陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

718.野村吉三郎海軍大将(18)ピシャリと答弁して相手を悔しがらせるよりは、一寸スキをつくって向こうを得意がらせておく

2019年12月27日 | 野村吉三郎海軍大将
 海軍大臣・斎藤実大将は、野村吉三郎少佐に、議会の答弁について、次のように話していたという。

 「海軍大臣として議会の答弁に立つ時、一〇〇パーセント完全な答弁をするところを、わざと七、八〇パーセントに止めるのがコツである。完全無欠にピシャリと答弁して相手を悔しがらせるよりは、一寸スキをつくって向こうを得意がらせておく方が、安全というワケだ」

 斎藤実大将は、軍人には珍しく味のある人物だった。大正三年に海軍大臣を辞職すると、千葉県の九十九里浜の海岸沿いの別荘に引きこもり、草履をはき、手ぬぐいを腰にぶら下げ、松の枝おろしや、垣根を直したり、庭いじりの生活をしていたという。

 野村吉三郎中佐は、海軍大臣・斎藤実大将から、引き続いて海軍大臣・八代六郎(やしろ・ろくろう)中将(愛知・海兵八期・一九番・常備艦隊参謀・巡洋艦「宮古」艦長・大佐・防護巡洋艦「和泉」艦長・海軍大学校選科学生・装甲巡洋艦「浅間」艦長・在ドイツ国大使館附武官・少将・横須賀予備艦隊司令官・第一艦隊司令官・練習艦隊司令官・第二艦隊司令官・中将・海軍大学校校長・舞鶴鎮守府司令長官・海軍大臣・第二艦隊司令長官・男爵・佐世保鎮守府司令長官・大将・軍事参議官・予備役・枢密顧問官・昭和五年六月三十日死去・享年七十歳・男爵・従二位・勲一等旭日桐花大綬章・功三級・イギリス帝国第一等聖マイケル・聖ジョージ勲章等)の秘書官になった。

 海軍大臣秘書官という職務上、議会開会中には大臣に従って議会に赴き、常に当時の状況を見聞した野村吉三郎中佐は、後に当時を回顧して次のように述べている。

 八代さんという人は清廉な人で、私の知っている通りでは貧乏な癖に他人に物を呉れてやることにかけては、この人の右に出る者はなかった。

 実に気前よく何でも遣って終う人だった。武人銭を愛せずとは八代さんのためにあるような印象を受けた。私なども随分と色々な物を貰ったものだ。

 併し、政治的な手腕ということについては山本さんや斎藤さんには遙かに及ばなかったように思う。

 山本さんは別格として私が仕えた斎藤海相は、前にも話したように議会の答弁でも十のところは七か八に止めて、相手を巧みに懐柔するあたり実に堂に入ったものだったが八代海相はその点、武人的にハッキリし過ぎていて政治的には乏しかった。

 けれども、これがまた、この人の良い処であったろう。後年枢密顧問官に成られたときに、もと副官や秘書官をした連中が星ヶ岡茶寮に招待して、一夕お祝いの縁を開いたが、その頃、軍令部次長になっていた私に「野村、お前もう中将になったのか」と相好を崩して欣んでくれる様子は、恰も田舎の小学校の校長が昔の教え子に接しているようで、全く学校の先生然としたところがあった。

 なお山本伯、斎藤子の予備役編入については、当時の海軍次官鈴木貫太郎氏(後・大将・首相)は八代海相を補佐して居た関係上、その理由として、

 一、シーメンス事件の如き不祥事に対し、海軍の大御所山本伯と海相斎藤子は責任を絶対に免れない。

 二、その結果として、海軍予算を不成立ならしめた責任は重大である。

 と語り、晩年においても決して間違った処置ではなかったことを繰り返し述べていた。

 シーメンス事件の責任は別として山本伯は偉傑で、個人的な生活は実に立派なものであった。薩摩武士の質実剛健を尚(たっと)び、何時でも職を賭して戦うだけの覚悟を持ち、俸給の半分で生活をして、且つ自助の精神を堅持され、晩年まで針箱を常に用意し、落ちたボタンや小さい綻びは自分で縫うくらいであった。

 公式の宴会以外、一切私的な宴席のために料理屋に出入りしたことはない。だから料理屋で伯の顔を見ることは殆ど無かった。

 また斎藤子は秘書官が機密費を預かっているので、時々百円持ってこいといわれ、差し出すと“金百円也右預かり候也、斎藤実”と書いた預かり証を呉れた。

 このほか私の仕えた八代六郎、加藤友三郎、鈴木貫太郎、財部彪等の諸提督はいずれも人格高潔であった。もって当時の海軍の気風を知るに足るのである。

 それから議会に行き見聞していて、強く印象に残っているのは大隈さんの豪傑ぶりだった。反対党の議員が何か半畳でも入れると一段と大きな声を張り上げて、「誰々君、声が小さい!もう一度そこのところやり給え」といった塩梅で、陣笠議員を頭から舐めてかかっていた。

 やはり、八太郎の昔から死生の巷を潜って来た豪傑だけのことはあると感心させられたものである。

 以上が大正二年から三年にかけて海軍大臣秘書官をしていた野村吉三郎中佐の、回顧談である。







717.野村吉三郎海軍大将(17)野村吉三郎少佐がオーストリアから転じた頃のドイツは、全ヨーロッパの台風の眼ともいうべき存在となっていた

2019年12月20日 | 野村吉三郎海軍大将
 オーストリアに二年駐在勤務をした後に、野村吉三郎少佐は、明治四十三年五月、ドイツ駐在となり、ベルリンに転勤した。

 当時のドイツもまた、オーストリアと同様に複雑な国家組織を持っていた。

 フランス帝国(第二帝政期)とプロイセン王国(現在のドイツ北部からポーランド西部が領土・首都はベルリン)の戦争である普仏戦争(一八七〇年<明治二年>七月十九日~一八七一年<明治三年>五月十日)は、プロイセン帝國の圧勝で終結した。

 フランス第二帝政は崩壊し、ドイツ統一が達成され、新憲法を公布したドイツ人は、初めて民俗的統一国家を持った。

 この新しい統一国家は“ドイツ帝国”と呼ばれた。だがこの民族的統一国家であるドイツ帝国の内容は、オーストリア以上に複雑を極めた。

 当時のドイツ帝国は、四王国、六大公国、五公国、その他合計二十二の君主国と三自由市、一帝国領から構成される連合複合国家といえた。

 このドイツ国家の強力な中心をなすものは、プロイセン王国であった。ドイツ帝国の元首は“皇帝”と称され、プロイセン王国の国王が兼ねた。また、ドイツ帝国宰相もプロイセン王国の首相が兼ねた。

 そして、この新ドイツ帝国の最も特質とするところは、最高の行政機関としての“帝国宰相は、単に皇帝にのみ責任を負い、議会に対しては責任を持たないことである。

 宰相は皇帝を補佐するのみであって、近代的な責任内閣の首班ではない。それでも“鉄血宰相”の在任中は、“帝国宰相”の権威は高かったが、ビスマルクが退いた後のドイツ帝国は、カイザー・ウィルヘルム二世の思うままで、一種の皇帝親政に近かった。

 だから、野村吉三郎少佐がオーストリアから転じた頃のドイツは、全ヨーロッパの台風の眼ともいうべき存在となっていた。ウィルヘルム二世一流の対外的積極政策がとられていたのだ。

 このドイツ帝国でも、野村吉三郎少佐は、ドイツ帝国の内情やドイツ帝国を取り巻くヨーロッパ各国の情勢を見聞し、さらに、二度のヨーロッパ旅行を行い、軍事、政治、外交について多大の収穫を得たのである。勿論、海軍に関する調査研究も行った。

 ヨーロッパ生活も満三年となった野村吉三郎少佐は、明治四十四年五月八日付けで帰朝を命ぜられた。

 野村吉三郎少佐は、オーストリア、ドイツ、さらに二回に亘るヨーロッパ旅行で仕入れた新知識をその巨体に詰め込み、一路帰途につき、八月十九日、無事に帰国した。

 帰国後の野村吉三郎少佐の最初の仕事は、九月十三日付けをもって、第二艦隊所属の防護巡洋艦「音羽」(三〇〇〇トン)の副長に補任された。

 その後、野村吉三郎少佐は、明治四十五年六月に海軍省軍務局局員になり、大正二年二月二十六日には、海軍大臣秘書官、十二月には中佐に進級した。三十六歳だった。
 
 野村吉三郎少佐が大臣秘書官に補任された時は、第一次山本内閣が発足(大正二年二月二十日)したばかりだった。

 内閣総理大臣は山本権兵衛(やまもと・ごんべえ)海軍大将(鹿児島・海兵二期・大臣伝令使・海軍次官欧米差遣随行・大佐・巡洋艦「高雄」艦長・防護巡洋艦「高千穂」艦長・海軍省主事・少将・海軍省軍務局長・中将・海軍大臣・男爵・大将・大将・軍事参議官・伯爵・内閣総理大臣・予備役・退役・内閣総理大臣兼外務大臣・宮中杖差許・昭和八年十二月死去・享年八十一歳・伯爵・従一位・菊花章頸飾・功一級・ドイツ帝国赤鷲一等勲章・フランスレジオンドヌール勲章グランクロワ等)だった。

 海軍大臣は斎藤実(さいとう・まこと)大将(岩手・海兵六期・三番・中佐・大佐・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・防護巡洋艦「霧島」艦長・海軍次官・少将・海軍総務長官兼軍務局長・海軍次官兼軍務局長・中将・海軍次官兼軍務局長兼艦政本部長・海軍大臣・男爵・大将・朝鮮総督・子爵・ジュネーヴ会議全権・後備役・枢密顧問官・退役・朝鮮総督・内閣総理大臣・内大臣・昭和十一年二月二十六日暗殺・享年七十七歳・子爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功二級・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィシェ・オランダ王国オランジュナッソー第一等勲章等)だった。




716.野村吉三郎海軍大将(16)事実、ウィーン駐在は、後日、野村吉三郎雄飛の基礎を養った

2019年12月13日 | 野村吉三郎海軍大将
 しかしながら、この寄せ集めてきな国家の存在が、当時の東部ヨーロッパの勢力均衡を保つことに役立っていたのである。

 さらに、日本にとって、当時のオーストリア帝国は、ロシアの隣国として、ロシア国内の内情を最も早く、かつ正確に伝える位置にあった。

 従って、オーストリア帝国に派遣される、日本の外交官や陸海軍武官は、ロシアの動きを常に観察することを前提として勤務していた。

 オーストリアに駐在していた野村吉三郎大尉が、ウィーンに着任した当時のオーストリアの国際的立場は、難しい様相を見せていた。

 当時のオーストリアは、ドイツ、イタリアと「三国同盟」(一八八二年<明治十五年>締結)を結んでおり、イギリス、フランス、ロシアの「三国協商」と対抗していた。複雑な国家組織と困難な国際的立場に板挟みになっていた。

 ちなみに、その数年後、さらに第一次世界大戦を勃発させる引き金となった大事件、サラエボ事件が起きている。

 サラエボ事件とは、一九一四年(大正三年)六月二十八日、オーストリアの皇太子、フランツ・フェルディナント大公夫妻が、セルビア人の青年により暗殺された事件。

 七月二十八日、オーストリア=ハンガリー帝国は、セルビアに宣戦布告をした。するとロシアはセルビアを支援するため、七月二十九日、総動員令を出し出兵した。

 これに対し、八月一日、ドイツがロシアに宣戦布告をし、動員令を発した。こうして第一次世界大戦が勃発した。

 なお、サラエボ事件が起きた、一九一四年(大正三年)当時は、野村吉三郎少佐は、帰国(明治四十四年八月)後数年経っており、海軍大臣秘書官(中佐)をしていた。

 さて、話は元に戻って、明治四十一年(一九〇八年)九月、オーストリアのウィーンに駐在していた野村吉三郎大尉は、少佐に進級した。三十歳だった。

 当時のオーストリア駐箚特命全権大使は、内田康哉(うちだ・こうさい・熊本・東京帝国大学法科卒・外務省・通商局長・政務局長・清国駐箚特命全権公使・オーストリア駐箚特命全権大使・米国駐箚特命全権大使・外務大臣・枢密顧問官・南満州鉄道総裁・外務大臣・昭和十一年三月死去・享年七十歳・伯爵・従一位・勲一等旭日桐花大綬章・オーストリア=ハンガリー帝国レオパール大綬章・フランスレジオンドヌール勲章グランクロア等)だった。

 陸軍駐在武官は、福田雅太郎(ふくだ・まさたろう)大佐(長崎・陸士旧九期・陸大九期・オーストリア公使館附武官・大佐・参謀本部情報課長・歩兵第三八連隊長・歩兵第五三連隊長・少将・歩兵第二四旅団長・関東都督府参謀長・参謀本部第二部長・中将・第五師団長・参謀次長・台湾軍司令官・大将・関東戒厳司令官・予備役・大日本相撲協会会長・枢密顧問官・昭和七年六月死去・享年六十五歳・従二位・勲一等旭日大綬章・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)だった。

 海軍駐在武官は、百武三郎(ひゃくたけ・さぶろう)中佐(佐賀・海兵一九期・首席・海大三期・軍務局局員・大佐・装甲巡洋艦「磐手」艦長・巡洋戦艦「榛名」艦長・第二艦隊参謀長・少将・佐世保鎮守府参謀長・海軍教育本部第二部長・中将・第三戦隊司令官・鎮海警備府司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・練習艦隊司令官・佐世保鎮守府司令長官・大将・軍事参議官・予備役・侍従長・枢密顧問官・昭和三十八年十月死去・享年九十一歳・従二位・勲一等旭日大綬章)だった。

 陸軍駐在武官・福田雅太郎大佐と海軍駐在武・百武三郎中佐は、二人とも、先輩として、野村吉三郎少佐の世話をよくしてくれた。

 野村吉三郎少佐の仕事は、はっきりと定められたものではなく、要するに長期のヨーロッパ見学であった。

 若い海軍少佐、野村吉三郎は、あらゆる角度からオーストリアを中心とするヨーロッパ各国の動態を観察した。ある意味、彼は、このような広く豊かな立場に置かれ、恵まれた環境にいたともいえる。

 「海軍大学校などで、兵棋演習などしているよりも、列強の勢力が暗躍を繰り返している、このウィーンのほうが、よほど勉強になる……」。

 このように考えた野村吉三郎少佐は、ハンガリーの首府ブタベストをはじめ、ヨーロッパ各国を廻って見聞を広めた。事実、ウィーン駐在は、後日、野村吉三郎雄飛の基礎を養ったのである。

715.野村吉三郎海軍大将(15)ある批評家が、「ウィーンではバロン(男爵)以上でないと人間扱いにしない」と、嘆息した

2019年12月06日 | 野村吉三郎海軍大将
 野村吉三郎という人間が、そうした大言壮語の東洋豪傑型とは趣を異にしているのは、彼を知るほどの者の等しく認めるところである。

 野村吉三郎大尉は、明治四十一年三月三日付けで、オーストリア駐在を仰せつけられた。

 このオーストリアへの出発の二日前に、野村吉三郎大尉の妹・せいの夫、保田芳雄海軍少佐の知人の娘と、野村吉三郎大尉(三十一歳)は、結婚式を挙げた。出発の為、式を急いだのである。

 保田芳雄海軍少佐の知人の娘とは、奈良県郡山市で、以前は郡長等の地方官吏だった山岸鹿雄の三女、山岸秀子(ニ十歳)だった。

 秀子が、野村吉三郎と生涯を共にした四十余年の歳月は、如何なる家庭婦人にも劣らぬ質実で貞淑、かつ愛情あふれる婦徳一途の人生であったことは、他の誰よりも野村吉三郎自身が一番よく知っていた。

 野村吉三郎大尉が派遣された、オーストリアは、正確にいえば、オーストリア=ハンガリー帝国であった。ヨーロッパでもっとも古い伝統を誇る宮廷国家であり、貴族国家だった。

 アメリカのある批評家が、「ウィーンではバロン(男爵)以上でないと人間扱いにしない」と、嘆息したと伝えられている。

 それは、オーストリアの半面を物語っている。当時、ウィーンの社交界は、全ヨーロッパの伝統的な上流社会の、社交の中心でもあったのである。

 当時のオーストリアは、複雑極まる組織を持った複合国家でもあった。

 オーストリア=ハンガリー帝国は、その称号が示すように、オーストリア帝国(現在はオーストリア・共和国)とハンガリー王国(現在はハンガリー・第三共和国)の連合に、旧ポーランド王国領のガリツィア(現在のウクライナ・共和国南西部地域)、それからボヘミア(現在のチェコ・共和国西部・中部地方)、及びクロアチア(現在のクロアチア・共和国)を併合した複合国家だった。

 そのうち、ガリツィア、ボヘミア、クロアチアの三国はオーストリア帝国(ハプスブルク家)に征服されて、その領土に編入されることとなった国家だったので、統治には手を焼いていた。

 当時、明治四十一年(一九〇八年)のオーストリア=ハンガリー帝国の元首は、六十年余りの長きに渡ってハプスブルク帝国の皇帝として君臨してきた、フランツ・ヨーゼフ一世(七十八歳)だった。

 ちなみに、ハプスブルク帝国は、一九一八年(大正七年)のオーストリア=ハンガリー帝国崩壊に伴い、六五〇年間中央ヨーロッパに君臨したハプスブルク家の帝国支配が終焉し、当時の皇帝カール一世は国外へ亡命した。

 さて、野村吉三郎大尉が駐在した当時のオーストリア=ハンガリー帝国は、他に類を見ない複雑極まる取り決めによって連合国家を形成していた。

 元首のフランツ・ヨーゼフ一世は、オーストリアにおいては「皇帝」、ハンガリーにおいては「国王」で、“エンペラー・キング”と称されていた。

 両国ともそれぞれ全く独立した国家形態を呈し、ただ、外交と国防だけは両国共同でこれに当たるので、それに伴う経費も両国協議して負担する。

 そのため、外務、国防、財務の三大臣は、両国の上に立って共同の政務を執行し、両国間の連鎖機関の役割を果たしていた。

 それ以外のことは、両国とも別々の機関によって、統治されているので、上記の三大臣によって執行される共同政務に参与せしめるために、両国の議会から四〇人ずつの代表委員が選出され、合計八〇人で委員会を構成していた。

 これは“デレゲーション”と呼ばれ、三大臣はこの“デレゲレーション”に対して責任を負い、“デレゲレーション”は、それぞれの議会に対して責任を負うという、実に複雑な仕組みになっていた。

 両国が対等の立場をとっていることを裏付ける為に、オーストリア皇帝は毎年一定の期間中は、ハンガリーの首府、ブタペストに移り、そこでハンガリー国王として執務し、外交団もブタペストに移るという全く奇妙な国家組織だった。