陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

640.山本権兵衛海軍大将(20)私もまた『壬午の変』の惨状を見たくありません。貴方はこれをどう予想しますか

2018年06月29日 | 山本権兵衛海軍大将
 すると、袁世凱は、面会に応じた。袁世凱に会うと、山本大佐は挨拶し、次の様に折り目正しく述べた。

 「貴方にお目にかかり、親睦を頂いてから、三年の星霜を経ました。この度、私の艦が幸い済物浦(さいもつぽ=仁川)に寄港しましたので、修好を温めようと思い、お訪ねしました」

 「ところが、貴方が病床にあって、面接を謝絶されました。左右を顧みず、強いて再び面接を請いましたが、私の意を深く諒解され、面接を承認され、ここに旧交を温めることができました。これに過ぎる幸せはありません」。

 この言葉を聞いて、こわばっていた袁世凱の顔が和らぎ、喜びが浮かんだ。袁世凱は次の様に応じた。

 「先年は、はからずも、ご来訪を辱けなくし、さらにご高説をいただき、はなはだ幸福でありました。また今回は僅少の時日を惜しまず、再び来訪を辱けなくし、まことに恐懼(きょうく)に存じます」。

 これで、話がしやすくなったので、山本大佐は次の様に述べて、袁世凱の気を引いた。

 「貴方に是非一度、国産新鋭艦の『高雄』に来艦していただきたい。日清両海軍は一致して東アジア海域の安寧を保持すべきである。一昨年から昨年にかけて、樺山海軍次官に随行して欧米を巡視した」。

 そのあと、山本大佐は、肝心の件に踏み入って、次の様に述べた。

 「私は朝鮮政府の方針がいかなるものか知りませんが、今日のように我々各国の商業に自由を与え、その発達を妨害することがなければ幸いと思います。それが私のいささか気がかかりとするところなのです」。

 すると、袁世凱は、即座に応じて、次の様に語った。

 「まことに、その通りです。私はまた朝鮮政府の方針については、常に信が措けず、頭を痛めています。もし朝鮮政府が明確に方針を定め、我々各国の商業を自由に発達させるならば、私は貴方に、今日から三年後に、今日に十倍する進歩を必ずお目にかけましょう」。

 これに対し山本大佐が、「この度の撤桟事件は、はなはだよく順序を踏んでいます。その策略は、ただ朝鮮人民が企画したものではなく、起因となったものがあるはずです」と言うと、袁世凱は、「そうです。私もそのようなものがあったと信じます」と答えた。

 続いて、山本大佐が、「朝鮮政府が撤桟を実施するには、貴国をはじめ、各国と締結した条約を、談判によって変更させなければなりませんが、容易に合意することはできないと信じます。貴方の御意見はいかがです」と述べた。

 袁世凱は「たとえ、撤桟の要求が通っても、朝鮮側も各国側も、少しの利益もありません。ですからとうてい成功は望めません」と答えた。

 山本大佐は、「朝鮮政府はこの事件について、国書を携えた使節を二月二十三日に、貴国政府に発したそうですが、それは、貴方が了承したことですか」と尋ねた。

 袁世凱は「私は一つの相談も受けませんでしたが、一応の通知は受けました。しかし、この事件は、使節を発しようが、私に談判しようが、帰するところは一つです。その効用はさらになく、使節は清国見物をするだけに終わるといえましょう」と答えた。

 これに対して、山本大佐は、次の様に述べた。

 「朝鮮政府が貴国に使節を発したために、朝鮮商人たちは、はじめて業に就き、いったん平穏に帰ったようです。けれども、貴国がこの談判を承諾するわけがありません。貴国や各国が最終的にこの談判に応じなければ、その結果はどうなりますか。これは暴兵窮民が企てた事件ではなく、豪商富賈(ふか=裕福な実業家)が起こしたものですから、それ以上自分の財貨を消費する下策は取りますまい。私もまた『壬午の変』の惨状を見たくありません。貴方はこれをどう予想しますか」。

 この山本大佐の、問いかけに対して、袁世凱は次の様に答えた。

 「私は心配することはないと信じます。なぜかといえば、元来この事件には一人の教唆者がいて、陰に私を苦しめようと図ったものなのです。ですからその者がこの件と関係を断つことになれば、もはや再燃することはないはずです。しかし、朝鮮政府は朝令暮改で信を置けず、また将来を予言することができません」。

 山本大佐は、ここで、撤桟に対する自分の見解も明確に述べるべきだと思い、次の様に話した。

 「撤桟の件は、私は容易にこれを承諾できません。そもそも各国の商人が京城にいるのは、単に商業の目的だけではなく、政略上の目的によるもののようです。もしこれを撤去すれば、あるいは他日、東洋に一変動を起こす起因が芽生えかねません」。










639.山本権兵衛海軍大将(19)袁世凱は、風邪と称して、山本権兵衛大佐の面会を謝絶した

2018年06月22日 | 山本権兵衛海軍大将
 明治二十二年四月十二日、欧米先進国海軍視察から帰国してから半年後に、山本権兵衛少佐は中佐に進級し、まだ儀装中の国産初の新鋭巡洋艦「高雄」艦長心得に任命された。

 その後、同年八月二十六日、山本権兵衛中佐は大佐に進級し、巡洋艦「高雄」艦長となった。まだ、三十六歳だった。

 明治十九年十月、フランスで竣工した防護巡洋艦「畝傍」が日本への回航途中、同年十二月三日、シンガポールを出港後、消息不明となった。真相は永遠の謎となった。

 このことから、艦長・山本権兵衛大佐は、荒天航行特別試験を申請し、多数の造船士官を「高雄」に乗せて、延々四十日に渡る航海を実施した。

 相変わらず、思い切ったことを実行する人で、若い頃は「喧嘩権兵衛」と言われていた、山本大佐だが、意外なことに、士官が下士官兵を殴ることは認めなかった。

 明治二十三年一月、韓国の首都、京城で「撤桟事件」が発生した。京城の韓国商人らが、日本、清国、その他諸外国の商人全員の京城撤去を要求したのだ。

 韓国では、王族の一人が死去すると、その葬儀料の一切を京城の商人に負担させる慣例があった。

 たまたま、大王大妃(皇太后)が重態で、もし死去すれば、京城の韓国商人らは重税を課されることになる。

 ところが、この税は、韓国商人だけに課され、日本や清国、その他諸外国の居留商人には課されないことになっていた。

 憤慨した韓国商人たちは、結集して諸外国商人らの京城撤去を要求し、一月二十九日から、米店以外の全ての店がストライキに入った。

 この「撤桟事件」の実情調査と、在京城の日本公使、領事、在留邦人の保護対策の研究を、西郷従道海軍大臣から命じられたのは、新鋭巡洋艦「高雄」艦長の山本権兵衛大佐だった。

 明治二十三年二月二十三日、山本大佐は、巡洋艦「高雄」を率いて、横須賀港を出港、韓国の仁川に向かった。

 三月三日、山本権兵衛大佐は、京城の日本公使館で、近藤真鋤(こんどう・ますき)公使(滋賀・蘭学修習・医師・外務省入省・外務権大録・ロンドン勤務・外務権少書記官・初代釜山浦領事・京城在勤書記官・仁川領事・権大書記官・外務省記録局長・朝鮮臨時代理公使・正五位・勲三等)から事件の経緯を聞いた。それは次のようなものであった。

 「京城の韓国商人らが、課税の不平等に怒り、この挙に及んだことは事実だが、韓国政府顧問のアメリカ人、デニーが、清国代表の権謀的な袁世凱と、袁世凱と結ぶ大院君李是応の横暴を憎み、苦しめようとして、韓国商人らの撤桟運動を応援したことも、その一因になっている」

 「日本、清国、その他諸外国商人の京城居留通商は、各国が韓国政府と締結した条約に基づいて行われている。もし諸外国商人を京城から撤去させようとするならば、その条約を変更しなければならない」

 「それも、最初にこの条約を締結した外国は清国だから、韓国政府は清国政府と交渉して、条約の変更を承認させる必要がある」

 「ただ、諸外国が仮に自国商人の京城撤去を承認しても、商人らは立退き料を請求するに違いないし、また、韓国側はそれを支払う義務がある。しかし、韓国側はそれだけの費用を負担することは不可能のはずである」

 「また、デニーは、三月に満期解雇となり、アメリカに帰るという。そうなれば、撤桟問題も立ち消えになるのではないか」。

 以上の報告を受けた、山本権兵衛大佐は、三月六日、日本公使館通訳・鄭永邦を従えて、清国公使館に行き、袁世凱に面会を申し込んだ。

 袁世凱は、風邪と称して、山本権兵衛大佐の面会を謝絶した。だが、山本大佐は「先年の旧交を温めたく、また後日を期し難い」と、重ねて面会を申し入れた。

638.山本権兵衛海軍大将(18)山本さん、あなたは初め、おいを嫌いでごわしたな。どこが嫌いでごわしたか

2018年06月15日 | 山本権兵衛海軍大将
 清国政府は、日本政府に賠償金五十万元を支払い、日本軍は台湾から撤兵するというのが主な内容である。西郷従道は参謀らを従えて、十二月二十七日、横浜港に凱旋し、参内して明治天皇に復命して、その勲労を賞された。

 再び西郷海相は、山本伝令使に対して、次の様に話を続けた。

 「兄は、そいまでしばしばおいについて、種々の風説を聞いちょいもしたが、信ずべき根拠もないため、誤解されるこつはいささかもあいもはんでした」。

 この西郷海相の答えは、第一、第二問の答えと違い、不十分としかいえるものではなかった。しかし、山本伝令使は西郷海相の心中(隆盛を衷心から敬愛し、その死を誰よりも悲しむ)を察し、これを深く追求することは、この際為すべきことではないと思い、それ以上責めることは止めにした。

 しかし、山本伝令使にとっては、全体的には、予想よりはるかに満足できる答えであった。

 何年か後のことである。あるとき、西郷従道が、山本権兵衛に「山本さん、あなたは初め、おいを嫌いでごわしたな。どこが嫌いでごわしたか」と尋ねた。
 
 すると、山本は「奸物と思めもした。貴方のしたことが、横着者の所業に見えもした」と答えた。「そうでごわしたか」。西郷は、愉快そうにカラカラと笑った。

 山本権兵衛は、この、明治二十年八月半ば、長崎、丸山の『宝亭』で西郷従道海相から聞いた談話について、晩年の大正十五年十月、雅号「鶴堂」の署名で、手記にしている。山本の生涯で、よほど印象が強く、忘れられない出来事だったのだろう。

 その手記は、「伯爵山本権兵衛伝・上・下」(故伯爵山本海軍大将伝記編纂会編・原書房)に所収されている。その中で、山本は次の様に記している。

 「予は南洲翁に対しては、常に絶大の尊敬を払いしも、西郷従道氏には深く親炙(しんしゃ=その人に近づき親しんで感化を受けること)するの機会少なく、又他より伝聞するところを総合判断するに、従道氏は翁とは違い、才子風にして能く人と交わり、殊に征韓論勃発に際しても、大山(巌)氏と同じく翁と進退を共にせず、却って大久保氏の意志に従い、高島(鞆之助陸軍中佐、のちに陸軍中将、陸相)・野津(野津鎮雄陸軍少将と野津道貫陸軍中佐の兄弟、鎮雄はのちに中将、道貫は後に大将、元帥)其他有力の人々を引き留めたる挙動に考え、実に不満に堪えざりしなり」

 「故に予は帰省の際(明治七年二月)、翁(隆盛)に向かい、左京の薩人中、知名の諸士に関し批評を加えたるとき、従道氏に及びたることありき」

 「……南洲翁の云わるるには、信吾(慎吾と二つ使っていた、従道のこと)は吉次郎(隆盛のすぐ下の弟、戊辰戦争の長岡城攻撃で戦死)と違い、少々小知恵がある故、或いはお咄しのようなこともありしならんか」

 「されど苟も君国の為め一意専心御奉公為すの大義は決して忘れては居らぬ筈と確信する、とのことなりき。蓋し翁の従道氏を思うの真情亦察するに余りありというべし」。

 以上が、山本権兵衛が、丸山の『宝亭』で西郷従道海相から談話を聞く前までの、西郷従道への批判的評価だが、談話を聞き終わった後では、次のように述べて、評価が全く変わっている。

 「之由観之(これによってこれをみるに)、予(山本権兵衛)が従来西郷従道氏に対し、世上の伝聞等を根拠として抱きつつありたる想念は大いに誤れるものあるを識ることを得、それよりは相信じ相頼り、常に隔意なく、諸般の事につき所見を交換することとのれり」。

 明治二十年十月十日、海軍次官・樺山資紀(かばやま・すけのり)中将(鹿児島・薩英戦争・戊辰戦争・維新後陸軍少佐・西南戦争では熊本鎮台参謀長・警視総監兼陸軍少将・海軍大輔・海軍少将・中将・軍務局長・次官・海軍大臣・軍令部長・日清戦争・大将・初代台湾総督・枢密顧問官・内務大臣・文部大臣・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功二級・フランス国レジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)は欧米先進国海軍の視察に日本を出発した。

 山本権兵衛少佐は、日高壮之丞少佐(のち海軍大将)らと共に、海軍次官・樺山資紀中将の欧米先進国海軍の視察に随行した。

 防護巡洋艦「浪速」の回航委員として一年、さらに、この一年余りの欧米先進国海軍視察旅行で、山本少佐は、日本海軍建設の基礎知識を身につけた。



637.山本権兵衛海軍大将(17)おいのような者まで兄と共に進退しては、陛下に対し奉り忠誠を欠く

2018年06月08日 | 山本権兵衛海軍大将
 西郷隆盛が遣韓使節として朝鮮に渡ることを主張(これが『征韓論』といわれる)し、岩倉具視、大久保利通らの自重論に敗れて鹿児島に帰ったのは、明治六年十月末だった。

 台湾征討は、船が難破して台湾南部に漂着した宮古島島民六十六名のうち五十四名が、明治四年十一月、台湾原住民のアミ族に惨殺されたことが原因だった。
 
 日本政府は、明治五年十月、台湾を領有する清国政府に対して、琉球人民を殺害した台湾原住民犯人の処分を要求した。

 だが、清国側は、「生藩(せいばん=台湾原住民)はすでに、化外(教化の外)にある。生藩の罪を問う、問わぬは貴国の裁断に従えばよかろう」と答えた。

 日本政府は、明治七年四月四日、陸軍中将・西郷従道を台湾藩地事務都督とする台湾征討軍の派遣を決定した。

 ところが、パークス英国公使とデロング米国公使が、日本に対して局外中立を宣言し、両国籍輸送船の使用を拒絶した。

 台湾征討に対して、列強が干渉し、清国に味方することを恐れた日本政府は、結局出兵中止に決定を変更した。

 だが、西郷従道中将は、すでに天皇の大命も四月六日に下っていると反論し、四月二十七日に先発隊が出発していた後、五月二日、後発隊も出発させた。

 以上の事実について、山本伝令使は、西郷海相に質したのだ。山本伝令使の問いは、西郷海相にとっては痛いはずだが、西郷海相は嫌な顔はせず、次の様に率直に答えた。

 「第一の問いについては、深く話しとうごわはん。おいは大山(巌)と同様に欧州に留学(西郷従道は明治二年から三年にかけフランスに留学して、兵制を研究した。大山は明治四年から七年にかけジュネーブを根拠地として欧州各国を回り、大砲・小銃等の兵器を研究した)し、政治、教育、軍事その他を研究しもしたが、帰国してからも、いかにして維新の大業の基礎を確立すべきか、解決案を得ることができもはんでした」

 「その当時、岩倉(具視)公一行が帰朝すっと(明治六年九月)、まず内政を改革し、財政を整理し、その後朝鮮問題を処理すべし、ちゅう方針を提議しもした。こいは当を得たものかもしれんと、おいは思めもうした」

 「ことに兄を朝鮮に派遣すっちゅうは、死地に送ると同様じゃから、あくまでそいを阻止すっが国家のため適当と信じもした」

 「しかし、いくら兄に見識があっても、岩倉公が政府の首席代理では、とうてい満足な結果が得られるはずがなか。そいで辞職して帰国するにしかずと決心したのでごわず」

 「征韓論に関しては、その見方は二つあいもす。兄はその一つを採り、他の者は別の一つを採ったまででごわす。そいを、おいのような者まで兄と共に進退しては、陛下に対し奉り忠誠を欠くと痛感し、踏みとどまったのみで、兄もこいをよく諒解しちょいもした」。

 西郷海相は、盃を干した。山本伝令使は、黙して聞いていた。
  
 「第二の問いに答えもそ。大隈(重信・参議)氏から、『大久保氏長崎着まで待たれたし』ちゅう電報を受領しもしたが、先発隊はすでに出発後で、いかんともできもはん。後発部隊も出発させんければ、国家の面目に関する重大問題にないもすから、おいは全責任を負い、断乎として出発させもした」

 「おいは大久保氏の長崎着(五月四日)を待ち、熟議のうえ、乗船して征台の途に就きもしたのでごわす」。

 このように述べた、西郷海相は、悪びれた様子もなく、次の様に続けて言った。

 「第三の問いについては、こげなことがあいもした。台湾問題終了後、おいは鹿児島に帰省し、兄(隆盛)に会い、兄の政府引退後の世情、政務について詳細に説明し、十分に諒解を得もした」。

 この経緯について次の様に説明してある。

 明治七年八月、参議・大久保利通は全権弁理大臣として北京に赴き、清国代表・李鴻章と交渉を重ねた。十月三十一日に至り、双方は台湾藩地に関する条約に調印し、ようやく和議が成立した。


636.山本権兵衛海軍大将(16)今まで問い質したいと思っていたことを、この際全て聞いてやろう

2018年06月01日 | 山本権兵衛海軍大将
 袁世凱は、傾聴していたが、袁世凱の心中までは判らなかった。だが、袁世凱は山本少佐を「先生」と敬意を込めて呼び、あくまで懇切丁寧に応対をした。

 山本少佐が帰る時、袁世凱はわざわざ公使館の門外まで出てきて、見送った。この時、袁世凱は、山本少佐より七歳年下の二十七歳だった。

 袁世凱は、大人物だったのである。袁世凱は中国では名家の出で、官僚を志し、科挙に二度挑戦したが、どうしても合格せず、軍人になることにした。

 明治十四年、清王朝の重臣・李鴻章率いる淮軍(わいぐん=地方軍)に入隊し、朝鮮に渡った。その後、壬午事変(明治十五年七月二十三日)、甲申政変(明治十七年十二月四日)では、閔妃の要請の下で、巧みな駆け引きで鎮圧に貢献し、情勢を清国に有利に導いた。

 その功績で、袁世凱は、李鴻章の監督の下で、朝鮮公使として、内政にも干渉できるほどの、大きな権限を持った。袁世凱はまだ二十五歳の若さだった。

 だが、明治二十七年七月~明治二十八年三月の日清戦争で、李鴻章は責任を問われ、失脚した。袁世凱は軍隊の近代化を痛感した。その後、袁世凱は、新国軍の洋式化の職務に就任し、大きな成果を挙げた。当時の袁世凱の改革した軍は新建陸軍と呼ばれた。

 その後、西太后の信頼を得た袁世凱は、義和団の乱(明治三十三年六月二十日~明治三十四年九月七日)の功績で、力をつけ、明治三十四年に清国の北洋通商大臣兼直隷総督に就任した。

 日露戦争(明治三十七年二月八日~明治三十八年九月五日)では、袁世凱は、部下の優秀な将校を多数蒙古の奥深く潜入させ、諜報活動をさせ、日本軍に協力した。

 辛亥革命(明治四十四年十月十日~明治四十五年二月十二日)では、袁世凱は、清王朝から内閣総理大臣に任命され、革命の鎮圧を命じられたが、革命派と極秘に連絡を取り、清王朝を滅亡させた。

 明治四十五年二月十二日、清王朝最後の皇帝・宣統帝が退位して清王朝は滅亡した。袁世凱は、新生中華民国の臨時大総統に就任した。

 中華民国の大総統に就任した袁世凱は、その後、大正四年に帝政を復活させ、中華帝国の皇帝に即位した。だが、国民の反発や日本の非難により、大正五年三月に退位、六月に死去した。

 以上が袁世凱の、清王国から中華民国、さらに中華帝国までの生涯の概要である。

 明治二十年七月十一日、山本権兵衛少佐は、スループ「天城」艦長から、海軍大臣伝令使に転任となった。伝令使は後の秘書官である。

 当時の海軍大臣は、西郷従道(さいごう・つぐみち)中将(鹿児島・戊辰戦争・鳥羽伏見の戦いで重症・維新後渡欧し軍制調査・兵部権大丞<二十六歳>・陸軍少将<二十八歳>・陸軍中将<三十一歳>・台湾出兵・藩地事務都督・陸軍卿代行・近衛都督・陸軍卿<三十五歳>・農商務卿・兼開拓使長官・伯爵・海軍大臣<四十二歳>・元老・枢密顧問官・海軍大将<五十一歳>・侯爵・元帥<五十五歳>・従一位・大勲位菊花大綬章・功二級)だった。

 海軍大臣・西郷従道中将と伝令使・山本権兵衛少佐は、建設中の呉と佐世保の鎮守府地域を視察するため、七月二十九日、東京を出発した。

 視察後、二人は、八月半ば、長崎へ行って、数日滞在した。ある日、西郷海相が「今日は暇ができた。朝から丸山の『宝亭』に行って、おはんとゆるゆる話したか」と、誘った。

 山本伝令使は「大いに賛成ごわす」と答えて、「いい機会だ。今まで問い質したいと思っていたことを、この際全て聞いてやろう」と考えたのだ。

 『宝亭』の座敷で対座し、乾杯した後、山本伝令使は、山本海相に次の様に言った。

 「質問が三つあいもす。一つは、征韓論の際、何故、南洲翁と進退を共にせんかったかでごわす。二つは、台湾征討軍のこつごわす。長崎出港まえ大久保(利通)氏から、出発を見合わすべしと内報があいもしたが、出発して台湾に向かったのは、どういうわけでごわすか」

 「三つは、南洲翁引退後、政府の措置が宜しきを得ず、ついに翁にあのような最後を遂げさせもしたが、そいは深く遺憾とすべきではあいもはんか、東京に居残った者の罪ではなかかちゅうこつごわす」

 「この三つは、かねていつかお尋ねしたか思めちょいもしたが、この機会に、ぜひご明解下さるよう、お願いもうす」。