陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

109.大西瀧治郎海軍中将(9) 日本国民が、なお二千万人ほど戦死するほどの一戦を試みよう

2008年04月25日 | 大西瀧治郎海軍中将
 矢次一夫の回想によれば大西中将を台湾から呼び戻したのは岡田啓介大将とされているが、米内海軍大臣の意向もあった。

 和平派の井上成美中将と小沢中将を退け、抗戦派の大西中将を軍令部次長に起用したのは米内海軍大臣の一流の政治である。

 米内海軍大臣は戦争を継続させるために大西中将を呼び戻したのではなく、和平工作を進めるために呼び戻したのである。

 このことは戦後、東京裁判の法廷で豊田副武が「大西の起用は海軍部内の主戦派の不満を和らげるためだ」と証言をしている。

 確かに軍令部内の主戦派は一応満足した。「大西さんならやってくれるだろう」、「徹底抗戦」を大西に託するようになった。

 米内海軍大臣は「緩衝装置」としての大西中将を見出すことに成功した。「緩衝装置」が徹底抗戦や本土玉砕など主張すれば、するほど米内海軍大臣にとっては好ましいのである。

 米内海軍大臣は鈴木内閣の戦争終結内閣の列内に入っている。大西中将は主戦論者として内閣の思想からは列外にある。

 大西中将は「日本国民が、なお二千万人ほど戦死するほどの一戦を試みよう」と口に出している。日本列島そのものを特攻にしようということである。

 このような発言に対して、和平派はもちろん、軍部内でも「常軌を逸した変態的頭脳」という評価が出始めた。

 だが大西中将は正気であった。和平派の最終懸案は「国体の護持」であったが、大西中将のそれは「国家と民族」であった。

 大西中将は特別攻撃隊を発進させることによって、彼自身の中に「国家の概念」を鮮明にさせていった。彼にとっての「国家」は零戦や月光に乗って発進していった、若いパイロットたちの血と死によって支えられているからである。

 大西中将は軍令部次長に就任して次長官舎に住んだが、8月16日の朝に自決するまで、ついに妻と同居しなかった。

 あるとき妻が身辺の整理を案じて「私も官舎に住みましょうか」と申し出た。すると大西中将は「それはいかん」ときっぱり断った。「軍人で無い人でさえ、家が焼け出されて、親子ちりじりに住んでいる。この俺が妻とともに住むことはできない」

 児玉誉士夫の配下の吉田彦太郎が、大西中将の身を案じて「週に一度は奥さんの家庭料理を食べてはどうですか」と申し入れた。

 すると大西中将は「そんなこと、言ってくれるな」と言下に断った。「君、家庭料理どころか、特攻隊員は家庭生活も知らないで死んでいったんだよ。六百十四人もだ」。

 大西中将ははっきりと「六百十四人だ。俺と握手していったのが六百十四人いるんだ」と言った。

 それから「俺はなあ、こんなに頭を使って、よく気が狂わんものだと思うことがある。しかし、若い人と握手したとき、その熱い血が俺に伝わって、俺を守護してくれているんだ」と言った。

108.大西瀧治郎海軍中将(8) 「そんなことで戦ができるか」大西長官の右の拳が佐多司令の頬に飛んだ

2008年04月18日 | 大西瀧治郎海軍中将
 暗い中で、試運転の爆音が続いていたが、伝令がきて「準備ようし」と言った。

 みんなが飛行機の方へ歩きかけようとしたとき、大西長官が門司大尉に「司令を呼んできなさい」と言った。

 門司大尉は、三、四十メートル離れている指揮所に走っていった。半地下の防空壕の中に佐多司令は座っていた。

 「長官がお呼びです」と門司大尉は言った。門司大尉が佐多司令を懐中電灯で案内して元の所へ戻ると、大西長官が暗い中にひとり立っていた。

 佐多司令と大西長官は向かい合った。異様な雰囲気であった。門司大尉は身をひいた。

 大西長官の低い声が聞こえた。「そんなことで戦(いくさ)ができるか」同時に、大西長官の右の拳が佐多司令の頬に飛んだ。バシッという音がして、佐多司令が一歩よろめいた。

 門司大尉の心臓は、しばられるような痛みを感じた。死地に残る人を殴ったのである。大西長官の声は大声でなく、静かであったが怖いような迫力があった。

 「わかりました」と佐多司令は言った。大西長官は暗い中で佐多司令の顔を見ていたが、くるりと背を向けると滑走路のほうへ歩き始めた。

 二十分後、大西長官以下、門司大尉ら司令部員は真っ暗なクラーク飛行場を飛び立って、台湾に向かった。

 台湾に転出して、高雄近くの山の洞窟の司令部に入った。夜、仕事が終って、くつろいだ。

 そのとき、大西長官は門司大尉に「俺は、クラークの山の中に落下傘で降りたい」と語ったという。

 終戦になり、佐多司令の率いる部隊は生き残り、最後まで軍規正しく、佐多司令は多くの部下を統率し内地に昭和20年10月、帰還した。佐多司令は昭和45年2月7日、六十八歳で死去した。

 「特攻の思想 大西瀧治郎伝」(文藝春秋)によると、戦場が沖縄に移り、毎日のように鹿屋から特攻機が出撃していたころ、突入寸前の特攻機からの無電に変化が起きた。

 「祖国の悠久を信ず」「われ、敵艦に突入す」に混じって「日本海軍のバカヤロ」「お母さん、サヨナラ」という電文が送られてくるようになった。このような電文を非難したり、低い価値観でみることはできない。人間の真実だからだ。

 鈴木貫太郎内閣が成立したのは昭和20年4月7日で大西中将が小沢治三郎中将の後任として軍令部次長に親補されたのは4月19日だった。

 大西中将は神奈川県日吉の連合艦隊司令部に豊田副武長官を訪ねた。台湾にもどる副官の門司少佐は、そこで大西中将と別れを告げた。

 「今から台湾に戻ります」「そうか、元気でナ」

 門司少佐が車に乗ろうとすると、大西中将は「握手すると、みんな先に死ぬんでなあ」と言い、握手せずに、車が動き出すまで見送った。その後門司少佐は生還して終戦を迎えた。

107.大西瀧治郎海軍中将(7) 二航艦に続いて、一航艦司令部も台湾に逃げるのか

2008年04月11日 | 大西瀧治郎海軍中将
 かって大西長官が最初の特別攻撃隊を編成したときは「これは外道だ」と言い、今は「これを大愛である」という確信に立っている。

 この二つの矛盾した考えを同時に同所で成立させたものは、はたして何であったろうか。

 命じたものも、命じられたものも、単に破壊のみを見ていたのではない。そこに戦争をしなければならない歴史の必然を認め、その戦闘に従事しなければならない因縁のまにまに、それに徹して「より大いなるもの」を求めていたのであろう、と猪口氏は述べている。

 「丸別冊エキストラ戦史と旅28」(潮書房)に、当時、第一航空艦隊副官・門司親徳海軍主計少佐(東大経済学部出身)が「大西長官、転進せり」と題して寄稿している。

 これによると、連合艦隊司令部から「一航艦の守備範囲を台湾まで広げ、司令部は台湾に転出せよ」との命令電報がフィリピンの第一航空艦隊司令部に届いた。

 昭和20年1月3日、アメリカ軍の大船団がミンダナオ海を西進していることが確認された。敵はフィリピンのリンガエンに上陸をしようとしていた。

 昭和20年1月9日の夜中、第一航空艦隊司令部は大西長官以下幕僚など司令部部員がクラーク中飛行場から迎えの飛行機で台湾に転出することになった。

 門司大尉は大西長官のカバンを持って一緒に車に乗り同行した。夜中にクラーク飛行場に着くと、迎えの飛行機が着いているらしく、盛んに闇の中で試運転の爆音を繰り返していた。

 転出する大西長官以下司令部幕僚は立ったまま、試運転が終るのを待っていた。

 このクラーク飛行場には、フィリピンに残留して、上陸してくる米軍と戦う十六戦区司令の佐多直大海軍大佐がいた。

 佐多司令は指揮官として、残留し、ルソン島西部の山に陣地を築き、立てこもることになっていた。

 大西中将と佐多大佐は海軍兵学校を出て、ともに若くして航空界に身を投じ、航空戦力の発展に尽くしてきた二人だった。二人は太平洋戦争でも命がけで戦ってきた。

 クラーク中飛行場で飛行機の出発を待っている大西長官ら幕僚のところへ、暗い中をススキを分けて、佐多司令が現れた。

 長身の佐多司令は、大西長官と参謀長のところへ近づくと、何か簡単な言葉を取り交わした。

 一航艦の司令部が台湾に転出する経緯を佐多司令は知らなかったのだろう。二航艦に続いて、一航艦司令部も台湾に逃げるのか、この地に一万数千人の地上員を残したまま艦隊長官は出て行ってしまうのか。

 鹿児島県の武家の家訓で育った佐多司令は、口には出さなかったが、そう言いたかったのかもしれない。

 佐多司令はあっけないほど、さっさとその場を去って、自分の防空壕の方へ帰っていった。司令の不満と抵抗的な気持ちが感じられた。

 門司大尉は佐多司令の歩いていく姿を見送りながら、うしろめたい気持ちをひしひしと感じた。

 佐多司令に限らず、このクラークに残る人たちは、みんなそう思うのではないだろうか。

106.大西瀧治郎海軍中将(6) これが大愛であると信ずる。小さい愛にこだわらず、続けてやる

2008年04月04日 | 大西瀧治郎海軍中将
 米内海軍大臣の前で、「サイパン陥落で、海軍が眠りから醒める時期がきましたな。これで、海軍省が空軍省になるきっかけができた」と大西中将は海軍再建について述べた。

 米内海軍大臣は最後まで黙って聞いていた。そして「わかった。おまえ次官をやれ」と言った。

 大西中将はすかさず言い返した。「いや、次官よりも次長(軍令部)にしてください」

 米内海軍大臣は「うん」とうなずいた。米内海軍大臣はこのとき大西中将を次長にしたかったのだが、海軍省内の大艦巨砲主義者が承知しなかった。

 昭和19年10月5日、大西中将はフィリピンに司令部を置く、南西方面艦隊司令部へ転出し、10月20日、第一航空艦隊司令長官に親補された。

 「神風特別攻撃隊の記録」(雪華社)によると、昭和19年10月20日、米軍はフィリピンのレイテ島に上陸を開始した。

 10月25日、関行男大尉率いる特別攻撃隊、敷島隊五機がスルアン島北東三〇浬の敵機動部隊に突入、護衛空母セント・ロー沈没、空母カリニン・ベイ、空母キットカンベイ、空母ホワイト・ブレインの三隻に損害を与えた。

 10月27日、その日もフィリピンのルソン島マニラにある第一航空艦隊司令部は敵艦載機の空襲を受けた。「神風特別攻撃隊の記録」(雪華社)の著者、猪口力平氏(元海軍大佐)は当時海軍中佐で第一航空艦隊先任参謀であった。

 司令部が空襲を受けたので、10月17日に着任したばかりの第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎海軍中将と猪口中佐の二人は司令部前庭の防空援体に入った。

 しばらくすると大西長官は「先任参謀」と言った。「城英一郎大佐が、体当たりでなくては駄目だと思うから私を隊長として実行にあたらせてくれ、と再三言ってきたことがある。内地にいたときにはとうていやる気にはなれなかったが、ここに着任して、こうまでやられているのを見ると、自分にもやっとこれをやる決心がついたよ」

 大西長官は顔をまっすぐ前の壁に向けたままである。猪口中佐は黙っていた。外ではバラバラと銃撃の音が聞こえている。

 すると大西長官は続けて「こんなことをせねばならないというのは、日本の作戦指導がいかにまずいか、ということを示しているんだよ」と言った。

 なおも猪口中佐が黙っていると、「なあ、こりゃあね、統率の外道だよ」そうポツンと言った。

 その後、海軍特別攻撃隊は敷島隊に続いて、大和隊、朝日隊、山桜隊が次々と突入した。

 この四隊のあと、引き続いて多数の特攻隊が編成されて出撃して行った。

 このような状況を憂慮した猪口中佐は大西長官に「レイテに敵も上陸して一段落したのですから、体当たり攻撃は止めるべきではないですか?」と言った。

 すると大西長官は「いいや、こんな機材の数や搭乗員の技量では戦闘をやっても、この若い人々はいたずらに敵の餌食となってしまうばかりだ」と言った。

 続けて「部下をして死所をえさしめるのは、主将として大事なことだ。だから自分は、これが大愛であると信ずる。小さい愛にこだわらず、自分はこの際続けてやる」と言い切った。