陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

36.遠藤三郎陸軍中将(6) 黄色の襟章を昭和13年、航空の空色の襟章に取り替えましたと

2006年11月24日 | 遠藤三郎陸軍中将
 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、 昭和12年12月、参謀本部第一課長(教育)兼陸軍大学校兵学教官に補職された。その後遠藤大佐は兵科を砲兵から航空兵に転科し、陸軍航空兵大佐となった。

 遠藤は以前から航空機に関心を示していた。だが航空に転科するつもりは無かった。しかし、熱心に度々上司から勧められて、最後は命令により止む無く転科した。

 転科の感想を遠藤は「そして今度は三度目の正直、有無を言わさぬ命令です。四十の手習いと申しますか、あまり嬉しくありませんでしたが、止む無く永年親しんできた砲兵の黄色の襟章を昭和13年、航空の空色の襟章に取り替えましたと述べている。

 (註)襟章は歩兵は赤、騎兵は緑、工兵はえび茶、輜重は紺青、軍医は深緑、主計は茶、法務官は白。

 昭和12年12月13日、関東軍は苦戦の末、南京を占領した。しかし退路を開放した南京攻略で蒋介石が屈服する筈はなく、むしろ中国人民と共に一層抗日意識を高める結果となり長期戦の様相となった。

 北方の守りは軽視できないので、多田参謀次長は心配し、遠藤大佐に関東軍の状況を見てくるように命令を出した。特に関東軍司令部内がシックリいっていないようだから、その点も見てくるようにと要請された。

 昭和13年1月5日、遠藤大佐は東京を出発、17日まで満州を視察した。

 関東軍司令部では特に東條参謀長と石原参謀副長の間がシックリ行っていないように遠藤大佐は感じた。東條参謀長は従来からカミソリ事務官といわれた程事務的能吏でありかつ功名心が強かった。

 また、東條参謀長は満州国の建設を急ぐ余り満州国政府に対しても干渉が多く、法三章を貴ぶ満州要人には不平不満があった。

 その不平不満は満州国生みの親であり、大綱は握っても干渉は避ける性格の石原莞爾参謀副長に訴える様子だった。

 最初は石原参謀副長は東條参謀長にそのやり方をたしなめるなど意見も具申したようだが、東條参謀長が聞き入れないので、後には「満州の実情も知らぬ参謀長め、やれるならやってみろ」と言わんばかりに、その失敗を冷笑するような態度になり、両者は犬猿の関係になった。

 その状況を遠藤少佐は汲み取り、この両者を分離する必要を認め、参謀長に復命した。

 遠藤少佐は、久しぶりに石原少将と懇談の機会を持ったので、日支事変の収拾策を尋ねた。

 すると石原参謀副長は「俺を総理大臣にしなければ駄目だ」と言った。

 遠藤少佐は「それは実行不可能でしょう。あなたが直接やらんでも良策があれば、それを総理に伝え実行させればよいではありませんか」と重ねて尋ねた。

 それに対し石原参謀副長は「支那問題の解決は人の問題だ。北支に出兵するような馬鹿者には解決できない」とつっぱねた。

 遠藤少佐も少々気に障ったので「北支出兵は私にも異論がありましたが、出兵した時の参謀本部作戦部長はあなたではありませんか。あなたが出兵の奉勅命令にハンコを捺さなければ出兵は出来なかった筈です。なぜハンコを捺しましたか」と詰め寄った。

すると石原参謀副長は寝台の上に仰向けにひっくり返り「君とはもう話さん」と言って取り合ってくれなかった。

 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、 昭和13年5月、遠藤は陸軍大学校兵学教官として第三学年の学生と共に参謀旅行を行った。そのあと、いよいよ第三学年が卒業を迎えた。

 校長から遠藤大佐に卒業学生の序列を報告するように命令が来た。遠藤大佐は「序列の事など気に止めずにきた」と報告した。するとせめて恩賜賞受賞候補者だけでもということになった。

 遠藤大佐は短期間教官が学生を見た眼よりも三年間学習を共にした学生同志の眼が正しかろうから、学生間で優等と思う者を六名連記投票するよう命じた。

 その結果を校長に報告した。この年の恩賜の軍刀受賞者は公正妥当に選定されたと言う事で学生間に一点の不平も無かった。もっとも、選挙で序列を定めるなど当時の軍隊では有り得ぬ事だったという。

35.遠藤三郎陸軍中将(5)  武藤大将の元帥奏請を止めるぞ

2006年11月17日 | 遠藤三郎陸軍中将
 中央と連絡なしに軍命令を実施したので、案の定参謀本部から作戦間うるさいほどの小言や叱責、干渉やらがあり、甚だしいのは「武藤大将の元帥奏請を止めるぞ」などと人事上の脅迫的いやがらせもあった。

 だが、作戦が成功すると、手の裏を返す如く、感謝や賞賛の電報が来たのはまだしも、指導したのは己だと言わんばかりに威張る人も少なくなかった。

 わずか二万の兵で十倍の敵を撃破し、二週間の戦闘で敵を北京、天津の近くまで追い詰め停戦を申し込ましめるのに成功した。昭和8年5月31日、停戦協定が結ばれた。

 遠藤少佐が奉天の某料亭で同期生会を催した時、一軍参謀が料亭のサービスが気に食わんといって「軍参謀をなんと思う」と威張り出し、軍刀を抜いて玄関に飾ってあった立派な古木の盆栽を真っ二つに切った。

 さらに玄関前に停まっていた馬車を邪魔だと言って馬の脚に切りつけたのを見たという。外部だけでなく軍内でも威張り散らす参謀が少なくなかったという。

 7月27日、軍司令官・武藤元帥が病死。後任はびし菱刈大将となった。昭和9年3月1日満州国の帝政実施。3月9日軍参謀長が交代し、西尾寿造中将が就任した。西尾中将は後の大将、教育総監、戦争末期は東京市長。

 昭和9年8月の異動で遠藤少佐は中佐に昇進、陸軍大学校兵学教官を拝命し内地に帰ることになった。

 遠藤中佐は出発の朝、いつもの通り愛馬藤清で馬場運動をやり駅まで乗って行って別れを惜しんだ。

 大連でいよいよ満州を離れる際、新聞記者から思い残す事はないかと聞かれ、「愛馬藤清との別れがつらかった」と言った事が、新聞には愛人との別れと勘違いして書かれ、遠藤中佐は大変迷惑を蒙った。

 遠藤中佐は陸軍大学校兵学教官として二年間に渡って第四十八期生に戦術教育を行ってきた。

 昭和11年2月26日、2.26事件が起きた。遠藤中佐は単身反乱軍の本拠に乗り込んだり、自決した野中大尉の私宅を訪れて霊前に焼香した。

 そのことが問題になり、陸軍当局から好ましからぬ人物として左遷された。当時の加藤守雄補任課長から直接遠藤中佐は聞かされた。

 昭和11年8月1日発令で九州小倉市の野戦重砲兵第五連隊長に補職された。左遷とはいえ、大きな連隊で、大佐相当職だったが遠藤は中佐で連隊長になった。昭和12年8月から北支に出征、戦闘に従事した。

  「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、昭和12年10月29日、野戦重砲兵第五連隊長の遠藤大佐は、参謀本部課長に転任の内報を受けた。
 11月13日には前田治旅団長から、そのポストは作戦課長であることが伝えられた。

 だが、11月28日参謀本部に出向いた遠藤大佐を待っていたポストは第二課(作戦)ではなく第一課(教育)の課長だった。

 遠藤大佐は参謀本部作戦課に長く勤務し、作戦以外の勤務はなく、遠藤大佐自身作戦課長としての勤務を決して疑わなかった。

 だが「それはとんでもない自惚れであり誤算でありました」と遠藤は後に記している。

 なぜ作戦課長のポストをはずされたのか。遠藤大佐はその理由を自分で次のように」分析している。

 (1)2.26事件の際、陸軍当局から好ましからざる人物と目された事。

 (2)野戦重砲兵第五連隊長の時、兵の処罰問題を不当として軍法会議と争い、師団長から「現代の法規を無視し、新たに法を作らんとする悪思想の持ち主」と銘打たれたこと。

 (3)第一部長、橋本群少将(遠藤の砲兵科の先輩、陸士20期、陸大軍刀組の秀才)と考え方が違うこと。

 大正の末期、軍備整理の会議で、当時第一課にいた橋本氏が「砲工学校で高等数学や高級の科学を習っても軍隊教育には直接役に立たないから軍事費節約のために砲工学校は廃止すべきだ」との意見を述べた。

 それに対し、作戦課勤務の遠藤大尉は「教育の目的は商人が仕入れた品物をそのまま高く売って利益を収めるのとは根本的に違う。数学的に科学的に頭を練り、応用の効く人物を養うのが教育の主目的と思う」と述べた。

 さらに、「将校が社会の上位にあると己惚れても中学校や幼年学校程度の学力では恥ずべきである。軍事費が不足ならば軍隊を減少してでも砲工学校は存続して将校の学力を向上すべきである」と反論した事があった。

 これらの理由から遠藤は自分が左遷されたと自ら分析している。

34.遠藤三郎陸軍中将(4) 川島芳子が数奇な運命に弄ばれつつある様子を見て、一抹の同情を覚えた

2006年11月10日 | 遠藤三郎陸軍中将
いよいよ二個師団動員実施という段になって、昭和6年2月20日夕刻、遠藤少佐は命令で動員担当の第一課長・東條英機大佐に第十一、第十四師団の動員の手続きのお願いに行った。

 すると東條課長は遠藤少佐を押しのけて、作戦課長の室に駆け込み、小畑課長にいきなり「貴様は一人で戦をする気か!」と噛み付いた。

 その物凄い姿は、遠藤少佐の眼底にこびりついたという。東條課長には何の連絡も相談もなかったことに激怒したという。

 遠藤少佐も東條課長から激しく叱責された。統制派といわれた東條課長からは、皇道派と目された荒木陸軍大臣や小畑作戦課長と親しかった遠藤少佐が、元々好意をもたれるはずはなかった。

 幸い小畑課長の説得により、東條課長も渋々ながら納まり動員を承諾し、2月24日午後6時半、遠藤少佐は新たに派遣される軍の奉勅命令上奏の参謀次長の伴をして参内、午後5時御裁可になり即発令された。

 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、遠藤少佐はこの新軍の司令官、白川義則大将の私邸に訪ね、命令を伝達した。

 昭和7年3月1日第一次上陸部隊は予定通り上海北方の揚子江の七了口に上陸、遠藤少佐も第十一師団長と共に上陸し上海に向かった。これが第一次上海事変である。

 その夜、遠藤少佐は上海の紡績会社社長、倉知氏の別邸に泊まった。そこには田中隆吉少佐や男装の麗人といわれた粛親王の王女・川島芳子らも同宿していた。川島芳子は田中隆吉少佐の愛人と言われていた。

 遠藤少佐は彼らと歓談したが、その時、川島芳子が数奇な運命に弄ばれつつある様子を見て、一抹の同情を覚えたという。

 「遠藤三郎日記~将軍の遺言」(毎日新聞社)によると、川島芳子は清朝王族の粛親王の第十四王女だが、同王朝顧問の川島浪速の養女となる。

 甘粕正彦が一役買った清朝の廃帝溥儀の満州への引き出し後、川島芳子はその皇后、婉要を天津から脱出させた。

 このようなことから、川島芳子はドイツの女スパイになぞらえ「東洋のマタハリ」と異名のつくきっかけとなったが、戦後スパイ罪で中国で処刑された。

  「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、満州事変後、本庄繁軍司令官、石原莞爾主任参謀らは転任した。そのあと、昭和7年8月、遠藤三郎少佐は参謀本部作戦課部員から関東軍作戦主任参謀を命じられた。

 関東軍の新軍司令官は教育総監から転じた武藤信義大将。参謀長は陸軍次官から転じた小磯国昭中将。参謀副長は徳川の直参で旗本の血を引く岡村寧次少将で、小畑敏四郎少将、永田鉄山少将とともに陸軍の三羽烏と言われた人。田中新一中佐も参謀として顔を揃えていた。

 当時関東軍は第十師団、第十四師団、第二師団、第八師団、独立守備隊の陣容で配置されていたが、熱河省と興安省の守備が手薄ということで、小磯国昭参謀長は中央に数個師団の増兵を要求するよう作戦主任参謀の遠藤少佐に命じた。

 遠藤少佐は関東軍に来る前、参謀本部主任部員としてしばしば、増兵を陸軍省に交渉した際、いつもそれを渋ったのは陸軍次官だった小磯中将であった。

 そのことを遠藤少佐は小磯参謀長に直言し、国内事情も、増兵は困難なことを承知しておりますからと反問した。すると小磯参謀長は「立場が違うからかまわん」と言った。

 遠藤少佐は、いくら立場が違うとはいえ新任早々手の裏を返すような態度は好ましくないと思った。

 遠藤少佐は「軍隊は与えられた兵力で与えられた任務に最善を尽くすべきものと思います。私は作戦主任参謀としてまず現在の兵力でやってみたい」と申したところ、小磯参謀長もそれを了承し、増兵要求は止めた。

 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、昭和8年3月第六師団は長城を越えて建昌営に進出したが4月に入ってからも敵の反抗が衰えず、日本軍は自滅に陥ることが明瞭になった。

 遠藤少佐は河北省東部に攻撃を開始する軍命令を立案し武藤軍司令官の承認を得て伝達した。

 先に建昌営に進出した時、中央から大変叱責され、止むを得ず長城内に撤退の命令を出し、軍幕僚や第一線部隊から大変な苦情を受けた前例があるので、今回は中央と連絡なしに軍命令を実施した。

33.遠藤三郎陸軍中将(3) 抵抗しない人間を斬ると印象に残るもんだ。幻想に襲われて夜眠れない~

2006年11月03日 | 遠藤三郎陸軍中将
しばらくして、石原莞爾中佐参謀が入ってきて無言のままピョコンと敬礼して立ち去った。取り付く島もない無いという感じだった。

 遠藤少佐は石原中佐とは同郷、同幼年学校の出身であり、幼少のころから親しくしていたので、石原中佐の後を追って、廊下に呼びとめ「我々の来た理由も聞かず、ただ毛嫌いされるのはおかしいではないか。まず話し合ってください」と申し入れた。

 石原中佐は「何しに来たか位は分かっている。橋本猫之助(虎をもじって軽蔑したもの)や陸軍省の属吏(西原少佐を指す)などは初めから問題にしていないが、統帥の本流に居る君までが統帥を紊して来るとは何事か」と喰ってかかった。

 遠藤少佐は「私どもは決してあなた方を妨害しに着たのではありません。満州問題の解決は関東軍だけではどうにもならんでしょう。中央と心を合わせ、力をあわせてこそ始めて解決し得る問題ではありませんか。あなた方は私どもを利用したらよいではありませんか」などと石原中佐に言ったところ、嫌悪な空気も和らいだ。

 「将軍の遺言・遠藤三郎日記」(毎日新聞社)によると、満州事変の発端、奉天・柳条溝の満鉄線爆破事件も中国側を攻撃する口実作りだった。

 関東軍の板垣征四郎、石原莞爾の両参謀らが策を練り、今田新太郎大尉が爆薬を用意し、河本末守中尉が仕掛けたといわれている。

 著者の宮武剛氏が戦後、八十七歳の片倉衷元陸軍少将にインタビューした時、片倉は「本庄繁軍司令官と翌十九日、奉天へ行くと今田が『敵の演習命令です』と証拠書類を提出しかけた。それが十八日じゃなく、なんと十九日付なんだ。俺が気づき九の数字だけマッチで焼かせた」と語った。

 石原から「満州の王様」と皮肉交じりに命名された片倉大尉(当時)は、興味深いエピソードも語っている。

 「今田大尉がノイローゼになったんだ。仕方なく内地に転任させた。あの人は十八日の夜北大営を急襲し(張学良の命令で)ほとんど無抵抗の支那兵を斬った。抵抗しない人間を斬ると印象に残るもんだ。幻想に襲われて夜眠れない~修養が足りないんだ」。

 昭和6年11月3日、満州事変視察行から帰った遠藤少佐は直ちに東京・三宅坂の参謀本部へ出動する。浅川大尉から遠藤少佐の出したチチハル出兵の意見具申が関東軍と協議したものであると参某本部は見た。つまり石原とグルになって出兵を策したと見たのである。

 遠藤少佐は今村均作戦課長から「すっかりミイラ取りがミイラになったじゃないか。当分の間、仕事せんでいい」と言われた。

 ところが荒木陸相、真崎甚三郎参謀次長のいわゆる皇道派が実権を握ると、満州国建国へ突っ走る関東軍への批判は急速に賞賛へ変わった。

 昭和7年2月8日、今村作戦課長は辞めさせられ、代わりに小畑敏四郎大佐が作戦課長に就任した。この日の日記に遠藤は「理由は解らずも国家多事の際、第一部の要職にある者を交替せしむる如きは国軍のため決して採るべからず所にして遺憾この上なし」と記している。

 その夜、遠藤少佐は新宿の宝亭で今村の送別の宴を持った。だが陸軍の良識派とされる今村を尊敬しながらも、どこか、そりが合わず、遠藤は戦後も日中国交回復運動などで、今村と激しく論争した。

 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、満州事変勃発後の昭和7年2月ジュネーブから「国際連盟は3月3日、日支両軍に停戦を勧告する」という極秘電報が参謀本部に入った。

 参謀本部は3月3日に停戦勧告が発せられる前に支那軍を蘇州付近の湿地帯まで撃退し、日本軍勝利の下で自主的に停戦し得れば問題は無いが、戦況不利な状態で停戦すれば支那軍の勝利が宣伝され、日本軍の名声は失墜し、満州問題の解決も困難になると考えた。

 そこで参謀本部の小畑作戦課長はさらに二個師団を増派して3月3日以前に敵を撃退する必要ありと荒木陸軍大臣にのみ内諾を得て、その計画を秘密裏に立案するよう参謀本部部員の遠藤三郎少佐に命じた。