陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

266.今村均陸軍大将(6)君が南軍司令官として戦っている敵はどれかね

2011年04月29日 | 今村均陸軍大将
 呉服屋の別荘に泊まっている北白川宮殿下のところに行って、今村中尉が「何か御用でございますか」と聞くと、次の様に言われた。

 「御用じゃないよ。参謀長が、軍司令官を呼びつける用なんかあるものか。『聞きたいことがあるから今村の宿に行く、もう帰ったかどうか、電話で聞いてくれ』と言ったのに、野崎(御附武官)が先走って、君に来いなんか言ったんだな、けしからん…」。

 今村中尉が「いや私がまいったほうが手軽でよいのであります。聞きたいことと申されるのは、何のことでございます」と言った。

 すると、北白川宮殿下は「君が南軍司令官として戦っている敵はどれかね」と言った。

 今村中尉は、変なことを聞くもんだと、不思議に思いながら「敵は依然、四つ壇原から岩出山北方高地に渡り陣地を占めており、他に移動したような情報は得ておりません」と答えると、北白川宮殿下は次の様に言った。

 「そうかね。僕が見ていると、君はその北軍の敵を攻撃しているのではなく、吉岡試験官を敵として戦っている。それでは北軍には勝てないよ」。

 その瞬間、今村中尉は己の過失に気がつき、「まことにその通りでありました。明日からは、冷静に北軍と戦います。有難くお言葉を拝しました」と言った。

 すると北白川宮殿下は、「お言葉じゃない。軍参謀長としての意見具申だよ」と笑いながら言った。今村中尉は翌日からつとめて平静に気をつけ、吉岡試験官との問答にも、礼を失するような言葉を慎んだ。

 合同演習の後、学生六十名は天皇陛下御統監の陸軍大演習の審判官附属員にあてられ、東京に帰ったのは、大学校出発以来一ヶ月余後だった。

 卒業試験の及第如何を問わず仙台の母隊に帰ることになるので、今村中尉が引越しの準備をしていると、明朝、大学校に登校するように連絡が来た。卒業試験である参謀演習で、試験官に反抗的なやり方ばかりをしたので、「落第でも申し渡されるのだろうか」と不安になった。

 翌朝、今村中尉は陸軍大学校に登校し教官室に行くと、教官・阿部信行中佐(陸士九・陸大一九恩賜、大将・首相)が次の様に言った。

 「卒業式は、約二週間後に行われる。その時、君が陛下(大正天皇)の御前で、講演申し上げることに昨日決められた。ついては、現に行われている世界戦争中、欧州東方戦場における独露両軍の情報、これは参謀本部の戦史部で集めたものだ。これをもとにし、きっちり四十分間で終わる講演案を四日以内に作って僕に出したまえ。必要なところに手を入れ、幹事と校長に見せ、これで良いと言えば、すぐ印刷所のほうに廻す…」。

 阿部中佐は部厚な情報綴りと、ポーランド地域の地図を今村中尉に手渡した。今村中尉は、密かに敬意を払っている幾人かの先輩をさし抜き、新参者の自分がこんなことになってしまい、心中忸怩(じくじ)たるうしろめたさを覚えた。

 今村中尉は、四日間、徹夜に近い時間をかけ、案をまとめ、必要な略図幾枚をそえ、指示されていた日時に登校し、阿部中佐に提出したところ、たいした修正はなく、やがて幹事と校長との承認があり、卒業式の二日前にその予行が行われた。

 卒業式の当日、陸軍大学校講堂の正面玉座の一側には、陸軍三長官、元帥、軍事参議官以下の高級武官数十名が、他の一側には、学校教職員五、六十名が椅子に着き、卒業生六十名は、玉座に正面して机を前にし、今村中尉だけが玉座の前方十五、六メートルほどの中央に、起立するようにされていた。

 やがて大正天皇陛下が、侍従武官長以下を従えて、校長の先導で、諸員最敬礼のうちに、玉座についた。

 校長がその席から、今村中尉に向かい、「唯今より講演を申し上げよ」と命じた。

 今村中尉は、机上に講演案を開いていたが、暗記しているので、それには目もやらずに口を開いた。緊張しすぎて、声の調子がうわずってはならないと案じていたが、幸いに順調に語りはじめた。

 大正天皇は、今村中尉を見つめ視線をそらさなかった。今村中尉は陛下の軍服の第二ボタンの辺りに注目して述べ、直接玉顔に眼をやらないように指示されていたが、講演に気がはいって、つい玉顔を拝しがちになった。それに陛下は、時々今村中尉の言葉に、肯いておられたので、今村中尉は感激した。

 夢中であったが、講演の順序は間違わず、途中でつかえもしなかった。だが、指定された四十分で終わったものか、それ以上かかったのか、時間の観念は全く頭から離れていた。

 講演終了後、陛下は控え室に入られ、諸員は他の大講堂に移り、今度は、全校学生百八十名が、玉座に正面し、再び最敬礼のうちに陛下を迎え、御前で、校長より卒業生に証書が附与され、卒業式は終了した。

265.今村均陸軍大将(5)吉岡中佐は時々声を荒くし、今村中尉のやり方を修正させようとした

2011年04月22日 | 今村均陸軍大将
 さらに、鈴木大将は続けた。

 「君は今、上原元帥の副官を兼職しているので、この際とくに言っておく。上原さんは、どんな人前でも隠さずに、喜怒哀楽を、顔と言葉に表す。人間として、純なところは親しまれる」

 「元帥は中央での計画勤務が長く、戦場でも軍参謀長としての職務で事務的だったから、あの俊敏な頭が、よく陸軍に貢献し得てはいる。けれど、戦場での軍司令官としてはあのとおりではいけない。とくに大難局に陥ったときの全軍将兵は、統帥者の顔色だけででも戦況を心配したり、大丈夫だとの自信をもったりする」

 「あの試験のときは、君はたしかに僕に欠点を衝かれ、顔色をかえてうろたえを暴露した。戦場ではお互いに、相手の欠点弱点を突き合うものだ。あのときのことを忘れんで修練をつみ、特に戦時には一段と注意しなけりゃならんぞ…」。

 大正四年、陸軍大学校三ヵ年教育の卒業試験は、参謀演習旅行の名の下に、仙台、山形、弘前の三地方で、各々七日ずつの三週間に渡って行われた。

 今村中尉ら三学年の六十名は、二十名ずつの三個班に分けられ、各班ごとに指導官一、補助官三が附き、この四人の教官が試験官となり、各学生の能力を観察した。

 試験は各班共に十名ずつの二組に分かれ、各学生は互いに、相対抗する両軍の軍司令官、軍参謀長、軍内各師団長などの職務に当たり、攻撃、防御の作戦をやらせられ、試験官は各人のやりかたの適否を考察して採点の上、卒業序列を決定する。

 むろん、以上の職務は不公平にならないように時々交代し、最後の一週間は、六十名全員を一班にまとめ、大学校幹事(教頭職で大佐か少将)とその補助官とが、演習を指導して試験することになっていた。

 今村中尉の属した第一班の指導官は、吉岡顕作中佐(陸士七・陸大一六首席・後の中将)。その補助官は、林仙之少佐(陸士九・陸大二〇・後の大将)、他門二郎少佐(陸士一一・陸大二一・後の中将)、柳川平助少佐(陸士一二・陸大二四恩賜・後の中将)の三名だった。

 演習第一日目、今村中尉は北軍司令官に当たっている岡部中尉に対抗する、南軍司令官の役をふりあてられた。そして北白川宮成久王殿下(陸士二〇・陸大二七・後の大佐・フランスで自動車事故で三十七歳で死去)が、軍参謀長に指定された。

 今村中尉は、演習ではあっても、北白川宮殿下に今村中尉の考えを伝え、命令文を起案していただくような気にはなれなかった。

 北白川宮殿下から「何でも言いつけ給え」とは言われたが、今村中尉は「そばでご覧になっておられ、何か間違いをしていると、お気づきになりましたときに、ご注意くださるよう、お願い申し上げます」と答えた。

 今村中尉は結局、軍司令官と、その参謀長のやるべき両方の仕事を、自分ひとりでやることにしたので、忙しいことは大変だった。

 指導官の吉岡中佐は、入学の口述試験の人物考査の時、今村中尉はひどく叱られただけで、その後三年間、一度も教えられたことは無かった。

 従って今村中尉は吉岡中佐の性格については全く承知することなしに、その人の試験を受けることになった。

 そんなことから、今村中尉の行った軍の運用は多分に吉岡試験官の流儀と違い、指導しぬくかったらしく、吉岡中佐は時々声を荒くし、今村中尉のやり方を修正させようとしたが、今村中尉はほとんど一度もこれに応じて直したことが無かった。

 吉岡中佐は、不快の表情を表にし、いろいろ今村中尉につっかかってきた。今村中尉の興奮性は、当時三十歳前の時分は人並み以上に強かった。

 そのため、演習第三日、仙台北方、吉川平野での攻撃作戦では、今村中尉は「試験で落第したってかまわない」という捨て鉢気分になってしまい、試験官・吉岡中佐が大きな声を出せば、今村中尉も逆に吉岡中佐の考えの不当を論難するような反抗的態度を出してしまった。

 この日の演習には、・陸軍大学校長・河合操中将(陸士旧八・陸大八・後の大将)が、朝から今村中尉の班に臨場して、視察していた。第一日にも来たので、これで二回目だった。

 今村中尉は、一日目に二回、今回も一回、河合校長から、今村中尉の不動の姿勢が悪く、首が右に傾いていることを注意された。

 午後四時頃、演習が終わり、解散したが、今村中尉は河合校長から「今村中尉は、こちらに来い」と呼び止められた。

 今村中尉が河合校長の前に進み出て敬礼すると、「貴官は、校長から幾回姿勢を正されたか」と訊かれた。「三回であります」と答えると、「三度も注意されながら、少しもなおっていない。己の欠点を正す誠意が無ければ、なおらないぞ」と言われ、また首より上の姿勢を直された。

 吉岡試験官と張り合った上に、また河合校長よりの叱責だった。今村中尉の気分はすこぶる暗くなった。午後五時前、宿に帰ると、北白川宮殿下の御附武官からすぐ来るようにと連絡が来た。

264.今村均陸軍大将(4)今度入ってくる者は合格になります。少し手厳しく試して見ましょう

2011年04月15日 | 今村均陸軍大将
 陸軍大学校で口頭試験を終えて、青山から新宿までの電車内で今村中尉の心はひどく乱れた。秋季演習不参加が公務不精励であり利己的行為であったことは、一言も弁解しようがない。

 その夜、義兄と姉がこもごも慰めてくれた。二人に今村中尉は次の様に言った。

 「今日という今日は、実に大きい苦痛の打撃を心に加えられました。よく考えますと、これは天が私を罰したものです」

 「私が親でもあるような、河内連隊長の恩寵に溺れ、兵隊練成に生涯を捧げなければならない転職を忘れ、一身の栄達にも関係を持つ陸大入学などを志した邪念を、天は憎まれたものでありましょう」

 「もう陸大のことはいっさい頭から払いのけて、懸命に練兵に精進するつもりです」。

 入校式直前の十二月十二日、受験者の合格、不合格が陸軍大学校で申し渡された。受験者百二十名は大講堂内に集合が命ぜられた。

 やがて校長・大井元成中将(陸士旧六・陸大四)、幹事・鈴木壮六少将をはじめ、試験官だった教官約四十名が正面に立ち並んだ。

 大井校長が受験者一同に対し訓示を行い、最後に次の様に付け加えた。

 「最後に一言付け加えておく。近年隊附青年将校が、多くこの大学に入校を志すことは、このましいところだが、これがために隊務の精励を欠く者を生じては、国軍を害することになる」

 「かような者は、当校は、断じて入校を容認しない。諸官はこの点に就き、自らを戒めると同時に、よく隊附青年将校を教え、その道をあやまらしめないようにせられたい」。

 今村中尉は、またも自分は「卑劣な利己思想者」の烙印をあてられたと思った。校長の訓示が終わると斎藤泰治学校副官(陸士一三)が口を切った。

 「唯今より呼名されるものは、講堂のこちら側、呼ばれない者は、反対の側に集合せよ」。斎藤副官は名簿を開き呼名し始めた。

 板垣征四郎中尉(陸士一六)の名も、山下奉文中尉(陸士一八)の名も読み上げられた。今村中尉は、この方の者が合格者であることはまちがいない。今村均中尉(陸士一九)の名は呼ばれなかった。

 やがて斎藤副官は「さきほど呼名された六十名は、遺憾ながら不合格。唯今より階下の経理室に行き、旅費を受領の上、各自の所属隊に帰還されよ」と告げた。

 今村中尉は全く自分の耳を疑った。けれども自分の左右にいる、呼ばれなかった人々が、そのまま動かずにいるので、「変だな。変だな」と心はつぶやきつづけた。

 やがて、同時ご入校の北白川宮成久王殿下を迎え、新入生六十一名に対し入校式が行われた。式が終わり、新宿の義兄の家に帰ると、姉がすぐ言葉をかけた。「どうだった。いけなかった?」。

 「なんのことか、さっぱりわからん。鈴木幹事と吉岡教官もおる前で、合格者の中に入れられた」と今村中尉は答えた。

 陸軍大学校入校の日から十四年後、今村均中尉は参謀本部の参謀少佐になっていた。

 当時の参謀総長・鈴木壮六大将に、今村均少佐は随行し演習視察のため東京から名古屋まで、一等車で長時間雑談をした。

 そのとき、今村少佐は鈴木大将に「もう十数年以前のことで、お忘れになっていると思いますが、私は中尉で、陸大の再審口述試験を受けましたとき、直接閣下から人物考査をされております」と言った。

 鈴木大将は「あれはわしの主張で、あの年初めてやったことだし、間もなく自分は旅団長になり、大学校を出てしまい、あの考査は自分としては一ぺんやっただけだった」と答えた。

 そこで今村少佐は鈴木大将に次の様に言った。

 「私は幹事であった閣下から『連隊旗手の職は、実質的には隊附勤務とはいえない』と言われましたことは、今でも納得されず、立派な隊附勤務だったと信じております」

 「しかし、『秋季演習に加わらず、兵営に残留して、受験準備をしたことは、隊務不精励であり、卑劣な利己行為で、そんなことをやった者は、断じて、入校させることはできない』と、強く叱られましたことには、一言の弁解もできず、恐れ入ってしまいました」

 「あんなにはっきり『受験の資格が無い』と、宣告されました私を、どうして入校せしめていただいたのか、今に不思議に思われてなりません」。

 すると鈴木大将は今村少佐に次の様に答えた。

 「あの自分は、悪い風があり、再審の前には、受験者は秋季演習に出ないことが、本人も連隊長も、当たり前のように考え、事実、あの年の受験者のほとんどが、そうしていた。それで受験のため隊務をおろそかにする弊風を矯める意味で、多くの者に、同じような質問を発してみた」

 「君の場合は、あの時の態度が特にみにくかったので、それで覚えている。副官部では毎晩遅くまでかかり、全試験官の採点紙をまとめ、各受験者の成績が翌日の朝にはわかるように集計したものを、校長と幹事には見せていた」

 「吉岡教官がそれを見ながら『今度入ってくる者は合格になります。少し手厳しく試して見ましょう』と、言っているところに、君がやって来た。それでああ試問してみた」

 「ところがわしに『受験資格を持っていない』と言われた時、君は顔色をまっさおにし、今にも倒れそうになってしまった。君が退場したあとで、わしが『吉岡君!今村中尉は、まだ年も気持ちも若すぎる。もっと精神を鍛えさせた上で、入れるほうが本人のためにもよかあないか』と言うてみた」

 「ところが吉岡教官は、自分がわしに『手厳しくやれ』と言った手前上、慈悲心を起こし『入れておいて、よく教えることにしましょう』と、とりなした。それで入れることにしたのだ」。

263.今村均陸軍大将(3)貴官はこの学校の入学試験を受けることが許されない。退場!

2011年04月08日 | 今村均陸軍大将
 東京では、今村中尉の姉の夫であり、東京連隊の大隊長をやっている武田正助少佐(陸士八)の家に止宿した。早速板垣中尉の下宿を訪ね、翌日から陸軍士官学校で各教官から実物について教育を受けた。

 また、義兄の武田少佐が、「いま、参謀本部で服務している梅津美治郎大尉(陸士一五・陸大二三首席)は、三月前まで、わしの大隊の中隊長だった人だ。去年、首席で陸大を卒業、人格も立派な人だ。君が上京してきたら『戦術の指導をしてくれないか』と依頼してみた。気持ちよく引き受けてくれた……」などと今村中尉に語った。

 今村中尉は戦術を教わる人がいなかったので、渡りに船とばかり、梅津大尉のところに通い、毎晩二時間ほど、梅津大尉の質問に答え、間違っている点を指摘してもらい教えてもらった。

 梅津大尉のところに通い始めて八日目のとき、梅津大尉は今村中尉に次の様に言った。

 「もう二、三日で試験になるが、君はきっと、入れると思う。もう誰からも教えられんでよい。むしろ頭をやすめるほうがよかろう」。

 大正元年十二月二日から十日間にわたり、陸軍大学校で口頭試験が行われた。百二十名の受験者(大部分が中尉)が、十二名ずつの十個班に区分され、各班一日一、二科目の試問をやられる。

 一科目につき、一人平均三、四十分があてられ、戦術は五名、その他の科目は、二、三名の大学校教官が試問官となり、逐次一人ずつを受験室に呼びいれて試問する。

 今村中尉は第九日目までの各科目はたいてい答えられ、当惑したりまごついたりすることはなくてすんだ。

 いよいよ最後の十日目を今村中尉は迎えた。科目は「人物考査」となっている。陸大幹事・鈴木壮六少将(陸士一・陸大一二)と、先任兵学教官・吉岡顕作中佐(陸士七・陸大一六首席)の二人が、この科目の試験官だった。

 今村中尉は第一班の最新参者として、最後の十二人目に当たっており、この日も午後四時近くに試験室に呼び入れられた。

 今村中尉が試験官に敬礼の上、官氏名を述べると、鈴木少将が問いかけた。

鈴木少将「今村中尉は、連隊でどういう職務を勤めたか」

今村中尉「中隊一年八ヶ月、連隊旗手二年、教育係一年」

鈴木少将「貴官は陸軍大学校に規定されている、受験者資格を承知しているか」

今村中尉「身体壮健。執務精励。志操が堅く、隊附勤務二年以上で、将来発達の見込みあるもの」

鈴木少将「貴官の実質的隊附勤務は、一年八ヶ月に過ぎない。二年以上の隊附とはいえない」

今村中尉「連隊旗手の職も、隊附勤務であります」

鈴木少将「大学校が二年以上の隊附勤務と規定している精神を、どう考える」

今村中尉「軍隊の実情に通じ、部下を指揮する能力を持つ者を、めあてにしているものと考えます」

鈴木少将「その通りだ。だから貴官は、実質的には、まだ受験資格を備えていない。もう一年、中隊附勤務を勉強した上で、来年やってこい。なお、今後の受験のため参考に聞いておくが、今年の秋季演習には参加したか」

今村中尉「参加いたしておりません」

鈴木少将「病気でもしていたのか」

今村中尉「試験準備のため、早めに上京したいと思い、残留勤務を願い出て許されました」

鈴木少将「試験準備のため参加しなかったのか。秋季演習は、軍隊一年間の訓練の総しめくくりだ。大学受験は、命令によるものではあるが、半分は私的の志望によるものだ。私欲のために、もっとも大切な公務をないがしろにして、それで貴官が口にした受験資格中の勤務精励といい得るか。それに受験者仲間の他の将校が、労苦の大きい秋季演習をやっているのをよそにし、自分ひとりだけが、隊に残留して試験の準備をする。唾棄すべき卑劣な行為、軍人として許し得ない利己思想だ。さっきは、来年また受験しに来いといったが、精神を修養し、悪いところが改善されない限り、貴官はこの学校の入学試験を受けることが許されない。退場!」

 大声で怒鳴られた今村中尉は困惑して、十二月だというのに、冷や汗が背にも額にも流れ出し、なんとか弁解しておきたいと思ったが、頭がぼっとし、何も言えずにもだえた。

 吉岡中佐が「退場というのに、どうして退場しないのか」と立ち上がって大喝した。

 今村中尉は、われにかえって敬礼し、室を出たには出たが、眼がぐらぐらまわり、はしご段の手すりに、腕をたくしながら下におりた。

262.今村均陸軍大将(2)均は天皇の統治する国家における軍人の忠誠に価値観を見出した

2011年04月01日 | 今村均陸軍大将
 そうしたうちに、十一月三日、青山の練兵場で観兵式が挙行され、天皇陛下の行列が儀仗隊に守られ、臨場してきた。群衆は万歳万歳と叫びながら行列に押寄せた。

 今村均も群衆の中にいた。均は大人の熱狂的な群衆にもみにもまれて、最前列に押し出され、天皇陛下の馬車から二メートルのところに来てしまった。

 均はそのとき、陛下の姿を見た。陛下は馬車の窓を通して両側の民衆におおらかな挨拶をしておられた。群衆の中には狂えるように万歳を連呼したり、感涙している者もいた。

 十九歳の均は、この光景を見て感動した。「ああ、これが日本のお国柄なのだ」。均は思わず両手のこぶしを固く握り締めていた。

 これを契機に、均は天皇の統治する国家における軍人の忠誠に価値観を見出した。均は陸軍士官学校を受験することを決意し、母に「陸士を受験する」と電報を打った。ちなみに均の長兄は銀行員だが、均以下四人の兄弟は、その後みな陸軍士官学校に入校した。

 明治三十八年七月、今村均は陸軍士官学校に第十九期生として入校した。第十九期生は千百八十三名が採用された。日露戦争の火急の場に間に合わせるため、第十八期生の九百六十九人をさらに上回るものだった。

 だが、明治四十年五月、陸士第十九期生の卒業時には百十五人が落伍していた。六月、仙台の第二師団歩兵第四連隊見習士官、十二月、少尉に任官した。

 この頃、営内居住の今村少尉は、日曜日ごとに三期先輩の板垣征四郎中尉(陸士一六)の下宿へ遊びに行った。

 当時、板垣中尉は小隊長としての戦闘指揮ぶりはあざやかで、闊達な気性は誰からも好感を持たれ、そのうえ容姿端麗で“連隊の華”と呼ばれていた。

 今村少尉は板垣中尉の下宿で、机の上の「禅」の本を取り上げ、「私はとかく興奮し、人と争いがちです。この欠点が禅で治るでしょうか」と板垣中尉に尋ねた。

 板垣中尉は「なるほど、君はすぐにムキになる。だが自分の弱点を知っていれば、治す道はあるであろう」と本を貸してくれた。

 今村は何冊かの本を読み、それについて板垣中尉と話し合ってみた。だが、結局、今村少尉の興奮性を治す役には立たなかった。

 「日本人の自伝12・今村均回顧録」(今村均・平凡社)によると、明治四十五年四月上旬、朝鮮羅南の第二師団第四連隊に勤務していた今村均中尉は、第二回目の陸軍大学校受験のため、前回同様、羅南を出発し、船で元山に上陸し、それから汽車行、午後四時頃京城の竜山駅に着いた。

 昨年泊まった駅前の対洋館ホテルに泊まるつもりで、同行の成島中尉と一緒に駅の出口に歩いて行くと、副官懸章を吊った中尉がいそいそとやって来て「今村君ですか」と問いかけてきた。

 副官の中尉は第二師団参謀長・市川堅太郎大佐(陸士一・陸大一四)から次の様に言われたという。

 「昨年の図們江岸旅行の時は、今村中尉にえらい世話になった。自分の官舎に泊めたいのだが、試験委員長のところに、受験者の一人だけを泊めるのは遠慮される。どこか静かに勉強できるところを探してやってくれ」。

 副官の中尉は「そのように言われ、あちこちを探し、結局矢砲兵中隊の将校集会所宿舎が、よいように思われ交渉してみました。田口中隊長も気持ちよく応じてくれましたので、そこに案内いたします」。

 それで二人はそこに連れていかれた。市川参謀長が宿舎のことまでに気をつかってくれた厚意を、今村中尉はしみじみ有難く思った。

 昨年同様、七日間で筆記試験が終わった。第二師団の朝鮮駐屯期間が終わり、師団全員が仙台に引き上げることになったので、今村中尉も仙台に帰ることにした。

 それで、参謀長官舎に市川大佐を訪ね、御礼の言葉を述べた。市川大佐は次の様に言った。

 「やあ去年は世話になった。朝鮮内はあちこち見たが、あの江岸の十日間の印象ぐらい、愉快なものはなかった。試験の結果は去年のようなことがあるので、予言はできないが、昨年に比べよく出来ているように見た。去年は師団から一名も入れず、師団長も残念がっておられる。この上とも勉強し、再審口頭試験の準備に取り掛かり給え」。

 今村中尉が仙台に引き上げてから、約四ヶ月たち、八月なかば、陸軍大学校から師団あて、今村中尉の初審筆記試験の合格と、十二月一日、再審口頭試験のため出頭すべきことが通告された。

 今村中尉が仙台の第四連隊で士官候補生のとき、いろいろ指導してくれた板垣征四郎中尉(陸士一六・陸大二八)は、今は陸軍士官学校の区隊長になっていた。今村中尉が初審試験に合格したことを知らせたら、板垣中尉から次の様な返信が来た。

 「僕も合格者の一人になった。再審の準備は、仙台ではよく出来ない。連隊長に願い出て、年度の定例休暇二週間を、十一月なかば以後にもらい、なるべく早く上京し給え。戦術以外の地形学、兵器学などで、実物なり模型なりで了解しておくべきものは、僕が陸士の教官に頼み、君に説明してもらうように手配してやる」。

 陸軍での試験勉強は、毎日の勤務を欠かさずにしなければならない。それで、試験直前に休暇をもらうことができたら、こんな便宜なことはなかった。

 今村中尉は連隊長に願い出た。したがって、十月下旬から十一月上旬にわたる秋季演習には出場せず、兵営残留勤務に当てられ、十一月中旬から定例の休暇をもらい上京した。