく石原莞爾大佐の講演会が鶴岡で開かれた。

 その講演会で、石原は「私は今から約五十年前、この鶴岡で生まれました。幼年から軍人たらんと志望しましたが、貧乏士族の悲しさ、学資がなくて困っていたところ、鍛冶町の富樫治右衛門翁の好意にあずかるを得、月々学資の補助を受けて幼年学校に学びましたが、いまだに何の報恩もしないで心苦しく思っている次第です」と言った。

 当時、満州国建国の偉大な貢献者で、日本中の栄光を一身に集めていた超エリート軍人から出たこの言葉に、講演会の聴衆はシーンとして聞き入った。

 この演説から感じられることは、軍人であると同時に、日蓮宗を信奉した石原の思想は、自分の栄達を目指して上を見上げるものではなく、常に下に目を落としていたようだ。下とは、あくまで民衆の幸福の実現に思考の基点を置いたものであったと思われる。

15.石原莞爾陸軍中将(5)   「ああ、ねむたくなった」と言って、ごろっと後ろに寝ころんだ

2006年06月30日 | 石原莞爾陸軍中将
 昭和6年10月に「十月事件」が起きた。参謀本部ロシア課の橋本欣五郎中佐を中心とする桜会の一部幕僚がクーデターを計画したが、10月17日午前3時ごろ橋本中佐以下12名が憲兵隊に拘束され、失敗に終わった。

 その十月事件は関東軍と連動していた。十月事件が失敗し、満州事変の解決ができないとみた関東軍は日本国から離脱して独立すると言う情報が流れた。

 「今村均回顧録」(芙蓉書房)によると、この情報をもとに、白川大将と参謀本部作戦課長の今村均大佐が関東軍に出向き調査する事になった。

 奉天の関東軍司令部で白川大将は本庄繁軍司令官と会見した。今村大佐は関東軍参謀から夜に料亭に呼ばれた。

 今村大佐が料亭に着き部屋に入ると、板垣大佐、石原莞爾中佐、竹下少佐、片倉大尉そのほか二人の参謀が酒をくんでいる。

 挨拶して今村大佐が用意された席に腰をおろすと、いきなり石原中佐が今村大佐に向かって発言した。

 「何ということです。中央の腰の抜け方は」

 「抜けているか抜けていないか、冷静な目で見ないことにはわかりますまい」

 「腰抜けの中央にたよっていては、満州問題は解決なんかできない」

 「国家の軍隊を動かすようになった一大事を出先だけの随意のやりかたで成し遂げられるものではありません。全国民一致の力を必要とします」

 すると石原中佐は、いきなり大きな声を出し、

 「ああねむたくなった」

 と言って、ごろっと後ろに寝ころんだという。

 今村大佐は不快の念を押し隠すことが出来ず、今村が士官候補生のときの教官だった板垣大佐に向かい

 「せっかくのお招きでしたが、国家の重大な時、陛下の赤子が戦闘で斃れているとき、このような料亭で機密を語り合う事はできません。大佐殿には礼儀を欠き恐れ入りますが、これでおいとまいたします」

 と言い、席を立って、去った。

 温厚で知られている今村大佐もさすがに顔や口調は興奮の情を示していたという。

 元々今村は石原の先輩で親密だった。同じ仙台の連隊出身。住居も世田谷区の近所同士で、石原の父の依頼でいやがる病気の石原を無理やり病院に入院させたりしたこともあった。

 このままでは済まないので今村大佐は翌日、関東軍司令部の石原の部屋を訪れた。

 石原は今村の顔を見ると立ち上がって

 「や、昨晩は石原式を発揮して失礼しました」「どうしてあんなにおこってしまったのです」

 などと言ったという。

 「虫のいどころがわるかったのだろう」

 「後輩を相手に腹など立てることはいけないことです。そんなことでは重責ははたせませんよ」

 「ほんとにそうだった」

 お互いに大笑いしたという。

14.石原莞爾陸軍中将(4)  石原はスリッパをはいて飛行機に乗って行った

2006年06月23日 | 石原莞爾陸軍中将
「夕陽将軍」(河出書房新社)によると、昭和4年、関東軍では「北満現地戦術」研究の参謀旅行を実施した。

 その時石原莞爾が参加者の参謀に配布した論文の一つに「満蒙問題の積極的解決は単に日本の為に必要なるのみならず、多数支那民衆の為にも最も喜ぶべきことなり。即ち、正義の為日本が進んで断行すべきものなり」と記されていた。

 この石原の根本理念が歴史的な満州事変を起こし、満州国建国となるのだが、同時にこの基本理念は石原の陸軍軍人としての生き方に矛盾を内包しており、後年、陸軍上層部と根本的なところで徐々に食い違いを生じさせていった。

 「丸」別冊「日本陸軍の栄光と最後」(潮書房)にようると、中国兵による中村震太郎大尉虐殺事件、朝鮮人の開拓団に中国兵が銃撃した万宝山事件の後、昭和6年9月18日、満鉄線路が爆破されるという柳条溝事件で満州事変が始まった。

  これは奉天駅付近の柳条溝で、中国正規軍が満州鉄道の線路を爆破し、たまたま演習中だった日本軍の独立守備隊の兵を射撃した。

 日本軍はただちに応戦し、日中両軍は戦闘状態に入った、というのが公表されたが。この柳条溝事件は石原を中心とする関東軍参謀が謀ったシナリオだった。

 彼ら参謀の上司である関東軍司令官の本庄繁中将も、この謀略を知らずに中国側を非難して軍の出動命令を出した。

  「昭和陸軍秘史」(番町書房)で今井武夫元少将の回想によると、昭和6年9月18日の柳条溝事件後、9月28日、日本から参謀本部第二部長の橋本虎之助少将を中心として、西原一策少佐(陸軍省軍事課)、遠藤三郎少佐(参謀本部作戦課)、今井武夫大尉(参謀本部支那課)の4人が中央との連絡のために関東軍に派遣された。

 奉天の旅館で橋本少将ら4人が応接室で待っていると、関東軍の三宅参謀長、板垣高級参謀、石原参謀、片倉大尉らがどかどかと入ってきた。

  両方とも突っ立ったままで、相対して、「こんにちわ」とも「やあ」とも挨拶をしない。やがて、一応お辞儀して両方で腰掛けた。

 いきなり「貴官らはいかなる任務で来たか」と追求された。橋本少将が何か言った。それから二、三応答があって、関東軍の参謀達はドカドカと出て行った。

 今井大尉は板垣高級参謀、石原参謀、片倉参謀らと熟知の間柄だったにもかかわらす、気楽に声をかけるような雰囲気ではなかったという。

 石原参謀は以前今井大尉の陸大の教官だったので、「石原教官しばらくです」「ご苦労様です」と言ったら、「君によく言っとくが、君たちは何をしてもぼくらによくわかるよ。いつも憲兵5、6人尾行しているからそう思え」と、それをみんなに聞こえるように大きな声で言った。訳が分からないので、今井大尉は「はあ」と言って、あっけにとられた。

 関東軍の参謀は自分達が仕掛けた柳条溝事件を、橋本少将らが探りに来たと思ったのである。しかしこの時、橋本少将らは疑念は持っていたが事実は知らなかった。奉天に着いて2日目には関東軍の謀略だと全て分かったという。

 「昭和陸軍秘史」(番町書房)で今井武夫元少将の回想によると、満州事変勃発当時、張学良は日本軍に対する反攻のため錦州に奉天軍を終結しつつあった。

 昭和6年10月8日、関東軍は突如、錦州爆撃を行った。これにより、国際連盟理事会も強硬態度に出た。その真相は石原が飛行機を集めて、偵察に行き、錦州上空に到達した時、爆撃を行ったのだった。

 このとき石原はスリッパをはいて飛行機に乗って行ったので、後に軍司令官に叱られた。帰ってきて石原はこう言ったという。「いやあ、偵察に言ったら、向こうのやつがポンポン撃ちゃがるから、われわれ爆弾を積んで行ったし、この爆弾をどこかに落としてこなければ着陸する時に自爆するかも知れん。どうせ落とすんならというわけでちょっと落としたよ」と。

 今井大尉が翌朝本庄繁軍司令官の所に行ったら、司令官が「ゆうべ一晩眠れなかった、大変なことをやった」と打ち明けたと言う。

 当時、関東軍参謀は、鳥を落とす勢いで、作戦会議でも石原を中心に作戦がたてられ、軍司令官は黙って聞いているだけだったといわれている。当時すでに、関東軍ではいわゆる下克上の風潮が見られたのである。

13.石原莞爾陸軍中将(3) 「ああああああ、ああああああ」と聞こえよがしに大あくびをした

2006年06月16日 | 石原莞爾陸軍中将
石原が陸軍大学校在学中の話。「夕陽将軍」(河出書房新社)によると、ある土曜日、陸大の学生が翌日の日曜の予定を話し合っていた。

 歩兵第一連隊のある中尉が「地方から来ている連中は行く所があって、いいなあ。俺は東京だから、どこへ行ってもつまらない。昼寝でもするか」と言ったら、石原が「馬鹿野郎、それでも、貴様、軍人か」とどなりつけた。

 「馬鹿野郎とは何だ。理由も言わずに、突然怒鳴りつける奴があるか、許さんぞ」その中尉は石原より一期上である。相手が怒るのも無理はない。

  しかし石原は「俺達は皆原隊に兵隊を置いてきている。親が子供を置きっぱなして来ているようなものだ。気がかりではないのか?地方連隊のものはなかなか行けない。貴様なんか目の前に原隊があるじゃないか。それなのに行く所がないなど、将校の風上にも置けない男だから、馬鹿野郎と言うのだ。文句があるか」ときめつけた。

 石原は、陸軍大学校卒業後、大学校の兵学教官、ドイツ留学、また兵学教官を経て、昭和3年8月、陸軍歩兵中佐に昇進し、10月、関東軍参謀に補された。

 「夕陽将軍」(河出書房新社)によると、昭和3年11月に発足した満州青年連盟の主張は「日漢両民族が提携して現住民族を以って独立国を建てる」というものであった。

 その満州青年連盟は過激派が多く、当時の関東軍に対し「腰の軍刀は竹光か」「関東軍は刀の抜き方を忘れたか」などと公開演説会などで平然と批判していた。

 それで関東軍の呼びかけで参謀と青年連盟幹部の会見が行われる事になった。軍は三宅参謀長以下幕僚全員が出席して日本料理と灘の生一本で丁重に青年連盟幹部をもてなした

 連盟幹部は理事長の金井章次博士が総括を説明し、次に岡田という幹部が内地遊説で満蒙へ目を向けよと同胞に呼びかけて来た興奮がまださめていないから、高い調子で話しだした。

 参謀一同がシンとして聞き入っていると、「ああああああ、ああああああ」と聞こえよがしに大あくびをした男がある。作戦課長の石原参謀であった。

 石原は当時まだ有名ではなく、中佐といっても、どこにもごろごろいて、青年連盟幹部達にとっても未知の人物であった。

 人を呼んでしゃべらせておいて、話しの最中にあくびをするとは失礼な男だと岡田はムッとしたが、喧嘩は後でやろうと一応話し終えた。

 すると彼の言葉が終わるのを待ちかねたように石原は「結局、何のかのといっても、青年連盟の諸君も権益主義者の集まりか」とわざとらしく横を向いてつぶやいた。

 岡田よりも理事長の金井博士が怒って国際法や条約論で説明すると、石原は「あなたのおっしゃるのも、満州を食い物にしようとするそこいらの利権屋どもと同じではありませんか、こみいった理屈がついているだけで」と、さらに「そもそも、いけないのは日本人なんだ。日本人が権力を笠に着て、支那人を圧迫し金もうけしようとするから排斥されるんだ。排日運動が起こるのは当然です」と言った。

 連盟幹部は一斉に仲間の山口重次の方を向いて「喧嘩鶉(うずら)、出ろ」と目で合図した。喧嘩鶉は山口の別名で喧嘩早い性格だった。
 
 山口は「そこな参謀さん。あんたはわれわれを権益主義者と呼ばれたが、とんでもない誤解だ。われわれはむしろ、くだらない権益は放棄した方がいいという意見なんです」などと青年連盟の理想をまくしたてた。

 石原は「理想は分かったが、具体的な解決策はどうなりますか?」と質問した。山口が「そんなものはない」と吐き出すように言うと、石原は「というと?」と言った。

 山口は「日本はもっぱら権益を主張し、張学良は中国国民党と提携し失権回復をさけんでいる。これでは水と油だ」などと主張した。
 
 それを聞くと石原は態度を変え、このあと青年連盟と真剣なやり取りをして、軍の方針を誠実に説明し、青年連盟と親交を得るようになったということである。

12.石原莞爾陸軍中将(2) そもそも石原は軍人志望ではなかったとの説がある

2006年06月09日 | 石原莞爾陸軍中将
そもそも石原は軍人志望ではなかったとの説がある。「甦る戦略家の肖像~石原莞爾」(日本文芸社)によると、松沢哲成は石原家の経済的理由が軍人志望の一因と推測している。貧乏ゆえ父親が陸軍幼年学校に入れたという。しかも幼年学校の学費を旧家、富樫治右衛門から援助してもらっていたが、その学費の一部を父親が自分の懐に入れていたと伝えられている。

 莞爾は父親を嫌っていたとも書かれている。性格は幼少に形成される。石原莞爾の軍人として上官に対する遠慮のない態度や、反抗的な性格形成は、家庭環境から芽生えたのかも知れない。

 石原の父親、啓介は巡査から後に警部になり分署長から署長までなった人で学問好きで「学者のおまわりさん」で通っていた。だが石原が幼年学校に入る頃は家庭が窮乏していたという。石原の兄弟は10人もいて、そのうち6人は幼少のうちに亡くなっている。

 明治35年、石原は仙台陸軍幼年学校に入学した。同期生の横山臣平の話では石原は幼年学校第6期では抜群の成績で、いつも第2位を大きく引き離していたという。

 幼年学校三年生の時の話。石原ら第6期の生徒が悩んでいた事は、週2回の図画の宿題提出だった。文官の教授は写生、つまり現地、現物を絵にする事は軍人として戦術教育上重要と考えて、この宿題を課した。

  元々性格的に強引な教授で、強制的にこの宿題を出していた。週2回の図画の提出は、生徒達は時間がない上に、度々外出も出来ないので題材がない。全員困り果てていた。

  ところが、ある日突然、石原はスケッチブックに自分の股間の一物をリアルに描き「便所において我が宝を写す」と題して提出した。

 その絵を見た担当の文官教授は火のようにかんかんに怒って、職員会議で問題となった。さらに、石原の退学処分問題まで発展した。
 
 その時、石原は退学を心配する級友達に「俺が退学になって皆が写生をさせられなくなれば目的を達したじゃないか」と平然としていたという。石原は後に将官になってからでも、突然退職願を出したりしている。また、日蓮宗を信奉し、軍人でありながら、その信条に日蓮宗に沿った考え方を組み入れていた。このようなことから、石原は軍人に左程固執していなかったのではないか、と推察されるのである。

  幼年学校では、石原の処分をめぐり、退学を主張する教授(文官)とそれに反対する武官教官(軍人)とが対立するに至った。結局、校長が間に入り、退学処分はされなかった。
 
 士官学校では石原は、語り継がれるような際立った逸話は残していない。黙々と勉強に励んだようである。 「甦る戦略家の肖像~石原莞爾」(日本文芸社)によると、350人中6位の成績で士官学校を卒業した。

 士官学校を卒業した石原は原隊の山形歩兵第32連隊に見習士官として復帰した。21歳のときである。

 連隊の将校団の宴席での話が残っている。当時の連隊長が「おい候補生飲め」と酌をしてくれた時、彼ははっきり「私は飲みません」とその盃を断ったという。連隊長は意外な面持ちで、「まあ飲め」と言った。すると石原は「飲みません」とさらに断った。連隊長もむきになって、さらに三度目に盃を勧めた。そのとき、石原は「飲まん」と怒鳴ったという。

 それから石原はその連隊長に嫌われて、彼は少尉任官と同時に会津若松の歩兵第65連隊に飛ばされた。

11.石原莞爾陸軍中将(1) 上司との対立で数奇な運命をたどった天才軍人

2006年06月02日 | 石原莞爾陸軍中将
  『世界最終戦論』で当時の世界戦争の終局(二大国の決戦)を予測した天才軍人、石原莞爾陸軍中将は、その強烈な個性ゆえに上司との対立を繰り返し、数奇な運命をたどった。

<石原莞爾陸軍中将プロフィル>

 石原莞爾は1889(明治22)年1月18日、山形県鶴岡町(現、鶴岡市)生れ。
 
  1905(明治38)年7月仙台陸軍地方幼年学校卒。東京陸軍中央幼年学校卒業後1907(明治40)年6月歩兵第32連隊配属(山形)。

 1909(明治42)年陸軍士官学校(21期)卒(6番)。陸軍歩兵少尉任官、歩兵第65連隊。1913(大正2)年陸軍中尉。       

 1918(大正7)年陸軍大学校(30期)卒(2番)。1919(大正8)年日蓮宗「国柱会」信行員、4月陸軍大尉。

  1921(大正10)年陸軍大学校兵学教官。1922(大正11)年ドイツ駐在。1924(大正13)年陸軍少佐。陸軍大学校兵学教官。

  1928(昭和3)年陸軍中佐。関東軍作戦主任参謀。1931(昭和6)年9月18日満州事変勃発(関東軍作戦主任参謀)。

  1932(昭和7)年陸軍大佐・兵器行政本部付。1932(昭和7)年国際連盟総会臨時会議帝国代表随員(全権松岡洋右)。

1933(昭和8)年歩兵第4聯隊長(仙台)。1935(昭和10)年参謀本部第2課長(作戦)。

  1936(昭和11)年2月26日二・二六事件で戒厳司令部参謀兼務で事件処理。参謀本部戦争指導課長。

  1937(昭和12)年陸軍少将・参謀本部第1部長(作戦)、9月27日関東軍参謀副長、11月から駐華ドイツ大使オスカー・トラウトマンを通じて対華和平交渉を行い、対中強行派の陸軍省と対立(トラウトマン工作)。

  1938(昭和13)年兼駐満武官、8月「予備役仰付願」「病気療養休暇願」を提出・帰国、12月5日舞鶴要塞司令官。

  1939(昭和14)年陸軍中将・第16師團長(京都)。1941(昭和16)年予備役編入、立命館大学教授(国防学)・「恩給をもらっているので給料は不要」と給料を断る。

  1942(昭和17)年9月立命館大学を辞す、甘粕正彦の仲介で陸相官邸で東條英機首相と会談。1944(昭和19)年7月小磯國昭首相と総理官邸で会談。

  1946(昭和21)年山形県飽海郡高瀬村(現 遊佐町)に転居。1947(昭和22)年極東国際軍事裁判(東京裁判)酒田出張法廷に証人として出廷。

  1949(昭和24)年8月15日肺炎と乳嘴腫の悪化のため死去。著作「世界最終戦論」

  石原と同じ陸軍士官学校21期の同期生には百武晴吉中将、飯村穣中将、富永信政大将らがいるが、石原ほど後世に語り継がれた軍人はいない。

  当時の世界の戦争の終局形態を予見した「世界最終戦論」の著者であり、軍人として天才的見識を有した石原莞爾陸軍中将は、「陸海軍けんか列伝」一人目で取り上げた佐藤市郎海軍中将と共通点が多々ある。

 二人とも1889年生まれ。佐藤中将に出された上司からの書簡ににある「余りの秀才は世間からうとまれるのではないかと思われる」との言葉が暗示するかのように、石原も上司と衝突を繰り返し数奇な軍人の生き方を余儀なくされた。

 また、二人とも大学校恩賜の秀才でありながら中将で不遇な職に左遷され、その後予備役に編入された。性格や信条も似たところが見られる。しばしば上官に対しても自分の信条を貫き通し、対立する事も辞さないことが二人に共通している。