「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、 昭和12年12月、参謀本部第一課長(教育)兼陸軍大学校兵学教官に補職された。その後遠藤大佐は兵科を砲兵から航空兵に転科し、陸軍航空兵大佐となった。
遠藤は以前から航空機に関心を示していた。だが航空に転科するつもりは無かった。しかし、熱心に度々上司から勧められて、最後は命令により止む無く転科した。
転科の感想を遠藤は「そして今度は三度目の正直、有無を言わさぬ命令です。四十の手習いと申しますか、あまり嬉しくありませんでしたが、止む無く永年親しんできた砲兵の黄色の襟章を昭和13年、航空の空色の襟章に取り替えましたと述べている。
(註)襟章は歩兵は赤、騎兵は緑、工兵はえび茶、輜重は紺青、軍医は深緑、主計は茶、法務官は白。
昭和12年12月13日、関東軍は苦戦の末、南京を占領した。しかし退路を開放した南京攻略で蒋介石が屈服する筈はなく、むしろ中国人民と共に一層抗日意識を高める結果となり長期戦の様相となった。
北方の守りは軽視できないので、多田参謀次長は心配し、遠藤大佐に関東軍の状況を見てくるように命令を出した。特に関東軍司令部内がシックリいっていないようだから、その点も見てくるようにと要請された。
昭和13年1月5日、遠藤大佐は東京を出発、17日まで満州を視察した。
関東軍司令部では特に東條参謀長と石原参謀副長の間がシックリ行っていないように遠藤大佐は感じた。東條参謀長は従来からカミソリ事務官といわれた程事務的能吏でありかつ功名心が強かった。
また、東條参謀長は満州国の建設を急ぐ余り満州国政府に対しても干渉が多く、法三章を貴ぶ満州要人には不平不満があった。
その不平不満は満州国生みの親であり、大綱は握っても干渉は避ける性格の石原莞爾参謀副長に訴える様子だった。
最初は石原参謀副長は東條参謀長にそのやり方をたしなめるなど意見も具申したようだが、東條参謀長が聞き入れないので、後には「満州の実情も知らぬ参謀長め、やれるならやってみろ」と言わんばかりに、その失敗を冷笑するような態度になり、両者は犬猿の関係になった。
その状況を遠藤少佐は汲み取り、この両者を分離する必要を認め、参謀長に復命した。
遠藤少佐は、久しぶりに石原少将と懇談の機会を持ったので、日支事変の収拾策を尋ねた。
すると石原参謀副長は「俺を総理大臣にしなければ駄目だ」と言った。
遠藤少佐は「それは実行不可能でしょう。あなたが直接やらんでも良策があれば、それを総理に伝え実行させればよいではありませんか」と重ねて尋ねた。
それに対し石原参謀副長は「支那問題の解決は人の問題だ。北支に出兵するような馬鹿者には解決できない」とつっぱねた。
遠藤少佐も少々気に障ったので「北支出兵は私にも異論がありましたが、出兵した時の参謀本部作戦部長はあなたではありませんか。あなたが出兵の奉勅命令にハンコを捺さなければ出兵は出来なかった筈です。なぜハンコを捺しましたか」と詰め寄った。
すると石原参謀副長は寝台の上に仰向けにひっくり返り「君とはもう話さん」と言って取り合ってくれなかった。
「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、 昭和13年5月、遠藤は陸軍大学校兵学教官として第三学年の学生と共に参謀旅行を行った。そのあと、いよいよ第三学年が卒業を迎えた。
校長から遠藤大佐に卒業学生の序列を報告するように命令が来た。遠藤大佐は「序列の事など気に止めずにきた」と報告した。するとせめて恩賜賞受賞候補者だけでもということになった。
遠藤大佐は短期間教官が学生を見た眼よりも三年間学習を共にした学生同志の眼が正しかろうから、学生間で優等と思う者を六名連記投票するよう命じた。
その結果を校長に報告した。この年の恩賜の軍刀受賞者は公正妥当に選定されたと言う事で学生間に一点の不平も無かった。もっとも、選挙で序列を定めるなど当時の軍隊では有り得ぬ事だったという。
遠藤は以前から航空機に関心を示していた。だが航空に転科するつもりは無かった。しかし、熱心に度々上司から勧められて、最後は命令により止む無く転科した。
転科の感想を遠藤は「そして今度は三度目の正直、有無を言わさぬ命令です。四十の手習いと申しますか、あまり嬉しくありませんでしたが、止む無く永年親しんできた砲兵の黄色の襟章を昭和13年、航空の空色の襟章に取り替えましたと述べている。
(註)襟章は歩兵は赤、騎兵は緑、工兵はえび茶、輜重は紺青、軍医は深緑、主計は茶、法務官は白。
昭和12年12月13日、関東軍は苦戦の末、南京を占領した。しかし退路を開放した南京攻略で蒋介石が屈服する筈はなく、むしろ中国人民と共に一層抗日意識を高める結果となり長期戦の様相となった。
北方の守りは軽視できないので、多田参謀次長は心配し、遠藤大佐に関東軍の状況を見てくるように命令を出した。特に関東軍司令部内がシックリいっていないようだから、その点も見てくるようにと要請された。
昭和13年1月5日、遠藤大佐は東京を出発、17日まで満州を視察した。
関東軍司令部では特に東條参謀長と石原参謀副長の間がシックリ行っていないように遠藤大佐は感じた。東條参謀長は従来からカミソリ事務官といわれた程事務的能吏でありかつ功名心が強かった。
また、東條参謀長は満州国の建設を急ぐ余り満州国政府に対しても干渉が多く、法三章を貴ぶ満州要人には不平不満があった。
その不平不満は満州国生みの親であり、大綱は握っても干渉は避ける性格の石原莞爾参謀副長に訴える様子だった。
最初は石原参謀副長は東條参謀長にそのやり方をたしなめるなど意見も具申したようだが、東條参謀長が聞き入れないので、後には「満州の実情も知らぬ参謀長め、やれるならやってみろ」と言わんばかりに、その失敗を冷笑するような態度になり、両者は犬猿の関係になった。
その状況を遠藤少佐は汲み取り、この両者を分離する必要を認め、参謀長に復命した。
遠藤少佐は、久しぶりに石原少将と懇談の機会を持ったので、日支事変の収拾策を尋ねた。
すると石原参謀副長は「俺を総理大臣にしなければ駄目だ」と言った。
遠藤少佐は「それは実行不可能でしょう。あなたが直接やらんでも良策があれば、それを総理に伝え実行させればよいではありませんか」と重ねて尋ねた。
それに対し石原参謀副長は「支那問題の解決は人の問題だ。北支に出兵するような馬鹿者には解決できない」とつっぱねた。
遠藤少佐も少々気に障ったので「北支出兵は私にも異論がありましたが、出兵した時の参謀本部作戦部長はあなたではありませんか。あなたが出兵の奉勅命令にハンコを捺さなければ出兵は出来なかった筈です。なぜハンコを捺しましたか」と詰め寄った。
すると石原参謀副長は寝台の上に仰向けにひっくり返り「君とはもう話さん」と言って取り合ってくれなかった。
「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、 昭和13年5月、遠藤は陸軍大学校兵学教官として第三学年の学生と共に参謀旅行を行った。そのあと、いよいよ第三学年が卒業を迎えた。
校長から遠藤大佐に卒業学生の序列を報告するように命令が来た。遠藤大佐は「序列の事など気に止めずにきた」と報告した。するとせめて恩賜賞受賞候補者だけでもということになった。
遠藤大佐は短期間教官が学生を見た眼よりも三年間学習を共にした学生同志の眼が正しかろうから、学生間で優等と思う者を六名連記投票するよう命じた。
その結果を校長に報告した。この年の恩賜の軍刀受賞者は公正妥当に選定されたと言う事で学生間に一点の不平も無かった。もっとも、選挙で序列を定めるなど当時の軍隊では有り得ぬ事だったという。