陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

292.鈴木貫太郎海軍大将(12)今まで少将でこの勲章をもらった例はなかった

2011年10月28日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 大正四年六月七日、海軍次官・鈴木少将は良縁を得て新夫人を迎えた。夫人は新渡戸稲造博士(札幌農学校二期生・東京帝大選科・東京帝大教授・貴族院議員)らと同学の農商務省横浜生糸研究所技師・足立元太郎の令嬢で、名はたか、三十二歳だった。鈴木少将は四十七歳だった。

 たか夫人は東京女子師範保姆(ほぼ)科を卒業後、皇太子裕仁親王(昭和天皇)の哺育に奉仕していた。

 大正四年八月、鈴木少将は高等官一等になった。それで大正五年四月には論功行賞があり、勲一等旭日大綬章を拝受した。高等官一等で海軍次官として授与されたが、今まで少将でこの勲章をもらった例はなかった。

 当時は日独戦争中であり、ロシアから皇族が日本に派遣された。同盟の謝意を表すための使いであった。

 皇族の殿下一行は朝鮮を経由して日本に来た。朝鮮では、日本の陸海軍の将官が案内役で随行した。

 ロシアの殿下は日本の大官達に、各種の勲章を贈与するために持ってきていた。海軍次官・鈴木少将も授章名簿の中に加えられていた。

 それで、日本帝国陸海軍大臣、次官には、日本の勲一等に相当するものを贈る予定だった。参謀次長、軍令部次長に対しては、その次の勲章が予定されていた。

 ところが、朝鮮から随行して来た陸軍将官が、それでは具合が悪い。陸軍参謀次長・田中義一中将(陸士旧八・陸大八・陸相・首相・男爵)には是非良い勲章を与えるべきであると進言したので、ロシアの殿下は日本に着いて、田中参謀次長に良い勲章を贈った。

 そこで、殿下が携帯してきた予定の勲章に不足が生じた。その時、鈴木海軍次官は、まだ少将だったので、その次の勲章を貰ってくれないかと、随行の海軍将官が内意を告げに来た。

 ロシアでは、次長より次官の方が上であったので、その順序で予定されていた勲章を、陸軍の将官が田中参謀次長に横取りするように小細工を弄したのだった。

 そこで鈴木次官は、その随行の海軍将官に、陸軍次官はどういう勲章を貰っているかと訊いたら、やはり最高の勲章を貰っていると答えた。

 それを聞いて、鈴木次官は「今、海軍次官として在任しているのだから、陸軍次官が最高のものなら、同じものをあてられるのなら異存はないが、その下の勲章をあてられるのならば、海軍の面目に関することであるから、ご辞退する。のみならず、自分としては外国勲章は頂戴したくない」と言って断った。

 すると、ロシアの使節は非常に困却した。そういう場合に勲章を辞退されると、使節の役目を果たさないという風に考えた。

 そこで周りの海軍将官から「まあ我慢して、貰ったらよかろう」と説得されたが、鈴木次官は「私は海軍次官という務めに対して受け取り難い」と固く主張した。

 それで、ロシア使節から最高の随行委員が、「使節が帰国後に、上級の勲章を鈴木次官に贈ることを約束するから、承知してくれ」という意味の手紙を持って、海軍省の鈴木次官を訪ねてきた。

 鈴木次官は「それまでご心配下さることは甚だ恐縮であるが、他日陸軍次官と同じ勲章を贈られることなれば、有難くお受けしましょう」と快く返事をした。数ヵ月後その勲章がロシア政府から外務省を経て鈴木次官に届けられた。

 大正六年六月一日、海軍中将に進級した鈴木貫太郎は、九月一日海軍次官を免ぜられ、練習艦隊司令官に補せられた。五十歳だった。

 大正七年三月、練習艦隊は候補生を乗せて遠洋航海に出発した。横須賀を出て、サンフランシスコ、ロスアンゼルス、サンディゴ、メキシコナドなどアメリカ方面への練習航海だった。

 サンフランシスコでもロスアンゼルスでも大歓迎を受けた。市の歓迎会で数百人の人が集まって、練習艦隊の高等官を招待してくれた。

 そのたびに米国人がテーブル・スピーチをする。鈴木中将らには一向にその英語のスピーチが分からなかった。鈴木中将は練習艦隊司令官として何かやらねばならぬと思った。

291.鈴木貫太郎海軍大将(11)八代海相は「鈴木次官にもう少し政治性があったら」とこぼしていた

2011年10月21日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 大正三年六月、第一次欧州大戦が勃発し、日本は日英同盟の誼により八月二十三日ドイツに対して宣戦布告した。

 戦争開始により、その戦費調達のため、政府は臨時議会を開くことに決した。総額五千三百万円の臨時軍事費中、海軍は駆逐艦十隻の建造費千五百十七万円を要求した。

 予算閣議の席上、八代海相の説明を聞いた若槻禮次郎(わかつき・れいじろう)蔵相(東京帝大法学部首席・首相・男爵)は、「これは臨時議会に提出する性質のものではない。通常議会まで待ってもらいたい」と拒絶した。

 そこで、両相の間に激しい論戦が展開したが、この種の議論になると八代海相は若槻蔵相の敵ではなかった。散々論破されて席を蹴って起った。辞職するつもりだった。

 八代海相は鈴木貫太郎次官に閣議の顛末を話し、辞任の決意を告げた。驚いた鈴木次官は、大蔵省に浜口雄幸(はまぐち・おさち)次官(東京帝大法学部・蔵相・内務相・首相)を訪ね、若槻蔵相の翻意を頼んだ。

 浜口次官は「八代海相は何かといえばすぐ辞職するという。そんなに辞めたいなら辞めるがいいと若槻蔵相は話している。とても翻意は駄目」と受け付けてくれなかった。

 そこで鈴木次官は「駆逐艦十隻の作戦上の価値を知らないから、そんなことを言われるのだ」と、こんどは得意の小艦艇の威力について熱心に説明した。だが、浜口次官はなかなか承知してくれなかった。

 鈴木次官が「それなら蔵相に直談判するから取り次いで貰いたい」と言うと、浜口次官は「蔵相はいま外務省に行かれて留守だ」と言う。

 若槻蔵相は先程まで隣の大臣室にいたが、両次官の談判がなかなか面倒らしいと聞いて、加藤高明外相(東大法学部首席・首相・伯爵)の許に行ったのだ。

 「外務省に行っておられるなら、外務省まで行くから君も同道してくれ」と鈴木次官も強引に言った。浜口次官はしぶしぶ車に同乗した。

 車中で浜口次官は遂にカブトを脱ぎ、「君の熱意には負けた。蔵相には私からよく説明して、必ず君の説を通してやるから、直談判だけは勘弁してくれ」と言った。

 「それでは、君に一任する」と言って、浜口次官を外務省に送り込んで、鈴木次官は海軍省に帰った。二、三時間後、浜口次官から電話で「海軍予算は全部承諾することになったから、安心してくれ」と鈴木次官に通知してきた。これで、八代海相も辞意を思い止まった。

 ところが、議会が開会されて、駆逐艦十隻建造を含む海軍予算に対して、政友会が削除することに決めたとの報が、鈴木次官の許に届いた。

 それは大変だと鈴木次官は海軍省の隣にある衆議院議長官舎に大岡育造(おおおか・いくぞう)衆議院議長(長崎医学校・司法省法学校・文部大臣)を訪ねた。

 そして「駆逐艦十隻の価値については、政友会が一番良く知っているはずである。議長の斡旋によって、是非無事に海軍予算の通過する様にして貰いたい」と頼み込んだ。

 大岡衆議院議長は黙って鈴木次官の話を聞いていたが、「ご趣旨はよく分かった。しかし政友会としてはつい先程の幹部会で削減することに決めたばかりだから、それを覆すことはちょっとむずかしい。けれども君の説はもっともだと思うから、及ぶ限りの努力はしてみよう」と返事をした。

 鈴木次官は、さっそく海軍省に帰って八代海相に事の顛末を報告した。だが、喜んでくれると期待していたのに、八代海相は頗る機嫌が悪かった。

 八代海相は「そんな重大なことは、事前に相談してからやって貰いたい」と言った。

 鈴木次官は「それは気付かぬではなかったが、大臣に相談すると承知されそうもないと思って独断でやりました」と答え、謝った。

 八代海相は「鈴木次官にもう少し政治性があったら」とこぼしていた。そのことを、鈴木次官も薄々承知していた。

 だからこそ、就任の際、「次官はお断りする」と言ったのに、それで宜しいと無理に引っ張り出されたのだから、文句はむしろ鈴木次官のほうで言いたいところだった。

 八代海相がこの時不機嫌だったのは、海軍予算については既に見切りをつけていた。議会では、貴衆両院とも、海軍は火事場泥棒を働いている。通常議会まで待てないほど緊急なものではないと海軍に対する風当たりが非常に強かったのだ。

 議会答弁では、八代海相は余り得意ではない。それを大隈首相がカバーして解散風をちらつかせながら威嚇し、政友会内でも大岡衆議院議長の奔走があり、予算は無疵で議会を通過した。

290.鈴木貫太郎海軍大将(10)八代海相の勇断を称える者、妄断を憤る者、部内は騒然となった

2011年10月14日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 事件の進展に刺戟されるかのように、打倒山本内閣の火の手は議院の内外に燃え盛り、三月二十四日、同内閣は瓦解した。

 後任首相として大隈重信に大命が下った。大隈の支柱をなすものは、立憲同志会総裁・加藤高明(東大法学部・首席・首相・伯爵)だった。

 加藤高明は使いを舞鶴鎮守府司令長官・八代六郎中将(海兵八・海大選科・大将・男爵)の許に出し、大隈内閣の海軍大臣に就任するよう勧説した。

 加藤と八代は同郷で、少年時代から相許した仲だった。未曾有の不祥事件を起こした海軍を建て直すには、剛毅不屈の八代を措いて人はないと信じたのだった。

 大隈内閣は大正三年四月十六日に成立した。八代海軍大臣は次官に秋山真之少将(海兵一七)の就任を勧説した。

 秋山少将は鈴木貫太郎少将より兵学校三期も後輩だった。日本海海戦の名参謀と謳われ、力量は次官としても十分だった。

 だが、秋山少将は、「次官が局長よりも後輩であっては、人事行政上面白くないから」と自分は固辞し、鈴木人事局長の昇格を極力推薦した。

 さらに秋山少将は、人事は公正な、どこにも縁故のない者でなければいかぬ。日露戦争での鈴木少将の勲功と、正確なる戦況報告、始終正直一途に辿ってきた行動等を挙げ、その起用を説いた。八代海相も鈴木少将の人物を知っていたので、それではそうしようと決めた。

 秋山少将からこの話を聞いた鈴木少将は、とんでもないという面持ちで「とうていその任ではない。君がなったほうがよい」と承諾しなかった。

 鈴木少将が次官ともなれば政治的な動きをしなければならないが、自分にはとてもそのような芸当は勤まらないというのを、秋山少将は強引に押し付けた。

 その頃、鈴木少将の父、由哲は再起の危ぶまれる病床に就いていた。鈴木少将はとうとう、父にどうしたものだろうかと、相談した。父は「海軍のために討ち死にする覚悟でやりなさい」と答えた。

 これで、鈴木少将の心が決まった。四月十七日、鈴木貫太郎は海軍次官に就任した。同時に秋山少将は軍務局長になった。 

 問題が残されていた。山本権兵衛大将、斉藤実大将の処遇である。二人とも海軍の功労者である。特に山本大将は海軍の最大の功労者だった。

 シーメンス事件では、両大将は直接関係のあるわけではなく、監督不行届であったに過ぎない。新海相、八代中将はこれを如何に裁くか、部内も世間も注視していた。

 八代海相は鈴木次官、秋山軍務局長を呼んで、「山本、斉藤両大将に対しては、遺憾ながら待命をお願いするつもりだ。これまでの功績も、海軍の名誉には替えられない」。

 五月十一日、八代海相は、山本、斉藤両大将を予備役に、当時次官だった財部彪(たからべ・たけし)中将(海兵一五・海大丙号・海相・大将)を待命に発令した。

 両大将に対しては一時待命にしておいて、時期が来ればまた現役に復するのだろうと見ていた多くの者は、電撃的に予備役に編入されたのを知って、八代海相の勇断を称える者、妄断を憤る者、部内は騒然となった。

 井上良馨元帥と東郷平八郎元帥は、八代海相を海軍省に訪ね、両大将を予備役に編入した理由を質した。

 八代海相は、特に鈴木次官をこの席に立ち会わせて、次の様に説明した。

 「予備役編入には三つの理由がある。第三十一議会において、衆議院は海軍予算に若干の修正を加えて通過させた。然るに貴族院では、議会終了後政府が総辞職するなら、予算案だけは通過させようと申し入れた」

 「山本首相はこれを拒絶したため、予算は不成立となり、結局総辞職の已む無きに至った。予算不成立は、国防上重大な問題であるにも拘らず、首相は内閣の存続のみに腐心して、海軍に対しては極めて不親切な処置をとった」

 「次に松本中将は、両大将の最も信任していた人である。その人が収賄の非行を敢えてし、海軍の名誉を毀損したことは、人を用いるの明を欠いでいたと言わねばならぬ」

 「第三には貴族院で村田保氏は、首相に対し罵詈讒謗、聴くに堪えないことを言った。これに対し首相は、何等の抗辯をもしなかった。軍人の威信を傷つけること甚だしいといわねばならぬ。以上の理由によって、海軍部内における信頼は地を払い、現役に留めておくわけにゆかぬと認めたので、こんどの処置をとったのである」。

 この説明を聞いて、東郷元帥は「いやよく分かりました」と慇懃に挨拶して席を立った。だが、井上元帥は釈然としないものがあったように見受けられた。

289.鈴木貫太郎海軍大将(9)大臣になったときの準備に収賄したとは、あまりに単純な発想だった

2011年10月07日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 明治四十四年十二月一日、鈴木貫太郎大佐は、戦艦敷島(一四八五〇トン)艦長に就任した。

 大正元年八月中旬第一艦隊は訓練を終え、戦艦敷島は伊勢湾に入港した。そのとき、鈴木艦長の許に、とよ夫人の重態の知らせが届いた。

 とよ夫人は、第一艦隊司令長官・出羽重遠大将の夫人の妹である。十八歳にして鈴木に嫁し、姑によく仕え、一男二女の母として家政を預かり、鈴木をして後顧の憂いのないようにした賢夫人だった。

 出羽司令長官も「とにかく一度帰って様子を見たほうが良い」と勧めるので、鈴木大佐は東京の自宅に戻った。

 とよ夫人は腎臓炎から尿毒症を起こしていた。あらゆる治療の手を尽くしたが、その甲斐なく様態は日毎に悪化した。

 十月の大演習には敷島艦長として活躍することを期していたが、海軍省でも事情を汲んで、横須賀の予備艦筑波艦長に鈴木大佐を転補した。

 その後九月十八日、とよ夫人は鈴木大佐以下家族の見守る中、他界した。享年三十三歳だった。葬儀万端を済まして傷心の鈴木大佐は予備艦筑波に乗った。

 大正二年十二月二十六日に開かれた第三十一議会は、年末年始の休会に入り、大正三年一月二十一日に再開された。

 山本権兵衛(やまもと・ごんべえ)首相(海兵二・伯爵)の施政方針演説に対する野党の質問戦が開始され、議会は論戦が華やかに始まった。

 ところが、一月二十三日のロイター電報は、日本海軍の高官がドイツのシーメンス・エント・シュッケルト会社から、多額の贈賄を受けていると報じた。シーメンス事件の発端であった。

 時事新報は、この意外な重大ニュースを半信半疑のまま報道した。軍人は清廉潔白だという先入観のある国民は、兵器購入に当たって軍人が収賄するなど夢想だにしない時代だった。

 「まさか」と思っていたのであるが、山本内閣に恨みを含む立憲同志会ではよき獲物と直ちにこれに食いついた。山本内閣の与党的立場だった政友会でも驚いた。

 この事件は旋風のように海軍を包んだ。山本首相、斉藤実(さいとう・まこと)海相(海兵六・首相・子爵)のいずれもこの事実を知らなかった。そこで事実を究明すべく出羽重遠大将を委員長とする査問委員会を設置した。

 調べが進むにつれ、艦政本部第四部長・藤井光五郎機関少将(旧海軍機関学校四期・英国グラスゴー大学)、呉鎮守府司令長官・松本和(まつもと・かず)中将(海兵七・海大一)らが、収賄していたことが明るみに出てきた。

 これに関連して、三井物産の岩原謙三、飯田義一、山本条太郎も検挙された。

 当時、鈴木貫太郎少将は人事局長だったが、犯罪事実がほぼ確実なのを認め、斉藤海相に松本中将らの待命を進言した。

 斉藤海相はこれに同意し山本首相に相談した。だが、山本首相は、取調べの進展を見た上でも遅くはないだろうといい、発令はされなかった。

 鈴木人事局長は査問委員会から取り調べの内容について報告を受けており、世論の激昂しないうちに、先手を打って行政処分をしたほうが良いと考えた。

 だが、山本首相は多年海軍の大御所として多数の部下を扱ってきており、自らやましいところがないので、日ごろの切れ味に似ず遷延したのだ。

 ところが、取調べは急速に進展し、二月二十八日、呉鎮守府司令長官の官舎が家宅捜索を受け、松本中将は起訴収容されるに至った。こうなれば、もう行政処分では追いつかぬことになってしまった。

 松本中将は収容される直前、鈴木人事局長を局長室に訪ね、次の様な告白をして行った。

 「実は周囲の者から次の海軍大臣だとおだてられ、自分もついその気になった。海軍には機密費が少ない。これでは政界に出ても活動できないから、大臣になったときのため、予め機密費を用意しておくため贈賄を取った」

 「自分の懐を肥やすためにやったのではない。これだけは君に了解して貰いたい。全く申し訳のないことをした」。

 松本中将は山本権兵衛大将から特に目をかけられ、明治四十一年横須賀海軍工廠長から艦政本部長に起用され、大正二年十二月一日、鈴木貫太郎少将が人事局長になったとき、呉鎮守府司令長官に親補された。

 それにしても、大臣になったときの準備に収賄したとは、あまりに単純な発想だった。鈴木少将は候補生時代、練習艦筑波で航海長・松本大尉の指導を受けた。

 その先輩が孤影悄然と局長室を出て行く後姿を見て、鈴木少将は感慨なきを得なかった。