陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

67.南雲忠一海軍中将(7)連合艦隊司令部と機動部隊司令部の間には感情敵的な対立があった

2007年06月29日 | 南雲忠一海軍中将
 機動部隊は結局、天候不良を理由として、ミッドウェイ攻撃をやらなかった。

 すると連合艦隊司令部は、機動部隊に、12月15日、ウェーキ島攻略作戦の支援を命じた。

 開戦と同時にマーシャル群島のケゼリンに本部を置いた第四艦隊は、ウェーキ島の占領を試みたが、敵の抵抗は頑強だった。

 空母エンタープライズが運んだグラマン戦闘機のため、第二艦隊は逆に駆逐艦二隻を撃沈されてしまったのである。

 第四艦隊長官の井上成美中将は、航空部隊の援助を要請した。

 南雲中将と井上中将とは、お互い大佐の時に「省部事務互渉規定改正」をめぐって「判を押さんか」「絶対に押さない」、「殺すぞ」「そんな脅しはこわくない」とやりあった、犬猿の仲であった。

 それは条約派と艦隊派、軍令部と海軍省の闘いでもあった。

 このような立場の南雲と井上であったが、機動部隊の南雲長官は「井上も困っているだろう。こちらはうまくいったが、向こうはウェーキ一つとれなくては、山本さんに合わせる顔もあるまい」と言って攻撃を下令した。

 井上は、山本五十六が次官の時の軍務局長で、山本の秘蔵っ子である。

 12月16日夕刻、南雲長官は山口多聞少将の二航戦に、八戦隊をつけて、ウェーキ再攻撃の増援を命じた。

 再攻撃で、12月22日、米軍のウェーキの航空部隊を全滅させた。その結果、全島占領は成功した。

 機動部隊の旗艦、空母赤城が瀬戸内海の柱島泊地に投錨したのは12月23日午後6時半であった。

 赤城入港の報を聞くと、山本五十六連合艦隊司令長官は、宇垣纏参謀長を呼んで、「君、行ってきたまえ」と言った。

 それは怒ったような口調であったという。いつもの悠揚迫らず、といった山本らしくもなかった。

 理由は、連合艦隊司令部と機動部隊司令部の間には感情敵的な対立があった。

 それは真珠湾攻撃の時に始った。真珠湾に出掛ける直前までは、両者は心が通じ合っていた。

 しかし、機動部隊が一応成功を収めた時から、溝は掘られ始めていた。

 機動部隊には、連合艦隊司令部が何と言おうと、実際に砲火を浴びて戦果を上げたのは俺達だという自負がある。

 連合艦隊司令部としては、前線が戦果を上げ得たのは連合艦隊司令部の指導よろしきを得たからだ、常に連合艦隊司令部を立てるべきだ、それを忘れるな、と言いたいのである。

 柱島泊地に投錨した赤城に宇垣纏参謀長が乗り込んできたが、以上のようないきさつがあるので、あまり歓迎されなかった。

 宇垣参謀長は長官公室に入ると、南雲長官にお祝いの言葉を述べ、次いで、草鹿参謀長と握手しようとした。

 「草鹿、おめでとう。よくやってくれた」そう言ったが、草鹿はすぐには手を出さなかったという。

 なぜ、山本長官が自ら出向いてこないもだろう。出撃の時には、山本長官が赤城の飛行甲板に立って悲壮な激励の辞を贈ったではないか。

 今、成功を収めて凱旋した時、山本長官が赤城に来て労をねぎらってくれたら、どんなに将兵もやりがいを感じたか、と草鹿参謀長は思っていた。

 草鹿参謀長は言った「宇垣参謀長、長官はこられなのですか」。

 「うむ、長官はな、」口ごもった後、宇垣は答えた。

「今夜は遅いので、明日来られるだろう。その前に、南雲長官に、長門に来ていただかなければならんが。まあ、おめでとう」と言った。

 草鹿参謀長は「いや、天佑神助の賜物ですよ」と謙遜したが、「ありゃ何です?帰りにミッドウェイを攻撃しろというのは。作戦命令にないことを付け加えられちゃあ、困りますなあ」と言った。

 すると宇垣纏参謀長は「いや、命令作第一号に出ていたはずだぞ」と応えた。

 草鹿はそれに対して「あれは、敵の攻撃に対して大なる考慮を要せざる場合、という条件だったでしょう。こちらは無線封止中ですからね。もっと現地の状況を考えてもらわなければ困りますよ」と噛み付いた。

 やむを得ず宇垣纏参謀長は「いや、すまんことをした」と、滅多に下げた事のない頭を下げた。

 宇垣纏参謀長のそりかえり挨拶というのは軍令部時代から有名だった。下僚が挨拶すると、「やあ」と言って頭を後ろにそらせるのであった。

 また、滅多に表情をくずさないので、「黄金仮面」とあだ名されていた。ちなみに宇垣纏参謀長は陸軍の宇垣一成(かずしげ)大将、海軍の宇垣莞爾中将と遠い親戚である。

 宇垣は愉快でなかったとみえ、その日の日誌に「偉勲を立てて帰ってきたので、意気当たるべからず、だが、空母の二隻もなくして帰ったら、ああもゆくまい」と記している。

66.南雲忠一海軍大中将(6) 機動部隊を小僧の使い走り使いのように考えてもらっては困る

2007年06月22日 | 南雲忠一海軍中将
 山本司令長官は立ち上がるとおもむろに口を開いた。

 「大切な事を一つ付け加えておく。それは攻撃中止についてである。機動部隊は間もなく単冠湾に向けて発進するのであるが、まだ、戦争は始ったわけではない。ワシントンでは、野村大使と、ハル長官の間で日米交渉が続行されている。これが成立した場合には、機動部隊は攻撃中止、即時引き揚げの命令を打電するから、おとなしく内地に帰ってきてもらいたい」

 その時、草鹿参謀長が立ち上がり「長官、もし、母艦から攻撃機が発進後であったときは、どうしますか」と言った。

 すると山本長官は「同じだ。飛行機が母艦を離れて、攻撃の途中であっても、交渉が成立次第、帰ってきてもらう」

 南雲長官がたまりかねて立ち上がった。「長官、それはちとむりですぞ。あなたが平和を願う気持ちは分かりますが、一旦、母艦を離れたら、搭乗員には、攻撃するか、死ぬるかの、二つしか道は残されていない。発艦した魚雷を海に捨てて、もう一回着艦しろとは、指揮官としては口がさけても言えません。そりゃあ、士気に関係しますからな」

 草鹿参謀長も補足した。「艦攻や艦爆は電信員が乗っているから、引き返しの無電を受信できますが、戦闘機は無理だと思いますな。艦攻と同行しているときは手信号で伝えられますが、問題は天候不良などの原因で分散した時です」

 その時、南雲長官が「しかけたしょんべんは、やめられませんぞ」と太いしわがれた声で言った。それを聞いて、塚原二四三中将がくすりと笑った。

 山本長官は声を励ますように言った。「いいか、南雲も草鹿もよく聞いておけ。百年兵を養うは、一日の用に当てる為だ、という言葉を君達は知っているだろう。肝心のご奉公の時に、大切な命令が実行できないと思うようなら、出すわけにはいかん。今すぐ辞表を出せ」。

 南雲長官も山本長官の血相に気押された。

 会議が終わり、一同は岩国市内の料亭「深川」に向かった。山本司令長官初め、艦隊の将官が席を同じくして料理を囲んでいた。

 南雲中将も料理をむしゃむしゃ食っていた。

 酌に来た芸者が「よう食べんなさるねえ、こちらの中佐さん」と言った。

 「おい、中佐じゃないぞ」横から草鹿参謀長が注意をした。

 岩国では航空隊の士官が飲みに来るだけなので、将官は見たことがないのであった。

 「こちらの方は中将だ」

 「へえ、ほんなら、航空隊の司令よりもえらいんかね」

 「当たり前だ」

 「ほんなら、あんたは少将で、あのまんなかの大将は、誰いうのやね」女は山本司令長官の方を指差した。

 「余計なことを訊くな」草鹿参謀長は不機嫌に答えた。

 反対に南雲長官は機嫌が直っていた。田舎丸出しの芸者の素朴さが気に入ったのである。

 「おい、白頭山節を歌えるか」彼は平素自慢の歌を女に歌わせることにした。

 女は歌った。「泣くな嘆くな、必ず帰る、桐の小箱に錦着て、エエ、帰る、九段坂、テンツルシャン」

 南雲長官はぐいのみを掌にしたまま、それに聞き入っていたよいう。

 大戦果の真珠湾攻撃を成功させて南雲機動部隊は帰路についた。

 だが、真珠湾攻撃は一応成功ではあったが、第二回目の攻撃を行い、徹底的に真珠湾の米軍を壊滅させるという進言を南雲司令部は受け入れず、攻撃を終了させたのだった。

 連合艦隊司令部の殆どの参謀は、真珠湾攻撃で、機動部隊の南雲司令部に、第二撃による戦果拡大を下令すべきだと主張した。

 山本長官はいきりたつ参謀を抑え、「将棋のさしすぎはいかん」と言って戒めた。

 だが山本長官は後に、やはり真珠湾は第二撃を、行い徹底的に叩いておくべきだったと反省している。

 連合艦隊司令部は第二撃下令を強行しなかった代わりに、真珠湾攻撃を終えて引き上げ中の機動部隊に、帰路、ミッドウェイ攻撃を行うよう指令した。

 12月10日朝、この命令を受け取った赤城では、南雲長官よりも、草鹿参謀長がふんがいした。

 「決死の大作戦を終わって、やっと帰途についたのに、こんな小さな島をついでにやって来いとは何たる言い草だ。機動部隊を小僧の使い走り使いのように考えてもらっては困る」と言った。

 南雲長官も苦笑して「奇襲のけたぐりで、やっと横綱を倒したんだ。そしたら、帰りに、大根やねぎを買ってこいと言うのかね」と言った。

 機動部隊は結局、天候不良を理由として、ミッドウェイ攻撃をやらなかった。

65.南雲忠一海軍中将(5) 南雲、貴様、この二航戦をおいてけぼりにしようというのか

2007年06月14日 | 南雲忠一海軍中将
 南雲司令長官は海軍兵学校36期で山本五十六連合艦隊司令長官より4期下、山口二航戦司令官は40期で南雲より4期下だった。

 しかし山口は長く連合艦隊航空司令官を勤め、航空戦の指揮には自信を持っていた。また、山口は40期を2番で卒業し、欧米勤務も長く、近代戦の指揮にも精通していた。

 陸奥での図上演習の後、山口少将は、長官室にいる南雲中将のところに押しかけた。

 「二航戦の飛行機を、五航戦に移すだって!」。かねて憂いていたことが、表面化したので、熱血漢の山口多聞は興奮し、逆上に近い状態になった。

 山口少将は、いきなり、南雲中将の胸部を両掌でつかむと言った。「南雲、貴様、この二航戦をおいてけぼりにしようというのか」。興奮すると山口少将は上官も部下もなかった。

 「おい、何をするか。何も、おいてゆくとは言っておらん。話は最後まで聞けい」柔道二段の南雲中将は毛深い山口少将の両の掌をしっかり握りながら一呼吸した。

 いかに参加したい熱情があるとはいえ、この山口少将の態度は無礼である。明るみに出れば軍法会議ものである。しかし、今は忍従の時である、と南雲中将は考えた。

 その時航空参謀の源田實中佐が顔を出した。南雲長官に用事があり、書類をかかえていた。

 長官と司令官が取っ組み合っているのを目撃した源田中佐は一種の気迫に押されて、そのまま扉を閉めた。五十を過ぎた二人が取っ組み合いを演じていたのである。

 結局山口少将の熱情が功を奏し、山口率いる二航戦も真珠湾攻撃に参加する事になった。

 「波まくらいくたびぞ」(講談社文庫)によると、昭和16年11月2日、真珠湾攻撃に備えて、機動部隊司令長官を兼ねる、南雲忠一第一航空艦隊司令長官は、編制による各艦を九州南端の有明湾(志布志湾)に集合せしめた。30隻に近い軍艦が集合し、投錨した。

 翌11月3日(明治節)の午後1時半、南雲中将は機動部隊の各司令官、艦長、幕僚たちを旗艦の空母赤城に召集した。

 将官、佐官が長官公室にあふれた。南雲中将はこの日、初めて、真珠湾奇襲攻撃の大要を発表したが、参集の高級士官たちはすでに承知していたので、驚く者はいなかった。

 攻撃計画案を説明した後、南雲司令長官は訓示を行った。

 「いうまでもなく、開戦と同時に行われる、この奇襲攻撃は、わが帝国の命運をも左右するものであるから、この機密保持には万全を期してもらいたい。各航空部隊は、この際一層、練度の向上に努力すべきこと。それから、これは非常に重要な事であるが」と言って南雲司令長官は息をついた。

 彼は右隣に座っている二航戦司令官の山口多聞少将を意識していた。

 南雲司令長官はことばをついだ。「このような重大な作戦を遂行するのに必要な事は、何よりも同志的結合である、と本長官は考える。多様な艦種、科目が集まっているのであるから、緊密な同志的結合なくしては、順調な運営は不可能である。その点をよく認識してもらいたい」

 南雲司令長官はそう結んで、山口多聞司令官の方をじろりと見た。山口多聞司令官は「何をこの野郎」というような表情をしていたという。

 昭和16年11月13日、真珠湾攻撃に関する連合艦隊司令部と機動部隊司令部の最後の打ち合わせの会議が、岩国航空隊の司令室で行われた。

 山本五十六連合艦隊司令長官、宇垣纏参謀長、南雲忠一機動部隊司令長官、井上成美四艦隊長官、塚原二四三、清水光美六艦隊長官、細菅戊子郎五艦隊長官、近藤信竹二艦隊長官、高須四郎一艦隊長官、高橋伊望三艦隊長官らが顔をそろえた。

 会議の初めに、山本司令長官が訓示を行った。そのあと会議に移った。

 会議が終わり、南雲長官が立ち上がり、各艦隊の協力に感謝し、攻撃は迅速果敢、徹底的に行う旨の決意を述べた。

 出席者一同は拍手を送った。一人だけ拍手をしない男がいた。山本司令長官だった。

64.南雲忠一海軍中将(4) 「けしからん」と、火鉢をひっくり返した

2007年06月08日 | 南雲忠一海軍中将
「悲劇の南雲中将」(徳間書店)によると、南雲忠一は明治41年、海軍兵学校を5番の成績で卒業した。
 
 首席は佐藤市郎だった。佐藤市郎は戦後の岸信介、佐藤栄作の兄弟宰相の長兄。

 南雲忠一の兵学校二年終了時の成績は、航海340(満点350)、砲術330(350)、水雷327(350)、運用265(300)、機関340(350)、普通学659(750)、合計2193(2400)点だった。ちなみに首席の佐藤市郎は2295点だった。

 大正9年12月、南雲忠一は海軍大学校甲種を優等で卒業し、海軍少佐に昇進している。

 その後、海軍大学校教官や艦長を歴任し、昭和10年、海軍少将に昇進した。続いて第1水雷戦隊司令官、第8戦隊司令官、水雷学校校長などを歴任し、昭和13年第3戦隊司令官になった。

 南雲少将が第3戦隊司令官で戦艦金剛に載っていたときの話である。

 艦隊が別府に入り、司令部も「なるみ」で宴席をもうけた。この時、美津丸という年増の芸者が島田を結って客席に待っていた。

 南雲少将は美津丸の酌で茶碗酒をやっていた。別席では、若い士官達が宴席を張っていた。

 廊下に出た美津丸は、顔なじみの中尉と出会った。「おい美津丸、どこの席に来ているんだ」と色白で、長身の中尉は聞いた。「司令官の席やし」美津丸は答えた。

 すると中尉は「なに、あのカニの司令官か、よせよせ。それよりこちらへこい。生きの良いのが揃っているぞ」「でも、面白いよ、司令官も」「いなかものだよ、ほとけほっとけ」

 若い中尉にひきずられた美津丸はそのまま若手士官の席に入り、歌を歌って騒いだ後、途中からその中尉と姿を消してしまった。

 一方、南雲少将は、待てど暮らせど、気に入りの芸者が帰って来ないので、いらいらし始めた。

 美津丸が姿を消したと聞くと「けしからん」と、火鉢をひっくり返した。そして、もうもうたる灰神楽のなかで寝てしまった。

 南雲忠一は昭和14年海軍中将に昇進し、海軍大学校校長から昭和16年4月に 第1航空艦隊司令長官に就任した。

 昭和16年10月、軍令部は真珠湾の攻撃において、山口多聞少将率いる二航戦の飛龍、蒼龍の飛行機を、五航戦と加賀の三隻に移して作戦を行う案を機動部隊指揮官で第一航空艦隊司令長官・南雲忠一中将に提案した。

 二航戦の飛龍、蒼龍は航続距離が短い。12ノットの巡航速力で、加賀が13800マイル、翔鶴が15500マイルである。

 一方、飛竜型は12200マイルである。それで補給の問題が争点となったのである。軍令部は飛龍、蒼龍を作戦からはずす案を南雲長官に提案したのである。

 「山口多聞」(PHP文庫)によると、10月中旬、徳山沖で、戦艦陸奥を宿泊艦として真珠湾攻撃の図上演習が行われた。

 その席で連合艦隊の航空参謀・佐々木彰中佐が軍令部の意向だとして、驚くべき発言をした。

 「南方作戦の為に、航続距離の短い赤城、飛龍、蒼龍は、フィリピン作戦に使い、ハワイは距離の長い加賀、瑞鶴、翔鶴、でやっていただきたいのですが。そのかわりパイロットは、従来通りハワイに行ってもらう。とにかう、あっちも足りない、こっちも足りない、それで戦争をしろというんだから、無茶な話です」。航空参謀としては大胆な発言だった。

 「それは絶対にできない」。源田中佐が即座に言った。

 山口多聞少将も怒った。「何だと、それは誰の考えだ。艦は南方に行け、可愛い搭乗員はハワイに行けだと。馬鹿なことを言うな。よろしい。この山口に自決せよと言うんだな。おお、死にもしよう。だが、死ぬなら真珠湾を叩いてから死ぬ。ほかでは死なぬ。誰がなんと言おうと、他のところでは死なん。この山口は絶対に行くぞ!」血相を変えて詰め寄った。

 山口が喧嘩っ早いのは有名である。佐々木中佐は知らないわけではなかったが、南雲司令長官も了解しており、航空参謀としては、考慮しなければならない立場にあった。

 山口はどこか、南雲中将とそりが合わなかった。山口は父親は島根だが、生まれも育ちも東京である。開成中学という洒落た学校で幅をきかせ、海軍兵学校でもすべてを仕切った。なんでも自分でやらないと気がすまない。

 対する南雲司令長官は、なにせ質素倹約で名高い上杉鷹山の米沢である。米沢なまりが抜けないため、時々、何を言っているのか分からなかった。「訓示は英語でやった方が、まだいいですなあ」副官がポツリと漏らしたほどである。

63.南雲忠一海軍中将(3) 忠一は駅の陸橋を母を背負って越えた事もある

2007年06月01日 | 南雲忠一海軍中将
 「波まくらいくたびぞ」(講談社文庫)によると、南雲忠一の父、周蔵は上長井村(現米沢市遠山地区)の村長をしていたが、経済的には恵まれなかった。

 南雲忠一は六人兄妹の末っ子で次男である。長女のこまと次女のふみは早く他家に嫁し、三女は生まれると間もなく死亡したといわれている。

 長男徳一郎は生涯無為に暮らし、昭和14年、隠居して、家督を忠一に譲っている。

 南雲家の向かいにある本間家の主人は「徳一郎さんは、戦争前、よくお茶を飲みに遊びに来た。しばらく世間話をしたかと思うと、一旦帰り、またお茶を飲みに来た」と戦後語っている。悪い人間ではないが働く気がしないのである。

 忠一のすぐ上の姉、きくは幼い時から知恵が遅れ、生涯、忠一の世話になり、昭和17年3月、台山の家で死亡している。そして、その一月前に徳一郎も世を去っている。

 忠一の母、志んは、昭和5年8月7日、81歳で世を去った。忠一は母親孝行で、昭和3年、鎌倉市扇ヶ谷に借家を借りて、母を引き取っている。

 また、忠一は駅の陸橋を母を背負って越えた事もある。海軍中佐の頃である。父、周蔵は大正14年に没している。忠一自身は、妻りきとの間に、娘一人、男子五人の子供をもうけている。


<南雲忠一海軍大将プロフィル>

 1887(明治20)年3月25日生れ。山形県米沢市信夫町出身。父、南雲周蔵、母、南雲志ん。二男で6人兄弟の末子。終生米沢弁が抜けなかった。

 1908(明治41)年 海軍兵学校(36期)卒 卒業成績191人中5番。

 1910(明治43)年1月海軍少尉、砲術学校。

 1911(明治44)年12月海軍中尉、水雷学校。

 1914(大正3年)12月海軍大尉。

 1920(大正9)年12月 海軍大学校甲種(優等)卒、海軍少佐。軍令部出仕。1923(大正12)年11月 海軍大学校教官。

 1924(大正13)年12月 海軍中佐。

 1929(昭和4)年11月 海軍大佐、軽巡「那珂」艦長。1930(昭和5)年11月1日 第11駆逐隊司令。

 1931(昭和6)年10月10日 軍令部第2課長。1933(昭和8)年11月15日 重巡「高雄」艦長。ワシントン廃棄の上申書作成で先頭に立つ。1934(昭和9)年11月15日 戦艦「山城」艦長。

1935(昭和10)年11月15日 海軍少将 第1水雷戦隊司令官。1936(昭和11)年12月1日 第8戦隊司令官。

 1937(昭和12)年11月15日 水雷学校長。1938(昭和13)年11月15日 第3戦隊司令官。

1939(昭和14)年11月15日 海軍中将。1940(昭和15)年11月1日 海軍大学校校長。

 1941(昭和16)年4月10日 第1航空艦隊司令長官。1941(昭和16)年12月8日 ハワイ海戦(真珠湾攻撃)。

 1942(昭和17)年6月5日~7日 ミッドウエイ海戦。7月14日 第3艦隊司令長官。8月23日~25日第二次ソロモン海戦。10月26日南太平洋海戦。11月11日 佐世保鎮守府司令長官。

 1943(昭和18)年6月21日 呉鎮守府司令長官。10月20日 第1艦隊司令長官。

 1943(昭和18)年 南西方面艦隊司令長官。1944(昭和19)年3月4日 中部太平洋方面艦隊司令長官兼第14航空艦隊司令長官。 サイパン島へ着任。

 1943(昭和18)年6月15日 「フォーリンジャー」作戦 アメリカ軍、サイパン上陸。7月8日 サイパン島で参謀長・矢野秀雄少将の介錯で自刃。7月9日 ターナー中将、サイパン占領を宣言。7月18日 大本営、サイパン玉砕を発表。死後、海軍大将に昇進 。