陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

274.今村均陸軍大将(14)その後の今村少将は嫌われ者になるほかはなかった

2011年06月24日 | 今村均陸軍大将
 昭和十一年三月、今村少将は関東軍参謀副長として新京(現・長春)に着任した。このときは人事の大異動があり、寺内寿一大将(陸士一一・陸大二一・勲一等旭日大綬章・南方軍総司令官・元帥)が陸相に、植田謙吉大将(陸士一〇・陸大二一・戦後日本郷友連盟会長)が関東軍司令官に就任した。

 今村少将が、新京駅に着いたのは午後九時ごろだが、駅で今村少将を出迎えた副官の永友大尉が「おもだった参謀たちが何かお話したいことがあるからと、司令部に近い料理屋でお待ちしています」と告げた。

 今村少将は不快に感じたが、仕方なく「桃園」という店に行き、五人の参謀たちに会った。一人の大佐が「要職につかれる前に、関東軍の性格を率直に申し上げておくべきだと思い、おいでを願いました」と言い、さらに次の様に話した。

 「満州国の建設はすでに日本の国策でありますが、これは関東軍あって初めて可能であり、万一にも満系、日系の官吏どもが事を軽視するようなことがあれば、満州国の建設や発展は望めません」

 「彼らの指導者の代表である軍司令官、軍参謀長、そして参謀副長であるあなた、この三人の公私一切の言動は軽易に流れず、威重の伴うものでなければなりません。この点を了解しておいていただきたいものです」。

 満州国官吏に対し「やたらに威張り散らす」という関東軍の悪評を、裏書するような言葉であった。

 「今後の言動について、むろん私は十分気をつけます」と今村少将は答えた。そして次の様に語った。

 「ただ私は明治大帝が軍人に下賜された勅諭五箇条のお教えの中で、礼儀の項だけでなく、武勇の項にさえ重ねて礼儀をお教えになっていることに深く感銘し、これを信念としております」。

 ここで今村少将は軍人勅諭を暗誦した。それを長々と聞かされる参謀たちの、苦りきった顔が目に浮かんだ。今村少将は、さらに次の様に続けた。

 「もし満州国官吏に対し威重を示せというのが形態上のことなら、私の信念に反しますから、せっかくのご忠言だが実行いたしません。人間の威重というものは、修養の極致に達し、自然と発するものなら格別、殊更につくろってこれを示そうと努めるぐらい滑稽であり、威重を軽からしめるものはないと思います」

 「私が関東軍司令部にいることが軍の威重上好ましくないと思った時は、いつでも参謀長に意見を具申の上、軍司令官の決裁によって、私の職を免ぜられるようにされたい。では、これで失敬します」。

 到着の夜にこの一幕があり、その後の今村少将は嫌われ者になるほかはなかった。今村少将の手記には五人の参謀たちの名は挙げていない。

 だが、当時、田中隆吉中佐(陸士二六・陸大三四・少将・兵務局長)は、すでに関東軍参謀だった。また、同年六月から武藤章中佐(陸士二五・陸大三二恩賜・軍務局長・中将・近衛師団長・勲一等瑞宝章・第十四方面軍参謀長)が加わった。いずれも一騎当千と自負するクセの強い人物である

 このときの関東軍の参謀長は板垣征四郎少将(陸士一六・陸大二八・陸軍大臣・大将・第七方面軍司令官)だった。着任の翌朝、今村均少将(陸士一九・陸大二七首席・後の大将)が参謀長室のドアを開けると、板垣少将はいきなり立ち上がって彼に近づき、しっかりと手を握って「おお、よかった! これからは、すべて安心してやれる。これからはすべて君にまかせるよ」と喜びの声をあげた。

 着任後一ヶ月もたたないうちに、今村少将は板垣参謀長の同意を得て、満州国要人に対する軍のしきたりを次々に改めていった。

 それまでの車の順序は軍司令官に始まり軍内各部長まですべて軍人が先発し、そのあとにようやく満州国総理大臣が続くことになっていた。

 今村少将はそれを軍司令官、軍参謀長の次に総理大臣および各大臣とし、そのあとに参謀副長以下軍人が続くことに改めた。

 次には、それまで参謀長、参謀副長と面談できるのは満州国の大臣級の人に限られていたのを、次官、局長級も公務用談の申し入れができるように改めた。

 以上、いずれも、到着の夜に今村少将を招いた参謀たちの目には、甚だしく軍の威重を傷つける改革だった。

 さらに六ヵ月後、今村少将は参謀・辻政信大尉(陸士三六首席・陸大四三恩賜・大佐・戦後衆議院議員)の意見を取り入れて、「公費による市中料亭の利用」を禁じた。

 「幕僚が人を招待する必要ある時は、公費で軍人会館を利用せよ」と、付け加えてあった。今村少将の悪評はますます高まった。だが、一方、軍隊の将兵たちは大いに溜飲をさげた。毎夜のように公費で飲食、遊興を続ける軍の参謀たちは、彼らの憤慨の的になっていたのだ。

273.今村均陸軍大将(13)私は軍人をやめて、坊主になる。子供たちは医者になれ

2011年06月17日 | 今村均陸軍大将
 この希望が入れられ、今村大佐は参謀本部付の肩書きで、上海へ出張した。陸海軍協同作戦を円滑にし、また、出先の軍と中央軍部との関係を緊密にする任務であった。

 今村均の長男、和男は、当時の今村大佐について、次の様に語っている。

 「上海から帰った父が、いきなり家族を集めて、『私は軍人をやめて、坊主になる。子供たちは医者になれ』と、言い渡しました」。

 今村はその理由を「上海で私の護衛に当たった海軍陸戦隊の兵二人が、敵弾で死んだ。この二人の後生を弔うため」と説明している。

 これについて島貫重節(陸士四五・陸大五三・中佐・陸将)は、次の様に語っている(島貫重節は昭和十八年、参謀次長とラバウルに同行して今村に会っている。また、戦後、島貫重節は陸上自衛隊に入隊し、第九師団長、東北方面総監を歴任し、今村均とは親しかった)。

 「作戦課長というのは非常に重要な、大変な役目ですよ。それを僅か七ヶ月でやめさせられた今村さんの気持ちは、察するに余りあります。自分の前途がどうこうの問題ではなく。軍中央への強い批判があったはずです」

 「あれほど筋を通して立派に勤めてきたのに、まるで失敗でもあったような扱いですからね。左遷も左遷、上海行きは連絡将校のような役だし、次の役も作戦課長のあとにはふさわしくない。恥をかかされたようなものです。軍人の社会はいやだ~という気持ちにもなりましょう」

 今村大佐の辞職願いは受理されず、昭和七年三月中旬、今村大佐は千葉県佐倉の歩兵第五十七連隊長に転出した。

 このときの今村大佐がどれほど深く心を傷つけられたかは、手記に散見される。昭和十二年に作戦部長の要職にあった石原莞爾少将が部下はじめ周囲の人心を失い、関東軍参謀副長として満州へ去った。

 このことを知った今村均は「かつて私が中央を追われたときを追想し、心から同情を寄せた」と記している。

 昭和八年八月から陸軍習志野学校幹事を務めていた今村大佐は、昭和十年二月、校長の指示で陸軍省へ行き、人事局長・松浦淳六郎少将(陸士一五・陸大二四・後の中将)に会った。

 用談が済んだ後、松浦少将は、今村大佐に次の様に告げた。

 「あなたは来月の異動で将官に進級し、東京の歩兵第一旅団長になると内定しています」。

 今村大佐は、少将への進級を、気の重そうな筆で手記に記している。歩兵第一旅団長になることも、「東京旅団の如き演習場に遠いところの部隊に長となることは、不運とさえ思われた」と、この栄転にも心をはずませてはいなかった。

 ところが、三月一日、人事異動の命令が発表されてみると、今村均少将(陸士一九・陸大二七首席・後の大将)は朝鮮の首都、京城の瀧山にある歩兵第四十旅団長に補されていた。

 その夜少将に進級した将校二十人ほどが、陸相官邸に招待された。その席で松浦人事局長が今村少将に「君には相すまんことをした」と、バツの悪い顔で次の様に語った。

 「実は朝鮮へ行くはずだった工藤義雄少将(陸士一七・陸大二七・少将で待命)から『家内が病気で、東京を離れがたいのだが…』と相談を受け、君と任地をとりかえるほかはなかったのだ」。

 東京の旅団長は近衛師団と第一師団の両師団に二人ずつ、計四名の配置である。この四人は選抜された優秀な人物と目され、将来の師団長を約束されたポストと考えられていた。

 今村少将と工藤少将の任地交換は、たちまち話題になり、中には「皇道派が人事局に干渉した結果だ」と、今村少将に同情の手紙を寄せる人々もいた。

 だが、今村少将は、そうした噂を取り上げず、同情の手紙には返事も出さずに、“軍隊練成に適した任地”である瀧山に明るい表情で出発した。

 ところが、この“任地交換”が、一年後に今村少将の軍人生命を救うという意外な結果を生んだ。

 昭和十一年二月二十六日、二・二六事件が起きた。天皇の「みずから討伐する」という異例の意思表示もあって、間もなく二・二六事件は終結した。

 その年の四月、陸軍は事件発生の責任上、最新参の寺内寿一大将(陸士一一・陸大二一・後の元帥)と植田謙吉大将(陸士一〇・陸大二一・戦後日本郷友連盟会長)の両大将を除く全現役大将の予備役編入、及び事件関係者を出した部隊の連隊長(大佐)以上の現役からの退去を発表した。

 約一年前の異動期に、もし工藤少将が病妻のための東京勤務を申し出なかったら、今村少将が、二・二六事件関係者を出した第一師団の旅団長として現役を退かされ、軍人の生涯を閉じていたのだった。

272.今村均陸軍大将(12)作戦課長・今村大佐自身も中央から飛ばされた一人だった

2011年06月10日 | 今村均陸軍大将
 柳条溝事件は早くから満州占領を企図していた板垣征四郎大佐(陸士一六・陸大二八・陸軍大臣・大将)、石原莞爾中佐(陸士二一・陸大三〇恩賜・中将)ら関東軍参謀の暗躍によるものだった。

 今村大佐は事件不拡大方針堅持の必要を説いた。だが、関東軍は中央や政府の不拡大方針を無視して、着々と満州占領計画を進め、十月八日には満州西南部の錦州を爆撃した。

 その数日後の夜、今村大佐は自宅に池田純久大尉(陸士二八・陸大三六・中将・内閣総合計画局長官)と田中清大尉(陸士二九・陸大三七・大佐)の訪問を受け、この二人から初めて桜会の橋本欣五郎中佐(陸士二三・陸大三二・大佐)を中心とするクーデタ計画を知らされた。

 今村大佐は作戦部長建川美次少将(陸士一三・陸大二一恩賜・中将)に橋本中佐説得を進言し、その結果、橋本中佐は建川少将にクーデタ中止を約束した。

 だが、十月十六日午後、桜会員である根本博中佐(陸士二三・陸大三四・中将)、影佐禎昭中佐(陸士二六・陸大三五・中将)、藤塚止戈夫中佐(陸士二七・陸大三六・中将)が突然、今村大佐に会いに来て、「先日、橋本中佐が約束した中止は虚言である」ことを告げた。

 作戦課長である今村大佐は部局長会議を開き、なお、教育総監部本部長・荒木貞夫中将(陸士九・陸大一九首席・大将・陸相)が説得を試みたが、ついに南次郎陸相(陸士六・陸大一七・大将・陸相・貴族院議員)の決断で、橋本中佐ら急進派十二人を憲兵隊に拘束した。

 『十月事件』と呼ばれるクーデタ計画はこうして未遂に終わった。満州事変はもともと「国家改造」の実現を目指して計画されたもので、十月事件もその一環だった。

 満州事変は作戦が成功し、日本軍占領地域は次々に拡大し、それを抑え得ない軍中央の不拡大方針は急速に色あせてきた。政府も軍の思いのほかの成功を見て、この既成事実に便乗する姿勢を見せ始めた。

 十二月、犬養毅の政友会内閣が成立し、青年将校に人気のある荒木貞夫中将が陸軍大臣に就任した。政府の対外政策は積極方針に転換し、荒木陸相は満州占領を中央で推進しようとした。

 昭和七年初めには日本軍はほぼ満州全土を手中に収めた。満州の独立計画は、政府、軍中央部、関東軍の間で合作されつつあった。

 このような情勢の中で今村大佐は依然として満州武力解決の時期が早すぎたことを憂えていた。今村大佐は、日本の対満州政策に対して、列国がどういう態度に出るかを懸念していた。

 戦後今村は「私記・一軍人六十年の哀歌」に次の様に記している。

 「…大東亜戦争のもとは支那事変であり、支那事変のもとは満州事変だ。陸軍が何等国民の意思と関係なしに満州で事を起こしたことが、結局に於いて国家をこのような破綻にあわせた基である~との国民の非難には、私のように、この事変の局部的解決に成功しなかった身にとっては、一言の弁解の辞がない」

 「私は、満州事変は国家的宿命であったと見ている。板垣、石原両参謀とは事変に関し、多くの点で意見を異にしたが、この人たちを非難する気にはどうしてもなれない。しかしながら満州事変というものが、陸軍の中央部参謀将校と外地の軍幕僚多数の思想に不良な感化を及ぼし、爾後大きく軍紀を紊(みだ)すようにしたことは争えない事実である」

 「これとても、現地の人がそうしたというよりは、時の陸軍中央当局の人事上の過失に起因したものと、私は感じている」

 「板垣、石原両氏の行動は、君国百年のためと信じた純心に発したものではある。が、中央の統制に従わなかったことは、天下周知のことになっていた」

 「にもかかわらず、新たに中央首脳者になった人々は、満州事変は成功裏に収め得たとし、両官を東京に招き、最大の讃辞をあびせ、殊勲の行賞のみでは不足なりとし、破格の欧米視察までさせ、しかも爾後、これを中央の要職に栄転させると同時に、関東軍を中央の統制下に把握しようと努めた諸官を、一人残らず中央から出してしまった」

 作戦課長・今村大佐自身も中央から飛ばされた一人だった。作戦課長の要職についてから僅か七ヶ月後のことだった。

 昭和七年初め、今村大佐は、新たに参謀次長となった真崎甚三郎中将(陸士九・陸大一九恩賜・大将・教育総監)から「都合により、貴官の作戦課長の職を変え、駐米大使官附武官に転補することにした」と申し渡された。

 今村大佐は、これを新作戦部長・古荘幹郎少将(陸士一四・陸大二一首席・大将)に報告し、次の様に述べた。

 「公務上深い因縁を持ちました上海事変の後始末は、まだこれを見ておりません。ついては、私を上海方面の職務に当てていただき、米国のほうは他の適材を当てるよう考えていただきたいものです」。

271.今村均陸軍大将(11)君のことから和田と奥平との喧嘩になり、軍務局長までが怒り出した

2011年06月03日 | 今村均陸軍大将
 軍事課長・津野一輔大佐(陸士五・陸大一五)から今村中尉に電話がかかってきた。来てくれとのことなので、行くと津野大佐は次の様に言った。

 「君のことから和田と奥平との喧嘩になり、軍務局長までが怒り出した。どうなるか心配される。どんなことだったか聞かせてくれたまえ」。

 今村中尉が、これまでのいきさつを述べると、津野大佐は次の様に言った。

 「そうか、わかった。和田は僕とも同期生だ。気持ちはいいんだが、あんまり几帳面すぎるんで、よくこんな問題を起こす。君の考えも奥平の気持ちも尤ものことと同感される。が、こんな小さなことから、省内で軍務局と官房とが、気まずくなっては面白くない。それで僕が仲に入り、君を面罵した点は、和田をして局長にあやまらせるつもりだ。そのきっかけを作る何かの道があるまいか。それで君と相談しようと思い、来てもらったんだ」。

 これを聞いた今村中尉は次の様に答えた。

 「ご心配をかけて相すみません。私は奥平課長の考えは正しい、私も何ら失礼なことは申しておりませんので、副官殿に陳謝などいたしません。しかし冷静になって考えて見ますと、和田大佐殿は、私の将来の心掛けにつき実によい戦史上の教訓を与えてくれました。この点から問題を片付けることが出来ると考えます」。

 津野大佐が「そうか。君もこの事柄を解決しようと思っているなら結構だ。いろいろとデマも飛び出している。早いほうがいいと思うな…」といったので、今村中尉は、「これからすぐ私は副官室に参ります」と答え、和田大佐のところへ行ってみた。

 今村中尉が「今朝のことで一言申し上げたいことがあります」と言うと、和田大佐は「何か」と、依然として、こわばったむずかしい顔をしていた。

 今村中尉は次の様に言った。

 「私は、奥平課長の考えは間違っておらず、私も礼を失したことを、申さなかったつもりでおります。それで副官殿にお詫びはいたしません。しかし、教えて頂きました旅順の戦例は、私の将来に、実によい教訓でありました。その手始めに、私の課の全書記と私とで本夜徹夜し、各師団の点呼計画表を、同一様式の紙に清書しなおし、明朝改めて官房に差し出すことに決心いたしました」。

 こわばっていた、和田大佐の顔が、いっぺんに崩れ、笑みを浮かべて、しんからの喜びの情を表し、次の様に言った。

 「そんなにあの戦例を理解してくれたか。……人から聞いて、僕の短気は知っていたろうが、もって生まれたしょうぶんはなかなか直らんでな…。あんなに大げさなことにして、相済まなかった。君の課もいそがしかろうから、官房のほうからも、手のすいている者を加勢に出す。武官府のほうには、一日遅れることを、こちらから電話しておこう……」。

 三十分後、津野大佐が今村中尉に電話をかけてきた。

 「和田副官がやってきて、今、奈良局長に申し訳の挨拶をして、事柄がおさまった。今夜、僕と和田と奥平の三人で同期生会を開き、一緒に飲むことにした。君もこんなことはなかったことにして、気を休めてくれたまえ」。

 この日以来、今村中尉の書類はほとんどすべて無条件で官房を通り、すらすらと運んだ。和田副官にいつ会っても、にこっと笑い、今村中尉の敬礼に答礼し、時には講話の下書きを頼まれたり、官舎に招かれ、夕食を饗された。

 陸軍省高級副官・和田亀治大佐(陸士六・陸大一五・大分県出身)は、その後、大正八年陸軍少将・陸軍大学校幹事、大正十年参謀本部第三部長、大正十二年陸軍中将・陸軍大学校長、大正十三年欧米出張、大正十四年第一師団長を歴任して、昭和三年待命、予備役編入。後に帝国在郷軍人会副会長を務めた。昭和二十年没。

 陸軍省軍務局歩兵課長・奥平俊蔵大佐(陸士七・陸大一六・東京都出身)は、その後、大正九年陸軍少将、大正十一年歩兵第二旅団長、大正十三年陸軍中将・待命、予備役編入。昭和二十八年没。

 陸軍省軍事課長・津野一輔大佐(陸士五・陸大一五・山口県出身)は、その後、大正七年陸軍少将・近衛歩兵第二旅団長、陸軍士官学校長、大正十二年陸軍中将・教育総監部本部長、陸軍次官を歴任。昭和三年近衛師団長在任中に死去。

 昭和六年八月一日、今村均大佐は軍務局徴募課長から、参謀本部の最も重要なポストの一つである作戦課長になった。大佐の二年目で、四十五歳であった。

 今村大佐が参謀本部作戦課長になって、一月半後の九月十八日、満州事変の発端である柳条溝事件が勃発した。今村大佐は、その処理に奔走した。