それで小磯軍務局長が大臣に取り次がねばならないので、兎に角一度読んでから意見を聞かしてくれと永田軍事課長に言った。
翌日永田軍事課長に「昨日の書類を読んだか」と聞くと、永田課長は「やはり意見を書かねばならないのですか」というので、「そうじゃないのだ。意見を聞きたいのであって、別に意見を書いて出せと言うのじゃない」と言った。
仕方がないので小磯軍務局長は、宇垣陸軍大臣に大川博士の提案書の原文と添え書きを提出した。
だが、永田軍事課長は、何を勘違いしたのか、その日の午後、意見書をペンで書いて小磯軍務局長へ提出した。小磯軍務局長は参考のため、受理して、一読して、保管して置いた。
これが、後日、時の軍務局長・山岡重厚少将が発見して、永田大佐を快く思っていない一部の者が、鬼の首でも取ったように騒ぎ立て、「三月事件は時の永田軍事課長が計画し、これを基礎として小磯軍務局長らが、踊ったのだろう」と勘違いして、怪文書まで出して攻撃した。
以上の如く、永田軍事課長はこのクーデター計画に完全に無関係とは言えないが、当初より、小磯軍務局長に「暴力革命は反対である」と岡村寧次補任課長と共に、反対の急先鋒となっていたのは明らかだ。
さらに、三月事件は、宇垣陸軍大臣が、大川博士の提案書を読んで「あんなばかなものが採用できるものか」という表現で、小磯軍務局長に言い、相手にしなかった。
最終的には、宇垣陸軍大臣が「そんな気がないのだ」ということで、二宮参謀次長、小磯軍務局長らが、クーデターの決行を中止することに傾いたことで、三月事件は収束に向かった。
以上が、「秘録 永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)による、三月事件と永田軍事課長の関連を述べたものだ。
ところが、「相沢中佐事件の真相」(菅原裕・経済往来社)によると、永田軍事課長が深く関わっていると主張している。著者の菅原裕氏は、相沢中佐の弁護人、鵜沢聡明弁護士の後任の弁護士であり、元東京弁護士会会長、東京裁判弁護人を務めた。
この本によると、三月事件とは、昭和六年三月二十日を期して軍閥が武力をもって国内政治の支配権を獲得しようとしたものである、として次の様に記している。
当時、陸軍省、参謀本部の首脳者だった陸軍次官・杉山元中将、軍務局長・小磯国昭少将、軍事課長・永田鉄山大佐、参謀本部支那課・根本博少佐、参謀次長・二宮治重中将、参謀本部部長・建川美次少将、同作戦課長・山脇正隆大佐、補任課長・岡村寧次大佐、ロシア課長・橋本欣五郎中佐らが、計画した。
彼らは、民間の大川周明や右翼団体と結び、陸相・宇垣一成大将を擁立して折から開会中の議会を包囲して一挙に軍事政権を樹立しようとしたクーデター陰謀事件であった。
それが同じ軍内の皇道派将校の正論に妨げられて、ついに行動中止のやむなきに至り、未遂に終わったものである。
永田軍事課長のクーデター計画書は、陸軍省の最重要ポストである軍務局の中心的存在というべき軍事課長の永田鉄山大佐が、いわゆる三月事件といかなる関係にあったかを証明する最も重要な証拠である。
これは永田軍事課長が直筆をもって認め、小磯軍務局長に提出し、小磯中将が軍務局長専用の金庫内に保管していたが、亊破れクーデターを中止したためこの行動計画書も実用に供されずそのまま金庫の奥深く保存されたままになっていた。
軍務局長のポストはその後、小磯中将から山岡重厚中将に引き継がれたが、山岡新軍務局長が後日、金庫の中を検査した際、この計画書が発見されたのである。
彼ら三月事件関係者の計画がここまで進捗していたことに驚愕し、ただちにこれを荒木陸相に提出した。荒木陸相はことの容易ならざることを知った訳だが、国際情勢のただならぬ秋、優秀な人材(三月事件関係者・統制派)を軍から失う事を恐れ、その処分を猶予し、従って書類も厳密に付したまま保管し続けた。
また、この三月事件を阻止したのは、山岡重厚大佐と小畑敏四郎大佐、それに真崎甚三郎(まさき・じんざぶろう)中将(佐賀・陸士九・陸大一九恩賜・陸軍省軍務局軍事課長・近衛歩兵第一連隊長・少将・歩兵第一旅団長・陸軍士官学校本科長・陸軍士官学校教授部長兼幹事・陸軍士官学校長・中将・第八師団長・第一師団長・台湾軍司令官・参謀次長・大将・教育総監・軍事参議官)であった。
翌日永田軍事課長に「昨日の書類を読んだか」と聞くと、永田課長は「やはり意見を書かねばならないのですか」というので、「そうじゃないのだ。意見を聞きたいのであって、別に意見を書いて出せと言うのじゃない」と言った。
仕方がないので小磯軍務局長は、宇垣陸軍大臣に大川博士の提案書の原文と添え書きを提出した。
だが、永田軍事課長は、何を勘違いしたのか、その日の午後、意見書をペンで書いて小磯軍務局長へ提出した。小磯軍務局長は参考のため、受理して、一読して、保管して置いた。
これが、後日、時の軍務局長・山岡重厚少将が発見して、永田大佐を快く思っていない一部の者が、鬼の首でも取ったように騒ぎ立て、「三月事件は時の永田軍事課長が計画し、これを基礎として小磯軍務局長らが、踊ったのだろう」と勘違いして、怪文書まで出して攻撃した。
以上の如く、永田軍事課長はこのクーデター計画に完全に無関係とは言えないが、当初より、小磯軍務局長に「暴力革命は反対である」と岡村寧次補任課長と共に、反対の急先鋒となっていたのは明らかだ。
さらに、三月事件は、宇垣陸軍大臣が、大川博士の提案書を読んで「あんなばかなものが採用できるものか」という表現で、小磯軍務局長に言い、相手にしなかった。
最終的には、宇垣陸軍大臣が「そんな気がないのだ」ということで、二宮参謀次長、小磯軍務局長らが、クーデターの決行を中止することに傾いたことで、三月事件は収束に向かった。
以上が、「秘録 永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)による、三月事件と永田軍事課長の関連を述べたものだ。
ところが、「相沢中佐事件の真相」(菅原裕・経済往来社)によると、永田軍事課長が深く関わっていると主張している。著者の菅原裕氏は、相沢中佐の弁護人、鵜沢聡明弁護士の後任の弁護士であり、元東京弁護士会会長、東京裁判弁護人を務めた。
この本によると、三月事件とは、昭和六年三月二十日を期して軍閥が武力をもって国内政治の支配権を獲得しようとしたものである、として次の様に記している。
当時、陸軍省、参謀本部の首脳者だった陸軍次官・杉山元中将、軍務局長・小磯国昭少将、軍事課長・永田鉄山大佐、参謀本部支那課・根本博少佐、参謀次長・二宮治重中将、参謀本部部長・建川美次少将、同作戦課長・山脇正隆大佐、補任課長・岡村寧次大佐、ロシア課長・橋本欣五郎中佐らが、計画した。
彼らは、民間の大川周明や右翼団体と結び、陸相・宇垣一成大将を擁立して折から開会中の議会を包囲して一挙に軍事政権を樹立しようとしたクーデター陰謀事件であった。
それが同じ軍内の皇道派将校の正論に妨げられて、ついに行動中止のやむなきに至り、未遂に終わったものである。
永田軍事課長のクーデター計画書は、陸軍省の最重要ポストである軍務局の中心的存在というべき軍事課長の永田鉄山大佐が、いわゆる三月事件といかなる関係にあったかを証明する最も重要な証拠である。
これは永田軍事課長が直筆をもって認め、小磯軍務局長に提出し、小磯中将が軍務局長専用の金庫内に保管していたが、亊破れクーデターを中止したためこの行動計画書も実用に供されずそのまま金庫の奥深く保存されたままになっていた。
軍務局長のポストはその後、小磯中将から山岡重厚中将に引き継がれたが、山岡新軍務局長が後日、金庫の中を検査した際、この計画書が発見されたのである。
彼ら三月事件関係者の計画がここまで進捗していたことに驚愕し、ただちにこれを荒木陸相に提出した。荒木陸相はことの容易ならざることを知った訳だが、国際情勢のただならぬ秋、優秀な人材(三月事件関係者・統制派)を軍から失う事を恐れ、その処分を猶予し、従って書類も厳密に付したまま保管し続けた。
また、この三月事件を阻止したのは、山岡重厚大佐と小畑敏四郎大佐、それに真崎甚三郎(まさき・じんざぶろう)中将(佐賀・陸士九・陸大一九恩賜・陸軍省軍務局軍事課長・近衛歩兵第一連隊長・少将・歩兵第一旅団長・陸軍士官学校本科長・陸軍士官学校教授部長兼幹事・陸軍士官学校長・中将・第八師団長・第一師団長・台湾軍司令官・参謀次長・大将・教育総監・軍事参議官)であった。