岡田少尉は楽長に対して、「出ろというなら出るが、俺には技術上の指導など出来ないし、第一さっぱり音楽なんて面白くない」と言った。
すると楽長は「技術上のことは私がやりますが、あなたが聞いて面白くないのは、音楽がわからないからです。私がわかるようにしてあげましょう」と答えた。
それから毎日のように、楽長は岡田少尉の部屋にやって来て、「これがピッコロ、これがドラム」と楽器の説明に始まり、今日はこういう曲をやります、これはだれが作曲したもので、この音にはこういう意味がある、などと面白く話をした。
岡田少尉は訓練にも引っ張り出されて、演奏を聴かされる。そうやって聴いているうちに、まんざら面白くないこともないようになった。
その楽長は、ドイツへも留学して修業した人で、名前は思い出せないが、その熱心さには感心した。後に首相になったとき、食事の席上、岡田首相が演奏を聴きながら音楽の話をしたら、周囲のものが驚いていた。
軍楽隊の分隊長は三ヶ月ほどで、次は巡洋艦「浪速」(三七〇九トン)の分隊長心得になった。明治二十七年七月の日清戦争開戦の一ヶ月前だった。
分隊長は少佐か大尉がなるのだが、当時は中尉という階級がなくて、少尉からすぐに大尉になった。だが、その代わりに少尉を四年ばかりやらされた。分隊長心得というのは少尉のままだからだった。
「浪速」では岡田少尉は前部十五サンチ副砲の指揮官だった。艦長は東郷平八郎大佐(鹿児島・英国商船学校・連合艦隊司令長官・大将・軍令部長・元帥・大勲位菊花章頸飾・侯爵)だった。
東郷艦長は穏やかな人で、小言を言ったことがなく、乗員はみな非常に尊敬していた。とても勉強家で、国際法をよく研究していた。
当時朝鮮問題で清政府が朝鮮に軍事介入を通告し、大島圭介公使の身辺も危険になったので、陸戦隊が上陸して警備することになった。
清国は日本が撤兵しなければ、日本と戦争を始めると朝鮮政府に通告した。そこで日本も腹を決めて、混成旅団を送ることになった。
「浪速」は陸軍を護衛して仁川に行くことになった。当時「浪速」は常備艦隊の第一遊撃隊で、常備艦隊の司令長官は伊東祐亨中将だった。
明治二十七年七月二十四日、常備艦隊第一遊撃隊の防護巡洋艦「吉野」、防護巡洋艦「秋津島」、防護巡洋艦「浪速」の三隻は佐世保を出港、翌日二十五日、朝鮮の西側で清国の軍艦「済遠」と「廣乙」に出会った。
軍艦はすれ違えば必ず敬礼するし、将旗を掲げている艦に対しては、大将、中将など階級に応じた数の礼砲を発射する習慣になっていた。
第一遊撃隊の旗艦、「吉野」には、司令官・坪井航三少将が座上していた。まだ清国と日本は表面上は平常状態なので、当然向こうから礼砲を撃たねばならないのに、それをしないばかりか、いきなり実弾を撃ってきた。
岡田少尉は驚いたが、こちらも、その位のことはあるだろうと、警戒していたので、すぐ応戦した。向こうは二隻だが、後で「操江」も加わり、三艦対三艦の戦いとなった。
海戦の結果、清国の「廣乙」は遁走の途中座礁して爆発し、「操江」は捕獲された。「済遠」は白旗を掲げながら逃げてしまった。
これが豊島沖海戦で、日本側は「吉野」が少しやられ、岡田少尉の乗り組んでいた「浪速」が後甲板に弾丸を受けたが被害はほとんどなかった。日本側の死傷者はなかった。
この海戦の最中、英国旗を掲げた輸送船「高陞号(こうしょうごう)」がやって来た。よく見ると、清国兵が多数乗っているようだった。
岡田少尉がどうすべきかと、思っていると、東郷艦長は「高陞号(こうしょうごう)」に対して空砲二発を撃たせ、手旗信号で停止、投錨を命じた。その後すぐに臨検士官を送って英国人船長に面会させ、船内を臨検した。
その結果、清国兵一一〇〇名と大砲一四門、その他武器弾薬を輸送中であることが判明した。東郷艦長は捕獲することを決定し、「浪速」のあとについてくるよう命令した。
ところが、乗っている清国兵が英国人船長や乗組員を脅して命令をきかなかった。船上では、清国兵が銃や刀槍を持って走り回り、不穏な動きが見られた。
すると楽長は「技術上のことは私がやりますが、あなたが聞いて面白くないのは、音楽がわからないからです。私がわかるようにしてあげましょう」と答えた。
それから毎日のように、楽長は岡田少尉の部屋にやって来て、「これがピッコロ、これがドラム」と楽器の説明に始まり、今日はこういう曲をやります、これはだれが作曲したもので、この音にはこういう意味がある、などと面白く話をした。
岡田少尉は訓練にも引っ張り出されて、演奏を聴かされる。そうやって聴いているうちに、まんざら面白くないこともないようになった。
その楽長は、ドイツへも留学して修業した人で、名前は思い出せないが、その熱心さには感心した。後に首相になったとき、食事の席上、岡田首相が演奏を聴きながら音楽の話をしたら、周囲のものが驚いていた。
軍楽隊の分隊長は三ヶ月ほどで、次は巡洋艦「浪速」(三七〇九トン)の分隊長心得になった。明治二十七年七月の日清戦争開戦の一ヶ月前だった。
分隊長は少佐か大尉がなるのだが、当時は中尉という階級がなくて、少尉からすぐに大尉になった。だが、その代わりに少尉を四年ばかりやらされた。分隊長心得というのは少尉のままだからだった。
「浪速」では岡田少尉は前部十五サンチ副砲の指揮官だった。艦長は東郷平八郎大佐(鹿児島・英国商船学校・連合艦隊司令長官・大将・軍令部長・元帥・大勲位菊花章頸飾・侯爵)だった。
東郷艦長は穏やかな人で、小言を言ったことがなく、乗員はみな非常に尊敬していた。とても勉強家で、国際法をよく研究していた。
当時朝鮮問題で清政府が朝鮮に軍事介入を通告し、大島圭介公使の身辺も危険になったので、陸戦隊が上陸して警備することになった。
清国は日本が撤兵しなければ、日本と戦争を始めると朝鮮政府に通告した。そこで日本も腹を決めて、混成旅団を送ることになった。
「浪速」は陸軍を護衛して仁川に行くことになった。当時「浪速」は常備艦隊の第一遊撃隊で、常備艦隊の司令長官は伊東祐亨中将だった。
明治二十七年七月二十四日、常備艦隊第一遊撃隊の防護巡洋艦「吉野」、防護巡洋艦「秋津島」、防護巡洋艦「浪速」の三隻は佐世保を出港、翌日二十五日、朝鮮の西側で清国の軍艦「済遠」と「廣乙」に出会った。
軍艦はすれ違えば必ず敬礼するし、将旗を掲げている艦に対しては、大将、中将など階級に応じた数の礼砲を発射する習慣になっていた。
第一遊撃隊の旗艦、「吉野」には、司令官・坪井航三少将が座上していた。まだ清国と日本は表面上は平常状態なので、当然向こうから礼砲を撃たねばならないのに、それをしないばかりか、いきなり実弾を撃ってきた。
岡田少尉は驚いたが、こちらも、その位のことはあるだろうと、警戒していたので、すぐ応戦した。向こうは二隻だが、後で「操江」も加わり、三艦対三艦の戦いとなった。
海戦の結果、清国の「廣乙」は遁走の途中座礁して爆発し、「操江」は捕獲された。「済遠」は白旗を掲げながら逃げてしまった。
これが豊島沖海戦で、日本側は「吉野」が少しやられ、岡田少尉の乗り組んでいた「浪速」が後甲板に弾丸を受けたが被害はほとんどなかった。日本側の死傷者はなかった。
この海戦の最中、英国旗を掲げた輸送船「高陞号(こうしょうごう)」がやって来た。よく見ると、清国兵が多数乗っているようだった。
岡田少尉がどうすべきかと、思っていると、東郷艦長は「高陞号(こうしょうごう)」に対して空砲二発を撃たせ、手旗信号で停止、投錨を命じた。その後すぐに臨検士官を送って英国人船長に面会させ、船内を臨検した。
その結果、清国兵一一〇〇名と大砲一四門、その他武器弾薬を輸送中であることが判明した。東郷艦長は捕獲することを決定し、「浪速」のあとについてくるよう命令した。
ところが、乗っている清国兵が英国人船長や乗組員を脅して命令をきかなかった。船上では、清国兵が銃や刀槍を持って走り回り、不穏な動きが見られた。