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陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

10.佐藤市郎海軍中将(10)  海軍がその人たちを冷遇したと聞く私は、心中不愉快にたえなかった

2006年05月26日 | 佐藤市郎海軍中将
丸2月号別冊・戦争と人物「連合艦隊司令長官」(潮書房)の巻頭の写真がある。昭和12年7月1日、海軍大臣官邸におけるフランス極東艦隊司令長官以下歓迎晩餐会記念撮影とある。
 
 この写真に米内光政、山本五十六、豊田副武ら海軍首脳とともに佐藤市郎が写っている。
 
 昭和12年といえば佐藤市郎は海軍少将で海軍航空本部教育部長、海軍技術会議委員の職にある。

 この写真を見ると兄弟宰相岸信介と佐藤栄作を合わせたような顔である。二人の宰相の長兄であるから当然といえば当然であるが、それにしても、興味深い顔つきである。若い中佐の時の写真は、全然違う顔のように思えるのだが。まるで大学教授のような顔つきである。

 長男の信太郎氏は「父、佐藤市郎が書き遺した軍縮会議秘録」(文芸社)のプロフィルで、「彼(父)の最大の趣味は読書であった。読書は広い範囲に及んでいた。彼の死後特製の本棚二脚にぎっしりの蔵書が残された。蔵書の範囲は各分野にわたった」と書いている。

 また、「1917年、練習艦隊参謀として北米西海岸方面回航の節、鈴木貫太郎司令官のテーブルスピーチの通訳を行い、彼の地の人々の大喝采を博した。彼の英語は聴衆に解りやすかったようである」とも記してある。

 英国の海軍関係月刊誌「NAVY」が1916年のユトランド沖海戦記念号に日本海軍の見解として佐藤市郎の英文の論文が掲載されている。語学に堪能な、探究心の旺盛な学者肌の一面を見ることができる。

 佐藤は昭和13年11月に海軍中将に昇任し、旅順要港部司令官に補されている。そして15年4月に予備役に編入された。

 海軍大学を首席で卒業し、ジュネーブ、ロンドンの軍縮会議で命がけで働いた佐藤を、海軍中将の職として、要港部司令官に任命した。海軍中央の要職につけることを帝国海軍はしなかった。

 佐藤ほどの頭脳明晰で海軍部内でも大いに期待されていた秀才が大将に進級することなく中将で予備役に編入されたのは、艦隊派に、にらまれ左遷されたからであるという説もある。

 ロンドン軍縮会議全権委員の若棋槻禮次郎元首相の著「古風庵回顧録」には次のように記されている。

 「軍縮会議の犠牲。はじめ海軍省内では、大部分のものがこの条約に反対だったと聞く。当時省内の要職にあった人たちは、条約に同意したという理由かどうか知らないが、後にみんな外に出され予備に回され海軍では用いられなかった。軍縮会議で働いたとかの理由で、海軍がその人たちを冷遇したと聞く私は、心中不愉快にたえなかった」。

 また、「父、佐藤市郎が書き遺した軍縮会議秘録」(文芸社)の巻末のプロフィルには、尊敬していた有名な上司からの手紙に「余りの秀才は世間からうとまれるのではないかと思われる」と書かれていた。有名な上司が誰なのかは記されていない。

(「佐藤市郎海軍中将」は終わりです。次回からは「石原莞爾陸軍中将」です)

9.佐藤市郎海軍中将(9)  大馬鹿大将と云われても勘づかなかった

2006年05月19日 | 佐藤市郎海軍中将
ロンドン軍縮会議での昭和5年1月15日の佐藤大佐の日記には全権の財部彪海軍大将(海軍大臣)がロンドンで海軍関係者を食事に招待したことが書いてあり、佐藤大佐も招待された。
 
財部大将と島津武官は夫妻で出席した。食事が始まり四方山話のうちに、財部大将が「佐藤大佐も奥さんを連れてくればいいじゃないか」と聞いた。

佐藤大佐が「今は巴里で留守をさせています」と答えると、また大将が「連れて来ればいいじゃないか」と重ねて言った。

佐藤大佐はこれに答えて「実は妻に聞いたところ、私が参りましてもおじゃまになります。皆様がそれこそ命がけのお仕事の最中に夫の仕事の邪魔に少しでもなっては何で済みましょうか。と言ったので留守をさせています」という趣旨の事をわざと永たらしく大将に言った。
 
そのあと「殆ど面と向かって山本(五十六)さんから自分のことを大馬鹿大将と云われても勘づかなかった大将もこう長々と云われては流石にテレ臭かったと見えて『そう云われるとわし達がきまりが悪いな』と白状したがこちらは黙ったままでソーダと云う意を表示した」と記している。
 
全権の海軍の大先輩に対して、余りにも辛らつな態度であると、思った同僚もいたが、佐藤は相手が海軍大臣、海軍大将でも、正しいと思ったら直言するということを実行した。
 
そういう生き方を生涯断固として貫くことが、彼の信条であった。佐藤市郎は軍縮会議ではその能力を駆使して起案主任として主要な仕事をしている。
 
佐藤はロンドン軍縮会議が終わって帰国して三ヶ月経たないうちに国際連盟のリットン支那調査団の日本海軍側随員として調査団とともに中国に渡り、4月に奉天で肺炎にかかり二ヶ月入院した。帰国後も保養地で休養した。

8.佐藤市郎海軍中将(8) 山本五十六少将だけは心腹尊敬していた

2006年05月12日 | 佐藤市郎海軍中将
ロンドン軍縮会議での昭和5年1月16日の佐藤大佐の日記には次のような内容が記されている。
  左近司(中将)さんは、ジュネーブ会議当時の原厳同様、自薦で首席随員となったのだ相だ。
  大馬鹿大将も同様だ。そして彼氏の頭には国防も何もなく、唯会議成功後の授爵だけで出張前の支度振りがまるで物見遊山旅行本位であったと聞く。
 中村大佐が首席随員はこんどの会議がうまく纏ると男爵ですな!とオダテルときまり悪相な嬉し相な面付きをしたが、いよいよ出掛ける事になったから、次官次長が心配して山本少将をつけた。
 
この佐藤の日記には授爵について記されているが、ロンドン会議調印後の論功行賞では、全権委員の若棋槻禮次郎元首相が男爵を授けられた。
  財部大将は旭日桐花大綬章、左近司中将は勲一等瑞宝章、山本五十六少将は勲二等瑞宝章、佐藤大佐は旭日中綬章をそれぞれ受けている。

  佐藤の日記には山本五十六が多多登場する。同じく1月16日の日記には次のような記述がある。
 今夜佐藤のクラスメートの三浦武官が着くと海軍兵学校のクラスメートが4人揃う。候補生の時の遠洋航海当時の主任指導官補佐として懇切な指導を与えられた山本さんがおられる。
 早速クラス会を催して山本少将を御招待しよう。ソーダソーダと一人でうなずいていると、コツンコツンとノックして、その山本さんが入って来られながら「オイ今夜三浦が着たら皆で飯を食おう。高橋と君と三浦とそれに誰が居るかね」と云われたときの懐かしさ嬉しさ。
 山本さんは自分で当時の候補生の四人におごるお積りなのは問わずとも勿論判り切っている。およびしようとしていて却ってよばれたこと以上にイヤイヤそんなことには全然比べにならぬ先輩の厚い情熱が有難かった。

 このような内容の佐藤大佐の日記を読むと、いろんな先輩に容赦なく癇癪玉を爆発させている佐藤は、山本五十六少将だけは心腹尊敬していた事が判る。

7.佐藤市郎海軍中将(7) 貴様が加藤さんを大層賞めて居ると聞いて実は心配していた

2006年05月05日 | 佐藤市郎海軍中将
 ロンドン軍縮会議での昭和5年1月5日の佐藤大佐の日記によると、この日、三川軍一中佐と佐藤は会議に出席するため初めてロンドンのヴィクトリア・ステーションに降り立った。
 ホテルに入ろうとすると、山本五十六少将ら数人と玄関でパッタリと出会った。山本も海軍随員(専門委員)としてロンドンに来ていた。お互い「ヤー」「ヤー」と挨拶を交わした。
 食事に出掛けるところだった山本少将は同行の軍人達に「わしはちょっと残るから」といって別れ、佐藤大佐と三川中佐をホテルに案内した。佐藤が「食事に出掛けるところだったのではないですか?」と訊ねたら、山本は「ウン、ダガ佐藤をあんな所へ連れて行くと叱られるかも知れぬ」と云われた。
 部屋の案内が終わって、山本少将、榎本重次書記官(専門委員)、佐藤、三川の四人で夕食に出掛けた。店は魚料理名代のスコット。そのあとホテルに帰り佐藤は山本に連れられて左近司政三海軍中将のところに挨拶に行った。そこで佐藤は「一しきり気焔を挙げてやった」と記しているが、次に山本少将の話として次のように記している。
 「大臣(財部彪海軍大将と思われる)がオッチョコチョイはよく判った。つい最近のこと皆寄って何かで飲んだ時らしいが山本さんは大臣の前で大抵の人なら感づきそうな云い回しで大馬鹿大将と云ったのだ相だがオメデタイ大臣にはマルデ通じなかった。次に豊田のオッチョコチョイなることが判った。私には昔から判っていた」。
 1月8日の日記には、次のような内容が記されている。佐藤が山本少将に「加藤軍令部長が人を見るの明なく俗物のオベッカに乗せられているのはなっていぬ許りでなく海軍のため大害だ」と云うと、山本少将が「それを聞いて安心した。もともと財部、加藤の両人を海軍を毒する元凶と思っているが貴様が加藤さんを大層賞めて居ると聞いて実は心配していた」と相槌を打った。

6.佐藤市郎海軍中将(6) このあたりから海軍は条約派と艦隊派に分かれ対立を始めた

2006年04月29日 | 佐藤市郎海軍中将
 そもそも軍縮会議はどのような経過を辿ったのか。これを説明しないと佐藤市郎の海軍での立場が分からない。大正10年のワシントン会議で英・米・日の主力艦の比率が5・5・3という屈辱的比率を押し付けられ煮え湯を飲まされた日本。昭和二年のジュネーブ軍縮会議は失敗に終わり調印できなかった。
 次に補助艦比率を決める昭和5年の第一次ロンドン軍縮会議では、(1)巡洋艦以下の補助艦艇は対米7割、(2)特に大型巡洋艦は7割絶対確保、(3)潜水艦は絶対量78000トン保有の3大原則を主張した。
 すったもんだの末昭和5年4月22日に調印に漕ぎ着けたが、結果的に総括排水量は対米69.75%を獲得したが大型巡洋艦6割、潜水艦にいたっては52000トンに押さえられてしまった。
 この条約に大いなる不満を持った海軍軍令部の加藤寛治部長と末次信正次長は条約調印でロンドンにいて不在の財部海軍大臣の代わりに海軍省をあずかる山梨勝之進次官と堀悌吉軍務局長と対立し、統帥権干犯問題を持ち出し、後に政界を揺らがすまでに至った。
 そもそも加藤寛治部長と末次信正次長はワシントン会議のときに、煮え湯を飲まされた当事者だった。ワシントン会議では加藤寛治は首席随員、末次信正は随員として出席した。そこでこの二人は悪戦苦闘の末アメリカに苦汁を舐めさせられた。だからこそ第一次ロンドン軍縮会議の結果に大いなる不満を持った。
 このあたりから海軍は条約派と艦隊派に分かれ対立を始めた。条約派は、日本の経済力を考えれば軍縮競争に走るよりは、ワシントン条約やロンドン条約に対して不本意ではあるが、これを認めた方が良いという立場をとる。
 これに対して加藤など軍令部を総本山とする艦隊派は、日本海軍の艦隊の増強を主張するもので、第一次ロンドン条約は調印されたが、これを不満とした。
 後に艦隊派が優位を占め山梨勝之進次官は現役を追われ、山本五十六が昭和九年、第二次ロンドン軍縮会議予備交渉の代表としてロンドンに行っているときに、堀悌吉軍務局長も予備役にされた。堀と同期生で仲の良かった山本は、ロンドンでこれを知りカンカンに怒ったという。山本の親友の堀は兵学校を首席で卒業した海軍のホープだった。このように第一次ロンドン軍縮会議で活躍した人は、後に左遷させられた。
 

5.佐藤市郎海軍中将(5) あんなこと言ったら辞めさせるだろうに

2006年04月22日 | 佐藤市郎海軍中将
佐藤が書き残した「寿府三国会議秘録」は日記体形式で、昭和2年3月25日(金)から同年8月4日までジュネーブ軍縮会議の日々の出来事、感想を記している。
 4月14日の日記には、日本での訓令案審議で、小林首席(小林躋造海軍中将)の質問に対して次長と原少将のシドロモドロの答弁に対し、小林首席は最後に顔面紅を潮し色激しく「失礼なる申分ながら軍令部には国防所要兵力に関する確たる信念なしと認むる外なし」と止めを刺せば、原少将酒蛙酒蛙(しゃあしゃあ)として「ああそーですね」とうそぶく、と記している。ジュネーブに旅立つ前の日本での準備段階での話である。
 全権一行はジュネーブに船で向かったが、小林中将と原少将の対立を憂いた佐藤は、原少将と数人で船上のテラスで歓談中の出来事を日記で次のように記している。
 「余は多少酒の力に任せたる嫌ありしも海軍部の結束上痼疾なる小林、原反目にメスを加うるはこの時なりと感じ、若し小林、原両閣下の間に従来の如き扞格を見る場合には原少将を海中に投棄することに海軍随員申合わせ済みなりと語る。聊か云い過ぎたりと見え少将の顔色変ず」とある。
 原少将の目の前で、面と向かって「あんたを海に投げ捨てるよ」と言っているわけで、さすがの原少将も顔色が変わった。このとき佐藤は海軍中佐であるから、中佐が少将に向かって、思い切った事を言ったものだが、佐藤中佐はそれほど真剣に国防の事を考えていたのである。
 「父、佐藤市郎が書き遺した軍縮会議秘録」(文芸社) の佐藤市郎プロフィール(佐藤多満・信太郎編)には、上司に誤りがあれば遠慮なく直言していたので、傍で見ている同僚は「あんなこと言ったら辞めさせるだろうに、家族の多い自分には、とてもできないことだ」と言っていたそうだ(佐藤多満は市郎の夫人、信太郎は長男)。

4.佐藤市郎海軍中将(4) 学校をずっと首席で通した秀才だがノートというもの一冊も使ったことがない

2006年04月15日 | 佐藤市郎海軍中将
 昭和2年4月5日の東京日日新聞はジュネーブ軍縮会議随員のゴシップ記事として佐藤中佐を次のように評している「佐藤中佐は学校をずっと首席で通した秀才だがノートというもの一冊も使ったことがない。講義の時は定って居眠りばかりしていたという。今度は居眠りしないと声明」。
 主力艦以外の補助艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦の軍縮を行う昭和6年に開催されたロンドン軍縮会議には山本五十六海軍少将が随員として佐藤大佐と共に出席していた。「名将・愚将・大逆転の太平洋戦史」(講談社)によると、全権団の次席であった山本は外務省や大蔵省を押さえて海軍主導で交渉を進め、ロンドン軍縮会議の調印に大きく貢献している。当時すでに山本は海軍部内でその人望が厚く、軍縮会議随員からも尊敬を一身に集めていたといわれる。佐藤大佐も当時、山本五十六を尊敬していたことが記録に残っている。「父、佐藤市郎が書き遺した軍縮会議秘録」(文芸社)には「矢っぱり山本さんの下で一番重要な役割を受け持つのだ相だ、之が今日嬉しかった第二」、「しっかりしている山本さんの下なら真に働き甲斐がある」などと記されている。余りの頭脳明晰ゆえに上司にさえ癇癪玉を度々爆発させる海軍の大秀才、佐藤大佐も山本五十六には心酔していた事が記されている。それほど山本五十六は部下から慕われる、指揮官としての度量を充分に備えていたことが分かる。

3.佐藤市郎海軍中将(3) 上司に対しても屡(しばしば)癇癪玉を破裂させていた

2006年04月08日 | 佐藤市郎海軍中将
 「父、佐藤市郎が書き遺した軍縮会議秘録」(文芸社)には上司の批判が多く見られる。頭のよい人だから上司の頭に隙間風がヒュウヒュウと吹き抜けていくのがよく見える。巻末のプロフィルに「市郎は嘘のない、正しく生きることが生活の第一信条で、この信条を、海軍でのご奉公はもちろん、日常生活でも通した。ちょっとでも曲がったことは絶対に許せない質で、要領よくできない人だった。彼の清く正しく生きるという理想に対して現実の世の中は余りにも醜く、志を得ることができなかったようだ。癇癪持ちで、日常家庭内で家族に対してはもちろんのこと、上司に対しても屡(しばしば)癇癪玉を破裂させていたことは、本遺稿中にも書かれている。」とある。
 この本に、失敗に陥ったジュネーブ軍縮会議の代表団の人物評が載っている。会議の失敗に憤慨した佐藤中佐は失敗の原因について米国、英国の状況を分析した後に、日本については「役者が不足なり」と述べている。全権団に対しては「老骨徒に過去に樹立したる名を傷つけざらんことのみに専念し消極また消極的」とある。
Adml.K(K将軍)については、「赤煉瓦の馬鹿電と過労のため七月下旬からめっきり衰えたり」と評している。K将軍は小林海軍中将。赤煉瓦は海軍省、馬鹿電は人物評の一こまに、「海軍省の連中-電文を見れば大体見当付くべし」と記している。adml.H(H将軍)については、「獅子身中の虫。Saigonのホテルのテラスで予が宣言したるごとく、彼を印度洋に投棄せざりしを後悔せること一再ならず」と。H将軍は原敢二郎海軍少将と推察される。Capt.T(T大佐)については「大したものに非ず、messennger boy(メッセンジャーボーイ)が適任」と。T大佐は豊田貞次郎海軍大佐であろう。Capt.H(H大佐)については「之は大したもの。三一年の会議のため切に健在を祈る」と評価している。H大佐は堀悌吉海軍大佐と推察される。

2.佐藤市郎海軍中将(2) 私達、男の三兄弟は、頭の良さは上からだよ

2006年04月01日 | 佐藤市郎海軍中将
 山口県熊毛郡田布施町出身の兄弟宰相、岸信介と佐藤栄作の長兄が佐藤市郎海軍中将。故岸信介氏か又は故佐藤栄作氏の言葉で「私達、男の三兄弟は、頭の良さは上からだよ」と言ったという伝聞がある。それほどあまりにも秀才で、海軍兵学校、海軍大学校ともに首席で卒業したが、同じ首席でも過去に例を見ない高得点であったという。佐藤中将と海軍兵学校36期の同期生には沢本 頼雄、塚原二四三、南雲忠一の三人の海軍大将がいるが、頭の良さは佐藤中将が抜きん出ていたことは衆目の認めるところだ。
 佐藤は海軍大学校を大正9年に卒業してフランスに駐在。フランスから「シュバリエー・ド・ロルドル・ナッショナル・ド・ヌール」勲章を受けている。昭和2年ジュネーブ軍縮会議随員、4年国際連盟陸海空問題常設諮問委員会・帝国海軍代表、5年ロンドン軍縮会議随員、6年国際連盟支那調査問題海軍準備委員会委員など中佐、大佐時代はまさに日本を代表する軍人外交官として海外生活が多い人だった。その後昭和9年には45歳で海軍少将になっている。
 佐藤は出席した当時のジュネーブ軍縮会議、ロンドン軍縮会議の軍縮会議の表裏、会議に参加した代表団の人間模様を記録していた。それを長男の佐藤信太郎氏が編集して出版したのが、「父、佐藤市郎が書き遺した軍縮会議秘録」(文芸社)。歴史的に見ても貴重な本でフランス政府からも高い評価を得ている。軍縮会議の進展状況と海軍高官の人間模様を、日記的に赤裸々に書いた本は少ない。

1.佐藤市郎海軍中将(1) 海軍の飛びぬけた秀才は、岸・佐藤兄弟宰相の長兄

2006年03月25日 | 佐藤市郎海軍中将
上司にもしばしば癇癪玉を破裂させていた海軍の飛びぬけた秀才は、岸・佐藤兄弟宰相の長兄、佐藤市郎海軍中将。

<佐藤市郎海軍中将プロフィル>
 佐藤 市郎は1889(明治22)年8月22日、父佐藤秀助、母モヨの長男(三男七女)として山口県熊毛郡田布施町に生れる。岸信介・佐藤榮作の兄弟宰相の長兄。曽祖父佐藤信寛は初代島根県知事。
1908(明治41)年 海軍兵学校(36期)卒 卒業成績192人中1番。兵学校時代の成績は平均点が97.5点で日本海軍はじまって以来の秀才と言われた。1920(大正9)年 海軍大学校(18期)卒(首席)。フランス駐在。1927(昭和2)年 ジュネーブ軍縮会議随員。11月15日聯合艦隊首席参謀。1928(昭和3)年12月10日海軍大佐。「長良」艦長。1929(昭和4)年8月29日国際連盟海軍代表。1930(昭和5)ロンドン軍縮会議随員。1932(昭和7)年11月15日 教育局第1課長。1934(昭和9)年11月15日少将。航空本部教育部長。1936(昭和11)年4月1日 呉鎮守府参謀長。12月1日海軍大学校教頭。1938(昭和13)年11月15日海軍中将。旅順要港部司令官。1939(昭和14)年11月15日軍令部出仕。1940(昭和15)年4月1日待命。4月5日予備役編入。4月29日勲一等旭日大綬章。1958(昭和33)年4月12日、東京の病院で心筋梗塞にて死去。69歳。