陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

422.乃木希典陸軍大将(2)何も今夜あたり死ななくたって、他の晩にしてくれりゃいいんだ

2014年04月24日 | 乃木希典陸軍大将
 新聞社内での状況を説明すると、「乃木は馬鹿だ」という社員たちの罵倒は、一義的には、御大葬の記事をやっと組み上げて、皆、へとへとに疲れ切っているところへ、また紙面を作り変えなければならないようなことを仕出かしゃがって……という不機嫌の表明なのである。

 そのことは、「乃木大将は馬鹿だ」と最初に言い出したのが、労働のしわ寄せを蒙る植字工であったという事実が示している。

 当時は、植字工が鉛の活字を一つ一つ拾って印刷のための記事を組み立てていた。やっと御大葬の記事を組み終えたところで、乃木将軍殉死の記事を組み入れなければならなくなったので、レイアウトは大きく変更になるし、新たに記事を組み直さなければならない。植字工は大変なことになった。

 また、夕刊編輯主任のMは、「本当に馬鹿じゃわい。何も今夜あたり死ななくたって、他の晩にしてくれりゃいいんだ。今夜は(御大葬の)記事が十二頁にしても這入りきれないほど、あり余っとるんじゃ」と言った。

 外交部長のKは「惜しいなあ。もっと種の無い時に死んでくれりゃ、全く我々はどの位助かるか知れないんだ。無駄なことをしたもんだな」と残念がっていた。つまり新聞社の社員たちは、乃木大将の殉死は大きく扱わなければならない、という認識では一致していたわけである。

 ただ、それがニュースとしては極めて間が悪いために、苛々不機嫌になり、乃木は将軍として無能で、多くの兵士を無駄死にさせた、といった批判も出てきた。御馳走で満腹しているところへ、思いがけず、もう一つ、どうしても平らげなければならない御馳走が来たので、苦し紛れに愚痴が出たというようなものだった。

 以上の記述を踏まえ、「新聞を疑え」の著者、百目鬼恭三郎氏は、乃木大将について、次のように述べている。

 「世間はともすれば戦争に勝った将軍より、悲劇的な敗けかたをした将軍のほうを英雄視する風があり、源義経や乃木希典がそうだ。これが人気というもので、人気は貸借対照表による合理的な価値判断によって決まるのではない。多くの人を感情的にひきつけるかどうかということなのである」

 「乃木の場合でいうと、彼の自己破壊衝動型の行動と、置かれている地位との極端なアンバランスが、人の庇護本能をくすぐる。そこに人気の秘密があったわけで、彼が将軍として無能だったという、本来もっとも評価の対象となるべき実績は、まるで考慮されなかったといってもよろしかろう」

 「できるだけ多くの読者を獲得することを至上命令とする日本の新聞が、このような世間の感情に逆らって、『乃木は無能な将軍であった、彼が多くの兵士を殺した責任は、自刃によってもなお償えるものではない』といった論陣を張り得なかったのは当然過ぎるほどだ」。

 「将軍 乃木希典」(志村有弘編・勉誠出版)によると、乃木希典は嘉永二年十一月十一日(一八四九年十二月二十五日)、父・乃木十郎希次、母・寿子の三男として生まれた。なお、長男も次男もち乳呑み児のうちに死んでいた。

 三男が生まれたとき、見るからに弱々しく、乃木十郎希次は、前に死なせた二人の男の子の運命と思い合わせて、「せっかくの男の子が生まれてきたたが、やっぱり駄目だ。育ちそうもない。あとで力を落とすよりも、初めから無い子とあきらめてしまったほうがよかろう」と、生まれてきた子に「無人(なきと)」という名前をつけた。これが後の乃木希典である。

 五年遅れて、乃木十郎希次にまともや男の子が生まれた。今度のは丈夫そうだった。「無人が育ったのだから運が直ってきたのかもしれん。今度こそ、本当に人になるに違いない」というので、無人の弟には「真人(まこと)」と名前をつけた。

 乃木真人は、後に玉木文之進の養子になり、玉木正誼(たまき・まさよし)となった。子供のない玉木文之進が乃木十郎希次に懇望して真人をもらいうけたのだった。そして吉田松陰の実兄、杉民治の娘、お豊を、正誼の妻として迎えた。玉木文之進は吉田松陰の叔父であった。

 その後も、乃木十郎希次には、男の子の「集作」、女の子の「とめ子」、「いね子」が次々に生まれて、皆無事に成人している。

 乃木十郎希次は、宇治川の先陣で名高い近江源氏・佐々木四郎高綱を先祖に持ち、長府毛利家、つまり長門萩にある毛利元就の本家ではなく、元就の四男、元清を先祖とする分家の、長門府中(長府藩)五万石の毛利家の家臣だった。

421.乃木希典陸軍大将(1)「乃木が死んだんだってのう。馬鹿な奴だなあ」と言った

2014年04月17日 | 乃木希典陸軍大将
 大正元年九月十三日午後八時、乃木希典は自邸の二階の部屋に明治天皇の写真を飾り、その写真の下で殉死した。静子夫人も共に殉死した。

 明治天皇は、糖尿病が悪化し、尿毒症を併発して、明治四十五年七月二十九日に崩御した。同年(大正元年)九月十三日に、東京・青山の帝国陸軍練兵場で大喪儀(御大葬)が行われた。

 「新聞を疑え」(百目鬼恭三郎・講談社)によると、明治末から昭和初期にかけて、諷刺文学作家として活躍した生方敏郎の著書、「明治大正見聞史」(中公文庫)に、「乃木大将の忠魂」という一章がある。

 大正元年九月十三日夜、当時東京朝日新聞の新聞記者だった生方敏郎は、明治天皇の御大葬の模様を取材して社に戻り、原稿を書き終えて雑談をしているところへ、「乃木希典夫妻が殉死した」という報が入ってきた。

 そこで、生方は同僚と一緒に深夜、乃木大将の旧主家である毛利子爵別邸を訪れて取材して戻る、という顛末を描いたのが「乃木大将の忠魂」だ。ここでは、新聞社内で乃木大将の殉死に対する批判があけすけに語られている様子を記している。それは次のようなものだった。

 夫人が一緒に自殺したと聞いて、「では心中だな」と社会部記者が言ったので、皆がどっと笑った。「乃木大将は馬鹿だな」と、若い植字工が大声で叫んだのをきっかけに、皆の口から乃木大将を非難する声が盛んに出てきた。

 主筆のT(鳥居素川だろう)が、「そういうことはこの際慎んだら、どうです」とたしなめると、今度はTを偽善者と非難する声が盛んになった。社長のM(村山竜平)が編輯室(編集室)に入って来て、「乃木が死んだんだってのう。馬鹿な奴だなあ」と言った。

 ところが、翌朝の紙面には、乃木大将の殉死が「軍神乃木将軍自殺す」と、当時としては破天荒の四段抜きの大見出しで扱われ、尊敬を極めた美しい言葉で綴られていた。これについて生方は次のように記している。

 「私はただ唖然として、新聞を下に置いた。昨夜乃木将軍を馬鹿だと言った社長のもとに極力罵倒した編輯記者らの筆によって起草され、職工殺しだと言った職工たちに活字を組まれ、とても助からないとこぼした校正係に依って校正され、そして出来上がったところは、『噫軍神乃木将軍』である。私はあまりに世の中の表裏をここに見せ付けられたのであった」。

 <乃木希典(のぎ・まれすけ)陸軍大将プロフィル>

嘉永二年十一月十一日(一八四九年十二月二十五日)、長州藩の支藩である長府藩(山口県西部)の藩士・乃木十郎希次と妻・壽子の三男。長府毛利候上屋敷(毛利甲斐守邸跡・江戸麻布日ガ窪)の侍屋敷で生まれた。「乃木希典」(宿利重一・魯庵記念財団)によると、乃木希典は幼名を「無人」、後に「源三」、「文蔵」といい、明治四年に「希典」と改名している。
安政五年(十歳)十一月乃木無人は父母に伴われ、弟妹と江戸を出発、十二月長府藩、長門の国豊浦に帰郷。
安政六年(十一歳)四月乃木無人は松岡義明に小笠原流の礼法を習う。
万延元年(十二歳)島田松秀に句読・習字を習う。
文久元年(十三歳)結城香崖に漢学を、江見後藤兵衛に武家の礼法、弓馬故実を学ぶ。工藤八右衛門に人見流馬術、小島権之進に日置流弓術を、多賀鉄之丞に洋式砲術を学ぶ。
文久二年(十四歳)一月から中村安積に賽蔵院流槍術、黒田八太郎に田宮流剣道を学ぶ。三月から福田扇馬に兵書、歴史を学ぶ。
文久三年(十五歳)六月藩学敬業館内の集童場に入学、武教講録を学ぶ。十二月元服して名を「源三」と改名する。
元治元年(十六歳)三月乃木源三は萩に行き、玉木文之進(乃木家の親戚)の門下生となり修学。実は父と対立して無断で家出をして玉木家に寄食、農業に従事した。長州藩士・玉木文之進は山鹿流の兵学者で松下村塾の創立者。吉田松陰の叔父。
慶応元年(十七歳)九月明倫館文学寮に通学。栗栖又助より一刀流剣道を学び始める。
慶応二年(十八歳)四月乃木源三は萩から豊浦に帰り、兵務に就く。山砲一門の指揮官となり、豊前の国(小倉口)で戦う。奇兵隊に入り、山縣狂介(山縣有朋)の指揮を受け、戦うが左足甲に銃弾擦過傷を受ける。名前を「文蔵」に改名する。
慶応三年(十九歳)一月宗藩の命で萩藩学、明倫館文学寮に入学し、寄宿生となる。
慶応四年(明治元年)(二十歳)一月栗栖又助より一刀流の目録を伝受される。七月文学寮を退学する。
明治二年(二十一歳)一月乃木文蔵は報国隊の漢学助教(読書係)に任命される。五月戊辰戦争が終結。十一月藩命によりフランス式練習のため伏見御親兵兵営に入学。
明治三年(二十二歳)一月山口藩奮諸隊暴動につき、鎮圧のため帰藩を命ぜられ、山口金古曽で戦う。
明治四年(二十三歳)一月豊浦藩陸軍練兵教官。八月上京。十一月陸軍少佐に任ぜられ、東京鎮台第二分営に出張。乃木の陸軍少佐への大抜擢には黒田清隆が行ったといわれている。十二月歩兵第二中隊を指揮。正七位。名を「希典」に改名。
明治六年(二十五歳)四月名古屋鎮台大貳心得。六月従六位。
明治七年(二十六歳)五月休職仰せ付けられる(一回目)。九月乃木希典は陸軍卿(山縣有朋)の伝令使(副官)仰せ付けられる。
明治八年(二十七歳)九月習志野野営演習参謀。十二月熊本鎮台歩兵第一四連隊長心得(小倉に赴任)。
明治九年(二十八歳)十月二十七日秋月の乱(福岡県)で小倉城警備。戦闘となり反乱軍を撃退した。十月二十八日萩の乱(前原一誠挙兵)で、乃木希典の実弟、真人こと玉木正諠(たまき・まさよし)は反乱軍に加わり戦死した。玉木文之進は門弟の多くが萩の乱に加わったことの責任をとって自刃した。
明治十年(二十九歳)西南戦争が起きると、二月乃木希典は第一四連隊を指揮して久留米に入り植木町で西郷軍との戦闘を行ったが、連隊旗を西郷軍に奪われ、自決を図る。四月陸軍中佐、熊本鎮台参謀。十月父・十郎希次病没。
明治十一年(三十歳)一月歩兵第一連隊長。勲四等。八月二十七日乃木希典は鹿児島藩士・湯地定之の四女・シズ(静子・二十歳)と結婚。
明治十三年(三十二歳)四月歩兵大佐。六月従五位。
明治十六年(三十五歳)二月東京鎮台参謀長。
明治十八年(三十七歳)四月勲三等、旭日中綬章。五月陸軍少将、歩兵第一一旅団長(熊本)。七月正五位。
明治十九年(三十八歳)十月従四位。十一月政府の命令によりドイツ留学(川上操六少将同行)。
明治二十一年(四十歳)六月帰国。
明治二十二年(四十一歳)近衛歩兵第二旅団長。
明治二十三年(四十二歳)七月歩兵第五旅団長。
明治二十五年(四十四歳)二月休職仰せ付けられる(二回目)。十二月歩兵第一旅団長。
明治二十六年(四十五歳)四月正四位。
明治二十七年(四十六歳)五月勲二等瑞宝章。東京の歩兵第一旅団を率いて日清戦争に出征、旅順要塞を一日で落とした。だが、三国干渉で遼東半島は返還され旅順はロシアの租借地となり、ロシアは旅順に難攻不落の要塞を築いた。
明治二十八年(四十七歳)四月陸軍中将、第二師団長。功三級金鵄勲章、旭日重光章、男爵。
明治二十九年(四十八歳)十月台湾総督。十二月従三位。母・壽子病没(台湾にて)。
明治三十年(四十九歳)六月勲一等瑞宝章。
明治三十一年(五十歳)二月願により台湾総督を免ぜられ、休職仰せ付けられる(三回目)。栃木県狩野村で晴耕雨読。十月第一一師団長。
明治三十四年(五十三歳)五月休職仰せ付けられる(四回目)。東京又は那須の邸宅を往来して晴耕雨読。
明治三十七年(五十六歳)二月八日、日露戦争勃発。留守近衛師団長兼近衛歩兵第一旅団長。三月十九日希典の子息、勝典と保典が出征。五月第三軍司令官に補せられる。五月二十六日勝典金州北門外で負傷、二十七日戦死。六月六日陸軍大将。正三位。十一月三十日保典二〇三高地背面で戦死。
明治三十八年(五十七歳)一月一日ロシア軍旅順要塞司令官・ステッセル中将(男爵・パプロフスキー士官学校卒)が降伏。一月五日水師営でステッセル中将と会見。一月十四日旅順入場式。一月二十四日奉天戦に参加。九月五日米国ポーツマスで日露戦争講和条約調印。
明治三十九年(五十八歳)一月十日凱旋帰国、宇品上陸。一月二十六日軍事参議官。四月弧戦役の功により功一級金鵄勲章、旭日桐花大綬章。八月宮内省御用係。九月プロシア皇帝よりプール・ル・メリット勲章を受領。
明治四十年(五十九歳)一月三十一日学習院長。四月フランス共和国政府よりグラン・オフィシェー・ド・ロルドル・ナショナル・ド・レジョン・ドノール勲章を受領。八月従二位。九月伯爵。
明治四十一年(六十歳)五月満州に派遣される。
明治四十二年(六十一歳)四月チリー国政府より金製有功章を受領。
明治四十四年(六十三歳)二月十四日東伏見宮依仁親王・同妃両殿下グレートブリテン皇帝載冠式参列に付随行(東郷平八郎元帥も)。四月十二日横浜出帆。六月七日英国上陸、六月二十二日載冠式参列。七月三日フランス、以後ドイツ、ルーマニア、トルコ、ブルガリア、セルビア、ハンガリーを経由し八月十日ベルリン着、ドイツ皇帝統裁の演習を陪観。八月十六日モスコーを通過西シベリア鉄道経由、八月二十八日敦賀上陸、帰朝。十月ルーマニア皇帝よりグラン・クロア・ド・ロルドル・ドレトワール勲章受領、グレートブリテン皇帝よりグレートブリテン皇帝・皇后載冠式記念章を受領。
明治四十五年(大正元年)(六十四歳)五月グレートブリテン皇帝よりグランド・クロッス・オヴ・ゼ・ヴィクトリア勲章受領。六月同皇帝よりグランド・クロッス・オヴ・バス勲章受領。七月三十日午前零時四十三分明治天皇崩御。九月一日英国皇族アーサー・オヴ・コンノート親王大喪儀参列の為来朝に付接伴員仰となる。明治天皇御大葬挙行当日の九月十三日午後八時東京市赤坂の自邸で明治天皇の御跡を追って殉死。享年六十四歳。静子夫人も希典に殉じて自殺。享年五十四歳。墓所は港区青山霊園。
大正五年十一月三日皇子裕仁親王の立太子の礼が行われる。この日、乃木希典特旨を以って正二位を贈られれる。





















420.板倉光馬海軍少佐(20)軍令部より「不問に付せよ」と命令が出され、板倉少佐は銃殺を免れた

2014年04月10日 | 板倉光馬海軍少佐
 板倉大尉は水雷学校高等科学生を首席で卒業したが、卒業前に、主任教官から再三に渡り、「君の将来を思って駆逐艦をすすめる。潜水艦では生涯うだつがあがらないぞ」と口説かれた。

 だが、板倉大尉は「私は出世するために海軍に入ったのではありません。潜水艦志望は私の宿願であり、信念であります」と言って、きっぱり断った。

 板倉大尉は、太平洋戦争開戦とともに、真珠湾攻撃に、イ六九潜水雷長として参加した。その後、潜水学校甲種学生を修了し、イ一七六潜艦長、イ二潜艦長(少佐)、イ四一潜艦長として、苦難の潜水艦戦を戦った。

 「伝説の潜水艦長」(板倉恭子・片岡紀明・光人社)によると、昭和十九年四月、「イ四一潜」艦長・板倉光馬少佐は、「竜巻作戦」参加の命令を受け内地に戻った。

 「竜巻作戦」は、水陸両用戦車、秘匿名「特四内火艇」を潜水艦で敵の泊地まで運んで行き、敵上陸地点の背後から逆上陸するという奇襲作戦だった。

 この水陸両用戦車は大きな音をたてるので、敵に発見されやすく、奇襲作戦には不向きで、ほとんど成功の見込みのないものだった。

 「これはいかん」と思った板倉少佐は。大本営命令になっていた「竜巻作戦」に真っ向から反対した。そのため、上層部は激怒した。

 また、特四内火艇の「梓部隊」隊員も怒って抜刀して、板倉少佐を取り囲み「卑怯者っ!」とののしった。

 板倉少佐は白刃のもとに座して、特四内火艇では突入する前にみんなやられてしまうと、その理由を話し、「それは犬死だ」と言った。

 さらに板倉少佐は「国家存亡のとき、このようなことで犬死するな。俺が必ず貴様たちの死に場所をさがす」とも言った。そのうち、「梓部隊」隊員は一人、二人と刀を下げ、一応その場はおさまった。

 「梓部隊」には、後に「回天隊」に来た、樋口孝大尉(人間魚雷回天で黒木博大尉と同乗訓練中に殉職)や、上別府宜紀大尉(人間魚雷回天「菊水隊で出撃」がいた。

 翌日、「竜巻作戦」をぶち壊したことで、板倉少佐に、第六艦隊司令長官・高木武雄(たかぎ・たけお)中将(福島・海兵三九・海大二三・軽巡洋艦「長良」艦長・教育局第一課長・重巡洋艦「高雄」艦長・戦艦「陸奥」艦長・少将・第二艦隊参謀長・軍令部第二部長・第五戦隊司令官・中将・高雄警備府司令長官・第六艦隊司令長官・戦死・大将)から「銃殺に処す」という申し渡しがあった。

 だが、軍令部より「不問に付せよ」と命令が出され、板倉少佐は銃殺を免れた。

 昭和十九年八月、板倉少佐は特攻戦隊参謀兼指揮官(回天隊)を命じられた。昭和二十年三月、第二特攻戦隊が編成され、板倉少佐は、山口県徳山市(現・周南市)の大津島突撃隊司令を拝命し、回天隊の指導に当たった。だが、八月十五日終戦となった。

 板倉光馬氏は「どん亀艦長青春記」(光人社)のあとがきに、次のように記している(一部抜粋)。

 「人生の一生を、行雲流水にたとえた先人がいれば、うたかたのごとしと観じた古人もいる。古希をすぎたわが生涯をふりかえるとき、人生とは、まさしく、玄にして妙なりの感を深くする」

 「赤貧洗うがごとき家庭に生まれながら、ひそかに画家を志していた私が、海軍に身を投じようとは……。それも、アドミラルを夢みたり、栄進を望んだわけではない。躍動するくろがねの美しさに魅せられたからである」

 「だからこそ、軍隊というカテゴリーの鋳型にはめられながら、なおかつ、人間性を追及してやまなかった。そのため、始末書を書き続け、首が飛びそうになったことも、一度や二度ではなかった」

 「時はすべてを美化するというが、人生は、大勢の人によって生かされ、人との出合い、触れ合いによって、須叟の生命は、永遠の生命につらなってゆくのである」。

 須叟(しゅゆ)の生命とは、「ほんの一瞬のはかない命」のことである。

(「板倉光馬海軍少佐」は今回で終わりです。次回からは「乃木希典陸軍大将」が始まります)

419.板倉光馬海軍少佐(19)酔いがまわっていた板倉大尉が、いきなり大盃をたたきつけた

2014年04月03日 | 板倉光馬海軍少佐
 それは、恭子が一年前、従兄の正徳を通して十か条を出して、「真っ平ごめん」と言われた板倉中尉だったのだ。

 恭子は今度も「酒乱だそうですから」と言って断った。だが、井浦少佐は「そんなことはないから会ってごらんなさい」と言って強くすすめた。

 それで、「真っ平ごめん」とばかり言っていられなくなり、昭和十三年十一月十四日、遠洋航海途中、大連港に碇泊中の「八雲」の艦上でお見合いということになった。

 恭子と母親は、井浦少佐の案内で、少佐以上の士官室で、板倉中尉と一緒に食事をした。井浦少佐は板倉中尉に「三年考えるのも三日考えるのも一緒だから今晩一晩考えて返事せよ」と言った。

 その翌日の十五日、井浦少佐と板倉中尉が、大連の恭子の家を訪問した。井浦少佐は「板倉は結婚することを承知したので同道した」と言った。

 当日付けで海軍大尉に昇進した板倉が、恭子の母親に「お嬢さんをください」と言ったので、恭子は内心ホッとするやら、ヤレヤレという気持ちだった。

 井浦少佐の計らいで、固めの盃も取り交わし、酒の席になった。飲むうちに、板倉大尉が「盃が小さい」などと言い出し、大盃でグイグイやり始めた。

 それを見かねた井浦少佐が「貴様、いい加減にせんか」となじった。すると、酔いがまわっていた板倉大尉が、いきなり大盃をたたきつけた。食器類がコッパミジンに砕け飛び散った。

 それを見た井浦少佐は「この無礼者が!」と、立ち上がり、挨拶もそこそこに、帰って行った。恭子と母親は唖然とするばかりだった。

 恭子は「あんな人、嫌だ、やめる」と言った。ところが、母親は「若いうちはあれぐらい元気があったほうがよい。いまから落ち着いていたら、井浦様のお年くらいになったらオジイサンくさくなってしまう」と、動ずる色もなく言った。

 板倉大尉はさすがに酔いもさめて、バツの悪そうな顔をして帰ろうとしていたが、母親が「お話はなかったことにして、お酒がよほどお好きのようですから、もう少し召し上がってお帰りください」と言うと、また、そこでおみこしを据えてしまった。

 そのとき、恭子は、初めて、板倉大尉といろいろ話をしたのだった。一年前、伊号第六八潜水艦乗組みのとき、恭子が従兄の正徳に出した十か条の手紙のことも、板倉大尉は「鹿島さんに見せてもらいましたよ」と言った。

 さらに、板倉大尉は「大連沖を通るたびに、あの娘さん、今頃どうしているかな、と思っていました」と言った。これには、恭子は驚いた。

 二人の話は、はずんでいった。その間に板倉大尉は、恭子の母親にあらためて、結婚の了承を得た。そのあと、板倉大尉は、ゴロンと横になって寝てしまった。

 翌朝、井浦少佐から電話がかかってきた。「早く板倉を帰してください。艦が出港します」とのことだった。恭子はあわてて、タクシーを呼んで、母親と一緒に板倉大尉を乗せて、埠頭まで行った。

 練習艦隊の旗艦、「八雲」は、軍楽隊の「蛍の光」の演奏を奏でながら、まさに岸壁を離れようとしていた。お土産の甘栗太郎を抱えた板倉大尉が、今にも引き上げられそうになっている舷梯に飛び乗って、宙吊りのようになりながら、ようやく艦上にたどり着いた。

 こうして、昭和十四年二月、板倉大尉と池田恭子は、芝の水交社で結婚式を挙げた。仲人は、井浦少佐夫妻だった。

 昭和十四年十一月、板倉光馬大尉は水雷学校高等科学生を命じられた。潜水艦長になるには、まず、水雷学校高等科を卒業して、潜水艦の航海長として慣熟する必要があった。

 次に、潜水学校乙種学生を命じられ、潜航指揮法を修得する。それから潜水艦の水雷長を命じられる。潜水艦長になるには、さらに、潜水学校の甲種学生として、襲撃法をマスターしなければならなかった。こうして駆逐艦長と同格の潜水艦長になるのだが、このコースは歳月がかかった。