陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

405.板倉光馬海軍少佐(5)二人は殴られ、マスト登りで掌が破れ、鮮血がしたたった

2013年12月26日 | 板倉光馬海軍少佐
 アレクサンドリアに入港したのは、五月二十七日だが、その前夜、板倉候補生は、航海中にとんでもないハプニングを演じてしまった。

 天測を終わった奥山候補生と二人で、つれづれなるままに、ありし日の日本海海戦を偲んでいるうちに、どちらからともなく、「祝杯をあげようじゃないか」ということになった。

 肝胆あい照らす刎頚の友は、是非善悪を問わずに意気投合するものである。さっそく、格別の場所を物色した。

 なにしろ前科数犯、厳しい監視下に置かれている身である。人目を避けなければならなかった。そして着目したのが、前艦橋直下のシェルターデッキである。灯台もと暗し、これほど安全な場所はなかった。

 地中海は鏡のように静かで、中天の月を映していた。時折、頭上で操舵号令が聞こえ、先行する「浅間」の艦尾灯を測る副距手の声が伝声管を流れた。

 マルセイユで仕入れたワインに舌鼓を打ちながら、往時を回想しているうちに、ボトルが空になった。ここで幕にすればよかったのだが、追想は尽きない。いや、ワインに未練が残った。

 またぞろ、人目を避けてワインを運んだのが運のつき、天網は恢々、粗にして漏らさなかった。口当たりのよいワインに気を許しているうちに、二人は睡魔のとりこになってしまった。

 早朝、甲板洗いの海水で目が覚めた。しまった!臍を噛んだが、すでに遅かった。指導官付の憤怒に燃える目が、デッキに転がっている空き瓶を睨みつけていた。

 二人は殴られ、マスト登りで掌が破れ、鮮血がしたたったくらいで許される問題ではなかった。「内地帰投まで上陸止めだッ!」。いわば閉門蟄居である。いずれ、切腹のご沙汰が下るだろうと思った。

 身から出た錆とはいえ、板倉候補生はアレキサンドリアだけは上陸したかった。紀元前の文化が現存するカイロ博物館、永遠の謎を秘めたスフィンクスやピラミッドの夢がうたかたのごとく消え去ったのである。

 ところが、思いがけないことに、副長の草鹿龍之介(くさか・りゅうのすけ)中佐(東京・海兵四一・海大二四・空母「風翔」艦長・軍令部第一課長・空母「赤城」艦長・少将・第三艦隊参謀長・横須賀空司令・連合艦隊参謀長・中将・第五航空艦隊司令長官)のとりなしで、不問に付せられることになった。

 さらに、「磐手」が旗艦でなかったことが幸いした。旗艦だったら、たとえ副長、いや艦長が嘆願しても、二人の首は吹っ飛んでいた。

 練習艦隊司令官・松下元(まつした・はじめ)中将(福岡・海兵三一・海大一二・人事局第一課長・戦艦「金剛」艦長・少将・人事局長・第三潜水戦隊司令官・海軍兵学校長・中将・練習艦隊司令官・舞鶴要塞部司令官・第四艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官)は峻厳そのものだった。

 「磐手」に将旗を移したのは、アレキサンドリア入港の直後だった。副長の草鹿中佐は北辰一刀流の達人で、千年、ドイツの硬式飛行船「ツエェペリン号」で太平洋を飛翔して一躍有名になり、候補生のアイドルだった。

 だが、板倉候補生ら二人が助命され、首がつながったのは次のことに関係していた。

 板倉候補生が、甲板候補生をしていた時、航海中に防火訓練が行われた。いざ放水という時になって、消火栓を開いたが海水が出なかった。

 「浅間」では、海面に向かって数条の抛物線を描いているというのに、「磐手」の消防隊員は右往左往するばかりで、原因が分からなかった。

 入港後、原因を調査するということで、訓練は中止されたが、ふだん、大きな顔をしていた甲板士官は、青菜に塩さながらで、悄然としていた。

 板倉候補生は、原因の調査が打ち切られた後も、丹念に海水管系統をたどり、二重底までもぐりこんだ。

 幸い、三番炭庫が空だったから、は入れたが、悪ガスの危険があるので見過ごしたのだろう。そして、海水管の弁を開閉する連動桿継手のピンが腐食して、空回りしているのを板倉候補生はつきとめた。

 草鹿中佐は、手あき総員を後甲板に集めて、次のように訓示して、板倉候補生を褒めた。

 「本日は、防火訓練のとき、放水できなかった。訓練だったから事なきを得たが、実際に火災が発生していたら重大な結果を招いていたと思われる」

 「しかも、その原因を、乗艦して日の浅い板倉候補生が、二重底にもぐってつきとめた。もって範とすべきである」

 「本艦は、老朽艦であるが、重大な使命を帯びて行動している。こと保安に関しては、各部の点検を厳にして、万が一にも、任務に支障をきたさないよう整備してもらいたい」。

404.板倉光馬海軍少佐(4)始末書の書き方は板倉候補生に聞け

2013年12月18日 | 板倉光馬海軍少佐
 板倉候補生の席は候補生室の入口に一番近く、扉を背にしていたため、上衣を着ける暇がなかった。ガンルーム(士官次室・帆船時代、中・少尉の部屋に武器を格納したことに由来)に連行され、さんざん油を絞られたあげく、始末書を書かされる羽目になった。

 板倉候補生は遠洋航海中に始末書を八枚も書き、あまつさえ「始末書の書き方は板倉候補生に聞け」とまで言われて、勇名?をはせたのであるが、その創刊号が夜食のうどんだった。

 約二週間かかってインド洋を横断し、アラビア半島の南端、紅海の入口をやくするアデンに入港した。イギリス海軍の補給基地だった。

 四月四日スエズ運河に入った。四月十八日芸術の街、ギリシアのアテネ着。四月二十三日イタリアのナポリ入港。翌日ローマ見学。

 豊富な大理石を駆使した彫刻と、いたるところにある噴水は目を楽しませてくれた。だが、一歩裏通りに足を入れると、「シガレ、シガレ……」と煙草をせがむ浮浪児や乞食のむれに、板倉候補生は目をそむけたくなった。

 海軍兵学校のあるリボルノを経て、マルセイユに入港したのは五月一日だった。マルセイユでは、司令官の公式訪問や交歓行事が多く、十日あまり在泊したが、候補生のパリ見学はわずか二日間に過ぎなかった。

 車中で一夜を明かし、板倉候補生らがモンパルナスの駅に着いたのは午後七時過ぎだった。駅の食堂で軽い朝食をとり、最初に観光バスを停めたのはルーブル美術館だった。

 五月の明るい日差しがさんさんと降り注ぎ、マロニエの甘酸っぱい香りが鼻孔をくすぐった。蔦がまとわりついた古色蒼然たる建物の中に、古今東西の名画や彫刻が展示されているかと思うと、板倉候補生は早くも胸の高まりを覚えた。

 しかし、見学時間はわずかな時間だった。このあと、エッフェル塔、ヴェルサイユ宮殿と、分刻みのスケジュールが組まれていた。板倉候補生は、このときほど、司令部職員の石頭ぶりがうらめしく思われたことはなかった。

 その矢先に、思いがけない救世主が現れた。クラスメートの奥山正一(後に海軍パイロット、殉職)だった。板倉候補生はミレーの「晩鐘」の複写は何回も見たが、実物を鑑賞するのは初めてだった。

 ミレーは敬虔なカトリック信者であり、農民の出身だけに、現実が生気を失わぬまま抽象に転換する筆致には、ひきずりこまれるような迫力があった。

 板倉候補生は画面に釘づけされたまま立ち去りかねていたとき、次に予定されているエッフェル塔に向かうべく、集合の合図が伝えられた。

 その時、奥山が、「パリの屋根を見てもつまらん」と言って、板倉候補生を便所に連れ込み、候補生のバスを見送った。それから、閉館を告げる鐘の音がセーヌ河畔にこだまするまで、二度と見ることがないであろう名画や彫刻を、二人は心ゆくまで鑑賞した。

 さて、それから、見学のあとは、大使の招宴が予定されていたが、パリの夜は、未知の世界を求める旅人の心をあおる、妖しい魅惑に満ちていた。

 ゆきがかりとはいえ、「パリに遊ぶものはムーランルージュへ……」のキャッチフレーズにひかれた。板倉候補生と奥山候補生は、シャンゼリゼ通りのキャッフェで腹ごしらえをしてから、ボーイに、ムーランルージュへの道順をたずねたところ、両手を広げ、肩をすくめて立ち去った。

 フランスでは英語が通じないことにもよるが、チップをやらなかったからだった。あとで、気が付いたが、駅員やお巡りさんまでがチップを出さないとそっぽを向くには驚いた。

 なにはともあれ、通行手形を払いながら、目的地にたどり着いたのは夜も更けてからだった。ムーランルージュがどんなところか、おおよその見当はつけていたが、一歩踏み込んだ瞬間、二人はあっと驚いた。

 まるで、女護島に漂着したロビンソン・クルーソーの現代版だった。むらがる美女は一糸もまとっていなかった。さらに、彼女たちが演ずる秘戯は浅草の花電車など足元にも及ばなかった。

 宿舎のドーニャホテルに二人が帰着したのは、門限をとっくに過ぎていた。ホテルでときならぬ騒動がもちあがっているとはつゆしらず……。

 「直ちにパリ警察に捜索願を出すべきだ……」「とんでもない。それこそ帝国海軍の恥辱である……」けんけんがくがくの議論が沸騰しているさなかに帰ったから、目も当てられなかった。

 二人は木っ端微塵にぶん殴られた挙句、始末書を書かされた。

403.板倉光馬海軍少佐(3)では伺いますが、試験官は西郷隆盛を軽蔑されますか?

2013年12月12日 | 板倉光馬海軍少佐
 午前のメンタルテストは、変てこな問題ばかりで、板倉はてんで歯が立たなかった。さらに、午後の口頭試問で馬脚をあらわした。

 「尊敬する人物は……」ときかれ、まごついた。読書に縁がなかったこともあって、とっさに口をついて出てこなかった。尊敬する人物なんて考えてもいなかったので、苦し紛れに「西郷隆盛」と口走った。

 ところが、「西郷は、維新の大業をなした功労者であるが、私情にかられて西南の役を起こし、賊名をきせられた。そのような人物を尊敬するか?」と試験官に言われた。

 返す言葉がなかったので、板倉はえェままよ、とばかり、逆に食ってかかった。「では伺いますが、試験官は西郷隆盛を軽蔑されますか?」。

 苦笑した試験官は、矛先をかわすように、「兵学校を志望した動機はなにか?」と質問した。メンタルテストで失敗し、さらに口頭試問でとちった以上、もはやこれまでと、板倉は観念し、関門海峡を通過する連合艦隊の躍動する美しさに魅せられたことから、宮崎の高等農林を勧められたいきさつまで、洗いざらい打ち明けてしまった。

 板倉はその日のうちに福岡を立ったが、帰る足取りは鉛のように重かった。二度と博多の土を踏むことはあるまいと思い、安国寺の碧海老師に礼を述べたが、「いい薬になったようじゃのおー。来年またおいで」と言って、大きな握り飯の包みを渡されたときは、無性に涙が溢れてきた。

 それから一ヶ月後、一通の電報を受け取った。「カイグンヘイガッコウセイトニサイヨウヨテイ イインチョウ」。板倉は夢ではないかと狂喜した。

 そして、このときほど嬉しそうに、「よかった! よかったねぇ……」と、涙を流して喜んでくれた母の顔を、いまだかって見たことがなかった。

 昭和五年四月一日、第六十一期生として板倉光馬は江田島の海軍兵学校に入校した。暖冬の年で、校庭の桜花は爛漫と咲き誇っていた。

 入校時の校長は、部内の声望を一身に集めた永野修身(ながの・おさみ)中将(高知・海兵二八次席・海大八・米国ハーバード大学留学・大佐・人事局第一課長・巡洋艦「平戸」艦長・在米国大使館附武官・少将・第一遣外艦隊司令官・練習艦隊司令官・中将・海軍兵学校長・軍令部次長・ジュネーヴ会議全権・横須賀鎮守府司令長官・大将・ロンドン会議全権・海軍大臣・連合艦隊司令長官・軍令部総長・元帥・戦犯・獄中で死去・正三位・勲一等・功五級)だった。

 永野校長は、自啓自発をモットーとするダルトン・プランを唱道し、さらに教育学、心理学、論理学、哲学から美学まで取り入れた。それで、在校期間が八ヶ月延長されて、海軍兵学校は四学年制になった。

 兵学校の鉄拳制裁の是非について、問題がなかったわけではない。度が過ぎると弊害を伴うことも事実だった。

 鈴木貫太郎(すずき・かんたろう)中将(大阪・海兵一四・海大一・大佐・海軍水雷学校長・少将・第二艦隊司令官・人事局長・海軍次官・中将・練習艦隊司令官・海軍兵学校長・第二艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・大将・連合艦隊司令長官・海軍軍令部長・予備役・侍従長・枢密顧問官・2.26事件で重症・枢密院議長・首相・枢密院議長・従一位・勲一等・功三級・男爵)が校長のとき、鉄拳制裁を厳禁した。

 だが、いつしか復活して、板倉光馬が生徒のときが鉄拳制裁の最盛期だった。なにごとによらず要領が悪く動作が鈍かった板倉はよく殴られた。

 昭和八年十一月十八日板倉光馬は、奇しくも二十二歳の誕生日に、海軍兵学校(六一期)を卒業し、少尉候補生に任命された。

 昭和九年二月十五日、横須賀港を、練習艦「浅間」「磐手」(一等巡洋艦)に分乗し遠洋航海に出発した。板倉候補生は「磐手」に乗組んだ。

 シンガポールを出港し、マラッカ海峡を抜けてインド洋に入ると、すでにモンスーンの季節で、偏西風が赤道直下の高温多湿を運び、ウネリが高く動揺が激しいので、舷窓を閉じた候補生室は蒸し風呂のように暑苦しかった。

 しかもその日の夜食が熱いうどんだった。内地を発つ前に厳しく躾けられたテーブルマナーなどかまっていられなかった。

 上衣や下着を脱ぎ、上半身は裸のままうどんをすすっていた最中に、急にざわつき始めた。おやっと思った直後、「裸で夜食をとるとは何事だ!」。頭上から指導官の怒声が降ってきた。

402.板倉光馬海軍少佐(2)君の成績では、宮崎の高等農林が分相応というものだ

2013年12月05日 | 板倉光馬海軍少佐
 その翌年、学年の担当である杉田宇内先生宅を訪ねて、板倉が相談したところ、「なに海軍兵学校? 君が海兵を志望するなんて……まさか、本気ではないだろうねェ」と言った。

 板倉が「本気です」と答えると、「本気だと!」と唖然としながらも、憐れむように「君の成績では、宮崎の高等農林が分相応というものだ。高望みもほどほどにしたまえ」と言った。

 杉田先生は図画の主任で、板倉の絵の素質を知っていて、以前は上野の美術学校の受験を勧めてくれたことがあったが、父の反対で駄目になったことがあった。

 だが、杉田先生は、今回は板倉の熱意に押されて、しぶしぶながらも、海軍兵学校受験の手続きを引き受けてくれた。

 それからというものは、板倉は死に物狂いで勉強した。海軍兵学校の試験は一月なかばだった。あと五ヶ月足らずだった。父は海兵受験に反対しなかった。

 放課後は閉館するまで図書館に入り浸り、家では食事もそこそこにして、夜を徹することも珍しくなかった。父は筑豊の炭坑に手を出して、ほとんど家に帰らなかったので、家でも勉強ができたのだ。

 相次ぐ事業の不振で、板倉の家は赤貧洗うが如き有様だった。そのため母は針仕事や実家からの仕送りで家計をやりくりしていたが、愚痴一つこぼさなかったばかりか、暗い顔を見せたことがなかった。

 生血が滴るような四ヶ月が過ぎて、苦闘の成果を試みる日が近づいたある夜、例年になく厳しい寒中、密かに水垢離(みずごり=水行)をとる母の姿を垣間見て、板倉は思わず合掌した。

 板倉は子を思う母親の愛情が切ないほどに感じられ、たとえ石に齧(かじ)り付いても試験に合格しなければならないと心に決めた。

 試験の前日、夜半に家を出た。何がしの金を押し付ける母の手をかたくなに拒み、筆記用具と握り飯を抱えて夜道を急いだ。

 小倉から福岡までの六十余キロ、玄界灘から吹き付ける北風が、いやが上にも闘志をかき立てた。宿は寺と決めていた。別に当てはなかったが、博多の材木町は寺が多いと聞いていた。

 懐中無一文だった。最初に目についた山門に「安国寺」と墨書した扁額がかかっていた。庭の白砂は鮮やかに掃き清められ、うっそうと茂る松の喬木が由緒ありげに見受けられた。

 玄関先で案内を乞うと、荒法師のような伴僧から、にべもなく断られた。「頼む」「帰れ」と押し問答をしているところに、眉雪の老僧が現れ、乞われるままに事情を話したところ、しばしの間、鋭い眼光で見つめられえたが、「お泊めしよう」といって、客室をあてがわれた。

 さすがに板倉も、このときばかりは、地獄で仏にあったように嬉しかった。安国寺は九州の末寺を統べる名刹だったのである。

 試験場の福岡師範学校に集まった海軍兵学校の受験者は二百名を越えていた。いずれも秀才らしく、自身ありげだった。

 初日の身体検査で三分の一近くがふるいにかけられた。学科試験も一科目ごとにはねられ、二日目の数学と英語で、大量の失格者が出た。

 今年の試験科目は英語、数学、国漢、歴史に絞られ、暗記ものが省かれた代わりに、作文が加えられた。

 三日目、控え室に貼り出された受験者の氏名は、あらかた赤線が引かれ、不要となった写真がうず高く積まれていた。試験場はまるで閑古鳥が鳴きそうだった。

 板倉は苦手の作文が気がかりであったが、「我国体の清華と吾人の覚悟」という題名を見て、案じたよりも筆が軽かった。

 何とか板倉は最終日まで残ることができたが、午前のメンタルテストで、九仞の功を一簣に欠いてしまった。

 「九仞の功を一簣に欠(虧)く」は、「きゅうじんのこうをいっきにかく」と読み、「高い山を築くのに、最後のもっこ一杯の土を盛らないために、山が完成しない」という意味。長い間の苦労や努力も、最後の僅かな失敗から不成功に終わること。中国の「書経」にあることわざ。

 仞(じん)は中国古代の長さの単位で、九仞は高さが非常に高いこと。一簣(いっき)はもっこに一杯の分量のことで、僅かな量のたとえ。