陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

514.永田鉄山陸軍中将(14)永田大佐を快く思っていない一部の者が、鬼の首でも取ったように

2016年01月29日 | 永田鉄山陸軍中将
 それで小磯軍務局長が大臣に取り次がねばならないので、兎に角一度読んでから意見を聞かしてくれと永田軍事課長に言った。

 翌日永田軍事課長に「昨日の書類を読んだか」と聞くと、永田課長は「やはり意見を書かねばならないのですか」というので、「そうじゃないのだ。意見を聞きたいのであって、別に意見を書いて出せと言うのじゃない」と言った。

 仕方がないので小磯軍務局長は、宇垣陸軍大臣に大川博士の提案書の原文と添え書きを提出した。

 だが、永田軍事課長は、何を勘違いしたのか、その日の午後、意見書をペンで書いて小磯軍務局長へ提出した。小磯軍務局長は参考のため、受理して、一読して、保管して置いた。

 これが、後日、時の軍務局長・山岡重厚少将が発見して、永田大佐を快く思っていない一部の者が、鬼の首でも取ったように騒ぎ立て、「三月事件は時の永田軍事課長が計画し、これを基礎として小磯軍務局長らが、踊ったのだろう」と勘違いして、怪文書まで出して攻撃した。

 以上の如く、永田軍事課長はこのクーデター計画に完全に無関係とは言えないが、当初より、小磯軍務局長に「暴力革命は反対である」と岡村寧次補任課長と共に、反対の急先鋒となっていたのは明らかだ。

 さらに、三月事件は、宇垣陸軍大臣が、大川博士の提案書を読んで「あんなばかなものが採用できるものか」という表現で、小磯軍務局長に言い、相手にしなかった。

 最終的には、宇垣陸軍大臣が「そんな気がないのだ」ということで、二宮参謀次長、小磯軍務局長らが、クーデターの決行を中止することに傾いたことで、三月事件は収束に向かった。

 以上が、「秘録 永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)による、三月事件と永田軍事課長の関連を述べたものだ。

 ところが、「相沢中佐事件の真相」(菅原裕・経済往来社)によると、永田軍事課長が深く関わっていると主張している。著者の菅原裕氏は、相沢中佐の弁護人、鵜沢聡明弁護士の後任の弁護士であり、元東京弁護士会会長、東京裁判弁護人を務めた。

 この本によると、三月事件とは、昭和六年三月二十日を期して軍閥が武力をもって国内政治の支配権を獲得しようとしたものである、として次の様に記している。

 当時、陸軍省、参謀本部の首脳者だった陸軍次官・杉山元中将、軍務局長・小磯国昭少将、軍事課長・永田鉄山大佐、参謀本部支那課・根本博少佐、参謀次長・二宮治重中将、参謀本部部長・建川美次少将、同作戦課長・山脇正隆大佐、補任課長・岡村寧次大佐、ロシア課長・橋本欣五郎中佐らが、計画した。

 彼らは、民間の大川周明や右翼団体と結び、陸相・宇垣一成大将を擁立して折から開会中の議会を包囲して一挙に軍事政権を樹立しようとしたクーデター陰謀事件であった。

 それが同じ軍内の皇道派将校の正論に妨げられて、ついに行動中止のやむなきに至り、未遂に終わったものである。

 永田軍事課長のクーデター計画書は、陸軍省の最重要ポストである軍務局の中心的存在というべき軍事課長の永田鉄山大佐が、いわゆる三月事件といかなる関係にあったかを証明する最も重要な証拠である。

 これは永田軍事課長が直筆をもって認め、小磯軍務局長に提出し、小磯中将が軍務局長専用の金庫内に保管していたが、亊破れクーデターを中止したためこの行動計画書も実用に供されずそのまま金庫の奥深く保存されたままになっていた。

 軍務局長のポストはその後、小磯中将から山岡重厚中将に引き継がれたが、山岡新軍務局長が後日、金庫の中を検査した際、この計画書が発見されたのである。

 彼ら三月事件関係者の計画がここまで進捗していたことに驚愕し、ただちにこれを荒木陸相に提出した。荒木陸相はことの容易ならざることを知った訳だが、国際情勢のただならぬ秋、優秀な人材(三月事件関係者・統制派)を軍から失う事を恐れ、その処分を猶予し、従って書類も厳密に付したまま保管し続けた。

 また、この三月事件を阻止したのは、山岡重厚大佐と小畑敏四郎大佐、それに真崎甚三郎(まさき・じんざぶろう)中将(佐賀・陸士九・陸大一九恩賜・陸軍省軍務局軍事課長・近衛歩兵第一連隊長・少将・歩兵第一旅団長・陸軍士官学校本科長・陸軍士官学校教授部長兼幹事・陸軍士官学校長・中将・第八師団長・第一師団長・台湾軍司令官・参謀次長・大将・教育総監・軍事参議官)であった。

513.永田鉄山陸軍中将(13)私はそんな非合法的処置には元々反対の意見を持っています

2016年01月22日 | 永田鉄山陸軍中将
 永田鉄山中将を偲び刊行された「秘録 永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)では、三月事件について、次のように述べている。

 この三月事件の主要計画参加者は次の通り。

 【参謀本部】

 参謀次長・二宮治重(にのみや・しげはる)中将(岡山・陸士一二・陸大二二恩賜・近衛歩兵第三連隊長・少将・英国大使館附武官・歩兵第二旅団長・参謀本部第二部長・中将・参謀次長・第五師団長・予備役・文部大臣)。

 第二部長・建川美次(たてかわ・よしつぐ)少将(新潟・陸士一三・陸大二一恩賜・参謀本部欧米課長・陸軍大学校兵学教官・少将・参謀本部第二部長・参謀本部第一部長・ジュネーブ軍縮会議陸軍代表・国際連盟陸軍代表・中将・ジュネーブ軍縮会議全権委員・第一〇師団長・第四師団長・予備役・「ソビエト」社会主義共和国連邦在勤特命全権大使・大日本翼賛壮年団長)。

 支那課長・重藤千秋(しげとう・ちあき)大佐(福岡・陸士一八・陸大三〇・参謀本部支那課長・歩兵第七六連隊長・第一一師団参謀長・少将・歩兵第一一旅団長・台湾守備隊司令官・中将)。

 陸軍大学校教官・橋本欣五郎(はしもと・きんごろう)中佐(福岡・陸士二三・砲工二一・陸大三二・トルコ公使館附武官・参謀本部欧米課ロシア班長・砲兵中佐・陸軍大学校兵学教官・野戦重砲兵第二連隊附・砲兵大佐・野戦重砲兵第二連隊長・予備役・野戦重砲兵第一三連隊長・大政翼賛会常任理事・衆議院議員・A級戦犯・終身刑・参議院選挙で落選)。

 【陸軍省】

 陸軍次官・杉山元(すぎやま・げん)中将(福岡・陸士一二・陸大二二・陸軍省軍務局航空課長・軍事課長・少将・陸軍航空本部補給部長・国際連盟陸軍代表・軍務局長・中将・陸軍次官・第一二師団長・陸軍航空本部長・参謀次長兼陸軍大学校長・教育総監・大将・陸軍大臣・北支那方面軍司令官・参謀総長・元帥・教育総監・第一総軍司令官・自決)。

 軍務局長・小磯国昭(こいそ・くにあき)少将(山形・陸士一二・陸大二二・参謀本部編制動員課長・陸軍大学校兵学教官・少将・陸軍航空本部総務部長・陸軍省整備局長・軍務局長・中将・陸軍次官・関東軍参謀長・第五師団長・朝鮮軍司令官・大将・予備役・拓夢大臣・朝鮮総督・首相・A級戦犯で終身刑・巣鴨拘置所で病死)。

 【民間】

 大川周明(おおかわ・しゅうめい)博士(山形・東京帝国大学文科大学<印度哲学専攻>卒業・インド独立運動支援・満鉄入社・満鉄東亜経済調査局編輯課長・拓殖大学教授・法学博士・法政大学教授大陸部部長・五一五事件で服役・A級戦犯容疑で起訴されるも精神障害で免訴・松沢病院に入院・退院後農村復興運動に従事)。

 以上が主要参加者であるが、この事件に永田鉄山軍事課長は、どのような役割を演じたのか、各種の説に分かれているが、多くの文書によると、永田軍事課長はワキ役であり、小磯軍務局長のクーデターの話を聞いて「こうした非合法手段には反対である」と言って消極的であったと言われている。
 
 小磯軍務局長の「葛山鴻爪」(小磯国昭・小磯国昭自叙伝刊行会・昭和三十九年)によると、三月事件発端の概略と永田軍事課長の関わりは次のように述べられている(要旨抜粋)。

 議会混乱、政局混乱の最中、昭和六年二月、大川周明博士が小磯軍務局長の自宅を訪ね、宇垣陸軍大臣への執拗なる面会取次ぎを依頼した。

 小磯軍務局長は二月二十六日、大臣室に宇垣陸軍大臣を訪ね「大川博士が大臣に再度面会を希望して聴かないのです。もう一度引見の上、今後面会を受ける必要がないようにされたら如何でしょう」と進言した。

 大川博士は政情改善案を宇垣陸軍大臣に提案しようとしていたが、議会襲撃などの過激なものだった。小磯軍務局長は、大臣に面会する前にその案を書面にして提出するよう求めた。参謀本部の二宮次長もそれに同意し、建川第二部長を呼んで協議し、建川第二部長も了承した。

 大川博士の提出した宇垣陸軍大臣に宛てた提案書は、半紙二枚に毛筆で自筆したもので、「政変を招来し強力なる政府を樹立する」という事が書かれ、その実行要領が記されていた。

 これを読んだ小磯軍務局長は、その内容が、大川博士の従来の大言壮語に比べても、これ程無責任極まるものは無いと考えた。

 小磯軍務局長が「こんな簡単な書き物を基礎として仕事ができるとは思われませんね」と言うと、大川博士は「御指示により如何様にも増補修正致します」と答えた。

 小磯軍務局長は「これを読んだだけでは何のことか分らない点が多々ありますので、このまま大臣に取り次ぐわけにいかないので、一々質問しますから説明してください」と言って、色々質問し、「私が解ったところだけ、別に原文に添えて大臣に提出します」と告げた。

 小磯軍務局長は、翌日陸軍省に登庁し、永田軍事課長を呼んで、大川博士問題の経過を語った。すると永田軍事課長は「そのことは薄々耳にしていましたが、私はそんな非合法的処置には元々反対の意見を持っています」と答えた。





512.永田鉄山陸軍中将(12)この頃から小畑大佐と永田大佐の亀裂はますます広がっていった

2016年01月15日 | 永田鉄山陸軍中将
 だが、この「一夕会」結成に対して、小畑大佐は反対していた。小畑大佐は「永田大佐は、二葉会結成当初の目標や理想の実現が遠くにあることにしびれを切らし、木曜会の若い将校等も仲間に入れて、自分達の栄達を実現しようとしている」と、永田大佐らに批判的な思いを持っていた。

 永田大佐の強い政治的能力により、さすがの小畑大佐も結局、「一夕会」結成に動かざるを得なかった。だが、この頃から小畑大佐と永田大佐の亀裂はますます広がっていった。

 一方、昭和六年九月、「桜会」が結成された。「桜会」は、次の二人が中心になって主導した。

 参謀本部ロシア班長・橋本欣五郎(はしもと・きんごろう)中佐(岡山・陸士二三・砲工高等二一・陸大三二・トルコ公使館附武官・参謀本部ロシア班長・中佐・「桜会」結成・陸軍大学校教官・「十月事件」で謹慎処分・野重砲兵第二連隊附・大佐・野重砲兵第二連隊長・予備役・召集・野重砲兵第一三連隊長・衆議院議員)。

 参謀本部支那課・長勇(ちょう・いさむ)少佐(福岡・陸士二八・陸大四〇・歩兵第七四連隊長・大佐・第二六師団参謀著・第二五軍参謀副長・少将・第一〇歩兵団長・第三二軍参謀長・中将・沖縄で自決)。

 「桜会」は陸軍省や参謀本部の中佐以下の中堅幕僚二十名余りが参加した。翌昭和七年五月頃には一〇〇余名まで増えた。彼らは、反米、反中で、政党内閣を廃し、軍事政権を樹立するという国家改造構想を持っていた。

 昭和五年八月永田大佐は中央に戻り、軍務局軍事課長に補された。軍事課長に就任した永田大佐は、実務は非常に優秀で、突発事項が発生しても、激することも無く、水が流れる如く、淡々と事務処理をこなしていったといわれている。

 また永田軍事課長は、経済の動向にも眼を配る一方で、新鋭の官僚や財界人と積極的に親交していった。時には一緒になって、羽目を外して遊興することもあった。

 こんな軍人は珍しいと評価される反面、経済不況が続く暗い時代の中で、政党政治が行き詰まり、政治家は無力となり、不正が暴かれテロ事件まで発生している時、政・官・財界人と親しくするとは何事だという中傷や非難の声が出た。

 だが、この時期の永田軍事課長の実績の一つとして、欧米にはるかに遅れていた国産自動車の生産に、陸軍が積極的に協力するようにしたことがある。

 昭和六年九月十八日柳条湖事件が起き、満州事変が勃発したが、永田大佐の軍事課長としての仕事ぶりは、冷静沈着、物に動ぜず、常に余裕しゃくしゃくで、実にしっかりした腹の持ち主であったと言われている。

 満州事変勃発の翌日、陸軍省内は上を下への大騒動であった。そのような時、永田課長は課員を兵務課長のところへ差し向け、かねてよりの問題であった青年将校の檄文に対する処置の件を督促させた。

 当時の兵務課長は、永田大佐と陸士同期の、安藤利吉(あんどう・りきち)大佐(宮城県仙台市・陸士一六・陸大二六恩賜・歩兵第一三連隊長・第五師団参謀長・陸軍省兵務課長・英国大使館附武官・少将・歩兵第一旅団長・陸軍戸山学校長・中将・教育総監部本部長・第五師団長・南支那方面軍司令官・予備役・台湾軍司令官・大将・第一〇方面軍司令官・兼台湾総督・服毒自決・正三位・勲一等・功二級)だった。

 安藤大佐は、永田課長が差し向けた軍事課員の「青年将校の檄文に対する処置」の話を聞き終えると、「永田は、今時、そんな余裕があるのか!!」と反問したという。

 これは、永田大佐が軍事課長としての事務処理を、綿密周到に行い、このような大事件の時でも、それを省略することはしなかったという例である。

 時は前後するが、永田鉄山大佐が軍事課長在任中に三月事件(陸軍中堅幕僚によるクーデター未遂事件)が起きた。

 昭和六年三月、参謀本部の高級幕僚と陸軍省高官の一部が宇垣一成を担いで(首相とする)クーデター計画を実行に移そうとしたが、中止された。これが三月事件である。







511.永田鉄山陸軍中将(11)彼らも諸君と同じ我輩の部下だ。特殊扱いをするには忍びない

2016年01月08日 | 永田鉄山陸軍中将
 昭和二年三月五日永田鉄山中佐は歩兵大佐に進級した。四十三歳だった。翌年の昭和三年三月八日、麻布の歩兵第三連隊長に補された。将校の卵、士官候補生として初めて勤務した懐かしい母隊だった。

 元来歩兵第三連隊は、その徴募区の関係から、下士官兵は境遇や職務上のために、その統率が容易ではないと定評があった。だが、永田連隊長は、識見と才幹と人格を以って彼ら将兵を統御し連隊を一致団結させるとともに、兵士個々の天分を発揮させ士気を高揚させた。

 また歩三の将校団の気風は一種変わった特色があった。「荒武者」と呼ばれる相当頑固で手に負えない連中がいた。

 永田連隊長はこれらの将校たちの指導に特に意を用い、彼らの議論を傾聴し、どんなことでも一々これに明快なる判決を与え、理非に従って指導矯正すると共に、各々の長所を見出し、これを善用することに務めた。

 これにより、これら荒武者の将校たちも「永田連隊長はものの解った男だ」と敬服するようになり、職務を励むようになり、従順になった。

 さらには「連隊長のためには喜んで命を棄てる」という者まで出て来た。これは永田連隊長が根本のところで、推量豊かな才能と、清濁合わせ飲む腹を持っていたことによる。

 一方、永田連隊長は所命の事項に対する報告、意見具申等について、それがたとえ些細な事柄であっても、常に真剣にこれを傾聴したという。

 よく、太っ腹な部隊長に見られるような、その場限りの、お世辞的な「ヤ~御苦労!御苦労さん!」と、ろくろく報告を吟味しないで、おだてるような返答をすることは決してなかった。

 永田連隊長は部下の報告を謹厳な態度で傾聴し、その報告を仔細に検討した後で、賞すべきはこれを褒め、足らないところは懇切にこれを教示した。

 また、軽微な問題でも、理屈が通らなければ何事も承服しなかった。だから、命じられた者は一生懸命に所命の任務に当たったので、連隊全体的に成績が向上していった。

 一方、宴会等の場合、それが将校集会所で行われるときは、連隊長は将校団長たる存在を明らかにしたが、営外で行われる宴会では、連隊長はどこにいるのか判らぬ位で、部下との融和と、気配りに細心の注意を払った。

 昭和三年九月、連隊新兵舎が落成し、天皇陛下の御臨幸を仰ぐことになった。ところが当時は後備兵の召集期であり、召集者の中には、思想上の要注意人物も多数おり、ことに労働争議のリーダー格の全協系の幹部が十七、八名いた。

 これらの者を果たして、御観閲に参列させるべきかどうかが問題となった。御警備主任はこれらの者を参列させるべきではないと主張した。

 すると永田連隊長は「彼らも陛下の股肱(ここう・手足となって働く者)ではないか」と言った。御警備主任は「しかしながら、万一のことがあったら腹を切る位では済みません」と言って強固に反対した。

 これに対し、永田連隊長は「当連隊の兵として、今千歳一遇のこの光栄に遇う、彼らも諸君と同じ我輩の部下だ。特殊扱いをするには忍びないのだ。よろしく、このたびの光栄に浴せしむべきだ」と静かに説き諭すように言った。

 これにより要注意人物を含め連隊の全将兵に、御検閲の栄を得さしめた。行事は何ら事無く、全将兵は感激に浸ることができた。永田連隊長としては、差別扱いをすることで、彼らの思想の悪化を来すのを防いだ。

 昭和四年五月十九日、「昭和陸軍の軌跡」(川田稔・中公新書)によると、「二葉会」と「木曜会」が合流して、「一夕会」が発足した。だが、「二葉会」と「木曜会」は消滅したわけではなく、存続はしていた。

 「一夕会」は第一回会合で、陸軍人事の刷新、満州問題の武力解決、荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎の非長州系三将軍の擁立、の三点を取決め、まず陸軍中央の重要ポスト掌握に向けて動いていく。

 歩兵第三連隊長永田鉄山大佐、歩兵第一〇連隊長・小畑敏四郎大佐、陸軍省人事局補任課長・岡村寧次大佐の三人が主導的地位にあり、ともに四十五歳であった。永田大佐がその中心的存在であった。


510.永田鉄山陸軍中将(10)いや、今日は大隊の長である大隊長が、正座に着くべきだよ

2016年01月01日 | 永田鉄山陸軍中将
 「二葉会」のメンバーは、陸士一五期から一七期までで、次の通り(氏名・陸士期・陸大期・最終階級)。

 中心メンバーの永田鉄山(陸士一六・陸大二三次席・中将)、小畑敏四郎(陸士一六・陸大二三恩賜・中将)、岡村寧次(陸士一六・陸大二五・大将)。

 そのほか、河本大作(陸士一五・陸大二六・大佐)、山岡重厚(陸士一五・陸大二四・中将)、土肥原賢二(陸士一六・陸大二四・大将)、板垣征四郎(陸士一六・陸大二八・大将)、小笠原数夫(陸士一六・陸大二八・中将)、さらに、磯谷廉介(陸士一六・陸大二七・中将)。

 さらに、東條英機(陸士一七・陸大二六・大将)、渡久雄(陸士一七・陸大二五恩賜・中将)、工藤義雄(陸士一七・陸大二七・少将)、松村正員(陸士一七・陸大二八・中将)。

 「昭和陸軍の軌跡」(川田稔・中公新書)によると、「二葉会」は。バーデン・バーデンでの申し合わせを引き継いだが、その間、まず長州閥の打破に力を注いだ。

 永田、小畑、東條、山岡らの陸軍大学校教官時、長州出身者が陸大入学者から徹底して排除された。彼らが陸大教官だった大正十一年から十三年まで、陸大入学者には山口県出身者は全くいない。それまでは毎年平均して三名から五名の山口県出身者が入学していた。

 例えば、大正十二年の陸軍大学校の一次試験(筆記)をパスした山口県出身者は合格者一〇〇名中一七名だった。だが、二次試験(口述)では、合格者五〇名中に山口県出身者は全く含まれていない。口述試験で意図的な配点操作がなされたことが考えられる。

 ところで、「二葉会」にならって、昭和二年十一月から参謀本部作戦課の鈴木貞一と要塞課の深山亀三郎が中心となり中央の少壮幕僚から組織された「木曜会」が発足した。

 「木曜会」は「二葉会」より若い幕僚で構成されていた。「木曜会」のメンバーは、次の通り。

 幹事役の鈴木貞一(陸士二二期・陸大二九・中将)のほか、石原莞爾(陸士二一期・陸大三〇次席・中将)、村上啓作(陸士二二期・陸大二八恩賜・中将)、根本博(陸士二三期・陸大三四・中将)、土橋勇逸(陸士二四期・陸大三二・中将)、深山亀三郎(陸士二四期・陸大三二恩賜・中佐)ら十八名。

 後に、「木曜会」には、永田鉄山、岡村寧次、東條英機が加わった。そして昭和四年五月には、「二葉会」と「木曜会」は合流して「一夕会」ができた。だが、元の「二葉会」と「木曜会」は消滅したわけではなく、依然継続されていた。

 さて、大正十三年八月、永田鉄山中佐は、陸軍大学校兵学教官から、参謀将校の隊附勤務として松本の歩兵第五〇連隊に赴任した。

 当時、永田中佐の名は知れ渡っており、第五〇連隊では勿論、地方側でも、県出身の名士を迎えるというので、歓迎準備が進められた。

 永田中佐は、特に願い出て、自分の同期生が大隊長である大隊に専属して隊務に精勤した。その隊附当時のある日、永田中佐の所属大隊は行軍を行い、某地に宿営した。

 宿営地の村民は大隊の将校一同を招待して、歓迎会を行なった。その席上、同期の大隊長(少佐)は、階級が中佐である、自分より上級者の永田中佐に、上座に着くように勧めた。

 すると、永田中佐は、「いや、今日は大隊の長である大隊長が、正座に着くべきだよ」と言って、しきりに勧める大隊長の言を断固としてしりぞけ、上席には着かず、自ら大隊長の次席に座った。

 後日の話だが、永田中佐が陸軍省整備局動員課長として、各部隊の動員検査に赴いた際でも、最後に自分の所見を述べる時は、その部隊の隊長に敬意を表して、必ず上座を避けて、位置した、という。

 大正十四年二月陸軍省軍事課課員に転補された永田中佐は、五月徴兵令改正審議委員幹事、六月国本社評議員嘱託となり、バーデン・バーデンの密約以来持論であった国家総動員の構築を期すべく、陸軍省内に一局を設置して、これに当たらせることを発案した。

 永田中佐は極力これを実現すべく、立案をして、奔走し、その結果、遂に整備局が新設され、動員課、統制課の二課を置くことが決まった。

 大正十五年十月一日、永田中佐は初代の陸軍省整備局動員課長となり重任についた。四十二歳であった。

 もともと国家総動員の観念及び具体的業務は欧州の第一次世界大戦が生んだもので、永田鉄山の独創的なものではない。

だが、当時雑然として報道された国家総動員関係事項を、日本国の現状に合致するように組織化、体系化したのは、永田中佐だった。