陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

505.永田鉄山陸軍中将(5)堀内連隊長は「永田という男は、始末の悪い奴だ」と漏らした

2015年11月27日 | 永田鉄山陸軍中将
 だが、渡辺大佐は少将に昇進、歩兵第三一旅団長として栄転して行き、その後任に、永田少尉と同郷の堀内文次郎(ほりうち・ぶんじろう)中佐(長野・陸士旧七期・参謀本部高級副官・歩兵第五八連隊長・歩兵大佐・少将・歩兵第二三旅団長・中将・従四位・勲二等・功三級)が連隊長に就任した。

 ある日、堀内連隊長が親しく、永田少尉に会った時、堀内連隊長が突然、「永田!お前は、酒と女をつつしめ!」と言った。永田少尉は恐縮して、「ハッ」と答えて、そのままその場を引き下がった。

 永田少尉は、もともと酒は相当に飲んだが、女に関する点では、決して耽溺するというような事は無かったので、連隊長の態度が腑に落ちなかった。だが、これには次のような仔細があった。

 永田少尉が以前、鎮南浦の某旅館に滞在していた時、給仕に出た旅館の美人従業員が、その後大連に移り、そこから永田少尉に手紙を出したのを見られた、のが原因だった。

 しかも、その当時の師団の高級副官が、永田少尉の兄、永田十寸穂少佐(歩兵中佐・大正二年死去)だった。このことから、永田十寸穂少佐が堀内中佐に耳打ちしたものと推察されたので、永田少尉は「とても頭が上がらずか(方言)」と、こぼしていたといわれる。
 
 明治四十年の正月、永田少尉ら同期生八名は、堀内連隊長の宿舎に飲みに行った。ところが堀内大佐(昇進)は不在で、従兵のみが留守番をしていた。

 そこで永田少尉らは、この従兵に命じて、勝手な大振る舞いをさせ、さらに、堀内大佐秘蔵の金口煙草までも吸い上げて、引き揚げた。

 後日、堀内大佐は、「若い将校は元気がある」と、誉め言葉だったが、そのあと、永田少尉らは大目玉を頂戴した。この行動を主導したのは、永田少尉だった。

 明治四十年春、歩兵第五八連隊は、韓国守備の任を終えて、内地へ帰還し、越後高田(新潟県)に駐屯した。

 ある日、永田鉄山中尉が担当する連隊教練の実施日だったが、前夜から豪雨が降り続いていた。予定の整列時刻が迫るが豪雨は止まず、しかも連隊本部からは中止とも何とも命令がなかった。

 この日の教練科目は、単に連隊内の連絡・協同動作の研究であって、強いて豪雨の中を敢行する必要はないものだった。

 だが、風変わりな堀内連隊長のことなので、下手に申し出ては、お目玉頂戴はまだしも、かえって藪蛇の恐れがあった。だから、心密かに教練中止を願っていても、誰一人堀内連隊長に伺いを立てる者はいなかった。

 そんな中、中隊長代理・永田中尉が、中隊に武装を整えさせ、舎内に待機するよう命令した。そして、永田中尉自身は、演習出場の服装も凛々しく、豪雨の中を、悠々と連隊長室に向かった。

 永田中尉は連隊長室に入ると、慇懃な敬礼をして、「中隊は演習出場の準備は、整っておりますが、予定通り整列させますか」と、堀内連隊長に伺った。

 永田中尉と降る雨を、まじまじと見つめた堀内連隊長は、「本日の連隊教練は取り止め」と言った。永田中尉は「ハア……」と言って、連隊長室を出ていった。その時の永田中尉は得意顔であった。

 その後姿を、苦笑しながら見つめ続けた堀内連隊長。永田中尉は全身ずぶ濡れだったので、連隊長室の永田中尉が立っていた所は、一面に雨水が溜っていた。後日、堀内連隊長は「永田という男は、始末の悪い奴だ」と漏らしたという。

 明治四十一年十二月、陸士十六期の同期生の中では、永田鉄山中尉、小畑敏四郎中尉、藤岡萬蔵中尉、谷実夫中尉の四人だけが、初めて陸軍大学校(二三期)に入学した。

 陸軍大学校の第三学年の時、永田中尉は健康を害して、講義をよく欠席した。同学年の時、近衛工兵連隊への隊附は健康不良のため、ついに実施されなかった。そして卒業前の参謀演習旅行には、病を押して九州の山野を駆け回った。だが、成績は優秀だった。

 陸軍大学校の試験を前にして、永田中尉は、悠々と試験科目外の中国語をやっていた。それを見た同期の小畑敏四郎中尉が「俺たちが惨めになるから、せめて試験勉強をするふりでもしてくれよ」と永田中尉に言った。それほど優秀だった。

 陸軍大学校(二三期)の卒業成績は、永田中尉は次席だった。首席は梅津美治郎(うめづ・よしじろう)中尉(大分・陸士一五・七席・陸大二三・首席・陸軍省軍務局軍事課長・少将・歩兵第一旅団長・参謀本部総務部長・スイス公使館附武官・支那駐屯軍司令官・中将・第二師団長・陸軍次官・第一軍司令官・関東軍司令官・大将・関東軍総司令官・参謀総長・大本営全権として降伏文書調印式に出席)だった。

504.永田鉄山陸軍中将(4)「ペンなら書く、筆では書かぬ」と、絶対に筆をとらなかった

2015年11月20日 | 永田鉄山陸軍中将
 それによると、永田候補生は、学科、術科、操行もみな一番であるが、惜しいことに、字だけが拙いとあった。幼年学校の考課にもこの事が記されてあった。

 全てに優秀な永田鉄山であったが、字だけは下手であった。後日、永田が地位を得て、揮毫を頼まれると、「ペンなら書く、筆では書かぬ」と、絶対に筆をとらなかった。

 従って、今日、永田鉄山中将の筆による揮毫は少なく、ただ一つ、永田が郷里の在郷軍人会・分会の班旗にその班名を書いたのがあるのみである。

 軍曹の袖章に星章を付けた襟の軍服を着た士官候補生、永田鉄山は、明治三十六年十二月一日、市ヶ谷台の陸軍士官学校に入校した。

 士官学校時代の永田生徒は、文武両道共に成績優秀だった。また、どんな時でも、どんな事があろうとも、常に余裕綽々たる態度であった。

 また、試験前には永田の机の前には次から次へと同期生の質問者が押し寄せてきて、永田自身の勉強ができないほどであったが、これを嫌がることなく、親切にこれら同輩に教えてやった。

 この約十一か月間の士官学校時代、元来あまり頑強ではなかった永田は、持前の負けじ魂で、押し通したが、そのため卒業を前にして遂に健康を害して、約二週間の転地療養を余儀なくするに至った。

 その療養から帰校し数日後に卒業試験を受けねばならなかった。だがその結果は、なんと、全科の首席は永田だった。

 卒業式当日、明治天皇の御臨幸を受け、首席の永田は御前講演の栄に浴し、恩賜の時計を拝受し、観兵式には中隊の先頭小隊長を勤めた。

 明治三十七年十月二十四日永田鉄山は陸軍士官学校(一六期)を首席で卒業した。永田ら八名は、歩兵第三連隊附となり、見習士官を一週間務めたあと、十一月一日歩兵少尉に任官した。永田鉄山少尉は、歩兵第三連隊補充大隊の第一中隊に配属された。

 補充大隊は大隊長・嵯坂七五郎少佐(後の退役大佐)の下に、六個中隊から編制されていたが、現役の中隊長は二名、士官学校出身の中隊附き士官はわずかに二名だった。士官学校卒業の永田少尉ら八名の帰隊が、どれほど期待されていたか言うまでもなかった。

 永田少尉は、補充兵教育に当たり、入隊した一年志願兵の教官に任命された。志願兵たちは、はちきれそうな元気いっぱいの永田少尉を、「金時少尉」と呼んだ。

 「軍人の最期」(升本喜年・光人社)によると、当時の永田鉄山少尉は、真面目で知性的で、現実的な合理主義の一面があり、馴れ合いの徒党を組むことを嫌い、孤高の感じもあったが、その一方、酒も好き、女も好きで、器の大きさを感じさせたという。

 任官翌年の春のある日、当時の東京衛戍総督・佐久間左馬太(さくま・さまた)大将(山口県萩市・奇兵隊・長州藩諸隊亀山隊大隊長・戊辰戦争・維新後陸軍大尉・熊本鎮台参謀長・西南戦争では歩兵第六連隊長・少将・歩兵第一〇旅団長・中将・男爵・第二師団長・子爵・近衛師団長・中部都督・大将・東京衛戍総督・台湾総督・伯爵・正三位・勲一等)が突然、歩兵第三連隊の補充大隊を巡視した。

 その時、永田少尉は志願兵の小隊教練教育に当たっていた。永田少尉は志願兵相互の小隊指揮演練の猛訓練を二十分間行った後、「演習終わり、解散!」と命令して、そのまま何のこだわりもなく、颯爽と営門を出ていった。

 佐久間大将の巡視というので、他の中隊では中隊長以下総出で、必死で長時間に渡って演習が続けられたにもかかわらず、永田教官のこのあまりにも淡泊なやり方に志願兵たちは不審を抱いた。

 志願兵の一人が翌日、「少尉殿!昨日は他の中隊では平日以上に長く演習していましたのね、私達ばかりどうしてあんなに早く演習を終わったのですか?」と質問した。

 すると、ニコッと笑った教官の永田少尉は、「ナアーニ、誰がいようと、どんな偉い人が見ていようと、自分に満足が出来れば、わずか十分でも五分間でも好いのだ。あながち長時間の教練が良いというわけのものじゃないさ……」と事もなげに答えた。

 明治三十九年一月、歩兵第五十八連隊附として、永田鉄山少尉は韓国守備の任務に就いた。着任当時の連隊長は渡辺祺十郎(わたなべ・きじゅうろう)大佐(福島・歩兵第一二連隊長・陸軍戸山学校長・歩兵第二連隊長・歩兵第五五連隊長・歩兵第五八連隊長・少将・歩兵第三一旅団長・歩兵第三四旅団長)だった。


503.永田鉄山陸軍中将(3)情実や阿諛が大嫌いで、どこまでも正義と実力で行こう

2015年11月13日 | 永田鉄山陸軍中将
 明治二十八年八月二十六日鉄山が十一歳の時、父・志解理が死去した。父の臨終のとき、父の枕辺に行儀よく座っていた鉄山に、父・志解理は、苦しい息の下から、「鉄山!お前は必ず立派な軍人になれよ!……そしてお国のために……父も十万億土のあの世で喜ぶように……」。

 鉄山は「ハア、必ずともにお言葉を」と、父が臨終に残した遺言と、鉄山が誓った言葉とが、永田鉄山を軍人の道に進ませ、その栄光の階段を昇らせて行った。

 だが、永田鉄山は栄光の階段を上る途中、相沢中佐による突然の凶行で、落命した。このような突発的な事故の兆候は、若い頃より多々見られた。

 明治三十六年、永田鉄山は中央幼年学校の生徒であったが、当時なかなか「負けじ魂」の持ち主だった。夏のことだった。寝具を整頓する際、蚊帳をはずそうとした時、どうしたはずみか吊手の金具がはずれて、彼の眉間を強く打ち、裂傷を負った。

 休養室で治療を受けねばならぬほどだった。だが、この時、永田生徒は痛いとも何とも一言の弱音を吐かず、ジッと歯を食いしばったまま我慢をしていた。

 また、幼年学校在校中、郷里へ帰郷する途中、犀川にさしかかったが、あいにく渡し船がない。そこで鉄山はいきなり川に飛び込んで泳ぎだした。

 だが、流れが急なので、流されて溺れそうになった。その時、遠方でこれを見た百姓が飛び込んで助けてくれて、ようやく一命を取り止めたこともあった。

 陸軍大学校の学生時代、風呂屋に行って入浴中、衣類全部を何者かに着て行かれてしまった。風呂屋の使いが着物を家に取りに行ったが、ほかに着替えが見つからなかった。

 その時、ちょうど同期生の川上の依頼で、仕立屋から一重重ねの和服が出来てきていたので、それを借りて間に合わせた。

 幼年学校時代、負けぬ気の永田生徒は、趣味として囲碁を好み、日曜・休日等には、盛んに同志と戦ったが、腕前はそれほどでもなかった。

 後日のことだが、陸軍大学校の学生時代、勝負に夢中になり、学科時間まで及んだため、陸軍生活中ただの一度という処罰を喰らった。

 さて、中央幼年学校時代の永田鉄山は、「負けじ魂」を以って始終し、在校二年、首席で卒業し、御前講演の栄に浴し、「文武兼備の必要」と題して講演し、銀時計の下賜を受けた。

 「秘録・永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)によると、明治三十六年五月永田鉄山は士官候補生として歩兵第三連隊に入隊し、六月五日に緋色の襟章に「3」の字を付けた。

 「永田! 腹退け!」。教練のとき、しばしばこの注意が永田候補生に与えられたほど、彼は腹の出た姿勢だった。特にそれが歩くときには、はなはだしく、一層反身になって下腹の出る癖があった。

 当時士官候補生たちは、「候補生の教練は型だけだ、まだまだ本物になってはおらぬ」と小言を喰らい、相当厳しく鍛えられた。永田候補生は、この「腹退け!」以外は余り注意を受けなくなった。

 士官候補生になって一か月ぐらいたったある日、予定の連隊教練が豪雨で中止になり、中隊は舎内で各個教練をするようにと予定が変更されたが、候補生にはその伝達がなかった。

 ようやく変更予定を知った候補生一同は、大急ぎで服装を整え、出場したが、遅刻した。その時、中隊附中尉が候補生を次のように叱責した。

 「士官候補生は、何故本日の連隊教練を知りつつ、その服装を週番士官に質さなかったか、単なる一兵卒ならば、ただ命令を待っておれば良い」

 「だが、いやしくも将校の卵たるものが、その辺の思慮が無くてどうする。また、週番下士官もこれを伝達したのだろう」。

 このことについて、永田候補生は、当日の日誌に次のように所感を書きこんでいる。当時の永田候補生の徹底主義の片鱗がうかがわれる。

 「……週番下士〇〇伍長は敢えてこれを通知したる事なく、何も恥ずる色なく、昨日午後四時これを通知した旨答え、後に至り四時は誤りにして一時なりとか、誰に通知したとか頗る曖昧なる言句を弄し全く其の職責を尽くさず、虚偽の報告をなせり」

 「而も中尉殿は深くこれを咎むることなかりき。予は思う、苟も伍長の職を奉ずるものが虚偽の申し立てをなし恬として顧みざるに、上官たるものが、これに対し厳に叱責を与え処分せざるは何の故にや、頗る怪訝に堪えざる所、斯くせざれば部下の信用を得る事能わずとせば、日本将校の威信も亦低卑なるものかな」。

 純情無垢の永田ら候補生が、要領の良い下士官に対するある種の反感の現れの一つとも見えるが、永田鉄山の主義は、情実や阿諛が大嫌いで、どこまでも正義と実力で行こうというものだった。

 隊附きも終わりに近づき、士官学校に入校しようとする頃、中隊の給養掛軍曹がそれとなく候補生らの成績の内容を漏らした。





502.永田鉄山陸軍中将(2)龜さやァ。亀の爪は虎の爪よりこわい

2015年11月06日 | 永田鉄山陸軍中将
 「秘録・永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)によると、永田鉄山は、明治十七年一月十四日、永田志解理(しげり)の四男として、長野県諏訪郡上諏訪町本町に生まれた。

 永田家は代々医を業とした名門の家柄だった。父の永田志解理は、当時、郡立高島病院の院長で、名士で、「院長様、院長様」と呼ばれて敬われていた。人物も極めて温和で、人格者だった。

 家庭も裕福で、居宅も大きく、庭内から温泉も湧き出ていた。永田鉄山には、三人の異母兄と一人の異母姉があり、母(順子)の同じ二人の弟と二人の妹がいた。

 上諏訪町立高島尋常高等小学校では、永田鉄山は「鉄サー」と呼ばれ、院長様の息子として一目置かれていたが、鉄山はかなり腕白者だった。だが、決して意地悪ではなく、他人をいじめたり、迷惑をかけるということはなかった。

 明治二十六年、永田鉄山は高島尋常高等小学校の三年生だった。当時の同級生・浜亀吉氏は回顧して次のように述べている(要旨抜粋)。

 当時は机、腰掛は三人掛けで、私の右が永田、左が藤原咲平、互いに腕力家でした。ある日大喧嘩をしたことがあり、事の起こりは習字の時間にいたずらが過ぎて、永田がわしの白絣の着物に墨をくっつけた。

 それで私も負けずに組み付いて顔を引っ掻き、三筋のバラザキをこしらえてしまった。藤原の仲裁でその場はおさまったが、あとで林三郎先生に叱られ、二人ともおトマリをくわされた。

 しかし日を経るにしたがって仲良しになって、三年と四年級を卒業し、間もなく永田さんと別れることになり、送別会をした。

 それから十年の後、私は徴兵検査に合格したが、その時永田さんから「甲種砲兵合格を祝う、よって砲兵須知を贈る。大いに勉強し給え」という祝いの手紙に添えて、「砲兵須知」の本を頂いた。

 また、上京して新橋の「今朝」にコックとして働いていた時、藤原咲平君の紹介で、永田さんと「今朝」の一室で会食し、軍服を脱いでもらって、昔の同級生気分で語り合い、話に花が咲いた。

 その時、永田さんが「龜さやァ。亀の爪は虎の爪よりこわい、この顔のあとを見ろや」と言われて赤面した事を思い出す。

 昭和五年六月、参謀本部に行き、面会を求めた時は、藤原君から教えられた通り、取り次ぎ用箋に「三分間廊下にても拝顔を得、閣下の健勝を祈る」と書いて出したが受付で許されない。

 ところが、永田さんは用箋を見てすぐ「案内せよ」と下命し、取次の将校が狼狽し、三分間はおろか三十分も昔話をすることができた。これが閣下とのお別れだった。

 明治二十七年、日清戦争が起きた時、鉄サーは高等一年生だった。当時子供たちの間に戦争ごっこが流行っていた。

 日本海軍の第一遊撃艦隊を真似して、同級の岩波茂雄(岩波書店創立者)ら仲間と鉄サーが軍艦になって、敵艦となった子供たちと戦遊びをした。

 また鉄サーは仲間たちと、他のによく喧嘩に出掛け、石合戦も行った。子供ながらに、両軍とも智謀を廻らし、計略をし、迂回したり、挟み撃ちにしたりして、激しい戦いをして、日没頃まで遊んだ。鉄サーは、負けず嫌いだったので、いつも大将だった。

 このように腕白で勝気な鉄山であったが、反面、どことなく、やさしいというか、弱弱しい性格も、併せ持っていたという。

 学校からの帰り道、町の腕白どもが、小柄の弱い同級生をいじめている時、鉄山は中に飛び込んで弱いものを助けたりした。そして、腕白どもに、「弱い者いじめをやめて、一緒に陣取りをやろうや」と、当時子供たちの間で流行った陣取りゲームを共にやって遊んで仲良くさせた。

 永田鉄山の生涯持ち合わせた「義侠心」は、この少年時代から芽生えていた。また鉄山の性格は、極めて正直であり、実直であったが、それは少年時代から人目を引くほど顕著なものだった。

 小学校で、受け持ちの先生が生徒に手帖を渡して、自分の善悪の行いを毎日、白丸と黒丸を付けて提出するように命じた。毎夜、それを父の前で記入して、説明することになっていたが、鉄山は、いつも正直に書いて出したので、時には黒丸ばかりのこともあり、先生から訓戒を受けたこともあった。

 いつも厳格な鉄山の父・志解理は、この記入の時に限って何の小言も言わず、笑顔で聞くのみで、鉄山の思うがままに記入させた。