陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

570.源田実海軍大佐(30)源田中佐は「バターン」と大きな音を立てて、人事局別室を出て行った

2017年02月24日 | 源田実海軍大佐
 猪原少佐は、すぐには承知しなかったが、そのうちに源田中佐の熱弁に負けた。「そこまで言われるなら、しょうがありません」。

 近くで聞いていた別室長・大井篤(おおい・あつし)中佐(山形・海兵五一・九番・海大三四・三番・第二遣支艦隊作戦参謀・海軍省軍務局調査課・中佐・海軍省人事局第一課先任局員・第二一特別根拠地隊参謀・軍令部第一部戦争指導班長・海上護衛隊総司令部作戦参謀・大佐・兼連合艦隊参謀・終戦・GHQ歴史課嘱託・著書多数)が源田中佐に声をかけた。

 「ちょっと待った。それを取られたら、あとが続かないよ」。

 大井中佐は海軍兵学校でも、海軍大学校でも源田中佐の一期上だった。その上、人一倍の理屈屋で、納得できなければテコでも動かないような男だった。源田中佐はそれを知っているので、大井中佐のところへは行かずに、猪原少佐のところへ行ったのだ。

 だが、鼻っ柱の強い源田中佐は、反発した。

 「そんなことありませんよ。今度やったら、後はみないらんようになるんだから、次の戦争とか、計画なんていらんのですよ」。

 大井中佐は、その源田中佐の言葉にあきれて、次の様に言った。

 「いやあ、次のパイロットや整備員を養成しなくちゃだめだよ」。

 すると源田中佐は、次の様に答えた。

 「そうですか。人事局が聞かないと言うなら、私はこれから航本(海軍航空本部)教育部に行って交渉してきますから」(大西瀧治郎少将が航空本部総務部長だった)。

 そう言い終わると、右手の中指と親指で「パチッ」と音を立て、入り口に向かい、ドアを引っ張り、源田中佐は「バターン」と大きな音を立てて、人事局別室を出て行った。

 その源田中佐の態度を見て、大井中佐は「ドアが軽いこともあったかもしれないが、こんな風に驕っていたらダメだろう」と思った。

 連合艦隊司令部も第一航空艦隊司令部も自信過剰になっていた上に、ミッドウェー攻略作戦中は米機動部隊が出現しそうもないと判断される情勢になったため、南雲機動部隊全体が弛んだ気分で出撃準備を進めていった。

 ハワイ奇襲作戦の場合とは雲泥の差だった。幕僚ばかりか、総帥である、連合艦隊司令長官・山本五十六大将でさえも、「今度はたいした獲物はないだろう」と口にした。

 昭和十七年五月二十七日、南雲機動部隊は瀬戸内海、岩国沖の柱島から出撃した。その前日の五月二十六日、柱島泊地の旗艦「赤城」で作戦計画の説明と打ち合わせが行われた。

 二航戦司令官・山口多聞少将は、機動部隊司令部計画の索敵では不十分であると主張した。索敵機の数が少ないと言うのである。

 だが、同司令部は計画を改めなかった。索敵計画を立案した航空乙参謀・吉岡忠一(よしおか・ただかず)少佐(静岡・海兵五七恩賜・海大三九首席・第一航空戦隊乙航空参謀・第三艦隊参謀・横須賀航空隊飛行隊長・海軍大学校甲種学生・第二六航空戦隊首席参謀・兼第一航空艦隊参謀・中佐・横須賀鎮守府附・ルソン島で捕虜・戦後吉岡商会創業)は次のように説明した。

 「これまでの敵情からすれば、ミッドウェー攻略作戦中に、敵艦隊がミッドウェー方面に出現することは、ほとんど考えられません」

 「索敵を厳重にするのがよいことはわかりますが、それには艦攻を使わなければならないので、攻撃兵力が減ることになります。この際は司令部案(南から東、北にかけて七機の索敵機を出す)でよいと思います」。

 この索敵計画に対して、源田実は戦後、「海軍航空隊始末記・戦闘篇」(源田実・文藝春秋)次の様に述べている。

 「私は、いちどミッドウェーの東北方面に出て、東半円に対する索敵をやり、東正面に対する不安を除いた後に南西方面に進撃して、ミッドウェー空襲をやりたかった」

 「しかし、時日の関係で、それができなかった。結局、ミッドウェーの西北方から予定の日に空襲を実施すると言う平凡なものになってしまった」

 「計画を終わってからも、自分ながら自信が持てなかった。『攻撃計画には自信がない』などとは誰にも言わなかったが、内心の不安は打ち消せなかった」

569.源田実海軍大佐(29)当時、機動部隊を源田艦隊と評した者さえあった

2017年02月17日 | 源田実海軍大佐
 草鹿少将は無刀流剣道を修業していたが、その流儀にある金翅鳥(きんしちょう)王剣を特に好んだ。金翅鳥が羽根を天空一面に広げたような心で、太刀を上段にとって敵を追い詰め、ただ一撃で打ち落とし、そのまま上段に返る戦法という。

 宇垣少将はそれに相当の不安を感じて、次の様に述べた。

 「移動性が多く、広い海面に作戦する海上兵力に対して、事前に十分な調査を行い、索敵を完全にするなどは容易ではない。状況の変化に即応する手段こそが肝要なのだ」

 「山口多聞(宇垣と海軍兵学校同期)は、一航艦の思想にあきたらず、作戦実施中もしばしば一航艦司令部に意見具申をしたが、同司令部が計画以外に妙機をつかんで戦果の拡大を計ったり、状況の変化に即応する処置を講じたりすることは絶無だったと、俺に三回も語っていた」

 「俺も山口と同じ考えだ。『一航艦司令部は誰が握っているのか』と尋ねると、山口は『長官はひと言も言わぬ。参謀長(草鹿)、先任参謀(大石)など、どちらがどちらか知らんが、億劫(面倒で気が進まない)屋ぞろいだ』と答えた。今後、千変万化の海洋作戦において、果たしてその任に堪えられるかどうか」。

 さらに、宇垣少将は、草鹿少将に次のように質問をした。

 「艦隊戦闘において敵に先制空襲を受ける場合、あるいは陸上攻撃の際、敵海上部隊より側面をつかれた場合はどうするか」。

 これに対して、草鹿少将は「かかることのないように処置する」と、あっさり答えた。

 さらに追及すると、第一航空艦隊航空甲参謀・源田実中佐(広島・海兵五二・十七番・海大三五次席)が代わって次の様に答えた。

 「艦攻に増槽(追加の燃料タンク)をつけ、四五〇カイリ(約八三三キロ)先まで飛べる偵察機を各母艦に二、三機ずつ配当できるので、これと巡洋艦の零式水偵を使用して、側面哨戒に当たらせる。敵に先んぜられた場合は、現に上空にある戦闘機によって対処する以外に策はない」。

 宇垣少将は、これを悲観的自白と受け取った(以上宇垣纒著「戦藻録」参照)。ところが、源田中佐は、機動部隊の航空戦にかけては、過剰と言えるほど、自信満々だった。

 源田中佐は、空母を集団使用すれば、防空戦闘機を多数配備できるので、敵飛行機隊を撃退できると確信していた。

 軍令部第一部作戦課航空主務部員・三代辰吉(みよ・たつきち)中佐(茨城・海兵五一・海大三三・空母「加賀」飛行隊長・第四航空戦隊参謀・第二艦隊参謀・中佐・軍令部第一部作戦課航空主務部員・第一一航空艦隊参謀・第七三二海軍航空隊司令・大佐・横須賀航空隊副長兼教頭)は次のように語っている。

 「昭和十七年四月二十日頃、軍令部がミッドウェー作戦において、我が空母に損害が出るのではないかと不安を抱いていたとき、源田参謀は、空母を集団使用し、上空警戒機(防空戦闘機)を多数集中すれば、敵の航空攻撃は阻止できると断言し、軍令部を安心させた」。

 当時、源田実航空甲参謀は、「艦爆と雷撃機の大兵力を集中すれば、一挙に敵を撃滅できるし、上空警戒機を多数集中すれば、敵の航空攻撃は阻止できる」という用兵思想に徹していた。

 また、「戦史叢書・ミッドウェー海戦」には、次の様に記されている。

 「南雲長官は、少なくとも航空作戦の計画や指導などには、ほとんどイニシアチィーブをとることはなく、幕僚の意見を『うんよかろう』と決裁していたようである」

 「草鹿参謀長もまた、ほとんど口を出さなかったようである。その上大石首席(先任)参謀は航海専攻の人で、航空に関する経験が少なかった」

 「勢い航空作戦の計画も指導も、源田航空参謀の意見がほとんど全部通っていた。……当時、機動部隊を源田艦隊と評した者さえあった」
 
 「従って一航艦司令部の航空作戦指導は、源田参謀の用兵思想に影響されるところが絶大であったといえよう」。

 昭和十七年五月半ばの頃だった。海軍省人事局別室に、第一航空艦隊航空甲参謀・源田実中佐が入って来て、航空機整備員を担当する猪原武雄少佐に次のように談判を始めた。

 「今度は実に大事な作戦だ。いい整備員が多くいる。整備員の学校から、教官でも教員でも、うんといいのを、できるだけよこしてくれ」。


568.源田実海軍大佐(28)日本海軍は戦艦大和をつくり、共に笑いを後世に残した

2017年02月10日 | 源田実海軍大佐
 大石中佐「ああ、そう言うけどだめなんだよ。ウチじゃそういうこと言ったって、源田君がわれわれの言うことを聞いてくれやしないよ。源田君はもっぱら母艦を集めて、戦闘機だけで守っていれば大丈夫、向こうはぜんぶ落とせる、攻撃は受けないと言って、自信満々なんだ」。

 中島少佐「そう言ったって、大型機に夾叉されたでしょう。運よく命中しなかったけれど、当たれば怪我しますよ」。

 大石中佐「そうなんだが、いくら言っても聞かなくて困るんだ」。

 中島少佐は、大石中佐の口ぶりから、これが源田と他の幕僚の関係をあらわしている、と思った。

 昭和十七年四月二十八日から三日間、連合艦隊は、戦艦「大和」に各司令長官、幕僚を集め、「連合艦隊第一段作戦戦訓研究会」を行なった。

 だが、この研究会について、連合艦隊作戦参謀・三和義勇大佐は、四月二十八日の日記に次のように記している。

 「勝ち戦の研究会は愉快なれども余り身(実)はなし、皆、勇者にして皆智者の如し。失敗も相当多かるべきに」。

 この研究会は、真珠湾で第二撃をやらなかったこと、米空母を捕捉できなかったこと、インド洋で英機動部隊を逸したこと、英爆撃機に奇襲されて「赤城」が危なかったことなども、真剣に検討されず、ほとんど通り一遍のものだったようである。

 それでも、二、三は注目すべきことがあった。

 第二航空戦隊司令官・山口多聞少将は、連合艦隊を再編して、空母を中心とする機動部隊三群にすべきであると主張した。

 これに賛成した、第一航空艦隊航空甲参謀・源田実中佐は、「秦の始皇帝は阿房宮(あぼうきゅう)を作り、日本海軍は戦艦大和をつくり、共に笑いを後世に残した」と公言した。

 続けて、源田中佐は「即刻航空主兵の思想に結集し、一切をあげて航空中心の軍備に徹底すべきだ」と論じた(淵田美津雄大佐の戦後の回想)。

 山本五十六大将が、この両人と同意見であることを知っている一同は、誰も反論しなかった。

 当時、第一航空艦隊旗艦・空母「赤城」飛行隊長だった淵田美津雄(ふちだ・みつお)中佐(奈良・海兵五二・海大三六・空母「龍驤」飛行隊長・佐世保鎮守府参謀・空母「赤城」飛行隊長・第三航空戦隊参謀・空母「赤城」飛行隊長・中佐・横須賀航空隊教官・兼海軍大学校教官・第一航空艦隊参謀・連合艦隊航空甲参謀・大佐・海軍総隊兼連合艦隊航空参謀・戦後キリスト教伝道)は、次の様に考えていた。

 「日本艦隊の主戦兵力は、空母六隻を基幹とする南雲部隊だ。柱島に在泊している戦艦七隻は、もはや中核ではない。無用の長物的遊兵だ」

 「南雲部隊は、やらずもがなの南方作戦に使うべきではなかった。戦艦部隊は柱島に遊ばせておくべきではなかった」

 「これらを合体させて一つの有力な機動部隊を編成し、東方海面で、米国機動部隊と決戦すべきだった」。

 一方、連合艦隊参謀長・宇垣纒(うがき・まとめ)少将(岡山・海兵四〇・九番・海大二二・海軍大学校教官兼陸軍大学校兵学教官・大佐・連合艦隊参謀・戦艦「日向」艦長・少将・軍令部第一部長・第八戦隊司令官・連合艦隊参謀長・中将・第一戦隊司令官・第五航空艦隊司令長官・戦死)は、南雲機動部隊を次のように見ていた。

 「ハワイ海戦にせよ、ポートダ-ウィン、あるいはセイロン方面攻撃にせよ、多くは据物切りと言うべきで、敵に大海上航空部隊がいなかったから、多大の成果が得られたのだ」。

 これに対して、第一航空艦隊参謀長・草鹿龍之介(くさか・りゅうのすけ)少将(石川・海兵四一・十四番・海大二四・装甲巡洋艦「磐手」副長・大佐・航空本部総務部第一課長・空母「鳳翔」艦長・支那方面艦隊参謀・軍令部第一部第一課長・空母「赤城」艦長・少将・第四連合航空隊司令官・第二四航空戦隊司令官・第一航空艦隊参謀長・第三艦隊参謀長・横須賀航空隊司令・南東方面艦隊参謀長・連合艦隊参謀長・中将・第五航空艦隊司令長官)は次のように述べた。

 「海上航空部隊の攻撃は、十分な調査と精密な計画の下に切り下ろす一刀の下にすべてを集中すべきであり、そうしてきた」。



567.源田実海軍大佐(27) なぜ初めに、『意見具申した』と言ったかということだ

2017年02月03日 | 源田実海軍大佐
 ブランゲ博士の「トラ トラ トラ」では、源田中佐や淵田中佐は、積極的に再攻撃の意見具申をしたように書かれている。

 だが、源田中佐と淵田中佐が南雲司令長官や草鹿参謀長に、第二撃(再攻撃)の意見具申をしたということは、実際には、無かった。

 「真珠湾作戦回顧録」(源田実・文春文庫)の「序」で、著者の源田実は次のように記している。

 「私に合点できない一つの例は、第二撃の問題である。私自身は前日まで、連続攻撃の必要性を長官に具申し続けたことを覚えているが、長官には絶対にその意思がないことを見定め、それ以後は一言半句もこれに触れてはいないのである」

 「著書などで、赤城の艦橋で私が二次攻撃を主張したとなっているのもあるが、これは事実に反する。私だけではない。他の何人からも強い二次攻撃に関する意見具申はなかった」。

 また、「風鳴り止まず」(源田実・サンケイ出版)でも、源田実自身、次のように記している。

 「ハリウッド映画『トラ トラ トラ』などで、淵田中佐が私に『もう一度攻撃させろ』と言ったことになっているが、あれはウソである。また私が南雲長官や草鹿参謀長に対して、再度出撃を迫ったというのも、これまたウソである」

 「淵田中佐は、もう一度出撃するつもりで、士官室で腹ごしらえをしていたし、第二航空戦隊の山口多聞少将は『われ、第二出撃準備完了す』と催促の信号を送って来た」

 「また、第三戦隊司令官・三川軍一中将からも、もう一度攻撃を加えるべきである旨の意見具申があったことは事実である」

 「だが、そのころは、朝から悪かった天候が一層悪化し、夜間攻撃を終えて帰って来る飛行機の収容は、不可能な状態にあった。それは敵の潜水艦よりも危険だった」。

 こうなると、ブランゲが「トラ トラ トラ」でデッチ上げを書いたか、源田がブランゲにデッチ上げを言ったか、どちらかになる。

 「トラ トラ トラ」を翻訳したのは、千早正隆(ちはや・まさたか・海兵五八・八番・海大三九・第四南遣艦隊作戦参謀・連合艦隊作戦乙参謀・兼海軍総隊参謀・終戦時中佐)だ。

 ブランゲが淵田や源田にインタビューしたとき通訳をした千早は、次の様に断言している。

 「ブランゲは源田氏や淵田氏にインタビューしていた時、なぜ第二撃をやらなかったかを、非常に聞いている。源田氏は『第二撃の意見具申をしたんだが、採用にならなかったんだ』と、はじめの時言った」

 「ブランゲの『トラ トラ トラ』では『意見具申した』となっている。そこで私が感じた事は、なぜ初めに、『意見具申した』と言ったかということだ。ああいう重大な問題について明言したことを、後になって言った事は無かったと言うのは、おかしいと思う」

 「淵田氏はイマジネーション(想像力)が強い。ブランゲと私が感じた事だ。攻撃から最後に帰り、すぐ艦橋に上がり、二撃を力説したと言っていた。実際はそういうことをやっていない。意見具申すべきだと思っていたのが、意見具申したになったようだ」。

 『トラ トラ トラ』の単行本や映画に出てくる淵田や源田はカッコいい。両人ともそうありたいと切望し、ブランゲに対して、ないこともあったように話したというのが、真相のようである。

 昭和十七年四月二十二日、機動部隊本隊の空母「赤城」「蒼龍」「飛龍」は、それぞれ内地の母港に、四ケ月余ぶりに帰港した。

 「航空作戦参謀 源田実」(生出寿・徳間文庫)によると、四月末、瀬戸内海西部の柱島泊地に在泊する第二艦隊(南方部隊本隊)旗艦・重巡洋艦「愛宕」で、インド洋作戦までの作戦研究会が開かれた。

 この「愛宕」に、一航艦先任参謀・大石保(おおいし・たもつ)中佐(高知・海兵四八・十三番・海大三〇・砲艦「嵯峨」艦長・興亜院調査官・第一航空艦隊先任参謀・海軍大学校教官・特設巡洋艦「愛国丸」艦長・大佐・海軍省兵備局第三課長・第一課長・運輸本部総務課長・海軍航海学校教頭・横須賀突撃隊司令・戦後第二復員官・佐世保地方復員局艦船運航部長・死去・少将)が来艦した。

 この大石中佐に、第二艦隊通信参謀・中島親孝(なかじま・ちかたか)少佐(北海道札幌市・海兵五四・海軍通信学校高等科首席・海大三七・少佐・軍令部第四部九課・第二艦隊参謀・第三艦隊通信参謀・連合艦隊情報参謀・中佐・兼海軍総隊参謀・戦後厚生省援護局第二課長・著書「連合艦隊作戦室から見た太平洋戦争」)が次の様に話しかけた。

 中島少佐「ツリンコマリ攻撃の時、「赤城」は英国の大型機に爆撃されて、夾叉(きょうさ)されている(数個の爆弾が艦を挟むように弾着する)じゃないですか。危ないですから、ひと固まりの隊形を考え直して、陣容をもっと強化しなければだめですよ」。