陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

496.東郷平八郎元帥海軍大将(36)一体、山梨は軍服を着ているのか、次官をやめた方がいい

2015年09月25日 | 東郷平八郎元帥
 日本では、四月二十三日から第五十八回特別議会が開会された。条約反対の強硬派だった東郷元帥、伏見宮も回訓を認め、海軍の反対運動も収まるとみられた。だが、野党の政友会は海軍部内の不満を倒閣の材料に使った。

 昭和五年四月二十五日、両院本会議で浜口首相、幣原外相が演説した。幣原外相のロンドン条約調印にふれた説明は「軍事費の節約は実現され、少なくとも協定期間中は国防の安固は十分補償され」「政府は軍事専門家の意見も十分に斟酌し。確固たる信念をもって条約に加入した」「帝国のため断然得策なり」と、かなり強気の所信表明だった。

 それが、東郷平八郎元帥、軍令部長・加藤寛治大将、軍令部次長・末次信正中将ら海軍強硬派の身上を逆なでした。

 野党の政友会総裁・犬養毅がまず質問に立ち、「総理、外相は安全だと言われるが、軍令部長は、国防は出来ないという。これでは国民は安心できない」と迫った。

 つづく政友会の鳩山一郎が「政府が軍令部の国防計画を無視して条約を結んだのは、統帥権輔弼を侵すものだ」と論じた。これが後に騒がれる「統帥権干犯」問題の発端となった。

 条約は調印されても、批准されなければ発効しない。東郷元帥ら海軍強硬派は、この統帥権をかざして批准阻止へと動き出した。

 五月三日、海軍部内のまとめ役、軍事参議官・岡田啓介大将は、伏見宮を訪れて殿下の態度ががらりと変わったのに気付いた。伏見宮は次のように言ったのだ。

 「幣原の演説はもってのほかだね。兵力量は政府が決めるというような発言は言語道断だ。一体、山梨は軍服を着ているのか、次官をやめた方がいいのでは」。

 岡田大将は「外相演説は少し行き過ぎだが、山梨の立場は大いにみてやらねば」と答えた。伏見宮の態度の急変は、二日前に軍令部長・加藤寛治大将に会ったことと関連があるように思った(岡田日記)。

 伏見宮が「軍服を着ているのか」と言った言葉は、当時人気のユーモア小説作家・佐々木邦の短編「閣下」に次のように出ている。

 「我輩はこの頃けしからん事を発見した。海軍の将校には途上や電車の中は背広服にして、本省に出仕してから軍服に着替えるものがある。いやしくも軍人たるものが軍服を恥とするようになってはおしまいです」。

 不況で軍縮が叫ばれていた世相で、肩身の狭い思いの軍人もいた時代だったのである。

 昭和五年五月十四日、加藤軍令部長は東郷元帥宅を訪ね、「不本意な回訓を政府に出させてしまい、軍令部長としてもその職に留まることはできないので、辞職します」と辞任の決意を告げた。

 東郷元帥は「やむを得んだろう。じゃが、財部が帰国するまで待ちなさい」と答えた。加藤軍令部長は、その足で伏見宮邸へも行き、同じように辞意を伝えた。

 十六日には浜口首相が東郷元帥宅を訪問した。記者団に対して浜口首相は「首相としてでなく海相事務管理の資格で訪ねた。海相帰国で私は解任となるので、海軍の先輩に対する礼として訪問したまでだ」と答えた。東郷元帥は「会見の内容は申し上げられない」と語った。

 六月十日、加藤軍令部長は、明治神宮に参拝した後、参内し、天皇に上奏文を読み上げた。五月十九日に帰国した財部海相に提出したものと同じで、文中政府弾劾の辞句があるとして財部海相がそのまま預かり、撤回を求めていたものだった。

 昭和天皇は黙って聴き、意思表示はしなかった。あとで財部海相を呼んで、「加藤がこんなものを持って来たが、話の筋合いが違う。その措置は一任する」と言われた(『西園寺と政局』第一巻・「岡田日記」)。

 昭和五年六月十一日、軍令部長の後任に呉鎮守府司令長官・谷口尚真(たにぐち・なおみ)大将(広島・海兵一九・五席・海大三・海軍大学校教官・第三艦隊参謀・大佐・軍令部第三班長・海軍大学校教官・海軍省副官・装甲巡洋艦「常盤」艦長・巡洋戦艦「榛名」艦長・少将・人事局長・馬公警備府司令長官・中将・練習艦隊司令官・海軍兵学校校長・第二艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・大将・連合艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・軍令部長・軍事参議官・功四級)が発令された。

 末次軍令部次長も更迭された。山梨次官も軍令部次長と相打ちという形で退き、艦政本部長・小林躋造(こばやし・せいぞう)中将(広島・海兵二六・三席・海大六首席・海軍大学校教官・技術本部副官・大佐・巡洋艦「平戸」艦長・在英国大使館附武官・少将・第三戦隊司令官・軍務局長・中将・ジュネーヴ会議全権随員・練習艦隊司令官・艦政本部長・海軍次官・連合艦隊司令長官・大将・軍事参議官・予備役・台湾総督・貴族院議員・国務大臣・勲一等)に変わった。

 また軍令部次長には、海軍兵学校校長・長野修身(ながの・おさみ)中将(高知・海兵二八次席・海大八・装甲巡洋艦「磐手」副長・大佐・人事局第一課長・巡洋艦「平戸」艦長・在米国大使館附武官・ワシントン会議全権随員・少将・軍令部第三班長・第三戦隊司令官・第一遣外艦隊司令官・練習艦隊司令官・中将・海軍兵学校校長・軍令部次長・ジュネーヴ会議全権・横須賀鎮守府司令長官・大将・ロンドン海軍軍縮会議全権・海軍大臣・連合艦隊司令長官・軍事参議官・高等技術会議議長・元帥・従二位・勲一等・功五級)が就任した。

495.東郷平八郎元帥海軍大将(35)どうも山本は感心しない人物としか映らなかった

2015年09月18日 | 東郷平八郎元帥
 閣議に出席した次官・山梨中将も、閣議で回訓が決まったことを報告しに東郷元帥邸を訪ねた。応接間で和服姿の東郷元帥はじっと報告を聞いていたが、終わると次のように言った。

 「一旦決定せられたる以上は、それでやらざるべからず。今更彼れこれ申す筋合いにあらず、この上は部内の統一に務め、愉快なる気分にて和衷協同、内容の整備はもちろん、士気の振作、訓練の励行に力を注ぎ、質の向上により海軍本来の使命に精進すること肝要なり」。

 だが、東郷元帥に心酔している加藤軍令部長は、おさまらなかった。加藤軍令部長は、どうしても天皇に直接訴えたかった。三月三十一日と四月一日に上奏を願い出たが容れられず、後に、侍従長・鈴木貫太郎大将による「上奏阻止事件」とされた。

 強硬派から「君側の奸」とされた鈴木大将だが、兵力量のことで首相と軍令部長が違った上奏をしては、陛下は判断に苦しまれるだろうとの思いがあったのだ。

 三度目の願いが許されて、四月二日朝、加藤軍令部長は、皇居に参内して上奏文を読み上げた。すでに政府がロンドンへ条約妥結の解答電報を打ったあとだった。

 二十八歳の昭和天皇は、黙って加藤軍令部長の上奏文を聞いていた。内容は意外にあっけなかった。後に「回訓反対の上奏」と伝えられているが、「慎重審議を望む」というだけで、「反対」ではなかった。

 当時、霞が関の海軍省軍務局長は堀悌吉(ほり・ていきち)少将(大分・海兵三二首席・海大一六次席・海軍大学校教官・ワシントン会議全権随員・連合艦隊参謀・大佐・二等巡洋艦「五十鈴」艦長・軍令部参謀・ジュネーヴ会議全権随員・戦艦「陸奥」艦長・少将・第二艦隊参謀長・軍務局長・第三戦隊司令官・第一戦隊司令官・中将・勲二等旭日重光章・予備役・日本飛行機社長・浦賀ドック社長)だった。

 四月二十一日、条約調印の前日、その堀軍務局長のところへ、軍令部第二課長代理・野田清(のだ・きよし)大佐(北海道・海兵三五・四十番・海大一七・二等巡洋艦「鬼怒」副長・海軍大学校教官・大佐・軍令部第一班第二課長・ジュネーヴ会議全権随員・海軍省副官・海軍省臨時調査課長・軍事普及部委員長・少将・海軍部報道部長・中将・軍事普及部委員長)が次のような内容の一通の書類を持って来た。

 「倫敦海軍条約案ニ関スル覚 海軍軍令部 海軍軍令部ハ倫敦海軍条約中補助艦ニ関スル帝国ノ保有量ガ帝国ノ国防上最小所要海軍兵力トシテソノ内容充分ナラザルモノアルヲ以テ、本条約ニ同意スルコトヲ得ズ」(海令機密第六七号)。

 「なんだこれは。調印は明日だ。こんなもの受け取れん」と、堀少将は書類を突き返した。野田大佐は「軍令部長は、海相が帰国されるまで預かっておいてくれと申されました」と言った。

 翌日、岡田大将が加藤軍令部長を東京四谷の自宅に訪ねて真意を聞くと、「条約調印前の日付で軍令部は反対だった証を残しておきたかったのだ。大臣が帰るまで金庫にでも納めて置いてもらえれば……」と言った。

 四月二十二日、ロンドンでは、セント・ジェームズ宮殿で軍縮条約の調印式が行われた。若槻全権は、国産のペンでサインした。

 調印後、日本全権団は宿舎のグローブナーハウスで慰労パーティを開いたが、海軍随員の佐官級は不満で荒れた。取っ組み合いや鼻血を流す者もいた。「全権が逃げたと言われたくなかった」という若槻は、最後まで付き合い、部屋に戻ったのは深夜だった。

 戦後の第一次吉田内閣の外務次官・寺崎太郎(東京・帝国大学法科卒・外務省アメリカ局長・外務次官)は、当時三等書記官で、ニューヨーク領事館から随員として加わり、若槻の通訳などをした。

 「れいめい・日本外交回想録」(寺崎太郎・1982年)によると、著者の寺崎は、当時のことを次のように述べている。

 「一行中で夫人同伴は財部全権と新婚早々の私だけ。エライ人の奥さんと私の妻だけがホテルの中で紅二点だった。海軍の佐官連中が暴力をふるう場合は私が飛び出すからお前もそのつもりでおれ、と花嫁に申し聞かせたものでした」

 「海軍側の若手随員中の猛者連が若槻首席全権や山川、川崎両顧問の居室を夜中訪れ、今でいえば、“座り込み”をやったのである。日本全権団の宿舎は、物情騒然となった。海軍の首席随員は左近司さんだったが、すぐ次には鼻っぱしの強い山本五十六が控えていたので、さぞ、左近司さんはやりづらかったことと察せられた」。

 山本五十六はロンドンでは暴れたらしい。だが、その反面で、こんなこともあった。朝日新聞政治部記者で、ロンドン軍縮会議取材のため特派された浜田常二良(著書に「ヒットラー・人及その事業」「日独国民性の相違とナチスの政策」「大戦前夜の外交秘話―特派員の手記」などがある)は、後に次のように語っている。

 「ロンドンのグロブナー・ハウスでの慰労会で、山本は隣り合わせの私に『アスパラガスをとってくれ』と頼んだ。山本はアスパラガスが大好物だった。真向かいに座った全権の財部海相が『ここにあるよ』という。私は、あんなに財部の悪口をかげでたたく山本だから、受け取らぬと思っていたら、頭を下げてヘイヘイしながら有り難そうに受けっとった。私は山本とは親しくしていたが、以来、腹の中では軽蔑し、どうも山本は感心しない人物としか映らなかった」。

494.東郷平八郎元帥海軍大将(34)財部は物見遊山のつもりか、カカアなど連れてゆきおって

2015年09月11日 | 東郷平八郎元帥
 ところで、ロンドン軍縮会議全権・海軍大臣・財部彪大将は、ロンドンへ出発する直前、朝鮮総督・斎藤実(さいとう・まこと)海軍大将(岩手・海兵六・三席・「防護巡洋艦「秋津洲」艦長・防護巡洋艦「厳島」艦長・海軍次官・少将・海軍総務長官兼軍務局長・中将・海軍次官兼軍務局長兼艦政本部長・海軍大臣・男爵・大将・朝鮮総督・子爵・ジュネーヴ会議全権・枢密院顧問・退役・朝鮮総督・首相・内大臣・議定官・二二六事件で暗殺される」・従一位・大勲位・功二級)に会って話を聞いた。

 その時、斎藤大将から「これからの外交は、夫人同伴であるべきだ」と言われた財部大将は、妻・いね子を同伴して、ロンドンへ乗り込んだ。しかし、それが東郷元帥を激怒させるとは、夢にも思っていなかった。

 「戦争にカカアを連れていくとは何事か」。東郷元帥は、「軍縮会議は戦争だ」と思っていた。ロンドンへ夫人を同伴した全権・財部大将のことが気に食わなかった。

 戦前は男女平等ではなかった。「男女七歳にして席を同じうせず」という教育、しつけを受けた。夫婦でも肩を並べて歩かなかった。女性は男性の後ろにつくのが美徳とされた。東郷元帥の生まれ育った鹿児島は、特に男尊女卑の風習が根強かったのである。

 全権・財部大将が妻・いね子を同伴したのは朝鮮総督・斎藤実大将だけでなく、外相・幣原喜重郎からも「今やそれは外交恒例上の常識である」と勧められ、それに従ったのである。

 昭和五年三月二十三日、海軍のまとめ役、前海軍大臣で軍事参議官の岡田啓介大将は、午前中、軍令部長・加藤寛治大将を自宅に訪れ、さらに午後は、東京紀尾井町の森の中にある伏見宮邸を訪ねた。強硬派である海軍の大御所、軍事参議官・伏見宮博恭王大将は怒って次のように言った。

 「財部は出発前に、二度も私に、三大原則は絶対退かない、と言っていた。財部の気持ちは聞く必要はない。軟弱なのは幣原外交だ。この際、一歩退けば国家の前途はどうなるか分らん。私は主上(昭和天皇)に申し上げるつもりだ」。

 岡田大将は、その足で麹町の東郷元帥邸を訪ねた。日清戦争で清国兵を乗せた英国船「高陞号」を撃沈させた事件の「浪速」の艦長が東郷大佐で、その時の砲術指揮官は岡田中尉だった。

 ロンドン軍縮の経過について、岡田大将は報告したが、もう一人の強硬派、東郷元帥は苦々しい顔をして聞いていたが、次のように言った。

 「な、軍縮会議はのるか、そるか、宣戦布告の無い戦争なんじゃ。財部は物見遊山のつもりか、カカアなど連れてゆきおって。だから、こういうことしかできん。今回の請訓は、全然話にならん」。

 なんとも、とりつくしまもなかった。このとき、東郷元帥八十二歳、岡田大将は六十二歳だった。岡田大将は回顧録で次のように述べている。

 「財部は強硬派ばかりでなく、軍縮派にもあまり好かれていなかったのは、つまらぬことだが、細君を会議に連れて行ったのがけしからんという感情から来ている。東郷元帥に評判が悪かったのも、もっぱらこのためだ。(略)……財部の細君というのは、山本権兵衛さんの娘(長女いね子)だ」。

 財部大将と岡田大将は、日露戦争の旅順閉塞隊の広瀬武夫中佐と共に海軍兵学校一五期で、明治二十二年卒業だった。席次は、財部首席、岡田二十三番、広瀬六十四番の順だった。

 エリートの財部は軍政畑の海軍省内をトントン拍子に出世し、通例より三年九か月も早く大将に昇進、大正十二年、十三年と昭和四年に三回海軍大臣に就任した。

 海軍の頂点まで登りつめることができたのは、山本権兵衛や加藤友三郎らに見込まれたためもある。海軍きっての権勢家・山本権兵衛の娘むことなって、破格の出世をしたと見られた。その一方で実戦現場の東郷元帥らには敬遠され、海軍部内の統率力、信望は今一つなかった。

 三月二十七日、浜口雄幸首相は、天皇にロンドン軍縮会議の経過を報告した。速やかに協定の成立するようにとの天皇の意中を知り、浜口首相は妥協案で条約を受諾する決心をした。

 四月一日、朝の首脳会談の後、閣議で承認を得たあと、夕方、ロンドンの全権団あてに条約案を承認するという回訓電報を打った。

 閣議の前に、浜口首相は、時間がないので、岡田大将に、東郷元帥に条約案承認の意向を伝えてほしいと頼んだ。加藤寛治軍令部長も「一緒に行く」と車に同乗して二人で麹町の東郷元帥邸を訪ね、朝の首脳会談の模様を伝えた。

 三十分ほど、回訓に至るまでの経過を報告、東郷元帥はただ黙って聞いた。天皇が自分の考えとは違う事を察知したのか、その顔色はさえなかった。

493.東郷平八郎元帥海軍大将(33)大変です。全権団はアメリカ案を飲むハラのようです

2015年09月04日 | 東郷平八郎元帥
 海軍部内は二つに分かれて揺れていた。「七割の大原則だけはあくまで貫け」という東郷元帥らの強硬派(艦隊派)と、「財政・国際情勢から妥結すべきだ」という条約派に分裂していた。

 浜口首相は海軍大臣の代理もしていたが、自分の手には負えなかった。結局、政府がロンドンへ回訓電を打ったのは四月一日だった。

 それまでの十五日間、東京麹町の東郷元帥宅へは、海軍の長老、幹部がひんぱんに出入りした。東郷元帥は和服で腕組みしながら、その言う事をじっと聞いた。

 請訓電の来た翌日の三月十六日日曜日だったが、軍令部長・加藤寛治大将は、東郷元帥宅を訪ねた。

 加藤大将が「大変です。全権団はアメリカ案を飲むハラのようです」と報告すると、東郷元帥は「うむ、困ったものじゃ。なんとかしなければ」と腕組みしながら言った。

 東郷元帥も、加藤大将も「妥結案」と言わず、「アメリカ案」と言った。東郷元帥の軍縮に対する持論は「受け入れられなければ、協定破棄、断固退去」というのが一貫した姿勢だった。

 東郷元帥は、八十二歳の高齢ではあったが、元帥として現役、軍事参議官会議では議長を務め、発言の一言は影響を与えた。

 翌三月十七日、加藤大将は、ロンドンの全権・財部彪海軍大臣に「十六日、東郷元帥を訪ねたが、元帥も外務省の譲歩的態度には不満で、こういわれている」と、次の様な趣旨の電報を打った。

 「我初めより三割を譲歩しおるに、彼大切なる大型巡洋艦において譲るところなければ、我は致し方なしとて帰来の外なし。我には破れたりとて大拡張とならぬ故、財政上の心配なし。自分は七割にても如何かと思いたるも今迄の行き懸りと訓令とにて之が最小限にして之より減ぜぬと聞き承知せり」

 「要するに七割なければ国防上安心できずとの態度をとりおることなれば、一分や二分という小掛引きは無用なり。先方聴かざれば断々固として引揚ぐるのみ。万一、我が主張貫徹せず会議決裂に終ることあるも、曲りなりに取りまとめ日本に不為の条約を結ぶよりも国家のためには幸なるべし」。

 「この電報は東郷の権威を利用して財部に圧力をかけたもので、これは加藤の手口である」と、「軍令部総長の失敗」を書いた海軍兵学校出身の作家・生出寿(おいで・ひさし・大正十五年栃木県生まれ・海兵七四・海軍少尉・戦後東大文学部仏文学科卒・戦記作家・平成十八年死去)は述べている。

 三月十七日朝、海軍次官・山梨中将は岡田大将を訪ね、「決裂だけは避けたい。もう一度、ロンドンへ財部の意見を聞いてみよう」と相談した。

 ところが、その日の夕刊各紙の一面トップに「アメリカ案絶対反対」という「海軍当局の声明」が掲載された。山梨海軍次官も加藤軍令部長も知らない声明だった。

 これは、軍令部次長・末次信正(すえつぐ・のぶまさ)中将(山口・海兵二七・海大七恩賜・海軍大学校教官・第一艦隊参謀・大佐・巡洋艦「筑摩」艦長・軍令部第一班第一課長・海軍大学校教官・ワシントン会議次席随員・少将・第一潜水艦隊司令官・海軍大学校教官・教育局長・中将・軍令部次長・舞鶴鎮守府司令長官・第二艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・予備役・内閣参議・内務大臣)が新聞記者を集めて流したものだった。

 海軍の大御所である東郷元帥と軍事参議官・伏見宮博恭王(ふしみのみや・ひろやすおう・皇族・海兵一六退校・ドイツ海軍兵学校卒・海軍少尉・ドイツ海軍大学校卒・巡洋艦「霧島」分隊士・砲術練習所学生・中尉・戦艦「富士」分隊長心得・大尉・戦艦「富士」分隊長・装甲巡洋艦「出雲」分隊長・海軍大学校選科学生・戦艦「三笠」分隊長・少佐・防護巡洋艦「新高」副長・中佐・装甲巡洋艦「日進」副長・英国駐在・大佐・巡洋戦艦「伊吹」艦長・海軍大学校選科学生・少将・横須賀鎮守府艦隊司令官・海軍大学校校長・第二戦隊司令官・中将・第二艦隊司令官・軍事参議官・社団法人帝国水難救済会総裁・大将・佐世保鎮守府司令長官・軍事参議官・海軍軍令部長・元帥・軍令部総長・大勲位菊花章頸飾・功一級)の二人が、ロンドン軍縮会議において、「七割論者」の強硬派であることに、政府は頭を痛めた。

 海軍次官・山梨中将は「とても自分の力ではどうにもならない」と、浜口首相に東郷元帥の説得を頼んだ。だが、浜口首相は逃げ腰で、次のように答えた。

 「私は元帥を尊敬している。恐らく人後に落ちない。だが、今は首相だ。国民と議会に全責任を持つ立場にある。元帥の方から私の考えを聞きたいと言われれば、喜んで説明するが、自分から進んで元帥に説明するのは、如何なものか」。

 元老や重臣は条約をまとめようとする浜口内閣を支持した。西園寺公望は次のように言った。

 「大局から見れば、いくら強いことを言ってみても、結局しまいまで勝ちおおせるものではない。今の国力から言って到底難しい。一国の軍備というものは、その国の財政の許す範囲ではじめて耐久力のある威力が保てるのである」

 「……むしろ日本が先に立って六割でもいいから会議をリードして成功に導かせることが、将来の日本の国際的地位を高めることになる。(略)……英米とともに采配の柄を持つことが出来る今の日本の立場を捨ててしまってまで、どこに利益があるのか」。

 国勢の「元老」は、海軍の「元帥」とは全く反対の意見だった。