関東軍に絶望した石原は独断で関東軍参謀副長を辞して帰国する。驚いた石原の兄貴分である板垣征四郎は無理やり石原を入院させて、病気療養としてしまった。
当時東條は陸軍次官になっていた。その後石原は昭和13年12月5日、舞鶴要塞司令官に転補された。
要塞司令官という地位は将官としては閑職で退職を控えた老朽者が据えられるのが例であった。
結局、東條と石原は喧嘩両成敗で、東條は航空総監に、石原は舞鶴要塞司令官に左遷されたのだ。
石原が中将に昇進して、京都の第十六師団司令部付きに転補されたのは昭和14年8月だった。その後、石原は師団長に任命された。普通は首になるところだったが、板垣が石原を救った。
師団長在任中、石原は京都大学の公開講演会に招かれた。講演で、石原は「敵は中国人ではない。日本人である。自己の野心と功名心に駆り立てられて、武器を取って立った東條、梅津の輩こそ、日本の敵である。同時に彼らは世界の敵でもある。彼らこそ銃殺されるべき人物である」と言った。
聴衆の中から嵐のような拍手が起こった。たまたま京都府知事が臨席していたが、あわてて壇上に上がると、「ただ今のお話は、この場限りのお話として伺っておきたいと思いますので、諸君も御承知置き下さい」と言った。
しかし石原は「いや遠慮はいりません。私の意見は天下に公表して、批判の対象としてもらいたいと思います」と言った。
昭和16年2月、陸軍省人事局長野田謙吾は3月発令予定の人事異動案を携えて、南京の支那派遣軍総参謀長板垣征四郎のもとに赴いた。
石原莞爾待命の人事案を見て板垣の顔は青ざめ鎮痛そのものの表情だったたという。板垣は石原を弟のように可愛がっていたからだ。だが石原は板垣の手を離れて独走を続けてきた。
野田が「閣下、ようやく肩の荷をおろされましたな」というと、野田をにらみ「そういったものでもないよ」とつぶやいたという。こうして石原莞爾の軍人人生は終末を迎えた。
その後、石原は立命館大学教授に就任した。だが、東條首相らの干渉を受けた石原は昭和16年9月、立命館大学教授を辞して郷里の鶴岡に帰った。
昭和17年12月、戦局について再三の東條首相の要請により甘粕正彦が仲介して、やっと石原は上京して東條と会談した。
そのとき東條が「今後の戦争指導はどうあるべきか」と聞いた。石原は「あなたにできないことは、わかり切っている。結局、あなたが引退する意外ないでしょう」と答えるばかりだったという。
東條英機との確執について、「夕陽将軍」(河出書房新社)によると、終戦後、石原は、いろんな人から、「あなたは東條さんと対立されたそうですが」と聞かれたという。
そのたびに彼は、「対立なんかしませんでしたよ」と打ち消した。「でも、何かにつけて」「いや対立ではありません。東條には思想がありませんが、僕には思想があります。思想のない者が、どうして思想のある者と対立することができましょう」と答えたとある。石原の東條観が如術に現れている。
石原莞爾は昭和24年8月15日に膀胱癌により死去した。石原は死の直前にも冗談を言っていたと言う。また、臨終が近いのを知って、回りのものが泣くと、「泣かんでもいい」と言った。
しばらくして、容態が、回復すると、「ありがたいが、臨終までの時間が長引くようでは皆さんにかえって迷惑がかかるというものだ」とも言った。
東條英機は石原が死去した、その前年の昭和23年にA級戦犯として処刑されていた。
(「石原莞爾陸軍中将」は今回で終わりです。次回からは「高木惣吉海軍少将」が始まります)
当時東條は陸軍次官になっていた。その後石原は昭和13年12月5日、舞鶴要塞司令官に転補された。
要塞司令官という地位は将官としては閑職で退職を控えた老朽者が据えられるのが例であった。
結局、東條と石原は喧嘩両成敗で、東條は航空総監に、石原は舞鶴要塞司令官に左遷されたのだ。
石原が中将に昇進して、京都の第十六師団司令部付きに転補されたのは昭和14年8月だった。その後、石原は師団長に任命された。普通は首になるところだったが、板垣が石原を救った。
師団長在任中、石原は京都大学の公開講演会に招かれた。講演で、石原は「敵は中国人ではない。日本人である。自己の野心と功名心に駆り立てられて、武器を取って立った東條、梅津の輩こそ、日本の敵である。同時に彼らは世界の敵でもある。彼らこそ銃殺されるべき人物である」と言った。
聴衆の中から嵐のような拍手が起こった。たまたま京都府知事が臨席していたが、あわてて壇上に上がると、「ただ今のお話は、この場限りのお話として伺っておきたいと思いますので、諸君も御承知置き下さい」と言った。
しかし石原は「いや遠慮はいりません。私の意見は天下に公表して、批判の対象としてもらいたいと思います」と言った。
昭和16年2月、陸軍省人事局長野田謙吾は3月発令予定の人事異動案を携えて、南京の支那派遣軍総参謀長板垣征四郎のもとに赴いた。
石原莞爾待命の人事案を見て板垣の顔は青ざめ鎮痛そのものの表情だったたという。板垣は石原を弟のように可愛がっていたからだ。だが石原は板垣の手を離れて独走を続けてきた。
野田が「閣下、ようやく肩の荷をおろされましたな」というと、野田をにらみ「そういったものでもないよ」とつぶやいたという。こうして石原莞爾の軍人人生は終末を迎えた。
その後、石原は立命館大学教授に就任した。だが、東條首相らの干渉を受けた石原は昭和16年9月、立命館大学教授を辞して郷里の鶴岡に帰った。
昭和17年12月、戦局について再三の東條首相の要請により甘粕正彦が仲介して、やっと石原は上京して東條と会談した。
そのとき東條が「今後の戦争指導はどうあるべきか」と聞いた。石原は「あなたにできないことは、わかり切っている。結局、あなたが引退する意外ないでしょう」と答えるばかりだったという。
東條英機との確執について、「夕陽将軍」(河出書房新社)によると、終戦後、石原は、いろんな人から、「あなたは東條さんと対立されたそうですが」と聞かれたという。
そのたびに彼は、「対立なんかしませんでしたよ」と打ち消した。「でも、何かにつけて」「いや対立ではありません。東條には思想がありませんが、僕には思想があります。思想のない者が、どうして思想のある者と対立することができましょう」と答えたとある。石原の東條観が如術に現れている。
石原莞爾は昭和24年8月15日に膀胱癌により死去した。石原は死の直前にも冗談を言っていたと言う。また、臨終が近いのを知って、回りのものが泣くと、「泣かんでもいい」と言った。
しばらくして、容態が、回復すると、「ありがたいが、臨終までの時間が長引くようでは皆さんにかえって迷惑がかかるというものだ」とも言った。
東條英機は石原が死去した、その前年の昭和23年にA級戦犯として処刑されていた。
(「石原莞爾陸軍中将」は今回で終わりです。次回からは「高木惣吉海軍少将」が始まります)