陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

492.東郷平八郎元帥海軍大将(32)君が独走することを海軍省は恐れている。今は大事な時だ

2015年08月28日 | 東郷平八郎元帥
 こうなってくると、万金をつんでもこれを譲ってもらおうという好事家連中がやって来たが、倉吉は「へん、見損うない!」と鼻をこすりあげた。

 そこで、泊り客の一般人が「御老中」と倉吉を呼ぶようになった。老中の越中守をもじったのだが、倉吉はこの称号が気に入って、自ら風呂番老中と称して得意がった。

 この話はかなり有名になったが、東郷元帥だけには極秘にしてあった。そこで東郷元帥は知らないであろうと、小笠原少将は思っていた。

 それから数年して、小笠原少将は東郷元帥のお供をして三島館に泊まった。東郷元帥が風呂に入っている間に、小笠原少将が女中に「閣下はまだあおのことは御存知ないだろうな?」と訊ねると、女中は「それがどうやら御存知のようなんですよ」と答えた。

 「なに?」と小笠原少将が言うと、女中は「いえ、別におたずねはありませんけど、このごろ御入浴の時は、必ずあれを袂にしまわれるのですよ…」と答えた。

 なるほど、それなら知られたかなと、食事のあとで、小笠原少将が、遠回しに訊ねると、東郷元帥は、その大きな目玉でぎょろりと小笠原少将の方を見て「どうも近頃は物騒じゃからな」と苦笑した。

 日本海海戦をはじめ、作戦では一分の隙も見せなかった東郷元帥だが、とんだところで、油断大敵、寝首をかかれてしまった。

 昭和五年一月二十一日、アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアによる、ロンドン海軍軍縮会議(補助艦保有量制限)が始まった。

 「東郷平八郎元帥の晩年」(佐藤国雄・朝日新聞社)によると、その日、前海相・軍事参議官・岡田啓介(おかだ・けいすけ)大将(福井・海兵一五期・海大将校科甲種二期・大佐・戦艦「鹿島」艦長・少将・人事局長・中将・艦政本部長・海軍次官・大将・連合艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・海軍大臣・首相・勲一等旭日桐花大綬章・功三級)は自宅を出た。

 海軍軍令部長・加藤寛治(かとう・ひろはる)大将(福井・海兵一八首席・在英国大使館附武官・大佐・海軍兵学校教頭・巡洋戦艦「比叡」艦長・少将・砲術学校校長・第五戦隊司令官・横須賀鎮守府参謀長・欧米各国出張・海軍大学校校長・中将・ワシントン会議首席随員・軍令部次長・第二艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・大将・軍令部長・高等技術会議議長・後備役)を四谷三光町の自宅に訊ねたのだ。

 東郷グループで軍縮には強硬派だった加藤大将を説得してほしい、と海軍次官・山梨勝之進(やまなし・かつのしん)中将(宮城・海兵二五期次席・海大五期次席・海軍大学校教官・大佐・戦艦「香取」艦長・軍務局第一課長・ワシントン会議全権随員・少将・人事局長・中将・艦政本部長・海軍次官・佐世保鎮守府司令長官・呉鎮守府司令長官・大将・昭和八年三月予備役・学習院長・戦後仙台育英会会長・学習院名誉院長・従二位・勲一等)に頼まれたからだ。

 岡田大将と加藤大将は同郷の福井県出身で、性格はまるで違っていたが、仲が良かった。加藤大将を自宅に訊ねて、岡田大将は次のように言った。

 岡田大将「君が独走することを海軍省は恐れている。今は大事な時だ。だから自重してくれ」。

 加藤大将「もちろんです。だが、七割は一歩も譲ってはならん。妥協してからでは遅いんです。東郷元帥も同じお気持ちです」。

 岡田大将「君は何かというと東郷元帥を持ち出すが、この際慎んだ方がいい」。

 加藤大将には、同郷の先輩の忠告が煙たかったのだ。

 昭和五年三月十二日、マクドナルド英国首相の仲介で、大型巡洋艦・軽巡洋艦・駆逐艦・潜水艦の対米比率六九・七五パーセントの妥協案が提示された。

 ロンドン海軍軍縮会議全権・海軍大臣・財部彪(たからべ・たけし)海軍大将(宮崎県都城市・海兵一五首席・軍令部参謀・大佐・軍令部参謀・英国出張・一等戦艦「富士」艦長・第一艦隊参謀長・少将・海軍次官・中将・第三艦隊司令官・旅順警備府司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・佐世保鎮守府司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・海軍大臣・ロンドン海軍軍縮会議全権・軍事参議官)から政府に見解を求める電報が外務省に届いたのは、三月十五日午前のことだった。

 さらに「これが最終案、これ以上の交渉は余の力におよび難し」という若槻禮次郎(わかつき・れいじろう)首席全権(島根・帝国大学法科大学法科を首席卒業・大蔵省主税局国税課長・大蔵次官・貴族院勅選議員・大蔵大臣・内務大臣・首相・ロンドン軍縮会議首席全権・首相・男爵・勲一等旭日桐花大綬章)の意見書が付いていた。

 外相・幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう・大阪・帝国大学法科大学卒・外務次官・ワシントン会議全権委任・外務大臣・首相臨時代理・戦後首相・国務大臣・衆議院議長・従四位・男爵・勲一等旭日大綬章)はこの電報を受け取った。

 午後一時半、幣原外相は、この電報を持って、首相・浜口雄幸(はまぐち・おさち・高知・帝国大学法科卒・大蔵省・専売局長官・逓信次官・大蔵次官・大蔵大臣・内務大臣・首相・東京駅で銃撃される・首相辞任後死去・正二位・勲一等旭日桐花大綬章)を訪ねて協議した。
 
浜口首相は、その日の夕方、海軍次官・山梨勝之進中将を呼んで、「海軍部内の意見をまとめよ」と命じた。

491.東郷平八郎元帥海軍大将(31)これほどの物を持っているのは私ぐらいでして…

2015年08月21日 | 東郷平八郎元帥
 大正七年三月のある日、小笠原長生少将が一人で三島館に投宿すると、それを待ちかねていたように倉吉がやってきた。

 「乃木と東郷・下」(戸川幸夫・読売新聞社)によると、三島館というのは、静岡県沼津の牛臥海岸の松林にある小さな旅館で、当時御用邸に参上する顕官貴紳士はこの三島館に泊まることにしていた。東郷平八郎元帥も常宿にしていた。

 倉吉というのは、白鳥倉吉ではなくて、この三島館の風呂番のことで、落合倉吉という名前だった。極めて無邪気で実直な男だった。しかもどんな偉い人が来ても怖れず対等に話をするというので、みんなから可愛がられていた。

 その倉吉が、三島館に着いた小笠原少将のところに来て、両手をついて、「閣下にお願いがあるのですが」と神妙に言った。東郷元帥が小笠原少将を可愛がっていたことを倉吉は知っていた。

 小笠原少将が「なんだね、改まって」と言いうと、倉吉は、一尺四方位の桐の箱を差し出して「へえ、実はこれに閣下の箱書きが頂きたいのでして……」と言った。

 「箱書きというが、軸ものでもないようだが……?」と小笠原少将が言うと、倉吉は「はい、これは東郷様のお肌に着けられていた物です。東郷元帥が御使用になった物に間違いがない、という事を書いて頂きたいので……」と答えた。

 小笠原少将が不審に思って霧箱の蓋を開いて見ると、縮緬の袱紗に包んだ物が入っていた。それをさらに開けて驚いた。中には薄汚れた越中ふんどしが、洗濯もされずに安置されていた。

 「一体どうしたというんだね?」と小笠原少将が訊ねてみると、倉吉は自慢そうに「へえ、これは私が頂戴しましたもので」と答えた。

 「閣下がこんな使い古した物をおやりになる筈はないが……」と小笠原少将が言うと、倉吉は次のように答えた。

 「実は先日おいで遊ばした時に、新しいのとお取替えになるんで、倉吉すまんがこれを処分しておいてくれんか、と仰せられました。これぞまさしく千載一遇の好機というやつで、閣下のお肌にじかに触れた物が手に入るなんて…」。

 小笠原少将が「それも特に大切な部分に触れたものをな」と言うと、倉吉は「そうなんで。天下広しといえど、これほどの物を持っているのは私ぐらいでして…」と言った。

 「しかし、閣下は捨てろと仰ったんだろう」と小笠原少将が訊ねると、倉吉は「いえ、捨てろとは申されません。処分をしろと…」と答えた。

 「それはついでの折りに焼却でもしてくれという意味だ」と小笠原少将が言うと「とんでもございません。こんなお宝を捨てたり、焼いたりできるものですか。そこで私が処分させて貰ったんですが……」と倉吉は答えた。

 倉吉は早速、指物師に頼んで箱を作り箪笥にしまったが、どうも盗られそうで心配だった。毎晩、置き場所を替えて、おちおち眠れないほどだったが、しかし、これが東郷元帥の物だということを誰かしっかりした人に証明して貰わなくては、人が信じてくれないだろうと思った。

 そこで、小笠原少将が東郷元帥のお気に入りだと世間からも信用されているから、この方に頼むのが一番いいと考えついたのだという。

 他の者なら断るところだが、倉吉のことだし、元帥にこんなエピソードの一つくらいあってもいいだろうと、小笠原少将は茶目っ気を出して次のように言った。

 「他なるぬお前のことだから引き受けてもいいが……まさか東郷元帥御愛用品、小川原長生識でもあるまいから、何か別のことを書いてやろう」。

 小笠原少将は考えた。いくらなんでも元帥の名前を出すのは憚れる。だから明白に東郷元帥と言わずに、それ悟らせるうまい文句はないかな…。文か詩か歌か…といろいろ感がえて、そうだ、物が物だけに一番ふさわしいのは狂歌だろう、と思いついた。そこで箱蓋の裏にさらさらと筆を走らせて次のように書いた。

 「日本海(二本買い)ぐるぐる巻きに敵を締め きつい手柄をかくはたち布(切り)」。

 倉吉は躍り上がって喜んだ。自慢して見せ廻っているうちに、「これじゃあまだ元帥のものだということは解らないよ」と言う者がいた。そういえば、この箱書きには元帥の名もなければ、小笠原の雅号もない。倉吉はすっかりしょげかえってしまった。

 そこへやって来たのが、杉浦重剛だった。倉吉は、今度は杉浦をくどきにかかり「小笠原様も書いて下さったのですから……」と、とうとう攻め落としてしまった。杉浦は漢詩で次のように箱書きした。

 「非学晉時放免俗 猶思賢宰苦心ノ痕 誰知襤褸三尺布 留得英雄一片魂」。

 この読みは次の通り。(晉時放免ノ俗ヲ学ブニ非ズ 猶オ思ウ賢宰苦心ノ痕 誰カ知ル襤褸三尺ノ布 留メ得タリ英雄一片ノ魂)。

 これに力を得た倉吉は、投宿する名士を片っ端から頼み込んで、五条橋上の弁慶よろしく、ばったばったとかき集め箱書きさせた。箱書きが増えるたびに、さらに外箱を作るので、箱は次第に大きくなり、遂には長持ちのようになってしまったという。

490.東郷平八郎元帥海軍大将(30)そうですかね。しかし、パイも捨てたものじゃないですよ

2015年08月14日 | 東郷平八郎元帥
 皇太子(昭和天皇)の教育を受け持つことになった東宮御学問所は、東郷平八郎元帥が総裁になった大正三年五月から高輪の東宮御所内でスタートした。

 始業式で東郷元帥は直立不動で、「殿下には、ますますご健全に、御学事に精励あそばさんことを乞い願いたてまつる」と震え声であいさつした。その時、六十六歳。昭和天皇は十三歳の少年だったが、すでに陸海軍少尉に任官していた。

 東大、学習院教授らが御用掛(教師)となって、倫理、歴史、地理、国文、武術、軍事など多数の科目が実施された。

 帝王学の徳育倫理担当は杉浦重剛(すぎうら・しげたけ=じゅうごう・滋賀県大津市・藩校遵義堂・大学南校・文部省派遣英国留学・文部省・東京大学勤務・東大予備門校長・東京英語学校創立者の一人・読売・朝日新聞の社説担当・衆議院議員・東京文学院設立・國學院学監・東亜同文書院院長・東宮御学問所御用掛・摂政宮=昭和天皇御進講役)が選ばれた。

 杉浦の帝王学は「三種の神器」「五箇条御誓文」「教育勅語」を柱に進講した。杉浦は後に皇太子の結婚をめぐる「宮中某重大事件」で妃殿下の家系に色盲色弱の可能性があるとして、ご婚約取り消しの動きがあった時、「綸言汗の如し」と辞表をたたきつけた。

 「君主の言は汗のように一度出たら引っ込まない」という杉浦倫理学で、「いったん成立した婚約を破棄するのは人倫にもとり、私の教えた倫理は破たんする」というのだった。

 病気の東郷元帥に代わって御学問所幹事の小笠原長生が杉浦をなだめ、結局大正十年二月十日、内務省は「東宮妃内定に変更なし」と発表した。

 宮内大臣・中村雄次郎(なかむら・ゆうじろう・三重県津市・フランス留学・陸軍中尉・陸軍大学校教授心得・士官学校教官・砲兵少佐・陸軍大学校教授・参謀本部陸軍部第一局第一課長・砲兵中佐・軍務局砲兵事務課長・大佐・軍務局砲兵課長・軍務局第一軍事課長・兼砲兵会議議長・少将・陸軍士官学校校長・陸軍次官・陸軍総務長官・軍務局長・中将・予備役・製鉄所長官・貴族院勅選議員・男爵・南満州鉄道総裁・関東都督・宮内大臣・枢密院顧問)が引責辞任して一件落着した。

 翌日の新聞にはじめて、「某重大事件」の記事が現れ、「お健やかに御機嫌麗はし」の見出しで、当時流行の「二百三高地」型ヘアスタイルの良子女王(後の昭和天皇皇后)の写真が掲載された。

 冬の間、沼津御用邸での講義には、東郷元帥は必ず出かけた。進講者によっては多少意見も異なるので、自分も一緒に同席して講義を聞いた。

 進講が終わると、近くの定宿「三島館」に泊まった。杉浦らも一緒だった。ある日、東郷元帥と杉浦が二人そろって松林の中の道をトボトボと宿へ帰った。直ぐ後を小笠原長生がついていた。どんな天下国家の話をしているのだろうかと、小笠原は聞き耳を立てた。それは次のようなものだった。

 東郷「杉浦さん、あなたはパイというものは好きですか」。

 杉浦「食べないことはありませんが」。

 東郷「あの、パイというものは作り方が大変難しくて、パイが一通り作れるようになると一人前の料理人だそうですよ」。

 杉浦「そうですかね。私はパイを食べても、そんなにうまいものとは思いませんが」。

 東郷「いやそうじゃありませんよ。よくできているのは、なかなかうまいものです」。

 それから、東郷元帥がパイの作り方の講釈を始めた。

 杉浦「そんなものですか。しかし、私はやっぱり玉露で藤村の羊かんを食べた方がいいです」。

 東郷「そうですかね。しかし、パイも捨てたものじゃないですよ」。

 二人はまるで子供のように夢中になって食べ物の話をしていたのだ。「元帥や帝王学の先生といっても、堅苦しい話ばかりではなかった」と小笠原は述べている。

 東宮御学問所で教務主任だった白鳥庫吉(しらとり・くらきち・千葉県茂原市・千葉中学・一高・東京大学文科大学史学科卒・学習院教授・東京帝国大学文科大学史学科教授・東宮御学問所御用掛・文学博士・帝国学士院会員・「東洋学報」創刊・東洋文庫設立・理事長)は東郷元帥死去に際して次のように語っている。

 「ご教育の大方針を決める時集まって協議したが、東郷さんは自分の意見を述べられるような方ではなかった。黙ってみんなの意見を聞き、一致するところをつかんで決められた。だから異論はなかった。自宅に伺うとじゅんじゅんとして話され、指導もされたので、どこまでも黙っている人ではない」(昭和九年五月三十日、朝日新聞)。

489.東郷平八郎元帥海軍大将(29)てつ子は本気に怒りだして、さっと顔色が変わった

2015年08月07日 | 東郷平八郎元帥
 東郷大将は大勲位代表として御供申し上げた。桃山御陵斂葬の御儀は十五日午前五時に執り行われ、諸式もすべて滞りなく終わったので、東郷大将は即日帰京の途に就いた。

 東郷大将が乃木大将夫妻の殉死を耳にしたのは、この御供奉の途中であったが、他の供奉員たちが愕然として色めき立つ中を、東郷大将は静かにうなずき、瞑目しただけで、何事もなかったかのように平然としていた。

 東郷大将には、”来るべきものが来た”という感じしかなかった。しかし、乃木大将の死を最も悲しみ、同時に最も喜んでやっていたのも、東郷大将であった。

 九月十六日の午前中、東郷大将は海軍大将の正装で乃木邸を訪問し、恭しく夫妻の霊前に深く頭を垂れた。

 東郷大将は乃木大将の歌を詠んだ。それは次のようなものであった。乃木大将としては百万の読経よりも嬉しいものであったに違いない。

 「見るにつけ聞くにつけてもたゞ君の 真心のみぞしのばれにける」。

 大正二年四月二十一日、軍事参議官であった東郷平八郎海軍大将は、「元帥府ニ列セラレ特ニ元帥ノ称号ヲ賜フ」と、元帥の称号を受けた。この時、東郷大将は六十六歳、海軍生活四十四年目だった。

 元帥というのは軍事上の最高顧問で、陸海軍大将の中から「老功卓抜、尊敬信頼される人」が選ばれた。軍人としては最高の地位で、生涯現役として処遇された。宮中の席次も大臣と同列だった。

 ちなみに、昭和九年五月、東郷元帥が死去の際、「時の話題」として、「元帥」について新聞に次のような記事が掲載された。

 「明治五年、西郷隆盛が元帥に任ぜられたが、これは当時の官制で大将の上役にあるものを元帥に任じたもので、今日のいわゆる元帥とは事情を異にしている。今の元帥は明治三十一年一月二十日、軍務に関する最高顧問機関として元帥府が設けられ、陸海軍大将の中から「老功卓抜」なるものを選び、これを列せしむるとの詔勅が出され、同時に元帥府条例が発布されたのに基づいている」

 「この元帥府条例は、その後大正七年八月に改正されたが、その要旨は、一、元帥府に列せられる陸海軍大将は特に元帥の称号を賜う。一、元帥府は軍事上の最高顧問とす。一、元帥は勅を奉じて陸海軍の検閲をおこなうことがある。一、元帥には元帥佩刀及び元帥徽章を賜う」

 「この元帥府条例が発布されてから(昭和九年五月までに)元帥府に列せられたのは陸軍十四人、海軍十人の計二十四人。うち八人が皇族、十六人が一般軍人である。病が危篤になって特に元帥府に列せられる者もいたが、東郷の二十二年間は最古参である」

 「一般の軍人は大将になっても定年があるが、元帥府に列せられると生涯現役として待遇され、終身その栄誉をになう。だから真に武人の典型で軍の内外から尊敬信頼の的となる陸海軍大将中のいわゆる「老功卓抜」の士でなければならない」

 「元帥には刀と徽章を賜るが、元帥佩刀は黄金作りで柄の長さは五寸五分、鞘の長さ二尺六寸、金銀線入りの紫革の円紐のついたものである。副官として佐尉官各一名を常時付けるなど軍人最高の優遇を与えられている」。

 東郷元帥の夫婦仲は睦まじかった。乃木大将が妻の静子に対して表向きには愛情を見せまいとしたのとはまるきり反対で、他人が見ていても羨ましいほどの愛情を東郷元帥はむき出しにした。

 東郷元帥は妻のてつ子とよく碁を打った。ことに閑職になってからはよく打った。東郷邸に出入りして、東郷元帥に愛され、碁の相手をよくしていた近所の人で阿部真造という人がいた。

 阿部がある日、東郷邸に伺って見ると、東郷元帥はてつ子と碁を打っていた。「いま勝負がつくから……」と東郷元帥が言うので、傍で観戦していたが、まあ、どちらもザルの域を出ていない。

 そのうち、てつ子が見落としをして、継ぐべきところを、継がなかった。それを見るなり、間髪を入れずに東郷元帥はピシッとそこを切った。

 そうなっては大石が死にである。「アッ」と、てつ子が叫んで、「見落としよ、待ってちょうだい」と言った。東郷元帥はギョロリと大きな目玉を動かして、「待たぬ」と答えた。

 「だって、これは誰が見ても見落としじゃありませんか、待ってよ」とてつ子が言うと、東郷元帥は「戦争に待ったがあるか」と言った。「だって、ここを切られちゃ負けよ。だから……」「駄目だ」。

 散々言い合っているうちに、てつ子は本気に怒りだして、さっと顔色が変わった、かと思うと、ガラガラっと、盤上の石を引っ掻き回して、さっと立って行った。

 東郷元帥は、ふっと笑って阿部の顔を見て、パチパチと眼をしばたたかせた。阿部は、おかしくておかしくて、とうとう笑い転げてしまった。