陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

149.小沢治三郎海軍中将(9) 小沢司令長官は「いまさら徹底抗戦をして何になる」と言い放った

2009年01月30日 | 小沢治三郎海軍中将
 小沢は軍令部次長になって、「海軍としては」という言葉を腹の底から憎み、口にすることを許さなかった。小沢次長は陸海軍統帥部が同一場所に勤務することを提案した。

 陸海軍の幕僚が日々交流を自然に繰り返すことによって信頼を深めようとした。そこで選ばれたのが赤坂にある山王ホテルだった。かつて2.26事件のとき、昭和維新を掲げた青年将校たちが集結したホテルだった。小沢次長は歴史の大きな変転を感じていた。

 昭和20年4月、小沢次長は一人の人物の訪問を受けた。軍部から自由主義者として、危険人物視されていた吉田茂であった。

 その内容は、驚くべきことで、小沢の立場を考えれば、相談すること自体が非常識なものであった。吉田は「あなたと共通の伯父である秋月左都夫老人と話した結果、あなたに頼むのがよいと言われたので来た」と切り出した。

 続いて「実は英国と和平交渉をやりたいので、飛行機か潜水艦を出してもらえないか」と言った。小沢次長は吉田の大胆さというか、率直さに唖然とした。

 小沢は、日本海軍の現状では、協力したくても出来ないことを吉田に説明した。吉田はいかにも残念そうにしていた。

 玄関まで吉田を送りに出たとき、小沢は木陰に隠れている二、三人の人物を見た。その日から三日後に、吉田は九段の憲兵隊に連行された。

 昭和20年5月29日、小沢中将は海軍総司令長官兼連合艦隊司令長官兼海上護衛司令官に任ぜられた。小沢中将はこのとき五十九歳だった。

 米内海軍大臣から海軍大将へ進級した上で連合艦隊司令長官にという話があったが、小沢中将は固辞した。

 連合艦隊といっても、作戦可能で残ったものはわずかに43隻だった。戦艦はなく、空母も2隻に過ぎなかった。戦艦大和も4月6日に沖縄特攻で、屋久島西方260キロの地点で沈み、指揮官・伊藤整一海軍中将(海兵39・海大21恩賜)も運命をともにした。

 小沢中将は思った。人生五十年であることを思えば、余計の人生である。すでに山本五十六をはじめ、三百名を越す将官が生命を落としている。

 昭和20年8月15日正午、昭和天皇の玉音放送が全国に流れた。

 小沢司令長官は、千早正隆参謀(海兵58・海大39)に対し「終戦の命令に従わない者があった場合の対策を考えているか」と尋ねた。

 千早参謀は

 「いったん陛下の詔勅が出されましたからには、そのような事態は起こらないと思います」と答えた。

 その途端、小沢司令長官は、驚くほどの大声で

 「その考えは甘いぞ!」と怒鳴った。

 小沢司令長官が危惧したとおり、終戦処理は簡単にいかなかった。終戦の三日前には大西瀧治朗軍令部次長(海兵40)が血相を変えて、小沢司令長官を司令部に訪ねてきたのだ。大西次長は徹底抗戦を説きに来たのだった。

 そのとき大西次長に、小沢司令長官は「いまさら徹底抗戦をして何になる」と言い放った。

 また、大分基地にいた第五航空艦隊司令長官・宇垣纏中将は8月15日夜遅く、特攻機の出撃を命じ、自らも沖縄に突入し、特攻を行って果てた。

 さらに海軍の大航空基地である厚木航空隊では、司令の小薗安名大佐(海兵51)が徹底抗戦の姿勢を崩さず、不穏な事態になっていた。

148.小沢治三郎海軍中将(8) 裸で何ができる、カラの空母は出さないという約束だったじゃないか

2009年01月23日 | 小沢治三郎海軍中将
 昭和19年9月中旬から下旬にかけて、豊田大将と小沢中将の間で激論が闘わされた。小沢中将は、搭乗員養成の必要から頑としてリンガ泊地進出を拒否した。

 豊田大将は業を煮やして、軍令部に働きかけた。「豊田大将は次期作戦にはみずから戦場に出ることを望んでいる。そこで次席指揮官の小沢中将が最前線に出ることを求めている」と天皇の名によって、小沢中将を動かそうとした。

 だが、そんな激論をやっているうちに、戦況が猛スピードで動いた。9月中旬、ハルゼイ大将指揮の米機動部隊の空襲で、フィリピン中南部に展開していた決戦主力の基地航空部隊が大打撃を受けたのだ。

 そこで、10月12日から15日まで、連合艦隊は「捷号作戦」を発動した。基地航空部隊全力による航空撃滅戦を敢行したのだ。陸軍航空部隊も魚雷を抱いて出撃した。

 大戦果が報告された。「空母19、戦艦4など撃沈破45隻」と。

 豊田大将は、前線基地の視察と激励を兼ねて台湾の航空基地にいたが、この報告を聞いて、躍動した。当時の基地航空部隊参謀の証言がある。

 「豊田大将が風呂上りで、石鹸の匂いをプンプンさせながら、浴衣がけと草履ばきで作戦室に入ってきた。しばらく作戦図を見ていたが、やがて、『追撃だ、追撃』と独り言のように口走った」。

 この豊田大将の追撃命令が、レイテ湾突入の小沢、豊田論争に決着をつけた。連合艦隊は、各航空部隊に出撃を命じた。小沢中将指揮の航空戦隊に対しても航空機の出動を命じたのだ。

 小沢部隊の作戦参謀は、電話口で怒鳴った。「フィリピンに対する爾後の本格的上陸作戦が始まったとき、空母部隊の出撃を連合艦隊は断念しているのか確かめよ、と小沢長官は言っている。母艦発着訓練をやった航空隊を基地作戦で潰したくない」。

 すると相手の連合艦隊作戦参謀の神重徳大佐(海兵48・海大31首席)は「敵機動部隊を叩く好機は今だ。次の作戦には母艦部隊を使用しない」と答えた。

 こうして、小沢中将が丹精込めて練磨しつつあった、母艦の飛行機隊は沖縄に向けて飛び立った。だが、台湾沖航空戦の戦果はすべて誤報であった。冷静になって戦果を分析した結果、空母4隻程度の撃沈に過ぎないと連合艦隊は判断した。

 残された主要戦力は栗田中将の水上部隊のみである。連合艦隊は栗田部隊による敵の上陸地点突入を決定した。大和、武蔵による上陸地点への殴り込みである。

 小沢司令部の作戦室に、ふたたび神参謀から鹿児島弁の電話がかかった。「小沢部隊もただちに出動。栗田部隊のレイテ湾突入に策応して、作戦通り敵機動部隊を北方に牽制してもらいたい」

 小沢司令部の参謀の怒髪は天を突いた。「飛行機のほとんどいない空母部隊に、裸で何ができる、カラの空母は出さないという約束だったじゃないか」

 すると神参謀は言った。「新情勢に全力を尽くす必要がある。小沢部隊は、オトリになってもらう」

 小沢司令部の参謀たちは唖然とした。だが、小沢中将は言った。「それが必要というなら、やろうじゃないか」と。

 だが、栗田部隊は途中で反転して、レイテ湾突入を行わなかった。それにもかかわらず、小沢部隊は、オトリの役をこなし、ハルゼイの艦隊を混乱に陥れた。

 昭和19年10月、小沢中将は長期にわたっての艦隊の指揮官から、軍令部次長に補された。小沢次長がもっとも精力を傾けたのは、本土決戦に凝り固まっていた陸軍を、沖縄決戦に切り換えるよう説得することだった。

 小沢次官は前線でも、そう処していたのだが、かねてから、陸軍とか海軍とかの面子の前に、国や国家があることを考えなければならないと思っていた。

 井上成美は「陸軍と手を握るのは、強盗と手を結ぶが如し」と、陸軍を激しく憎悪したが、小沢のいた前線ではそのようなことに囚われてはいられなかったのである。

147.小沢治三郎海軍中将(7)長官をだれもかまう者がいなかった。そばにチェリー(タバコ)を置いた

2009年01月16日 | 小沢治三郎海軍中将
 「丸・戦争と人物19連合艦隊司令長官」(潮書房)によると、昭和19年6月15日、アメリカ軍はサイパンに上陸した。豊田連合艦隊司令長官は、あ号作戦を発動、6月19日から20日にかけて、マリアナ沖海戦が行われた。

 日米大機動部隊同士が戦ったマリアナ沖海戦では、アメリカ機動部隊から380海里も離れたところから攻撃機を発進させた小沢中将発案のアウトレンジ戦法は、結果的に大敗した。

 マリアナ沖海戦が終わった翌日、小沢中将は、部下の参謀の前で「部下にむずかしい戦法をやらせて戦死させ、まことに申し訳ないことをした」と言った。

 そうは言ったものの、当時、このアウトレンジ戦法は強力なアメリカ空母群に対して、小沢が考え抜いた戦法であることは間違いなかった。

 戦後の話だが、小沢の周囲の戦史研究家が、アウトレンジ戦法について、疑問に思うことを質問したことがあった。それに対して小沢は「それなら、ほかにどんな方法がある」と答えたという。

 「勝負と決断」(光人社)によると、マリアナ沖海戦では、小沢中将の第一機動艦隊の旗艦「大鳳」も、敵潜水艦の魚雷攻撃で大爆発し、基準排水量29300トンの空母はマリアナ沖の海底に沈没した。

 爆発して沈みかけている「大鳳」の艦上では、参謀長の吉村啓蔵少将((海兵45)が小沢司令長官に旗艦変更を進言した。

 だが、小沢司令長官は、聞き入れなかった。ともに沈むつもりである。艦長の菊池朝三少将(兵学校45期)や先任参謀の大前敏一大佐((海兵50・海大32恩賜)らも代わる代わる進言した。

 大前参謀は言った。「母艦に帰投した機数は少ないですが、そうとうロタやグアムに行っているはずです。戦果も相当あったに違いありません」

 小沢司令長官は、ようやく旗艦変更を承諾した。小沢司令長官らは駆逐艦「若月」に移乗した。艦橋が狭いので、小沢司令長官は艦橋うしろの、旗甲板の椅子に腰を下ろした。

 そのときの様子を、「若月」の操舵長であった小倉正高氏は戦後次のように述べている。

 「長官をだれもかまう者がいなかった。そばにチェリー(タバコ)を置いた。喫ってもらうつもりだった。だが長官がなんべん火をつけても、すぐ消えてしまった。そうとうショックをうけているように見受けられた」。

 「あのときが小沢さんの気持ちの転機だったのではないだろうか」。小倉氏が戦後、会ったとき、そのときのことを話したら、小沢長官は「感無量だな」と一言だけ言ったという。

 「日本海軍の興亡」(PHP文庫)によると、あ号作戦で連合艦隊は大敗をした。航空戦に敗れた第一機動艦隊司令長官・小沢中将は、最後の手段として、第二艦隊に夜戦を命じた。だが、栗田部隊はきわめて消極的だった。

 後に、小沢中将は、痛烈きわまる皮肉を放ったという。
「もし自分が連合艦隊司令長官として現場に来ていたのであったとすれば、二十日夜、全部隊を率いて徹底的に夜戦をやったであろう」

 消極的である栗田健男中将(海兵38)に対する不満であるとともに、決戦の陣頭に立たぬ連合艦隊司令長官・豊田副武大将(海兵33・海大15首席)に対する批判でもあった。

 最後の決戦として、豊田大将は、一日も早く空母部隊を再編成して、海軍随一の戦略家である小沢中将の指揮でリンガは泊地に送り込みたいのであった。

 だが、小沢中将は、あ号作戦以来、豊田司令長官の陣頭に立たぬ作戦指導に大いなる不満を持っていた。真の最後の決戦なら、空母部隊の、搭乗員を養成してからでなければならない。

146.小沢治三郎海軍中将(6) 航海士、ガラスは何から出来ているのか

2009年01月09日 | 小沢治三郎海軍中将
 昭和16年12月8日、真珠湾攻撃が行われ、日本は太平洋戦争に突入した。小沢中将は南遣艦隊司令長官として、コタバル上陸作戦、マレー沖海戦など南方作戦を指揮した。

 昭和17年11月11日、小沢中将は第三艦隊司令長官に親補された。小沢中将は旗艦を「瑞鶴」に定めた。昭和18年1月18日、整備の完了した「瑞鶴」以下の艦艇を率いて岩国沖を出撃、トラック島に向かった。

 「瑞鶴」の野村実航海士(海兵71)が、艦橋で当直勤務をしているとき、小沢司令長官は「航海士、ガラスは何から出来ているのか」と訊いた。

 野村航海士はなぜこのようなことを訊かれるのか分からず「珪酸と石英が主成分であります」と当たり障りのない答えをした。

 野村航海士は、後で、それだけでは充分ではないかもしれないと、調べたり、人に尋ねたりして、次に会ったときに小沢司令長官にガラスの組成を詳しく説明した。

 すると小沢司令長官は「ガラスは全く平坦に作ることは出来ない。光の屈折もある。見張り員がガラス越しに眼鏡を使うのはよくないね」と言ったので、野村航海士は初めて小沢司令長官の意図が理解できた。

 艦橋には両側に大きな眼鏡がついていて、艦長や当直士官の手足となるために、優秀な見張り員がいる。見張り員たちは、艦橋の窓ガラスを下ろさずに、窓ガラスを通して見張りをやっていたので、小沢司令長官はそれを止めさせようとしたのだ。

 小沢司令長官は、戦闘になったときのことを考えて、細部まで目を向けて指導していた。だが航海長にそれを指摘すると、自分の落ち度と受け止めて部下を叱責する。そこで航海士に直接話したのである。

 昭和18年4月13日、ラバウルに司令部を置く南東方面艦隊司令長官・草鹿任一中将の発案で海軍兵学校37期のクラス会を開いた。

 集まったのは、南東方面艦隊司令長官・草鹿任一中将、第三艦隊司令長官・小沢治三郎中将、第八艦隊司令長官・鮫島具重中将、輸送船指揮官・武田哲郎大佐、輸送船指揮官・柳川教茂大佐の五人だった。

 やがて、すき焼きパーティが始まった。どこから聞きつけてきたのか、山本五十六連合艦隊司令長官が「名誉会員たるものこれくらいのことはせねばなるまい」とブラックラベルのウイスキー1本をぶらさげて、ひょっこり入ってきた。

 みんなは大喜びで、この大先輩を迎え、クラス会は一段と活況を呈した。日頃は酔うほどに無口の小沢中将が山本長官に話しかけた。

 「長官は敵地に飛び込む部下将兵にして、万葉張りの和歌を書いて贈られるようですが、あれはあまり感心しませんな」

 すると山本長官は笑いながら

 「また、お前はおれの悪口をいうか」と答えた。

 「いや、そうではありません。死地に乗り込む部下に対し、お前ばかり死地に投ずるのではない、おれも後からゆくのだ、というように聞こえますが、これは随分まずいですな」

 すると山本長官は

 「いや、お前のいう通りだ。歌が未熟だからだ」と言った。

 さらに小沢中将が

 「第一、連合艦隊司令長官はかけがえのない方だ。そう容易に死地にとびこんでゆけるものではない。あなたの生国の越後には、良寛和尚のように、真実を詠んだ歌人がおるではないですか」と言うと

 山本長官は

 「そうだ、おれの国で一番えらい人物は上杉謙信と良寛和尚だ」と答えて、笑いが起こり、座ははしゃいだという。

 この五日後の4月18日、ブーゲンビル島上空で、待ち伏せた米軍のP38戦闘機16機によって長官機が撃墜され、山本五十六連合艦隊司令長官は戦死した。

145.小沢治三郎海軍中将(5)すると山本長官は「まあ、適当にやってくれよ」の一言だけであった

2009年01月02日 | 小沢治三郎海軍中将
 昭和12年11月、小沢少将は、第八艦隊司令官に補された。「小澤治三郎」(PHP文庫)によると、昭和13年初夏、第八戦隊は鹿児島県南端の枕崎に入港した。小沢司令官は宮崎中学校時代の同級生が、加世田市の農学校の校長をしているのを知って訪ねた。

 その往きの自動車の中で、部下の藤田正路参謀(海兵52・海大35)は、小沢司令官から「君も参謀ばかりやっていると、人間が駄目になるぞ。来年は何か小さい艦の指揮官をやらせてもらえ」と言われた。

 その後も藤田参謀は、太平洋戦争に突入するまでの間、第二水雷戦隊、第二艦隊と依然として参謀であった。小沢は藤田参謀に会うと、「まだ参謀をやっているのか。駄目だなあ」と言っていたという。

 昭和14年11月、小沢は第一航空戦隊司令官として、旗艦の空母「赤城」に着任した。当時の小沢少将は、従来の体験と研究から航空艦隊(母艦群を中心とする機動艦隊)の創設を主張していた。

 だが、連合艦隊司令部内では、消極論が多数を占めていた。第二艦隊司令長官・古賀峯一中将(海兵34・海大15)などは、これに強く反対した。その中で、山本五十六連合艦隊司令長官は小沢の意見に賛成していた。

 ある日、軍令部の作戦部長室で、小沢少将が宇垣纏少将(海兵40・海大22)に航空艦隊実現について、意見を述べていた。そこに、山本五十六連合艦隊司令長官(海兵32・海大14)がひょっこり入ってきた。

 「何を議論しているのか」

 「航空艦隊創設について、意見を申し述べているところです」と小沢が答えると、山本長官は「それなら大いにやれ。後へ引くなよ」と言った。

 「秘史・太平洋戦争の指揮官たち」(新人物王来社)によると、山本連合艦隊司令長官の後押しで、小沢の意見が採用されて、第一航空艦隊が編成されたのは昭和16年4月だった。

 これが日本海軍初の空母機動部隊の誕生であり、小沢が「機動部隊生みの親」といわれる所以である。ちなみに同じ頃、アメリカ海軍でも、日本の小沢と同じ考えで、タスクフォース(空母の機動部隊)が編成されていた。

 ところが、小沢の発案で誕生した第一航空艦隊の司令長官には、今まで航空にはあまりなじみのなかった南雲忠一中将が着任した。小沢は南遣艦隊司令長官に任命された。

 この人事には小沢も納得がいかなかったようで、戦後になって、小沢は親しい人に何度も、「本当は俺が南雲さんの代わりに真珠湾をやるはずだった」と漏らしている。

 「小澤治三郎」(PHP文庫)によると、昭和16年10月22日、南遣艦隊司令長官に任命された小沢中将は、海軍大臣官邸で嶋田繁太郎海軍大臣(海兵32・海大13)と会食した後、南方に向かうことになった。

 南遣艦隊の任務は陸軍の山下奉文中将(陸士18・陸大28)が指揮するマレー・シンガポール攻略の第二十五軍を上陸地点まで護衛して輸送することと、英国の東洋艦隊撃滅であった。

 小沢中将は日本を離れる前に山本連合艦隊司令長官に会いたいと思った。汽車で九州の佐伯まで行き、佐伯湾に在泊中の旗艦「陸奥」に山本長官を訪ねた。

 山本長官は、小沢中将の顔を見るなり「どうして井上(成美)を大臣にしないのかなあ」と憤懣やるかたない口吻で言った。小沢は一瞬、戸惑って、言葉が出なかった。

 すると山本長官は重ねて「井上が海軍大臣でないとダメなんだ。井上なら東條(英機)と堂々と渡り合えるんだ」と激した口調で言った。

 南遣艦隊司令長官という、難しい仕事を背負った小沢中将としては、山本長官から心構えやアドバイスを受けたいと思って訪ねたのだった。それなのに、話は中央の話だった。

 おそらく山本長官としては、開戦必至となった以上、短期で勝負を決し、一刻も早く和平に導きたいと考えていた。そのために東條に屈せず、早期講和に導いてくれる海軍側の人材は、井上しかいなかった。

 山本長官の思いは理解できたが、小沢中将の任務も重要だった。たまりかねて小沢中将は心構えを山本長官に尋ねた。

 すると山本長官は「まあ、適当にやってくれよ」の一言だけであった。平素の山本長官からはうかがえ知れない言葉だった。小沢中将は自分の所信通りにやろうと、心に決めた。