陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

357.辻政信陸軍大佐(17)いくら階級が上だからといって、五期も先輩に対して、あれほどまでに

2013年01月25日 | 辻政信陸軍大佐
 守備隊は動揺しているようだったが、ここを過早に捨てられては、軍の任務達成は不可能になる。七月十二日、本多軍司令官は次の要旨の命令を暗号電報で下達した。

 昆作命甲第○号(昆は第三三軍の秘匿名)
「一、軍は主力をもって龍陵正面に攻撃を企図しあり。二、パーモ、ナンカン地区の防備未完なり。三、水上少将はミートキーナを死守すべし。」。

 命令は水上部隊ではなく、水上少将個人に対して死守を命じており、異例の型破りの命令であった。死守とは、死ぬまで守れということで、わずかに二文字にすぎないが、その意味するところは深刻であった。

 この命令は、作戦主任参謀・辻政信大佐が起案した。辻大佐は眼に涙をためながら電文の起案を終わると、各参謀に合議を求めた。

 みな一瞬、シューンとして厳粛な気分になり、悲壮の感に打たれた。安倍参謀が「水上少将は……」を、「水上部隊は……」と訂正しようとしたところ、辻大佐は恐い顔をして「直すな」といって、強く修正を拒んだ。

 野口省己少佐も腑に落ちなかったので、あとで辻大佐に命令の真意を質したところ、次のような説明をしてくれた。

 「ノモンハン事件の経験からも、無断で退却したり、陣地を放棄したり、落ちこぼれの将兵が出るかも知れない。ノモンハンでは、敵前逃亡の罪で断罪したが、その処置に困ったにがい経験があった」

 「精鋭をうたわれた日本軍でも、このようなのが戦場の実相だ。守備隊が最悪の事態に陥って、万一こぼれる者が出ても、命令違反となって不幸な目にあわないために、命令の形式としては異例なものであることは充分知っているが、あえてこのような型破りの命令を起案したのだ」

 「最悪の場合は、気の毒だが水上少将個人に責任をとってもらうことを覚悟している。謹厳な水上少将のことだから、軍司令官の意図を了察して、あれで十分目的を達せられるのだ」。

 守備隊が全力を尽くして敢闘し、最後の段階に達したとき、水上少将を死に追いやることになるかもしれないが、万一脱落した将兵があっても、その責任を問わない。困難な任務を達成しなければならないという苦肉の策だった。

 この命令を作戦主任参謀・辻大佐が起案中に、高級副官・上田孝中佐(陸士三一)が、辻大佐のもっとも嫌いな慰安所の配分計画を持って、合議を求めにきた。

 辻大佐はこれを一瞥すると、時が時だけによほど癪にさわたようで、「こんなものは参謀の見るものではない。少なくとも作戦参謀の見るものではない!」と怒鳴りつけて、書類を床にたたきつけた。

 上田中佐は、辻大佐のあまりの剣幕にびっくり仰天して、平身低頭して悄然として引き退っていった。野口少佐はこれを見て「あれほどまでにやらないでも……」と、辻大佐のやり方に不快の念を持ち、上田中佐が気の毒でならなかった。

 上田中佐は、階級は中佐であったが、辻大佐よりは五期も先輩である。いくら階級が上だからといって、五期も先輩に対して、あれほどまでにやらないでも……と思った。

 この型破りの命令を知って、剛直な第五六師団長・松山祐三中将(青森県出身・陸士二二)は憤慨した。松山中将は、参謀長・川道富士雄大佐(陸士三六・陸大四七)を介して、第三三軍司令部に次のように抗議してきた。

 「ミートキーナ守備隊長としての水上少将はあるが、水上少将個人はないはずだ。軍は何を血迷ってこんな任務を与えたのか」。

 水上少将は第五六師団の歩兵団長なので、松山師団長は直属の部下に対する情宜上からも、異常な軍命令には承服できなかったのである。

 しかし、水上少将は、現在は軍直属の守備隊長なので、松山師団長の抗議は筋違いとして、軍はこれを拒否した。

 水上少将からは、この命令を謹承して、ただちに次のような返電があったので、軍では命令の主旨は正しく了解されたものと信じて、ひとまず安心した。

 (1)昆作命甲第○号謹んで受領す。(2)守備隊は死力を尽くして、ミートキーナを確保す。

 当時の水上少将の心境が、「月白の道」(丸山豊・創言社)に記してある。著者の丸山豊氏は、福岡県出身。九州医学専門学校卒。久留米陸軍病院勤務を経て、南方へ軍医として出征した。戦後は、久留米市で医院を開業、詩人としても、日本現代詩の代表的な存在として知られる。第三三回西日本文化賞、先達詩人顕彰受賞。

356.辻政信陸軍大佐(16)オイ、辻、お手柔らかに頼むぞ。何しろ兵隊は気が荒んでいるからなあ…

2013年01月18日 | 辻政信陸軍大佐
 こうした人事のいたずらで、全軍でも珍しい大作戦主任参謀が出現した。辻作戦主任参謀は、指揮下の師団参謀長よりも、方面軍の課長参謀よりも先任であった。
 
 第三三軍の従来の作戦主任参謀・安倍光男少佐(陸士四四・陸大五五・中佐)は、作戦補助参謀に格下げになった。

 この変則状態は、白崎大佐が第一八師団参謀長に転出して、辻大佐がその跡を襲うまで続いた(白崎大佐の転出は昭和十九年九月一日)。

 本多軍司令官は、辻大佐の着任について戦後、次のように回想している。

 「辻大佐は昭和十五年、私が支那総軍参謀副長のとき、南京ではじめて職務上の関係がつながったわけで、その性格、技能については、約一ヵ年の交渉でほぼ承知していた」

 「その作戦技能と大胆、何物をも怖れない点においては、まさに天下の逸物と称するも過言でなく、同大佐の補職を知って、百万の増援を得た感じを持ち、充分にその敏腕を発揮させる。ただその性格上、参謀長との間を巧みにとりもつことが肝要だと思った」

 「率直に言って、同大佐が不在間は不安を隠せなかった。その後、作戦間、上級司令部の方面軍参謀も辻大佐には歯が立たず、たいがいのことは、軍の言い分が好意的に採用された」。

 辻大佐の補任について、軍司令官以上に頭を悩ましたのは、参謀長・山本清衛少将(やまもと・きよえ・高知県・陸士二八・陸大四〇・大佐・参謀本部鉄道課長・第三師団参謀長・少将・第五特設鉄道司令官・第三三軍参謀長・中将・第一五師団長)であった。

 山本参謀長は、豪放磊落、竹を割ったような男らしい性格であった。山本参謀長は殺伐な戦場の将兵の心をいやし、少しでも家庭的雰囲気を味わわせるために、戦場にも女性が必要だと考えていた。

 そのため、軍でも「黎明荘」という料亭を開設したばかりであったが、辻大佐によってこわされてはたまらないと思った。

 それというのも、辻大佐の潔癖で女嫌いは有名で、いかなる場合でも脂粉の席に出たことはなく、南京では料理屋征伐のため、焼き打ち事件まで起こしたとの噂が、ビルマの果てまで伝わっていたからである。

 山本参謀長は「辻の女嫌いは有名だが、困ったものだ。しかし、彼にも女房もいれば子供もいる。まんざら女を知らないというわけでもあるまい。俺も教育するが、諸君も彼の無粋のところを矯正してやってくれ」と、呵々大笑いしていた。

 また、辻大佐に向かって「オイ、辻、お手柔らかに頼むぞ。何しろ兵隊は気が荒んでいるからなあ……」と釘を刺していた。

 辻大佐は内剛外剛で、自己にも厳しかったが、他にも厳しかった。またまれに見る悍馬(かんば)で、自己の主張を通すためには、体をはっても敢然として上官に立ち向かった。

 辻大佐が、心底から敬服し、名将だと口にし、合格点を付けられた先輩上司は数えるぐらいしかなかった。

 「マレーの虎」とうたわれた勇将・山下奉文大将についても、辻大佐は「風体だけは大物らしく見えるが、内心は小心翼々で神経が細かった」と評して厳しい点数をつけていた。

 昭和十九年七月、北ビルマの要衝、ミートキーナ守備隊は、二ヶ月近く優勢な米国・中国の連合軍の攻撃にさらされて、孤軍奮闘中であった。

 「回想ビルマ作戦」(野口省己・光人社)によると、本多軍司令官は、ミートキーナ守備隊長、水上源蔵少将(みなかみ・げんぞう・山梨県出身・陸士二三・陸軍戸山学校・歩兵第六六連隊長・歩兵第一一〇連隊長・少将・留守第五四師団兵務部長・第五六歩兵団長・自決・中将)に対して、持久可能の見込みについて意見を求めた。

 水上少将から「二ヶ月以上の持久は可能ならん」との電報があって、大いに意を強くした。だが、その後、数日もたたないのに、「敵は真面目の攻撃を開始せり。陣地設備薄弱、弾薬、糧食も僅少にして持久困難なり」との入電があった。

 軍ではその態度の急変に驚いた。直ちに幕僚間で検討を行ったが、前電は水上少将独自の意見であり、後電は、他の幕僚の意見が加えられて変更されたものであろうと推定された。

355.辻政信陸軍大佐(15)川口元少将、辻元大佐は聴衆の前で公開討論を引き起こした

2013年01月10日 | 辻政信陸軍大佐
 ここで、初めて前述の話が辻中佐から丸山中将に伝わっていないことを川口少将は知った。

 「では、先発隊の第三大隊で夜戦をかけます」と川口少将が言うと、丸山中将は「命令は文書の通り実行せよ」と怒鳴った。

 やがて丸山中将は川口少将を改めて電話に呼び出し、「川口少将、貴官はただちに師団司令部に出頭せよ」と命令した。

 川口少将が指揮を東海林大佐に引継ぎ、丸山中将のところへ着くと、なんと解任させられていた。

 辻中佐は、この件を知ると、電話で小沼大佐を呼び出し、「川口少将が攻撃前進を拒否し、師団長は彼を解任しました」と伝えたという。

 戦後、辻大佐が日本に帰国し潜行から現れると、石川県で、川口元少将、辻元大佐は聴衆の前で公開討論を引き起こした。

 この公開討論会では、辻元大佐が「川口少将は初めから成功の見込みなしと考えてやる気がなかった、いやしくも戦場で天子様に一命を捧げる忠誠心のない者は、解任されるのが当然である」と主張した。

 川口元少将も、事実に基づいて反論したが、聴衆には辻元大佐の支持者が多く、野次と怒号が飛び交い、公開討論会は、辻元大佐の優勢に終わった。

 昭和十九年七月三日、「陸軍大佐辻政信を第三十三軍参謀に補す」との電報が、第三三軍司令部に舞い込んできた。

 「回想ビルマ作戦」(野口省己・光人社)によると、この電報は一瞬、なにかの間違いではないかと、真意のほどを疑うくらい第三三軍司令部内を驚かせた。

 定期異動の時期でもないのに、季節外れの電報だった。何事が起こったのだろうかと思った。恐らく、高級参謀白崎嘉明大佐(陸士三四・陸大四三・第一八師団参謀長)との交代であろうと想像した。

 ところが、いつまでたっても白崎大佐の転任の発令はなかったので、中間軍の小さな世帯に大物の大佐参謀が二人も揃うという変則が生まれた。

 考えたのは、軍は近く断作戦(印支ルート遮断作戦の秘匿名)の重責を担うことになったので、幕僚陣の戦力を強化するための起用であろうと考えた。

 当時は辻参謀といえば「作戦の神様」として、陸軍部内きっての戦上手の参謀として、その名を轟かせていた。

 辻政信大佐は、このようにいろいろと噂の渦巻く中を、七月十日、メイミョーの第三三軍司令部に着任した。

 後で聞いた話では、真相は辻大佐が中国の占領政策について、東條英機総理大臣と衝突し、その逆鱗にふれての懲罰人事として、戦局苛烈なビルマに飛ばされたとのことで、とんだハプニングだった。

 二人の大物の大佐参謀を抱えて、軍司令官・本多政材中将(ほんだ・まさき・長野県・陸士二二・陸大二九・フランス駐在・中将・支那派遣軍総参謀副長・第八師団長・機甲本部長・第二〇軍司令官・第三三軍司令官)はその処遇に迷った。

 辻政信大佐(陸士三六首席・陸大四三恩賜)は、さきのマレー作戦で第二十五軍作戦主任参謀、大本営作戦班長、支那総軍課長参謀を歴任している。

 白崎嘉明大佐(陸士三四・陸大四三)は、辻大佐より二期先輩で先任でもあり、立派に高級参謀の職を果たしつつあった。小世帯の軍司令部では、高級参謀を二人おくこともできなかった。

 本多軍司令官はやむなく、「辻君は、中佐参謀になったつもりで、作戦主任参謀として働いてもらいたい」と、辻大佐に申し渡した。

 これでは、二段階以上の格下げとなった。いうなれば、大会社の本社の課長から、新設の田舎の支店の係長か、平社員に飛ばされたようなものだった。

 だが、辻大佐は、東條人事の厳しさが骨身にこたえたようで、「よろこんでお受けいたします。死力を尽くして頑張ります」と神妙な顔で答えていた。

354.辻政信陸軍大佐(14)『戦争は全くおもしろくなって来ましたね』と言って高笑いした

2013年01月03日 | 辻政信陸軍大佐
 以上「ガダルカナル」の文中に「K少将」とあるのは、川口少将のことだ。一方、川口少将の手記「真書ガダルカナル」にはこの事件について、次のように記してある。まず、田村大隊の件について。

 「辻手記はこの際支隊長たる私が自ら陣頭に立って田村大隊の戦果を拡大すべきだったとしているが、遺憾ながら田村大隊のこの情況は大隊が帰ってから後、初めて聞いたことである。仮に適時に聞いていたとしても前記の様に、私は一兵の予備隊も持っていなかったのである」。

 以上川口少将の記事が、ごまかしや言い訳でないことは、当時の状況が明らかになっている今日、はっきりしている。次に「単身、ラポールに戦況報告に帰還した」ことについては、川口少将は次のように述べている。

 「軍司令官からは、私が舟艇機動に付屢々(しばしば)意見具申したこと、マタニコウ川左岸に移って以来作戦上に関する意見の相違等に付き、大層御不興を蒙った。然し之は国家の為を思えばこそ、自己の所信を開陳したのだから致し方ない」

 「私は次の作戦には十分糧食、弾薬を用意すること、之が為には前の様に急がれずに、やって貰いたい。十一月三日明治節を目途にして攻撃開始されたい。又地図がなくて困ったから、航空写真をとり戦場付近のものを相当数下付せられたいと御願いした」

 「又々辻手記で恐れ入るが、彼の手記によると私のラバウル行きを、何か勝手に来て、弱音を吐いた様に書いてあるが、それは前記の通り、軍命令に依って招致されたことを付記しておく」。

 次に、ヘンダーソン米軍飛行場の奪回作戦のことについて、「辻政信・その人間像と行方」(堀江芳孝・恒文社)によると、戦後、川口元少将は、中村明人元中将と著者、堀江芳孝元少佐の二人に次のように語った。

 「丸山中将隷下での兵力は、右翼隊が川口少将の指揮する部隊、左翼隊は那須少将の指揮する部隊で、その下に若松の歩兵第二九連隊があり、古宮大佐が連隊長だった」

 「部隊が前進を始めて間もなく、川口は偶然辻に会った。『ああ辻君に会えてよかった。小沼の計画はうまくいかないぞ、オレの右翼隊は九月にオレがやった場所と殆ど同じ場所で攻撃することになる。山がけわしくて正面攻撃に向かないよ。海軍が撮った航空写真を君は見たかね。米軍の最近の防備強化はすごいぞ。正面攻撃は無理だ。オレは東側面から敵の背後に迂回したい。その付近の地形は自分が見てよく知っている。山がなだらかで、行動が容易だ。那須部隊が計画通り攻撃すれば、ちょうど米軍をハサミ撃ちすることができる』と言った」

 「すると辻は『写真を見る必要はありません。私も地形をよく知っており、閣下の提案に全面的に同意します』と答えた」

 「川口が『私が師団長のところに具申に行きたい』と言うと、辻は『その必要はありません。私から直接丸山閣下に説明しましょう。武運を祈ります』と言い辻は手を差し出した」

 「そして『戦争は全くおもしろくなって来ましたね』と言って高笑いした。あとで分かったことだが、辻はこの件を丸山中将に一言半句も伝えていなかった」

 以上の話は、筆者の堀江芳孝元少佐が、新橋の森ビルにある中村明人元中将(なかむら・あけと・愛知県出身・陸士二二・陸大三四恩賜・大佐・人事局恩賞課長・少将・第三軍参謀長・軍務局長・兵務局長・中将・第五師団長・憲兵司令官・タイ駐屯軍司令官・第一八方面軍司令官・戦後日南産業社長)が社長をしている日南産業での昼食で川口清健元少将から直接聞いたものだった。

 川口元少将は昼食をそっちのけで、当時の回顧談を溢れる涙を払いながら語った。「私は辻にやられました」と言った。

 中村元中将も「辻というのはそんな男だ」と言って、もらい泣きしていた。川口元少将によると、解任のときの状況は次のようなものだった。

 豪雨に見舞われ、丸山中将の指揮する部隊は前進が遅れた。そこで総攻撃が一日延期された。十月二十三日朝、態勢が整わないので三度攻撃の延期を決定し、翌日の夜半に攻撃を開始することに決した。

 川口少将は二十三日昼過ぎにこの命令を受け取った。しかし、攻撃発起点まで一日半以上もの距離が残っていた。

 川口少将は丸山中将に緊急電話で「攻撃に間に合いません」と報告した。丸山中将は「これ以上遅らせるわけにはいかぬ」と答えた。