陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

160.牟田口廉也陸軍中将(10)心置きなく腹を切って下さい。作戦の失敗は、それ以上の価値があります

2009年04月17日 | 牟田口廉也陸軍中将
 「抗命」(文春文庫)によると、第十五軍司令部の部付将校、中井悟四郎中尉が司令部で仕事をしていると、牟田口軍司令官が、参謀の藤原少佐の机の所にやってきて、中井中尉ら部付将校のいる前で、いとも弱々しげな口調で次のように言った。

 「藤原、これだけ多くの部下を殺し、多くの兵器を失ったことは、司令官としての責任上、私は腹を切ってお詫びしなければ、上御一人や、将兵の霊に相済まんと思っとるが、貴官の腹蔵ない意見を聞きたい」

 中井中尉らは仕事の手を休め、この興味深い話に耳を傾けた。軍司令官は本当に責任を感じ、心底からこんなことを言い出したものだろうか。自分の自害を人に相談するものがあるだろうか。言葉の裏に隠された生への執着が、言外にあふれているような疑いが、だれしもの脳裏にピンときた。

 藤原参謀はと見ると、仕事の手を一瞬もとめようとはせず、作戦命令の起案の鉛筆を走らせていた。軍司令官には一瞥もくれようとはせず、表情すら動かさず、つぎのようなことを激しい口調で言った。

 「昔から死ぬ、死ぬと言った人に死んだためしがありません。司令官から私は切腹するからと相談を持ち掛けられたら、幕僚としての責任上、一応形式的にも止めない訳には参りません」

 続けて「司令官としての責任を真実感じておられるなら黙って腹を切って下さい。だれも邪魔したり止めたりは致しません。心置きなく腹を切って下さい。今度の作戦の失敗は、それ以上の価値があります」

 取りつくしまもなくなった軍司令官は「そうか、良くわかった」と消え入りそうな、ファッ、ファッ、ファッと、どこか気の抜けた笑い声とも自嘲ともつかない声を残して、藤原参謀の机の前から去って行った。

 牟田口軍司令官はインパール作戦失敗の責任を取らされ、昭和19年8月、第十五軍司令官を解任され、参謀本部附のあと12月予備役になった。だが、昭和20年1月召集され、予科士官学校長に就任した。

 終戦後、昭和20年12月戦犯容疑で逮捕され昭和21年9月シンガポールに移送された。昭和23年3月釈放され帰国、東京都調布市に住んだ。

 昭和36年2月26日、佐藤元中将は東京都世田谷区の病院で、肝硬変で亡くなった。告別式の日、牟田口元中将が姿を見せた。戦争が終わっても二人の気持ちは和解しなかった。しかし、牟田口元中将は、佐藤家の遺族の前に頭を下げ、「自分の至らないため、すまないことをした」と詫びた。

 その後英国からアーサー・パーカー中佐の、インパール作戦での牟田口軍司令官を称える手紙が来た。牟田口元中将は、パーカー中佐の手紙を持って新聞社や雑誌社をまわり、自分の作戦が正しかったことを、当時の敵軍将校によって認められたと主張した。

 牟田口元中将は、昭和38年4月23日と昭和40年2月18日の二回、国会図書館で政治史資料の録音を行った。

 最初の録音は、盧溝橋事件についてであり、二回目は、インパール作戦についてであった。インパール作戦については、牟田口元中将は、パーカー中佐の手紙にふれて、話をした。

 昭和40年7月12日、北九州市で北九州ビルマ方面戦没者合同慰霊祭が催された。招かれて出席した牟田口元中将は、意気盛んな様子で、挨拶に立つと、英軍のパーカー書簡について語った。

 続けて、河辺ビルマ方面軍司令官がディマプール進撃を制止したから負けたこと、弓、烈、祭の三師団長がつまらない人物だったので、早く更迭しておけば勝っていたことなどを語った。

 牟田口元中将は、最後に印刷された「牟田口文書」をふりかざして、「くわしくは、これを読んでください」と叫んだ。参列の遺族は意外な話に驚き、あきれた。せめて、一言申し訳なかったと言って欲しかったという。

 昭和41年8月2日、牟田口元中将は、亡くなった。喘息、胆嚢症、心筋梗塞で加療中に脳溢血を併発した。七十七歳だった。

 告別式は8月4日、東京都調布市の自宅で行われた。会葬者は長い列をつくった。その中に、荒木貞夫元大将ら旧将軍の顔も見えた。

 受付の係りの前にはパンフレットが高く積まれ、会葬者に渡された。それが牟田口元中将の、あの「国会図書館における説明資料」だった。

 (「牟田口廉也陸軍中将」は今回で終わりです。次回からは「米内光政海軍大将」が始まります)

159.牟田口廉也陸軍中将(9) 軍法会議にまわす、佐藤を叩き斬って俺も切腹する

2009年04月10日 | 牟田口廉也陸軍中将
 さらに佐藤師団長は「軍の統帥はでたらめだ。牟田口は訓示でも『皇国の荒廃この一戦にあり』と言っている。この作戦にそんなことを言うのは正気ではない。この作戦は牟田口が上司を動かして始めたにもかかわらず、この期に及んでなすことを知らない有様だ」と言ってさらに続けた。

 「自分の立場に部下軍隊を引きつけ、統帥権冒涜におちいるようなことになれば、『戦線の2.26事件』ともなることだ。この際、われわれは誠忠の士となるべきことを心がけなければならない」

 久野村軍参謀長は、しばらくして「インパール攻撃の師団長がその意思がなければ駄目ですな」と妙なことを言った。ロウソクの光の中で、その目が不気味に光っていた。

 その後会談は続き、師団の終結地点は一応ミンタに決まった。会談が終わって、佐藤師団長は「どうだ、烈の将兵は、飲まず食わずでいくさをしても、士気旺盛だろうが」と大声で言った。

 すると久野村軍参謀長は「上官に対し敬礼する意思はあるようですな」と皮肉の答えをした。

 外に出るために佐藤師団長は席を立った。

 すると久野村軍参謀長も立ち上がった。そして「閣下」と呼び止めた。そして「閣下は命令を実行されますか」と言った。語気が強かった。

 佐藤師団長は「もちろん、軍命令は実行するさ」と不愉快になって答えた。

 昭和19年7月9日、佐藤師団長あてに、十五軍から電報が届いた。「ビルマ方面軍司令部付に命ず」というものだった。師団長解任であった。

 烈・第三十一師団後方主任参謀・野中国男少佐(陸士47・陸大56)は、終戦後ビルマに抑留され、自決した。死後、遺稿が見つかった。

 その遺稿によると、野中参謀は解任された佐藤師団長を送ってチンドウイン河の渡河点まで行った。その帰りに第十五軍司令部に立ち寄り、牟田口軍司令官と会談した。

 軍司令官に申告に行くと「参謀一名、佐藤中将について来るというから、だれかと思ったらお前だったか。だいぶ苦労したな、ゆっくり休んで明朝来てくれ」と言われた。

 明朝十時、軍司令官と机をはさんでさし向いにかけた。煙草が出され、恩賜の酒が出され、すすめられるままに、外国煙草に火をつけた。

 軍司令官は、佐藤中将をさんざんに酷評した。軍法会議にまわす、佐藤を叩き斬って俺も切腹すると言った。また、一人として腹を切ってでも、師団長を諌めようとする幕僚もいないとなじった。

 そして「足利尊氏になることは誰にでもできる」とも言ったが、語っているその頭から湯気が立ち、眼が据わり、常人でないように感じられた。

 すると突然に、軍司令官の話は「真崎将軍はあんな人とは思わなかった。俺も色々面倒を見たことがあるが」と何も関係の無いことにとんだりした。

 佐藤師団長はラングーンのビルマ軍司令部に向かう途中、第十五軍司令部に寄ったが、牟田口軍司令官は前線視察で不在だった。

 佐藤師団長は、ビルマの首都ラングーンのラングーン大学の中にあったビルマ軍司令部に到着したのは7月12日であった。佐藤師団長は、河辺正三軍司令官(陸士19・陸大27)と面会した。

 その後、南方軍司令部から法務部長がきて、佐藤師団長を抗命罪で調査したが、不起訴になった。外形上は抗命行為があったが、精神鑑定の結果、当時は疲労のため、心神喪失状態にあったと判断され、不起訴になったのだ。

 実際には佐藤師団長の精神には異常は無かったのだが、南方軍とビルマ方面軍が意図的に、事件を終結させた。佐藤師団長は予備役に編入させられた。

 「完本太平洋戦争・(ニ)」(文春文庫)で、元第十五軍参謀・藤原岩市氏(陸士43・陸大50)は「インド進攻の夢破る」と題して寄稿している。その中で「ウ号作戦の秘匿名称を以って呼ばれたインパール作戦こそ、過ぐる太平洋戦争の間でも最も凄惨苛烈な異色の作戦であった」と記している。

 昭和19年7月10日、牟田口軍司令官の具申が大本営に容れられ、インパール作戦中止、ジビュー山系、カレワの線に撤退すべき方面軍命令が下った。

158.牟田口廉也陸軍中将(8) 二人の怪しげな魔法使いを、自分の天幕に入れてやった

2009年04月03日 | 牟田口廉也陸軍中将
 第三十一師団がコヒマから独断撤退したことを知った牟田口軍司令官は、驚き、憤慨した。第三十一師団を戦線に戻さなければならない。牟田口軍司令官は久野村軍参謀長と兵站参謀・薄井誠三郎少佐(陸士四五・陸大五五)を第三十一師団司令部に派遣した。

 撤退中の師団司令部にたどり着いた久野村軍参謀長と薄井参謀は、すぐに佐藤師団長に面会を申し入れた。

 ところが佐藤師団長は「軍参謀長などに会う必要は無い」と拒絶した。二人は、やむなく師団参謀長の加藤国治大佐(陸士三四・陸大四四)と会見し、師団長に面会できるよう頼んだ。

 第三十一師団長・佐藤幸徳中将は戦後、昭和三十六年二月二十六日に死去した。佐藤中将は、遺稿の回想録を遺していた。その回想録にこの時のことを次のように記している。

 「六月二十一日、突如として二人の魔法使いが出現した。自分は会いたくなかった。彼らは軍命令を携行してきたのである。それはインパール攻撃命令であり、二、三日前に師団無線で受信し、誰も相手にしなかった複雑怪奇、奇想天外のものと同一であった」

 「加藤参謀長のとりなしで、とうとう自分はいたしかたなく、二人の怪しげな魔法使いを、自分の天幕に入れてやったのである」。

 佐藤師団長にしてみれば、第十五軍の立案したインパール作戦は魔法に等しいものと言いたいのだった。怪奇であり、人間わざではできないことであると。

 二人は佐藤師団長の天幕に通された。いきなり佐藤師団長は兵站参謀・薄井少佐を怒鳴り付けた。

 「出発前、あれだけ固い約束をしておきながら、烈(第三十一師団)に一発の弾も一粒の米も送らなかったのは何事か。カラソムに四日分の糧食を集積しておくと言ったのは、どこの幽霊司令部だったか。弾も無く、食うものも無く、戦をするという戦術を、貴様らはどこで習ったか」。

 久野村軍参謀長は「参謀に過失があれば、どうか直接私に言っていただきます。これから閣下と私だけで懇談をお願いします」と言った。佐藤師団長は同意して、加藤参謀長と薄井少佐を退出させた。

 すると久野村軍参謀長は「一体、閣下、どうしたらよいでしょうか。この作戦の失敗は全く自分の失敗です」と口を開いた。

 軍の参謀長は軍の作戦指導の責任者である。佐藤師団長は、そのような人物から、このような言葉を聞くのは心外にたえなかった。恐るべき無能である。十五軍司令部の魔法の正体を見た思いだった。

 佐藤師団長は「貴官はこの作戦を実行するという前提で着任したはずだ。それだけの成算と決心があったはずだ。それを今になって、どうしたらよいでしょうとは、何事か。貴官は貴官としてなすべき使命があろう」と大声で叱りつけた。

 佐藤師団長に叱られて、久野村軍参謀長はうなだれていた。だが、久野村軍参謀長は第十五軍の新たな命令を携行していた。それはまたもインパール攻撃を命じたものだった。内容はとても承服できるものではなかった。

 佐藤師団長は「インパール作戦の現状は、大陸のガダルカナルとも言うべき悲惨な失敗に陥っている。しかるに牟田口はいたずらにインパールに妄執している。牟田口の考えているのは政治だ。戦略ではない。自分は陛下の軍隊を無意味に餓死させることはできん」と言った。

 さらに「牟田口は作戦開始前から『自分を死なせてくれ』とか『不可能を可能にして』ということを口癖にしていた。これは思い上がりで、幕僚の意見も聞かず、異常な心理だ」と言い放った。

 久野村軍参謀長は、一言も口をきけないでいた。わずかに、佐藤師団長が牟田口軍司令官の名を呼び捨てにしたときに、久野村軍参謀長の目が動いた。とがめるような目であった。

157.牟田口廉也陸軍中将(7) 久野村軍参謀長以下幕僚の能力は、正に士官候補生以下なり

2009年03月27日 | 牟田口廉也陸軍中将
 昭和十九年三月、インパール作戦は開始された。第十五軍隷下の三個師団は、ビルマからインドへ国境山脈を越えて急進した。だが、四月下旬までに、各師団は損害を多く出し、攻撃は挫折した。食糧も武器・弾薬も足りなくなくなった。

 作戦の成否は各方面から重大な関心が寄せられていた。昭和天皇も大いに気にされていた。

 侍従武官・尾形健一大佐の日誌によると、四月十四日、天皇は「報告ナキハウマク行カヌノデハナイカ。攻撃失敗セリト云フガ壊滅的打撃ヲ受ケタノデハナイカ」とつぶやかれたという。

 インパール作戦はその後も続行され、損害はさらに拡大した。第十五軍隷下の三師団長は、無謀な攻撃を押し付けておきながら、食糧も弾薬も補給しない牟田口軍司令官に対して、怒り心頭に達していた。

 祭・第十五師団長・山内正文中将は、第五飛行師団あての電文に「第一線部隊をして此れに立ち至らしめたものは実に軍と牟田口の無能のためなり」と記している。

 弓・第三十三師団長・柳田元三中将も再三、第十五軍に対して「作戦中止」を具申している。

 牟田口軍司令官は、まず柳田師団長を、五月九日、「戦意不足」として更迭した。続いて、六月十日、病弱な山内師団長を解任した。

 さらに、烈・第三十一師団長・佐藤幸徳中将を七月九日、「抗命」のかどで、罷免した。「抗命」は命令に逆らうことで、軍法会議に処せられる重大なものであった。

 「全滅」(文春文庫)によると、コヒマを攻撃していた烈・第三十一師団(佐藤幸徳師団長)では、英軍の反撃がすさまじく、逆に日本軍陣地が突破され始めた。攻撃部隊の消耗も激しく、中隊の生存者は七名というところもあった。弾薬や食糧の補給がないため、戦力の差が歴然であった。

 第三十一師団司令部では第十五軍司令部に、再三にわたり食糧と弾薬を要請したが、約束は守られず、補給はなかった。もはや英軍を阻止することは不可能に近かった。

 第三十一師団司令部の周辺にも英軍が出没する事態までになった。佐藤師団長は、第十五軍司令部に、何度も撤退の要請電報を打ったが、牟田口軍司令官は、これを許さなかった。

 六月二日、ついに佐藤師団長は独断でコヒマ攻撃中止命令を出した。第三十一師団はチュデマまで撤退を始めた。これは第十五軍の命令に背くものであった。後に佐藤中将は、抗命罪に問われる。だが佐藤師団長はこれを独断専行と主張した。

 撤退する途中で、師団兵器部長の河原少佐はつぶやいた。「なんといっても、これは牟田口中将の責任だ。こんな無茶な、無計画な、一体、なんのための作戦だったのか。こんな作戦に喜んで死ねるものか。死んだ者がかわいそうだ」

 師団はウクルルまで下がることにした。攻撃の後方主要陣地で、そこには第十五軍との約束で補給された食糧が大量に積まれているはずだった。だが、驚くべきことに、そこにはなにもなかった。

 佐藤師団長は、怒りと同時に、全身に寒気に似たものが走った。師団の重要拠点に食糧も一発の弾薬も補給されていなかったのだ。佐藤師団長はさらに、フミネまで下がることを決意した。フミネには食糧が集積してあるはずだ。

 六月二十一日、佐藤師団長は第十五軍司令部とビルマ方面軍司令部に次の電報を発信した。

 「師団はウクルルで何らの補給をも受くることを得ず。久野村軍参謀長以下幕僚の能力は、正に士官候補生以下なり。しかも第一線の状況に無知なり。従って軍の作戦指導は支離滅裂、食うに糧なく、撃つに弾なく、戦力尽き果てた師団を、再び駆ってインパール攻略に向かわしめんとする軍命令なるや、全く驚くほかなし。師団は戦力を回復するため確実に補給を受け得る地点に移動するに決す」

156.牟田口廉也陸軍中将(6) うまく行きゃ、デリーの赤い城壁まで兵を進めるさ

2009年03月20日 | 牟田口廉也陸軍中将
 弓・第三十三師団長・柳田元三中将(陸士二六・陸大三四恩賜)は初めからインパール作戦は不可能だとして反対していた。柳田中将は学識豊かな教育者といった感じで、実行型の牟田口中将とは合わなかった。

 柳田中将は「あんな、訳の分からん軍司令官はどうもならんな」と稲田副長に言った。牟田口軍司令官は「あんな弱虫はどうにもならん」とののしった。

 また、祭・第十五師団長・山内正文中将(陸士二五・陸大三六)も、線の細い知識人の型で、激戦の指揮官には向かないと思われていた。

 烈・第三十一師団長・佐藤幸徳中将(陸士二五・陸大三三)は猛将として知られていたが、気性が激しいので牟田口軍司令官と合わなかった。

 中参謀長らの苦肉の策も、結局稲田副長に阻止されてしまった。牟田口軍司令官もインパール作戦の計画を撤回するか、時期を待たなければならなくなった。

 ところが昭和十八年十月一日、稲田副長は第十九軍司令部付に転出した。東條首相は、全般的な敗勢の中、牟田口軍司令官の主張するインパール作戦に望みを託すようになっていた。

 この作戦に反対する稲田副長を南方軍から追い出す工作を進言したのは、富永恭次陸軍次官(陸士二五・陸大三五)であった。南方軍の稲田副長は中央の言うことをきかないで、勝手なことをするというのであった。

 南方軍の新副長に就任したのは、大本営第一部長(作戦)の綾部橘樹(あやべ・きつじゅ)少将(陸士二七・陸大三六首席)であった。

 稲田副長が転出すると、南方総軍にはインパール作戦を抑制する者がいなくなった。寺内総軍司令官も「はやくやれ」と言うようになった。

 昭和十八年十二月二十三日から、ビルマのメイミョウの第十五運司令部で参謀長会同が開かれ、そのあと、インパール作戦の総仕上げの兵棋演習が行われた。

 牟田口軍司令官は、わが事なれり、といった自信満々の態度で主宰者の席にいた。演習の結果、綾部副長も中参謀長も反論もしないで承認してしまった。

 南方軍はインパール作戦の実施を決意し、大本営に正式の意見具申書を提出した。昭和十九年一月七日、大本営は「ウ号作戦」(インパール作戦)を認可した。

 「昭和戦争文学全集6・南海の死闘」(集英社)の中の「インパール」によると、当時、東條内閣は敗戦を重ね、なんとか難局を乗り切ろうとしていた。

 さすがに国民の常識は、戦局に不安を感じ、同時に東條の独裁に不信を抱き始めていた。いまや東條首相は、国民の戦意をあおり、頽勢を挽回しなければならなかった。

 このとき、東條首相の眼に感じられたのは、満々たる自信を持つ、牟田口中将の存在だった。インドを背景にして、踊らせる役者としては申し分がない。

 牟田口の無鉄砲作戦なら、インドにとびこめるかもしれない。牟田口が成功すれば、東條内閣の人気と頽勢を一挙にたてなおすことができる。

 東條はこのような政治的必要にかられて、インパール作戦の断行を命じた。

 「太平洋戦争の指揮官たち」(新人物王来社)によると、日本陸軍は開戦直後のマレー上陸作戦以来、「イギリス軍は弱い」と見くびっていた。

 牟田口軍司令官は、作戦開始を前に、読売新聞の記者に次のように豪語した。

 「インパールはわけはない。ビルマから目と鼻の先じゃ。三週間もあれば結構。取ってみせる。君らも入城記でも準備しておいたほうがいい。うまく行きゃ、デリーの赤い城壁まで兵を進めるさ」

 この牟田口軍司令官の野心に呼応するかのように、前年の昭和十八年十一月、東京で開催された「大東亜会議」の席上、東條英機首相は、自由インド仮政府のチャンドラ・ボース首班から「インドにわれわれの拠点をつくってほしい」と要請されていた。

155.牟田口廉也陸軍中将(5)銃口を空に向けて三発撃て。そうすれば敵はすぐ退却する約束ができている

2009年03月13日 | 牟田口廉也陸軍中将
 この後、片倉高級参謀は牟田口軍司令官がインド進攻の実施を要求してくると、「牟田口の馬鹿野郎が」とののしって、反対意見を参謀に伝えさせた。参謀が牟田口軍司令官のところへ行くと、叱り飛ばされた。そして帰ってくると、今度片倉高級参謀から怒鳴りつけられた。

 「回想ビルマ作戦」(光人社)によると、ビルマ方面軍参謀長・中永太郎中将がビルマ方面軍司令官・河辺正三中将(陸士19・陸大27)に牟田口第十五軍司令官の作戦構想について、不満を述べた。

 すると河辺中将は「私は牟田口をよく知っている。牟田口の積極的な意見を充分尊重してやれ」と、中永太郎中将の意見をおさえて、牟田口軍司令官をかばった。

 河辺中将は盧溝橋事件のとき、牟田口連隊長の上司の旅団長だった。当時から気心は通じるものがあった。

 昭和18年4月には、山本五十六連合艦隊司令長官が戦死し、5月にはアッツ島守備隊が玉砕していた。この二つは国民の士気を阻喪し、戦争の前途を悲観視する予兆が流れていた。

 そこで、この際、ビルマ方面で、勝利を博し、インドの一角に楔(くさび)を打ち込んで、国民の士気をふるいたたせようとの魂胆が、大本営や軍上層部にあった。

 南方軍の稲田副長は7月12日から一週間東京にいた。インパール作戦についての打ち合わせだった。この頃には、大本営はインパール作戦に期待をかけるようになっていた。

 稲田副長は東條首相に会見した。東條首相はしきりに「インドに行くのは大丈夫か」と心配した。稲田副長は「チャンドラ・ボースをインドにいれてやれば、いいのですよ。それには、できるだけ、損害を少なくする方法でなければいけません。無茶はさせません」と答えたが、稲田副長は内心ではインパール作戦に反対していた。

 「丸・エキストラ先史と旅・将軍と提督」(潮書房)によると、8月25日、第十五軍はメイミョウの軍司令部で、作戦構想の統一をはかるインパール作戦の兵棋演習を行った。

 このとき、第十八師団長・田中新一中将は第十五軍後方主任参謀・薄井少佐に「君は後方主任参謀として、本作戦間、後方補給に責任がもてるのか」と詰問した。

 すると、薄井参謀は素直に「責任は持てません」と答えた。

 田中師団長は憤然として「この困難な作戦で、補給に責任が持てんでは戦はできぬ」と強く詰め寄ったので、薄井参謀は言葉に窮した。

 そのとき、牟田口軍司令官が立ち上がり「もともと、本作戦は、普通一般の考え方でははじめから成立しない。糧は敵にとるのだ。その覚悟で戦闘せよ」と強い口調でいましめた。

 さらに「敵と遭遇すれば、銃口を空に向けて三発撃て。そうすれば、敵はすぐ退却する約束ができている」と言ったので、列席者は唖然とした。

 「抗命」(文春文庫)によると、9月12日、シンガポールで南方軍参謀長会同が行われた。会同は寺内総司令官の官邸で開かれた。ビルマ方面軍の中参謀長は、第十五軍の久野村参謀長と情報主任・藤原岩市少佐(陸士43・陸大50)を連れてきた。

 会議の合間に中参謀長は稲田副長と懇談し、インパール作戦を早く実施してくれと言い、「やかましいことを言わんで、二人の話をよく聞いてやってくれんか」と訴えた。

 久野村参謀長は、稲田副長より広島幼年学校の二年先輩で、陸軍大学校では37期の同期だった。だから久野村参謀長を連れてきた。

 久野村参謀長はインパール作戦の計画書を出して「稲田、たのむよ。認めてくれんか」と親しい口調で言った。俺とお前の仲じゃないか、といった響きがあった。

 稲田副長は、いつ中参謀長が、牟田口計画に賛同するようになったのか、牟田口の激しい意欲に迎合したに違いないと思った。藤原参謀もしきりに迫った。

 稲田副長は「今インドをつついて、逆にインドから押されたら、下がる道がない。今は持久戦だ」と反対理由を述べ「牟田口軍司令官は、やるやると、目の色を変えているが、三師団長はやる気がない。その上三人とも軍司令官とは性格が合わない。うまくいかんよ」と言った。

154.牟田口廉也陸軍中将(4) どうしても誰か殺さねばならない作戦があれば、俺を使ってくれ

2009年03月06日 | 牟田口廉也陸軍中将
 「抗命」(文春文庫)によると、インド進攻作戦に反対するのは幕僚や隷下師団長だけではなかった。ビルマ方面軍や南方軍も、牟田口中将の独走計画として黙殺し、支持しなかった。だが牟田口中将はひるまなかった。

 昭和18年5月、新任の南方軍総参謀副長・稲田正純少将(陸士29・陸大37恩賜)が戦線視察のためビルマに来て、ビルマ方面軍司令官・河辺中将と会談した。

 河辺軍司令官は、牟田口軍司令官が強引な一本調子でインド進攻作戦の実現を要求しているので手を焼いているという印象だった。

 稲田副長はメイミョウの第十五軍司令部を訪ねて、牟田口中将に面会した。牟田口中将は待ち受けたように、インド進攻計画を訴えた。しかも雨季明けの9月に実施するというものだった。

 稲田副長は、牟田口中将は、気がはやり、あせっていると感じた。「次の機会までによく研究して欲しい」と再考を求めた。

 すると牟田口軍司令官は、満州にいた当時の話を持ち出した。「あのとき、お前に頼んだことがある」。それは盧溝橋事件の二年後のことで、関東軍の第四軍参謀長だった牟田口少将は、大本営から視察に来た稲田作戦課長にたのんだ。

 「俺は盧溝橋で第一発を撃った時の連隊長として責任を感じている。どうしても誰か殺さねばならない作戦があれば、俺を使ってくれ」と頼んだ、そのことを言っているのだ。

 「俺の気持ちはあの時と同じだ。ベンガル州にやって死なせてくれんか」。8期も後輩の稲田副長に、これほど頼むとは、本心に違いないと思われた。

 だが、稲田副長は「インドに行って死ねば、牟田口閣下はお気がすむかも知れませんが、日本がひっくりかえってはなんにもなりませんよ」と遠慮のない答えをした。

 それでも牟田口中将は、決意を変えようとはしなかった。ついに東條首相に直接手紙を送って、計画の承認を求めた。

 解任された小畑軍参謀長の後任の軍参謀長には久野村桃代(くのむら・とうだい)少将(陸士27・陸大37)が補任された。久野村少将は八方美人で、上官に苦言をあえて言う人ではなかった。

 昭和18年6月24日から四日間、ラングーンのビルマ方面軍司令部で兵棋演習が行われた。南方軍がビルマ防衛線の推進に関心を持ち、研究を要望したためだった。

 これを視察するため、大本営から第二課(作戦)の竹田宮恒徳王(たけだのみや・つねよしおう)少佐(陸士42・陸大50)と南方主任参謀・近藤進少佐(陸士46・陸大53恩賜)が派遣されてきた。

 南方軍からは稲田総参謀副長以下、各主任参謀、シンガポールの第三航空軍からは高級参謀・佐藤直大佐(陸士35・陸大47)が出席した。

 牟田口軍司令官は、この兵棋演習を絶好の機会ととらえた。ついに第十五軍のインド進攻、インパール占領作戦の兵棋演習が行われた。

 6月26日の夜、牟田口軍司令官は竹田宮に拝謁して、インパール作戦の必要性を説明して、大本営の認可を願った。その態度、語調には強烈な信念があふれていた。

 竹田宮は、はっきりと、「現在の十五軍の案ではインパール作戦は不可能だ」と答えた。「不完全な後方補給では大規模な進攻は困難である」と。牟田口軍司令官はそれでも、しつこく認可を願ってやまなかった。

 演習終了後、ビルマ方面軍参謀長・中永太郎中将(陸士26・陸大36)も南方軍・稲田副長も反対した。牟田口軍司令官が期待していた機会はむなしく消えてしまった。

 「丸・エキストラ先史と旅・将軍と提督」(潮書房)によると、ビルマ方面軍では高級参謀・片倉衷大佐(陸士31・陸大40)が牟田口計画に真っ向から反対していた。片倉大佐は相手かまわず大声でしかりつけた。口をきわめてののしるので有名だった。ラングーンの軍司令部では、独特の大きなののしり声が聞こえない日はなかった。

 6月24日からラングーンのビルマ方面軍司令部で行われた兵棋演習で、牟田口軍司令官は、第十五軍が策定した独自のインド進攻作戦計画を、方面軍司令官に直接提出しようとした。

 しかし、方面軍の片倉高級参謀はこれの受理を拒否するとともに、第十五軍が方面軍の了解もなくその独自案を大本営(竹田宮を通じて)にまで提出しようとするのは軍秩序上許されぬと面罵した。

 この件で、片倉高級参謀と第十五軍・久野村軍参謀長とのあいだで、激論が闘わされた。

153.牟田口廉也陸軍中将(3)牟田口軍司令官の逆鱗に触れ、小畑軍参謀長は解任された

2009年02月27日 | 牟田口廉也陸軍中将
 一方、ビルマでは、英軍がベンガル湾沿いのアキャブ方面からビルマに反抗する兆候が現れたので、この時点で第二十一号作戦の準備は中止となった。

 英軍のグルカ兵がビルマ北部に進攻してきた。第十八師団、第二十三師団が攻撃に向かい、交戦した。英軍部隊の一部が、勇敢にもイラワジ河を渡ってビルマ中央部まで現れた。この部隊は英軍のウインゲート准将率いる三千人の挺身隊だった。

 牟田口中将の第十八師団はウインゲート隊の攻撃に向かったが、捕らえることはできなかった。昭和18年4月になると、ウインゲート隊は反転し、国境の外に去っていった。この挺身隊の基地はインド東北部マニプール州の州都インパールだった。

 ウインゲート挺身隊の侵入で衝撃を受けた牟田口中将に、さらに悪い報告が来た。インドの国境方面に自動車道路が建設されているというのだ。連合軍はビルマ奪回のために進撃道を作っているのだ。

 連合軍の反攻に備え、ビルマ方面軍が編成された。司令官には河辺正三中将(陸士19・陸大27恩賜)が任命された。隷下には第十五軍、第二十八軍、第三十三軍が配置された。

 この改編を機に第十五軍の飯田軍司令官は転出し、昭和18年3月27日、後任の軍司令官に牟田口廉也中将が親補された。

 牟田口中将は自分が軍司令官になったからには、ビルマ防御ではなく、インド進攻を実施しなければならないと考えるようになった。

 「回想ビルマ作戦」(光人社)によると、牟田口軍司令官は、軍参謀長・小畑信良少将(陸士30恩賜・陸大36)をはじめ全幕僚を集めて、次のように訓示した。

 「いまや全般の戦局は行き詰っている。この戦局を打開できるのは、ビルマ方面だけである。ビルマで戦局打開の端緒を開かねばならぬ。そのためにはただ防勢に立つだけではいけない。この際、攻勢に出て、インパール付近を攻略するはもちろん、進んでアッサム州まで進攻するつもりで作戦を指導したい」

 この青天の霹靂のような申し渡しに、小畑軍参謀長は困惑した。小畑軍参謀長は長く陸軍大学校の兵站教官をやり、陸大に小畑兵站ありといわれたほどの兵站の権威者の一人であった。

 小畑軍参謀長は、アッサム進攻は兵站の見識から補給が続かず、後方的に危険であると判断して、反対の苦言を呈した。だが、牟田口軍司令官の意思は動かなかった。

 小畑軍参謀長は「事はあまりにも重大だ。軍司令官の目標はアッサム州にある。これは危険だ、なんとしてでも思いとどまらせなければならぬ。これは外力によって阻止するほかはない」と考えた。

 思い余った小畑軍参謀長は第十八師団長・田中新一中将(陸士25・陸大35)を訪ね、同中将から意見具申をしてもらいたいと依頼した。

 だが、田中師団長は、4月20日に開かれた兵団長会同で、小畑軍参謀長から依頼された内容を伝えるとともに、いやしくも軍参謀長が直接、軍司令官に進言せず、部下の師団長をかいして意見を具申しようとしたのは統率上憂慮すべき問題だと付言した。

 このことが牟田口軍司令官の逆鱗に触れ、小畑軍参謀長は就任後わずか一ヶ月で解任された。5月3日にハルピンの特務機関長に転出させられた。

 小畑軍参謀長の解任を見て、軍司令官の意に反して苦言を呈することは、首が飛ぶことだと知って、幕僚たちは、それから誰一人として諌言を呈する者はいなくなった。

 「丸・エキストラ先史と旅・将軍と提督」(潮書房)によると、昭和18年4月20日、牟田口軍司令官はメイミョウの軍司令部で隷下兵団長会同を行った。この会同で、牟田口軍司令官はインド進攻作戦を披露した。列席した各師団長は、いずれも唖然として驚いた。

 会同終了後、師団長相互の雑談で、第三十一師団長・佐藤幸徳中将は「あんな構想でアッサム州までいけるとは笑止の沙汰」ともらした。

 さらに、第三十三師団長・柳田元三中将(陸士26・陸大34恩賜)も「まったく可能性の無い作戦だ。軍司令官の意図には不同意だ」と反対した。

152.牟田口廉也陸軍中将(2)「日華事変はオレがはじめた」と、見得を切ったが、学生の失笑をかった

2009年02月20日 | 牟田口廉也陸軍中将
 「人物陸大物語」(光人社)によると、昭和12年7月7日に起きた盧溝橋事件は、支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊第八中隊に対し、中国側から発砲したというものだった。報告を受けた第一連隊長・牟田口廉也大佐は、躊躇することなく直ちに攻撃開始の命令を出したという。これが日華事変の発端となった。

 その後、牟田口廉也は少将になって、陸軍大学校で講演を行った。その時、「日華事変はオレがはじめた」と、見得を切ったが、学生の失笑をかったという。

 昭和19年3月に開始されたインド攻略のインパール作戦では、指揮官の第十五軍司令官・牟田口廉也中将に対して、隷下の第三十一師団長・佐藤幸徳中将(陸士25・陸大33)が抗命問題を起こした。実は牟田口中将と佐藤中将の対決は、それ以前に根深いものがあった。

 戦後発見された佐藤幸徳中将の回想録によると、昭和8、9年ころから、陸軍は皇道派の暗躍が猛烈を極めており、皇道派は勢いを得て人事まで動かすようになっていた。

 当時、佐藤幸徳は中佐で、永田鉄山少将(陸士16首席・陸大23次席)や東条英機少将(陸士17・陸大27)のグループ、いわゆる統制派であった。

 昭和9年、佐藤中佐は広島の歩兵第十一連隊付から陸軍省人事課の課員となることになった。ところが転任の内達があり、申し送り事項まで受けていたのに、最後の確定の直前に熊本の第六師団作戦参謀に変更された。

 皇道派から勢力拡張の妨げになると、地方に飛ばされたのである。同じころ東條英機少将も久留米の第二十四旅団長に左遷された。

 佐藤中佐が第六師団に着任して間もなく、師団の次級参謀が更迭され、岩屋中佐が着任した。ところが、佐藤参謀が汽車に乗ると、「佐藤参謀が上京せり」と陸軍省に電話する者がいた。

 そのころ佐藤中佐は、東条少将と呼応して皇道派の策謀と対抗しようとしていた。すると「東條と佐藤会談せり」という電報が陸軍省に送られた。それが岩屋中佐だった。

 その後、佐藤中佐が調べていくと、その岩屋中佐と連絡をとっていたのが、参謀本部庶務課長の牟田口廉也大佐であることが分かった。牟田口大佐は皇道派だった。牟田口軍司令官と佐藤師団長の対立は、この当時からあった。

 「全滅」(文春文庫)によると、インパール作戦は、第十五軍(牟田口廉也軍司令官)隷下の第三十一師団、第十五師団、第三十三師団の三個師団が、ビルマからインドへ、国境山脈を越えて急進し、三週間で英軍の基地、インパールまで進攻するというものだった。

 ところが、速い進撃と山脈を越える作戦で、補給困難の問題があった。それで、反対する幕僚や指揮官が多かった。だが、牟田口軍司令官は確信に満ちており、反対者を退け、上層部の作戦承認を得た。大本営は全般的に敗勢の中で、インパール作戦に期待したのだ。

 だが、結果的には、4月下旬までに、三個師団は損害を多く出し、攻撃は挫折した。食糧は三週間分しか持っていかなかったので、食糧が不足してきた。武器、弾薬も足りなくなった。その後は悪戦苦闘の連続となった。

 「抗命」(文春文庫)によると、インパール作戦は、もともと牟田口廉也中将による起案ではなかった。ビルマ平定の余勢をもって一挙にインドに進入し、インドの支配権を握ろうと昭和17年8月6日、インド進攻計画を決定したのは、南方軍総司令官・寺内寿一元帥(陸士11・陸大21)とその幕僚だった。

 この計画は二十一号作戦と呼ばれた。大本営が同意したので、南方総軍は同年9月1日、第十五軍に対し、二十一号作戦の準備を命じた。

 当時の第十五軍司令官であった飯田祥二郎中将(陸士20・陸大27)は驚いた。第十五軍の兵力でやりこなせる作戦ではなかった。

 9月3日、飯田軍司令官は、ビルマ東部のシャン州タウンジーまで出向き、当時隷下の第十八師団長であった牟田口廉也中将を訪ねて意見を求めた。

 すると、牟田口師団長は、「作戦の実施は困難である」と、インド進攻作戦に反対した。第三十三師団長・桜井省三中将(陸士23・陸大31恩賜)も反対した。

 飯田軍司令官は南方軍に第二十一号作戦の再考を促す意見具申をした。南方軍は大本営に報告した。東条英機首相もインド進攻には自信がなかった。そのうちガダルカナル島の戦況が悪化した。

151.牟田口廉也陸軍中将(1) 決して督戦などというケチな考えで一線に出るのではない

2009年02月13日 | 牟田口廉也陸軍中将
 「シンガポールは陥落せり」(青木書店)によると、昭和17年4月8日の朝日新聞に「マレー作戦報告」が掲載された。当時、マレー作戦を行った第二十五軍作戦参謀、辻政信中佐(陸士36首席・陸大43恩賜)が記したものだ。

 辻政信中佐は「マレー作戦報告」の中で、マレー作戦に参加した第十八師団長・牟田口廉也中将(陸士22・陸大29)について、次の様に記している(要約)。

 マレー作戦も終盤になり、最後のシンガポール攻撃のとき、私(辻参謀)は、牟田口兵団(師団)の司令部を訪ねた。

 すると、牟田口兵団長は今から第一線に出るというところで、参謀等が「兵団長が一線に出ては危険であるし、万一のことがあってはかえって兵団の行動に支障を来たすからと、おとめしているが、きかれないから、君とめてくれ」ということなので、私は牟田口兵団長のところへ行き次のように言った。

 「閣下が今第一線に進出されるのは適当な時期ではない。閣下の部隊は今全力を尽くして奮戦中であり、突撃を待機しているが、今は敵の集中射撃が熾烈なので薄暮を利用して突撃ということになっております」

 さらに「第一線将兵の士気は極めて旺盛ですからどうかご安心ください。それに今、兵団長が第一線に進出されると、部下の連隊長は、突撃時期が延びているので、激励督戦に来られたのかと思って、余計な無理をして強行攻撃をやり、不必要な損害を出すかもしれません。今は不適当です、明朝にしてください」と申し上げた。

 すると牟田口兵団長は、司令部の天幕の中に黙然と立って聞いておられたが、ポロリと涙を落とされて、「辻君俺はそんな気持ちで第一線に出るのではない。決して督戦などというケチな考えで一線に出るのではないし、また俺の部下は俺の一線進出を知って督戦に来たなどという、水臭い気持ちや考えを持つものは誰一人おらぬ」

 さらに「恐らく今夜部下の連隊は軍旗を先頭に決死の突撃をやるだろう。そうすれば連隊長、大隊長はじめ部隊将兵の多くが戦死するに違いない。俺は部下将兵が戦死する前に、一目会って手を握って、そして立派に戦死させてやりたい。俺の気持ちは皆部下がよく知っていてくれる。喜んで迎えてくれるだろう。俺も安心していける」と言われ、またポロリと戦塵に汚れた顔に涙を流された。私も思わず貰い泣きした。

 この上下渾然たる兵団一体の統制と気持ち、この兵団長の部下を思う気持ち、それを知り、兵団長を欣然迎え、莞爾と死地に突入する部隊将兵の意気、私は実に尊い日本独特の統帥だと感じた。これこそ本当の武人の情けであろう。

 私は涙が流れてしようがなかったが、悠然と嬉しさが胸に満ち満ちた。もはや言うことはない。「兵団長閣下、第一線に出てやってください!」。兵団長も嬉しそうに頷かれた。

 以上のように、辻参謀は牟田口師団長について感動的に記している。当時、朝日新聞を読んだ読者からも、この箇所には、賞賛の声が多かった。

 それから二年後の昭和19年3月、インパール作戦が行われた。作戦を指揮したのは第十五軍司令官・牟田口廉也中将で、三個師団を率いてインドに進攻した。

 このインパール作戦では、牟田口軍司令官は、部下の幕僚を怒鳴り、督戦どころか、後方から将兵を突撃に激しく追い立て、さらには自分の意に反する隷下の三人の師団長を解任までした。

 それは、マレー作戦で辻参謀が感動して朝日新聞に記した「上下渾然たる兵団一体の統制と気持ち」とは、かけ離れた「統率」であった。

 <牟田口廉也中将プロフィル>

明治21年10月7日、佐賀県出身。
明治43年5月陸軍士官学校卒(22期)。12月歩兵少尉、歩兵第十三連隊附。
大正2年12月歩兵中尉。
大正6年11月陸軍大学校卒(29期・57名中25位)。
大正9年4月歩兵大尉、参謀本部員。
大正15年3月歩兵少佐。8月近衛歩兵第四連隊大隊長。
昭和2年5月軍務局軍事課員。
昭和4年2月フランス出張。8月参謀本部員。
昭和5年8月歩兵中佐。
昭和8年12月参謀本部総務部庶務課長。
昭和9年3月歩兵大佐。
昭和11年5月支那駐屯歩兵第一連隊長。
昭和13年3月陸軍少将、関東軍司令部附。7月第四軍参謀長。
昭和14年12月予科士官学校長。
昭和15年8月陸軍中将。
昭和16年4月第十八師団長。
昭和18年3月第十五軍司令官。
昭和19年8月参謀本部附、12月予備役。
昭和20年1月召集・予科士官学校長。9月召集解除。12月戦犯容疑で逮捕。
昭和21年9月シンガポール移送。
昭和23年3月釈放・帰国。戦後は東京都調布市で余生を送る。
昭和38年4月および昭和40年2月、国立国会図書館政治史料調査事務局の要請で、盧溝橋事件とインパール作戦の談話を録音。
昭和41年8月2日死去。七十七歳。