陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

420.板倉光馬海軍少佐(20)軍令部より「不問に付せよ」と命令が出され、板倉少佐は銃殺を免れた

2014年04月10日 | 板倉光馬海軍少佐
 板倉大尉は水雷学校高等科学生を首席で卒業したが、卒業前に、主任教官から再三に渡り、「君の将来を思って駆逐艦をすすめる。潜水艦では生涯うだつがあがらないぞ」と口説かれた。

 だが、板倉大尉は「私は出世するために海軍に入ったのではありません。潜水艦志望は私の宿願であり、信念であります」と言って、きっぱり断った。

 板倉大尉は、太平洋戦争開戦とともに、真珠湾攻撃に、イ六九潜水雷長として参加した。その後、潜水学校甲種学生を修了し、イ一七六潜艦長、イ二潜艦長(少佐)、イ四一潜艦長として、苦難の潜水艦戦を戦った。

 「伝説の潜水艦長」(板倉恭子・片岡紀明・光人社)によると、昭和十九年四月、「イ四一潜」艦長・板倉光馬少佐は、「竜巻作戦」参加の命令を受け内地に戻った。

 「竜巻作戦」は、水陸両用戦車、秘匿名「特四内火艇」を潜水艦で敵の泊地まで運んで行き、敵上陸地点の背後から逆上陸するという奇襲作戦だった。

 この水陸両用戦車は大きな音をたてるので、敵に発見されやすく、奇襲作戦には不向きで、ほとんど成功の見込みのないものだった。

 「これはいかん」と思った板倉少佐は。大本営命令になっていた「竜巻作戦」に真っ向から反対した。そのため、上層部は激怒した。

 また、特四内火艇の「梓部隊」隊員も怒って抜刀して、板倉少佐を取り囲み「卑怯者っ!」とののしった。

 板倉少佐は白刃のもとに座して、特四内火艇では突入する前にみんなやられてしまうと、その理由を話し、「それは犬死だ」と言った。

 さらに板倉少佐は「国家存亡のとき、このようなことで犬死するな。俺が必ず貴様たちの死に場所をさがす」とも言った。そのうち、「梓部隊」隊員は一人、二人と刀を下げ、一応その場はおさまった。

 「梓部隊」には、後に「回天隊」に来た、樋口孝大尉(人間魚雷回天で黒木博大尉と同乗訓練中に殉職)や、上別府宜紀大尉(人間魚雷回天「菊水隊で出撃」がいた。

 翌日、「竜巻作戦」をぶち壊したことで、板倉少佐に、第六艦隊司令長官・高木武雄(たかぎ・たけお)中将(福島・海兵三九・海大二三・軽巡洋艦「長良」艦長・教育局第一課長・重巡洋艦「高雄」艦長・戦艦「陸奥」艦長・少将・第二艦隊参謀長・軍令部第二部長・第五戦隊司令官・中将・高雄警備府司令長官・第六艦隊司令長官・戦死・大将)から「銃殺に処す」という申し渡しがあった。

 だが、軍令部より「不問に付せよ」と命令が出され、板倉少佐は銃殺を免れた。

 昭和十九年八月、板倉少佐は特攻戦隊参謀兼指揮官(回天隊)を命じられた。昭和二十年三月、第二特攻戦隊が編成され、板倉少佐は、山口県徳山市(現・周南市)の大津島突撃隊司令を拝命し、回天隊の指導に当たった。だが、八月十五日終戦となった。

 板倉光馬氏は「どん亀艦長青春記」(光人社)のあとがきに、次のように記している(一部抜粋)。

 「人生の一生を、行雲流水にたとえた先人がいれば、うたかたのごとしと観じた古人もいる。古希をすぎたわが生涯をふりかえるとき、人生とは、まさしく、玄にして妙なりの感を深くする」

 「赤貧洗うがごとき家庭に生まれながら、ひそかに画家を志していた私が、海軍に身を投じようとは……。それも、アドミラルを夢みたり、栄進を望んだわけではない。躍動するくろがねの美しさに魅せられたからである」

 「だからこそ、軍隊というカテゴリーの鋳型にはめられながら、なおかつ、人間性を追及してやまなかった。そのため、始末書を書き続け、首が飛びそうになったことも、一度や二度ではなかった」

 「時はすべてを美化するというが、人生は、大勢の人によって生かされ、人との出合い、触れ合いによって、須叟の生命は、永遠の生命につらなってゆくのである」。

 須叟(しゅゆ)の生命とは、「ほんの一瞬のはかない命」のことである。

(「板倉光馬海軍少佐」は今回で終わりです。次回からは「乃木希典陸軍大将」が始まります)

419.板倉光馬海軍少佐(19)酔いがまわっていた板倉大尉が、いきなり大盃をたたきつけた

2014年04月03日 | 板倉光馬海軍少佐
 それは、恭子が一年前、従兄の正徳を通して十か条を出して、「真っ平ごめん」と言われた板倉中尉だったのだ。

 恭子は今度も「酒乱だそうですから」と言って断った。だが、井浦少佐は「そんなことはないから会ってごらんなさい」と言って強くすすめた。

 それで、「真っ平ごめん」とばかり言っていられなくなり、昭和十三年十一月十四日、遠洋航海途中、大連港に碇泊中の「八雲」の艦上でお見合いということになった。

 恭子と母親は、井浦少佐の案内で、少佐以上の士官室で、板倉中尉と一緒に食事をした。井浦少佐は板倉中尉に「三年考えるのも三日考えるのも一緒だから今晩一晩考えて返事せよ」と言った。

 その翌日の十五日、井浦少佐と板倉中尉が、大連の恭子の家を訪問した。井浦少佐は「板倉は結婚することを承知したので同道した」と言った。

 当日付けで海軍大尉に昇進した板倉が、恭子の母親に「お嬢さんをください」と言ったので、恭子は内心ホッとするやら、ヤレヤレという気持ちだった。

 井浦少佐の計らいで、固めの盃も取り交わし、酒の席になった。飲むうちに、板倉大尉が「盃が小さい」などと言い出し、大盃でグイグイやり始めた。

 それを見かねた井浦少佐が「貴様、いい加減にせんか」となじった。すると、酔いがまわっていた板倉大尉が、いきなり大盃をたたきつけた。食器類がコッパミジンに砕け飛び散った。

 それを見た井浦少佐は「この無礼者が!」と、立ち上がり、挨拶もそこそこに、帰って行った。恭子と母親は唖然とするばかりだった。

 恭子は「あんな人、嫌だ、やめる」と言った。ところが、母親は「若いうちはあれぐらい元気があったほうがよい。いまから落ち着いていたら、井浦様のお年くらいになったらオジイサンくさくなってしまう」と、動ずる色もなく言った。

 板倉大尉はさすがに酔いもさめて、バツの悪そうな顔をして帰ろうとしていたが、母親が「お話はなかったことにして、お酒がよほどお好きのようですから、もう少し召し上がってお帰りください」と言うと、また、そこでおみこしを据えてしまった。

 そのとき、恭子は、初めて、板倉大尉といろいろ話をしたのだった。一年前、伊号第六八潜水艦乗組みのとき、恭子が従兄の正徳に出した十か条の手紙のことも、板倉大尉は「鹿島さんに見せてもらいましたよ」と言った。

 さらに、板倉大尉は「大連沖を通るたびに、あの娘さん、今頃どうしているかな、と思っていました」と言った。これには、恭子は驚いた。

 二人の話は、はずんでいった。その間に板倉大尉は、恭子の母親にあらためて、結婚の了承を得た。そのあと、板倉大尉は、ゴロンと横になって寝てしまった。

 翌朝、井浦少佐から電話がかかってきた。「早く板倉を帰してください。艦が出港します」とのことだった。恭子はあわてて、タクシーを呼んで、母親と一緒に板倉大尉を乗せて、埠頭まで行った。

 練習艦隊の旗艦、「八雲」は、軍楽隊の「蛍の光」の演奏を奏でながら、まさに岸壁を離れようとしていた。お土産の甘栗太郎を抱えた板倉大尉が、今にも引き上げられそうになっている舷梯に飛び乗って、宙吊りのようになりながら、ようやく艦上にたどり着いた。

 こうして、昭和十四年二月、板倉大尉と池田恭子は、芝の水交社で結婚式を挙げた。仲人は、井浦少佐夫妻だった。

 昭和十四年十一月、板倉光馬大尉は水雷学校高等科学生を命じられた。潜水艦長になるには、まず、水雷学校高等科を卒業して、潜水艦の航海長として慣熟する必要があった。

 次に、潜水学校乙種学生を命じられ、潜航指揮法を修得する。それから潜水艦の水雷長を命じられる。潜水艦長になるには、さらに、潜水学校の甲種学生として、襲撃法をマスターしなければならなかった。こうして駆逐艦長と同格の潜水艦長になるのだが、このコースは歳月がかかった。

418.板倉光馬海軍少佐(18)こんな厚かましい、心臓の強い娘は、真っ平ごめん

2014年03月27日 | 板倉光馬海軍少佐
 「伝説の潜水艦長」(板倉恭子・片岡紀明・光人社)によると、板倉光馬の夫人、恭子は大正六年生まれで、大連で育った。

 父の池田勲旭は、陸軍士官学校を病気で中退、アメリカに渡り、ペンシルヴァニア大学を卒業した。アメリカに二十年いた後、奉天で物産会社を立ち上げ、経営者となった。

 池田恭子が女学校三年のとき、恭子の従兄、鹿島正徳少尉(福岡・海兵五八・駆逐艦「呉竹」艦長・駆逐艦「羽風」艦長・駆逐艦「夕凪」艦長・中佐)が巡洋艦「那智」に乗組み、大連に来た。

 その縁で、恭子は女学校の友人とともに、「那智」のガンルームの若い士官たちと友達になった。恭子は海軍士官が好きになった。

 昭和十二年に父の池田勲旭が病死した。それで伯父が心配して、一人娘の恭子に養子を迎えようとした。だが、恭子は「海軍士官でなきゃイヤだ」と言った。

 そこで福岡の従兄、鹿島正徳大尉を婿養子に迎えたらどうかということになり、伯父が手紙を出した。

 だが、恭子は正徳のことはよく知っており、「自分とは合わないからダメ」と言ったにもかかわらず、伯父が手紙を出したのだ。

 ところが、正徳からは返事が来なかった。それで、恭子は「わたしは、お兄さんのこと、なんとも思っていないから、心配しなくていい」という内容の手紙を出した。

 恭子は、そのころ、海軍士官の進級とか転勤とか、いろんな動静が分かる官報をよく見ていて、正徳と同じ、伊号第六八潜水艦に、海兵六一期の板倉光馬中尉というのが乗っていた。恭子は正徳より、この方が良さそうだ、と思った。

 そこで、恭子は、板倉中尉に対する十か条の質問書を書いて、「これにふさわしかったら、お世話して下さい」と正徳に手紙を出した。

 恭子はまさかその手紙を板倉中尉に見せはしないだろうと思っていたが、正徳は板倉中尉に見せていた。

 その十か条は、礼儀正しく、正直で、思いやりがあって、などなど、一人娘の恭子が思う存分に書いたものだった。

 それを見た板倉中尉は、「こんな厚かましい、心臓の強い娘は、真っ平ごめん」と正徳に言った。一方、恭子も、正徳から「板倉は酒乱だ」というのを聞いて、真っ平ごめん、と思った。

 その後も、恭子が「海軍士官と出なければ結婚しない。そうでなければ一生独身で通す」などと、言っていたので、周囲はホトホト手を焼いていた。

 当時、練習艦隊の「八雲」に指導官として、井浦祥二郎(いうら・しょうじろう)少佐(福岡・海兵五一・海大三三・伊号六九潜水艦長・伊号第三潜水艦長・伊号七四潜水艦長・伊号第一二二潜水艦長・第三潜水隊先任参謀・軍令部第一部・第二部・第六艦隊第八潜水戦隊先任参謀・大佐・第六艦隊先任参謀・終戦・特別輸送艦「鹿島」艦長・B級戦犯指定収監・釈放・著書「潜水艦隊」)が乗組んでいた。

 恭子の従姉の夫は、入江達(いりえ・たつ)少佐(海兵五一・中佐・伊号第二一潜水艦長・第三次遣独艦伊号第三四潜水艦長・戦死・大佐)だった。

 入江少佐と井浦少佐は兵学校同期なので、入江少佐から井浦少佐に頼んで、恭子に海軍士官を紹介してもらうようにしたのだった。

 井浦少佐は「練習艦隊に乗っているものなら誰でもよいか」と言ったので、入江少佐は「良すぎる」と返事したという。

 練習艦隊の主任指導官付というのは、候補生の実地教育を行う士官で、一期から二人しか出ない優秀とされている配置だった。

 そこで紹介されたのが、主任指導官付だった板倉光馬中尉だった。井浦少佐は「板倉中尉は海軍切っての逸材です」と言ってきたのだ。

417.板倉光馬海軍少佐(17)それでも砲艦はサイドパイプを吹き、艦長は挙手の礼をしていた

2014年03月20日 | 板倉光馬海軍少佐
 十三センチ砲四門を装備する駆逐艦「如月」は、海洋でこそ“トンボ釣り”であったが、揚子江では戦艦級であった。これ以後、堀江部隊が襲われることは一度もなかった。

 上海に入港して、板倉中尉が第三艦隊の旗艦「出雲」を訪れたとき、戦務参謀から、「揚子江で座礁すると、増水期まで離礁できないから、くれぐれも注意されたい」とおどかされた。

 港務室に行くと、「揚子江の水路は時々刻々変化するので、海図は役に立ちませんよ。肝心なことは座礁したときの準備をしておくことです。それと、パイロットを雇うことです」と言われた。

 早速、板倉中尉はパイロット協会に出向いたところ、運良く、一人だけ残っていた。ブルー・ファンネル社の船長をしていたという五十年輩で赤ら顔の男が、パイプをくゆらせながら英字新聞を見ていた。

 キザなやつ……一見してピーンときた。案の定、鼻持ちならぬほど横柄で気取っていた。やれ個室が要るとか、ブリッジに肘掛け椅子を用意せよ、食事は三度とも洋食、というありさまで、出来ない相談ばかり持ちかけられ、とうとう喧嘩別れになってしまった。

 艦の保安を思うと、短慮がくやまれたが、いまさらどうしようもなかった。板倉中尉は艦に帰って、ありのままを小倉艦長に報告した。「艦橋で喧嘩ばかりされてはかなわん。気をつけてゆけば、そのうち慣れるだろう」と、小倉艦長からは、小言も言われず、むしろなぐさめられた。

 小倉少佐の父は、浄土真宗の住職ということであるが、駆逐艦長にしては珍しくおっとりした人柄で、さすがの板倉中尉も、在職中、小倉艦長に叱られたことは、一度もなかった。その翌日、南京に急行することになり、出港した。二戦速に増速してから、板倉中尉は操艦をまかされた。

 揚子江の河口は大海原と変わりない。無限に広がる黄褐色の流れに、しばし、気をとられていたとき、急に艦首波が消えた。ハッとして後方を見ると、艦尾波が小山のように盛り上がっていた。座礁したのだ。「両舷停止、両舷後舵一杯!」。板倉中尉は指示を出したが、びくともしなかった。

 「右停止、右前進強速、取り舵一杯!」。だが、依然として艦は動かなかった。なにしろ二十四ノットで突っ込んだのだ。相当深く食い込んだにちがいなかった。

 このままでは濁流に押し倒される恐れがあった。だが、しばらくすると、ジワリ、ジワリと艦首を左に振り始めた。板倉中尉はほっと胸をなぜおろした。船体には異状がなかった。

 先ほどから、艦橋でこの状況を見ていた先任将校が、自慢の髯をなでながら、「これで、艦底のカキが落ちたでしょうなあ……。当分、入渠せんでもよかですたい」と言った。

 小倉艦長も相槌をうつかのように、「うむ、速力も出るだろう。航海長、一戦速に落とせ。そう急ぐこともあるまい」と言った。

 板倉中尉は思わず目頭が熱くなった。なにげないやりとりではあるが、新前の航海長をいたわる温かい心くばりが、痛いほど感じられた。揚子江は長江の名にふさわしく、中国随一の大動脈だ。通州を過ぎたころから、河幅がいくぶん狭くなり、水路がゆるやかなカーブを画くようになった。

 そのとき、上流から真っ白に塗装した砲艦が近づいてきた。ユニオンジャックの艦旗をひるがえしていた。イギリス海軍だった。マストに「速力を微速にされたい」という国際信号旗を掲げていた。途端に、板倉中尉はムラムラと闘志がわいてきた。

 満州事変以来、居留民保護と既得権益の擁護を口実にして、ことごとにわが軍の作戦を妨害する実情は目に余るものがあった。

 いずれ日本と戦火を交える時が来るであろうことは想像に難くない。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。速力標を微速にしたまま、一戦速、二十ノットで接近した。

 艦尾波が小山のようなウネリとなって砲艦を襲った。河川の砲艦は乾舷が低く、吃水が浅いため横波に弱い。河幅は広いが水路は狭い。まして出会いがしらである。

 避けるいとまもなく、右舷に打ち寄せた濁流が、甲板を洗って反対舷に越え、その一部が艦橋を襲って、砲艦は危うく転覆しそうになった。

 それでも砲艦はサイドパイプを吹き、艦長は挙手の礼をしていた。さすがはイギリス海軍である。いかなる場合でも、国際儀礼に忠実で折り目正しい。板倉中尉は、いささか、大人気ない振る舞いが恥ずかしかった。

416.板倉光馬海軍少佐(16)空母「加賀」で、大がかりな“銀蝿”が、しかも公然と行われた

2014年03月13日 | 板倉光馬海軍少佐
 甲板士官を悩ましたものに“銀蝿”(ぎんばえ)があった。海軍独特なものであるが、とりわけ「加賀」ではひどかった。

 “銀蝿”とは、人目をかすめて、缶詰や砂糖をはじめ、貴重な食料品を失敬する、スリルをサスペンスに満ちた犯罪行為である。見つかれば善行章剥奪、軽くて上陸止めであるが、読んで字のごとく、追えど払えどあとをたたなかった。

 それなのに犯人はあがらず、おおむね迷宮入りに終わっている。というのは、必ずと言ってよいほど共謀者がいたということと、口が固かったからである。

 ところが、空母「加賀」で、大がかりな“銀蝿”が、しかも公然と行われたことがあった。板倉中尉の部下で、池田勇、東日出男という二人の候補生が、それぞれ、下甲板士官、上甲板士官として補佐していた。

 ある日のこと、池田候補生が、首をかしげながらやってきて、「錠がかかている倉庫の中から、かすかに人声がしますが、ほかに出入り口がありません。どうしたものでしょうか……」と、注進におよんできた。

 板倉中尉は現場に出かけた。「加賀」には無数といってよいほど、大小の倉庫や格納庫がある。中には就役以来一度も使用したことがないものがいくつかあった。

 人声はするが、鍵のかかったままの倉庫がそれだった。錠は錆びついて、使用された形跡がなかった。板倉中尉はおかしいなと思い、隣接の格納庫を見ると、扉の錠はなく、中には索具類が乱雑に積まれていた。

 よく調べると、奥にある隔壁のマンホールの締め付けボルトは全部はずされていた。しかもマンホールは閉まったままだった。

 これで読めた。おそらく、内側から細工をしているに違いないと板倉中尉は思った。おまけに、ボルトナットの孔までふさがれていた。

 倉庫の上は酒保物品の格納庫だった。かたすみにマンホールがあったが、これまた、上からは開かないようになっていた。

 板倉中尉がボルトナットの孔から覗いてみると、ボートクリューがローソクの灯で、車座になって酒盛りをしていた。

 眼にものを見せてくれんとばかり、板倉中尉は泡沫消火器の筒先をボルト孔につっこんで噴射したところ、蟹のように泡を吹きながら、這い上がってきた。

 ボートクリューは艦隊競技の花形であるが、普段は出入港時の舫いとり作業、戦闘配置は爆弾員や応急作業員になる。通常航海では、溺者でもない限り暇だった。

 集団“銀蝿”、それも手の込んだ知能犯だった。善行章を剥奪したくらいでは済まされそうもなかった。しかし平素の行状は悪くなかったし、若くもあり、改悛の情が顕著だった。

 そこで、板倉中尉は分隊長と相談し、表向きにすることは見合わせて、被害額を全額弁償させたうえ、日課手入れのときは、索具庫の整理整頓と、未使用の倉庫や格納庫の清掃を命じた。

 だが、“銀蝿”は依然としてあとを絶たず、ますます巧妙となり、手がかりすら残さなくなった。まさしく、“銀蝿”は浜の真砂だった。

 その後、板倉中尉は空母「加賀」と別れを告げることになった。昭和十三年三月十五日、板倉中尉は、駆逐艦「如月」(一四四五トン・乗員一五四名)の航海長兼分隊長に補された。

 「如月」艦長は小倉正身(おぐら・まさみ)少佐(岐阜・海兵五一・駆逐艦「如月」艦長・駆逐艦「満潮」艦長・中佐・駆逐艦「高波」艦長・戦死・大佐)だった。

 「如月」は古いタイプの一等駆逐艦で、馬公(台湾)を基地として中支方面の作戦を支援していた空母「龍驤」(一二七三二トン・乗員九二四名)のトンボ釣りをしていた。

 “トンボ釣り”とは、空母への着艦に失敗して不時着水した艦上機のパイロットを救出する救難任務のことで、空母に随伴する駆逐艦がこの任務を行った。

 その後、駆逐艦「如月」は第三艦隊に編入され、揚子江で作戦している堀江部隊の支援艦として従事することになった。

 堀江部隊とは、河川機雷を処分し、輸送船の水路を啓開する掃海部隊だった。そのほとんどが、トラック島を基地として鰹を捕る遠洋漁船に掃海具を装備したもので、兵装は七・七ミリ機銃一挺にすぎなかった。

 したがって、堀江部隊は、任務そのものが危険であるばかりでなく、しばしば沿岸のゲリラに襲撃され、上流に進むにつれて被害が続出し始めた。このため駆逐艦「如月」が支援艦として急派されることになった。

415.板倉光馬海軍少佐(15)黙れッ!軍艦日課を変更できるのは、艦長だけだッ!

2014年03月06日 | 板倉光馬海軍少佐
 ある日の早朝、グラマン三機に奇襲されたことがあった。仏印(ベトナム)方面から飛来したものと思われた。小型爆弾を海中に投棄して、西方に飛び立った。

 総員起床の前であったので、不意を突かれて対空砲火が間に合わなかったが、飛行甲板に待機していた零戦五機が飛び立って、二機撃墜の報がもたらされた。

 その夜のことだった。副長は、ぐでんぐでんに酔っ払って正気でないため、次席の砲術長に巡検を代行してもらった。

 ところが、下士官搭乗員室では、飲めや歌えの、ドンチャン騒ぎをやっていた。静粛であるべき巡検だろいうのに。

 あまつさえ、素っ裸の下士官搭乗員が、空のビール瓶を股間にぶらさげて、腰をくねらせながら、「弾の出ない鉄砲、ふぬけの○○○○と変わりない、そんな親父の顔見たい……アーコリャコリャ……」と歌いながら踊ると、まわりから、どっと哄笑が巻き起こった。

 普段は温厚な砲術長も、このときばかりは、顔色を変えた。板倉中尉は思わずカッとなって、駆け寄り、裸踊りの横面を思いっきりひっぱたいた。

 これを見るなり飛行科の先任下士官が飛んでくるなり、血相を変えて、「私たちは飛行長の許可を得ています。それなのに殴りつけるとは……」と言った。

 板倉中尉が「黙れッ!軍艦日課を変更できるのは、艦長だけだッ!飛行長に権限はない―。それとも、貴様たちは艦長の許可を得たとでもいうのかッ!」と一喝すると、みんなしゅんとなってしまった。

 敵機を撃墜したことで、羽目をはずす気持ちは分からないでもなかったが、砲術長に当てつけた、これ見よがしの侮辱だけは、板倉中尉は断じて許せなかった。

 余憤さめやらずして板倉中尉がガンルームに帰ったところ、早くも注進におよんでいたものとみえて、クラスメートの飛行士たちが、「戦果をあげて飲むのは、これまでのしきたりだ。貴様の立場は分からんでもないが、それにしても、少しやり過ぎではないか」と言いに来た。

 板倉中尉は着任以来のウップンがどっと噴出して「いままでがどうであろうと、俺は俺の流儀でやる。これからもビシビシやるから、分隊員によく伝えておけ。だいたい、貴様たちが甘やかし過ぎるから図に乗るのだ。少しは反省しろ」と、クラスメートにまで当たり散らした。

 その翌日、日課手入れの時間に艦内を回ってみると、搭乗員室だけが、杯盤狼籍!昨夜のままであった。板倉中尉はまたもや頭にきた。

 ただちに非番の者全部を集めて清掃を厳命した。「俺が、よろしい、と言うまでやれ。いうまでもないが、終了するまで昼食抜きだ」。

 さらに、十名あまりの見苦しい長髪族に、「丸坊主になれ」と厳達した。海軍には、髪をのばしてはいけないという規則はない。

 強いて言えば、艦船職員服務規程に、「質実剛健ニシテ、容姿端正旨トスベシ」という一項がある。髪を切らせる理由はこれしかなかった。

 ところが、二日たち三日過ぎても、一向に断髪令が実行されなかった。板倉中尉は遂に堪忍袋の緒が切れて、鋏で一握りずつ前髪を切り取った。一度命じたことは必ず実行させる。これが板倉中尉の主義だった。

 翌日の昼食後、丸坊主の十数名がガンルームに現れて、それぞれの分隊士に、櫛とポマードの瓶を差し出して、「不要になりましたので、ご使用ください」と言った。

 これを見た板倉中尉は、怒髪天を突き、「待てッ!」と、大喝した。そして、各自が持っている櫛とポマードを改めると、新品は一つもなかった。

 「貴様たちは、どこまで思い上がっているのだッ!自分の使い古しを分隊士に使わせるつもりか。それとも、俺に対する面当てかッ。どちらだッ!」。

 板倉中尉の激しい見幕に、みんな急に表情が変わった。中には、小刻みに震えだすのもいた。

 「そのままとっくり考えろ。そして……、自分がやったことが正しいと信ずる者は帰ってもよい。悪かったと思う者は、そのまま立っていろ」と、板倉中尉。

 帰った者は一人もいなかった。そのうちに、耐え切れなくなったのか、言い合わせたように、床にへばりこみ、「私たちが間違っていました。二度とこんなことはいたしません」と言って平身低頭して謝った。

 分隊士らのとりなしもあって、放免したが、板倉中尉は、心中、釈然としないものがあった。

 そのころ、渡洋爆撃の戦果がはなばなしく報道されて、搭乗員にあらずんば人にあらず、という風潮が瀰漫(びまん)していて、傍若無人の振る舞いが多く、板倉中尉はにがにがしく思っていた。

414.板倉光馬海軍少佐(14)誰が何と言おうと酒を出してはならぬ。甲板士官に厳命されたと言え

2014年02月27日 | 板倉光馬海軍少佐
 そこにいた、佐々木半九(ささき・はんきゅう)中佐(広島・海兵四五・潜水学校教官・水上機母艦「神威」副長・練習艦「八雲」副長・第二一潜水隊司令・大佐・第一二潜水隊司令・潜水学校教頭・少将・第六艦隊参謀長・呉鎮守府付)が板倉中尉に次のように言った・

 「第二艦隊は宿毛湾で待機するよう、命ぜられている。練習艦がまもなく出港して、訓練を実施する予定だ。湾口まででよかったら便乗させてやろう。あとは漁船を雇って帰艦すればいいだろう」。

 地獄で仏とはこのことであった。湾口までということだったが、わざわざ湾内に描泊している「長鯨」の近くに接近し、内火艇を呼んでくれた。それで、板倉中尉は無事帰艦することができた。

 昭和十二年十二月一日、板倉中尉は空母「加賀」乗組みを命ぜられた。板倉中尉は通常礼装に威儀を正して、第十二潜水隊司令・石崎昇大佐のもとに挨拶に行った。

 さすがの石崎大佐もこのときばかりはご機嫌で、ニコニコしながら「わしはずいぶん若い者を殴って鍛えたが、貴様ぐらい強情なやつは初めてだ。どうだ、潜水艦が嫌いになっただろう」と言った。

 「どういたしまして。私は考課表の第一志望、第二志望ともに潜水艦です。失礼ですが、司令のような方がおられては、潜水艦に人は集まりません。私は……」と、板倉中尉が言い終わらないうちに、とてつもない大きな雷が落ちてきた。

 潜水艦勤務から、空母「加賀」に移ったとき、板倉中尉はあまりの巨大さにとまどった。文字通り、浮かべる黒がねの城だった。

 ケップガンとして、艦の士気を鼓舞し、軍紀、風紀を取り締まる甲板士官としての職務は、板倉中尉にとって、男冥利につきるのがあった。

 ところが、日支事変のさ中だというのに、「加賀」の軍紀は地をはらい、風紀は乱れて、まことに寒心に耐えないものがあった。上陸員の帰艦時刻に遅れる者はざらで、逃亡や自殺する者が後をたたなかった。

 板倉中尉が着任した翌朝のことであった。飛行甲板に、糞塊が鎮座していた。明らかに、新任甲板士官に対する面当てであり、挑戦とみて、板倉中尉は徹底的に調べたが、犯人は分らなかった。

 横須賀在泊中のある日、午前の日課手入れ作業が終わったので、副長に報告するため士官室に入ったところ、副長はじめ、機関長や主計長など中佐クラスが、公室で酒を飲んでいた。

 しかも、あろうことか、若い芸妓に酌をさせていた。料亭“魚勝”の女将が副長の横にはべっていた。恐らく、士官室の宴会を頼みに来たのだろうと思われた。

 ゆらい、航空母艦と潜水艦は一般の参観は禁じられていた。機密保持のためであるが、危険でもあったし、空母のように倉庫や小部屋の多い艦内は、風紀上の問題があったからである。したがって、面会人に限り、舷門付近は許されていた。

 それなのに、昼のひなかから芸妓を相手に酒を飲むとは――沙汰の限りであり、怒り心頭に発したが、相手が上官では、板倉中尉が面と向かって詰問することもできなかった。

 だからといって、板倉中尉はこのまま見過ごす訳にはいかなかった。食器室に飛び込んで、従兵長に「誰が何と言おうと酒を出してはならぬ。甲板士官に厳命されたと言え」と板倉中尉が怒鳴りつけたので、当然、士官室の連中には聞こえたはずである。

 それから板倉中尉は舷門に行き、副直将校に、「魚勝の女将が帰るときは、本艦の定期便に乗せてはならぬ。サンパンを呼んで帰らせろ。もし文句を言う者がいたらすぐ電話しろ、俺が談判する」と言った。かたわらに当直将校がいたが、見て見ぬふりをしていた。

 甲板士官には、副直将校に命令したり、指示する権限はなかった。だが、板倉中尉はケップガンであり、ガンルーム士官を指導する義務があった。また、甲板士官には艦の軍紀・風紀を取り締まる責任があった。

 その日は、雨まじりの時化模様だったので、沖がかりの「加賀」に来るサンパンはなかった。当直を終わった副直将校が、ガンルームに帰って来るなり、「女将たちを乗せなかったのは当直将校ですよ。あの連中、いまも舷門のところでふるえています」と言った。

 衣装を大切にする芸妓たちが、濡れねずみになって、サンパンで帰ったのは、日没後だった。恐らく、士官室の誰かが上陸して手配したのだろう。

413.板倉光馬海軍少佐(13)板倉中尉「打ちません」、石崎司令「なぜ打たんかッ」

2014年02月20日 | 板倉光馬海軍少佐
 「司令、降ります。かならず雨になります」と板倉中尉が言った途端、ポカッ! ポカッ!と、連続ダブルパンチをくらった。

 苦労人の先任将校(水雷長)・日下敏夫(くさか・としお)大尉(徳島・海兵五三・少佐・伊一二一艦長・呂六三艦長・伊一七四艦長・伊一八〇艦長・伊二六艦長・中佐・伊四〇〇艦長)が、「鉄砲、あまり向きになるな。泣く子と地頭には勝てんというではないか」と、慰めてくれたが、板倉中尉の腹の虫は容易におさまらなかった。

 第二潜水戦隊が、東シナ海で昼間襲撃の演習をして、旅順港外に入泊したときのことである。単独行動の多い潜水艦は、入港と同時に、旗艦あてに着電を打つことになっていた。

 何事によらず、遅れをとったり、負けることの嫌いな石崎司令は、投錨と同時に「通信長、着電を打ったか?」と言った。

 板倉中尉「打ちません」、石崎司令「なぜ打たんかッ」。危険信号だった。

 しかし、戦務は守らなければならない。「旗艦が視界内にいるときは、無線は使用できません。発行信号で報告します」と板倉中尉は答えた。

 これ位の事を知らない石崎司令ではなかったが、いまだかつて、部下―それも、嘴の黄色い中尉ふぜいから言葉を返されたことはなかった。

 「打てといったら、打てッ!」。怒り心頭に達した石崎司令の大喝が、頭のてっぺんから落ちてきた。だが、板倉中尉は、あえて屈することなく「司令、視界内で着電を発信したら、問題になりますよ」と言った。

 言い終わらぬうちに、石崎司令のげんこつが、ポカッ!ときて、板倉中尉の帽子が吹っ飛んで海中に落ちた。

 ふだんから戦務にうるさい栢原艦長までが、おろおろしながら、「通信長、司令が言われるとおりに、着電を発信するんだ……」と言った。

 かくして、無線封止は破られた。上官の意地が、面子が、重大な戦務を無視したのだ。平時だから、といってすまされない、と板倉中尉は思った。

 その翌日、旗艦の「長鯨」で、演習に関する研究会が開催された。その席で通信参謀が、「昨日、視界内にもかかわらず着電を打ってきた潜水艦がある。本行動中、電波の輻射は厳に禁じられている。特に、艦の行動に関する場合は、全て視覚通信を使用するよう指導されたい」と指摘した。

 あたかも、若い通信長の落ち度であるかのような発言だったが、苦虫を噛み潰したような石崎司令の横顔を見て、板倉中尉の胸の溜飲がいっぺんに下がった。

 昭和十二年七月の暑い盛り、板倉中尉は赤痢の疑いで志布志の東郷病院に入院させられた。骨休みも悪くないと思っていたが、絶食がつらかった。

 入院して間もなく、七月七日、地元の国防婦人会が数名見舞いに来て、盧溝橋事件が伝えられた。さあ、一大事、入院どころではないと、板倉中尉は思った。

 だが、老院長は頑として退院させてくれなかった。所定の潜伏期間が過ぎるまで駄目だといって、耳を貸さなかった。何しろ、赤痢は法定伝染病だった。

 そこで一計を案じた。夕闇にまぎれて板倉中尉は病室を抜け出し、裏通りの飲み屋でビールを飲み始めた。六本あけたところで、女将から勘定を請求された。

 一見の客であり、病衣ときては当然だった。板倉中尉は「金は東郷病院にあずけている。院長に電話して、すぐ持ってくるように伝えろ」と女将に言った。

 案の定、カンカンに怒った院長が、「すぐ退院してもらいます。あなたのような患者をあずかることはできない」と言った。

 院長を怒らせて退院することができたが、板倉中尉は艦隊の所在が分からなかった。鎮守府に電話しても、身分の証明ができないため相手にされなかった。

 いろいろ考えたすえ、おそらく艦隊は燃料を補給するだろうと思い、板倉中尉は陸路、徳山に直行することにした。

 だが、徳山に着いたとき、一足遅れで、艦隊は徳山をあとにしていた。行き先も不明だった。途方に暮れて燃料廠を訪ねた。

412.板倉光馬海軍少佐(12)司令に呼ばれたら三歩前で止まれ、それ以上近寄ると危ない

2014年02月13日 | 板倉光馬海軍少佐
 昭和十一年十二月一日、板倉少尉は海軍中尉に進級し、伊号第六十八潜水艦(イ六八潜)に通信長として乗り組みを命じられた。

 イ六八潜は海大六型の一番艦で、常備排水量一七八〇トン、発射管六門(艦首四、艦尾二)を装備し、水上速力二三・五ノットは、当時、世界のレベルを超えるものだった。

 イ六八潜の艦長は栢原保親(かしわばら・やすちか)少佐(愛媛・海兵四九・イ二四潜艦長・イ六八潜艦長・イ七二潜艦長・中佐・潜水学校教官・イ一〇潜艦長・第十九潜水隊司令・イ一五九潜艦長・大佐・第十九潜水隊司令・第二十二潜水隊司令・戦死・少将)だった。

 板倉中尉がイ六八潜に乗組んだ昭和十一年十二月一日当時、イ六八潜は第十二潜水隊に属していた。当時の第二潜水戦隊の編成は次の通り。

 第二潜水戦隊は、母艦「迅鯨」、第十二潜水隊(イ六八・イ六九・イ七〇)、第二十九潜水隊(イ六一・イ六二・イ六四)、第三十潜水隊(イ六五・イ六六・イ六七)で編成されていた。各指揮官は次の通り。

 第二潜水戦隊司令官は、大和田芳之助(おおわだ・よしのすけ)少将(茨城・海兵三五・第四二潜艦長・潜水学校教官・中佐・第四潜水司令・潜水学校教官・第十八潜水隊司令・大佐・潜水母艦「長鯨」艦長・巡洋艦「那智」艦長・呉防備隊司令・少将・第二潜水戦隊司令官・横須賀防戦司令官・予備役)。

 母艦「迅鯨」の艦長は、岡敬純(おか・たかずみ)大佐(大阪・海兵三九・海大二一首席・ジュネーヴ会議全権随員・大佐・潜水母艦「迅鯨」艦長・軍務局第一課長・軍令部第三部長・少将・軍務局長・中将・海軍次官・鎮海警備府司令長官)。

 板倉中尉の所属する、第十二潜水隊司令は、石崎昇(いしざき・のぼる)大佐(東京・海兵四二・イ五六潜艦長・イ五三潜艦長・中佐・イ三潜艦長・第二十七潜水隊司令・米国出張・大佐・第十二潜水隊司令・給油艦「石廊」艦長・潜水学校教頭・第一潜水隊司令・戦艦「日向」艦長・第八潜水戦隊司令官・少将・第十一潜水戦隊司令官・第二十二戦隊司令官)。

 第二十九潜水隊司令は、原田覚(はらだ・かく)中佐(福島・海兵四一・ロ二六潜艦長・ロ一八潜艦長・イ二四潜艦長・イ三潜艦長・中佐・第六潜水隊司令・第二十九潜水隊司令・大佐・潜水母艦「大鯨」艦長・空母「鳳翔」艦長・少将・第七潜水戦隊司令官・横須賀防戦司令官・第三十三特別根拠地隊司令官・戦病死・中将)。

 第三十潜水隊司令は、伊藤尉太郎(いとう・じょうたろう)大佐(広島・海兵四二・ロ六三潜艦長・イ五七潜艦長・イ六三潜艦長・中佐・潜水学校教官・巡洋艦「磐手」副長・第二十八潜水隊司令・大佐・潜水母艦「剣崎」艦長・潜水学校教頭・呉潜水基地隊司令・水上機母艦「日進」艦長・戦死・少将)。

 イ六八潜座乗の第十二潜水隊司令・石崎昇大佐は、サムライだった。板倉中尉は着任早々、先輩から「司令に呼ばれたら三歩前で止まれ、それ以上近寄ると危ない」と注意されていた。

 日ならずして、通信長である板倉中尉は、司令の雷名を、身をもって知らされた。佐伯湾在泊中のことだった。

 作業地では、司令官や艦長は、投錨すると母艦にゆき、出港間際に帰艦する慣わしになっていた。たまたま、板倉中尉が航海長と当直を交替した直後だった。

 赤旗をかざした内火艇が近づいてきた。赤旗は司令乗艇の合図である。板倉中尉は急いで舷梯に出迎えた。

 石崎司令は、甲板に上がるやいなや、差し出した信号綴りをひったくるようにして目を通していたが、唇がわなわなと震えていた。

 雷が落ちる前兆だった。いやな予感が板倉中尉のみぞおちあたりを走った。その直後、石崎司令はかみつくように「天気図を持ってこいッ!」と怒鳴った。

 板倉中尉が急いで取り寄せると、一目見るなり、石崎司令は天気図をくるくると棒のようにまいて、ポカッ!と板倉中尉の横面を、いやというほどひっぱたいた。

 「馬鹿者ッ! どこに雨が降っているか!」。殴られた原因が、天気予報であったことに、板倉中尉は腹が立った。

 当時の天気予報は、当たるのが不思議なくらいで、はずれて当たり前だった。だが、気圧配置や前線の移動から判断して、天気がくずれるのは明らかだった。

411.板倉光馬海軍少佐(11)三人の将星の前で級友たちは借りてきた猫のようにかしこまっていた

2014年02月06日 | 板倉光馬海軍少佐
 そのとき、奥まった数奇屋造りの離れから、にぎやかな嬌声が聞こえた。おそらく偉方とは思ったが、板倉少尉は当たって砕けろとばかり、ガラリと襖を開けた。

 その途端、「何者だッ!」と、いきなり怒鳴りつけられた。板倉少尉は今更逃げ出すわけにもゆかず、腹をすえて部屋に入ると、ごつい顔をした、いが栗頭が睨み付けていた。
 
見たことのある顔だったが、板倉少尉は思い出せなかった。「『青葉』の航海士、板倉少尉であります」と言うと、「何しに来たッ!」と、いが栗頭。

 その怒声で板倉少尉は思い出した。戦艦「山城」(三九一五〇トン)の艦橋で参謀長を叱した、南雲忠一(なぐも・ちゅういち)少将(山形・海兵三六・海大一八・軍令部一部二課長・戦艦「山城」艦長・少将・第一水雷戦隊司令官・水雷学校長。第三戦隊司令官・中将・海軍大学校長・第一航空艦隊司令長官・第三艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・中部太平洋方面艦隊司令長官・戦死・大将・功一級)だった。

 板倉少尉が「クラス会にエスがおりませんので、暫時、拝借したいなと思いまして、参上いたしました」と言うと、南雲少将は「クラス会だと……何人だ」と言った。

 板倉少尉が「九名であります」と答えると、南雲少将はとたんに表情をやわらげて、「ところで、俺はなんだと思うか?」と訊いた。

 板倉少尉は、南雲少将が戦艦「山城」艦長から、第一水雷戦隊司令官に栄転したことを、官報で知っていたので、「一水戦の司令官とお見受けします」と答えた。

 すると、南雲少将は「ウン、よく当てた。俺のとなりは……」とさらに訊ねた。おっとりとした、恰幅のよい大人がニヤニヤしていた。

 真ん中にいるので一番先任であろうと、板倉少尉は思ったが、若ぶりの童顔だったので、「旗艦の艦長ではありませんか……」と答えた。

 「貴様はなかなか眼が高い。その次は」と南雲少将。頭髪をのばし、白(はくせき)の細面に眼鏡がよく似合う。どことなく気品があり、物腰がおだやかだったので、板倉少尉は「先任参謀と思います」と答えた。

 その途端に、三人が吹き出した。エスまでが袂を口に当てて、笑いをこらえていた。

 
 破顔哄笑のあと、おっとりした大人が、連合艦隊の参謀長・野村直邦(のむら・なおくに)少将(鹿児島・海兵三五・海大一八次席・ロンドン軍縮会議随員・空母「加賀」艦長・海軍潜水学校長・少将・連合艦隊参謀長・軍令部第三部長・在中華民国大使館附武官・中将・第三遣支艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・大将・海軍大臣・海上護衛総隊司令長官)と分かった。

 また、眼鏡をかけた貴公子は、第一潜水戦隊司令官・小松輝久(こまつ・てるひさ)少将(東京・海兵三七・海大二〇・巡洋艦「那智」艦長・海軍大学校教官・少将・第一潜水戦隊司令官・潜水学校長・海軍大学校教頭・中将・第一遣支艦隊司令長官・第六艦隊司令長官・海軍兵学校長・予備役・正三位・勲一等・侯爵)だった。

 板倉少尉がびっくり仰天していると、ご機嫌ななめの南雲司令官が「貴様が気に入った。エスを貸す代わりに、クラスの者を全部連れて来い」と言った。

 早速、板倉少尉は行燈部屋に帰り、一部始終を話し級友たちを連れてきた。「おい、大丈夫か、そんなところに行って……」。三人の将星の前で、級友たちみんな、借りてきた猫のようにかしこまっていた。

 「今夜は無礼講だ。遠慮せずに飲め……おい、お前は若い者を見ると、すぐに目じりを下げる。早く酌をせんか」と、ひとり南雲司令官だけがはしゃいでいた。

 野村参謀長もまけていなかった。「近頃の若い者はおとなしすぎる……」と、酒をついで回りながら、怪気炎をあげていた。

 ひとり、小松司令官だけが、席にあって静かに杯をふくんでいたので、板倉少尉が重ねて非礼を詫びたところ、「君たちのような元気のある若者が、潜水艦に来るようになるといいがねェ……」と、しんみり述懐した。

 小松少将は、北白川宮輝久王として、金枝玉葉の身だったが、臣籍に降下し、「進んで潜水艦に身を投じたのは、潜水艦に人なきを憂いたからだ」と聞かされた板倉少尉は、グーと胸が締め付けられた。

 板倉少尉が潜水艦志望に踏み切ったのは、この時だった。

 重巡洋艦「青葉」での一年間、艦長・平岡粂一大佐のすすめで、板倉少尉は第一次世界大戦で活躍したUボートの研究に打ち込んだ。