陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

488.東郷平八郎元帥海軍大将(28)東郷大将は「乃木さんは死ぬだろう」と考えた

2015年07月31日 | 東郷平八郎元帥
 「東郷平八郎元帥の晩年」(佐藤国雄・朝日新聞社)によると、英国ジョージ五世の戴冠式は明治四十四年六月二十二日午前七時四十分から、ウェストミンスター寺院で行われた。

 戴冠式の後、東郷大将と乃木大将は、馬車で宿舎のホテルに帰ったが、途中群衆に囲まれ、「ヒーロー」「オオ、トーゴ―」などと叫び、帽子を振り、ハンカチを振って、群衆が歓呼した。

 翌二十三日のグレー外相主催の晩さん会にも、東郷大将と乃木大将は特別に招待され、多数の出席者から歓迎され、人気の的だった。

 だが、東郷大将に向かって、ものを聞くのは、あたかも鎌倉の大仏に向かって聞くようなもので、無口の日本人の中でも、彼はその最たるものだった。

 ところが、六月三十日、東郷大将が四十年前に学んだ帆船ウースター号を訪れた後、プリンスホテルで開かれた旧友やOBによるウースター協会の歓迎晩さん会の席で、東郷大将は、珍しく長い演説を、しかも英語でやってのけた。演説の内容は次の通り(要旨抜粋)。

 「閣下ならびに諸君、ウースターは私にとって、この上なく懐かしい名です。ウースターは過去四十年間、私がいつも忘れることが出来なかったものです。…(略)…そして懐かしい諸君とお目にかかることが出来たのは、私にとって愉快の極みです」

 「…(略)…ここに私たちの全てを結びつける一つの共通の絆があります。すなわち、ウースターがこれです。(拍手)私は今夕ここで諸君にお目にかかって、ちょうど青年時代の親友に際会再会したような気がして、わたしの感想は、知らず知らず過去をたどり、ここにおられる若干の諸君と共にウースターの甲板上で、結索節のやり方を習った当時のことを思い出させます。(拍手)」

 「同時に私の記憶の中に、スミス大佐の温容が思い起こされます。教師の中で最も親切で最も仁慈な方でした。最近の戦争中、彼は度々私に親切な手紙をくれました。第二の故郷である英国からのこの手紙は、私に対し実に多大の慰めと激励を与えてくれました。…(略)…」

 「スミス夫人と再会できたことを喜ぶと共に、スミス大佐が私の英国に来るのを待たずに逝去され、私に与えられた過去の温情に対し、親しくお目にかかってお礼を申し上げる機会がなくなったことを、極めて残念に思います。…(略)…ウースター協会よ。ねがわくは永久に栄えあれ!」。

 大拍手だった。翌日の新聞は、東郷大将の演説を「天下の奇跡」と伝えた。しかし、英国陸軍の重鎮で沈黙将軍として知られる、キチナー元帥は、東郷大将に次のように言った。「お気を付けなさらないと、“沈黙提督”の名にかかわりますぞ」。

 英国での戴冠式行事が終わると、東郷大将はアメリカ経由で帰国することにした。だが、乃木大将はヨーロッパを視察して帰ることにした。

 この時、乃木大将は「ついでに、ロシアの片田舎でひっそり暮らしている、敵将ステッセル将軍を慰めてやってから帰りたいのだが、どうだろう」と東郷大将に相談した。

 東郷大将は、思案していたが、「それは止められたほうがよかろう。御身にはせっかくのご親切であるが、先方にとっては、かえって、それが苦痛となるかも知れないから」と言った。

 乃木大将は、日露戦争でお互い悪戦苦闘して共に戦って敗れた敵将を、一目会って、慰めてやりたいという気持であった。

 だが、ロシア国民はまだ日露戦争の屈辱を忘れてはいない。ステッセル将軍は、その天王山の旅順攻防戦で乃木大将に敗れた将軍だ。そのステッセルに勝者の乃木大将が会いに行けば、ステッセル将軍に恥をかかせることになる。

 このような判断から、東郷大将は、乃木大将を引き止めたのだが、それでも、なお、乃木大将は、ステッセル将軍に会いに行く決意を撤回しなかった。だが、さらに思案の末、最終的に、東郷大将の忠告に従ったと言われている。

 明治四十五年七月三十日午前零時四十三分、明治天皇は崩御された。九月十三日、明治天皇の御大喪が終わったその夜、午後八時頃に、乃木希典大将と静子夫人は、殉死を遂げた。

 御大喪に際して、東郷大将は霊柩供奉の役を仰せつかった。東郷大将と乃木大将が最後に逢ったのは九月十三日の午前中、殯宮を排して退ってきた折りだった。

 お互いに忙しい身なので長い話も交わさなかったが、東郷大将は乃木大将を一目見た瞬間に、乃木大将の決意を読み取った。いや、そうではない。東郷大将が乃木大将の心を悟ったのはそのずっと以前だから、この瞬間に確信したと言った方が良い。

 明治天皇が崩御されたとき、東郷大将は「乃木さんは死ぬだろう」と考えた。その考えが間違っていなかったことを、東郷大将はこの瞬間に知ったのだ。

 だが、そのことについて東郷大将は一言も触れなかった。肝胆相照らし、尊敬する良き友の最期を本人の望むがままに、立派なものにしてやりたいと思っていた。

 「お役目ご苦労様です」「閣下こそ、ご苦労様です」。二人は同じように挨拶した。そして「いろいろと御配慮ありがとう存じます」と乃木大将が言うと、「こちらこそ、ではお静かに……」と東郷大将は答えた。

 そう言って別れた二人だが、二人の心はしっかりと通じ合っていた。十三日の夜、東郷大将は他の供奉員とともに霊轜を守護し、宮城を後に青山葬場殿に行った。

487.東郷平八郎元帥海軍大将(27)両大将は碁盤を挟んで無言で対し何も言わず石を下すだけ

2015年07月24日 | 東郷平八郎元帥
 明治四十二年十二月、東郷平八郎大将は海軍軍令部長を免ぜられ、軍事参議官に補された。当時軍事参議官には、乃木希典陸軍大将もいた。

 明治四十四年四月、東郷大将と乃木大将は、イギリスのジョージ五世の戴冠式に出席する東伏見宮依仁親王(ひがしふしみのみや・よりひとしんのう・皇族・フランスのブレスト海軍兵学校卒・防護巡洋艦「松島」分隊長・少佐・甲鉄艦「扶桑」副長・海軍大学校臨時講習員・中佐・海軍大学校選科学生・防護巡洋艦「千歳」副長・大佐・防護巡洋艦「高千穂」艦長・装甲巡洋艦「春日」艦長・少将・横須賀鎮守府艦隊司令官・中将・横須賀鎮守府司令長官・第二艦隊司令長官・大将・軍事参議官・死去・元帥・功三級・大勲位菊花章頸飾)と同妃に随行する機会が与えられた。

 そのとき、懸念されたのは、東郷大将も乃木大将も随行時は軍服でなく平服を着用しなければならなかったことである。東郷大将はとりたてて問題はなかったが、一徹な乃木大将は普段から軍服を離す事は無かったのである。

 当時乃木大将は、学習院長として常に学習院に起居し、就寝の時以外は軍服を解いたことがなかった。その乃木大将が平服を着るかどうか周囲の者たちは心配していた。

 そこで副官の吉田豊彦(よしだ・とよひこ)陸軍砲兵中佐(鹿児島・第三高等学校中退・陸士五恩賜・砲工学校・中尉・砲工学校高等科六期恩賜・陸軍要塞砲兵射撃学校・ドイツ留学・砲兵大尉・要塞砲兵射撃学校教官・日露戦争・砲兵少佐・陸軍大臣秘書官・アメリカ出張・陸軍重砲兵射撃学校教導大隊長・陸軍大臣秘書官・砲兵中佐・軍務局課員・イギリス出張・砲兵大佐・陸軍省兵器局銃砲課長・兵器局工政課長・重砲射撃学校校長・少将・陸軍省兵器局長・中将・陸軍造兵廠長官・陸軍技術本部長・大将・退役・日本製鉄取締役・満州電業社長・機械化国防協会長・勲一等旭日大綬章・功四級)が、乃木大将に次のように恐る恐る訊ねた。

 「院長閣下、渡英の際の服装の準備をいたしましょうか?」。

 すると、乃木大将はこともなげに、「いや、もう三越に注文してある。一切服は、東郷閣下が作られる通りのものを作るように頼んでおいたよ」と答えた。これには吉田中佐も意表をつかれたが、同時にほっとした。

 明治四十四年四月十二日、東伏見宮、東郷大将、乃木大将ら一行を乗せた日本郵船の客船「賀茂丸」(八五〇〇トン)は、横浜を出港し遠洋航路の旅に出た。

 当時六十四歳の東郷大将は六十二歳の乃木大将より二歳年長だった。このため、乃木大将はことごとく東郷大将に弟事し、その意見を聞き、それに従ったという。

 船内での晩さん会の時、東郷大将も大分杯をあげ、「お進みなさい」と言っては、周囲の人々に杯をすすめた。「もっと飲め」というのである。この言葉が東郷大将の口から出ると、人々は面白がった。たちまちこの言葉が船中での流行語になったという。

 「乃木と東郷」(戸川幸夫・読売新聞社)によると、四月二十日、「賀茂丸」は上海に寄港した。東郷大将と乃木大将は、上海居留地の邦人小学校に招かれて見学し、記念として楓の樹を植えた。そのあとで、職員一同と記念写真を撮影することになった。

 乃木大将は背広姿だったので、これで写真に写るのかと思うと、やや躊躇された。彼一人なら断るところだったが、東郷大将が、「乃木さん、ここへ」と自分の隣の椅子を示したので、乃木大将は仕方なく着席した。

 着席したものの、乃木大将は、恥ずかしくてたまらないので、うつむいてしまう。写真家が「恐れ入りますが、乃木閣下、もう少しお顔を……」と言っても眼を伏せる。

 あとで、東郷大将が冷やかすように「乃木さんな……眠っておりはせなんだなぁ……」と言った。

 上海から香港、そしてシンガポールまでは東郷大将と乃木大将はそれぞれ一室があてがわれていたが、シンガポールから先約の客が乗り込んで来たので、東郷大将と乃木大将は一室で起居することになった。

 二人の仲は極めてよく、また礼儀正しく、さすがに偉人の付き合いとはこんなものかと同船の人々を感嘆せしめた。

 両大将は時には両殿下の相手となってデッキゴルフに興じたりしたが、多くは室にこもって黙々と読書した。東郷大将は主として英書を、そして乃木大将は漢書を紐解いた。

 乃木大将の早起きは有名で、毎朝一等運転士が甲板に出る時には既に乃木大将は散歩していて、「お早う」と声をかけた。

 乃木大将と東郷大将は、よく二人並んで甲板を散歩したが、乃木大将は常に東郷大将を先輩として敬い、散歩するにもいつも東郷大将の左側を歩くことを忘れなかった。

 何事も東郷大将を先に立てて、東郷大将の意見を聞き、時には労わる様子さえ見えた。白髪白髭の両紳士が互いにゆずり合い、尊敬しあって親しむ様は美しいものであった。

 また、両大将はよく烏鷺を戦わせたが、どちらも上手というのではないが、乃木大将の方が少し上だった。こうした有様を特派員として「賀茂丸」に乗っていたロンドン発刊の「デーリー・エクスプレス」記者は、次のように報道した。

 「賀茂丸の航海中、東郷、乃木、両大将が一つづり音以上の言葉を発したのを聞いた者はいなかった。二人の無言は大事業によって真価を測るべき人士の無言なり。時折両大将を知れる乗客が天候などについて話しかけることがあったが、両大将は、うなずくか、首を振るかで一言も発しない」

 「二人はいつも離れることなく、日本の戦戯である囲碁を喫煙室で戦わしていたが、終日戦っていても両大将は碁盤を挟んで無言で対し何も言わず石を下すだけだった。時にはデッキゴルフを試みられる時もあったが、乃木大将が明らかに一言を発したのは、この時のみだった。それは大将が玉をはじきそこなった時である」。

486.東郷平八郎元帥海軍大将(26)これまでは「閣下」とあったが、この手紙では「君」となっていた

2015年07月17日 | 東郷平八郎元帥
 この文面が小笠原少将の胸にカチリときた。とても書く気になれなかった。依頼するには依頼する法がある。この依頼主は自分を何様だと思っているのだろうか。

 小笠原少将は届いた箱の包みも解かないで、無言でそれを送り返した。すると彼はまた性懲りもなく、それを送り返してきた。小笠原少将もまた意地になって、それを彼に送り付けた。

 こんなやり取りが数回続いた。すると彼はやけになって次のような手紙を送り付けて来た。

 「どうしても君が書いてくれないのなら、当方にも考えがある。返された包みの中に君の手で姓名が書いたものがあるから、それを切り取って証明に当てるから、覚悟願いたい」。

 これまでは「閣下」とあったが、この手紙では「君」となっていた。これで彼は溜飲を下げたつもりであっただろう。あまりに身勝手な言い分なので、小笠原少将はそれを黙殺した。

 しかし、それでも小笠原少将は腹の虫が納まらないので、東郷元帥についつい話してしまった。それを聞いた東郷元帥は小笠原少将に次のように訊ねた。

 「わしにはとうてい想像もできないことだ。そのような人間もいるものか。ところで、その書はわしの書いたものかな」。

 「それは分りかねます。その書を見ておりませんから」と小笠原少将が答えると、東郷元帥は苦笑して「それではいくら子爵でも、箱書きの書きようがないではないか」と言った。

 また、当時の一新聞は、東郷家の表札について、特ダネとして次のような記事を掲載した。

 「東郷と書いてある表札は何時見ても新しく、……その理由は頗る振ったものである。何事にも几帳面な元帥は『自分の表札は自分で書くべきで、他人に書かしたくない』というて、いつも武張った直筆を揮(ふる)うのだ」

 「それを伝え聞いた悪戯者は、元帥の真筆を手に入れるのはこの時と許り、間がな日がな狙いをつけて無遠慮に引き剥がし持ち行くので、堅固に五寸釘で打ち付けて置いても禦ぎ得ず、一週間位には大抵新しく替えられて居、今では同邸にては同じような表札を幾枚も用意して置き、それッと何時でも元帥が筆を下し得るようにしているそうな」。

 この記事の真偽のほどは分らない。だが、一時東郷家の表札がなかったことは事実である。それに気づいて小笠原少将は東郷元帥に「最近御門の表札が見えませんが……」と言った。

 すると東郷元帥は「それがよく無くなるんだ」と答えた。小笠原少将が「警察は何とも言って来ませんか」と聞くと、「いや、別に何とも言うてこんよ」と東郷元帥は言った。東郷元帥はこのことを警察に届けなかった。

 だが、東郷元帥は、このことに懲りて、もう自筆を揮わなくなった。そうなると、世間は敏感なものである。それ以来というもの、はたと表札の剥ぎ取りが後を絶った。

 その次は、今度は東郷家の「小石拾い」と「水貰い」が始まった。「小石拾い」とは、文字通り、東郷邸の小石を記念に持ち去ることである。中には邸内の土を持ち帰る者もいた。

 その一人で、刀鍛冶と称する者は、名刀を作り上げるために焼刃に使う土の中に入れて聖将の武徳にあずかるのだと言った。それで厄介なのは、彼らがいちいち玄関に取次ぎを求め、東郷元帥の承諾を得た上で持ち帰ったことである。

 これには東郷元帥もいささかあきれ、面倒くさくもあって、「一つ二つなら、わざわざ断るまでもない。勝手に拾っていかれるがよい」と言った。

 ところが、彼らにとっては、そうはいかぬ事情があるらしかった。律義というか何というか、彼らは口々に「それはできませぬ。閣下のお許しがあって、はじめて有難味が出ます」と言った。これには、「そういうものか」と東郷元帥も唖然としてあごを撫でたという。

 また、「水貰い」は、東郷邸の井戸の水を、用意したビンに入れて持ち帰ることである。彼らもいちいちそれを東郷元帥まで断りを入れた。

 ある日、佐渡島の両津の者が訪ねて来て、三本のビンを持ち込み、東郷元帥に次のように言って、井戸水をねだった。

 「これは飲むためではありません。一本は神棚に供えます。二本目は田畑に、三本目は梅の木に注ぎます」。

 東郷元帥は慣れっこになっていたので「こんな水でよければいつでも……、佐渡との往き帰りは難儀じゃのう」と言って応じた。

 ところが、それから間もなく、両津に大火事があって、一面が焼け野原になった。その中にあって、彼の家だけは不思議と焼け残った。彼は早速このことを東郷元帥に報告し感謝して来て、「これひとえに、元帥閣下の神水のいたらしめるところである」と言ったという。

485.東郷平八郎元帥海軍大将(25)閣下から子爵へ箱書きいたすよう、きつくご命令下さるよう

2015年07月10日 | 東郷平八郎元帥
 それ位であるから、東郷大将はよく字を書いた。頼みに来た人によって、その人にマッチした内容の文章のものを選んでは書いた。その数も相当のものだった。

 東郷大将の伝記作者・小笠原長生(おがさわら・ながなり)中将(東京・老中小笠原長行の長男・子爵・海兵一四・海大丙種学生・軍令部諜報課員・少佐・防護巡洋艦「千代田」副長・軍令部参謀・日露戦争・中佐・大佐・学習院御用掛・装甲巡洋艦「常盤」艦長・戦艦「香取」艦長・東宮御学問所幹事・少将・中将・予備役・宮中顧問官・正二位・勲一等・功四級)は、後に「東郷元帥の書と言われるものは、内輪に見積もっても全国で二十万枚が散在する理屈だ」と言っている。

 だが、之には問題があった。その大部分が偽筆なのである。このことから、小笠原長生は、「世間に最も多くて、最も少ないのは東郷元帥の書であろう」とも言っている。ともかく偽作者は好んで東郷元帥の書を書いた。その結果また悲喜劇を生むことになった。

 明治三十九年頃、ある日東郷大将の偽筆を真筆と称し、売買しようとした男がつかまった。警察ではそれを直接東郷大将のもとに持参して真偽の鑑定を願い出た。

 東郷大将は一見してそれが偽筆と判った。東郷大将はそれをそのまま口にした。つかまった男は罪に問われた。これには東郷大将も後味が悪かった。

 小笠原長生海軍大佐が東郷大将のもとを訪れると、東郷大将を重い口を開き、次のように言った。

 「偽筆の売買でつかまった男な。あれの親父は水兵で「三笠」に乗っておったそうな。いっそのこと、あの書は、わしが書いたんじゃと言ってやればよかった。罪にならなくとも済んだじゃろうに。不憫なことをしたよ」。

 それを聞いた小笠原大佐は、きっとなって、「閣下、何をおっしゃられます。そんな横着者のいうことなんか、真に受けられますな。おそらく閣下の同情をひくために、でたらめを述べたのでしょう」と言った。

 東郷大将は「そういうものかの」と言うと、しっと考え込んでいた。東郷大将が自分の書に対して、決して真偽を言わなくなったのは、この事件以来だった。

 東郷大将から鑑定を得ることが出来ないことがいつしか世間に知られると、好事家たちは、たちまち小笠原長生大佐に白羽の矢を立てた。小笠原大佐は特別の才能で、よく東郷大将の書の真偽を見抜いた。それだけに小笠原大佐の箱書きや証明は彼らの間で高い評価を得ていた。

 ある時、小笠原大佐が東郷邸に顔を出すと、東郷大将は彼を待ち受けていて、小笠原大佐を客間に通すなり、東郷元帥はテーブルの上の一通の手紙を示して「それを読んでごらん」と言って笑った。

 差し出された手紙を見て、小笠原大佐もあきれ果てた。よくぞ書いたものである。罫紙二十数枚に、虫眼鏡を必要とするような細字でたんねんに紙一杯に書かれていた。

 読み進むうちに小笠原大佐は笑いがこみあげて来た。その手紙には、まず自分の祖先以来の系図を掲げ、それから自分の経歴、家族状況、所有財産が明示されていた。これが前書きである。そのあと本題の要旨は次のようなものであった。

 「自分はある人から東郷閣下の真筆を譲り受けた。ところが知人から小笠原長生子爵の箱書きがないと不十分と言われ、自分もその気になって再三手紙で子爵に交渉したが、子爵は一向に応じてくれない」

 「自分がこのように誠意を示しているのに、子爵のやり方は不埒至極である。よって厚かましいとは思いますが、閣下にこの次第を申し上げ、閣下から子爵へ箱書きいたすよう、きつくご命令下さるようお願い申し上げます。恐惶謹言」。

 小笠原大佐が思わず、ぷっと吹き出すと、珍しく東郷大将もそれにつられて、大声で笑って、「不埒至極がよい。一つ命令するか」と言った。

 小笠原大佐も相槌を打って、「箱書きをいたしましょう。ただし、東郷閣下の筆跡、真偽不明。裏に不埒至極居士誌とでも書きますか」と答えた。

 東郷大将はますます機嫌がよく「子爵から箱書きをして貰ってくれという依頼は時々ある。しかし不埒至極というのは今度が初めてじゃ。無遠慮な奴じゃ。どっちが不埒至極かわからん」と言った。

 小笠原大佐が「しかし、罫紙二十数枚に書く根気は他に例がないでしょう。書いてやりましょうか」と言うと、東郷大将は「それは子爵の随意だ。わしは別段勧めはせんよ」と答えた。

 結局小笠原大佐は箱書きを書いてやらなかった。手紙の主は東郷大将と小笠原大佐のどちらを怨んだだろうか。

 大正四、五年頃、小笠原少将は、ある出来事を境にして、親族、知人以外には、箱書きを書かなくなった。その出来事とは、小笠原少将のもとに突然手紙と木箱を送り付けて来た者があったのだ。その手紙には高飛車に次のように記されていた。

 「私は東郷閣下の御書を譲り受けたが、閣下には箱書きをお書き下さると聞いている。よって閣下のお手許に郵送いたしましたので、なるべく速に御認め下されたく、もちろん閣下にも御異存のあるべきはずが無かるべく念のため一応申し添えます」。

484.東郷平八郎元帥海軍大将(24)我ら軍人は主として武力を形而上に求めざるべからず

2015年07月03日 | 東郷平八郎元帥
 バルチック艦隊が全滅したために、ロシア皇帝ニコライ二世は、ロシア国内に革命が起きそうな事情もあり、アメリカ大統領・セオドア・ルーズベルトの呼びかけに応じて、日本と講和をすることにした。

 アメリカ、ニューハンプシャー州のポーツマスで、明治三十八年九月五日、日露講和条約が調印され、一年七か月に渡った日露戦争は幕を閉じた。条約の主な内容は次のようなものだった。

 ロシア軍は満州から撤兵する。旅順―長春間の東清鉄道と、ロシアが清から租借している遼東半島を日本に譲渡する。ロシアは、朝鮮における日本の優先的諸権益を認める。ロシアは、日本の日本海、オホーツク海、ベーリング海に臨むロシア沿岸地域の漁業権を認める。

 賠償金はゼロだった。ロシアが、「賠償金を払うくらいなら、再び戦争を始めると主張したのに対して、日本は経済的にも陸軍力にも余裕がなく、しぶしぶ同意せざるを得なかった。

 「東郷平八郎元帥の晩年」(佐藤国雄・朝日新聞社)によると、日露戦争に日本が動員した兵力は総勢百八万八千人。戦死者四万六千人、戦病・負傷者十七万人、捕虜二千人にのぼった。

 失った艦艇は軍艦十二隻、輸送船五十四隻、ほかに水雷艇、閉塞船など。使った軍費は、陸軍が約十三億円、海軍が約二億四千万。他の費用も合わせて、日露戦争に二十億円近くの金が注ぎ込まれた。

 二十億円は、現在の貨幣価値にすれば二十兆円を超える巨額だった。当時の通常年間予算の八年分に相当し、国家収入のほとんどを使い果たし、足りない分は外国からの借金でまかなった。

 当時の桂太郎(かつら・たろう)首相(長州=山口・戊辰戦争・第二大隊司令・ドイツ留学・陸軍大尉・ドイツ駐在武官・日清戦争に第三師団長として出征・台湾総督・陸軍大臣・大将・総理大臣・日露戦争・総理大臣<第二次組閣>・総理大臣<第三次組閣>・死去・従一位・大勲位菊花章頸飾・功三級・公爵)は戦争終結後の、明治三十八年十二月二十八日総辞職した。

 司令長官・東郷平八郎大将の連合艦隊も、十二月二十日解散した。翌二十一日の連合艦隊解散式で、東郷大将は次のような解散の辞(訓示)を述べた(要旨)。

 「我が連合艦隊は今やその隊務を結了してここに解散することとなれり。然れども我ら海軍軍人の責務は決してこれがために軽減せるものにあらず。この戦役の収果を永遠に全うし、なお益々国運の隆昌を扶持せんには時の平戦を問わず、まず外衛に立つべき海軍が常にその武力を海洋に保全し、一朝緩急に応ずるの覚悟あるを要す」

 「かくして武力なるものは艦船兵器等のみにあらずしてこれを活用する無形の実力にあり。百発百中の一砲能く百発一中の敵砲百門に対抗し得るを覚らば、我ら軍人は主として武力を形而上に求めざるべからず」

 「神功皇后三韓を征服し給いし以来韓国は四百余年間我が統理の下にありしも一たび海軍の廃頽するやたちまち之を失い、又近世に入り徳川幕府治平になれて兵備をおこたれば挙国米艦数隻の対応に苦しみ、露艦また千島樺太を覬覦(きゆ=うかがい、ねらう)するもこれと抗争すること能わざるに至れり」

 「神明はただ平素の鍛錬につとめ、戦わずしてすでに勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者よりただちにこれを奪う。古人いわく、勝って兜の緒を締めよ」。

 東郷大将のこの訓示は、連合艦隊旗艦「三笠」艦上ではなく、戦艦「朝日」の艦上だった。戦艦「三笠」は佐世保に凱旋後、爆沈事故を起こし、沈没したためだった。

 明治三十八年九月十一日午前零時二十分、佐世保港十番ブイに繫がれていた戦艦「三笠」は、突然後部左舷主砲弾薬庫が爆発し、沈没した。

 この事故で、二百五十一名の殉職者を出した。爆発の原因は、水兵たちが発火信号用アルコールの飲用に際し、誤って引火し爆発したとの証言がある(松本善治中尉・大正元年)。

 明治三十八年十二月二十日、東郷平八郎大将は、連合艦隊司令長官を解任され、伊東祐亨(いとう・すけゆき)大将(鹿児島・神戸海軍操練所・薩英戦争・戊辰戦争・海軍大尉・スループ「日進」艦長・大佐・コルベット「比叡」艦長・横須賀造船所長・少将・海軍省第一局長兼海軍大学校校長・中将・横須賀鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・日清戦争・子爵・軍令部長・大将・日露戦争・元帥・伯爵・従一位・功一級・大勲位菊花大綬章)のあとの軍令部長に就任した。

 この頃から、東郷平八郎大将に揮毫を依頼する者が多くなった。「東郷平八郎」(中村晃・勉誠社)によると、東郷大将は元来、書道が好きだった。

 書道の手ほどきは、八歳の時に同郷の鹿児島城下、加治屋町の西郷吉二郎(さいごう・きちじろう・鹿児島・薩摩藩下級藩士・御勘定所書役・番兵二番隊監軍・戊辰戦争で戦死・享年三十五歳)に受けた。

 ちなみに、西郷吉二郎は西郷隆盛(さいごう・たかもり・鹿児島・薩摩藩下級藩士・郡方書役助(四十一石)・中御小姓(江戸詰)・御庭方役・徒目付・将軍継嗣で一橋慶喜擁立に動く・大老井伊直弼排斥を図る・僧月照と入水し月照は水死するも西郷は助かる・奄美大島に潜居・旧役に復し上京・沖永良部島に遠島・赦免され京都で島津藩の軍賦役(軍司令官)に任命される・禁門の変で長州勢を撃退・勝海舟と協議し長州と緩和・征長軍参謀・長州藩三家老処分・薩長同盟を誓約・薩土盟約・鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争・東征総督府下参謀・勝海舟と会談し江戸城無血開城・上野戦争・鹿児島藩大参事・常備隊五〇〇〇名を率いて上京・明治天皇・正三位に叙せられる・陸軍元帥兼参議・陸軍大将兼参議・近衛都督・征韓論に敗れ帰郷・鹿児島県に私学校創設・西南戦争で敗れ城山で自刃・享年四十九歳)の弟だった。

 東郷平八郎大将は以来、書道の研鑽に励み、暇さえあれば艦内でも運筆を試していた。東郷大将は、筆が上達し、西郷吉二郎から誉められた言葉「仲五(平八郎の幼名)は字が巧か」、をいつまでも忘れなかった。