陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

88.宇垣纏海軍中将(8) 宇垣中将はすえ置きで大将にはならなかった

2007年11月30日 | 宇垣纏海軍中将
宇垣参謀長は昭和17年12月31日の「戦藻録」に、次のように昭和17年4月までの第一段作戦のはなばなしさと同時に、6月、ミッドウェー海戦以来の不首尾を感じている。

 「十二月三十一日・木曜日・曇 昭和十七年も今宵をもって行く。四月までの第一段作戦の花々しさよ。しかして六月ミッドウェー作戦以来の不首尾さよ。」

 「ハワイ、フィジー、サモア、ニューカレドニアの攻略もインドの制圧、英東洋艦隊の撃滅も本年の夢と化し、あまつさえポートモレスビーはおろか、ガダルカナル島の奪回も不能に陥れり。」

 「顧みて万感胸をおおう。敵ある戦のならいとはいえ、誠に遺憾の次第なり。この間将士の奮闘苦戦あげて数うるを得ず。深く感謝の誠を致すとともに、多数散華の殉国の士に衷心敬用の意を表する次第なり」
 
 昭和18年4月3日、山本長官以下連合艦隊司令部の大部分はラバウルに進出した。

 そして宇垣参謀長は自分だけでソロモンの第一線基地を回り、叱咤激励してくるつもりでいた。ショートランド視察飛行である。

 だが、山本長官は「僕もショートランドへは行きたいからね」と宇垣参謀長に意思表示してきた。

 小沢機動部隊司令長官や周囲の人の反対を押し切り、4月18日、一式陸攻二機に分乗した山本長官一行は六機のゼロ戦に守られて、出発。

 だがブーゲンビル上空で長官機は全員戦死、参謀長機は、宇垣参謀長とあと二名のほかは全員戦死した。

 宇垣は「山本長官は私が殺したも同然だ。私がショートランドに行くなどと言い出さなければ、何事も起こらなかったんだ」と自責の念にかられた。

 丸別冊「回想の将軍・提督」(潮書房)の中で、元海軍中佐、田中正臣氏は第五航空艦隊司令長官の宇垣中将について寄稿している。

 昭和20年4月上旬、宇垣長官は九州鹿屋基地で沖縄航空決戦の指揮をとっていた。航空参謀であった田中中佐は長官公室で、宇垣長官が揮毫した書を、長官自らもらった。

 それは、田中参謀が立案計画した、陸海軍特攻機をもってする第一回菊水作戦が、意のごとく成果をあげたので、ご満悦の長官が「このようなときで、何の御礼もできないが」と田中氏に与えたものであった。

 やがて終戦。だが宇垣長官は彗星十一機を率いて沖縄に特攻をかけ戦死した。九月上旬田中氏は鹿屋基地に進駐する米陸軍部隊の接収委員を命じられた。

 参謀だったということで、田中氏は、多数の進駐米陸軍に拳銃等で拘束され、神風特攻のゆくえ、8月15日の宇垣特攻についてきびしく尋問、追及を受けた。

 田中氏は知らぬ存ぜぬの一点張りで辛うじて追求を逃れた。万一を考えてもらった宇垣長官の揮毫の書を焼却処分した。

 田中中佐は昭和20年2月20日第五航空艦隊参謀に補せられた。それまで田中中佐が抱いていた宇垣中将の印象は、あまり良いものではなかった。それは、連合艦隊参謀長時代の評判であった。

 黄金仮面といわれた無表情さ、傲慢無礼はつとに知られていた。二等兵のような若年兵が艦上で敬礼をしても、山本五十六長官ならいちいちきちんと答礼をされるが、宇垣参謀長の場合はそうはされなかった、

 「八月十五日の空」(文春文庫)によると、昭和20年10月1日付けで連合艦隊副官の起案した「GF終第四二号」という文章が残っている。

 「特攻隊員として詮議せられざりし者の件通知」と題して粗末なザラ紙にタイプで打たれたものであるが次の様なものである。

「昭和二十年八月十五日夜間沖縄方面に出撃せる左記の者は特攻隊員として布告せられざるに付、一般戦死者として可然御処理相成度。海軍大尉中津留達雄、海軍飛行兵曹長遠藤秋章、」など十六名の搭乗員の氏名が並んでいる。

 いわゆる「宇垣特攻」の戦死者たちである。これに指揮官宇垣纏中将を加えると十七名になる。

 通常特攻戦死者として連合艦隊司令長官から布告された者は二階級特進するのが通例だ。若い下士官などは少尉にまで三~四階級飛んで進級した。

 ところが宇垣特攻の十七名は、通常の戦死者と同じ一階級だけの進級になっている。宇垣中将はすえ置きで大将にはならなかった。

87.宇垣纏海軍中将(7) 宇垣参謀長はこういう議論の立て方が虫唾が走るほど嫌いだった

2007年11月23日 | 宇垣纏海軍中将
 比叡の処分について、「海軍参謀」(文藝春秋)では次のように詳しく述べている。

 夜半から行われた戦闘で、敵の米巡洋艦や駆逐艦はほぼ全滅に近い大損害を受けた。日本側は戦艦比叡が敵重巡の二十センチ砲のツルベ射ちを食って、上甲板以上は蜂の巣のようになり、後部の舵機室がやられた。

 全速三十ノットで走れるが舵が利かない。艦はグルグル回りをするだけで、前に進まない。ガダルカナルから敵機が襲ってきて被害が大きくなってきた。

 高速戦艦戦隊司令官、阿部中将から、連合艦隊司令部に事態打開がたたないから比叡を処分(味方の手で自沈させる)したいと言ってきた。

 上甲板以上がメチャクチャになった比叡の写真を撮られ、ブロードウェーあたりで宣伝に使われたら困る。夜が明けぬうちに、安部司令官の言うように処分してしまったほうがいいのではないか。

 山本長官が、参謀長室に入ってきて、宇垣参謀長に言った。「実は今、処分するなの電報にサインしたのだが、参謀長はどう思うか」と。宇垣は山本長官が処分する考えがあるのを知って、なるほどと思った。

 安部中将は、戦艦、とくに高速戦艦を自分の手で沈めるなど、申し開きのしようもない大責任をかぶらねばならぬ。

 この際、連合艦隊司令長官から「処分せよ」の命令を下し、大責任を肩代わりしてやるとすれば、これは大慈悲だ。さすがは「人情」長官だ。

 すっかり感激して宇垣参謀長はすぐに「処分せよ」の電報を書き、発信を命じた。

 すると間もなく黒島先任参謀が気色ばんでとびこんできた。

 「処分するなのままでお願いします。比叡が浮いていれば、輸送船団を攻撃してくる敵機が比叡に吸い寄せられます。浮いている以上、比叡が全然動けぬはずはない。アメリカのことです。宣伝用の写真はもう抜け目なく撮っていますよ。いずれにしても戦艦一隻を失ったことは事実なんですから」

 宇垣参謀長はこういう議論の立て方が虫唾が走るほど嫌いだった。先の見えない人間のやることだ。しかも理屈ばかりで、人情の機敏がまるでわかっておらん奴だ。

 黄金仮面といわれた無表情さが、たちまち夜叉のような凄まじいものに一転、罵声が口をついて出ようとしたが、山本長官の前だから呑み込んだ。

 宇垣参謀長が煮え返るハラを押さえて三人で話し合っているうちに、あろうことか、山本長官が意見を翻し、黒島先任参謀の意見を採った。

 結局「処分するな」のままとすることに決裁した。

 宇垣参謀長は憤激した。大艦巨砲の権化であった宇垣参謀長としては、黒島先任参謀が深く考えずに、理屈だけで作戦指導を重ねようとすることに、我慢がならなかったように見える。

 結局比叡は行動の自由を失ったままサボ島沖に漂流し、アメリカ機の執拗な攻撃を受けて自沈した。

 この出来事で宇垣参謀長は黒島先任参謀に対する不信感を強めた。宇垣の「戦藻録」には次のように書かれている。

 「山本長官の再三の決定変更は、おかしな雲行きだが、どちらにしても大事ではない。大局は同じだ。ただ、そこに気分の問題がある。恥の上塗りにならないようにする心掛けが必要だ」

 続けて、「中将である阿部司令官の意中を汲んで、その(比叡処分)責任を、連合艦隊長官の立場から引き受けてやる情を見せてやりたい。比叡を敵手に渡し、機密を暴露させることへの配慮も必要だ」

 さらに、「(黒島の主張は)先の見えない主張で、理屈にかたより、こういう機微の点を解し得ていない。なんとかして助けようという一念は、誰も同じでなければならない」と黒島先任参謀を批判している。

 宇垣は、鼻っ柱が強く、近寄り難い作戦家といわれ「黄金仮面」とあだ名された人だが、根底には一種の精神主義ともいえる人情家の一面があったのである。

86.宇垣纏海軍中将(6) ここでただぼんやりしているだけだ。戦は山本さんと黒島でやっているんだよ

2007年11月16日 | 宇垣纏海軍中将
 見たところ、山本長官はじめ誰にもミッドウェー海戦のショックなどはないようで、土肥少佐は不思議に思えるほどであった。

 8月7日、米軍が突然ガダルカナル島に上陸を開始したという緊急電報が大和の連合艦隊司令部にとびこんできた。ところがほとんどの参謀が、ひろげた海図を前にして、「ガダルカナルってどこだ?」と言っている。

 土肥少佐が「ここですよ」と指差した。それにしても土肥少佐は驚いた。連合艦隊参謀といえば、誰でもよく勉強していて、たいていのことはよく知っているだろうと思っていた。

 ところが、米豪遮断作戦の要地で、海軍航空基地もまさに完成しようとしているガダルカナル島を知らないとは、これはなんにも勉強していないのだと分かった。連合艦隊参謀陣とはこんな程度だったのか、と土肥少佐は思った。

 参謀たちは、ミッドウェー海戦での大敗についても、とくに反省している様子はなかった。どの参謀に聴いても、「あ~、あれは運が悪かったんだ」と、たいしたことでもないように言うだけだった。

 これでは、大事な仕事はできないと土肥少佐は思った。ところがその大事な仕事は、どうやら、山本長官と黒島亀人先任参謀の二人だけでやっているようであった。あとの参謀は大事ではないことしかさせられていないようであった。

 戦艦日向の艦長・松田千秋大佐は昭和17年12月に戦艦大和艦長として着任した。宇垣参謀長はこの松田夫妻の仲人であった。

 着任後、松田艦長は宇垣参謀長に仕事について聴いてみた。すると宇垣参謀長は「おれは参謀長だけれどね、ここでただぼんやりしているだけだ。戦は山本さんと黒島でやっているんだよ」と、わびしげに言ったという。

 山本長官は、ハワイ作戦以来、宇垣参謀長と黒島先任参謀の意見が対立したとき、ほとんど黒島先任参謀の意見をとり、宇垣参謀長の意見をしりぞけている。

 「連合艦隊作戦参謀・黒島亀人」(光人社NF文庫)によると、昭和17年11月12日から13日にかけての第三次ソロモン海戦が行われた。

 前日の11月11日、アメリカの巡洋艦五隻、駆逐艦十一隻、輸送船六隻がガダルカナル島の泊地に入ってきた。

 報告を受けた宇垣参謀長は、この敵集団は粘ると判断して、とっさに計画の変更を思い立った。高速戦艦比叡や霧島は、飛行場砲撃に向かうため砲撃用の焼夷弾と近距離の陸上射撃に使う特別の火薬を用意しているため、艦船攻撃には無力に近い。

 比叡、霧島を中心にした十一戦隊を下げ、重巡戦隊をまず突入させ、敵集団に当たらせ、状況を見て比叡、霧島に飛行場攻撃をやらせようとしたのだ。宇垣参謀長はこの計画変更案を作戦参謀たちに検討させた。

 ところが黒島先任参謀は宇垣参謀長の案を一蹴した。「なあに、夜になったら敵は逃げますよ。いつもの通りです。水雷戦隊(駆逐艦部隊)を前衛に出しておけば十分です。原案通りにお願いします」

 この黒島先任参謀の判断に対して、上司である宇垣参謀長はそれ以上自分の案に固執しなかった。

 その結果はどうなったか。十一戦隊は不意を打たれた。深夜東京湾の広さで、日米両艦隊は大乱戦となったのである。

 海戦はわずか三十五分間で終わり、アメリカは巡洋艦二隻、駆逐艦四隻が沈没し、無傷なのは駆逐艦一隻だけという壊滅的な打撃を受けた。

 一方日本側は駆逐艦二隻が沈没しただけで夜戦に強いことを証明した。ところが、高速戦艦比叡が舵機室をやられ、同じところをグルグル回るという最悪の事態になった。

 主機械やボイラーは無傷で、三十ノットという高速が出せるにもかかわらず、舵がとれずに同一円周上を回るだけという惨状を呈したのである。

 阿部十一戦隊司令官はとうてい持ちこたえられないと判断して、比叡の処分の了解を連合艦隊司令部に求めてきた。

85.宇垣纏海軍中将(5) 嶋田海相は愛想良くこう答えた。「いやいや、なんでもない」

2007年11月09日 | 宇垣纏海軍中将
 この村から、あまたの著名な陸海軍の将官級の人材の輩出を見ている。宇垣纏の生家の隣家が陸軍大臣を歴任した宇垣一成陸軍大将の生家である。隣家ではあるが纏と一成は直接血のつながりはない。だが、宇垣纏は宇垣一成陸軍大将を終生尊敬していたという。

 この小村からは宇垣一成の甥に当たる海軍中将宇垣莞爾がいる。海軍少将宇垣環、海軍少将宇垣松四郎も、一族である。

 宇垣莞爾と宇垣纏との関係は、莞爾が一歳年上で、中学校も兵学校も一級上級生であった関係上、兄弟のように親密な間柄で結ばれていた。

 宇垣家には、纏自身の綴った海軍兵学校時代の日記など相当未整理のまま残されているものが少なくないが、莞爾とのこまやかな交友関係がにじみ出ている箇所をかなり多くのところで見出すことが出来る。

 「最後の特攻機」(中公文庫)によると、野軍令部総長が真珠湾奇襲計画を受け入れたことによって、昭和16年11月3日、ようやく山本長官の原案が認められることになった。

 宇垣参謀長は旗艦長門の艦上で、11月3日、次のように「戦藻録」に記している。

 「夜八時、上京中の長官、明日午後呉着の電あり。本日午後、大臣官邸の会談を了え、予定よりも一日早く帰艦のこととなれる次第、いよいよ決定なれる証左と見るべく、続いて一部長(福留中将)より、陸軍との協定日取りも八乃至十日と決定の通知に接す。万事オーケー、皆死ね、みな死ね、国のため俺も死ぬ」

 「連合艦隊作戦参謀・黒島亀人」(光人社NF文庫)によると、昭和17年6月5~7日のミッドウェー海戦後、戦艦大和以下連合艦隊の戦艦群は瀬戸内海の柱島泊地に戻った。結果はすべて裏目に出て、惨敗に終わった。海軍中央は惨敗隠しに必死になった。

 ミッドウェー海戦から約三週間後、6月27日、柱島泊地にいる戦艦大和を嶋田繁太郎海軍大臣が訪ねた。宇垣参謀長が嶋田海相に挨拶に来た。

 宇垣は、ミッドウェー海戦以後、頭を丸めていた。「この前は、いろいろまずいことをやりまして、申し訳ありません。ご心配をおかけして申し訳ないとおもっています」神妙なおももちで、宇垣参謀長は頭を下げた。

 それに対して、嶋田海相は愛想良くこう答えた。「いやいや、なんでもない」。ミッドウェー海戦で空母四隻を失った帝国海軍の海軍大臣はなんと楽観的であることか。

 「凡将・山本五十六」(徳間書店)によると、第四艦隊航海参謀の土肥一夫少佐はミッドウェー海戦直後、連合艦隊航海参謀への転勤辞令を受けた。

 土肥少佐はトラック島から内地に帰り、7月4日の日曜日に呉在泊中の大和に着任した。この日は日曜日なので、山本長官以下の幕僚は、当直参謀一人を残して、みな上陸していた。

 当直参謀にその行き先を聞いて、土肥少佐もすぐに上陸した。最初に、宇垣参謀長がいるという割烹旅館吉川に行った。宇垣参謀長はたった一人で、大筆で揮毫中であった。

 土肥少佐が着任挨拶をすると、揮毫の手を休めて、「まあ、まず一杯」と杯をだした。ここで土肥少佐は、宇垣参謀長から連合艦隊参謀の心得といったものを聴いた。

 土肥少佐は、宇垣参謀長がなぜ一人でいるのか、その時は気に留めなかったが、差しで飲んでいるうちに、宇垣参謀長に親しみを覚えた.

 一時間ほどのちに、土肥少佐は山本長官や幕僚たちのいる割烹旅館華山に行った。部屋に入ると山本長官を囲んで幕僚たちが一杯やっていた。山本長官はいい機嫌になっている参謀たちの騒ぎにまじって楽しそうであった。

84.宇垣纏海軍中将(4) 戦前から戦中にかけて、この小村は県下でも、軍人王国としてもてはやされた

2007年11月02日 | 宇垣纏海軍中将
 もっとも草鹿中将は、宇垣中将の最期の状況を詳しく聞いて、自分がいままで抱いていた憎悪の念もたちまち消えうせて、彼もまた偉い武人であったと感じ入ったと記している。

 だが宇垣と草鹿は性格的に合わないところがあったといわれている。

 伊藤整一少将の後に第八戦隊司令官に就任した宇垣纏少将について、丸別冊「回想の将軍・提督」(潮書房)の中で、「印象に残る海軍の諸先輩」と題して元海軍中佐・久住忠男氏が寄稿している。

 久住氏は当時第八戦隊参謀であった。

 当時軍令部作戦部長から第八戦隊司令官に転任してきた宇垣少将は、海軍大学校の教官などが多く、海軍戦術の大家として高名であった。

 宇垣司令官の艦橋での指揮ぶりはものすごかった。自分に自信があるので、人のやることを黙って見ておれない。

 第八戦隊旗艦・利根の艦長は、兵学校トップ卒業の秀才であった。だが赤煉瓦勤務が多かったので、艦隊勤務には不慣れであった。

 艦の出入港時の操艦にまで宇垣司令官が口を出す始末で、艦長の影は薄かった。

 主席参謀は砲術関係出身者であったが、陸上勤務が多かった人で、これもほとんど無視されたという。

 筆者の久住参謀は、無線電話による戦隊内通話を隠語で行うという訓練を重視して、それに没頭、徹底的に行ったという。それが宇垣司令官に認められ、可愛がられた。

 艦隊訓練が終わり、三河湾に入泊して、蒲郡で半舷上陸が行われたとき、久住参謀は宇垣司令官のお供をして鴨猟に行ったこともあったという。

 宇垣司令官から「正奇制敵」と書かれた立派な揮毫ももらった。この揮毫はは額に表装されて久住氏の家の客間を飾っている。

 「実録・参謀たちの戦争学」(立風書房)の中の「戦いの枢機に参じた五人の艦隊参謀」によると、宇垣纏少将が巡洋艦の第八戦隊司令官から連合艦隊参謀長に転補されたのは昭和16年8月1日だった。

 9月24日軍令部において、軍令部からは第一部長・福留繁第一部長以下作戦課全員と連合艦隊から宇垣参謀長以下幕僚が出席して、ハワイ奇襲作戦を実施すべきか否か真剣な討議が行われた。

 「宇垣参謀長は開戦日を一ヶ月遅らせるようなことがあっても、ハワイ作戦はやったほうが全般作戦を進捗させて有利」と発言した。

 だが、会議終了後、福留第一部長に「自分は着任後日が浅く、確たる自信はないのだが」と漏らしている。

 福留と宇垣は海軍兵学校四〇期の同期。福留は卒業成績が8番、宇垣は9番で恩賜組ではなかったが、席次が隣り合う良きライバルだった。

 どういう理由か不明だが、青年士官時代に福留はハンモックナンバー(席次)がずるずる下がり大尉の中頃には17番まで落ち込んでしまった。

 だが、大正15年12月、海軍大学校甲種学生を恩賜の長剣・2番で卒業すると、順位を回復し、昭和2年には10番、6年には6番に上がり、宇垣の次位を占めるようになった。

 海軍大学校入学は宇垣のほうが2年早い。甲種学生卒業と同時に少佐に進級している。

 その後宇垣は軽巡大井砲術長、軍令部参謀、ドイツ駐在、第五戦隊参謀、第二艦隊参謀、海軍大学校戦術教官を経て、昭和10年10月、連合艦隊先任参謀のエリート街道をまっしぐらに歩んでいる。

 「最後の特攻機」(中公文庫)によると、宇垣纏は明治23年2月、岡山県赤磐郡潟瀬村の正木に生まれた。正木は吉井川と裏山に取り囲まれている小村である。現在の地名は瀬戸町大内である。

 この小村の農家のほとんどは驚くべきことに宇垣の姓である。戦前から戦中にかけて、この小村は県下でも、軍人王国としてもてはやされた。そして多くの人々の注目を引いてきた。