陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

327.岡田啓介海軍大将(7)海軍省と軍令部、政府は混乱・紛議の坩堝(るつぼ)と化した

2012年06月29日 | 岡田啓介海軍大将
 ロンドン軍縮会議は昭和五年一月二十一日、ロンドンのセントジェームス宮で開催された。会談を重ねた結果、妥協案として、米国と日本の比率は次のような結論となった。

【大 巡】米国一八〇、四〇〇トン・日本一〇八、四〇〇トン(六〇・二パーセント)。
【軽 巡】米国一四三、五〇〇トン・日本一〇〇、四五〇トン(七〇・〇パーセント)。
【駆逐艦】米国一五〇、〇〇〇トン・日本一〇五、五〇〇トン(七〇・三パーセント)。
【潜水艦】米国五二、七〇〇トン・日本五二、七〇〇トン(一〇〇・〇パーセント)。

 この結果、補助艦の保有総トン数の比率は、米国の一〇に対して、日本は六・九五七という結論となった。

 この妥協案に対して、財部全権と海軍随員は不満の意を表して、自分たちは別に、政府に対して反対の意見を具申すると言った。

 だが、若槻主席全権はこの程度の案を持って、会議を妥協せしむべきであると決意し、長文の電報で政府の回訓を求めた。

 この若槻主席全権の請訓が来たのが、昭和五年三月十五日で、この日から東京では、海軍省と軍令部、政府は混乱・紛議の坩堝(るつぼ)と化した。

 この請訓を手交された海軍当局は省部を挙げて緊張の色を見せた。三月十五日、軍令部長室で、臨時省部最高幹部会議が開かれた。

 メンバーは軍令部から、次の二人を含め四人が出席した。

 軍令部長・加藤寛治(かとう・ひろはる)大将(福井・海兵一八首席・海軍大学校校長・大将・連合艦隊司令長官・軍令部長)。

 軍令部次長・末次信正大佐(山口・海兵二七・海大七首席・教育局長・軍令部次長・連合艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・内務大臣)ら四人が出席した。

 海軍省からは、次の三人を含め五人が出席した。

 海軍次官・山梨勝之進中将(宮城・海兵二五次席・海大五次席・戦艦香取艦長・人事局長・艦政本部長・海軍次官・佐世保鎮守府司令長官・呉鎮守府司令長官・大将・学習院院長・東宮御教育参与・戦後水交会会長・勲一等旭日大綬章)。

 艦政本部長・小林躋造(こばやし・せいぞう)中将(広島・海兵二六恩賜・海大六首席・横須賀鎮守府附軍法会議判事・英国駐在武官・第三戦隊司令官・軍務局長・中将・練習艦隊司令官・艦政本部長・海軍次官・大将・連合艦隊司令長官・台湾総督・勅撰貴族院議員・国務大臣・勲一等旭日大綬章)。

 航空本部長・安東昌喬(あんどう・まさたか)中将(北海道・海兵二八・海大九首席・英国駐在・海軍大学校教官・戦艦霧島艦長・軍令部第二班長・霞ヶ浦海軍航空隊司令・中将・航空本部長)。

 この会議後、三月十六日、加藤寛治軍令部長が、軍事参議官である岡田啓介大将を訪ねてきて、次のように述べた。

 「全権から来た請訓は、潜水艦約六万トンとなっている。これでは不足だ。その不足分を飛行機で補うのだが、艦政本部でも、製艦能力維持上困難があり、また配備上よりするも困難がある」
 
 「最後は請訓のようなところになるやも知れないが、八吋(インチ)巡洋艦および潜水艦だけは譲りがたい。なお一押ししなければならぬ」。

 岡田大将は、これに同意した。

 昭和五年三月十七日、山梨次官が来て、まず、全権の請訓の内容を語り、これに対する軍令部や艦政本部の空気などを話した上、今後の方針について、岡田大将の所見を求めた。

 岡田大将は次のように答えた。

 「やむを得ない場合は、このまま、丸呑みにするより致し方がない。保有量が、この程度ならば国防はやり様がある」

 「会議は決裂させてはならぬ。但しなお一押しもふた押しもすべきである。またこの際海軍大臣の意見は那辺にあるか、電報で問い合わせをする必要がある」。

 三月二十日、再び山梨次官が岡田大将を訪ねてきて、次のように報告した。

 「財部海軍大臣の意向を問い合わせるについては外務大臣に難色がある。どうも加藤軍令部長の硬論と幣原喜重郎外務大臣(大阪・東京帝国大学法科大学・外務省・外務次官・外務大臣・貴族院議員・戦後内閣総理大臣・衆議院議員・衆議院議長・勲一等旭日桐花大綬章・男爵)の意見との間には相当の距離がある」

 「どうか極秘の中に、外務大臣に会って話していただきたい。本日午後一時から大臣官邸に会合されるよう準備しますから」。

326.岡田啓介海軍大将(6)イギリスの比率主義とアメリカの個艦規制主義が対立した

2012年06月22日 | 岡田啓介海軍大将
 昭和四年七月二日、田中内閣は張作霖暗殺事件について、天皇に虚偽の上奏をした責任をとって、総辞職した。

 岡田啓介大将も海軍大臣を辞した。同時に軍事参議官に補された。軍事参議院は、元帥府とともに軍最高の諮問機関だった。

 当時、世界情勢の流れは緊迫していた。ワシントン会議は一応成功を収めたが、その協定は海軍の主力艦(戦艦・空母)に関する制限規定だった。

 だが、補助艦(巡洋艦以下、駆逐艦、潜水艦等)については、協定はなかった。このため、ワシントン会議の後に来たものは、各国の補助艦の建艦競争だった。

 この情勢を憂慮したアメリカ大統領、クーリッジは、ワシントン会議で決定できなかった、艦種を主題とする第二次軍縮会議を招聘した。

 その結果、昭和二年六月二十日からスイスのジュネーブに、日、米、英三国の代表が集まり、いわゆる「ジュネーブ海軍軍縮会議」が始まった。

 だが、残念なことに、この会議は決裂した。イギリスの比率主義とアメリカの個艦規制主義が対立したからだ。両国の主張は最後まで平行線のままで、妥協することなく不成功に終わったのだ。

 その後、アメリカではフーバー大統領が登場し、イギリスは保守政権が退陣し、マクドナルド率いる労働党内閣が登場した。

 昭和四年十月、マクドナルド首相自らアメリカに赴き、米国首脳と会談した結果、昭和五年一月を期し、ロンドン会議を開催することになった。

 日本では昭和四年七月、田中義一内閣が退陣し、濱口雄幸(はまぐち・おさち・高知・東京帝国大学法学部卒・大蔵省・専売局長官・大蔵次官・衆議院議員・大蔵大臣・内務大臣・勲一等旭日桐花大綬章)が内閣を組閣した。

 ロンドン会議の首席全権は、濱口首相が若槻礼次郎(わかつき・れいじろう・島根・東京帝国大学法学部卒首席・大蔵省・主税局長・大蔵次官・大蔵大臣・内務大臣・首相・勲一等旭日桐花大綬章・男爵)を選んだ。

 また、全権には海軍大臣・財部彪大将、松平恒夫駐英大使(福島・東京帝国大学・外務次官・駐米大使・宮内大臣・参議院議長)、永井松三駐白(ベルギー)大使(愛知・東京帝国大学・外務次官・国際連盟日本代表・国際オリンピック委員会委員・貴族院勅撰議員・勲一等旭日大綬章)が選ばれた。

 海軍随員には次の六名が任命された。

 左近司政三中将(さこんじ・せいぞう・山形・海兵二八・海大一〇・英国駐在武官・戦艦長門艦長・軍務局長・練習艦隊司令官・海軍次官・中将・第三艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・北樺太石油社長・商工大臣・勅撰貴族院議員・国務大臣)。

 山本五十六大佐(新潟・海兵三二・海大一四・米国ハーバード大学・米国駐在武官・空母赤城艦長・第一航空戦隊司令官・航空本部長・海軍次官・連合艦隊司令長官・大将・戦死後元帥・勲一等加綬旭日大綬章・大勲位菊花大綬章・功一級金鵄勲章)。

 豊田貞次郎大佐(和歌山・海兵三三首席・海大一七首席・英国オックスフォード大学・英国駐在武官・戦艦山城艦長・軍務局長・佐世保鎮守府司令長官・航空本部長・海軍次官・大将・商工大臣・外務大臣・軍需大臣・貴族院議員・勲一等旭日大綬章)。

 中村亀三郎大佐(高知・海兵三三・海大一五・戦艦長門艦長・教育局長・練習艦隊司令官・軍令部第一部長・中将・海軍大学校長・佐世保鎮守府司令長官・勲一等旭日大綬章)。

 岩村清一大佐(東京・海兵三七・海大一九首席・英国駐在武官補佐官・戦艦扶桑艦長・横須賀鎮守府参謀長・艦政本部総務部長・中将・第二戦隊司令官・第二南遣艦隊司令長官・戦後日本事務能率協会理事長・勲一等旭日大綬章)。

 山口多聞中佐(東京・海兵四〇次席・海大24首席・米国プリンストン大学・米国駐在武官・戦艦伊勢艦長・第一連合航空隊司令官・第二航空戦隊司令官・中将・勲一等旭日大綬章・戦死後功一級金鵄勲章)。

 「岡田啓介」(岡田大将記録編纂会)によると、政府が若槻全権に与えた訓令は、次の「三大原則」だった。

 一、巡洋艦の比率を総トン数において、日本七、米国十の比率とする。二、大型巡洋艦において、右の比率とする。三、潜水艦については米国のトンに拘わらず、日本は七万八千トンを保有する。

325.岡田啓介海軍大将(5)海軍では同期生の大臣、次官というのは例のないことだった

2012年06月15日 | 岡田啓介海軍大将
 大正十一年六月、加藤友三郎大将は多くの信望を得て、内閣を組閣した。海軍大臣を兼務し、海軍次官に岡田啓介中将を選んだ。

 岡田啓介中将(海兵一五・海大二)と加藤寛治中将(海兵一八首席)は、ともに福井県の出身で同郷だった。

 二人は、条約派(軍縮派)と艦隊派(軍拡派)ということでよく比較されていた。岡田中将は清濁併せ呑む性格であったが、加藤寛治中将は潔癖で妥協が嫌いな性分だった。二人に共通するところはともに酒豪だった。

 信条は異なっていたが、二人は、仲が悪いということではなかったと言われている。旧藩主松平侯の祝いの席などで同席したときには、加藤寛治中将は、岡田中将に対して、先輩・後輩の礼を失わず、ともに愉快に飲み交わしていたという。だが、主義はあくまで異なり、「和して同ぜず」の仲だった。

 大正十二年五月、加藤友三郎大将はワシントン会議の後始末が終わったことから、兼任していた海軍大臣に、岡田中将と兵学校同期の財部彪大将を起用した。

 その後八月二十五日、加藤友三郎大将は首相在任のまま、大腸ガンの悪化で青山南町の私邸で死去した。享年六十二歳だった。

 大正十二年五月に岡田中将の兵学校同期の財部彪大将が海軍大臣に任命され、岡田中将はその下の次官であった。

 海軍では同期生の大臣、次官というのは例のないことだった。職務に関しては「貴様」と「おれ」の関係は許されなくなる。

 さらにすでに財部彪大臣は大将に昇進(大正八年)しているのに、次官の岡田啓介はまだ中将だった(大正十三年六月大将昇進)。

 だが、この関係はうまくいった。両雄互いに時をわきまえ、公私を混同しなかった。財部大将の才と岡田中将の度量の大きさを示すものだった。

 大正十三年六月岡田啓介は大将に昇進し、その年の十二月一日、第一艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官に任命された。第十五代の連合艦隊司令長官だった。前任の十四代は鈴木貫太郎大将だった。

 鈴木貫太郎大将と岡田啓介大将は、よく似た運命だった。ともに二・二六事件で青年将校により襲撃され、終戦時は、ともに祖国を滅亡から救うために尽力した。

 なお、岡田大将の後任の、第十六代連合艦隊司令長官は加藤寛治大将だった。「岡田啓介回顧録」(岡田啓介・毎日新聞社)によると、連合艦隊司令長官について、岡田啓介は次のように述べている。

 「東郷元帥は別にして、そのころまでは、連合艦隊司令長官といっても、一般が英雄のように見る傾向はなかった。世間からもてはやされるようになったのは加藤寛治が長官になったり、末次がやったりしたころからだろう。ごく平穏におさまっていた世の中で、どうという思いでもない。思い出のないのが、たいへんいいことで、日本も平和だったよ」。

 ちなみに末次信正中将は昭和八年に二十一代連合艦隊司令長官に任命されている。

 昭和二年四月二十日、岡田啓介大将は、田中義一(山口・陸士八・陸大八・陸軍大臣・陸軍大将・勲一等旭日大綬章・男爵)内閣の海軍大臣に就任した。

 昭和二年五月、中国では中国国民党の蒋介石軍が北京を支配している張作霖を倒すため北伐を開始、内乱状態になった。

 田中義一内閣は在留邦人の保護を名目に、陸軍部隊を青島経由で済南市に派遣した。山東省は三井、三菱など多くの商社が進出していた。

 日本は権益保護ということで出兵した。「居留邦人百二十名虐殺」の虚報があり、翌年昭和三年には。第二次、第三次と出兵が続いた、新聞は誇大ニュースで国民の愛国心や同胞感情をあおった。

 岡田啓介海相は、このような陸軍の派兵について閣議の折、陸軍のやり方について反対意見を述べた。

 だが、田中首相を中心とした陸軍は耳を貸そうともしないで第三次派兵には一万五千名もの軍隊を送った。

324.岡田啓介海軍大将(4)日本はとうてい一等国という生活水準ではないことを知っていた

2012年06月08日 | 岡田啓介海軍大将
 だが、勝者の各国はかつてない総力戦に疲れ、永続的な平和を願う機運が生まれ、アメリカ大統領ウィルソンの提案で一九二〇年(大正九年)、「国際連盟」が発足した。

 日本は、戦争中は笑いが止まらぬ好景気だったが、戦争が終結すると、不況が襲来し、総予算の規模を縮小しなければならなくなった。

 財政膨張の最大要因は軍事費であった。なかでも莫大な使途は造艦費だった。虎視眈々と東洋進出をねらうアメリカの建艦運動との競争だった。

 経済恐慌は各国に吹き荒れ、特に大戦のため多くの艦船を失ったイギリスでは深刻だった。イギリスは東洋に多くの権益を持っている。大戦で無傷の日本を牽制する必要があった。

 大正十年十一月十二日、軍縮会議が米国ワシントンで開催され、五大国が主力艦の軍縮について討議することになった。

 この会議の日本全権は海軍大臣・加藤友三郎大将(広島・海兵七次席・海大一・首相・元帥・子爵・大勲位菊花大綬章)だった。

 加藤友三郎大将は軍備費拡大のため国民は物価高にあえぎ、日本はとうてい一等国という生活水準ではないことを知っていた。アメリカの無制限な軍備拡大を防ぐためにもなんとしても軍縮会議を成功させたいと願っていた。

 当時、岡田啓介中将(福井・海兵一五・海大二)は艦政本部長という造艦の責任者だった。岡田中将はかねてから加藤友三郎大将の人格、識見に傾倒していただけに、軍縮会議の成功を祈っていた。

 アメリカのヒューズ全権は「アメリカ・イギリス・日本の主力艦の比率を五・五・三に抑えたい」と発言した。

 激しい怒りを表したのは主席随員の加藤寛治(かとう・ひろはる)中将(福井・海兵一八首席・海軍大学校校長・大将・連合艦隊司令長官・軍令部長)と次席随員の末次信正大佐(山口・海兵二七・海大七首席・教育局長・軍令部次長・連合艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・内務大臣)だった。

 加藤寛治中将は対米戦略の専門家で、末次信正大佐とともに、絶対に十・十・七でなければならないと主張していた。彼らには、艦隊拡張派といわれる軍令部の後押しもあった。

 加藤寛治中将は「十・十・七が受諾されないならば、日本は会議を脱退してもよい」と全権・海軍大臣・加藤友三郎大将に激しく迫った。

 だが、加藤友三郎大将は、会議の決裂が、各国の無制限建艦運動になることを危惧してアメリカ案を受諾した。

 加藤友三郎大将は「無益な戦争を国際法によって回避し、産業、貿易等を振興し、国民の生活を安定させるのが得策だ」と考えていた。

 もちろん、加藤友三郎大将も日本の増艦希望も述べ、比率の改正を提案したが、アメリカ、イギリスともに日本の東洋制圧を防ぐための会議であるから、引き下がるはずもなかった。

 全権・加藤友三郎大将は何度も本国に会議の状況を報告した。軍縮派の岡田啓介中将は、これらの通信から会議の成立を嬉しく思った。

 岡田中将は、幕末越前藩の財政建て直しをはかったという由利公正の「民富みて、国富む」の国富論を思い出していた。加藤友三郎大将の意見と全く同感だった。

 だが、煮え湯を飲まされた思いの、主席随員・加藤寛治中将(軍令部出仕・海大校長)、次席随員・末次信正大佐(軍令部作戦課長)ら軍令部艦隊拡張派は、日本の外交的後退と憤激した。

 ワシントン会議で軍縮案を呑んで無念の帰国をした加藤寛治中将は、艦隊派に同調していた東郷平八郎元帥(鹿児島・英国商船学校卒・連合艦隊司令長官・日本海海戦で勝利・海軍軍令部長・東宮御学問所総裁・大勲位菊花大綬章・功一級金鵄勲章・伯爵・元帥・大勲位菊花章頸飾・侯爵)を訪ねた。

 このとき、東郷元帥は加藤寛治中将に「寛治どん、軍備に制限はあっても、訓練に制限はごわはんじゃろ」と言った。東郷元帥は日露戦争の日本海海戦前の猛訓練を思い出していたのだ。

 ワシントン会議から大正十一年三月に帰国した加藤寛治中将は、五月、軍令部次長に就任した。

323.岡田啓介海軍大将(3)実力で出世しても、妻のお陰で偉くなったと言われるぞ

2012年06月01日 | 岡田啓介海軍大将
 東郷艦長は、船長その他乗組員などを「浪速」に収容して、輸送船を撃沈しようとしたが、船長以下が「浪速」に移ることも清国将校が許さなかった。

 東郷艦長は、再度「艦を見捨てよ」と信号を送り、マストに赤旗を掲げ警告した。それでも応じなかったため、東郷艦長の命令で「浪速」は水雷と大砲を撃ち、「高陞号」を撃沈した。

 このことが日本内地に伝わると、英国の船を沈めたと大騒動になった。当時の伊藤博文総理大臣は西郷従道海軍大将を難詰した。だが、西郷大将は「東郷がでたらめなことをやるはずがない」とすましていたという。

 日本国は朝野をあげて、海軍はとんでもないことをしてくれたという空気だった。ところが、当時世界一流の国際法の権威だった英国の学者、ウェストレーキ・ホルラントが「東郷艦長の取った処置は正しい」という論文をタイムズ紙に発表したので、東郷批判はピタリと止んでしまった。

 そして、国際法に精通しているということで東郷大佐の声望が高まった。岡田少尉は東郷大佐の偉大さと国際法の持つ意味内容を改めて知った。

 「宰相岡田啓介の生涯」(上坂紀夫・東京新聞出版)によると、明治三十四年五月、岡田啓介少佐は海軍大学校甲種(二期)を卒業した。

 これで岡田啓介少佐は、海軍大学校の甲乙丙のすべてを卒業したわけで、当時はきわめて珍しいことであった。ところがその割に出世が遅かった。当時のことを、岡田啓介は次のように語っている。

 「私のクラスでは、財部彪が宮様なみに、どんどん進級していくだけで、わたしはなかなかうだつがあがらなかった。それで、若い者が学生を志願すると、上の人が『学生なんか受験するのはよせ。岡田を見ろ、片っ端から学生をやったが、一向にうだつがあがらんじゃないか』と言ったそうだ」。

 財部彪(たからべ・たけし)大将(宮崎・海兵一五首席・海軍次官・横須賀鎮守府司令長官・海軍大臣・ロンドン会議全権)は秀才でもあったが、彼の妻は、今をときめく海軍大臣・山本権兵衛(やまもと・ごんべえ)大将(海兵二・防護巡洋艦「高千穂」艦長・軍務局長・海軍大臣・男爵・海軍大将・伯爵・首相・功一級金鵄勲章・大勲位菊花大綬章・大勲位菊花頸飾)の娘だった。

 この縁談が話題になったとき、明治三十年一月、ロシア留学を目の前にした、同期の広瀬武夫大尉(海兵一五・ロシア駐在武官・日露戦争の旅順港閉塞作戦で戦死)は、当時常備艦隊参謀であった財部彪大尉を訪れ、次のように言った。

 「貴様は、大臣の娘などもらわなくても十分偉くなれるのだ。実力で出世しても、妻のお陰で偉くなったと言われるぞ。残念なことではないか。この縁談はなかったことにしろ」。

 さらに広瀬大尉は山本権兵衛海軍大臣官邸を訪れた。山本海相に面会できた広瀬大尉は、山本海相に声を大きくしてこの結婚で被る財部大尉の不利を述べ、「この結婚は破談にしていただきたい」などと言った。

 だが、山本海相は聞き入れず、結婚はとりおこなわれた。そのせいか、財部彪は海軍兵学校十五期生では昇進が最も早かった。大将にも一番早く昇進している。同期の岡田啓介の出世と比べてみると次のようになる。

 海軍少佐進級は、二人とも明治三十二年九月二十九日で同じ。中佐進級は、財部が明治三十六年九月二十六日(三十六歳)、岡田は明治三十七年七月十三日(三十六歳)。

 大佐進級は、財部が明治三十八年一月十二日(三十八歳)、岡田が明治四十一年九月二十五日(四十歳)。少将進級は、財部が明治四十二年十二月一日(四十二歳・同日海軍次官)、岡田が大正二年十二月一日(四十五歳・大正四年人事局長)。

 中将進級は、財部が大正二年十二月一日(四十六歳・大正六年舞鶴鎮守府司令長官)、岡田が大正六年十二月一日(四十九歳・大正十二年海軍次官)。大将進級は、財部が大正八年十一月二十五日(五十二歳・大正十二年海軍大臣)、岡田が大正十三年六月十一日(五十六歳・昭和二年海軍大臣)。

 「岡田啓介の生涯」(上坂紀夫・東京新聞出版局)によると、大正七年十一月にはドイツが降伏し、四年四ヶ月にわたる第一次世界大戦が終結した。

 大正八年一月から、パリで講和会議が開かれ、六月にベルサイユで講和条約が調印された。日本は西園寺公望(さいおんじ・きんもち・京都・ソルボンヌ大学・侯爵・オーストリア特命全権公使・賞勲局総裁・貴族院副議長・文部大臣・外務大臣・枢密院議長・首相・元老・大勲位菊花大綬章・大勲位菊花章頸飾・公爵)が主席全権としてとして参加した。

 日本は戦勝国側に立ってイギリス、アメリカ、フランス、イタリアと並んで押しも押されぬ世界五大強国の一つとなった。