すると、袁世凱は、面会に応じた。袁世凱に会うと、山本大佐は挨拶し、次の様に折り目正しく述べた。
「貴方にお目にかかり、親睦を頂いてから、三年の星霜を経ました。この度、私の艦が幸い済物浦(さいもつぽ=仁川)に寄港しましたので、修好を温めようと思い、お訪ねしました」
「ところが、貴方が病床にあって、面接を謝絶されました。左右を顧みず、強いて再び面接を請いましたが、私の意を深く諒解され、面接を承認され、ここに旧交を温めることができました。これに過ぎる幸せはありません」。
この言葉を聞いて、こわばっていた袁世凱の顔が和らぎ、喜びが浮かんだ。袁世凱は次の様に応じた。
「先年は、はからずも、ご来訪を辱けなくし、さらにご高説をいただき、はなはだ幸福でありました。また今回は僅少の時日を惜しまず、再び来訪を辱けなくし、まことに恐懼(きょうく)に存じます」。
これで、話がしやすくなったので、山本大佐は次の様に述べて、袁世凱の気を引いた。
「貴方に是非一度、国産新鋭艦の『高雄』に来艦していただきたい。日清両海軍は一致して東アジア海域の安寧を保持すべきである。一昨年から昨年にかけて、樺山海軍次官に随行して欧米を巡視した」。
そのあと、山本大佐は、肝心の件に踏み入って、次の様に述べた。
「私は朝鮮政府の方針がいかなるものか知りませんが、今日のように我々各国の商業に自由を与え、その発達を妨害することがなければ幸いと思います。それが私のいささか気がかかりとするところなのです」。
すると、袁世凱は、即座に応じて、次の様に語った。
「まことに、その通りです。私はまた朝鮮政府の方針については、常に信が措けず、頭を痛めています。もし朝鮮政府が明確に方針を定め、我々各国の商業を自由に発達させるならば、私は貴方に、今日から三年後に、今日に十倍する進歩を必ずお目にかけましょう」。
これに対し山本大佐が、「この度の撤桟事件は、はなはだよく順序を踏んでいます。その策略は、ただ朝鮮人民が企画したものではなく、起因となったものがあるはずです」と言うと、袁世凱は、「そうです。私もそのようなものがあったと信じます」と答えた。
続いて、山本大佐が、「朝鮮政府が撤桟を実施するには、貴国をはじめ、各国と締結した条約を、談判によって変更させなければなりませんが、容易に合意することはできないと信じます。貴方の御意見はいかがです」と述べた。
袁世凱は「たとえ、撤桟の要求が通っても、朝鮮側も各国側も、少しの利益もありません。ですからとうてい成功は望めません」と答えた。
山本大佐は、「朝鮮政府はこの事件について、国書を携えた使節を二月二十三日に、貴国政府に発したそうですが、それは、貴方が了承したことですか」と尋ねた。
袁世凱は「私は一つの相談も受けませんでしたが、一応の通知は受けました。しかし、この事件は、使節を発しようが、私に談判しようが、帰するところは一つです。その効用はさらになく、使節は清国見物をするだけに終わるといえましょう」と答えた。
これに対して、山本大佐は、次の様に述べた。
「朝鮮政府が貴国に使節を発したために、朝鮮商人たちは、はじめて業に就き、いったん平穏に帰ったようです。けれども、貴国がこの談判を承諾するわけがありません。貴国や各国が最終的にこの談判に応じなければ、その結果はどうなりますか。これは暴兵窮民が企てた事件ではなく、豪商富賈(ふか=裕福な実業家)が起こしたものですから、それ以上自分の財貨を消費する下策は取りますまい。私もまた『壬午の変』の惨状を見たくありません。貴方はこれをどう予想しますか」。
この山本大佐の、問いかけに対して、袁世凱は次の様に答えた。
「私は心配することはないと信じます。なぜかといえば、元来この事件には一人の教唆者がいて、陰に私を苦しめようと図ったものなのです。ですからその者がこの件と関係を断つことになれば、もはや再燃することはないはずです。しかし、朝鮮政府は朝令暮改で信を置けず、また将来を予言することができません」。
山本大佐は、ここで、撤桟に対する自分の見解も明確に述べるべきだと思い、次の様に話した。
「撤桟の件は、私は容易にこれを承諾できません。そもそも各国の商人が京城にいるのは、単に商業の目的だけではなく、政略上の目的によるもののようです。もしこれを撤去すれば、あるいは他日、東洋に一変動を起こす起因が芽生えかねません」。
「貴方にお目にかかり、親睦を頂いてから、三年の星霜を経ました。この度、私の艦が幸い済物浦(さいもつぽ=仁川)に寄港しましたので、修好を温めようと思い、お訪ねしました」
「ところが、貴方が病床にあって、面接を謝絶されました。左右を顧みず、強いて再び面接を請いましたが、私の意を深く諒解され、面接を承認され、ここに旧交を温めることができました。これに過ぎる幸せはありません」。
この言葉を聞いて、こわばっていた袁世凱の顔が和らぎ、喜びが浮かんだ。袁世凱は次の様に応じた。
「先年は、はからずも、ご来訪を辱けなくし、さらにご高説をいただき、はなはだ幸福でありました。また今回は僅少の時日を惜しまず、再び来訪を辱けなくし、まことに恐懼(きょうく)に存じます」。
これで、話がしやすくなったので、山本大佐は次の様に述べて、袁世凱の気を引いた。
「貴方に是非一度、国産新鋭艦の『高雄』に来艦していただきたい。日清両海軍は一致して東アジア海域の安寧を保持すべきである。一昨年から昨年にかけて、樺山海軍次官に随行して欧米を巡視した」。
そのあと、山本大佐は、肝心の件に踏み入って、次の様に述べた。
「私は朝鮮政府の方針がいかなるものか知りませんが、今日のように我々各国の商業に自由を与え、その発達を妨害することがなければ幸いと思います。それが私のいささか気がかかりとするところなのです」。
すると、袁世凱は、即座に応じて、次の様に語った。
「まことに、その通りです。私はまた朝鮮政府の方針については、常に信が措けず、頭を痛めています。もし朝鮮政府が明確に方針を定め、我々各国の商業を自由に発達させるならば、私は貴方に、今日から三年後に、今日に十倍する進歩を必ずお目にかけましょう」。
これに対し山本大佐が、「この度の撤桟事件は、はなはだよく順序を踏んでいます。その策略は、ただ朝鮮人民が企画したものではなく、起因となったものがあるはずです」と言うと、袁世凱は、「そうです。私もそのようなものがあったと信じます」と答えた。
続いて、山本大佐が、「朝鮮政府が撤桟を実施するには、貴国をはじめ、各国と締結した条約を、談判によって変更させなければなりませんが、容易に合意することはできないと信じます。貴方の御意見はいかがです」と述べた。
袁世凱は「たとえ、撤桟の要求が通っても、朝鮮側も各国側も、少しの利益もありません。ですからとうてい成功は望めません」と答えた。
山本大佐は、「朝鮮政府はこの事件について、国書を携えた使節を二月二十三日に、貴国政府に発したそうですが、それは、貴方が了承したことですか」と尋ねた。
袁世凱は「私は一つの相談も受けませんでしたが、一応の通知は受けました。しかし、この事件は、使節を発しようが、私に談判しようが、帰するところは一つです。その効用はさらになく、使節は清国見物をするだけに終わるといえましょう」と答えた。
これに対して、山本大佐は、次の様に述べた。
「朝鮮政府が貴国に使節を発したために、朝鮮商人たちは、はじめて業に就き、いったん平穏に帰ったようです。けれども、貴国がこの談判を承諾するわけがありません。貴国や各国が最終的にこの談判に応じなければ、その結果はどうなりますか。これは暴兵窮民が企てた事件ではなく、豪商富賈(ふか=裕福な実業家)が起こしたものですから、それ以上自分の財貨を消費する下策は取りますまい。私もまた『壬午の変』の惨状を見たくありません。貴方はこれをどう予想しますか」。
この山本大佐の、問いかけに対して、袁世凱は次の様に答えた。
「私は心配することはないと信じます。なぜかといえば、元来この事件には一人の教唆者がいて、陰に私を苦しめようと図ったものなのです。ですからその者がこの件と関係を断つことになれば、もはや再燃することはないはずです。しかし、朝鮮政府は朝令暮改で信を置けず、また将来を予言することができません」。
山本大佐は、ここで、撤桟に対する自分の見解も明確に述べるべきだと思い、次の様に話した。
「撤桟の件は、私は容易にこれを承諾できません。そもそも各国の商人が京城にいるのは、単に商業の目的だけではなく、政略上の目的によるもののようです。もしこれを撤去すれば、あるいは他日、東洋に一変動を起こす起因が芽生えかねません」。