陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

322.岡田啓介海軍大将(2) 「済遠」は白旗を掲げながら逃げてしまった

2012年05月25日 | 岡田啓介海軍大将
 岡田少尉は楽長に対して、「出ろというなら出るが、俺には技術上の指導など出来ないし、第一さっぱり音楽なんて面白くない」と言った。

 すると楽長は「技術上のことは私がやりますが、あなたが聞いて面白くないのは、音楽がわからないからです。私がわかるようにしてあげましょう」と答えた。

 それから毎日のように、楽長は岡田少尉の部屋にやって来て、「これがピッコロ、これがドラム」と楽器の説明に始まり、今日はこういう曲をやります、これはだれが作曲したもので、この音にはこういう意味がある、などと面白く話をした。

 岡田少尉は訓練にも引っ張り出されて、演奏を聴かされる。そうやって聴いているうちに、まんざら面白くないこともないようになった。

 その楽長は、ドイツへも留学して修業した人で、名前は思い出せないが、その熱心さには感心した。後に首相になったとき、食事の席上、岡田首相が演奏を聴きながら音楽の話をしたら、周囲のものが驚いていた。

 軍楽隊の分隊長は三ヶ月ほどで、次は巡洋艦「浪速」(三七〇九トン)の分隊長心得になった。明治二十七年七月の日清戦争開戦の一ヶ月前だった。

 分隊長は少佐か大尉がなるのだが、当時は中尉という階級がなくて、少尉からすぐに大尉になった。だが、その代わりに少尉を四年ばかりやらされた。分隊長心得というのは少尉のままだからだった。

 「浪速」では岡田少尉は前部十五サンチ副砲の指揮官だった。艦長は東郷平八郎大佐(鹿児島・英国商船学校・連合艦隊司令長官・大将・軍令部長・元帥・大勲位菊花章頸飾・侯爵)だった。

 東郷艦長は穏やかな人で、小言を言ったことがなく、乗員はみな非常に尊敬していた。とても勉強家で、国際法をよく研究していた。

 当時朝鮮問題で清政府が朝鮮に軍事介入を通告し、大島圭介公使の身辺も危険になったので、陸戦隊が上陸して警備することになった。

 清国は日本が撤兵しなければ、日本と戦争を始めると朝鮮政府に通告した。そこで日本も腹を決めて、混成旅団を送ることになった。

 「浪速」は陸軍を護衛して仁川に行くことになった。当時「浪速」は常備艦隊の第一遊撃隊で、常備艦隊の司令長官は伊東祐亨中将だった。

 明治二十七年七月二十四日、常備艦隊第一遊撃隊の防護巡洋艦「吉野」、防護巡洋艦「秋津島」、防護巡洋艦「浪速」の三隻は佐世保を出港、翌日二十五日、朝鮮の西側で清国の軍艦「済遠」と「廣乙」に出会った。

 軍艦はすれ違えば必ず敬礼するし、将旗を掲げている艦に対しては、大将、中将など階級に応じた数の礼砲を発射する習慣になっていた。

 第一遊撃隊の旗艦、「吉野」には、司令官・坪井航三少将が座上していた。まだ清国と日本は表面上は平常状態なので、当然向こうから礼砲を撃たねばならないのに、それをしないばかりか、いきなり実弾を撃ってきた。

 岡田少尉は驚いたが、こちらも、その位のことはあるだろうと、警戒していたので、すぐ応戦した。向こうは二隻だが、後で「操江」も加わり、三艦対三艦の戦いとなった。

 海戦の結果、清国の「廣乙」は遁走の途中座礁して爆発し、「操江」は捕獲された。「済遠」は白旗を掲げながら逃げてしまった。

 これが豊島沖海戦で、日本側は「吉野」が少しやられ、岡田少尉の乗り組んでいた「浪速」が後甲板に弾丸を受けたが被害はほとんどなかった。日本側の死傷者はなかった。

 この海戦の最中、英国旗を掲げた輸送船「高陞号(こうしょうごう)」がやって来た。よく見ると、清国兵が多数乗っているようだった。

 岡田少尉がどうすべきかと、思っていると、東郷艦長は「高陞号(こうしょうごう)」に対して空砲二発を撃たせ、手旗信号で停止、投錨を命じた。その後すぐに臨検士官を送って英国人船長に面会させ、船内を臨検した。

 その結果、清国兵一一〇〇名と大砲一四門、その他武器弾薬を輸送中であることが判明した。東郷艦長は捕獲することを決定し、「浪速」のあとについてくるよう命令した。

 ところが、乗っている清国兵が英国人船長や乗組員を脅して命令をきかなかった。船上では、清国兵が銃や刀槍を持って走り回り、不穏な動きが見られた。

321.岡田啓介海軍大将(1)岡田少尉が「生意気言うな」と怒って殴るかも知れない

2012年05月18日 | 岡田啓介海軍大将
 明治二十七年、岡田啓介少尉は、横須賀海兵団の分隊長心得として勤務していた。「岡田啓介回顧録」(岡田啓介・毎日新聞社)によると、当時、若い士官は誰でも威勢のよい艦隊勤務を望み、海兵団などへ行くのをありがたがらなかった。

 そんなとき、岡田少尉の配置は、海兵団で、しかも、軍楽隊の分隊長心得だった。音楽は、岡田少尉の柄に合わなかった。岡田少尉は音痴だったし、どう考えても面白くなかった。

 軍楽隊の訓練は、プカプカ、ドンドンやることなんだから、岡田少尉は「自分が分隊長であってもかかわりのないことだ。私が直接教育することといったら敬礼とか、海軍の当たり前のしつけ位のものだ」と思って、毎日私室のベッドにひっくり返って寝てばかりいた。

 するとある日、楽長が岡田少尉のところにやって来て、「あなたは、隊員の訓練のときも、ちっとも出てこないが、それではみんなの励みになりません。分隊長はぜひ毎日出てきて下さい」と言った。

 楽長というのは、分隊士で、上官に向かって、そういうことは言いにくいものだ。岡田少尉が「生意気言うな」と怒って殴るかも知れない。それを承知で、進言しに来たのだ。

<岡田啓介(おかだ・けいすけ)海軍大将プロフィル>
慶応四年一月二十一日(新暦二月十四日)福井県福井市手寄上町生まれ。父・岡田喜藤太(福井藩士)と母・波留(はる)の長男。
明治七年(六歳)五月藩校から旭小学校に転入学。
明治十三年(十二歳)五月名新中学校入学。
明治十七年(十六歳)九月旧制福井中学校(旧名新中学校)第一回生として卒業。
明治十八年(十七歳)一月上京、神田共立学校、有斐学校などの受験予備校に入る。十一月二十一日海軍兵学校合格。十二月一日海軍兵学校入校。
明治二十二年(二十一歳)四月二十日海軍兵学校卒業(一五期)。卒業成績は、財部彪が首席、竹下勇が三番、小栗孝三郎が五番、岡田啓介が七番だった。この四人が後に海軍大将になった。
明治二十三年(二十二歳)七月海軍少尉。「浪速」分隊士。
明治二十六年(二十五歳)十二月海軍大学校丙号学生課程卒業(恩賜)。
明治二十七年(二十六歳)「厳島」乗組。三月横須賀海兵団分隊長。六月「浪速」分隊長。七月日清戦争従軍。十二月海軍大尉、「高千穂」分隊長。
明治三十年(二十九歳)四月練習艦「比叡」分隊長として、米国、ハワイ等へ遠洋航海。
明治三十一年(三十歳)十二月海軍大学校水雷術専科教程卒業(恩賜)。
明治三十二年(三十一歳)三月海軍大学校甲種学生。九月海軍少佐。
明治三十四年(三十三歳)五月二十四日海軍大学校甲種教程(二期)卒業。五月二十五日川住英(かわすみ・ふさ)と結婚。六月海軍軍令部第三局員兼海軍大学校教官。
明治三十七年(三十六歳)「八重山」副長、七月海軍中佐。
明治三十八年(三十七歳)四月「春日」副長。十月「朝日」副長。
明治四十一年(四十歳)九月海軍大佐、海軍水雷学校長。
明治四十三年(四十二歳)七月「春日」艦長。十二月二十日妻・英(ふさ)死去(三十一歳)。
明治四十四年(四十三歳)一月海軍省人事局員。二月父・喜藤太死去(八十一歳)。
明治四十五年(四十四歳)三月迫水郁(さこみず・いく)と結婚。十二月「鹿島」艦長。
大正二年(四十五歳)十二月海軍少将、佐世保海軍工廠造兵部長。
大正三年(四十六歳)八月第二艦隊司令官。十二月第二水雷戦隊司令官。
大正四年(四十七歳)功三級金鵄勲章。十二月海軍省人事局長。
大正六年(四十九歳)十二月一日海軍中将、佐世保海軍工廠長。
大正七年(五十歳)十月海軍省艦政局長。
大正九年(五十二歳)十月海軍艦政本部長。十一月勲一等旭日大綬章(大正四年・九年戦役)。
大正十一年(五十四歳)一月海軍次官代理。
大正十二年(五十五歳)五月海軍次官。
大正十三年(五十六歳)六月海軍大将、軍事参議官。十二月第一艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官。
昭和元年(五十八歳)十二月横須賀鎮守府司令長官。
昭和二年(五十九歳)四月二十日海軍大臣。
昭和三年(六十歳)十一月妻・郁死去(四十七歳)。
昭和四年(六十一歳)七月軍事参議官。十二月議定官。
昭和七年(六十四歳)五月二十六日海軍大臣。
昭和八年(六十五歳)一月勲一等旭日桐花大綬章。後備役。
昭和九年(六十六歳)七月八日内閣総理大臣兼拓務大臣。
昭和十一年(六十八歳)二月二十六日「二・二六事件」岡田首相の秘書官、妹婿・松尾伝蔵大佐が身代わりに射殺される。三月依願免本官、謹慎生活に入る。
昭和十二年(六十九歳)四月特に前官礼遇を賜う。
昭和十三年(七十歳)一月二十一日退役。
昭和十九年(七十六歳)東條内閣倒閣運動を起こす。
昭和二十年(七十七歳)終戦内閣首相に鈴木貫太郎大将を推挙。八月終戦。
昭和二十一年(七十八歳)極東軍事裁判に証人として出廷。
昭和二十二年(七十九歳)一月心臓発作。高齢につき特に宮中杖を差許さる。
昭和二十五年(八十二歳)「岡田啓介回顧録」(談話筆録)出版。
昭和二十七年(八十四歳)十月十七日肺炎のため死去。十九日築地本願寺で葬儀。葬儀委員長・吉田茂。多摩墓地に眠る。

320.本間雅晴陸軍中将(20)この代償をマッカーサーは、本間雅晴中将に払わせることにした

2012年05月11日 | 本間雅晴陸軍中将
 昭和十九年十二月下旬、日本の大本営はレイテの放棄を決定した。太平洋戦争の「天王山」と位置づけられたレイテ決戦は失敗に終わった。第一四方面軍司令官・山下奉文大将は持久戦に入った。

 昭和二十年二月末、マッカーサー元帥(昭和十九年十二月元帥に昇進)は、コレヒドール要塞奪回作戦を行った。陸海両面作戦で、パラシュート部隊を降下させ猛烈な攻撃を加えた。日本兵六〇〇〇人は、ほとんど捕虜も出さず、全滅した。

 三月二日、マッカーサー元帥は脱出した時と同じく四隻の魚雷艇に幕僚たちを乗せ、脱出時と同じルートを逆行し、コレヒドール島に向かった。

 マッカーサー元帥は始終上機嫌だった。要塞を奪回した部隊の指揮官が「将軍、コレヒドールを献上いたします」と言った。

 マッカーサー元帥は彼に殊勲十字章を授け、国旗掲揚台が残されているのを見ると、星条旗を掲げるよう命じた。

 日本の国策映画「東洋の凱歌」には、コレヒドール陥落直後、掲揚台から星条旗がひきずり降ろされ、日本兵がその旗を足であしらっているシーンがあったが、マッカーサー元帥はその雪辱を果たした。

 昭和二十年八月十五日、終戦。その日、マッカーサー元帥は日本政府に対して、軍師をフィリピンのマニラに派遣し、降伏調印の手続きについて指示を受けるよう伝えた。

 その際、マッカーサー元帥は「バターン」という合言葉を使えと命じた。日本政府側は「JPN」という文字を使いたいといったが、彼は絶対に「バターン」でなければならないと繰り返した。

 マッカーサー元帥にとって「バターン」は唯一の負け戦の名であった。同時に雪辱を果たした栄誉の名でもあった。

 マッカーサー元帥はマニラにやってきた日本の使節団に会わず、対応をサザランド参謀長に一任した。これ以降、彼は日本人の前に軽々しく姿を見せぬことで、威厳を保とうとした。

 昭和二十年八月三十日、マッカーサー元帥は愛機「バターン」号で日本に飛び、厚木基地に降り立った。日本の記者団への第一声は「メルボルンから東京まで思えば長かった」だった。

 九月二日、戦艦ミズーリー号で降伏調印式が行われた。マッカーサー元帥は、この場に、シンガポールで山下奉文中将に降伏したイギリスのパーシバル将軍と、コレヒドール脱出の際、後事を託したウェインライト将軍を連れてきた。

 マッカーサー元帥は調印に当たって、四本の万年筆を使った。一本をトルーマン大統領に、一本はパーシバル将軍に、一本はウェインライト将軍に与えるため、そして一本は自身の記念のためだった。

 「我々は不信と悪意、憎悪の精神をもって集まったのではない」という降伏調印式での演説とは裏腹に、マッカーサー元帥の執拗な復讐は実行されようとしていた。それはフィリピン決戦での、本間雅晴中将と、山下奉文大将に向けられた。

 山下大将は九月三日、ルソン島北部のバギオで降伏調印式に臨んだ。フィリピンの戦いはマッカーサー元帥の勝利に終わった。

 別冊歴史読本「秘史・太平洋戦争の指揮官たち」(新人物王来社)所収「悲劇の文人将軍・陸軍中将・本間雅晴」(村尾国士)によると、「バターン・デス・マーチ(死の行進)」は、「リメンバー・パールハーバー」と並んで、兵士の士気を鼓舞するためのアメリカ軍の二大キャッチフレーズだった。

 世界に宣伝された「死の行進」は、勝者マッカーサーにとって、ぜひとも自分と戦った敵将の血で償わせる必要があった。それが山下奉文であり、本間雅晴であった。

 さらに、マッカーサーにとっては、本間雅晴中将の指揮する第一四軍に追い上げられたフィリピン戦、バターン半島での敗戦とオーストラリアへの逃亡劇は、若かりし頃からの輝かしい軍歴の中で、最大の忌まわしい汚点だった。それが、マッカーサーの胸の中にわだかまりの影を落としていた。

 この代償をマッカーサーは、本間雅晴中将に払わせることにした。マニラでの軍事裁判で、いかに本間中将の弁護が正当なものであっても、本間中将の妻、富士子夫人が裁判で「娘も夫のような人に嫁がせたいと思っています」と陳述しても、すべて無視された。

 後日、三月十一日、富士子夫人はマッカーサー元帥に面会し「あなたが最後の判決をされるそうですが、裁判記録をよく読んで慎重にしていただきたい」と言った。

 すると、マッカーサー元帥は「私の任務について、あなたがご心配される必要はありません」と返答している。マッカーサー元帥の裁判に対する決意は揺るがなかった。

 昭和二十一年四月三日、山下奉文が絞首刑により処刑された同じ場所、フィリピン島ロスバニヨスで本間雅晴中将の銃殺刑が執行された。

 マッカーサーは、その回想記に「これほど公正に行われた裁判はなく、これほど被告に完全な弁護の機会が与えられた例はこれまでになく、またこれほど偏見をともなわない審議が行われた例もない」と記している。

 これは実際の裁判の進行状況から表面的には真実と言える。だが、現地から遠く離れたマッカーサーの心の奥底にある復讐心、それが消えることはなかった。これも真実である。

(「本間雅晴陸軍中将」は今回で終わりです。次回からは「岡田啓介海軍大将」が始まります)

319.本間雅晴陸軍中将(19)本間中将は終戦まで第一線に復帰することはなかった

2012年05月04日 | 本間雅晴陸軍中将
 さらに、藤田相吉大尉は次の様に述べている。

 「しかしそれは裁判の誤りである。米比軍がこの捕虜の移動を“死の行軍”というならば、戦勝国たる日本軍の移動は“超死の行軍”だ」

 「いったい米比軍は持てる弾を撃ちつくし、持てる食糧を食い尽くすまでは頑強に抵抗し、これが尽きれば平然として手を上げる。降伏すれば、その時から日本軍はわれわれを給養する義務があるとうそぶく」

 「虫のよい考えである。国際条約があったにしても、日本軍はかくも多数の捕虜がジャングルの中から出るとは予想もしていない。したがって、糧食や医療の材料も輸送の機関も収容所の準備もない。なぜ糧食の余裕のあるうちに降伏しないのか、と言いたい」

 「コレヒドールの敵はまだ降伏していないではないか。しかも現に捕虜と並列して進む日本軍の姿を見よ。重い装具をつけて、あえぎながら進んでいるではないか。貴様らにさんざん撃たれ、肉体的にも精神的にも言語に絶する苦難に耐えた日本軍だ。できれば背負える背嚢も貴様らに負わせてやりたいぐらいだ」

 「貴様らを軽装で行軍させるのが、むしろ慈悲だと思え、と言いたい。勝った軍が、負けた軍以上の苦しみを味わねばならん理由はないのだ」。

 昭和十七年五月六日、コレヒドールがついに陥落した。「ふみにじられた南の島」(NHK取材班・角川書店)によると、その翌日、ウェインライト中将は、極東アメリカ陸軍全軍に対し、降伏するようラジオで放送した。

 この放送を聴いた、ビザヤ地区とミンダナオ地区の司令官だったシャープ少将は、マッカーサー大将の指示を仰いだ。

 オーストラリアのメルボルンにいたマッカーサー大将は次のように返電した。

 「ウェインライトの命令は無効である。可能ならば、貴官の兵力を小兵力に分割して、ゲリラ作戦を展開せよ。……貴官は緊急事態に際して自己裁量権を有する」。

 シャープ少将はマッカーサー大将の指示に基づき、武器を持って故郷に帰り、抵抗を続けるように部下に命令した。

 アメリカ政府が、マッカーサー大将の極東アメリカ陸軍に対する指揮権を停止した後、ようやくウェインライト中将の降伏命令を伝えたが、すでに解散した軍隊には行き渡らなかった。

 日本軍はバターン攻略にかかりっきりで、ビザヤ・ミンダナオ地区はほとんど手付かずの状態だった。指揮の混乱の中、帰郷した武装将兵たちは、同地区における抗日ゲリラ勢力の核となり、やがて日本軍を苦しめることになる。

 昭和十七年八月三十一日、本間雅晴中将は、バターン攻撃の際、その指揮が消極的で、大本営や南方軍の意図に添わなかったとしてとがめられ、第一四軍司令官を解任され、予備役編入となった。

 その後本間中将は終戦まで第一線に復帰することはなかった。

 本間中将の後の第一四軍司令官は、昭和十七年八月一日から田中静壱中将(陸士一九・陸大二八恩賜・大将・第一二方面軍司令官兼東部軍管区司令官)、昭和十八年五月十九日から黒田重徳中将(陸士二一・陸大二八・第一四方面軍司令官)が就任した。

 第一四方面軍司令官としては、昭和十九年九月二十六日に、山下奉文大将(陸士一八・陸大二八恩賜)が就任し、終戦まで指揮官だった。

 昭和十九年十月二十日、レイテ島にアメリカ軍は上陸した。マッカーサー大将はアメリカ軍の第一陣が上陸した四時間後に上陸した。

 上陸した最初の日、マッカーサー大将は上機嫌で、砲手たちに「日本軍の具合はどうだ」と聞き、殺されたばかりの日本兵の死体を見かけると、濡れた足先でひっくり返して記章を調べた。そして満足気に「第一六師団だ。バターンでひどいことをやったのはこいつらだ」と言った。

 それから移動放送局のマイクに向かってラジオ用に演説した。その肉声のテープが、マッカーサー記念館に残されていた。それは、本間中将の第一四軍により、敗退させられたマッカーサーの報復の絶叫で、次の様のものだった。

 「フィリピンの皆さん。私は帰ってきた。全能の神の恵みにより、我らの部隊はフィリピンの国土に立っている。米比両国民の血によって贖われた国土である」

 「私のもとに結集せよ。バターンとコレヒドールの不屈の精神で進もうではないか。戦闘地域に入ったら立ち上がって撃て! 機会を逃さず、立ち上がって撃て! 皆の家族のために撃て! 息子や娘のために撃て! 戦死者のために撃て!」

 「アイ・ハブ・リターンド」(私は帰ってきた)。あの「アイ・シャール・リターン」の約束から、二年七ヶ月ぶりのフィリピンだった。